0492こじ ◆jDjYTwtZiI
2018/02/15(木) 21:08:45.74ID:G9LhX/pr真理を「知覚」することが悟りぢゃ。それは言葉や理屈ではなく体感で知れる
真理とはこの世の現象はすべて実体性においては無であり
物理的、力学的にはすべて有。つまり現象への囚われの無意味さを知れるものぢゃ
それを知覚し、体得した者らを目覚めた者、覚者といい、その者らの教えが智慧
釈迦牟尼仏も覚者であり、釈迦牟尼仏が説いた智慧の教えは、道徳や倫理に対し
固執することを促したものではなく、そういったものへの囚われも苦の捏造だと
無の観点から見た智慧の教えを施していたはずぢゃ。こうして人心は解放される
和智が倫理や道徳を否定的に語るのは、覚者の教えを100%理解できに者らが
「智慧の教えとは、これこれこういうももだ」と思い込み
それを自分なりにアレンジし勝手に「倫理道徳的な教え」に変えてしまうからぢゃ
そうなると、いくらその教えを聞いたとしても、人心は一向に解放されまい?
美徳であるはずの倫理や道徳が、人心を縛り括る足枷にしかならぬからぢゃ
例えば「人権」についてぢゃ。誰だって人権を守られれば心地よいし
蔑ろに扱われれば不快であろう?しかし、それをどうこうするのも人の自由ぢゃ
そして先ず第一に「人権」は、それを個人的に尊重するからこそ美徳であって
主張するだけでは単なる他者への抑圧思想に過ぎぬのぢゃ。人種差別とかもの
(-人-)