理性の本質は「分別」。つまり、「分ける」こと。

「良い、悪い」とか「Aであるか 非Aであるか」などのもろもろの判断は理性によって生じる。
自然科学における外界に対する精緻な分析もすべて理性による分別作用が基礎にある。高度な
理性は脳が発達した高等動物にのみ存在すると考えられるが、
最も根本的な分別は 「自己、他者(外界)」「自分、他人」の分別である。したがって、全て
の生物は(動物も植物も)は理性の根本的要素を持っているのだ。

「理性」というものは個人や種族を保持するための基礎となるものであるが、「個人性を超える」
世界を知る為には障害となる。「理性」は<悟り>を得た者が他者に伝える時には非常に役に立つ
が、<悟り>を得る為には害あって益なしのゴミなようなものなのだ。
龍樹は「理性」を使って「理性を超える」道を教えたのであるが、それによって「悟り」に至る為
には釈尊の言葉に触れておくことが不可欠となる。龍樹の釈尊への崇拝の気持ちは死ぬ最期の日まで
非常に強かったが、それは釈尊の言葉に触れることがなければ「悟り」に至れなかったことを自覚
していたからだ。(仏教において薫習や聞法が重視されて来た理由もそこにある。)
西洋のカントも理性の限界を理解していたが、釈尊の教えに触れたことがなかった為に「悟りの門」
の一歩手前でとどまり、最後まで「悟り」の世界を知ることなくこの世を去ることになった。