キューティーリラックス パート14
玉の海は右四つでも左四つでもガップリ四つになると本当に強かった。
しかし、彼の唯一の弱点は脇の甘さだった。
ライバル北の富士には差し負けして殆んど得意の右四つになれなかった。
大鵬にも何度も両差しを許している。
45年秋〜46年初に3場所連続千秋楽に全勝を逸したのも、北の富士や大鵬にこの弱点の脇の甘さをつかれてのものだった。
北の富士は右四つだと十両にも勝てんだろうから
絶対に譲れない
玉の海は確かに脇が甘かったね
しかし、貴ノ花が勝てなかった横綱は玉の海だけ
昭和46年秋場所は玉の海相手にもろ差しになりながら抱え上げられ、櫓投げ気味の吊り落としで負けている
玉の海が亡くなる直前の場所だった・・・ 普通の投手〜「1(投球開始),2(踏ん張る)の・・3!(捕手のミットに入る)」
大谷〜「1、2の.3!!」
江川卓の1981年「1、23(同時)」
江川は別次元。江川のもっとも得意な球は左打者への外角への速球。高低は気にしてないと思われる(打てるわけないから)。
1981 日本シリーズ動画で木田勇に対して、その江川しか投げられない速球を投げてた。江川はおそらく前年20勝した木田にライバル意識があったように思われる(俺のほうが上だよという)。
江川に三振取られた打者はみな恥ずかしいそうに悔しそうにしてる。(ミット到着後スイング開始)
「レヴェルが違う!今の打者なら江川など簡単に攻略できる!」と言うだろうが、今その「レヴェルが高い今の打者」の中で「最高峰」とされる打者が「T山田」と「中田翔」と「角中」
打てるわけねえよな?
15年前の「井口 松中 小久保の福岡ダイエー」とか20年前の「野村 緒方 前田 江藤 金本の広島」なら江川の全盛期相手でも良い勝負が出来たであろうが・・。
江川 詳細に言えば「1981年の幻想」だけ人々の記憶に残ってると言ってもいいであろう。それほど「美しい」ボールだった(大谷の球に『美しさ』はない。左では阿波野の1987年に感じた)
松田聖子にしても「すごい!」とか言われて36年経つが「ホントにスゴカッタ・・」のは「1980〜1983」の4年間だけ。
こういう短期間の強烈な衝撃で伝説になる人のほうが良いな。ダルビッシュとか何の趣もない。常に一定で元気。バカみたいにも見える。いつも元気では。 大相撲の元横綱で、北の湖とともに輪湖時代を築いた輪島大士氏=本名輪島博=が死去したことが9日、関係者への取材で分かった。70歳。石川県出身。
最高位
第54代横綱
生涯戦歴
673勝234敗85休(68場所)
幕内戦歴
620勝213敗85休(62場所)
優勝
幕内最高優勝14回
十両優勝1回
幕下優勝2回
賞
殊勲賞3回
敢闘賞2回 S51年秋は魁傑の優勝で千秋楽結びの輪湖戦は消化相撲となった
この時、巻き替えの応酬から右四つになり輪島が左上手を引いて相手に上手を与えず寄り切った
こういう相撲が晩年の北の湖戦には必要だった
晩年の輪島は右四つの方が強かった。たまに偶然に右四つになったら、北の湖は嫌がっていたな。
輪島ファンから見たら、例の左四つの型になったら、あーまたかと諦めの心境だったな。 最近新人入らなくない?
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ご応募お待ちしてますね!! 年頭のボブ ループ戦を除けば、一連の格闘技戦や日本人対決,ブリスコ戦、ローデス戦など ほぼ完勝で来たからねぇ、79年。
そう?
この当時の試合映像はDVDや配信で初めて観た後追い世代だけど
79年は欧州遠征とボック戦で痛めた腰の影響と糖尿病の顕在化で一気に筋肉の張りが無くなってコンディションの悪さが目に付いた年の印象がある
ブリスコ戦ハンセン戦シンとのオイルデスマッチなんかでの相手のキックやボディスラムを受けた際のセルを通り越して素で痛そうにしていた表情なんかを見るとね
逆にこの間もテレ朝チャンネルで放送していたループ戦は明らかに猪木の横綱相撲でしょ?
てか相手の技を受けたがらず自分ばかり攻めたがるクセにマジでショルダーバスター以外の大技は綺麗に決める事が出来ない15分過ぎると勝手にスタミナ切れするループはド塩過ぎ
うーん、ループ戦は 猪木がラフ攻撃で流れを変えようとして上手くいかず,ようやく決めたコブラもマレンコの乱入で不発。
猪木の横綱相撲だった とは言いにくいんじゃない?
レスリングでループに手も足もでない猪木
ループ戦はアマレスキャリアのない猪木がよくぞあそこまで張り合えたと思う。
最後にループが仕掛けた受け身が取れないアマレス式後ろそり投げ(ジャーマン?バックドロップ?)なんかも猪木は足を引っかけて見事に崩している。 プロ時代の馬場と猪木と言っても’67年〜71年の4年間で
その関係は違うけれどね。
確かに、最初の頃は、藤波と健吾くらいの差はあった。
しかし、71年の暮は、>>159が書いたように、馬場と並んだか、
追い越したくらいだな。
猪木はUNを賭けて、NWA王者ドリーと ダブルタイトルマッチ。
かたや馬場は格下のテリーとインターの 防衛戦。
さらに翌72年の新春シリーズには、WWWF王者のPモラレスも
参加が予定され、猪木と対戦する予定だった。
で、>>156へのレスになるが、クーデターを起こさなければ、
72年以降、徐々に馬場から猪木へエースの座は移ったと思うよ
(それに坂口が加わる)
ひとつには年齢的な問題もあるし(馬場の方が5歳上)
72年頃から、外国の有名選手は、世界王者のドリーやモラレス、
後にNWA王者になるブリスコ、レイス、テリー、マスカラスと皆、
標準体型のテクニシャンだ。こういう選手は猪木とは手が合うが、
馬場とは合わない。馬場と合う怪物、ラフファイター、
(ブル・クラ、エリック、ブラジル)は、ピークを過ぎている。
新しいラフファイターせいぜいブッチャーくらい。
となると、自然、猪木中心のマッチメークになり、
彼がエースとなっただろう。
日プロは73,4年に、B・ロビンソンも引きぬいたかも知れない。
馬場は、その頃、王座から降ろされ、76年、38歳の時、
本人が希望した通り、引退してハワイにでも移住したかも。
で、日プロは、猪木と坂口の時代。
でも、社長が芳の里では、どっちみち反旗を翻しただろうがね。 80年代前半は猪木が糖尿で一気に衰えたから。
病気は仕方ない。
あと勢いやら輝きやら。
遡れば遡る程それが如実になるみたい。
猪木の場合は。
アリ戦以降の猪木は勢いや輝きが徐々に失せていったって意見が大半。
こちらもその頃は見てないから何とも言えないが。
でも色んな記者やら元レスラーも何人もそういう証言をしてる。
だからそれは的を得た事だろう。
83年に猪木がホーガンにKOされて猪木は終わったという意見が大半。
あれが自作自演だったとしても。
また自作自演ってのはだいぶ後になってから一般に知れ渡った事。
当時は誰もが猪木のアクシデントでKOと思った。
80年代後半は落日の猪木だろうなあ。 輪島が魁傑や貴ノ花の優勝パレードで旗手やったら
「横綱が格下の旗持ちとは」と協会の幹部に睨まれた。
でも輪島は「俺が西森や満の旗手を勤めるのは当たり前」と意に介さなかった。
今じゃ横綱が旗手するのも珍しくなくなったけどね。
そういうとこ憎めないよね
モハメドアリが「俺はベトナム人に恨みはない」と言ったことに通じるものがある 輪島伝説】
・日大に進学 高校2年時に横綱・大鵬がスカウトのために実家を訪れた。引退後に部屋を起こすときに備えての
誘いだったが、熟慮の末に横綱の誘いを断って日大進学を決めた。日大相撲部では入学直後の4月に行われた
東日本新人選手権大会で優勝し、レギュラーの座を確保。当時、日大相撲部ではすき焼きの日はレギュラーだけ
に卵が支給されていたといい、相撲部新記録というどんぶり14杯を平らげた。
・日本一連覇 大学3年で全国学生選手権を制して学生横綱になった。4年時にも優勝を飾り、史上3人目のとなる
連覇を果たした。学生として偉大な記録を打ち立てた一方、「アマ横綱」のタイトルは一度も手にすることができな
かった。学生時代のタイトルは14個で幕内の優勝回数と同じだった。
・応援合戦も 70年秋場所の6日目、高校時代からしのぎを削ってきた東農大出身の長浜(後の元小結・豊山)と
5戦全勝同士で対戦した一番にはファンが選出する懸賞までかかった。日大と東農大の応援部による応援合戦も
繰り広げられるほど盛り上がり、輪島が制した。長浜との対戦では翌71年九州場所でも時津風部屋の有力後援者
の会社が懸賞を出した。現在の懸賞は幕内の取組のみと内規で決められているが、当時でも十両の土俵で懸賞旗が
回ることは珍しい出来事だった。
・貴ノ花戦でケガ 73年九州場所で連勝を続けていた12日目、貴ノ花戦で差し手争いの時に右手人さし指と中指の
間が裂けるケガを負った。つり出しで勝利し、左手で懸賞金を受け取ると病院に直行して6針を縫った。13日目は
強行出場すると取組前に4度目の優勝が決定。その晩に39度の高熱が出たこともあり、師匠と相談して休場した。
千秋楽の星取表には休場を意味する「や」が付いた。休場して優勝した力士は史上初めてだった。 千代の富士が実績を積み始めていたが、伝説的な双葉山は別格として、大鵬に次ぐインパクトある横綱は
北の湖・輪島が抜きんでていた。若貴も朝青白鵬も現れていなかった。
エリート街道を驀進してきた超エリート横綱がプロレスで馬場の配下、無様な時代を過ごすことは本人のみならずファンたちも
当初は痛々しく見守ったり、意識に入れないようにすらしていた気がする。
しかしこの人には同時に天衣無縫、無頓着、人前に出続けることをむしろ好む性分があったように思われる。
ふつうは角界で理事長を目指してコツコツ弟子を育て、協会内政治に勝負師のしたたかなプライドを置換することで名誉と意欲を覚えるはずだが
終生、裸一貫、なるようになるさで恥じ入らず、明るく返すべきものは返し、プロレスのみならず
お笑い番組や他のスポーツの名誉職などなどでつねに人々の前にいた。世間は彼の存在を感じ続けた。
大島渚がかつて「敗者は映像を持たない」と言ったが、同時代に沿いながらテレビに映り続けた輪島こそ、
勝者であったのかもしれない。本人も自己の本性を自然的に了解し、つどつどの状況をたのしみ、
多くの固有の名士たちに囲まれ愛されてきた。
綱の名誉などより、つどつどの可能性の限りにたのしみながら割り切って奔放に生き切ったことは本望であったろうし、
彼が協会にとどまっていても、北の湖や三重ノ海のようなボスにはなれない、つねに光の当たる場が似合った。
実績も人間性も何も到底比較にならないが、たとえば北尾のその後と較べると、輪島は派手に明るく生きたと思う。
最後まで愛される特有のキャラクターをもった快男児だったのではないだろうか。 ゴールデンルーキー原の大活躍
・江川20勝・投手タイトル総なめ
・巨人8年ぶり日本一
・日ハム球団初優勝
・江本のベンチがアホ発言
世間的にはプロ野球が一番注目された年では?
もちろん巨人人気がメインだけど。
現在は各地方で観客動員はいいけど、
ローカル向け娯楽になった感がある。 「ルビーの指輪」
「風立ちぬ」
「スニーカーぶる〜す」
「みちのくひとり旅」
「長い夜」
「守ってあげたい」
「ハイスクールララバイ」
「もしもピアノが弾けたなら」
「鳥の詩」
「キッスは目にして」
1981年のか
「おんな太閤記」
「池中玄太80キロ」
「2年B組仙八先生」
「意地悪ばあさん」
「北の国から」
「六神合体ゴッドマーズ」
「うる星やつら」
「太陽戦隊サンバルカン」
「欽ドン!良い子悪い子普通の子」
「青春グラフィティスニーカーぶる〜す」
「スローなブギにしてくれ」
「機動戦士ガンダム」
「エレファントマン」
「魔界転生」
「あしたのジョー2」
「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」
「野菊の墓」
「連合艦隊」
「駅 STATION」 坂井三郎の発言
紫電改が最高だなんて、とんでもない。戦後の知らない人は、紫電、紫電改って
なんか名前がいいでしょ、すごい戦闘機だと思っている。 源田実の部隊でそれを
使ったもんだから、源田の宣伝で連戦連勝したようなこといっているけれど、
沖縄戦のころは、私自身、源田の部隊にいましたからね。陸軍の戦闘機はどんどん
沖縄に行っているのに、行動力ないから途中までしか行けないんですよ。
使い物にならない。四式戦に比べたら問題にならない駄作です。
源田部隊が始まった時に、私は、その時の副長からぜひ来てくれということで、
呼ばれていったんです。現場は、もう惨憺たる状況。紫電改の操縦法と紫電の
空戦法を指導してくれと。差しつかえるから、ほんとのことはあまりいえませ
んけれどね。惨憺たるものでした。源田が指揮すると、ばったばったとやられ
ていく。冗談じゃない、あんなに戦死者・犠牲者の出た部隊はないんですよ。
聞いていたのとまったく違う場合が、軍に関する限り、あまりにも多すぎる。 長嶋第1期=無能だった。
藤田第1期=有能だった。
王=無能だった。
藤田第2期=有能だった。
長嶋第2期=第1期に輪をかけて無能だった。
王FDH&日本代表=有能になった。
長嶋第1期=6年 優勝2回 日本一無し
藤田第1期=3年 優勝2回 日本一1回
王=5年 優勝1回 日本一無し
藤田第2期=4年 優勝2回 日本一1回
長嶋第2期=9年 優勝3回 日本一2回 損した人
新間寿 : 金策で社内の信用を失い詰め腹を切らされた
大塚直樹以下背広組全員、あと櫻井康夫ら関わりの深いプロレスマスコミ : 蓼科ソサエティクラブとかの会員権を買わされた。断っても新間が勝手に印鑑登録してローンを組んだ
藤波、坂口 : 家を抵当に入れたり嫁の実家から金を借りて出資させられた
佐山聡 : タイガー人気で稼いだ金がハイセルに流れる事に不満を持ち離脱
ブラジルの牛 : 腐ったサトウキビカスを無理やり食わされた。最後は軍に連れていかれた
○微妙なところ
前田日明 : UWFを経て新格闘王としてブレイクしたが、素材としてはUWFがなくても活躍した可能性が高い
剛龍馬、ラッシャー木村 : UWFを受け皿として首を切られた形だが、それがなくても新日本で浮上する目はほぼなかった
○得をした?人
藤原喜明 : 華のないテロリストから関節技の鬼へ華麗なる転身
ホーガン : 猪木のブラジル参りでベビーターン、陽性のキャラクターを確立。舌出し失神事件も一般紙に載りたい猪木の意思との説を取れば、IWGP制覇もハイセルのおかげ
グラン浜田 : 新日本への帰属意識は薄く、UWF離脱後も新間と行動を共にする。振り回されてる割に結構楽しそう
ブラジルの人 : 地獄のハイパーインフレの中で、猪木が持ってくる日本円はまさに恵みの雨だったろう。ハイセル工業から有害物質も出たみたいだけどそんなの気にしない 3場所連続千秋楽1差対決
1、本割で勝ててもスタミナ的に決定戦で勝つのは無理と感じさせる
2、本割で勝ち、無理と思われた決定戦でも水入りの末勝って感動させる
3、本割であっさり負け、前2回が容易い成り行きではなかったと感じさせる
横綱玉の海正洋・・これほど美しく悲しい力士はいない
優勝争いして勝ったり負けたりを繰り返した最大の強敵は玉だったということか。
わしもそう思う。
玉の海はあの小さい身体で相撲ヂカラの怪力だった。
離れてもキップのいい相撲を取るいい力士だったなあ
大鵬は取りにくそうだった。部屋総当たり制になった初顔合わせでも掻き回された挙げ句最後ウチガケでひっくり返された
大鵬が晩年の頃の最大のライバルは玉の海だった。
実は玉の海とは43年九州、44年初も一差で14日目に対決。
この時は大鵬が圧倒的強さで圧勝。
その2年後は大鵬はもろ差しか上手を与えない体制しか玉の海に勝てなくなっていた。
それだけに46年初は本割りでもろ差し、決定戦で上手を与えないと大鵬の狙い通りの体制となり、見事に逆転優勝できた。
昭和46年初場所決定戦では、大鵬は全精力を振り絞って玉の海を寄り切っている。
あれで精も根も尽き果てた感じだ。
まさに執念の最後の優勝となった。
逆に言うと当時の玉の海は滅法強く、倒すのは容易ではなかった
確かに45年秋〜46年名古屋までの玉の海は何かが乗り移ったように強かった
この一年間は84勝6敗だな ここでフリーで入った時に当たりだなって思う子って誰?
このまえ行った時の子良かったけど、名前わからない ばばあ働いてるよね
マッサージも下手で無駄金でした 初期の新日は創設期の金無しルート無しの頃から
坂口加入テレ朝放送開始で経営的に一息ついた時期になると
米マットでも比較的メジャーなテリトリーとの招聘ルート開拓に努め
その中ではロスのM・ラーベルが一番ルート太かったから
ロス・マット(メキシコ国境部)で人気のラテン系選手ということで
リベラやチャボ・ゲレロ、エル・ゴリアス&ブラック・ゴールドマンあたりがよく呼ばれた
これはひとつにはM・ラーベルがNWA加盟プロモーターの中でも
所謂反主流派だったので可能だった
リベラについては当時のロス地区のスターで
体格的にも(坂口以外は)比較的小柄な選手揃いの新日に釣り合う上、
ドロップキック等を得意としたきびきびした動きができるのが評価されたと思われる 前田凱旋時は猪木の後継者は藤波、
馬場の後継者は鶴田でファンもメディアも一致していた
当時前田凱旋に注目していたのは所謂濃いファンだけだったし
そもそもあの時点で前田はTVマッチに殆ど出たことなかった
大部分の会場やTVの前のファンにとっては下手したら名前も顔も知らない若手
あくまでファンの間では「藤波の後は前田で安泰」であって
決して猪木の後継を一足飛びに前田って思ってた人間なんか殆どいなかった
で、当時の問題は猪木馬場がいつ藤波や鶴田に完全にエースの座を禅譲するのか?
猪木馬場の衰えが言われだしてからけっこう経つのに
猪木はもちろん馬場でさえ未だに完全にはエースの座は鶴田には譲ってない
さあ、どうするの?ってかんじ
この時代のエースの座禅譲渡は要するに鶴田が馬場に、藤波が猪木に
シングルマッチでピンフォールを取るってことだからね
後年、猪木や新間が
「自分の後継に藤波を考えたことは無かった」
「自分の後継は早い時期から前田と思っていた」
的なことを話すからって当時の前田が猪木の後継なんて
当時観てなかった人間が後付けで得た知識からでしょ 2度目の六連覇を成し遂げた昭和42年初場所が大鵬自身にとっては絶頂期だったのでは。
何せ佐田の山が14勝1敗、柏戸が12勝3敗と三横綱の強さが群を抜く中で、大鵬が更にその上を行く堂々の二場所連続全勝優勝。
正に上には上がいてる。
最近はこういう横綱同士のハイレベルな優勝争いって本当に見てないですね。
2回目6連覇のときは、大鵬の現役を通じてまさに最高の充実期だったと思う。
相撲内容もキャリアの中で最も馬力にあふれ攻撃的で力強かった。
45連勝のときは既に膝の靭帯損傷やひじの軟骨異状の痛みを抱え、相撲内容も
引き落としや叩きが多く、体のガタと馬力の衰えを巧さでカバーしているような内容だったね。
タラればを言えば、もし2回目6連覇の時に連勝にこだわって、45連勝の時のように
1番1番慎重に大事に取っていたら一体何連勝したんだろう…
今となっては永遠のロマンと言われている戸田戦の誤審が無ければ…というタラればより
私はむしろそちらのタラればに夢を広げてしまう
大鵬対柏戸って横綱になってからは、大鵬の18勝9敗なんだよなぁ。
やはり横綱昇進前の36年秋場所の決定戦でうっちゃりで勝った。
これで本人が言ってるように「柏戸に押されない」という自信がついたんだろうな。 この二回目の6連覇が始まった昭和41年春場所から左肘にサポーターをはめている。
「これまでような受け身の相撲じゃ自分の弱点の左肘を狙われる。だから積極的な前に出る相撲を心掛けた」と言ってる。
それが圧倒的な強さになって現れた。
第1回6連覇、39年初、春連続全勝の頃は腕をクロスさせ、もろ差しを狙う小さい相撲だった。
それが第2回6連覇の頃は突っ張りあり、四つ相撲ありと相撲が幅広くなり、つけ入る隙がなかった。
45連勝の時は晩年で叩きが多く、相撲内容はもう一つだった。
やはり第2回6連覇の頃が全盛期だろう。
なんせ大鵬の昭和40年の成績が良くないからな
しまりがなく本人も地力で圧倒しているのに
星があがらない
いろいろ考えただろうな
最強時は42年初か39年春か?
靭帯やったのは仕方ないとして、肘の軟骨はいわゆる酷使による変形で、琴光喜が手術で治したのと
同じだから、あれが大鵬の現在後半をずっと苦しめ続け引退の理由の一つになっていたとしたら
当時に現代の医学技術があれば、大鵬はまだやれたのでは…
当時、医者からは、肘にメスを入れたら最後、もう相撲は取れなくなると言われたと先週BS放送であった
だんだん痛みがひどくなっていったんだろうね。
引退間際なんかは腕の血が通わないほどキツキツのサポーターをしてた
左ヒジのサポーターといえば大鵬、北の富士
右腕のサポーターといえば清国
当時トレードマークになっていたw
もし漫画の主人公にするなら大鵬より柏戸の方が面白くなりそうだな
大鵬はクールで天才的な宿命のライバルとして登場する方が似合う
大鵬自身は自分は天才ではなく努力の人だと語っているがまあそこは漫画ということで 当時の星取表見てみますと、自分が見る限りでは一回目の時に比べて二回目の方が周囲との力の差が開いてる様に思えました。
一回目の時は栃光に北葉山、豊山等が何とか優勝争いに加わってましたが、二回目は辛うじて昭和41年秋場所は柏戸と優勝決定戦にもつれ込んで佐田の山も12番勝ってますけど
他の場所はほぼ大鵬の独走状態。
周囲と力の差が開いたのが大鵬の強さを尚更印象付けた一方で周囲から「強過ぎてつまらない」と思われて国技館が閑古鳥鳴く状況に繋がったのかなと。
そんな中でも六連覇を達成した昭和42年初場所は三横綱が非常に充実してハイレベルな優勝争いの中で更にその上を行く相撲内容で達成しただけに非常に価値が高い優勝ですね。
大鵬の32回の優勝の中で最高の場所じゃないですか。 紫電改と雷電はほぼ同速
むしろ雷電が翼面積の割に速力出ていない
渡辺本 雷電より
横空から軍需賞に出された雷電と紫電の比較意見書
最大速度:高度6000mにおいて雷電21型の330ノット(611km/h)に対し、1号局戦改は335ノット(620km/h)
上昇力:雷電21型の高度6,000mまで5分50秒に対し、1号局戦改は6分
対戦闘機戦:雷電21型は零戦に勝ち目なし。1号局戦改に対しても同様と思われる。ロッキードP-38、ベルP-39に対する格闘戦はやや有利だが、グラマンF6Fには相当の苦戦になるだろう。1号局戦改は速力と上昇力を利用すれば、零戦と五分五分か、それに近い程度に戦える。
対重爆戦:雷電21型は火力、速力、上昇力、防弾のいずれも零戦に勝るが、航続力、視界、整備性(零戦の6割)の点では劣る。したがって零戦との併用が望ましい。1号局戦改は火力、防弾は零戦よりずっと優秀だが、整備性はやや劣る。 王さんが守っていたファーストだから、
別に悪く無いじゃん〜
実績は王>>>長島だよ
> 中畑は「悔しいけどアイツ(原)の方がオレよりうまい。オレは与えられた1塁で頑張るよ」って言ってた
> 潔いね
> 山本功児は割りを食ったけど
実積のそれはホームランと打点と四球記録だけな
通算打率は長島に足りてなく首位打者回数も少ない
王はシーズン、オールスター、日本シリーズ全てで3割打つという芸当もできてない
55年に17エラー記録の中畑がゴールデングラブまでとるんだから頑張ったよなあ
松井もデビューから数年は下手糞で目も当てられなかったけど本当に上手くなったな スーパーファイトは80年〜82年は記憶にある。
80年9月30日 武道館
猪木のデビュー20年記念日でもあった。
この武道館大会から90年11月1日まで新日は10年も武道館を使用せず。
カードは四大マッチ
★猪木 対 パテラ(NWF)
★バックランド 対 ハンセン(WWF)
★藤波 対 スター(WWFジュニア)
★木村 対 チャボ(NWAジュニア)
81年6月24日 蔵前
★猪木 谷津 対 ハンセン ブッチャー
★カーン 対 戸口
★タイガーマスク 対 ビシャノ3
82年4月21日? 蔵前
★猪木 対 ベンチュラ
★藤波 対 ブッチャー
★タイガーマスク 対 ブラックタイガー
嗚呼、良き時代だった。 若乃花は数字見ていくとかなり安定した実績出してるよね
53年の78勝で優勝一回は運が悪いとしか言いようがない
輪島戦はかなり大相撲が多かった
がっぷりになって輪島が吊り出すかそれを凌いで持久戦に持ち込べば若乃花
連勝記録:26
連続6場所勝利:78勝
年間70勝以上勝利:3回
通算(幕内)連続勝ち越し記録:28場所(歴代4位タイ)
幕内連続2桁勝利記録:23場所(歴代4位)
幕内12勝以上連続勝利記録:3場所
輪島と比べてもさほど遜色ない
10回優勝している横綱でもこれより悪い成績も居る。
何でこれで優勝4回なのか…やっぱ少ないような…
力負けするとか、押し相撲に弱いとか色々あるんでしょうが… 昔『ゴング』がまだ月刊と別冊だった頃、アリが1970年に復帰して、我然
ボクシング界が盛り上がってきたのは誌面から感じた。それでクォーリー
とボナベナを下し、早くも王者フレージャーに挑戦となった時は凄かった。
試合前の舌戦も凄かったし「フレージャーがアリを殺すのではないか」とか
言ってる人がいたとか。でも実際は王座挑戦はまだ早かったんだよね。
アリは自分のコンディションを見誤っていた。まだ勘は戻ってはいなかった
し、試合でパンチの命中率が悪く、フレージャーの突進を止めきれない。
パンチを見切る動体視力も落ちてる。だからフレージャーの強打の餌食に
なった。ただ第2戦以降は決定打は外す巧さは復活したんじゃないかと思う。
海外の試合であれだけ日本のメディアに注目されたボクシング試合もな
かったでしょう。『ゴング』ではカラー3頁、モノクロ4頁、読み物でも
4頁は使ってた。異例の取り扱いでしたね。
1970年カムバックからスピンクスに負けて取り返した時までがアリの第2の
黄金時代。この時代にあの4強からはボクシングの面白さを教えてもらった。 jk max で 嬢に18000円払わずに2000円叩きつけて労基に通報するみたいなので未払いとか店にそういった事してる人集めて被害者団体立ち上げるみたいだから協力してあげてー
若い子達に本番の強要はしていないけど
そういう店の雰囲気作って実際行わせて、
女の子が病院の診断書取っても強制的に働かせる店だから。証拠の画像↓も次々とあげてるから
若い子の心を助けたい人は拡散してあげて
https://mobile.twitter.com/JKMAXsonia/status/1066458631573368832
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 改めて動画で見返すと、アリとの第1戦のときのフレージャーはアリと
互角のスピードで体を揺すり突進しとにかく当ててくる。
あれはアリにも止めきれなかった。プラスブランク後のカンの悪さでアリは
倒された。あの勢いと速さがフレージャーといえば目に焼き付いてる。
しかしあの速さと勢いが第2戦以降は消えてる。たしかにフレージャーら
しいスタイルは維持されてるんだけど、第1戦ほどではない。当時言われて
いたのが、フレージャーは第1戦で勝ったがアリのパンチで病院送りにされ
ていた、そのときのダメージが尾を引きダメになったというもの。たしかに
試合後のフレージャーの顔の腫れは尋常ではなかった。あの後のフレージ
ャーの変わり方をみてるとあの風評は嘘じゃなかったのではないかとも思
えてくるんだけど。 確かに初戦と2戦3戦目とではフレージャーの動きがまるで違う 要因は加齢とアリ1のダメージというよりフォアマンに壊されたような印象を受けた
スリラーインマニラと言われてる名勝負だが自分にはロートル同士のダルファイトにしか見えなかった
1戦目が素晴らしすぎたのかもしれないが。
マニラのスリラーはロートル同士の命を懸けたダルファイトだから凄いのな
マニラの気候が蒸し暑いから、
両者ともに動きの切れが悪い消耗戦になったと言われている。 松井はあれだけ体がでかくても下半身なんかは現役の王の方が強靭なんじゃない?
ふくらはぎなんて松井よりはるかに太い。
清原なんて上半身ばかり鍛えて下半身が付いていけなくて肉体改造を失敗して、まるでハワイ出身の力士のようだ。
確かに腕相撲なんかは、巨人の中では一番弱かったと本人が言っていたよ。
誰かが言ってたけど握力は60もないよ。
王は左利きだから、おそらく右の方は37くらいしかなかったはずだよ。
左だって50幾つだったと思ったなー。
かえって変に力がなかったのが良かったのかもしれないね。
構えてインパクトする瞬間まではバットがスルッと落ちる程度しか握っていないと言っていた。
王がなんで打率も悪くなかったか知ってるかい?
それは王がいつもバットを短くもっているだろ?
そこにホームランを打ちながら打率も下げない工夫があるんだって。
大振りをしないでコンパクトに全身をバネにして打つからのようだけど。
それに王の場合はヒットがホームランの延長と考えて打席に立っているのもあったんだよ。
それは常に三冠王を狙っていたから。
もちろんホームランを狙って打席に立ったときもあると思うが。
王が自分で言っていたよ。 アメリカでの例のテストレポートでは
「補助翼の利きは失速から時速225kmまで軽く、これ以上のスピードになると急に重くなって、時速480kmではゆっくり横転することしかできない。高速では操縦桿をほんのすこししか横に動かない」
この速度域だと、零戦開発時期はともかく、大戦後半ではもはや中速域だと思うけど
米軍のレポートでロールレートの逆転は175〜200ノットからで急旋回では限界に近い速度になる
これはプロペラ回転が米軍機と零戦は逆な関係で米軍機の有利な右ロール
左ロールは零戦が有利なのでブレイクは右ロールするように言われていた
当然零戦側は自分の有利な左ロールで回避するのでハーフロールする零戦に追従するのは
速度に関わらず禁止になってた
これも鹵獲零戦のレポートで書かれてる 零戦の航続距離だが
欧州戦線のように飛行場から飛び立ってからずっとエンジンを高力運転する形態だと
増槽ありの条件での航続距離はBf109E7よりも短い
なぜそうなるかと言えば栄の高力運転時の燃費はDB601よりも3割以上悪く
持続最大速度はBf109E7のほうが少し早いから
燃料搭載量はBf109E7が胴体400リットル+増槽300リットルの合計700リットル
零戦21型が胴体525リットル+増槽330リットルの合計855リットル
と零戦21型は燃料搭載量が22%多いだけだからそうなる
欧州戦線に投入された場合
胴体燃料のみだと零戦21型の航続距離はBf109E7と同じぐらいで
増槽込みだと零戦21型の航続距離はBf109E7よりも短い
零戦21型の量産開始は1940年末だが
Bf109E7の戦力化は1940年9月なので
零戦はBOBには間に合わないし、
航続性能もBf109E7よりも劣るので採用されません アニバーサリーの鍋行くやつおる?
あれどのメイドが参加するかによるよな さんくす
新人もいるし、メンバー的には初日がよさげか 王自身は意識をして引っ張っているつもりはない。
引っ張る打撃と言うよりも、球を捕らえるポイントがかなり前方にある。
これにより滅多な事では左中間やレフト方向には飛んでいかない。
更にダウンスイングの王はバットでボールを切る様に回転をかけてバットに乗せる。
よって回転が加えられたポールは想像以上により遠くへ飛んで行く。
バッターボックスの位置は、最後方部ホームベース寄り。
球をよく見極める為の時間稼ぎと前で球を捌く為、ベース寄りで構えていても詰まらない。
王のならではの秘策と言えよう。
試合の終盤、王の打席が終わると
イニング途中であっても観客が何千人も席を立っていく‥‥
5番打者はさぞかし気が散ってただろうなあ
こんな選手、今ではもういないよな 太刀山は全勝5回のほかに土つかず5回、栃木山は全勝2回のほかに土つかず6回がある。
栃木山の場合、大正6年5月の(9勝)1預は実質的な勝ち(陰星)とされ、大正8年1月の(9勝)1休は相手(朝潮)の休場によるもの。他に8勝1分1預、9勝1預、9勝1分、10勝1分がある。
預は現在なら取り直しとなるケースでも負ける可能性は低い。
また、東西制の事情から、実力上位の相手に対して最初から引分に持ち込もうとする場合が多かったと考えられる。
不戦勝制度ができ、引分・預がほとんど考えられなくなった昭和以降の土俵なら、太刀山も栃木山も全勝が8回前後できた可能性がある。
双葉山の全勝回数を他の強豪に比して特別突出しているように評価するわけにはいかないと思う。 青木喬 陸軍少将の述懐
「(4)零戦問題
(略)昭和16年1月恒例により明野において陸軍最新の1式戦、2式戦と戦技競技を交えた結果、
馬力荷重、翼面荷重等において陸軍側が有利であったにもかかわらず、戦闘性能、操縦性能共に
零戦がまさったことは参加ベテラン戦士の等しく認めたところで、特に20mm砲装備の攻撃力及び
偉大な航続力では断然世界レベルを大きく突破する空前の至宝兵器であることが立証された。
(略)もし仮に昭和14,15年頃から陸軍も零戦に統一する勇断があったなら、量産錬成・共同戦果はもちろん、
はるかなる南方広域に補給の途上少なからず喪失を見たような痛恨事は皆無に近かったと考える。
零戦統一に関する具申は懸命且つ執拗に努力したが、越権なりとして容れられず、甚だしきは海軍かぶれと
ののしられ恨みの涙を呑んだことは忘れられない。(略)」 おれも柏鵬時代は知らないんで柏戸は大鵬に強いという以外、
取り柄のない横綱のうように思っていた。
でも実際の成績を見ると横綱としては在位47場所で勝率73.5%、
準優勝15回、41・42年は連続年間最多勝(大鵬の休場のお陰だが)。
実は戦後の横綱としは悪い成績じゃない。
佐田の山は横綱勝率74.6%で柏戸よりいいが、在位18場所と短く、
連覇した直後にスパッと引退しての数字。この割を食ってしまったのが柏戸で、
この時期は、柏戸の方が衰えが顕著で先に引退する、と思われていたそうだが、
(本人も引退を意識し始めていたらしい)
ここで自分も辞めると横綱が大鵬一人になってしまうので、
病身に鞭打ちながらなんとか現役を続けざるを得なくなった。
ラスト2年は12場所中6場所がクンロクという体たらくになり、結果、
横綱勝率で佐田の山を下回る結果になったが、佐田の山引退時点だと、
37場所で76.7%の勝率を残していて上回ってたんだな。
安定感では佐田の山>柏戸というイメージがあったんで少し意外だったが。
ちなみに同じく在位47場所の輪島が76.6%、48場所の曙78.5%、
二代目若乃花は28場所で75.1%、北の富士が27場所で74.6%、
北勝海が30場所で76.7%と比べても、そうそう悪いわけじゃない。
優勝回数で見ると平凡だが在位場所数、勝率でみるとなかなかの成績、
というアンバランスな実績は、強いと言われた割に取りこぼしが多く
優勝が少なかった柏戸らしいのかもしれない。
ちなみに佐田の山は周知の通り大鵬に5勝27敗と歯が立たなかった。
優勝した6場所に限っても優勝決定戦で1度勝った以外、本割では
2敗1不戦勝。実際に対戦したのは2場所だけでいずれも負け。
内、一度は決定戦で勝ち、もう一度は負けても星一つリードしていたので逃げ切り。
初優勝の時は番付差があり対戦なし。(大鵬関脇、佐田の山13枚目)
残り3回は大鵬休場で対戦なし。(内、不戦勝1度)
つまり、佐田の山は大鵬が休場か、不調の隙をつくような形でしか
優勝できなかったんで、ライバルとしては、余り期待されなかったようなんだね。
ただ唯一年間最多勝を獲得した40年は皆勤した大鵬を抑えてのものだから、
これは価値があると思う。 双葉山の土俵入りは無の境地ゆえの自然体だから、その指摘は正しいと思う
昭和の名横綱シリーズの、双葉山の土俵入りの写真には「荘重華麗」とタイトルがついてるが、手先は
「不揃いの指、赤ちゃんのそれの如く自然である」
せり上がりも
「無の心、自然な姿のその型。下段からゆるい曲線を描いてせり上がってゆく」
と、説明されている
千代の富士の土俵入りと真逆なほど、自然体だ
土俵に上がって、塵をきる時も指先は同じで、仕切る姿も全くの自然体、無の心がうかがえる姿だ 35代=双葉山
38代=照国
45代=若乃花
48代=大鵬
55代=北の湖
58代=千代の富士
65代=貴乃花
68代=朝青龍
本来なら照国は大横綱になるはずだった?
若乃花も微妙だけど
羽黒山、東富士も大横綱になってもおかしくないクラスだから
照国が独走する時代は来なかったんじゃないかな
双葉引退から栃若ぐらいまでの相撲界は
群雄割拠してて面白いね 搭乗員節
作詞・作曲:不詳
著作権:無登録
四、
ソロモン群島ガダルカナルへ
今日も空襲大編隊
翼の二十ミリ雄叫(おたけ)びあげりゃ
落ちるグラマンシコルスキー
シコルスキー
歌詞にまで入るくらい呼ばれてたわけだが
戦記読んでると「逆さトンボ」とか「シコルスキー」とか出てくるよ
ところでシコルスキーってシルコスキーに似てない?
オレは甘酒の方が好きだ
いやシコルスキーってのは呼ばれてただろ
P-40→カーチス
F4F、F6F→グラマン
F4U→シコルスキー
B-25→ノース 零戦VSF4Fは
17年8月1日〜10月30日 零戦98機(戦死84名)喪失。撃墜戦果(連合軍側の損害記録と一致)合計118機。(戦闘機92機(50名)、うちF4F 77機(38名))
18年2月1日〜7月31日 零戦151機喪失。撃墜戦果合計205機。(戦闘機151機、うちF4F 51機)
零戦はほとんどが進攻戦で対戦闘機のキルレートとしてはほぼ1:1といっていいくらいだが、F4Fに対してはやや分が悪い程度。
17年11月〜18年1月はガ島航空戦下巻が出たら判明するだろう。 ソロモン方面において零戦による撃墜、不時着、全損にさせた米軍機は合計43(40)機。
B-17 5機(1機は高射砲?)、B-24 3機(2機は高射砲?1機は高射機関砲との協同?)、PB4Y 2機、PBY5 1機。
P-38 7機、P-39 1機。 P-40 3機、F4F 9機、F4U 2機、SBD 5機、TBF 5機。
零戦の損害は12機(12名)、隼が3機(3名)。零戦がかかわった空戦で失われた艦爆5機(1機は対空砲火?)。零観2機。
1日582空2機、瑞鶴2機(VMF-112のF4F)、2日252空1機(P-38、P-40)、4日瑞鶴1機、隼3機(F4F、P-38、P-38)
7日582空1機(SBD)、9日201空1機(B-17)、13日252空1機(P-38、P-40、B-24)、204空1機(B-24)
14日252空1機(F4Uと衝突?)、19日253空1機(B-24)
上記のように各戦闘ごとに集計しているのでかなりの混戦ではない限り、零戦がどの機種と戦って撃墜されたのかは読めばわかる 日テレ版とテレ朝版の2種類あって、当日夜スポーツニュースの中でお互いに5分制限でのみOKという取り決めだったと記憶。
元子も今はカネいるかも知れんし交渉しだいでは?
たぶん見るとお祭りそのもので緊迫感なく期待外れに思えそうな気もするけど当時いかに画期的な興行だったかに思いをはせながら観るとやっぱりグッとくるものはあると思う。
日テレに許可もらえばいけるなら一番楽だけど、出場選手それぞれに肖像権絡んで交渉しないといけないなら、むりだろうねえ。
(紅白やレコ大のDVDが出せないのはそれらしいから)
テレ朝版は古舘だっけ?まだ舟橋さん?
馬場の肖像権だけでもクリアすればいけるやん
ブッチャーとシンは他の号でリリースされてるからOKだろうし
ハワイでの合同練習、記者会見、メインの試合があれば十分
鶴田、藤波、マスカラスやS小林、R木村も見たいがそこまでは難しいだろう
バトルロイヤルも今見たら凄え楽しそう 俺もテレビでハリさんがワンちゃんは他の人が真似できない素晴らしいダウンスイングだと絶賛していたのを
聞いたことがある。
のむさんなんかとは考えが逆だね。
昔、周りの評論家から落合の打法はプロでは通用しないと批判されていた時も、ハリさんは素晴らしい構えだと褒めて、
君は間違いなく開花するからこのホームを絶対に崩すな。と落合にアドバイスしてたのもハリさんだったし、意外とハリさんは
人を見る眼力も凄いと思う。
また王さんも実際にバットを持って自分のダウンスイングについて詳しく説明をしていたのを見たことがあった
けど、なるほどなーと思った。
誰さんが王さんは完全なアッパースイングで打ってると言ってたけど、大根切りのようなの全てがダウンスイング
じゃないんだよね。
高めの球をインパクトすればどうしてもバットは下から出てくるけど、だからといってそれをアッパースイング
だと決め付けるのはいかがなもんでしょうか?
本当のアッパースイングは相当下からバットが出てくるし、よく外国人のホームランバッターに多い打ち方だよね。
しかし王さんのスイングはそのようには見えないし、そういう打ち方では僕の場合は飛ばないとはっきり言ってたよ。
やっぱりハリさんが言うように王さんは基本的にダウンスイングで、その時のスイングだけで決めてしまうのはどうかな?
と思うけど。 双葉山の69連勝や現在の白鵬も含め、基本的に大連勝記録って、
周囲が弱体化している時に作られるものだからね。
千代の富士の53連勝の時も安定していたのは旭富士位で、
大乃国、小錦らは不調な場所が多かった。
大鵬の45連勝の時も、柏戸はすっかり衰え、
既に勝負にならなくなっていた時期。
太刀山の56連勝、梅ヶ谷の58連勝の時も他に強豪は不在の時代。
小野川が谷風のライバルとなったのは63連勝を止めた一番以降の話。
強力なライバルがいたら大連勝は難しいよ。
それでも番狂わせが起きやすい競技で大連勝するのは至難の業なんで
価値が下がるわけでもないけどね。 双葉山の時代ってレベル高かったの?
はっきり言って低いよ。
玉錦が死に、男女ノ川も玉錦と同齢のおっさん横綱。
双葉山と同世代で、最大のライバルと目された武蔵山と沖ッ海は、
怪我で引退&死去
武蔵山と沖ッ海が元気で、さらに羽黒山が別の部屋で、
照国がもう3年早く上にあがってきてたら、双葉山ももっと苦労してたろうけど。
強豪横綱には違いないが、69連勝も無理で、優勝も8回ぐらいだったと思う。
退屈なほど強く客が見る気を無くすほどで、負けて初めて客が沸くというのは真の強豪の証だよな。
2歳上の武蔵山と、1歳上の沖ッ海が、最大のライバルになるはずだったんだが・・・
貴乃花が横綱にならんとする時に、いきなり曙と武蔵丸が急死したようなもの。
で、残る強豪は、対戦の無い身内ばかり
(若乃花が羽黒山 貴ノ浪が名寄岩)
もし貴乃花がそうなってれば、優勝は25回とか30回どころではなかっただろう。 ドリー、ブリスコ、、マードック、パワーズ、アンドレ、坂口、S小林、ロビンソン、シン、コロフ、ループ、パターソン、スーパースター、バックランド、マルコフ、ボック、ハンセン、ローデス、パテラ…
80年代も入ってるかもだが、それにしてもやたらと苦戦してたな。
楽に勝ったのってマルコフ戦ぐらいしか無いんじゃ?
あと子供の時、日プロ中継で一番怖かったのはマードックw
猪木の相手にしては強すぎるんじゃないかと思い、タッグでも「今日こそは猪木がやられる」と、泣きそうな心持ちで見てたねぇ
パターソンとの大阪NWF戦は隠れた名勝負だな。でも、やられるかもみたいな雰囲気はなく安心して見られた。
危ないので印象深いのはコロフ戦。最後担ぎ上げられフィニッシュまで持って行かれたようなもんだし。
コロフ戦は実質負け試合だったね。
パターソンが気を効かせて止めに入り、すっとぼけた勝利ポーズをしたんだっけ?
あれがなければ負けても涙を呑んで、コロフの王座奪取を潔く認めていたな、猪木ファンのオレでも…。
それにしてもあの時パターソンは、コロフにどう伝えたのか?「タイトル取りは契約に無いぞ、離せ」とでも?
当時のファイト誌には「コロフを退け、ルスカとの再戦、パキスタン遠征に向け最高のスタートだ!」
なんて書かれてあって、俺はちょっとシラけたねぇ。
「コロフ戦は実質、猪木の負けだろ?」って。
ルスカとの再戦も序盤に逆十字で腕を痛めつけられたし、あまり褒められた試合ではなかったと思う。
アクラム・ペールワンとの戦いは当時の俺では良く理解できない試合だった。
正直、面白かったとは言えなかったなぁ。
ペールワン戦は当時はあまりにも実力が違い過ぎるのに地元の英雄が痩せ我慢して骨折事故になった
くらいの印象かな。
すぐに忘れて80年代に入って出たゴング事件史で思い出して、またすぐに忘れていた。
次に思い出させたのは例の高橋本で、それ以降ファン(多分年齢は低い)の間で猪木唯一のガチ試合として異様に持ち上げているのに戸惑うよ。
ゴロフに対してはその仕返しか78年にまるで藤波の噛ませ犬のように扱ったね。
あの時のコロフは二回りは小さくなっていたのでちょうど猪木と大きさのバランスが取れて雪辱に説得力があっただろうに、
あろうことか売出し中のジュニアの若者に簡単に負けさせたんだからねえ。
恥かかされた仕返しにしか見えなかったよ。 よつばさんクリスマス出ないってことはそういう事だよね?
わかっちゃいるけど、悲しい >>222
昔から彼氏いるのになにをいまさらww
クリスマスは想像通りにきっとペロペロしてるよw 記者に囲まれてホテルのロビーを歩いていたとき、人工池で泳いでた鯉に指を吸わせて 「おっ!フェラチオみたいだな!」
子供に性教育教えなきゃいけないって、年頃の娘さんの前で全裸になって、変態扱いされた。娘さんは、男は全て王さんみたくビッグサイズなんだと思い込んでしまった。
長女、次女(理恵)ときて三人目の子供が産まれた時、またしても女だったので 思わず舌打ちして奥さんに怒られた
王さんが多摩川グランドに来てた後の奥さんをナンパしようと声をかけた時の台詞 「ドドンパはお好きですか?」
江川が新人で入団した当時、キャンプの食堂で江川に対して 「おい!嫌な奴がメシ食ってるぞ!」
江川が巨人に入団した当日「キャンプであいつと同部屋になるのは嫌だね〜」
巨人監督時代ストライクゾーンを広げる話題での監督会議で 「今だって十分広いじゃないですか」 他の監督を大パニックに陥れた
宿舎の風呂でシャワー場で、選手の一人が熱いお湯を床に流し捨てたら、隣で椅子に座っていた王さんが「熱い!」と股間を押さえた
理恵さん「どうして私達姉妹は、こんなにふくらはぎが太いのよ! お父様のせいだ〜!」と、本気で泣いた。
名球会主催のゴルフコンペをハワイでやった時、年賀状を持ち込んで直筆。その数たるや、数百枚
ヒットを 打って一塁に来た選手に「今の打ち方は腰を痛めるから、こうした方がいい。ほら、やってみろ」と真摯にアドバイスしてた。
早実の「ワンさん」と言ったら当時の都内の高校で1,2のケンカの猛者だった。
引退の理由。「アレの毛が白くなったので、潮時と思った」
祖父の王大人は中国でも指折りの拳法使いだった。
生卵
理恵さんが悪いことをしたとき、鼻血が出るまでぶん殴った。
王さんは小学生の時、クラスの会計委員だった。
王さんは中学三年間無遅刻無欠席で皆勤賞だった。
王さんは早実時代、ボールを鼻で受けてしまい、 今でも鼻が少し曲がっている。
王さんは左利きだが、ごはんを食べる時の箸、そろばん、えんぴつは右。
王さんはなぜか腕相撲が弱い。しかし、相撲は巨人の現役時代、チームで一番強かった。
ロッテ園川投手が開幕投手「開幕投手には格というものがあろう」 前にリンたまで新日放送歴代視聴率ベスト10。
これによると第二位は76年か77年(76年か)の坂口、小林VSシン、ブルータスの北米タッグタイトルマッチだったって。
あと意外にも83年1月の猪木、ホーガンVSラッシャー、マイク ジョージがベスト10に入っていた。
猪木VSルスカとかビッグマッチはわかるが、上記二つはたまたまだろう。
特に83年1月のは普通のカード。
同時期に長州が革命軍団を結成した。
また佐山タイガーも人気絶頂期。
そういう背景的な部分からたまたま高視聴率に。
ちなみにこの日の他の放送カードは調べないとわからんが。
76年の方はリアルで見てないが、同じ理屈だろう。
それかたまたま高視聴率だっただけかも。
田コロのアンドレVSハンセンとか
歴代MSGシリーズ決勝やIWGPの決勝がベスト10に入ってないのが意外。 >>226
心配しなくても今日の夜には
彼氏のアレでいっぱい喘いでるんじゃね?w
おまえもそれで抜けよw 30年程前、相撲史に興味があり、当時既に入手困難だった酒井氏の「日本相撲史」
BBM(ベースボールマガジン社)の「近世日本相撲史」や「横綱伝」なども無理して集めました。
雑誌も読売新聞社の「大相撲」とBBM社の「相撲」を10年近く揃えていましたが(現在は手放してありません)
私は協会機関紙の「相撲」より、一家言のある「大相撲」の方が個人的には好きでした。
当時「大相撲」は横綱の代数表示について、代数とは前代者が引退してから次代者が受け継ぐもので、
例えば35代双葉山と36代羽黒山が並立すのはおかしいと言う論でした。
例を挙げると、2代将軍秀忠と3代将軍家光が同時に将軍位にないのが当然なようにです。
従って「大相撲」では「何人目横綱」と表記していたと記憶しております。
私自身は、確かに代数とは「大相撲」説が正しいと思いますが、特別の慣例として代数表示でも良いとは思っています。
もう一つ「大相撲」が提起していた問題は横綱の同時昇進時における代数表示の問題でした。
今は知りませんが、当時は同時昇進の場合、代数は決めず、先に引退した方を先代にしていた様に思います。
大鵬と柏戸は同時昇進でしたが、柏戸が引退するまで8年あまり代数が決まらなかったと言う経緯がありました。
「大相撲」は当時大関で連続優勝した大鵬が昇進条件を満たしており、これが先任であり、
興行的人気面を考慮して同時昇進させた柏戸は副次的なもので、当然大鵬が先代となるべきであると言う説でした。
同時昇進でも必ず優劣があり、一方が引退するまで代数が決まらないと言うのは不自然とする、
「大相撲」の説は当然であると私は考えていますが、皆さんはどう思われますか。 よく、年2場所制と6場所制で、双葉山は今なら3倍の36回の優勝に相当するという意見がある。
確かに当時は年2場所だったが、番付は動かないが給金は直るというような、
本場所並みの地方場所が年何回かあり、双葉山の人気高騰後は、その数も増えて行った。
特に昭和15年は本場所の他に、名古屋、大阪2回、福岡、甲子園、満州の大相撲や大場所など計8回もあった。
これらの地方大場所も含め、初めて優勝した昭和11年5月場所から、最後の場所となった昭和20年6月場所まで
の成績は556勝58負(休場は除く)勝率90、5%。優勝は残念ながら32回を超えず29回であったが、
全勝優勝が20回と光っており準優勝も8回あった。中でも昭和12年6月の名古屋大相撲から翌13年6月の
名古屋大相撲まで6連覇を総て全勝で飾り、2場所おいて昭和14年2月の名古屋大相撲から、翌15年3月の大阪
大相撲まで、全勝6回を含む9連覇を達成している。もしもの話だが、今のように年6場所、総て本場所なら
もっと力が入り、優勝もさらに回数が増えたのではないだろうか。 ・著書で零戦初出撃で戦火を交えた日中のパイロットが戦後再会した件は、
笑顔で共に写っている写真付きで感動話として取り上げながら、坂井三郎が
同じく戦後にマリオン・カールと再会・笑顔で握手した件については、ブログで
「拭いがたい違和感を感じる」「敬愛する分隊長を殺したとされるグラマンF4Fの
搭乗員と、こうも笑顔で握手ができるものなのだろうか」と批判的に取り上げる。
・著書やブログで度々「エース」という言葉に拒絶反応を示しながら、著書で
大原亮治を『ラバウルで鍛えられた戦中派エース』と表現。
・紙媒体命でネット媒体は見下してると言いながら、ブログやツイッターをやっている。
・岩本徹三も著書で新郷少佐を「S少佐」と、イニシャルにせよ批判しているのに、
坂井だけが批判していたかのように書く。
・著書で坂井が元上官を実名ではなくイニシャルで批判したことを批判しながら、
自らはブログでイニシャルすら出さずに同業者を批判。(批判内容も言いがかり同然のもの)
・坂井を讃えたアメリカ兵は自著で批判的に描きながら、志賀さんたちを讃えたアメリカ兵は
ブログで好意的に取り上げる。
・以前「自分の作品をパクられるのは嫌でも、人の作品をパクるのは平気なのか。こんなのは倒さないといけない」
とノンフィクションを下にしたフィクションを批判しながら、それが原作の戦争物のフィクションを手伝う←NEW! 虚像に嫉妬するはずがないではないか」と、神立はブログで
零戦搭乗員会メンバーの坂井に対する批判的姿勢が、本が売れて有名に
なった坂井に対する嫉妬ややっかみの類でないかという見方を否定してる
けど、『祖父たちの零戦』で、坂井がアメリカで自分の先任のパイロットたち
より注目されたことに、彼らが不満を漏らす場面を書いてる以上、嫉妬の類が
全くなかったとは言い切れないと思う。志賀さん達も人の子、聖人君子や神ではないんだし、
そういう感情をもっても少しもおかしくない。例え内容が虚像であれ、坂井の本がベストセラーになり、
彼が時代の寵児になったことは事実だし。
志賀がゼロファイターとして英雄視されるのはおkで
坂井や岩本をエースとして英雄視するのは許されないと。
説得力のカケラも無いな 神立は撃墜機数を「検証不能」と言ってるけど、先の大戦の航空戦に関しては、
連合国側は勿論、日本側の戦果報告書や搭乗員の手記や回想録なども少なからず
残ってるから、実際の戦果を損害の検証は不可能ではないし、実際梅本弘さんとかは
それに成功してるからな。そういった事実を無視して、やりもせずに「検証不能」と
頭から決めつけている神立の姿勢はどうかと思うわ。検証不能な「撃墜機数」などより、足かけ8年にわたって第一線の搭乗員でいることがいかに大変なことか、
そっちを強調したほうが、よほど人生の教訓になる」
わかってないなぁ
撃墜機数を特定するのが最終目的ではないよ
一見無駄で検証不可能と思われてもそこに史実がある限り少しでも真実に近づこうとする作業の一つ
君にとっては、戦後搭乗員が巻き込まれた犯罪を暴いたり、嫌われていたことを垂れ流したり、
名著にゴーストライターがいたことを暴露するのがジャーナリズムの正義で、
当時の戦況などを検証可能な限り追求することは「教訓にならない」からだめらしい
「検証不可能だから」「生き残った搭乗員が嫌がるから」
皆がこんなこと言って腫れものにさわるような提灯記事ばかり書いていたら
それこそ皆死んでしまった後には何も残らなくなる
好きな人間の嫌がることは書かないが嫌いなやつが死んだら書きたい放題
そんなウェットで軸足のブレまくる奴はノンフィクション作家を名乗るべきではない
お抱え伝記作家となんら変わらん
それから君の言う「教訓」とやらは作家が押し付けるもんじゃない
読者が史実から勝手に読み取るものだ 渡辺さんはそれこそサンケイ赤本時代から増補改訂再編集繰り返してるからな
それだけの価値の内容ってことだが息が長いわ
渡辺さんて言えば一時期当時はびこってた零戦神話かなり強く批判しててその先駆けでもあるけど、
そういう意味ではまさに無邪気な零戦神話の再生目論んでこすっからく稼ごうとしているこいつなんかとは対極だよね
具体的な戦果ではもう騙せないから当時の周囲の状況や関係者の心象押し出して、おじいちゃんたちは偉かった、っていい話にしてる
それでも梅本さんみたいに現実の結果を記録の照合精査で解き明かした地道な努力には、
「興味本位の安っぽい、一人一人の命や情念をないがしろにした情報」とか意味のない言いがかりのような批判
しかも具体的に名前出さないいい逃げのような卑怯さ 1978年の藤波辰巳は凄かった。大袈裟に言えばプロレスの概念を変えた。
それまでプロレスは大男たちによるパワー迫力重視だったが、藤波のプロレスはまるで違っていた。
ボクサーのような引き締まった身体、スピーディな攻防、ドラゴンスープレックスにドラゴンロケット。
こんなカッコいいプロレスがあったのかと驚嘆したよ。後の佐山タオガーよりはるかにインパクトがあった。
あれだけ爽やかで何でもこなして新鮮だった鶴田さえも少し古く感じさせる新勢力だったな。
女性プロレスファンというと鶴田の独占だったのも藤波に持っていかれた。
自分はスープレックスよりもロープに投げずにその場飛びで高いヒットポイントのドロップキック連発に魅せられた。
鶴田のドロップキックも高くて地面と平行でそれまでは日本一だなと思ってたけど、
その場飛びで誰よりも高くしかも素早く連発する藤波のは革新的だったよ。
鶴田のは見事だけどめったに出さず師匠猪木は下手だったジャーマンを完全に自分のものにして、
いつでもどんな状況からでも使いこなせたのも凄いことだった。
完全後追いだけど藤波のjr時代ってDVDとか殆ど出てないのが残念だな
おそらくテレ朝にも残ってないだろう
ただ救いは家庭用VTRが出回りだした時期だからこの世にはいくつも残って入るだろうという事
ただ藤波のスピーディープロレス革命はいい部分もある反面、あまりに激しく
なる一方のハイスパット→四天王プロレス→三沢死亡という負の部分まで繋がる
のかなと、飛躍しすぎかもしれないが流れとしての個人的な意見としてはある。
モッサリ型プロレスは爆発的な人気は生まない反面、危険度は少ない。
派手で危険な投げ技や飛び技を使わなくても、大男同士の手四つの力比べ
だけで会場を沸かせられる。 藤波の凱旋帰国はそれまでの新日オジサンレスラー連中になかったフレッシュな
スピーディーなかっこよさ(当時でいうと「ナウいレスラー」)が抜群だった。
それまでそういうヤング(当時の言葉)に受けるレスラーというと鶴田だったが、
ある意味鶴田を凌ぐような勢い・爽やかさが藤波にはあった。
逆に79年になると猪木>藤波の序列が固定化して、藤波も肉が徐々について
78年のような鮮烈なかっこよさ・肉体の素晴らしさは影を潜めていった。
(だからといって人気や魅力が落ちたわけじゃなく、あくまで安定化した)
あの藤波の凱旋帰国は完全に革命であって、それまでのモッサリした暗くて
オッサン向けのプロレスから若者向けのプロレスに大きくシフトした。
実況も78年後半からそれまでのメインの舟橋から古舘に代わり(但しメイン
はしばらく三浦だった)、実況もモッサリ型の舟橋から過激な古舘にチェンジして
大きく雰囲気が変わっていた。
そして78年から「イノキコール」「ドラゴンコール」といったコールが定着した
大きな節目の年でもあった。
ただ、俺的にはオッサン向けのモッサリプロレスの方が味があって好みだった
んだがね。 A7M1は、でか過ぎた上に出力低下が響きイマイチな速度となりましたが、逆にその条件の割りに高速なのですよ。
1300馬力で574km/h@6190mと、1250馬力で572km/h@6000mのA6M8(零戦54)に近い値ですから。
ちなみに「零戦」に堀越氏が記した抵抗係数だと、A6M5の0.0215に対して、A7M1の0.0207となっています。
抵抗係数ではなく、直接速度に影響する 抵抗面積÷ペラ効率 を「零戦」の記述から求めると
A6M5が0.60u、A6M5aが0.62u、A6M5bが0.64u、A6M5cが0.68u、A6M8が0.74u
J2M1が0.69u、J2M2 が0.72u、A7M1 が0.89uといった具合になります。
(A6M5a/A6M5b/A6M5c/A6M8の値は、「零戦」での計算内容を参考に、カタログ値から逆算しています)
(空気密度が標準大気よりも大きめとなっていましたが、同じ高度の機体があるので、「零戦」の値に合わせています)
抵抗係数が小さいので、A7M1は大きさの割りに抵抗が小さいのですが、大き過ぎて抵抗自体はやや大きめ、
ただし速度への影響は三乗根で効くので、速度はA6M8なみに落ち着く、といった感じです。
あと零戦ですが、A6M5→A6M5a→A6M5b→A6M5cの抵抗増を見ると、重量増に対して結構リニアに抵抗も増えています。
軽さで空気抵抗を誤魔化していた風で、設計の古さが現れているのかもしれません。
それ故、誉版零戦の推測値も、重量増の影響で遅くなることを盛り込んでいます。
繰り返しとなりますが、中島のキ43性向機試算で、ハ115版540km/hに対してハ45版が580km/hとなっているので、
294ノットのA6M5cを元に誉版零戦の試算を行うと、軽量に仕上げた場合580km/h台後半、重量が嵩む場合570km/h台中盤
といった線は極端には外していないと思いますし、620km/h超は無理っぽいです。 64型は試験されていない。テスト飛行したのは
52丙型に金星62型エンジンを取り付けた「54型」だ。
金星62型・1180馬力、高度6800m
栄31甲型・ 980馬力、高度6000m
エンジンの高高度性能が上がり、馬力も200馬力アップしているため
飛行性能だけ見れば、向上しない理由は無い。
重量差に関しては胴体の13mm銃を撤去して対応している。
功罪は不明だが、プロペラは直径が10cm長いものに変えられた。
三菱社内テストとして、昭和20年4月28日、鈴鹿で初飛行。
操縦性、安定性は零戦62型と似ていた。
金星エンジンのセッティングに不具合があり、燃圧・油温の低下、油温が過大など
不具合を検出、オイルタンクを大きくし、隔壁や配管などを改造する。
5月25日、1号機を海軍に引渡し審査開始。また2号機を6月に納入。
青森県・三沢基地でテスト中終戦。
最大速力304ノット(時速563km)高度5600m
309ノット(時速572km)高度6000m
連続上昇・高度6000mまで6分50秒〜6分58秒
航続距離・機内燃料で、巡航2時間30分+空戦30分
着陸速度75.5ノット
量産時は52丙型のボディーはもう製造されていないので
零戦62型のボディーと金星62型エンジンを合わせ「64型」として製造する予定だった。
上 54型の3150kg+エンジン差分でなんとか3300kgくらいに押さえて欲しいなぁ
紫電改より0.5t軽ければ優位性あるだろうとなんとか言えるよね
ペラが、四枚化+高剛性(振動対策)化の必要もあるので、
機体補強を最小限に済ませ、タンク増量を避けたとしても、
全備3.4tを切るのは難しいような気がする。
最高速は、誉が1460馬力/5700mを発揮の条件下で、零戦52丙を基準に計算すると
全備3.4t級で仕上げる場合、580km/h台後半
全備3.5t級で仕上げた場合、580km/h台前半
全備3.6t級で仕上げた場合、570km/h台中盤
といった感じになりそう >誉換装版零戦
キ43性向型試算の、ハ115版540km/h → ハ45版580km/h に近い線ですし、
多少は外しているかもしれないけど、目安としてはこんな感じかと。
そして全備3.6t級での想定値だと、速度は零戦54の572km/hと大差なく、
馬力荷重が零戦54の0.48馬力/kgに対して0.5馬力/kgなので、上昇力も大差ない雰囲気です。
誉22型装備、三菱主張1300馬力・6000mで
翼面積30.86平方mの烈風が574km/h・6190mも発揮している。
一体何がゼロ戦、隼の水平速力の足を引っ張っているんだろう。
翼断面、平面形は失速性は左右したと思うが
大きな面積を覆すほど低い抗力で済んだとは考え難い。
いくらなんでももっと出るだろ…
紫電改試作機の620kは超えないと 王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、当時の日米のレベル差と日本の球場の狭さ、
圧縮バットの使用などを考慮する必要がある。
後楽園球場は両翼の実測が87.8mほどであり、外野に向かって傾斜が下がっておりバッターにとっては
非常に有利な球場として知られる。
また、圧縮バットは通常の木製バットよりも反発力が高く飛距離が伸びるとされ、王の引退と同時に使用が
禁止された。
ただし『プロ野球記録大鑑』著者の宇佐美徹也は、当時パ・リーグの4球団が採用していた反発力の大きい
ボールの方が圧縮バットより本塁打量産に大きな影響を与えていたと主張している。どちらも禁止された
のは81年からだが、実際にセ・リーグの本塁打数は禁止前の79年から4年連続で減少しており、またパ・リーグで
反発力の大きいボールを使っていなかった2球団の本塁打数は禁止前の80年より81年の方が増加している。
ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の
世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記して
いることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。
王の記録は、アーロンやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録の1つとして記載されている。
王貞治は日本では「世界の(本塁打)王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」
として知られており、英語圏のニュースでは Japanese home run king Sadaharu Oh として紹介される。
日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と
認めていないことを指摘していた。 瞬間風速ならバースと思ってたんだが、あれだけ偏差値で
抜けられるとどうにもならないわ。
RC27で日本の過去のトップレベルと3点違う。
外人入れても2点違う。王と比較するのは失礼としか言いようが無い。
しかし長島が偏差値になると落合以上とは思わなかった。
V9が強かったのは当たり前だな。
日本歴代の強打者のNO1,2がそろってりゃなあ・・・
何気に守備もものすごいし・・・ 王貞治の使用で評判となり田淵幸一や谷沢健一は学生時代から、その他長嶋茂雄、山内一弘、張本勲、柴田勲、江藤慎一、山本浩二、有藤道世、大杉勝男、掛布雅之、篠塚利夫ら、
日本のプロ野球選手の7割とルー・ブロックなどメジャーリーガーらが、メーカーが用具提供を始める1970年代半ばまで、石井の圧縮バットを使用した。
1970年代後半から“ボールが飛び過ぎる”という飛ぶボール批判に端を発した強化バット問題が派生。日本野球機構に「各球団の使用球によってホームランが出やすくなる不公平が生じている」と批判が寄せられた。
第7代コミッショナー・下田武三は、科学的に使用球の反発力を調べる準備を始めた。1980年開幕直後、近鉄の使用球から反発力検査の合格印が押されていないものが発見される。
使用球の飛距離平均化をメーカーに要請したが、「ボールだけ規制するのは不公平ではないか」という非難が起きた。
下田は飛ぶボール、圧縮バットの両方を使用禁止とする裁定を下した。
.王だけが圧縮の恩恵を受けたわけでない。みんな使ってたww。メジャーもww
.圧縮禁止の背景には王の記録もあったろうが、最大の理由は近鉄が1980年に239本塁打と打ちすぎたことww 無関係な長文コピペを連投している奴って、何がしたいんだろう・・・ F4F、F6F、F4Uの関係って米海軍の思惑通りに展開って凄いよね。
高性能の野心作の開発が難航する事は当然予想出来て
保険をかけて保守的な機体も同時発注て思想は誰しも考え付くが、
保険機が充分役に立つ水準で大きな戦力になってる間に
本命も熟成されて役立つ機体になって、時代遅れのはずの先代も
パワーアップと大量生産で充分に戦力になったって凄すぎだ。
それが可能だったのは凡作ながら持てる能力を充分発揮したF6Fの活躍で
余裕が出来たからこそじゃないかな。
インターセプターとしてはF6Fの方が上なんだよ、F4Uはいまいちだった
でも攻めに転じるとF4Uの方が強力になる
F4Uは自分の身を守りつつ任務を遂行する事を要求される
母艦を守れ、攻撃隊を守れという任務は無くなる
そうなるとインターセプターのF6Fは相性悪い 輪島が右手を負傷した日、北の湖も左足首亀裂骨折の大けがをした。
北の湖にとっては文字通り怪我の功名で、これを切っ掛けにぶちかまして
前に出る相撲に変わり輪島と覇を競える位の強豪力士に大変身した。
ただ、足首の痛みは2,3年続いたというから、51年頃まで
しばし下半身にバタつきが見られたのは、その辺も影響していたのかもしれない
輪湖の転機は自分も51年九州だと思う。
北の湖の戦法変更もさることながら、この辺りで輪島の体力の衰えと
北の湖の充実が交差したんじゃないかな。
それまではがっぷりでも必ずしも北の湖優位というわけではなく、
流れの中で、輪島から胸を合しに行く場面も結構あった。
(さすがにその状態を長引かせはしなかったが)
それ以前は輪島の左下手を殺せる程、まだ体力的にも圧倒できなかったんだろう。
53年名古屋のような、輪湖戦の定番イメージが当てはまるのは51年九州位からで、
それ以前の2人の対決は少し毛色が違う内容の相撲も多かった。
51年初などは、北の湖が矢継ぎ早に攻めて、頭まで付けたりしたしね。
さすがにスタミナは既に北の湖が上回っており、51年夏の優勝決定戦では、
仕切りの段階で輪島はくたびれている感じだったw 輪島北湖の対決で51年九州が転換期だったと挙げる人が多い
自分は52年までは輪湖は互角だったと思う。
あの52年名古屋の全精力を振り絞って北の湖を倒した相撲は、輪島の相撲人生最高の相撲だっただろう。
51年九州で引き付ける左は、引き付けられる左に成り下がった ひょいと変わって上手を引き付けられたからな
あの昭和52年名古屋は輪島としては、まさに火事場の馬鹿力ってやつだろう
最後はガップリ左四つで引き付けて寄って掬い投げで勝ち、土俵に倒れ、しばらく立ち上がれなかった
部屋の千秋楽打ち上げでも腕がなまって箸も握れず、煙草を持つ手も震えていたという
それくらい当時の北の湖を倒すのは大変なことだった
北の湖は50年秋〜51年初まで輪島に3連勝した。
これで輪島コンプレックスが取れたかと思われた。
ところが51年春〜秋まで輪島に4連敗した。
この51年九州から右に少し変わって上手を浅く取り、引き付けて輪島の左下手を殺す作戦に変えた。
これ以降、輪島の左下手からの投げは殆んど効かなくなった。
北の湖や千代の富士、貴乃花、朝青龍、白鵬などはいずれも全盛期に「いずれ大鵬の優勝回数記録を塗り替えるだろう」と言われた訳だが
輪島は言われなかったの?
昭和48年「輪島、江川、ハイセイコー」三大怪物と言われ、27 連勝した頃はマジに可能性を囁かれた
しかし貴花戦で右手指を裂き、昭和49年初場所初日、北の湖に敗れ初優勝されてから、全く言われ無くなった
右手の怪我がなければ、朝青龍位の独走は出来た
まあ白鵬の様に北の湖に時代を奪われたろうがな 81年は転機の年だった
タイトルマッチで61分1本勝負と国歌吹奏がなくなり
リングアナが倍賞からケロへ
古舘が実況で「古舘節」を交え始めたのもこの頃 そう考えるとかなりのそれまでの当たり前の部分が81年に切り替わってる。
アナウンサーでいうと、舟橋が退却したのが78年夏だが、その後三浦アナが
リリーフし、古舘がメインに定着したのが79年頃。
81年はそう、「戦いのワンダーランド」節が本格的にスタートした頃だな。
それまでの古舘実況って結構、先輩アナからのバトンタッチの違和感をなくす
為でもあり、自らも新人ということからそれほど後々ほどの暴走的な過激スタイル
じゃなく、オーソドックスの地味な実況スタイルだった。
それと倍賞からケロへのバトンタッチも、地味ながら結構大きかったよな。
倍賞っていえば、シンに襲われるのが定番だったし、なにより倍賞美津子の
弟だったから。あの独特の盛り上がるコールはケロはケロで初期までは素晴らしいが、
総合的にはリングアナという地味な職を倍賞美津子の弟ながらもでしゃばる
ことなく淡々とこなした倍賞鉄夫の方に評価したいよな。 オッサンばかりの時代のプロレスって、入場曲もなし、イノキコールもなし。
大相撲みたいに個々で声援や野次を飛ばしながら、あとは黙々と試合を見てた。
昭和後期以降の華々しい、ミュージシャンのライブみたいな雰囲気とはまるで
違う別世界。
特にシンやバーナードみたいな狂乱ファイターが出てくる試合は流血の陰惨さと
会場の暗さがマッチして70年代ならではの独特の重苦しい雰囲気が漂って
いた。
会場が静かなので、猪木が「次はデスマッチで決着つけますッ!」なんて
マイクで叫ぶ声が不気味に木霊してた。
実況も舟橋と三浦というオーソドックスで地味なスタイルだったので沈黙も
多く、タイガーマスク以降の過激で明るくスポーティーな雰囲気とは正反対。
ただ、変に健康的で明るく過激にするより、地味で暗いが落ち着いて見られる
70年代の方が俺の性には合っていた。別に●●軍団とか、無理矢理作らなくても
そこそこの外人が来れば1しりーず十分持ってたし。
上下前次 テーズくらいのサイズで、若くてカッコよくてスピードがあって、吉村以上に器用に技をこなす。
目新しい技を次々と披露し、決め技はスリーカウント取るよりもコブラツイストまたは卍固めによるギブアップで取る事が多い。
完全に「二枚看板」になってたね。
日プロ時代 猪木の挑戦に対しての馬場の決まり文句が
「何れ猪木君の時代が来るに決まってるそんなに焦らなくても」
元々馬場は全盛期少し過ぎる三十半ばでインター王者返上し優美の引退
以降はプロレスで作った人脈を生かしハワイで旅行代理店を開きたまにアメリカで単発参戦と考えてたから だが全日設立しちゃったもんで畳めなくなった
馬場もなんで全日設立したんだろうね。
日プロで大木らと気まずくなったんならそこで引退していても良かったはず。
それをしなかったのは日テレへの義理かな?
馬場が全日旗揚げしたっていうより日テレが独占したくて旗揚げさせた
末期の日プロは日テレとNET(現テレ朝)での二元放送を望んだ
NETには猪木を出すが、日テレが馬場をNETに出させることに抵抗した
そのときちょうど猪木はクーデター問題で追放となり
でも日プロは二元放送をあきらめず画策した
とうぜん、日テレはNETに馬場をとられたくなく独占したくて
全日旗揚げをバックアップ
71年の時点でもまだまだ馬場の方が両局にとっては価値があったんだな。
小学生だった自分は猪木がほぼ追い付いて二枚看板ってイメージだったけど。
逆転は3、4年後になるわけだ。
もしBIがそのままいて日プロが続けれていたら74、5年に猪木にエースを譲り76年に引退していたのかもな。
75年頃までは馬場もすれすれ日プロ時代の動きができて体型もかろうじて維持できてたからな。
綺麗な身の引き方をしてたら馬場も後々の負のイメージを残すことなく完璧なイメージでレジェンドになれてただろうにな。
逆に猪木は日本人対決や異種格闘技戦をやらなかった可能性が高いから我々ファンに取っては二人が独立した方が良かったんだな。
やっぱりBI砲は表裏一体なんだ。 モハメドアリ その生と時代(下)にアリとタイソンが試合したらどうなるか予想してて
初期タイソン陣営の予想はみんなアリの勝ちだった
ホセトレス「カスとの関係もあって私の気持ちとしてはタイソン寄りになるだろうがね。
しかし、アリは12ラウンドでも15ラウンドでも楽にマイクと戦えるだろう」
ビルケイトン「絶頂期のタイソンは史上2番目に偉大なヘビー級選手だったが、彼はモハメドアリではなかった。
マイクは素早いがアリはもっと素早かった。マイクはパワーを持っているがアリには史上最も偉大なチンがあった。
また、マイクは残念ながらいらだちやすく、これはアリの場合はアキレスの踵になるんだ。アリは心理戦となると天下一品だったからね。」
ケヴィンルーニー
「若い頃のアリならマイクを苛立たせただろうな。もし、マイクがコーナーに私を置いて彼の頭がしっかりしていたら、互角の試合になるだろう。
私はマイクに手を高く構え、身をかわしウィービングしながら入り込み、出来るだけボディを狙えと助言するだろう。盛んにフェイントをかけろと言うね。
アリは凄い巧みなカウンターパンチャーだったからだ。両方とも中々パンチの当たらない面白い試合になっただろうな。だが、たとえマイクが絶好調でも私はアリに軍配を上げる」
テディアトラス
「絶好調のアリは絶好調のタイソンをやっつけるよ。アリがマイクと戦うとしたら自分の最高のやり方で戦うだろう。
ジャブを放ちアウトサイドから攻め、ロープから離れ左右の動きを盛んに見せて、プレッシャーを軽減しマイクがミスったら痛い目に遭わせインサイドに入ってきたら押さえ込むんだ。
暫くするとマイクは不安になりパンチは一度に一発しか出さなくなるだろう。やがて彼は精神的にまいってくると思うし、こうした場面の戦いではアリの右に出る者はないよ。
アリは9〜10ラウンドあたりでマイクをKOすると思うね。だがその前にマイクがガックリと精神的にまいってしまい、リストンみたいに試合を放棄してしまうかもしれないね。」
アリのタイソンの分析
「彼がどう出るか頭の動かし方で予想が付く」 バリーボンズ165k、イチロー&松井秀喜158k、王貞治153kって書いてあったが、王の数字はかなり晩年の
ものかも知れないな。
シーズン最多本塁打を打った頃は松井より早かったかもしれないよ。
小手先だけの力任せのスイングとは違うから王のは!
120〜130kがプロの平均らしいから当時としてもかなり早かったと思うよ。
金田や江夏など全盛期は150キロ以上出てたと言われているから昔も剛速のピッチャーは結構いたと思う。
王の場合今でも充分出来たと思うよ。ただ、確かに150キロにフォーク当たり前の現代とは言え
全員が全員150キロ越えのフォーク持ちとは限らないし、晩年は小松や鈴木孝政あたりはまるっきし
打てなかった記憶がある。それでも年間40本以上は打てたし、上でも書いてある通り、王の場合相手の
ウイニングショットを打つんじゃなくてどんだけ失投を打つか、又はどんだけ2線級、3線級投手から打つか
ってこと。長嶋のように相手のウイニングショットを打っての3割も王のように相手のミスショットを打って
の3割も年間にしたら記録は一緒。ただ俗に言う長嶋は記憶には残るし凄く感じる
中京大の湯浅景元教授の「ホームランはなぜ打てるのか」
こちらの本に名選手のスイングスピードが書いてある。
王貞治 155km/h
松井秀樹 159km/h
ボンズ 165km/h
マグワイヤ 165km/h
ソーサ 167km/h
プロ野球選手のバットスイング平均は140km/hだそうです。 マリアナ海戦の連合艦隊よりも、赤トンボ特攻のほうが強かったって、知ってた?
いまからちょうど65年前の今日(7月29日)、沖縄県宮古島を飛び立った7機の特攻機が、
午前1時頃、那覇市南西90キロの海上において米駆逐艦キャラハンその他3隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げました。
そのときに使われた特攻機が、上の写真の九三式中間操縦練習機です。
マリアナ海戦は空母3隻失って撃沈ゼロと中小破、赤トンボ特攻は7機失って撃沈1と大中破。
旧日本軍というと何かと過小評価されがちだが、マリアナ海戦という一局面だけで「弱い」と断定してはいけない。 アントニオドライバーって「相手の首だけを抱えて投げる」で合ってますか?
まぁフロントネックロックしてブリッジ効かせて…
ぁ、そういえば猪木のは見たこと無いんだったw
ブラック・ゴールドマンのは素早くて、頭を打ち付けたのかどうか判らなかったが、アレを初めて見た時は正直、その高度さに視線も思考も停止した。
初代タイガーのは一呼吸置いてはいたが、確実に頭を打ち付けていて、頭頂部リバウンド必然の強烈なものだった。
しかし見たいよなぁ!Fネックチャンスリードロップで決めた東京プロレスでのバレンタイン戦を…
蔵前の長州戦(83.8.2)でフロントネックチャンスリードロップやってるけどあれはアントニオドライバーとは違うのかな ?
1984年ですね。
その序盤で出したやつは、長州の左腕を自分の頭の後ろに回して、タイツをつかまずに投げてますね。
アントニオドライバーの写真見ると、相手の腕は後頭部に回してない(?)。
アントニオドライバーって言っていいのかな?
相手の手が首に回ってないというのはものすごい危険な技ですね。
バレンタインは相当受け身が上手いと信頼されてたのかな。
初代タイガーのは一呼吸置くというかブリッジで投げるんじゃなく、足を振り上げる勢いで頭から落とすからDDTに近い。
相手の腕の下に潜り自分の首にかけたらフロントネックチャンスリーじゃないだろうね。
マスカラスのブレンバスターは反則だからとタイツを掴まずに、相手の胸部から腹部、もしくは股間に手を添えて投げてるね。
これで両腕で相手の首をクラッチして投げてもブレンバスターでありフロントネックチャンスリーとは言わないと思う。
誰か写真持ってないの?
バレンタインを投げてる猪木のフロントネックチャンスリーというかアントニオドライバーの
80年代の初頭頃まではよく雑誌で見たけどな。
倉庫を探すと見つかるかも知れない。
記憶違いかも知れないけど猪木のフロントネックチャンスリーのやり方は3パターンあったように覚えている。
もしかしたら他のレスラーがやってたのとゴッチャになってるかもしれないけど。
当時プロレスごっこで雑誌で見たそれら全てを真似てやっていた。
一つ目はお馴染みの相手の首を両腕で決めて投げるやり方。
これは相手の首にかなり負担がかかり腕力とブリッジ力の両方がないと難しい。
相手が痛がるから新日時代の猪木のダブルアームスープレックスみたいにブリッジを使わず尻餅つき式で投げていた。
もう一つは相手の腕の下には潜らずに、上でも出ているマスカラスのブレンバスターのように右腕で首を決めて左掌を相手の胸辺りに当ててブリッジするやり方。
これは左掌でバランスを取れて投げやすくなる。 三つ目はタッグリーグ戦でニックが見せた右腕で首を取り左腕で相手の右腕をハーフネルソンに決めてブリッジするやり方。
これはフロントネックチャンスリーとダブルアームスープレックスを合わせたようなスープレックスだったけど猪木がやってるモノクロ画像を見たような気がするが上記二種のような確信はない。
しかし自分が81年頃のプロレスごっこで「フロントネックチャンスリードロップ」と称してこのやり方で相手を投げていたのは確かだから画像を見たんじゃなかろうか。
若い頃の猪木は体も大きくてパワーもありブリッジも柔軟だったので両腕で首を決めて投げることができたのだろう。
しかしこのスレでは話題にならないけど昔はバレンタイン戦でのフロントネックチャンスリー連発で腰を痛めてできなくなったとよく書かれていた。
事実、日プロ時代はフロントネックチャンスリーはやっていない。
それでもパワーと柔軟性で日プロ時代まではブリッジができてジャーマンスープレックスとかはできたんだが新日を立ち上げてしばらく経った頃にはご存じのようにまともなジャーマンはできなくなっていた。
こうして見るとバレンタイン戦で腰を痛めたのが原因でブリッジの最中に力が入らなくなるとかの障害が残って加齢と共にスープレックス系がうまくできなくなったんじゃないかと考えられるんだな。 Youtubeに79年の猪木VSボブループが上がってるけど、これもドリー戦つうかバックランド戦あたりに
通じるような完全に元アマレスの猛者の地力に猪木が太刀打ちできてない構図が見えるな。
殆ど先手でグラウンドに持っていかれてるし・・。
ループのちょっと打たれ弱いところやマレンコもなかなかドリー戦を彷彿とさせる面も なみに1300馬力の予定だった零戦五三型は
計画値では全備重量3150kgで最大速度315ノット
これで武装が 20ミリ2挺13ミリ3挺でF-6Fと互角だと期待された
金星搭載だと正面面積を増やさないために13ミリ1挺減らし
そのスペースを燃料タンク容量に充てることとなろう
(六四型では水タンクになったが金星五〇型なら燃料で可)
実は金星五〇型の方が栄三〇型より軽いので13ミリ1挺と弾薬と合わせ
プロペラを強化すること考えても120kgは燃料と滑油を増載可能
航続距離低下を甘受するならその分軽くなる
防弾なしだと3トンでこのくらいの性能にはなる
外板の厚さを増して枚数を少なくする雷電や烈風での手法を取れば
空気抵抗が減り、翼端を切らず、寧ろ翼厚を増したり、翼面積を増やすこともできたかも
ただし、100発入り弾倉はバルジを生じるので速度は10ノット遅くなるかもしれんが
ドラムからベルトに変更した零戦五二型→五二甲型で速度が増したという話はぜんぜん聞かない
たぶんあんまり変わらんのではないかと思う 年六場所換算した横綱での優勝回数ベストS
@大鵬 29
千代の富士 29
B双葉山 27
C朝青龍 23
D北の湖 22
E太刀山 21
栃木山 21
G※白鵬 20
H羽黒山 19
I貴乃花 15
J常ノ花 13・5
K大錦 12
玉錦 12
輪島 12
N東富士 11・5
O若乃花(初代) 8
曙 8
P北の富士 7
武蔵丸 7
R北勝海 6
S栃錦 5・2
(次点)
千代の山 4・2
照国 4