ビッグバン宇宙論は早く くたばれ
無限宇宙論なら哲学とか科学の諸難問が理解可能だとわたしは考えている
光速度一定の原理は自然と論理の関係を示しているのだと
有限宇宙論では不可能 此処からが無ければ此処までも無い
つまり宇宙は無限で対象は宇宙非宇宙ではないということ、矛盾しない
エネルギー保存則は宇宙しかないから何処にも行きようがないということで無条件で成立する
此処というのは静止、それが存在しないのだから宇宙の存在形態は運動
運動を前提に否定関係は導けない
宇宙は運動するエネルギーの濃淡の親和反撥して新たな濃淡を生成する過程として在る
つまり進化論しかあり得ない
観測問題は此処から此処までは無いのだから粒子は無いということ
波が渦を巻いた状態で、認識器官はその在り方で自然の像を結ぶ
自然は多として認識器官に像を結ぶということ
観たものがそのままの自然では無いということ 光速度一定の原理は此処からの存在は否定するが此処からで運動を規定するということ
つまり規定は否定で対象である宇宙には当然存在しないということであり、それで宇宙が無矛盾であることを証明する
規定、認識の在り方は考察されなければならない
ゼノン、カント、ヘーゲル、不完全性定理、不確定性原理はここから理解が可能だと理解している
それは規定は否定という単純そのものの視点から理解可能だということ
スピノザ、クレタ人の逆説もまた
極めて単純、極めて豊穣
一を多で規定するからだということ 物理条件が生成可能ならいくらでも小さい粒子、つまり渦の状態は生成可能
〜に成るということ
最小単位は競技場の逆説からでもわかるように存在しない いずれにしてもまだまだ天動説的認識論から科学は脱却していないんだろう
未来のコペルニクスが日本から生れますように 自然科学は自然〈認識〉
認識の在り方を認識することで科学革命は可能だと
コペルニクスは意識せずして認識を相対化している
それは科学が歩んできた道だとわたしは主張する 半世紀ほど前から現代科学の傾向に疑問を抱いている科学者たちが出てきている
大科学者と言われている人も
それからだんだん増えてきているし
マジで日本からコペルニクス出現を期待している
西洋のを読んでいると認識論には気が付いていないし日本の科学者はチャンスではないかな 板倉氏は真偽は対象が答えを出すと語る
今世紀末にはと思うが、生きて居ないよな 此処からは無い→粒子は無い
粒子からは成らない
粒子として像を結ぶだけ
〜に成るのであり粒子から成ってはいない 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反撥で新たな濃淡を生成していく過程だと理解している
認識器官の像は認識器官という在り方によるから=の自然では無い
真空は無ではない、静止は運動の否定ではない、生死は物理として生れるわけでも無くなるわけでもない
自然認識だから認識の在り方は考察されるべき
コペルニクスは意識せず認識を相対化している
認識そのものを相対化すべき段階なのだということです 科学の歴史は否定関係と認識していたものが差異だったということじゃないかなとわたしは考えている
地動説は地球と諸天体
進化論などなど
光速度一定の原理は絶対座標、つまり此処から、静止の存在の否定だと
ならば宇宙は無限であり運動が存在形態であり無矛盾なのだと
そして規定は否定だと示す
だからこそゼノン、カント、ヘーゲル、クレタ人の逆説
そして不確定性原理、不完全性定理、観測問題
これらは認識の在り方の問題
一を多という否定で規定する
有を無で・・・
極めて単純、極めて豊穣 はいはい、相変わらずの中身無しですね
無脳だからしょうーがないよね もしかすると二十年前の某会議室で痛い目に遭った人かなあ www
どうでも良いんだよ、納得出来る理解が得られれば
歴史は沢山の難問をわたしたちの目の前に積み重ねてきた
認識論、科学、数学・・・
これらの基本が解りたいだけ
科学者も哲学者も数学者も納得出来る解答はなかった
素人としてはモヤモヤしていた
三浦つとむ、板倉聖宣、山川偉也氏の著作は自分なりに納得できる解答に至る道標を示してくれた
それぞれ納得できないことは在るが基本は了承できる
ビッグパンは確たる証拠もない
武谷氏は七十年代の著作でビッグバン学説に否定的なことを述べている
三浦つとむ氏はちと引っかかるがやはり否定的
それなりの科学者も否定的だし
わたしの理解は無限宇宙論を前提にしないと成立しない
有限宇宙論は学問の基本を無視している仮説で納得出来る説明は無い 自然が無矛盾に理解できればいいわけです
決定不能も、不確定も、観測問題も、ゼノンも、カントも、ヘーゲルも
ウイルス問題も、生死も、無も、静止も全て認識側の問題です
諸難問は認識するからこそです
自然は無矛盾であり、自身はただ在るだけでなんら問題などないのです 自然はパルメニデスが主張するように〈一〉であり〈多〉ではありません
一を多で規定します
数も次元も諸力も存在しません
それで理解しますがそれは存在しません
有を無で規定、つまり規定は否定です レス内容から物理や数学の最低限の知識すら持ってないこと丸わかりなのに、
無限宇宙論云々有限宇宙論云々とか言っちゃってるの恥ずかしすぎる 内容に踏み込まない印象批評は相変わらずだなあ
恥ずかしすぎる www 自然科学は自然認識だよね
異論があったらどうぞ www 現代科学の主流は対象は宇宙非宇宙と否定関係が存在すると主張する
これが致命的
無が〈存在〉したら無にならないし www
わたしが産まれるというのは物理状態の変化、死もまた
生死は自然には存在しない
座標原点は存在しない、つまり存在しないもので存在するものは規定される
地動説は地球は静止して見えるし球体には見えないが天の諸天体と同様の存在だと主張した
つまり観たものがそのままの自然では無いのだと
科学は認識器官に現象する像=自然では無いことを一貫して示してきた
周りが膨張すら宇宙は膨張しているという理解は観たものがそのままの自然という天動説の末裔ではないのか
現に異論はあるし、なによりも宇宙の端は観測されていない
インフレーションも仮説だし周転円の一つという理解も成立する
ビッグバンは何ひとつ確かな証拠の無い〈仮説〉
前提、保存則、原理と破りまくり
わたしはこれらを守る無限宇宙論に与する ある政治思想論争で、わたしは観客に話しかけていて対立者説得などしないと語っていた
理解するつもりがある人に、またこれからの人たちに語りたい
現代科学はいま分岐点にいるのだとする科学者たちがいることは確か
日本、欧米各国にいる
量子力学は新しい理論が求められ、時間非在説、重力非在説を主張する科学者たちまで出現している
それはいずれも根拠が在るから
これからの人たち、どうか科学の歴史を概観してください
ある理系サイトで、日本の物理学は主流学説ばかりで、革命が有ったときに経済みたいに取り残されるのではないかと危惧する方がいた
同感です 科学者は大前提に立ち返るべきじゃないかな
南部さんの宇宙の始まりの仮説を解説していた方がいたな
わたしは有は無で規定されると理解している
終始は無いが終始で理解するのだと
座標原点は存在しないのだから 自然科学は自然認識です
認識の在り方は考察されるべきです
静止、生死、無は存在しませんが認識する側には存在します
これが意味することを考えるべきだとわたしは主張します
科学革命である地動説は地球は静止していると認識しますし、それで観測しますが、それは相対化されます
認識したものをそのままの自然だとこれ以降の科学者は理解しません
わたしは様々な発見事象は観たまんまだと理解することは天動説的だと考えています
終始は在る、無は在る、周りは離れていき膨張している
それはそのままの自然だとする理解は如何なものかと
とこれからの人たちに w フラットアース説批判は収穫があった
このスレも収穫がありました
板倉聖宣氏はその半世紀前の著書「科学と仮説」で観たものがそのままの自然ではないと地動説が示したと語りました
この洞察は本質であったのだと
認識の在り方は理解されるべきなんだということを両スレで深めることが出来ました
どうもありがとうございました はいはい、いつもの中身無しの野次ですか
それしかできない無脳君
昔ラララ無人君というCMがあったような
これからはラララ無脳君ラと呼ぼうかな www 科学認識は認識する立場の相対化の歴史でもある
認識する立場は自然には無い
それによって自然は無矛盾であることが証明される
ビッグバン仮説は認識を相対化していない、つまり天動説の観たものがそのままの自然という素朴認識論の末裔だということです 自然は無矛盾だということです
ただそれだけです
認識するということを理解すべきかと
自然科学は自然認識なのですから 自然科学は認識の相対化の歴史だと理解している
認識する立場は相対化されている
地球を基準、つまり座標原点と設定するがそれは仮構
太陽を中心に動いている、これも認識が要請する仮構
で、何処にも中心、静止は存在しないと光速度一定の原理は示す
しかし認識、つまり対象を認識する立場、座標原点は必要
それは頭の中にしかないのだということ
認識対象を認識する主体は対象の一部だと、この原理は示す
自然は運動がその存在形態で、否定関係は存在しないのだから人間もまた自然ということ
つまり自然認識は自己言及
地図を描く場合に頭の中では空から町、日本、地球、銀河系を俯瞰する
また古今東西を行き来したり、小説、ドラマの主人公にも成れるのはこの能力
つまり認識する立場は仮構
自己を他者として認識、表現した言葉が〈わたし〉
天動説は素朴認識論で観たものがそのままの自然だとする
出発点は仮のものでしかない
終始は何処にも無い
ビッグバン仮説は天動説の末裔ということ ビッグバン仮説を支持する方は光速度一定の原理をどう理解しますか?
この自然に座標原点は存在しますか?
身の周りでは物理は生滅しません
ただ他の物理状態から遷移して、また違う物理状態に遷移していく過程として在るだけです
否定関係など自然には存在しませんが否定で規定します
わたしは自然とはを理解したいだけです
自然非自然という否定関係が対象なら矛盾して理解不能ではないのでしょうか
自然科学は自然認識なのです
認識の在り方もまた考察することもまた必要なのではと思います
若い学徒への認識論を齧った素人からの提言です ビッグバン仮説支持者の方々にお尋ねします
自然科学は自然認識という理解は間違いなのでしょうか?
わたしは自然認識だと理解しています
認識器官に現象する像はそのままの自然なのでしょうか?
ならば天動説は正しいわけです
諸天体は地球を中心に運動しているというのは視覚の限りでは真実です
それを自然の構造には適用できないのだと地動説は示し、さらに
光速度一定の原理は中心は何処にも存在しないのだが、認識には中心、座標原点は存在しないことを示した
ビッグバン仮説は認識に必要な終始が自然に存在するという素朴認識論なのではないのか
それは天動説の認識論ではないかと 訂正
光速度一定の原理は中心は何処にも存在しないのだが、認識には中心、座標原点は存在しないことを示した
→光速度一定の原理は中心は何処にも存在しないのだが、認識には中心、座標原点が必要、つまり認識の在り方を示したのではとわたしは理解する 自然科学は自然認識であり、自己言及なのだとわたしは理解する
認識の在り方を認識する必要があるのだとわたしは主張します
基準を設定して理解します
天動説もある範囲で真理です
基準を設定しその範囲で真理ということです
そして基準は無いということを示して無矛盾であることが示される
認識することを認識することが科学革命ということです
地動説が静止を相対化したように
エネルギー保存則もまた生死の相対化です
光速度一定の原理はこれらも含みますが、有と無の相対化だとわたしは理解します 新約聖書学 ドイツ
数学 ドイツ
共産主義 日本
科学は日本人にケリをつけてもらいたいわけです
西洋で認識論に目を付けている科学者は知見の範囲では居ません ここでぐだぐだ考えていたら新たな展開ができそうで感謝しています
基本に還ることは大事なようです
わたしのばあいいつも還ることで新たな展開になるわけですが わたしは納得したいだけです
ゼノン、クレタ人の逆説、カント、ヘーゲル、不完全性定理、不確定性原理、観測問題などなど
ゼノンで躓き、重力は理解できず、数学の0に限りなく近いが0ではないとか極限とかは納得できるものではありません
いろいろ読んでいるうちに、それらは未解決問題なのだと知りました
脚気における森鴎外の失敗はその時の科学を絶対化することの過ちだと知りました
板倉聖宣氏の諸著作には啓蒙されましたが、その時の学問を絶対化することは危険だというのが収穫でした
「新哲学入門」では科学、思想の真理は論理ではなく対象が決めるのだと例を挙げていて説得力がありました
ただ科学は無矛盾な自然理解を目指すが、観測問題では板倉氏も学問の現在を絶対化するという過ちを犯していると思えます
彼は地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示したと指摘します
わたしはこの視点を徹底化することが必要だと現在考えるようになっています 誰が見ても池沼にしか見えないんだから
池沼としか言いようがないわな 何回でも言います
自然科学は自然認識です
ならば認識の在り方もまた考察対象だとわたしは主張します
これからの学徒に提案します
言語過程説を主張した三浦つとむ氏は認識の在り方を述べています
とりわけ自己言及である観念的な自己分裂は重要です
それは規定は否定ということです
板倉氏は観たものがそのままの自然では無いと地動説は示したと語ります
これは重要な指摘です
自然〈認識〉の本質です
ゼノンは自然は多ではない、一だと主張するパルメニデスの擁護です
スピノザは規定は否定だと語ります
だから規定は決定不能、矛盾を招きます
クレタ人の逆説です
不確定性原理、0に限りなく近いが0ではない、不完全性定理・・・
ウイルスの分類困難性等
これらを理解したかっただけです
それを通して自然とは、学問とは、人間とはを理解したかった
それだけです ヘーゲルも自己言及です
学問、認識、等々
本質から理解をしたい
因みに武谷氏は三段階理論を提出して、ボーアなどが否定的な湯川理論を支持しました
興味のある方、是非認識論を探究してください
収穫は期待できると思います 何回言っても何も理解しない奴っているよね
理解した事がないから理解自体を理解してない
言葉弄りがあるだけ 自然は矛盾していないだとぉ?
無矛盾の検証は難しいぞぉ 単純に証明可能だと考えています
光速度一定の原理は絶対座標の存在、つまり此処からの存在を否定しましす
無限は終始がないことで証明されます
此処からは在りませんから此処までも在りませんから無限です
絶対座標とは静止です
静止が存在しないということは自然の存在形態は運動です
運動を前提に否定関係は導けません
つまり自然は無矛盾です 量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡です
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反撥が新たな濃淡を生成する過程だとわたしは理解します
(進化論はこの自然観が裏付けるとわたしは理解します)
真空、無はデイラックの海でエネルギーの基底状態ということになります
つまりエネルギーの一形態です
無が〈有〉ったら無になりませんから w 観測問題は自然は濃淡はありますが〈海〉、〈一〉です
認識器官はその在り方で自然の像を生成します
静止、生死、無は認識側には存在しますが自然には存在しません
静止は運動の一形態です
生れるとは物理状態の遷移であり物理としては生まれません
死も同様で物理としては無くなりません
物理として生滅はありません
エネルギー保存則です
無は述べました
認識器官にはその在り方から淡は像を結びません
一である自然は多として像を結びます
粒子は波が渦を巻いた状態で、波の一形態だと考えています
静止が運動の一形態であるのと同様に粒子は波の一形態だということです 光速度一定の原理は静止で運動を規定するが静止は存在しないことを示します
自然が無矛盾であることは静止が存在しないことで示されます
スピノザは規定は否定と語ります
静止で規定しますが静止は自然には存在しません
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが生物非生物という分類は物理状態の差異を否定関係で規定します
つまり分類することが分類困難であることを出来するのだということです
とりあえずですが、わたしは光速度一定の原理は自然が無矛盾であることを、静止が存在しないことで証明したと主張します
ここから不確定性原理、ゼノン、カント、ヘーゲルなどが理解可能だと考えています 人間は自然の一部です
つまり自然科学は自己言及です
三浦つとむ氏は〈わたし〉という自己言及を〈観念的な自己分裂〉と認識論の立場から解明しています
「日本語はどういう言語か」を参照してください
自然科学は自然認識ですから認識の在り方も追究すべきでしょう
自己を他という否定で規定するからこそ様々な問題が出来します
光速度一定の原理は規定は否定であり、自然には存在しないことをもって無矛盾であることを証明したとわたしは理解します 板倉氏は地動説は見たものがそのままの自然では無いことを示したと語ります
目の前の自然は視覚器官という物理状態に生成される像です
諸生物、そして個体により差異はありますからその形態により自然は様々に像を結びます
観たものがそのままの自然ならば個体数だけ自然が在ることになります
食材は料理法により形態を変えますが、それと似たようなものかと 観たものがそのままの自然では無いということです
粒子は認識器官に生成される波が渦の状態だとわたしは理解します
此処から、というのも認識器官に生成される像です
地動説は自然認識の在り方を示す端緒であり光速度一定の原理もまたこの観点から考察されるべきかと
わたしはすでに自然は無矛盾であることは証明されたと主張します >>318
>>319
相対論も量子論も、ブルーバックス読んで知識を得たような小学生にも劣る理解力だなw 自然科学は自然認識です
ならば認識の在り方も考察対象です
異論が有ればドゾ 実のあるスレにしたいんですが罵倒の応酬だけはなあ
と思ったらスレタイが www 認識論畑からのこれからの学徒への提言です
問題意識の在る方にと ある哲学者は人は現在を固定して考えがちだが自然も社会も変化の過程に在るとした
ミス・マープル的に言えば変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わるということかと
理系の学徒たち、鴎外の轍を踏むことことなかれ 科学の現状は問題山積です
洋の東西を問わず新たな視点が必要だとする科学者たちが居ます 日本人に科学は可能かと悩み数年離れ新たに研究して成果をあげた明治の科学者がいましたが
いや例えばそんなふうに俯瞰しても良いかなと 落ちこぼれが新たな視点とか
結局のところ
「自分に理解できないから科学はダメ」
だけじゃん 無内容は相変わらずですな
無脳ってか反論できないから読むのもやめているのかなあ? w そんなに中身指摘してほしいなら
>量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ではありません。前提から間違ってます。量子力学の一番簡単な入門書の一章くらいは読んで理解しましょう。
>自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反撥が新たな濃淡を生成
>する過程だとわたしは理解します
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反芻が新たな濃淡を生成する過程ではありません。
中学や高校の物理や化学くらい勉強して理解しましょう。
>(進化論はこの自然観が裏付けるとわたしは理解します)
当然ながら全然裏付けになりません
>真空、無はデイラックの海でエネルギーの基底状態ということになります
違います。ディラックの海は大昔の簡便的な説明にすぎず
フェルミ粒子についてのみ適応できるもので場の量子論が確立した現代では必要のない理解の仕方です。
>つまりエネルギーの一形態です
真空はエネルギーの一形態ではありません。
ハミルトニアンの最低エネルギーの固有状態のことです
誰も内容に触れないのは
このように全てのセンテンスが、最低限の自然科学の知識すら持ち合わせていない人間の戯言すぎてみんないちいち内容に突っ込みをいれるのをアホらしく思ってるだけです。 いえいえ、解釈は時代により変わります
古代の理解が甦ることも
貴方もまた現代科学の理解絶対というだけです
わたしは自然は無矛盾という観点から理解を構築しました
粒子は波が渦の状態なら対立関係ではありません
静止は存在しません
ならば自然の存在形態は運動です
運動を前提に否定関係は導けません
前提に否定関係、エネルギー保存則否定、光速度一定の原理無視のビッグバン学説は受け入れられません
貴方もまた現代科学の理解絶対という信仰から逃れていない
地動説は古代ギリシアの理解です 問題意識の違いですね
貴方は現代科学の視点、解釈が絶対という立場です
わたしは諸問題を新たな視点、と言っても古代ギリシャの視点ですが、そこから理解し直そうという試案です
対象は矛盾しない、エネルギー保存則、光速度一定の原理、これらを否定しない自然観をということです
終始は認識が要請するのであり存在しません
光速度一定の原理が示すことです 四次元が存在したら静止した三次元が無限に、そしてわたしも無限に存在することになりますが?
次元で理解しますが次元は存在しません
ゼロ次元は存在しません わたしの出発点を理解するつもりはないようですね
ならば無視してください
それだけです 静止、生死、無は自然には存在しない
存在したら自然は矛盾する
無が〈有〉が存在したら無ではない 何回でも言う必要があるのかなあ
自然科学は自然認識
見た自然がそのままの自然ではない
静止、生死、無は認識には存在するが自然には存在しない
認識についての理解は必要です 初期の素朴な理解は後の形而上学的理解より正しいことが多いとある学者は語る
画期的な理論は最先端ではなく至って戻ることからとある数学者は書いた 視点が根本的に違うからしょうがない
わたしは認識そのものを相対化したい
その視点から考えたい 無が有ったら無にならない
四次元が有ったら静止した三次元が無限に
当然わたしも無限に存在する
無は〈有〉るのでしょうか?
三次元は無限に有るのでしょうか?
わかりやすく説明してください
出来たらですが やはり読んではいないようで
ならば無視してください
目ざわりです 地球は静止して見えるが…
周りは膨張している→宇宙は膨張している?
車の中で風船膨らませても車は膨らまない
車が膨らんでいることを確認したら
同じく宇宙が膨らんでいることが確認したら膨張宇宙論は証明される
インフレーションは仮説
周転円に映るが確認されたら降参 w >>338
エネルギー保存則は否定されてないし、ビッグバンは当然光速度不変は大前提だ。
ポエム読むにしても、大学物理とまではいかないが最低でも高校物理くらい勉強してからにしろ ビッグバンはなんら確かな証拠無しの仮説
おまけに大前提、原理、保存則無視
主流だからといって信じろってのは無理過ぎる 光速度一定の原理は自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成する過程
ならば進化論しかあり得ない >>354
背景放射他大量の証拠はあるから。
あと大前提、原理、保存則全部守ってる理論だから。
もう中学生レベルの知識も求めないから、
ポエム続けるならせめて小学生が読むような百科事典レベルの話は理解してからにしろ 光速度一定の原理は自然に終始がないということ
ビッグバン仮説の否定
絶対座標は存在しないのだから