>基礎学力の平均が高い(少なくとも低くない)ことは、国家の産業にとって有利なのは当然。

・何の基礎学力の平均が高いのかも定義してない。「何の基礎学力」が適切かどうかは、産業によって変わるのでは?
・平均値が高いと有利なものもあれば、平均よりも、一部の先端の能力で決まる産業もありそう。
・ベルトコンベアに工員が張り付くように多数の平均的な労働者でモノ作りをする社会なら、平均能力がモノをいうかもしれない。
・ここで論じている産業ってそういう産業なんかな?
・それとも、多数の平均的な労働者でモノ作りをすることが有利になるような産業を、国家の中心に据えようぜ、って話? そうでもなさそう。

>個々の個人が仕事に必要な自己研鑽をするのは当然で、その方向性が適切かどうかは
>個々の国の社会システムによる。

自己研鑽は必要。その自己研鑽の方向が適切かどうかは「国の社会システム」で変わる。ということかな。
自己研鑽は、興味だったり自分のライフプランで変わるわけだし、適切かどうかは、他人にとやかく
言われるようなこともでないと思うんだ。と思っていたら、

>日本の電子産業はソフト産業にとって、日本の社会システムが個人に強いる仕事上
>の勉強の方向性が、適切でないのだろ。

おかしいぞ。
「自己研鑽」なのか「日本の社会システムが個人に強いる仕事上の勉強」なのかどっちの話をしているのか。
強いれば「自己研鑽」ではない。それとも「課題は出すがカネも時間も出さない」という「自腹研鑽」の話なのか。

>その方向性は国家や企業の命令で上から決めるのではなく、個人の自由・競争・選択
>で決まるのが、全体として最も適切に向かうことが、20世紀の歴史の教訓。

さすがに「課題は出すがカネも時間も出さない自腹研鑽」だと問題があるので、
個人に対し「課題もカネも時間も出さない自己研鑽」(つまり勝手にやってほしい)を求めつつ、
その勝手の方向が上で主張している「国の社会システムで決まる適切な方向」に向かうのが
「20世紀の歴史の教訓」だというのだろうか。

>日本が欧米や中国やインドなどと比べて何が足りないのかは、誰でも判る。
>それは個人の資質の問題ではない。
「誰でも判る」は、単なる投げ出し。そもそも誰でも判っていて実現可能なことなら問題は起きてない。
実現が難しいことなら、判っていても意味ないよ。

高校のときの先生が言ってた
「自分だけがタイムマシンを持っていたら、いろいろな問題が解決することぐらいは誰にでもわかる」