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■生意気な客が来たらリアルで殴り倒すコンビニ店員の会
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001いい気分さん
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2019/07/28(日) 20:11:47.72
結成しようぜ。
お前呼ばわりしてくる客とかと喧嘩して警察に突き出す。
0964いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:55:39.29
薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。このころ、薩摩では『郷中(ごじゅう)』という郷(地域)を中心とした制度がつくられた。これは稚児と二才[(にせ・20代青年)
庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあった。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。墓も実在し子孫が墓参りする。
このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位か今で言えばJr.あたりの美童の誉れの高い三五郎、野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢、倉田軍平と小浜助五郎。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、

その頃は元服前の少年武士(若衆)は誰か兄貴([二才]の「稚児」となって瑞々しい肉体を捧げ[契り]をすることになっていた。したがって処女(生童/きわらべ)を守らねばならない。これは薩摩の「郷中」と言って「稚児」と「「二才」(にせ・15〜25)の「男色」の話です。
0965いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:55:57.21
三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に敵うはずもない。刀を抜こうとするも、すぐその細腕を押さえられ揉み合ううちに着物の裾も乱れ、雪のように白い柔肌ガ露わになる。それをみて溜まらず舌舐めずりする男に押し倒されてしまう。

いよいよ帯を解かれ強姦の憂き目・辱め・・これから誰とも知れない男に裸に剥かれ自由にされてしまう・・、三五郎はそんなことを思うと涙ぐみ、遠くでは山寺の鐘がなっている。三五郎の悲壮感を一層たかめる。

というときに馬に打ち乗った10歳上の大蔵さんという見知らぬ武士吉田大蔵(二才になる)に助けられる。

危うく強姦されるところ、きわどいところを助けられる場面がある。三五郎は「ぜひに自宅に」と請うが、大蔵さんはぜひにぜひにとすがりつく美童・三五郎を振りきって返ってしまう。
この場で、美童・三五郎の求めに応じ、三五郎の自宅に招かれていたら・・でも大蔵さんはそうしなかったのだ。
0966いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:56:18.22
でも、それがよかったのだ。その後三五郎と大蔵さんは、互いに想い焦がれ夜も寝付けなくなったのだ。三五郎を想い焦がれ恋い焦がれた10歳年上の大蔵さんは三五郎の自宅を訪ねることに。
自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを大蔵さんならと受け容れる・・、

この薫りも高き凛々しい美堂のすべすべした軟膚に顔を埋め、秘笛を思う存分味わい尽くし吹くこと(一節切・ひとよぎり)できだろう。そして義兄弟の契りをでただろう。

そうした恋い焦がれた、三五と今日この夜晴れて報われ義兄弟となれるのだ。
・・花嫁のように愛撫に身を任せ、すべてを捧げ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。

念者と念友の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」
0967いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:56:29.50
花が咲き、春雨の降り激しい軒の玉水の音のみで、寝静まった春の宵、二人だけの寝書の小座の内、いよいよ「義兄弟の契り」がはじまる。柳のような細いしなやかな腰(尻つき)、柳腰の薫り高き三五郎を深く抱きしめる。「かけてぞ解くる雪の肌」とは、恋の名を、かけて帯を解放すこと、帯を解放すと白い雪の肌が露わにあるということ。

13歳の美童三五郎は、暴漢の手から刀に手をかけてまもろうとした帯に二人だけの寝書で、大蔵さんの手がかかっても、下帯の結び目に手がかかっても、それを許し総てを捧げる・・。

そこに現れたる下帯もを付けない雪の肌、暴漢も自由にできなかった、三五郎が守った総てが露わにされただろう。

そして、じっと我慢して許し許され。まだ誰の指も触れたことも無い生童の美童の総てを綺麗なからだの総てを初めて思う存分、味わい尽くし、愛撫尽くし、嗅ぎ尽くし、結び尽くし存分自由にできたのだ。


その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。「賎のおだまき」を読みながら、財部郷土館に展示されている三五郎の掛け軸を見て、そう思いながら一度見ておくのもいいだろう。
0968いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:56:49.52
’菊華の契り’という言葉、初めて知りました。
菊とは、少年のオ0ツの穴の縞々模様を表す象徴だったんですね!!!
そして、その若衆と一夜の契りをかわすことによって、二人は身も心も一身同体になったんですね!!
う〜ん、なんて奥の深い話なんでしょう!
また一つ勉強になりました。
0969いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:57:22.76
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。
このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。
0970いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:57:39.32
さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

この「若衆宿」の制度は、ニューギニアの部族の少年が通過儀礼のために入る「男の家」によく似ていますが、若衆宿が西日本に普及していた事実からみて、この若衆宿の制度がニューギニアなど南太平洋の島々から日本に伝わった可能性は十分に考えられます。
0971いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:57:58.90
さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。

薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」(ごちゅう・ごじゅう))と呼び、郷中のメンバーは数え7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。・・・強い絆とは、「義兄弟の契り」といって
肛交に依る肉体的少年性愛・・これを男色(美童愛)という。

   「賤のおだまき」は、この稚児と二才の男色関係の話です。

薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。
0972いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:58:29.98
青年武士は、美童を稚児・若衆(わかしゅ)にしたいと、しようとします。
美童も誰かの稚児になることがあたりっまえ、稚児はそれまで自らを誰にも与えてはならない。
生童(きわらべ。童貞・処女)を守らねばならない。

男色の秘義は肛交の他、性器の玩翻、一節切(ひとよぎり、フェラ)などあらゆる性の戯れがゆるされるでしょう。
それは、義兄弟の契りまでおあずけ。

はれて「義兄弟の契り」の寝所で二才は、恋い焦がれた美童を初めて自分のものにするのです。
美堂も恋い焦がれた10歳くらい年上のお兄さんの二才に総てを与え、お兄さんのものになるのです。

二才のお兄さんは、初めて美堂と寝て、少年の薫り、乳の香りの芳しい美童を引き寄せ、抱きしめるでしょう。
馨しい髪、芳しい薫り、誰も触れたことの無い綺麗な柔らかい膚、誰も触れることのできない膚と禁断の肉体、そのすべてが今自分の
ものとなろうとしているのです。

これから自分のものとなる恋い焦がれた美童の体を硬く抱きしめ、頬ずりし、美しい美童の髪の薫りをかぎ、なで・・そして帯に手をかけるのでしょう。l
美童もいよいよ恋い焦がれたお兄さんに総てを捧げるのです。
暴漢の乱暴な手から刀を抜こうとして守った帯を解かれる。
でも、大好きなお兄さんならと・・・
そして数え13歳の美堂の女より綺麗な雪の膚が露わになる。

そして下帯の結び目にも手がかかり、美堂は一瞬本能的に股を閉じようとしたかどうかしらないが、下帯が外され美童のすべてが
露わにされるのだ。
0973いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:58:49.15
いかに少年武士とは言え、まだ細腕の、女の子と同じか弱少年、抵抗も空しく

野山の草むらにねじ倒された三五郎はもう詮方なく、いよいよこれから裸に剥かれ強姦される女の子同然に、耐え難い辱めを受ける。これから暴漢に強姦されてしまうのだ、少年はどうする事も出来ず辱めを想い、遠くで鳴り響く鐘の音がなる中、これからされることを想うと無念に涙ぐむ・・・

に引き込まれるのだ。
0974いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:59:06.94
森鴎外の「イタエクスアリス」に「賤のおだまき」と男色の話が載っている。
鴎外も飛び級で数え13歳で大学予備門に入った、ほかに何人かいて、鴎外はじめ
そこの寮で、ひげもじゃの上級生に狙われ男色の被害にあったという。
鴎外はいつも短刀を忍ばせていたという。寮では客人がくると庭で遊んでいる
美童を捕まえて、客人の接待に美童を献上したという。

「男色」とは少年愛(美童愛)のことで、日本の歴史とともに長い伝統
とひとつの文化でもあります。

武家の男色は明治以後も「陸軍幼年学校」に引き継がれ明治時代から終戦まで70年にわたってその全寮制の寮内で深く行われていたのでした。

陸軍幼年学校とは、中学校の秀才が13歳、中学生になってすぐ、中学の1年か2年でM検まで徹底的な身体検査を受けて
入学を許され、陸軍の大将などになってるエリート集団で、3年制(3年生は今の高1か、高2)。

上級生と下級生は固い結びつきがあり、それはあの「義兄弟の契り」によって行われる。今で言えば、中1か中2と高1か高2との硬い絆が入学後まもなく。
陸軍幼年学校というのは、東京で言えば、一中とか三中とは優秀な中学校の
一番とか二番とか,二番とか優秀な生徒が、まだよくわからないうちに先生から
呼ばれて幼年学校応募を勧められ願書を出す。

そして、素っ裸の身体検査だとか思春期の男の子には残酷な検査が行われ、そして合格。
幼年学校に合格者を出すということは、その中学校の至上の栄誉だったようだ。

そして、合格して上級生と寮生活を送る。もちろん男子のみ。一年生から三年生まで二人ずつ6人で一室で暮らし、下級生は上級生の命令は絶対服従、その中で硬い結びつきを教えられる。

入学してしばらくすると、それは3年生によって行われるという。
そのときは痛いというが、もちろん泣いたりしてはいけない。
0975いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:59:28.56
声を凝らしたうめき声と、涙を流しながらも、その70年の伝統儀式に必死で耐えるという。
幼年学校とは、思春期前後の男子の集団、全寮制の寮はベッドが6つある。
両脇に怖い三年生、真ん中に二年生が二人。そして、まだ毛が生えるか生えないか
位の、まだ声変わりもしないか、せいぜい声変わり途中くらいの13歳の一年坊主は、別々に三年生と、二年生の間に分かれて寝る。

一年生を指導するのは三年生の特権。もちろん大切な男色を手取り足取り教える。
「義兄弟の契り」をするのだ。

昔と同じ、僅か今の中一とか二、13位でで年上の上級生と「義兄弟の契り」(男色)をするのだ。

三五郎と同じ。


「義兄弟の契り」をしたものは、戦場でも深い結びつきの絆となるという。
それをするのは、入学後1月位で行われるという。幼年学校はホモの巣窟だったといわれる。
0976いい気分さん
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2021/02/21(日) 08:59:50.22
「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。

これは現在の説明だが、根幹をなす「男色」の部分がが抜け落ちているのだ。
0977いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:00:31.01
幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行なわれたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
0978いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:01:01.05
薩摩藩では子弟たちを郷中教育(ごうじゅうきょういく)で心身を鍛え、郷土の先輩たちの手により独特の学風や士風が醸成され、伝統として受け継がれ、県下に名だたる”出水兵児”たちを育んできました。
ところで、出水兵児の(兵児・へこ)とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児二才・へこにせ」、30歳までを「中老」と、三つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児二才」におかれたことはもちろんです。
出水は肥後と国を接する薩摩の表玄関にあたり、国境の守りとして古来から、最も尚武の地でした。
その出水で三百年以上も昔、名地頭とうたわれた山田昌厳は、厳しい訓練によって出水兵児の士風を確立したといわれています。
0979いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:01:18.53
士の時代になると、頻繁に出てくるのが「義兄弟」

[義兄弟の契り]というのは、ただ単なる性的関係のみの間柄じゃなく、特別なものでした
「兄分」「弟分」があり、「生死を共にする」仲なのであります.。
女性と恋愛するのとは全く別物で、義兄弟の契りというのは、絶対に裏切ってはいけないとういものなのです

また「兄分」は、「弟分」の庇護者でもあり教育者でもあります
武士の社会では、弟分が兄分の承諾なしに勝手なことをすると、流血事件にまで発展してしまうほど。
0980いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:01:32.40
薩摩藩は四人に一人が武士という藩でした。青年にはきちんとした組織があり、「郷」というチームによって編成されておりました。

6歳から14歳までの元服前の少年を「稚児(ちご)」と呼び、中でも10歳までの少年を「小稚児(こちご)」、11歳以上を「長稚児(おせちご)」と分けていました。

そして元服後の15歳〜25歳くらいまでの青年達を「二才(にせ)」と言いました。

この「稚児」(長稚児)と「二才」の関係はものすごく強く、「二才」は「稚児」に理想的な人間形成をするために色々と教育をします。
この時に、男色(美童愛)が尊ばれた時代だったので、「男色」へと発展するのが必然的であります。

このように、少年時代から培ってきた薩摩風男色ですが、江戸幕府崩壊により薩摩藩の若者の多くが東京へ集まってきました
そのため、明治初期は男色がとても流行したのです
0981いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:02:28.07
江戸時代でも薩摩の稚児趣味というのは有名だったようで、男色趣味を薩摩趣味と言い替えた事もあったとか。
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。
0982いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:02:55.52
薩摩では社会的な身分関係が
1)男、2)馬、3)女
という順番で、女性と触れ合うこと(話しかけるというライトな関係を含めて)を極端に忌避したといいますので、そういったこともあったかもしれません。
女性と目が合っただけで切腹した人もいたそうです。怖い。

余談ですが、幕末に坂本龍馬がお龍さんを連れて鹿児島に向かっています。
日本初の新婚旅行とも言われ、霧島の鉾を抜いたという有名な絵入りの龍馬の手紙も残っているので、ご存知の方も多いかと。
この坂本夫婦の行動、薩摩では物凄く驚かれたんではないですかね〜(笑)
多分ありうべからざる行動だったんではないですか。
しかしながら女性忌避とはいえ、やはり家の中(プライベート)と外(オフィシャル)では態度に差はあったと思うのですが。
まあ、私もあまり詳しいことは知らないので、間違っていたら突っ込みプリーズです。教えて下さい。
しかしながら今のテレビドラマなんかを見ていると非常に違和感を感じます…
話が進まないからというのは分かるんですが、当時の社会通念から考えるとちょっとやり過ぎじゃないかな〜…
本当にあったことだと信じる人がいるから怖いんだ。
0983いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:03:11.98
それはとにかく、薩摩であると尚武の風が特に強く、それだけに戦場を想定した集団の連帯感や結束が求められたというのも男色がさかんであったひとつではないですかね。
出水だったかと思いますが、稚児の中でも特別に美しい少年を「稚児様」とか「○○様(名前の様付け)」と呼び、薄化粧をさせて周囲の人間が日の掛からないように傘をさし、他郷の人間に攫われないように集団で護衛して歩いたという話も残っています。
ここには男色という一言で終わらない何かがあるような気がします。
上記した集団の結束というのも当たるでしょうし…
ここまで来ると、色恋よりももっと深いものがあるような感じで受け取れます。
しかしながら、つらつらと思うに勝海舟が「長州人は金に弱く、薩摩人は女にだらしない」という事を言っていますが、その辺りはどうなんでしょう。
矛盾を感じますが、郷中教育期間を脱してしまうと、そういった規範からは抜け出てしまうという事なのでしょうか。

地方では盛んであった男色も、幕末ごろには、江戸ではすっかり廃れていたわけですが、それがどういう訳か明治維新とともに復活します。
さて?
0984いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:03:30.85
稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」(ちごもうし)の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。

ただ、薩摩藩の郷中教育は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
0985いい気分さん
垢版 |
2021/02/21(日) 09:03:47.41
「賤のおだまき」というのは「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と
文武両道に秀でた吉田大蔵清家の男色の契りの物語だ。この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。
数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

関ヶ原の戦い前頃の物語で、薩摩に実在した無双の美童・平田三五郎と吉田大蔵清家が「義兄弟の契り」を結び、生死をともにする内容。平田三五郎は、庄内合戦(1599)の折、財部で十六歳の若さで戦死したことになっており、実際に曽於郡財部町(現在は市町村合併で曽於市となりまた)には、お墓が残っています。
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」では、学生の間でお稚児趣味があったのは普通であったことが、触れられているではないか。

薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、男色という肉体の絆(義兄弟の契り)で深く結び合っていたのだろう。
0986いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:04:18.00
「賤のおだまき」というのは「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と
文武両道に秀でた吉田大蔵清家の男同士の愛の契りの物語だ。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が
島津忠恒/後の家久に伏見で上意討ちにされたために幸侃の嫡男忠真は
都城を中心とする庄内12城に籠って反旗をひるがえした。いわゆる庄内の乱だ。

三五郎と清家は共に12城のひとつである大隅財部城を攻める軍勢に加わった。
出陣した2人は帖佐の辺りで辻堂の傍を通りかかった時、
「共に庄内一戦旅に赴く」と筆で書いて、共に千に1つも生きて帰らじと誓った。
財部で2人は一緒に戦っていたがある日、乱戦の中で離れ離れになってしまい、
その後、三五郎は2人をよく知る者から清家の討ち死にを知らされた。

清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙なくして
後れしこと無念なれ、今生の対面これ迄なり」と告げると、
馬にひらりと打ち乗って敵陣に駆け入って古井原で討ち死にした。
まさに、三五郎は清家との愛に殉じたのだった。

この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。
『本藩人物誌』」には三五郎を「時に15歳にて卯花威の鎧を着せると云々」
清家についても「慶長4年、庄内乱ノ時の財部戦死28歳」とそれぞれ記している。
また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には11月28日条に清家と三五郎の
名前が並んで出ていることから、2人は同じ日に亡くなったことが判る。
0987いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:04:33.68
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる。)。
0988いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:04:51.09
≪隼人域における関連する「祭のようす」を、先に挙げた鹿児島市におけるシンポジウムの基調報告の中で、小野重朗が『稚児神の習俗』と題して発表している(東アジアの古代文化別冊’77 83頁〜)。

 『美しい稚児(男の子)を神とする習俗が、薩摩・大隅の地に多く見ることができるので、』云々と話し始められて、「太鼓踊、オスワサーの頭殿、出水地方の稚児請し、駒取り、綱引き」等々に、女装させられた14才以下の男児が「稚児神」として登場していることを列挙される。
 例えば、『稚児請しのモウシというのは乞い受けるの意味で、ちょうど神の申し子という言葉のように、神に願って神から授かった稚児という意味になるのであろう』などと、正しく「子恋の森」や「恋島」、「求子舞」の「ホソ踊」から、述べてきた「虚空彦」や「八幡神」を誕生させた神学に基づくまつりが、小野の発表に見て取れるのである。
0989いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:05:21.06
ドラマ「篤姫」の中に登場する下級武士の集まりは、この「郷中」の集団だったと言えます。

郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法です。似たものに会津藩の「什」があります。
教育の内容は
•武士道の義を実践せよ
•心身を鍛錬せよ
•嘘を言うな
•負けるな
•弱いものいじめをするな
•質実剛健たれ
•たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
•金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる。
4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を
•小稚児(こちご、6-10歳)
•長稚児(おせちご、11-14歳)
•二才(にせ、15-25歳)
•長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだようです。
郷中の起源は島津義弘によるとされています。

また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。 薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名です。
明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。
現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっています。
なお、イギリスで郷中が研究され、ボーイスカウト制度のもとになったという俗説もあるが、そのような事実はない。会津藩の什や白虎隊がボーイスカウトの起源とする同様の俗説もあるが、これも誤りである。
0990いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:05:51.98
戦前の鹿児島では、この日が近づくと「健児の舎」(学舎)を中心に稚児(ちご)たちは大人の力を借りることなく、長稚児(おせちご)や二才(にせ)たちの指導の下に傘焼きの準備に立ち働く。
この間に若者たちは、社会生活のしきたりや事に当たるときの礼儀作法、集団生活や共同作業のルールなどを身をもって体験する。
そして「議を言うな」という不言実行の郷中教育の伝統精神が涵養(かんよう)されていくのである。
『曽我どんの傘焼き』行事で、今日まで受け継がれるものがここにある。今、郷中教育が見直されつつある所以であろう。
0991いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:06:09.81
薩摩には「郷中教育」と呼ばれる青少年の心身の鍛錬の為の教育組織がありました。
そこでは年長者が年少者に指導するかたちで、自顕流などの武術、「天吹」などの楽器の演奏、漢詩などが学ばれており、その郷中教育の流れは明治には「学舎(がくしゃ)」と名前を変え、存在しました。
今でいう小学校3年生ぐらいから高校2年生ぐらいの子どもたちで構成された学舎では土曜日は野球などのスポーツに汗を流し、いったん家へ帰った後また夜集まって議論などを行い、日曜の朝には自顕流の稽古が行われていたそうですが、その「学舎」も昭和50年代ごろには姿を消してしまいました。
0992いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:06:27.93
かつて鹿児島には、『郷中教育』という薩摩藩の独特の教育システムがあった。鹿児島城下をいくつか
の地区に分け、各地域を郷中と呼んだ。郷中教育は、同一地域内に住む武家の青少年たちが、異年
齢集団の中でお互いに切磋琢磨して共に育つことを目的とした自治の教育制度であり、各郷中は
「長老(おせんし・24、5 歳以上)」「二才(にせ・14、5 歳以上)」「稚児(ちご・それ以下の少年)」によって
構成され、主として先輩が後輩を指導するという形で教育がなされた。早朝から学習や心身の鍛錬、
二才以上には夜の学習討論などの日課が課され、鹿児島の年中行事にも郷中ごとに参加した。郷中
においては長幼の序は極めて厳格であるが、郷中の構成員の間柄は兄弟のように非常に親密なもの
であった。郷中制度は明治維新によって崩壊したが、その伝統は「学舎」として明治以降に継承され
た。
0993いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:06:47.45
賤のおだまきは、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)吉田大蔵との
男色関係の話です。13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

念者・三五郎と念友・大蔵の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」

美童・三五郎の危難を救った大蔵は、三五郎を「稚児」にすることができたのだ。大蔵は寝所で美童の薫りする三五郎を硬く抱きしめ、三五郎が刀に手をかけてまで守ろうとした、
帯に手をかけるのです。三五郎もすべてを委ねます。そして下帯も解かれ、愛撫に身を委ね一つになるのです。
これを義兄弟の契りといいます。

そして恋い焦がれた吉田大蔵が平田三五郎宅を訪ねたとき、三五郎は天吹という笛を吹いていた。
そして喜んで吉田大蔵を家に迎える。

天吹は「テンプク」又は「テンプッ」と呼ばれ,ホテイチク(コサン竹)を利用して作る三節で表4孔,裏1孔,長さ30cmほどの縦笛です。形は尺八に似ていますが,音は尺八より高く,小鳥がさえずるような可憐な音色です。天吹の起源は不明ですが,島津忠良(1492〜1568年)の時代に存在していたことが史書の記述にあり,現在では鹿児島にだけ伝承されています。
 江戸時代には,郷中教育の一環として,薩摩琵琶とともに武士の間で伝承され吹奏されていました。明治時代になっても鹿児島市内の学舎で伝授され,学舎に通う生徒の間で伝承されていました。
 しかし明治30年代に楽器は勉学の妨げになるとして,琵琶・天吹が禁止されると,当時楽譜のない口述による伝承であった天吹は急速に衰退していきました。
0994いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:07:04.41
戦国時代から江戸時代にかけては尺八(間に二節)の他、尺八より一回り小型の「一節切」(ひとよぎり・間に一節)と「天吹」(てんぷく)というのがあった。
「一節切」(ひとよぎり)は「男色」(美童愛)に於いて今でいう「フェラ」の意味でも使われた。
少年のまだ一周りり小さいものを吹く、つまり少年も身を捧げ、口にしてしゃぶったり愛撫するのです。
まだ一まわり小さい少年・稚児のものが、まだ出ない少年のものがただ膨らんで勃ちあがる、そして口の中で竹の笛のようにせいいっぱい膨らんだ姿
0995いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:07:20.54
念者・三五郎と念友・大蔵の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」

美童・三五郎の危難を救った大蔵は、三五郎を「稚児」にすることができたのだ。大蔵は寝所で美童の薫りする三五郎を硬く抱きしめ、三五郎が刀に手をかけてまで守ろうとした、
帯に手をかけるのです。

藩の荒くれ男三人から強姦・輪姦の恥辱を受けようとしていた美童・三五郎の危難を救った吉田大蔵は、三五郎を「稚児」にすることができたのだ。大蔵は、13歳の藩一の美堂三五郎が「ぜひに」と家へ来てとすがるのを振り切って馬で返ってしまう。
その後二人は昼も夜も相手の事思って恋い焦がれるのです。

大蔵も10歳年上の若い侍、性欲も旺盛のはず。その場で三五郎の願いを聴いて
すぐ一緒に三五郎の自宅に云ってっていれば、すぐにでも契りを許してもらでしょうが、
美堂三五郎を抱きしめ体を一つにできたはず、大蔵はそれをしなかったのだ。
0996いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:07:34.79
そして二人とももう耐えられないほど相手のことを恋い焦がれるのだ。
それが良かったのだ。
しかも、義兄弟の契りを結ぶのは、人も寝静まる深夜。

大蔵は、目の前にいる美童似ても出さずずっと人も寝静まる深夜まで、三五の笛を聴いたり
談笑したりしてすごす。
人も寝静まる深夜、軒の玉 水音繁く 色こそ見えね春の雨、春雨の雨音だけの
寝所に美童・三五郎を迎え入れるのです。

大蔵はようやく寝所で美童の薫りする三五郎を深くい抱きしめ、三五郎が刀に手をかけてまで守ろうとした、
帯に手をかけるのです。

そして三五郎もすべてを委ねます。
そして下帯の結び目に手がかかっても抵抗せず委ね解かれ、積もり積もった欲情もはげしいはずです。
三五郎は時にやさしく時に激しい愛撫に身を委ね一つになるのです。

こうした話を薩摩の塾などでは元旦にはいつも回し読みするのが通例だったと「イタセクスアリス》にあるが、鹿児島の塾とは
明治以降にもあったという「郷中」の塾である「学舎」などでしょう。
実態として、「男色」に依って10代から20代までの女を排斥する事を誓う異年齢の男だけの若者が集まる組織で、こんなことがおこなわれていたのでしょう。
0997いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:07:53.45
白洲正子はその著書「両性具有の美」で、男色が盛んなことで知られていた薩摩藩の「郷中」と呼ばれる若衆宿で、二才(にせ)と呼ばれる年長の少年グループと稚児と呼ばれる年少のグループが男色関係で結ばれていたのは周知の事実でありながら、

意外に男色に関する文献が残っていないのは、それがあまりに日常の生活に密着したものであったとともに、一種の秘密結社を形成していたためかも知れないと書いています。
0998いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:08:31.26
始めまして青木です。もう迷う必要はありません。飛び込んできてくれませんかいつ会いますか。宜しくお願い申し上げます、愛しています。純粋に出会いたいです。連絡下さい。Hしてセックスが出来るの好きです?もう今からしたいよ〜〜よろしければ恋人とし    てのお付き合い考えて戴けませんか。突然のお手紙申し訳御座いません。青木と交際お願い申し挙げます。
0999いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:09:07.34
薩摩藩が多くの非道を行ったことを
鹿児島県人は隠したいのだろう。
数々の奇習もある、またはあったが
犬食とホモ行為は裏で存在するらしい。
衆道も、郷中教育も、示現流も島津支配を維持強化するための仕掛けだ。
自由奔放な欲求を抑え込み、既得権益者のために犠牲になることが正しい道と思い込ませる洗脳プログラム。

郷中制
肛門の結束!
肛門性交は薩摩では
ごく当たり前の行為であった。

【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。

【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。

【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。
1000いい気分さん
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2021/02/21(日) 09:09:30.95
【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
当初、選挙権・被選挙権共に地租の所有量により与えられた為
薩摩では議員も殆どが士族であり薩摩は太平洋戦争後まで封建制度が継続する事になった。
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