■クソ店員が「ありがとうございました」言うかちゃんと確認しよう!
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コンビニの客のみんな!
クソ店員は憂さ晴らしまぎれに「ありがとうございました」という礼を言わない事が多々あるよ!
こいつらは「礼なんか言いたくない」という、コンビニ店員のくせに
腐ったプライドを守ろうとして「少しでも頭を下げたくない」と思ってる
接客業を自ら選んで働いてるくせに、最低限の礼儀も守ろうとしないゴミ野郎だ!
その証拠にこの板でも「何、ありがとうございましたを確認しようとしてさっさと帰らなんだよ、帰れよ」っていう
レスが多々ある!
それじゃ確認して睨みつけてやろうぜ!
このゴミ店員に意地でも頭下げさせるようによ!
そんな性格の捻じ曲がったクソ店員、男女限らずに、
「ありがとうございました」をちゃんと言ってるか
商品、釣りを受け取ったあと、その店員の顔をじっと見て
口が開いて言ってるか、確認しよう!
言わなかったらどうするか?「おい、礼を言えよ」って言って
ビビらせよう!
その後、店長にチクるのも忘れずに!その場で呼び出してもokだ!
本部にチクるのも有効的!
みんなで礼儀知らずのクソコンビニ店員はクビに追い込もう! コンビニの客のみんな!
クソ店員は憂さ晴らしまぎれに「ありがとうございました」という礼を言わない事が多々あるよ!
こいつらは「礼なんか言いたくない」という、コンビニ店員のくせに
腐ったプライドを守ろうとして「少しでも頭を下げたくない」と思ってる
接客業を自ら選んで働いてるくせに、最低限の礼儀も守ろうとしないゴミ野郎だ!
その証拠にこの板でも「何、ありがとうございましたを確認しようとしてさっさと帰らなんだよ、帰れよ」っていう
レスが多々ある!
それじゃ確認して睨みつけてやろうぜ!
このゴミ店員に意地でも頭下げさせるようによ!
そんな性格の捻じ曲がったクソ店員、男女限らずに、
「ありがとうございました」をちゃんと言ってるか
商品、釣りを受け取ったあと、その店員の顔をじっと見て
口が開いて言ってるか、確認しよう!
言わなかったらどうするか?「おい、礼を言えよ」って言って
ビビらせよう!
その後、店長にチクるのも忘れずに!その場で呼び出してもokだ!
本部にチクるのも有効的!
みんなで礼儀知らずのクソコンビニ店員はクビに追い込もう! 令和元年5月7日にコンビニ強盗が何件起きるか予想しよう!!
的中したら被害総額相当の脳内エアマネーをプレゼント!!!! いちいち「ありがとうございました」を確認して帰るゴミ客
ひっでー顔してるぜ?鏡見た方がいいよ
ウンコみたいな顔して
もっと爽やかに行こうぜ、爽やかに
ピッタリの金額払ったら軽く「どうも」つって颯爽と帰れよ
そういう人の方が絶対いいよ レシート出てくるまで待ってんじゃねーよ
さっさと帰れよ
どうせ必要ないくせに
いちいち「ありがとうございました」確認してんなよ
サッと帰れよ、サッと
爽やかによ、颯爽とよ
そうすればこっちもありがとうございました言うよ 朝日新聞社の不当労働行為認定 都労働委「不誠実な団交
東京都労働委員会は10日、労働組合が便宜供与を求めたことに対し、朝日新聞社が合理的な理由もなく拒否したのは「不誠実な団体交渉に当たる」として、
不当労働行為に認定し、救済命令を出した。
都労働委によると、管理職で構成される合同労組「東京管理職ユニオン」が昨年2月、朝日新聞社が管理する施設設備の貸与、会議室の利用などを求める
団体交渉を求めた。同社が拒否したため労組は同3月、労働委に救済申し立てを行った。
都労働委は「持ち帰って検討することすら拒否し、拒否する具体的事情を何ら説明していない」と指摘した上で、「誠実に対応すること」とした命令書を交付した。
朝日新聞社広報部は「命令書の内容を精査し、今後の対応を検討する」とコメントした。
http://www.sankei.com/affairs/news/190610/afr1906100017-n1.html ハゲで無愛想なオッサンがスイーツとか買ってくとイライラする
なんなんだよ、ハゲでオッサンで無愛想でスイーツって
せめて愛想くらい良くしろよ、くそが そんなに嫌なら来んなよ、鬱陶しい
馬鹿じゃねーの、無愛想な客って ポイント欲しいなら、「ポイントお願いします」くらい言えボケ
無言のまま、しれ〜っとスマホ置くなアホ
こっちはレジやってんだ、気づかねーだろ
「ポイントお願いします」くらい言えねーのかよ
小学生でも言うぞ
「あれ?ポイントは?」じゃねーよゴミ
主張はせず、文句だけは言うゴミ
ポイント欲しいのは誰だよ?お前らだろバカ
しねゴミ >>2
だったら 店員がちゃんと「ありがとうございました」言ったら謝れよ?
疑ってすいませんでした、睨んですいませんでした って謝れよ?
それが出来ないんだったらさっさと帰れバカ いちいち ありがとうございました 確認してんじゃねーよ、クッソうぜえ
ウンコみたいな顔しやがって、鏡見てみろ ゴミども
「疑ってすいません、睨んですいません」て言え ゴミボケ 「対韓国輸出管理を支持しますか?」
テレビ東京が新橋で4時間くらいかけて質問した結果…「支持しない」人は一人も現れずw
「支持しない」人が現れるまで続けてみてもダメでしたw
http://anonymous-post.mobi/archives/11900 チョコレート1個買ってって、わざわざ袋に入れさせて、挙げ句ありがとうございましたを確認して帰るゴミ客
頼むからしんでくれ 「ありがとうございました」を確認するために、いちいちレシート受けとる馬鹿
しんでしまえ
どうせ捨てて帰るくせに、サッと帰れ クソ鬱陶しい 文句ある客は利用しなきゃいいんだよ
コンビニなきゃ生きていけないのか?
だったら文句言わず、利用させてもらってありがとうございます
だろ馬鹿 >>1
客こそ言えよ
「ありがとう」はお客さん側のセリフでもあるよ?
いい加減分かってよ、そこら辺 なに食わぬ顔して「ありがとうございました」を確認してる客、ホント酷い顔してるよ?分かってる?
クソみたいな顔
不愉快極まりないよ
疑うのは構わないけどさ、間違ってたら謝ろうよ?店員の立場にもなってみろよ
毎日毎日 何十人、何百人そんなクソみたいな顔した人間の相手する店員
店員が「ありがとうございました」を言うのが当たり前なら、客は「疑ってすいませんでした」って言うのも当たり前だよ?
そもそも、「ありがとう」は客のセリフでもあるよ? 分かろうよ いい加減 コンビニ店員という底辺
俺もかつてバイトしてたから底辺っぷりがわかる 「ありがとうございました」を確認するために、なに食わぬ顔して レシートが出るのを待ってるバカ客
どうせ捨てるくせに、、、さっさと帰れバカ
余計なゴミ増やすなクズ たかだかタバコ1個でいちいち「ありがとうございました」確認してんじゃねーよクズ
サッと買い物してサッと帰れ、馬鹿みたいな顔しやがって
颯爽とよ、颯爽と >>1よ 気持ちはわかるぞ。
ただ、底辺小売りは社会的地位が最下位。
人生負け組を虐めるのは ちょっと良くないぞ?
底辺小売りと馬鹿にしても世の中に必要な職業。
誰かしらが やってくれなきゃ世の中が困るんだよ。
その役目を阿呆がやってくれてんだから、阿呆に感謝する事は無いが
馬鹿にするのだけは止めようや
ドカタ以外なんだぞ?底辺小売りは 何が悲しくて小売りなんかするんかな?
年休100ないだろ?それなのに月給手取り25ぐらいだろ?
馬鹿としか言い様がないわ(笑) ↑
いつもご苦労さん(笑)
底辺小売を誰かしら やってくれないと社会が困るからな
ありがとう!その役担当してくれて(笑)
休まず低収入で頑張ってくれ! 別に ありがとうございました は要らないよ
底辺にそこまで求めないわ
もちろん、客に対してありがとうございました って言うのは当たり前で普通の事。
でも できないだろ。普通の事を底辺負け組どもは。
ありがとうございました は要らないから年末年始仕事休むなよ?
10連休中に買いに行ってやるからよ そう、それでいいんだよ
ありがとうなんか要らない
黙って金だけ置いてさっさと帰ればいいのよ
もちろん、店員に対してありがとうございましたって言うのは当たり前で普通の事。
でも出来る人はほとんどいない、だからさっさと帰れ馬鹿 >>1
マジレスすると
挨拶なんかどうでもいい。
「レシートでございます」が重要!
レシートを受け取らなかったら
「ありがとうございました」でなく
「万一、不良品などがございましたらレシートが無いと返金・交換が難しくなります」という。 >>1
「ありがとう」って言って欲しかったら、「ゴメンください」「すいません」「コレお願いします」
くらい言おうな、クソお客様 >>1
そういうの確認してる客の方こそ、クソみたいな顔してんだぜ? 店員は呆れてるよ
いっぺん鏡 見た方がいいよ 底辺小売りは元旦1日休むか休まないかで大騒ぎ(笑)
社会的地位中位は普通に9連休はあるのに(笑)
休み無しで働け 底辺小売りは コンビニだろ最低時給の店員に何を求めるかってはなしよ イートイン利用するなら、「袋は結構です」くらい言えよ ゴミ客ども 自分の都合、勝手、タイミングで フラフラ入って来ておいて
挨拶がなかっだの、聞こえなかっただの、なに考えてんだ?
お前ら「ゴメンください」「失礼します」「お邪魔します」言ったか?
「店員さん、すいません」「これください」「これお願いします」言ったか?
少しは自分の言動、省みろ バカタレが てめーの家じゃねーだろ >>1
いちいち「ありがとうございました」確認してる汚客の顔、ほんと酷いよ
なに食わぬ顔して、下向いたまま、キッチリ「ありがとうございました」確認したやんの
ほんと酷い顔してるから、やめた方がいいよ そういうの
サッと帰った方がいいよ絶対、颯爽と 自分のためにも 会計終わったらサッと帰れ、サッとよ
颯爽とよ颯爽と
そうすりゃ店員も「ありがとうございました!」言うよ
とにかく颯爽としてない奴は何やっても駄目だよ 早くコンビニ無人化なんねぇかな
ウザい店員見たくない ◇◆◇ 創価学会の「不都合な真実」◇◆◇
十数年ほど前、創価学会は外資系のコンサルティング会社・アクセンチュアと契約して、
今後の布教活動の方針等について助言を求めた(高橋篤史著『創価学会秘史』による)。
それに対するアクセンチュアの提案は、「三代の会長」即ち、初代・牧口常三郎、第二
代・戸田城聖、第三代・池田大作への個人崇拝を教義の中核とし、創価学会にとって不
都合な過去を「無かったこと」にすることで、教団の正統性を訴えるというものだった。
創価学会が無かったことにしたい過去とは、牧口常三郎が戦争に賛成し、特高警察とも
協力していたこと、戸田城聖の詐欺まがいのビジネス、池田大作が高利貸しだったこと
や女性スキャンダル、「護符」と称するマジナイを大々的に行っていたことなどである。
こうした過去を封印するため、創価学会は「精神の正史」と位置づけている『人間革命』
を改訂したり、戦時中に発行していた機関誌を『牧口常三郎全集』から削除したりした。
不都合な真実を隠すことで正統性を偽装する宗教が「正しい信仰」と呼べるのだろうか? >>1
「ありがとうございました」は客のセリフだボケ >>73
俺はまだボケてないが
お礼を言わないクソ店員には超大声で「ありがとうございましたーーーーーー!!!」って言うようにしてる
店長や他の客も一斉にこっちを見る
今日一日いい気分だわ♪ >>1
人生負け組をからかうなよ…
可哀想だろ…
職歴にもならない奴隷職を年収200以下で「しざるをえない」無能を
必要以上にからかう事はない。
無人レジ化するまでは誰かしらがやってくれないと困るんだから…
努力不足の自業自得な底辺だけど上記の如く犠牲が必要なんだから 今日もどこか書いたら訴えられるかもしれんから
かかないけどw
墨田区の某コンビニのいい歳こいて髪金髪のやつが
いちいち はい? はい? とか聞き返してきて
キモかったでぇ コンビニ店員って耳聞こえないんか?w
底辺きめえ〜w そんなんだからそんな人生なるんやでw >>85
底辺の意地なんだろうな
まったく意味のない意地(笑)
そんな意地あるなら就活に使えよ阿呆どもが
そんなんだから底辺から這い上がれないんだよ
努力不足の人生で出た結果の惨めさ哀れさを客にぶつけるなよな >>64 >>65-66
ほんこれ、ホントこれ
ホンコレすぎる
特に >>66、大事だよねえ かっぱ橋交番近くの100均ローソンの深夜にいるクソ女攻めそんな態度ならやめちまえバカヤロー
Yさんはいい人だけどよてめえはなんだこのやろーど無愛想で
いくら安くたって限度ってもんがあんだろてめえ 死ね馬鹿野郎 それに比べて都営浅草駅前のファミマのちょっと関西訛りの入った店員さんのありがとうございますの良いこともあれを聞きたくて海に来たくなるよ馬鹿野郎 いちいち「ありがとうございました」確認してる時の客の顔 …… ひでーツラしてんだ これがまた
なに食わーぬ顔してな … 人間の本性がよーく現れてる
鏡見てみろ
ありがとうは客のセリフだぞ
たかだかタバコ一個、飲み物一本でよ、、、、自販機で買えよ自販機で
ゴキブリかお前らは
>>1
お前らは 「ごめんください」 「お邪魔します」 「失礼します」 「すいません、これ下さいます」 「すいません、これお願いします」 言ってんの?
大きな声でハキハキと、爽やかに、ゆっくりと、落ち着いて、笑顔で
言ってんの?
自分等は言わねーくせに店員にだけ求めんなよ
文句あるなら利用すんなよ
利用しないで生きていけよ
どうせ無理なんだから >>103は さすがだよ
底辺なだけあるわ(笑)
底辺思考バリバリだな(笑)
こいつは一生底辺確定!
!(笑) 会計終わったらさっさと帰れアホ
レジにとどまる時間とクズ度は見事に比例する shdjhhsagfdhgnzbgfhnfhdfnc 何食わぬ顔して店員の「ありがとうございました」を確認してるゴミ客の顔wwwひっでー顔してるwww
クソみたいな本性がよーく現れてるwwwたまには鏡見た方がいいぞ 身なりの汚いくそじじいには礼を言わなくていいよ
あいつらは身勝手だから。 このスレ、ありがとう言ってもらえるように気を付けようとするやつが皆無で草
言ってもらえないやつは「お前にそれだけの価値がない」ってことだよ気付け >>141
反社会的な存在である893に対してはヘコヘコ頭下げて丁寧な接客するのは何故?
お前は「893にはそれだけの価値がある」と思ってんの??? そら893として生きてるんなら、それなりのリスペクトはある
ちゃんと893として生きているんなら
だったらお前も893になれよ、893として生きてみろよ
生きれるもんならよ
中途半端にカタギのフリして生きてないでよ
まあ本物の893はコンビニでそんな真似しないけどな
コンビニでエラそーにしてる奴なんて、コンビニ店員を見下してる奴なんて
コンビニがなきゃ生きて行けないチンピラか、チンピラ以下のゴミ虫
カタギのフリして生きているだけ >>1
そんなん気にするな
気になるならコンビニなんか利用すんな
客は客で、入店する時「ごめんください」「お邪魔します」「すいません、失礼します」言ってるか?
レジ行く時「すいません、これください」「すいません、これお願いします」「レジお願いします」「ありがとうございます」言ってるか?
言ってねーだろ?
そういう事だ 今日は節分?
最近 アホー巻の宣伝テレビでやらないので知らんかった
イオンに買いにいこ 場所にもよるんだろうけど、そういう店員って1週間くらいで居なくなるよな。
クビなのか辞めたのかはわからないけど。
在宅だから、最近はスーパーで買う事が多いしコンビニも沢山あるから気に入らない店員の居るところは行かなければいい。
目くじら立てる事もあるまいよ。 森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、薩摩の寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物です。「男色」とは美童愛のこと。 「小姓」といって映画で殿様の側で刀をささげ持つ前髪の少年、今では薹のたった男だったり、ひどいのは女がやっていたり、たいてい前髪でも無いが、昭和40年代位 までのテレビでは、12、3のそれはほれぼれするくらい美しく凛々しい中学1年か小学6年生位 の少年(「美童」という)の前髪姿だった。これも「男色」といって少年性愛の形で少なくとも肛門性交は欠かせない。このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は小姓組みを組織し沢山の美童を抱ていた。美童は最大の賄賂のようなものだったようだ。役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。 男の子のからだを捧げるまさしく花嫁みたいなもの。 3代家光、5代綱吉などは特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の小姓、数え13歳でお座直しとなる。この時、家光17歳。丁度、旧制中学1年生と5年生の年頃。5代将軍にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、一節切りもどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして契りあう。 柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋] 三樹書房1982
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
樋口清之「史実 江戸」 芳賀書店 1967
稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
[五代将軍」など南條範男はこうした男色小説を沢山書いているので見られたい。明治時代森鴎外の小説「イタセクスアリス」に、鹿児島の熟などでは、平田三五郎という「少年」のことを書いた写 本をまわし読みする事が、元旦の習わしになっているという、男色という。 平田三五郎という13歳の美童のことを書いた「賎(しず)のおだまき」という本で、 明治20年精文社版、大正5年文教社版がある。(「賎(しず)のだまき考」1998) 平田三五郎のことは、山田美妙の新体詩「少年姿」でも取り上げられている。
慶長時代、信長の時代の薩摩の島津家。襲われる藩一の美童の危難を救って、互いに恋焦がれたが望みかなって義兄弟の契を結び、島津の戦乱で互いに討死にする話。13歳の美童が御供の2人と野原に小鳥を採りにに行ったのを藩の、大の男二人懸かりで襲い、無理無体に着物をぬ がせようとする。三五郎は脇差し抜かんともだゆるを、と抵抗しようとするがそこは13歳の悲しさ。美童の両手を握りて少しも動かさず。か弱い手を押さえつけられてしまう。前髪の元桔が解け逆らうたびに着物のすそが開き白い雪の肌、腿が露になる。男は溜まらず、いよいよ帯びに手をかける。春の夕暮れ、遠くで鳴る鐘の音が少年の哀れいやます。
「 三五郎は脇差し抜かんともだゆるを、小浜は両手を握りて少しも動かさず。三五郎は無念至極に思いつつ心の中は燃ゆる火の、火水になれともみ合ういに、この勢いに三五郎が髪の元桔ふっと切れ、梅の匂いの乱れ髪、乱れて薫る春風に、ふかれて衣装の褄返る・・・雪を欺くその肌に、小浜今は堪えかね、花のようなる三五郎をば、その場にがばとねじ倒し、たちまち本意に達せんと・・・・夕日も西に入相の、無常を告ぐる山寺の鐘の音に添えて哀れいやます春の暮れ、往来の人もあらばえに・・哀れ今の三五郎が少年の身の悲しさは・・・・詮方無くも涙ぐむ。心のなかぞ無念なる。」 ねじ倒された三五郎はもう詮方なく、いよいよこれから裸に剥かれ耐え難い辱めを受ける、少年はどうする事も出来ず辱めを想い無念に涙ぐむ・・・そこえ強姦されそうになった美童の危難を危ういところで馬にうち乗った10歳年上の大蔵という若者に助けられる。お名前をとすがる美童を振り切り、その場を去るが、二人とも恋焦がれどうしようもなくなる、若者はその美童と契を結べたら死んでも良いと、少年も同じ。恋焦がれた末、若者は、どうしてもとその後三五郎宅へ出向く、少年は「あらめずらしや」と歓待する。三五郎は笛を聞かせる。そして深夜人が寝静まったころ三五郎宅で契りを結ぶという話。「ただその時の大蔵が心の中の嬉しさは何にたとえん」という。契りとは女と同じ、肉体結合。男の場合肛門。 念者と念友の義兄弟の契を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」 「一節切(ひとよぎり)」というのを、知ってますか、尺八が間に2節の竹製の楽器にたいし、一節切というのは、あまり聞かないが、間に1節つまり尺八の長さ3分の2の、尺八より一回り小さい笛で、昔はよくあったようです。現在尺八といえばフェラチオのことですが、「一節切」というのは、男色で美童のモノを吹くこと。つまり一回り小さい美童のモノが、それでも、残酷にも、口の中で恥ずかしいだろうに、精いっぱい膨らみ竹のように固く立ち上がっている様です。「柳腰」とは、現在、女の細い腰の意味に使われているが、あれは、元々男色で、「細くて、しなやかで、ピチピチした、12、3ー4の少年の腰(尻)つき」を愛でた言葉。男色にも女色と同じ屈曲位 など37かの体位があったそうです。閨房で、帯を解かれ素っ裸に剥かれた、肛門性交するためワンワンスタイルで組み敷かれた美童の突き出したお尻を、「五代将軍」を読みながら、想い描いてみてください。その細くて、すべすべして、しなやかな尻つき、それを柳腰というのです。美童は手で前を愛撫され固くさせられながら、後ろに入れられます。これを契りといいます。器官は違うがもう女と同じです、契る美童は生娘(処女)ならぬ 生童でなければならないのです。そのために三五郎は刀を抜いて抵抗しようとしたのに、その手を押さえつけられ、いよいよ強姦されそうになり、涙ぐむのです。 大蔵は、10歳下の美童の盛りの少年が今にも強姦の危難を救った。すがりつく三五郎を振り切ってその場を去りました。三五郎が強姦されるのを、手助けすることも、見物する事も出来たはずです。男が去った後、すがり付く三五郎をひしと抱き抱え帯に手をかける事も出来たでしょう。しかしそうしなかった。そのため互いに頂点まで恋焦がれた。彼は三五郎の家に行って迎えられ、そこで夢にまで描いた義兄弟の契を結んだのです。それは10歳年下の少女を初夜の儀式をとりおこなうというかそれ以上の意味があります。
23歳の大蔵は13歳の三五郎が二人の男の乱暴から脇差し抜いて守ろうとした帯をやさしく解くのです。三五郎も、大蔵さんならと、許すのです。想いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌とは、帯を解くの解くと、雪が解けるの解くをかけたもので、帯を解き雪の肌、・・雪の腿、雪の下腹、お尻・・が現れる様を見事に表現しているのでしょう。それは今や少年花嫁のように、大蔵の専用となって愛撫を待っているのです。 春の雨の雨音だけの、寝静まった寝所で梅の馨のする美童・三五郎をひしと抱き寄せ、誰も触れられなかった処も想う存分愛撫し、三五郎も愛撫を受けいれ、愛撫にもだえたことでしょう。一節切もしてもらい 、大蔵の口をいっぱいにしたことだろう、そして契りといって肛門で結びあったのです。実は、稲垣足穂の「少年愛の美学」によると、こういう事は、明治時代に入っても、旧制中学特に、男色の盛んな薩摩などでは、「少年狩り」、「稚児狩り」などがあって、少年が男色の強姦・輪姦をされたりしたという。小学校の美童が中学に進学すると、だれだれは何処の中学に進学したとか伝わり、待ち伏せしたりして犯したりしたという。中学校でも稚児狩りがあり、美童は狙われたという、狙われしょつちゅう強姦されるのがいいか、それとも特定の上級生の「お稚児さん」となって保護されるしかなかったという。勿論「稚児」になるということは、特定の上級生と肉体の契をし、いつもそれをするかわりに他のものから保護されることを意味した。つまり俺の稚児に手を出すなということ。 解剖の小説でも、一つの形です。1年とか2年の美童が解剖されてしまう。そして部長に助けられる。でも解剖はもう終わってしまって、精液を吹き出してしまった後。生えかけたばかりの陰毛をぬ らし初めての精通。部長がはいってきて手足の紐をほどいてくれる。大好きで片思いの先輩にそんな姿をみられてしまい恥ずかしいが、先輩は慰めるようにやさしく手足の紐を解いてくれ、精液のたれた性器を拭ってパンツをはかしてくれる。1年生の少年はそのどうにもならない気持ちを部長を言うため、誰もいない放課後の部室を訪ねる。部長は、こんなことはよくあることで、君が美少年だからほっておかずされたんだよ、実は僕も1年生のときされたということ、君が美少年で何処の部にはいるか皆で賭けををしていたこと。自分の部に入ってくれて大変うれしかったこと、他の部の人から、「おまえいいなうまくやってるんだろう」。といわれ羨ましがられていたこと、僕も本当は君が好きで、こんなことになるんだったら、もっとはやく手をつけておけばよかったとおもうということ、片思いの先輩にそう告白され、思わず先輩の胸に飛び込み、そして泣きじゃくる。先輩は泣きじゃくる彼を固く抱きしめてあげる。そしてしばらくそうしてから、「いいね」の一言に、1年生がウンとうなずき、先輩の手がズボンのバンドに伸びる、そしてパンツも。解剖のときは散々抵抗したのに、「先輩だったら」とパンツに手が懸かっても、ビクとしただけで受け入れ、愛撫の指にもだえる・・、解剖の時と違ってやさしい先輩の愛撫の指の中で膨らんでいく・・。そして互いに相手のに手を添え相互自慰で互いに指の中に持ち・・・互いの手の中に射精。 契りは陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮で70年の伝統として行われていたという。その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうです。寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつ、1年生を愛でるのは3年の特権、3年生は1年生を稚児とし、契を結ぶ権利を持つ、2年生は2年生同志結び合う、幼年学校では自慰は禁止、精液の付いたパンツを洗っていたりすると咎められるという。自慰をしないと夢精してしまいパンツを汚すのだが、そこはよく出来たもので、上級生に捧げて処理してもらうのはいい。1年生は3年生の愛撫にでそうになリ、シーツを汚したら大変とってこまっていると3年生が、俺の口に出せと口に入れられ、一節切で初めてのものを飲み込まれる。このようにして誰とでも出来ない形で肛門で結び会い、互いに相手の体から愛撫の結果 絶調で出た精液を自分の身体の中に採り容れ、戦場での結束を深めるのは信長の時代と同じ。 秀才だった鴎外は飛び試験で、13歳で大学予備門に入学、他にも何人かいた。20前後のヒゲモジャの中に美童三五郎と同じ13歳の「少年」が何人か、寮では、客が来ると、少年を捕まえて献上したりしたという。13歳の鴎外も何回も襲われそうになり懐に短刀を忍ばせる。13歳がねらわれるのは、今も同じで、少年の場合一番性被害に遭う年頃は13才とのこと。東京オリンピック当時、少年ばかりを狙う少年通 り魔事件があった。新聞にはあちこちでの類似事件を敏感に報道して関連を調べていたころだ。映画帰りの中学1年生がナイフを突きつけられ道端の草むらに引き摺り込まれていたずらされた。夜帰宅途中の中学生がいたずらされたなどとある中に、未遂もあり、未遂の場合、手口を詳しく報道している、これらは別 の犯人らしいが、小金井では中学1年13歳の少年が、近くの雑貨店で買い物をして返る途中、30位 の男に呼び止められ、この辺に誰誰の家はあるかと聞かれ、知らないと答えると、ナイフを突きつけられ近くの玉 川上水の堤の上に連れていかれた。そこで男は、バンドをはずそうとした利するので抵抗すると、ナイフ出切りつけられ、上水に落とされた、流れは急だったが泳いで這い上がり近所の人に助けられたという。バンドをはずとはどういうことかわかる。 13歳の少年はナイフを突きつけられても、そんなこといやと必死で抵抗した事だろう。幸いこの少年は手に怪我をしたが未遂に終わった。しかし映画帰りの少年も、必死で抵抗したはず、でもさみしい深夜の街灯も暗い道端で、叫べども誰も助けにくるものもなく、深い雑草の生えた広大な草むらに連れ込まれ、嫌がるのを無理矢理バンドをはずされたりして、いいようにされたのだろうか。
電車の中の痴漢には、少年を専門に狙う痴漢もいるという。そういうわけで、バンコクだかの少年市場のこともうなずける。 薩摩には鎌倉、室町から続く武士道的男色が残っていた。藩士となる若者達は地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。稚児を指導するのが二才の立場であり、稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性についてはもってのほかで、「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けるべき」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのは、ごく当然の成り行きと言えるだろう。幕末の英雄である西郷隆盛も、とある僧と関係を持っていたらしい。「九州男児」といえば男らしい事の代名詞だが、確かに当時の薩摩は男らしかった。
この薩摩に負けず男色が一般的だった、といわれるのが土佐である。武士の少年であれば、男色の契りの意味を知らぬ者はいなかったという。もし男色を拒む少年がいたとすると、年上の者が徒党を組んで家に押しかけ、少年を捕まえて強引に犯した。隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬふりをした。恐ろしい話である。 明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、一部で男色ブームが吹き荒れる。それは学校。特に全寮制の男子校で盛んであったようだ。大人気となったのが『三五郎物語(しずのおだまき)』という本。薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルであった。異性の事で頭がいっぱいの生徒は軟派、少年愛を好む生徒は硬派。入学してきた美少年は、硬派に体を狙われる運命にあった。その影響は学校の外にも現れ、街で容姿の良い少年が姿を消すと、真っ先に疑われたのが「男色好きの書生による誘惑拉致」であったという。そういった事を体験したり見聞した事は森鴎外『ヰタ・セクスアリス』をはじめ、徳富蘆花『蘆花日記』、川端康成の記録に見られる。また里見紝は「少年時代、志賀直哉に惚れていた」と後に述懐している。 なお、「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。
ほかにもたくさんあったでしょう。 この時代の「男色」を描いた「五代将軍」の南條範夫によると、五代将軍吉宗は、何十人も抱えていた12,3〜4の小姓たちのために専用の御殿・桐御殿というのを
造ってそこに集めて夜の勤め・「夜伽」の待機をさせた。
「桐御殿」にはいることを「お座直し」といった。「小姓」が「夜伽」の命をおし使って「寵童」となる、つまり殿様の「閨房」に侍し肉体を捧げること、寵童となることを
「お座直し」というようになった。 平田三五郎の墓(財部町史跡28)
鹿児島県曽於郡財部町古井(曽於市財部)にある。
(古井(こい)は、JR日豊本線北俣駅より「中間トンネル」を抜けて大峰川を越えて「馬立」バス停、南郵便局に行く途中の十字路あたり。
ただし交通は観光課に確認のこと。)
実在の人物で、それぞれ子孫が墓参りしているという。
財部郷土館には、平田三五郎の掛軸(絵)が展示されている。 鹿児島県人でない人が薩摩を見た記録に「薩摩見聞記」がある。明治22(1889)年から3年間、宮之城に教員として赴任した旧長岡藩士・本富(ほんぶ)安四郎が書いたもの。
そのなかで、明治中期の薩摩人の風俗として「美少年の事」が書かれている。いわゆる男色、衆道のことである。
「美少年の事は是れ封建時代の蛮風」としながら、美少年の稚児が振り袖を着せられて二才(にせ)たちに護衛され、彼のために二才たちが日中は日傘を差し、夜は寝ずの番をするさまが描かれている。これが明治中期の出来事だというから驚きである。薩摩武士の間で衆道がいかに根強かったかがうかがわれる。
また同書には、二才たちの間で「賤(しず)のおだまき」が愛読されていることも書かれている。琵琶法師のつま弾きが平田三五郎の名を呼ぶくだりでは、聴く者みな一斉に「チェストー」と叫んだとある。
それほど二才たちを興奮させる平田三五郎とは何者か。年配の方はご存じかもしれない。
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と、文武両道に秀でた吉田大蔵(おおくら)清家(清盛ともいう)の男同士の愛の契りの物語
http://373news.com/_bunka/jikokushi/17.php
http://www.hayato.com/jisya/yakushi.html
http://www.shiki-net.com/shirilyou/kadokurayakushi-nisilyuukaidou.pdf#search 財部郷土館HPより
平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において戦死した人で、相当の美少年であったらしい。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられた事件である。庄内地方を領有していた北郷時久は、宮之城へ移封となり、代わりに肝属地方を領有していた伊集院幸侃(こうかん)が入庄して来た。伊集院方の勢力拡張に危機感を持った島津と伊集院の戦いは結局、島津方が鎮圧した。
財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。三五郎は「赤き鉢巻きに女郎花(おみなえし)を折て笄(こうがい:かんざしの意)にした」とあり、目立つ出で立ちであった。三五郎と兄貴分の吉田清家のことを記した「賎(しず)之麻玉記」という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。
桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。
(15歳・・数えだから満では13歳か) 平田三五郎の墓(三五郎塚)
鹿児島県曾於市財部町古井
JR日豊本線財部駅下車 10号線で財部南郵便局がある馬立を目指す。
馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った
左前方、先の古井十字路まで行かない手前で左にはいる。
(東九州自動車道では 末吉財部IC) 地図: 適当に拡大すると「古井」の下あたりに「三五郎塚」がでてくる。
(馬立ー古井線の古井の地図で左下あたり)
JR財部駅ー馬立(財部南郵便局)−・・古井
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=31.73893889&lon=130.93874778&sc=5 男色の盛んな薩摩は、明治に入ってから新政府軍と戦った、これを「西南の役」という。明治10年に起こった、日本最大最後の内戦だ。熊本の激戦地田原坂に「田原坂の美少年」の像があるが、薩摩は今の中学生くらいのたくさんの少年が参戦した。当然、「男色の契り」があったのだろう。
また、これら少年が捕虜にされたりした場合、美童がどういう目に合うか想像に難くない。上記会員制ホモ雑誌「緑園」にはそうした三五郎の危難みたいな物語が載っていて興奮させられた。 庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあったのだそうだ。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。
「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位かの美童の誉れの高い三五郎、今で言えばJr.あたり。野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、
その頃は少年武士は誰かの稚児・若衆となって肉体を捧げ契りをする。したがって処女(生童)を守らねばならない。
三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に適うはずもない。すぐその細腕を押さえられ、いよいよ帯を解かれ押し倒されいよいよ強姦の辱め・・というときに馬に打ち乗った大蔵さんに助けられる。危うく強姦されるところきわどいところを助けられる場面がある。その後三五郎は、互いに想い焦がれ、自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを受け容れ、
・・花嫁のように愛撫に身を任せ、すべてを捧げ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。
その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。「賎のおだまき」を読みながら、財部郷土館に展示されている三五郎の掛け軸を見て、そう思いながら一度見ておくのもいいだろう。 《平田三五郎の墓(三五郎塚)》の場所と行き方
鹿児島県曽於市財部町古井8164地先
財部町地図
http://map.yahoo.co.jp/ploc?nl=31.43.21.5&el=130.59.44.6&sc=5
・上の地図で、財部駅から馬立又は直接古井をめざす。古井の左下の、道に挟まれたあたり。
・下の地図で黄色の道路右側が財部駅へ。交差する上に行く白い道との交差地点が馬立で、南郵便局、理髪店がある。三五郎塚の右上が古井交差路。
・交通が不便のようで、思いやりタクシーというのがあるが、本数が少ないので、自家用車・レンタカーがあるといいだろう。(東九州自動車道 末吉財部IC) 江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。 昭和24年まで、年齢は「かぞえ」だった。生まれるとすぐ一歳で、正月でプラス一歳、つまり12月31日生まれは、正月には二歳。したがって少なくとも一歳何ヶ月か多い。3chで、沖縄のドラマに神木くんがでてて、かなり年長になってたがまだ中学生くらいか?。せいぜいそのくらいの少年たちが主体で、アノドラマは顔もきつすぎ、少年ではない。私は途中で見るのをやめた。
15-17歳とは、満でいえば13歳何ヶ月から、15歳何ヶ月、中学から高校生くらい。実際は、13,4歳(数え)もいたというからずっと低いはず。 薩摩の男色の一番強固なところとして、出水(いずみ)地方があげられる。現在の出水市のあたりである。そして、強いものとして天下に知れ渡った「出水兵児」(いずみへこ)がある。
出水を中心とした薩摩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織で、兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
ttp://www.hpmix.com/home/eishin7dan/index.htm
「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。
「出水兵児」の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。 賤のおだまき 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8 ・薩摩藩
薩摩の人口25〜30パーセントが武士。維新の中心的な担い手。薩摩藩のみ江戸時代末期まで郷中学校という武士の息子たちのための学校教育が実施されていた。漢文と武道(と男色!)をそこで学ぶ。
http://flower.seesaa.net/article/1856846.html 郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。・・
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jms/page003.html
このように、たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の制度といえるでしょう。今で言えばJr.に於ける《児童虐待》と同じなのです。 ◎ 『甲子夜話』その三 (「へこ組」&小咄)
<正編十八巻の(二十七)>
以前は薩摩にへこ組といって、党を結び男伊達をする士がいた。その大略を言えば、この組に入る者は、行状を守ること僧のごとく、まず夙に(早朝に)起きて書を会読し、夜は寝るまで弓矢を射て、婦女に近づくことを禁じている。もし途中で女に会っても、諦視(じっと見つめる)すれば大いに咎めて自害させる。さらにこれを難ずる者がいれば、泡盛酒を多く飲ませ、酔いつぶれたところで枕を払えば、頭が下がって即死する。このようにして先約を罰し、幾年という期限が過ぎれば、組を出て平常の士行に還るという。
婦女を禁ずるのはかくのごとしと言えども、男色を求め、美少年に随従し、ほとんど主人のようだ、とある人が話していた。 ご【稚児】
(一) 略
(ニ)男色の相手役としての少年。
「よか稚児」 (第2版〜第5版)
稚児とは、男色の相手役としての少年ですが、問題は、その用例です。
よりによって、「よか稚児」です。
「よか」というのは、九州方言で「よい」という意味。 新明解は稚児の用例に、わざわざ「すばらしい男色相手」などといった意味の言葉を載せています。
念のため、新明解で「よか」を引いてみます。
よか 〔九州西部の方言〕
よい。 「よか稚児/泣かんでよか」 (第4版・第5版)
寄宿舎で上級生に無理矢理やられてしまった少年が泣いているのでしょう。九州西部出身の上級生は少年の肩をたたき、そして言います。
「泣かんでよか」
明治時代に生まれなくてよかった。(・・・どっちにしろ私は美少年でないので、関係無いですが。) 慶長四年(1599年)の庄内地方(現在の財部(たからべ)周辺)の合戦で島津軍が庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂に立ち寄り兵士たちがお堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。そこへ遅れて平田三五郎宗次(容姿秀麗で美少年の名も高く、16歳にして庄内合戦に従軍)と友人の吉田大蔵が通り、二人もお堂へ筆を入れた。しかしすでにお堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く吉田泰造に抱えられ、お堂の高い所に辞世の句を残した。「書置くも 形見ともなる筆の跡 我は何処の土となるらん(平田)」「命あらば 又も来て見ん門倉の 薬師の堂の軒の下露(吉田)」 かくして庄内に出発し、慶長四年十一月二十八日に激戦奮闘の末、先に吉田大蔵が討ち死にしその遺体を家臣が背負って退く姿を見た平田三五郎は号泣し「我、大蔵と生死を共にすると約束せり」と敵陣に切り込み遂には討ち死にした。かくして薬師堂の壁書きは長く残り、遠方より見に来る人も多く平田三五郎・吉田大蔵の辞世を見、感涙したと云う。しかし、後年薬師堂を管理していた寿永山瑞慶寺がお堂の内外壁を黒く塗りつぶし見えなくなり、後に焼失し無くなった。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う 薩摩の男色(美童愛)の中心的なものは、郷中(ごちゅう)制度にあるが、明治に入って
西郷隆盛が明治7年に作った私学校に移った。
「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人
いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったという。
これが、西南の役(明治10年)の主な薩摩軍の戦士となった。
まだ少年の兵士がたくさんいて「田原坂の美少年」の像があるように
今の中学生くらいの少年がたくさんいたようだ。
なお、明治5年には、鶏姦律条例ができた、鶏姦とは少年相手の肛交のことだがかなり行われていたそうだ。
これは明治13年に廃止された。
薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんたいして15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、可愛がって
いたのだろう。
男色の二大秘儀は肛交と「一節切」(ひとよぎり)である。「一節切」とは、一回り小さい稚児のものを吹くこと。つまり今流にいえばフェラ。
こういうことが、学校の寄宿舎などでもおこなわれていたようだ。
森鴎外の「イタセクスアリス」にもでてくる。 薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは男同士の契りを結ぶことでもあった。」
と語っています。
西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。
薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
薩摩の甲突川の貧乏士族が作っていた郷中の長は西郷隆盛で、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎たち日露戦争を戦った男たちは、その郷中で西郷の薫陶を受け、人格的な影響を受けたといわれています。
大久保利通は明治の元勲で、西郷隆盛の弟の西郷従道は海軍大臣、大山巌は陸軍大臣を務め、東郷平八郎は日本海海戦でロシアのバルティック艦隊を破った日露戦争の英雄、東郷元帥です。
この人達は全員、男色の経験者だったのです! 郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。 つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。
司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。
「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。
「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。 なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる「鶏姦」が広まっていたという。
明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。
薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。
今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。
昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。
全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。
寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。 そして、可愛い中学生の「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の旧制中学(5年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926)
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002 薩摩(今の鹿児島県と宮崎県)の「郷中制度」は、「男色」によって稚児と二才(にせ)ががったいしたものだが、
西郷隆盛の明治7年に私学校に引き継がれたが、明治10年の西南の役に
破れて後、明治10年以降は、戦前を含め「学舎」と呼ばれるところに移った。
現在でも鹿児島、宮崎県に「学舎」は10位あるようだ。現在は男色は無いのではないかと思うが。 戦前の鹿児島では、曽我どんの傘焼きの日が近づくと健児の舎を中心に稚児(ちご)たちは大人の力を借りることなく、長稚児(おせちご)や二才(にせ)たちの指導の下に傘焼きの準備に立ち働く。
この間に若者たちは、社会生活のしきたりや事に当たるときの礼儀作法、集団生活や共同作業のルールなどを身をもって体験する。
そして「議を言うな」という不言実行の郷中教育の伝統精神が涵養(かんよう)されていくのである。
『曽我どんの傘焼き』行事で、今日まで受け継がれるものがここにある。今、郷中教育が見直されつつある所以であろう。 男色とは「少年愛」(美童愛)のことです。同性愛・男と男・ではありません。
男(20代位)がまだ男になり切らない美童・若衆(12,3〜4)を性的に愛することです。
昔は、数え15(現在の13歳何カ月)で成人になるつまり男になる、これを「元服」といった。
つまり、元服前の美童(若衆・わかしゅ)を愛でることです。
今の小学上級生から、中学1,2年生位のまだ男になり切らない、声変りもしない、発毛の兆しさえ
あるかなきかの美童を肉体的に愛する、というより肉体的に契ることです。
これを「義兄弟の契り」という。
その主な秘儀といえば、契り[肛交・鶏姦]と「一節切(ひとよぎり)」・・尺八より一回り小さい笛・つまり美童のものをしゃぶることです。
その女より綺麗で艶めかしい禁断の肌を愛撫し、抱きしめ、美童も愛撫に身を委ね、それでもせいいっぱいふ膨らみ
笛のようになったものをしゃぶり尽くされます。そして一体になりつがい会う、「義兄弟」になるという激しい行為だったでしょう。 薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[4]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる[5])。
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社、昭和54年 【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです 薩摩藩家臣
薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。 明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童 一五歳以下ノ者ハ坐(連座)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である。
明治5年(1872年)に「鶏姦条例」が制定され、ホモ行為は違法になっていた。
明治の鶏姦罪規定の経緯は、次のような経緯だ。
明治5(1872年)年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせがあった。
その答えとしての指令が、明治5年11月に「鶏姦条例」となり、明治6年(1873年)7月の新刑法中に追加挿入される。
実際に「鶏姦条例」により記録に残る処罰総数は約40件。
しかしながら、明治9年(1876年)フランス法律学者ボアソナアドが来日し「フランスでは、鶏姦であっても、双方の承諾があれば、罰したりはしない」とし、鶏姦罪は廃止に向かい、現在では述べるまでもなく、全くの個人の自由である。 このスレッドは1000を超えました。
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