かつて東京の下町 南千住に「東京スタジアム」というボールパークが存在したという事実。 [無断転載禁止]©2ch.net
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南千住は東京都荒川区の下町、東京で最も下層な地域。
巨大なコリアンタウンと被差○部○(同○地区)が現存する。
ちなみに荒川区にはスタバが無い(東京23区でスタバが無いのは荒川区だけ)。
荒川区出身者=カープの鈴木誠也、森本ひちょり、競泳の北島康介など。
その荒川区の南千住に、たった10年間(1962〜72年)だけ存在した。
当時のパリーグ大毎東京(その後ロッテ)オリオンズの本拠地。
コンセプト
「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、
庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」
設計のモデルとなったのはサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク。
地下には広々とした冷房完備の選手用ロッカーに選手専用のレストランもあり
設備は当時としては最新式のメジャーリーグ仕様だった。
左翼スタンドから三遊間後方に掛けての地下にはボウリング場が併設されていた。
シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席の上にスケートリンクが設置された。
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平屋の住宅が建ち並ぶ貧しい下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアム。
ナイター照明の中に浮かび上がるスタジアム、その光景から「光の球場」と形容された。 親父に連れていってもらったな。ぼんやりとしか覚えていないが。
肉うどんを二人で食べたのを覚えている。あの頃オヤジは見上げる存在だった。
長池がホームランを打ち、満塁で西本監督がボークではないか?と出てきたのを思い出した。
ボークって何?
一点入るんだよ。
とのやり取りも懐かしい。それからしばらくボークは1点と覚えていた。
あれから50年オヤジはとうの昔に墓の中。
せがれの教育に失敗したのでせがれは野球に興味のない真人間に育ってしまった。
今は一昨年生まれた孫を野球好きにして神宮や西武ドームに連れて行こうと画策している。
チラ裏すまん。懐かしかったので 俺は東京スタジアムには行ったことないが
同時期(昭和40年代)に大洋ホエールズの試合を観に
川崎球場に父親が連れて行ってくれたな
当時すでにボロボロの野球場だったけど活気があった
初めてプロ野球を生観戦したから記憶に残ってる
父親との思い出がプロ野球観戦
っていうおっさんは結構多いんじゃないかな 先輩が多いスレだな
スレ違いだけど俺は後楽園球場で1球しか観戦したことがない
先輩が急に行けなくなって入場券をくれたので見に行ったのだが、
江川が先発で大洋の福島に初球を投げたらいきなりセンター前ヒットで、
そこから急に雨足が強くなってそのまま中止、当時はあまり野球に
熱心ではなかったのでその後後楽園に行かずじまいで、
観戦はその1球だけに終わってしまった。 後楽園初観戦の日は田舎の学校は夏休みなのに登校日で、水道橋西口にやっと着いたら3回くらいだったが、駅前にあったパチンコ屋は何故か高校野球のラジオを流していた。それが伝説の箕島vs星稜の延長18回。
ジャンボスタンドの高い位置から見る総武線の電車や、白山通り外堀通りの自動車の流れは、いかにも東京の大動脈を感じさせるダイナミックさだった。巨人の選手はこの広い東京のどこかに住んでいるのかと思った。 後楽園球場のジャンボスタンド懐かしい
実は俺は、ある意味伝説の試合を後楽園球場で観た記憶がある
東京スタジアムが無くなってしまったその翌年の1973年(昭和48年)の夏休みに
後楽園球場でその試合を観戦した
なぜ44年も前のことなのに年度が正確にわかるのか?
それは観戦した試合が日拓ホームフライヤーズ(後の日ハムファイターズ)の試合で
選手たちが7色のユニフォームの一つを着ていたのを覚えているからだ
日拓ホームフライヤーズは1973年(昭和48年)の1年間しか存在せず
7色のユニフォームだったのは当時2シーズン制だったパリーグの後期だけ
その伝説の試合を後楽園球場で観たというわけです
日拓ホームフライヤーズの7色のユニフォーム
https://labola-prod.s3.amazonaws.com/p_blog_zs/tu/ct/2e/mh/rx/yk/xn/6l/ef/dd/zu/ku/nt/yq/uc_medium1.jpeg
対戦相手だった太平洋クラブライオンズ(後の西武ライオンズ)のユニフォーム
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/account/shrimp/images/shrimp-296765.jpg
ちなみにこの1973年(昭和48年)というのは
作新学院の怪物 江川卓が高3最後の夏 甲子園2回戦で銚子商に延長で敗退
第一次オイルショックで秋にトイレットペーパーの買い占め騒動があった
そんな年です 後楽園球場スレになっとる
かく言う私も東京スタジアムは行った事がありません
今は無い昔の球場の話を見聞きすると、一度行ってみたかったなあという気持ちになる
その球場にはその球場にしかない空気や味のようなものがあるような気がするから 駒澤野球場
昭和28年(1953年)〜昭和36年(1961年) 東京オリンピックの会場を作る為に駒沢球場は取り壊し、東映は神宮に本拠地を移した。その後後楽園で巨人と重なってた国鉄と本拠地を交換、東映は後楽園で国鉄は神宮本拠地に。 良スレだわ
東京球場は知らないけれど関西人としては跡形なくなった関西パリーグ4球場(日生球場含む)を思い出してシンミリする。 永田まさいちという人がやたら気にかかってしまうな
ロッテになる前のほうが幸せだったっぽい 永田雅一は洛中の生まれだから
モノホンの京都人だな
生家は友禅染の問屋だったが
父親が友人の借金の連帯保証人で破産
その後いろいろあって
18歳くらいのときに京都の千本組の組長
笹井末三郎の舎弟になった
この千本組は
日活の当時の大将軍(京都)撮影所に
食い込んでいて
大道具に関する全てを仕切っていた
そして無声映画の巨匠 マキノ兄弟とも懇意で
マキノプロダクション設立時に
やはり大道具は全て千本組となった
その縁で永田は
1925年にできた日活の太秦撮影所に入所
そのまま映画の世界で活躍
政界との繋がりも深めて行った フィクションじゃない両さんて感じで秋本もかなり参考にしてそう
地元でもろに活躍を眺めてた世代だろうし ガキの頃に毎日新聞販売店からもらったタダ券で親父と東京オリオンズvs西鉄ライオンズの試合を見に行ったおぼろげな思い出…
だから今でもマリーンズファン なんとかズの部分は変えるべきじゃないよな
ロッテが弱かったのはそのまんまのロッテデザインで絶対ユニフォームがダサかったせい LOTTEのユニは金田正一取締役が監督就任時に直々デザインしたんで
おいそれと変えようと言える度胸のある人間は球界にはおりませなんだ >>116
戦前から昭和40年代くらいまでは
映画芸能スポーツなどの興行や政治の世界に
普通にヤクザ(暴力団)が関わってたからねぇ
今は法律が厳しくなったから
そういう表に出やすいビジネスをするのは
何重ものダミー会社を挟んでの企業舎弟で
一般人にはわからないようになってる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています