かつて東京の下町 南千住に「東京スタジアム」というボールパークが存在したという事実。 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
南千住は東京都荒川区の下町、東京で最も下層な地域。
巨大なコリアンタウンと被差○部○(同○地区)が現存する。
ちなみに荒川区にはスタバが無い(東京23区でスタバが無いのは荒川区だけ)。
荒川区出身者=カープの鈴木誠也、森本ひちょり、競泳の北島康介など。
その荒川区の南千住に、たった10年間(1962〜72年)だけ存在した。
当時のパリーグ大毎東京(その後ロッテ)オリオンズの本拠地。
コンセプト
「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、
庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」
設計のモデルとなったのはサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク。
地下には広々とした冷房完備の選手用ロッカーに選手専用のレストランもあり
設備は当時としては最新式のメジャーリーグ仕様だった。
左翼スタンドから三遊間後方に掛けての地下にはボウリング場が併設されていた。
シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席の上にスケートリンクが設置された。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/477/12/1/200510_img_4.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/nikujuuhachi/imgs/d/f/df08fd20.jpg
http://blog-imgs-11.fc2.com/h/o/t/hoteiya/20110606003314ea0.jpg
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/4262/photo/TS-01.jpg
http://blog-imgs-11.fc2.com/h/o/t/hoteiya/2011060600462748c.jpg
平屋の住宅が建ち並ぶ貧しい下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアム。
ナイター照明の中に浮かび上がるスタジアム、その光景から「光の球場」と形容された。 >>1
左中間右中間のふくらみまったくなくてワロタ
野球盤かよ カネやんが球場が狭すぎるって使うの嫌がったってたらしいがホンマかいな こち亀の光の球場は名作だった
あと帰ってきたウルトラマンの最終回は東京スタジアムがロケ地だね ファミリー劇場でやってたけど、あのゼットン星人が出てくる球場かw >>14
帰ってきたウルトラマンの最終回で東京スタジアムに出てきた
宇宙人はバット星人な。まあ不細工なゼットンを連れているけどw >>11
旧親会社の大映が倒産したから
債権者の小佐野賢治が相場の数十倍で買い取れとロッテに迫ったが
当時のロッテでは買えなかった
おかげさまでオリオンズは数十年の流浪生活に・・・・・ 飛田給のやつは東京スタジアムと名乗って欲しくなかった
最近はネーミングライツで味スタ(味の素スタジアム)が定着してるけど >>17
一応仙台を間借りで本拠地にしていたが
大洋(現DeNA)が横浜へ移転し空いた川崎に落ち着く
(本当は大洋と横浜スタジアムを併用したかったが)
しかし川崎に本拠地が落ち着いてからは更に低迷する羽目に 子供の頃持ってたプロ野球読本みたいなのにロッテだけ本拠地「なし」って書いてあるの謎だった。
やがて本拠地を手に入れるためにアストロ球団と2年近い死闘を繰り広げたのもこれが原因だったか。 >>19
仙台で主催試合をしたのは年間20から30試合程度で球団事務所も寮も都内のままで仙台に居住してた選手は皆無
当時は関西以西に4球団あったし東北新幹線開業前だから遠征の時の移動は大変だったみたいね 下町で立ち退き迫られた住民が知人宅を転々とした後治安の悪い工業地帯近くのドヤ街に住居を見つけたようなもんだな 野球場てのは思い入れ深い建築物にも関わらずあっさり取り壊しちゃうよね。一等地にあって嵩張るからしょうがないかも知れないけどスタンドの一部でもモニュメントとして残しておけないもんかな。 >>24
日本初のプロ野球の試合が開催された鳴海球場のスタンドはまだ残ってるよね かつて東京セネターズの本拠地で東京球場と呼ばれた球場のあった上井草は
やきうよりガンダムで有名な一住宅街になってしまった
球場跡は上井草スポーツセンターでスタンドなし野球場ならある グーグルマップで球場跡地みたけど
本当にB地区に隣接した場所だな 名古屋の大須球場の跡地が今やフィギュアの殿堂大須スケートリンク。
入り口が何となく野球場っぽい。 東京スタジアムが作られた東京の荒川区とは
「巨人の星」星飛雄馬の実家が
この荒川区にある、と設定されている
川沿いの低湿地で
江戸時代は小塚原の刑場があった
明治時代に
屠殺場、皮革加工工場、火葬場
などが続々と作られた
大正時代には
日本初の巨大な下水処理場が建設された
そしてこれらの働き手として
被差◯部◯民が各地から移住した
当時日本の植民地だった朝鮮半島からも
大量の密航者がこの地に流れ込み移住した
その結果
巨大な被◯別◯落と朝鮮部◯が隣り合う
独特な地区となっている 大阪の浪速区みたいなもんか
ドカベンの坂田三吉が住んでる長屋が浪速区の設定
坂田が犬に石を当てて殺して祖母がそれを売りさばく
って描写があったよな
しかし少年漫画でそんなこと書いてる水島新司すげーな 大阪スタヂアム(大阪球場)はなんば駅のすぐ横にあった
東京スタジアムはもっとディープなところにあったんやね
新今宮の駅近くにあったようなもんか 野球体育博物館で「昭和のロストボールパーク展」が始まったらしい。
後楽園とか東京スタジアムとか?
木場と東陽町の間の永代通り沿いに、戦前あった洲崎球場のプレートがあるが。巨人と阪神の年度優勝決定戦が行われていたが、満潮になると浸水してたとか。今は全然海沿いでも無いのにね。 ロッテに買われたオリオンズは悲劇。
小佐野に買われた東京スタジアムも悲劇。 星飛雄馬は墨田区向島だ。荒川区ではない。
何故ならば王貞治の本所の実家のラーメン屋の出前も手伝っているし、隅田公園が練習場だ。
荒川区だと白髭橋を渡って来ないと墨田区には入れない。
漫画ではそのシーンも一切ない。
小学校も隅田川小学校になっている。
故に荒川区ではない。 >>31
マジレスすると東京スタジアム近辺と関係あるのは「巨人の星」じゃなくて「あしたのジョー」
主人公矢吹丈を導く丹下段平のジムが荒川区南千住の思川にかかる泪橋の下にあった 大和町(現和光市)からオヤジに連れられて行ったな。
まだ西日暮里駅が無い時代だった。
帰り道に日暮里で乗り換えるはずが降り遅れて上野まで行った。
当時最新鋭の寝台特急電車ゆうづるが停車しているのをみてその迫力に感動した。 >>17
小佐野は野球(というかスポーツ全般)が大嫌いだった。
「あんな取調室みたいな固い椅子にお客を何時間も座らせる商売なんて続くわけないでしょう」
との発言を見たことがある。
その数年後本人が取調室の固い椅子に長時間座らされるハメになるわけえだが。 >>42
そう、これが決定的な証拠になってるんだよな
星飛雄馬一家が住んでる長屋があったのは
荒川区町屋9丁目。
ファンなら知らないと恥ずかしいレベル、常識だ。
ちなみに実際の荒川区町屋は8丁目までしかない。
あしたのジョーの丹下ジム(丹下拳闘クラブ)は
泪橋の橋のたもと(下)にある描写になっているが
実際には、泪橋の下を流れていた思川は
明治時代後期から大正時代初期の頃に埋め立てられ
暗渠化した。
だから、あしたのジョーの時代設定(昭和44年頃)
の頃には、泪橋は無くなっていて
思川も暗渠の下を流れていた。
現在、思川の暗渠の上は明治通りになっていて、
泪橋はバス停の名前として残っている。
住所は区界で、荒川区南千住と台東区日本堤と
台東区清川の三方にまたがっている状態。 >>32
それを言ったらアパッチ野球軍なんてもっときつい表現てんこ盛りなんですが 漫画の話が続いてるので
東京の下町を舞台にした漫画「キャプテン」の話題を
作中に登場する墨谷ニ中などはすべて架空のものだが
多くのマニアたちの検証によると
この作品の舞台のモデルになっているのは
墨田区の八広あたりだろうと
ほぼ確定されているようだ
この漫画の主人公 谷口の家や
周辺の家屋はバラックに近い
墨田区の八広は、東京スタジアムから見ると
隅田川の川向こうのほぼ隣町
隅田川と荒川に挟まれた低湿地で
荒川区の南千住や三河島、町屋あたりとよく似ている
東京でもっとも下層な地域
同じように巨大な被差◯部◯(同◯地区)が隣接し
朝鮮学校もある
東京スタジアムは、キャプテンが月刊少年ジャンプで
連載開始された1972年に閉鎖された
ひょっとしたら谷口や丸井、イガラシたちは
小学生の頃に親に連れられて東京スタジアムに
行ったことがあったかもな…なんて妄想した 林家正蔵は子供の頃自転車で東京スタジアムに通った千住組ロッテファン >>44
アパッチ野球軍は奇想天外すぎてリアル感が全く無いギャグとして笑えるレベル
貧困や差別への臨場感がまったく感じられない
この作品が放送禁止になっている理由も
放送する側の自主規制的なもので
ハッキリ言ってただの言葉狩りでしかない
対して、ドカベンの坂田三吉の犬殺しのシーンは
街中での日常のように描かれたリアル感がすごく
強く印象に残る
貧困差別ということではなく、リアル感に対する驚き 昭和50年前後の大阪のど真ん中にあんな貧乏長屋があって
犬殺しで小遣い稼ぎしてるような生活があったってのが驚きだよな
同じ頃、東京スタジアムの周囲も
まさにそんな貧乏長屋がひしめき合ってたわけで
さらに下水処理場、屠場、火葬場、皮革工場に取り囲まれてて
当時は脱臭装置なんて無かったんだから街は猛烈な臭いに包まれてたはず
しかも当時の隅田川はヘドロの川で強烈なドブの臭いがしていただろう
そんな劣悪な環境の中に、最新鋭の輝く光の球場があったなんて
まるでおとぎ話のようだな ほんと見る目ないな
オイルショック不況でどこも手が出せなかったのかな
明らかに東京に野球場2つは少ないのよ 大映の永田雅一が岸信介にスポンサー探しを頼んだらロッテの重光連れてきたんだよ 永田雅一の生家は京都の友禅染めの問屋だし
当たり前だが岸伸介も在日ではない
ちなみにロッテの創業者の重光武雄は
日本が朝鮮半島を統治していた時代に
家族とともに定期航路の関釜連絡船で日本に渡ってきて
高校は早稲田実業を普通に卒業している
戦争が終わり、進駐軍の兵士が配ってるチューイングガムや
板チョコを見て重光は「これからは洋物のお菓子の時代」
と閃いてお菓子メーカーを創業したそうだ
在日にも大きく分けて4つのパターンがある
1、ロッテ創業者の重光のように普通の移民
2、太平洋戦争前や戦中に日本政府が主に土木・鉱山・工場などの
下層労働者を募集、それに応募して日本へ渡ってきた出稼ぎ民
3、日本に密航船で渡ってきて不法占拠のいわゆる朝鮮部○を形成した貧民
4、済州島四・三事件で命からがら逃れてきた難民
同じ在日でもそれぞれ全くの別物 かつて東京の下町 西新井に「東京マリン」という巨大ウォーターパークが存在したという事実
【ゴキブリ韓国人の奴隷根性=事大主義】
ゴキブリ韓国人に 甘い顔すれば 付け上がるだけ
強く出る相手には土下座をし 優しい相手には付け上がる
それがゴキブリ韓国人5千年のDNAに染み込んだ習性
奴隷根性(どれいこんじょう)=事大主義(じだいしゅぎ)
ゴキブリ韓国人の奴隷根性=事大主義の本質とは
【優しさと弱さの違いが分からない】
ことなのです (奴隷民族なので 優しくされたことがない)
したがって 自分に優しくしてくれる相手は
自分より弱いと考えて とことん付け上がる
自分をいじめる相手は
自分より強いと考えて とことん土下座をする
それがゴキブリ韓国人の習性(奴隷根性=事大主義)
歴史上初めて
ゴキブリ韓国人を優しく人間扱いした日本人に対して
ゴキブリ韓国人は、日の丸を焼いて付け上がりました
【恩を仇(あだ)で返す】
ゴキブリ韓国人のDNAに染み込んだ腐った習性です
中国人は5千年間 ゴキブリ韓国人を
奴隷民族として飼い慣らし 動物扱いしてきた
だからゴキブリ韓国人は 中国人にはさからわない
いくらいじめられても ひたすら土下座をします
要するに、日本人はゴキブリ韓国人をトコトン甘やかし
【泣けば日本人から、あやしてもらえる】
と覚えさせたのです
ゴキブリ韓国人に 甘い顔すれば 付け上がるだけです
東京マリンがあった西新井は足立区
足立区は
隣接して横並びで流れている隅田川と荒川の川向こう
明らかに空気感が違う
足立区内を警察署の管轄で分けると
西新井、竹の塚、綾瀬、千住(北千住)
の4地区に分けられるが
このなかで東京マリンがあった西新井がダントツで治安が悪い
ちなみに綾瀬は女子高生コンクリ詰め殺人事件があったせいで
治安が悪いイメージがあるが
実は意外にも23区の中でも治安は良い方
千住(北千住)は全体的には犯罪少なめなのだが
なぜか「強姦・わいせつ事件」の件数だけが突出して多く
23区ワーストレベル(下から2番目) 北千住生まれ
町屋在住だが
住み心地は悪くないよ
確かに中韓は多いが カープの鈴木=町屋
ベイスの山崎=西尾久
競泳の北島=三河島 永田雅一はホントは現都庁のある新宿の淀橋浄水場跡地が欲しかったのさ 新宿に野球場あったら面白いね
都庁のほうは結局都庁あるだけだしな >>59
新宿区には神宮球場があるんですけど知らないの? >>56
経団連の意向でアジア系労働者とアジア系観光客を大量に受け入れるようになったせいで
ここ10年の間に都内はどこも中国人が激増して溢れ返ってるよ
特に有名な観光地はそういう言語が激しく乱れ飛んでる 都庁があるだけって、いつの時代の話をしているんだ田舎者 新宿中央公園あるし
パークハイアット
ハイアットリージェンシー
ヒルトン
京王プラザ…
ホテル群ある うわ、地図見て書いてるわ・・
ホテルや公園になんの用があるんだって話だろ
行けばわかるけど閑散としてるんだよ >>64
明治時代の新宿は
東京の街外れで田んぼばかりだったらしい 神宮球場が不便って奴は地下鉄乗り換えが分からない田舎者だろうな。 「都庁のほうは結局都庁あるだけだし」
「神宮は不便 」
どこの田舎もんだよww
あるいは引きこもりの貧乏人だな 千住の東京スタジアムがあった昭和40年代は新宿駅西口の方面は確かになーんにもなかった
後半に浄水場跡地に高層ビルが建ちだしたがまだ一般の買い物客なんかはあんまり寄り付かなかった >>70
グーグルマップでめぼしい施設あげたお前がただのカッペなのはバレバレだぞ >>71
<東京スタジアム>
昭和37年(1962年)開業。
昭和47年(1972年)閉鎖。
<新宿駅西口>
昭和36年37年(1961年1962年)小田急百貨店・京王百貨店オープン。
昭和41年(1966年)新宿駅西口地下広場とロータリー完成。
(デザイン設計 坂倉準三)
<淀橋浄水場>
昭和40年(1965年)操業停止。
跡地 再開発開始。
昭和46年(1971年)京王プラザホテル開業。
昭和49年(1974年)住友ビル、三井ビル開業。
以降も続々と超高層ビルが建設され続けた。 >>74
小田急と京王は駅ビルの走りで電車で来た人は街に出ないで駅ビル内で買い物してそのまま電車で帰ってた
西口地下広場はフォークゲリラが占拠したりその後も長くホームレスがいたりして
一般人は素早く素通りするアンダーグラウンドな場所(都庁が来るまでは >>72
新宿西口に何もないなら23区内の大半は何もないことになるぞw
バカな田舎者が恥ずかしいこと書いててワロタ 巨人の星の単行本では荒川区ではない。明らかに墨田区設定。テレビアニメの方だが町屋というシチュエーションにかなり無理がある。
ドングリーズも荒川区のチームではない。
単行本を基本にすると場面は墨田区である。 読売巨人軍の1軍新球場建設が有力視される築地市場跡地
https://www.youtube.com/watch?v=jw0FMHR2svE
https://www.youtube.com/watch?v=DvRuyKb-xDs
【巨人】2軍新球場建設!2023年に地域密着の「TOKYO GIANTS TOWN」
http://www.hochi.co.jp/giants/20161025-OHT1T50064.html
【話題】<読売新聞vs朝日新聞 抗争勃発!> 小池都知事が築地市場にスタジアム構想c2ch.net
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1498966642/
#561 築地市場跡地「スタジアム」をイメージする@ スポーツ紙報道から 2016-01-08
https://ameblo.jp/dorattara/entry-12114386932.html
築地市場跡地「スポーツ施設などに」 中央区長が意向 2015/2/6付日本経済新聞 朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82855260V00C15A2L83000/
中央区の矢田美英区長は築地市場の跡地利用について「野球場やサッカー場などのスポーツ施設やテーマパークもいい」と言及。
「舛添要一知事から区と一緒に考えたい意向をもらっている」と説明しつつ、「マンションやオフィスではなくにぎわいをもたらす施設にしてほしい」と話している。 荒川区と墨田区には対抗意識なんてものはない
明治維新以降、帝都の近代化が進む中で
下水処理場、屠場、皮革工場、火葬場など
人が生活していく上で必要不可欠でありながら
どうしても忌避されてしまう施設を押し付けられた仲間だ
そして共に川向こう(荒川の向こう側)の
江戸川区、葛飾区、江戸川区を見下している >>68
ひいお爺ちゃんが神田から池袋に夜逃げしたのは
新宿には電気がなかったけど池袋には電気が来ていたから池袋に決めたと言ってた。
>>82
川向こうというのは隅田川の向こう側だべ 東京スタジアムで最初のホームランを打ったのは野村克也 東京スタジアムを語るスレがいつのまにか地域差別スレになってしまった
お前らっていつもこうだな
人間性を疑うよ
同じ職場にはいてほしくないな
やれやれ >>83
>川向こうというのは隅田川の向こう側だべ
それは昭和30年代頃までの認識
現代の川向こうといえば荒川の向こう側
「本所」(現在の墨田区の一部)
「深川」(現在の江東区の一部)
この2つの地域は、隅田川の川向こうだけど
江戸時代の頃からすでに江戸(市内)の範疇だった
江戸の範疇の基本とされている東京15区(明治11年〜昭和7年)にも
しっかりと本所区、深川区として組み込まれている
このスレの話題に合わせれば
町屋、南千住、荒川(三河島)、千住(北千住)、向島、八広
これらは江戸(東京15区)では無く江戸郊外
新宿、渋谷、池袋も東京15区の外で、江戸郊外 >>85
東京スタジアムを語る上で
南千住周辺の土地柄や歴史や
昭和30年代〜40年代の時代性を検証するのは当然のことで
それを差別だというのはおかしい
むしろ、あなたのそういう反応こそが差別の温床だと思う ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 昨日は中日対ヤクルトっていう最下位争いだったのに
25.818人も観客が入ったんだよな神宮球場
あの立地は最高に便利 昨日はビール半額だったから。
246で渋谷行きのバスがアホみたいにくるし、銀座線の改札と外苑前の改札の位置が近いし神宮最高やな。 この球場、今でもあったら
どんなふうになってたかな…(・ω・) 今の基準じゃプロ野球の球場としては小さすぎる
でも球場の周囲に拡張できる土地は無いから
草野球とかシニアとか高校野球の予選に使われたり
って感じじゃないかな >>94
なるほど
ロッテが今でも使ってたら、ファイターズがマリンスタジアムに行ってたかも
なんて思ったけど、そーいう事でもなかったのか。 大映の遺産として角川映画が引き取って今頃はKADOKAWAグループのくだらないイベントに 大映の永田ラッパの鶴の一声で作った球場じゃなかったっけ ガメラもパリーグも東京スタジアムも永田ラッパの産物 親父に連れていってもらったな。ぼんやりとしか覚えていないが。
肉うどんを二人で食べたのを覚えている。あの頃オヤジは見上げる存在だった。
長池がホームランを打ち、満塁で西本監督がボークではないか?と出てきたのを思い出した。
ボークって何?
一点入るんだよ。
とのやり取りも懐かしい。それからしばらくボークは1点と覚えていた。
あれから50年オヤジはとうの昔に墓の中。
せがれの教育に失敗したのでせがれは野球に興味のない真人間に育ってしまった。
今は一昨年生まれた孫を野球好きにして神宮や西武ドームに連れて行こうと画策している。
チラ裏すまん。懐かしかったので 俺は東京スタジアムには行ったことないが
同時期(昭和40年代)に大洋ホエールズの試合を観に
川崎球場に父親が連れて行ってくれたな
当時すでにボロボロの野球場だったけど活気があった
初めてプロ野球を生観戦したから記憶に残ってる
父親との思い出がプロ野球観戦
っていうおっさんは結構多いんじゃないかな 先輩が多いスレだな
スレ違いだけど俺は後楽園球場で1球しか観戦したことがない
先輩が急に行けなくなって入場券をくれたので見に行ったのだが、
江川が先発で大洋の福島に初球を投げたらいきなりセンター前ヒットで、
そこから急に雨足が強くなってそのまま中止、当時はあまり野球に
熱心ではなかったのでその後後楽園に行かずじまいで、
観戦はその1球だけに終わってしまった。 後楽園初観戦の日は田舎の学校は夏休みなのに登校日で、水道橋西口にやっと着いたら3回くらいだったが、駅前にあったパチンコ屋は何故か高校野球のラジオを流していた。それが伝説の箕島vs星稜の延長18回。
ジャンボスタンドの高い位置から見る総武線の電車や、白山通り外堀通りの自動車の流れは、いかにも東京の大動脈を感じさせるダイナミックさだった。巨人の選手はこの広い東京のどこかに住んでいるのかと思った。 後楽園球場のジャンボスタンド懐かしい
実は俺は、ある意味伝説の試合を後楽園球場で観た記憶がある
東京スタジアムが無くなってしまったその翌年の1973年(昭和48年)の夏休みに
後楽園球場でその試合を観戦した
なぜ44年も前のことなのに年度が正確にわかるのか?
それは観戦した試合が日拓ホームフライヤーズ(後の日ハムファイターズ)の試合で
選手たちが7色のユニフォームの一つを着ていたのを覚えているからだ
日拓ホームフライヤーズは1973年(昭和48年)の1年間しか存在せず
7色のユニフォームだったのは当時2シーズン制だったパリーグの後期だけ
その伝説の試合を後楽園球場で観たというわけです
日拓ホームフライヤーズの7色のユニフォーム
https://labola-prod.s3.amazonaws.com/p_blog_zs/tu/ct/2e/mh/rx/yk/xn/6l/ef/dd/zu/ku/nt/yq/uc_medium1.jpeg
対戦相手だった太平洋クラブライオンズ(後の西武ライオンズ)のユニフォーム
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/account/shrimp/images/shrimp-296765.jpg
ちなみにこの1973年(昭和48年)というのは
作新学院の怪物 江川卓が高3最後の夏 甲子園2回戦で銚子商に延長で敗退
第一次オイルショックで秋にトイレットペーパーの買い占め騒動があった
そんな年です 後楽園球場スレになっとる
かく言う私も東京スタジアムは行った事がありません
今は無い昔の球場の話を見聞きすると、一度行ってみたかったなあという気持ちになる
その球場にはその球場にしかない空気や味のようなものがあるような気がするから 駒澤野球場
昭和28年(1953年)〜昭和36年(1961年) 東京オリンピックの会場を作る為に駒沢球場は取り壊し、東映は神宮に本拠地を移した。その後後楽園で巨人と重なってた国鉄と本拠地を交換、東映は後楽園で国鉄は神宮本拠地に。 良スレだわ
東京球場は知らないけれど関西人としては跡形なくなった関西パリーグ4球場(日生球場含む)を思い出してシンミリする。 永田まさいちという人がやたら気にかかってしまうな
ロッテになる前のほうが幸せだったっぽい 永田雅一は洛中の生まれだから
モノホンの京都人だな
生家は友禅染の問屋だったが
父親が友人の借金の連帯保証人で破産
その後いろいろあって
18歳くらいのときに京都の千本組の組長
笹井末三郎の舎弟になった
この千本組は
日活の当時の大将軍(京都)撮影所に
食い込んでいて
大道具に関する全てを仕切っていた
そして無声映画の巨匠 マキノ兄弟とも懇意で
マキノプロダクション設立時に
やはり大道具は全て千本組となった
その縁で永田は
1925年にできた日活の太秦撮影所に入所
そのまま映画の世界で活躍
政界との繋がりも深めて行った フィクションじゃない両さんて感じで秋本もかなり参考にしてそう
地元でもろに活躍を眺めてた世代だろうし ガキの頃に毎日新聞販売店からもらったタダ券で親父と東京オリオンズvs西鉄ライオンズの試合を見に行ったおぼろげな思い出…
だから今でもマリーンズファン なんとかズの部分は変えるべきじゃないよな
ロッテが弱かったのはそのまんまのロッテデザインで絶対ユニフォームがダサかったせい LOTTEのユニは金田正一取締役が監督就任時に直々デザインしたんで
おいそれと変えようと言える度胸のある人間は球界にはおりませなんだ >>116
戦前から昭和40年代くらいまでは
映画芸能スポーツなどの興行や政治の世界に
普通にヤクザ(暴力団)が関わってたからねぇ
今は法律が厳しくなったから
そういう表に出やすいビジネスをするのは
何重ものダミー会社を挟んでの企業舎弟で
一般人にはわからないようになってる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています