愛媛 中村知事のスキャンダルを

1名無しさんの主張2018/05/22(火) 19:25:10.57ID:RRss1dHt
一生懸命に作るのは誰ですか?

2名無しさんの主張2018/06/09(土) 02:41:25.67ID:???
自分に暴力をふるい、 苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に
「寄せつけ」、 学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。
まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。
こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、
と言っているようなものだ。若林らがしていることは、旧ソ連の精神科医が共産主義に逆らう人を精神病とするのと同じである。
文章を読めば明らかに、若林らがE子を異常視する判定ポイント(精神医学的に正常と異常を分ける基準点)は、
E子の存在が深部から<学校のもの>になっているかどうかである。若林らは、こころとからだの深いところから
<学校のもの>になって共に生きようとしない、E子のまつろわぬこころを医療の対象とする。
学校の生徒でありながら、学級集団に染めあげられないE子は、精神科で治療しなければならない。
若林らの精神科医および精神医学指導者としての言動は、精神医学が学校の色に染め上げられた局面を鮮やかに示している。
それだけではない。学校が精神医学を染め上げる形から、逆に、学校のなかに濃縮した姿で現れる全体主義の本質を明らかにすることができる。
全体主義は、ただ外形的な服従を要求するだけではない。生活環境を集団化して涙や叫びや歌や笑いなどの共振密度を高め、
一人ひとりが自分を裂け開く<すなおさ>をどこまでも要求する。ほんとうに心を開いておまえそのものが流れ出ているかどうか、
といった自己裂開への執拗なこだわりが、全体主義を単なる独裁から分かつ、全体主義の本質である。
「トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、
それで、皆から同情されないと思う』」のは、泣くことがクラスの集団生活で要求される「すなお」な自己裂開であり、
個人が勝手に距離を取ることは加害行為よりも「悪い」ことであるからだ。ここでは、自他共振の擦りあいのうちから、
おまえがおまえである底のところから<おれのもの>になるべしそれをあかすがゆえに、しばしば身体開口部が濡れているかどうかにこだわるという、ポルノ的な裂開規範をみとめることが

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