虚数の実在性@物理板
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虚数は物理学的に「実在」しているでしょうか?
もしそうなら、具体的に、様相をお示し願います。
数学なら、無矛盾な体系ができる故に在りですが。
物理での実在の様相(せめて具体例)を知りたい。 対象と規定の関係
認識論
認識の在り方を考察してください 科学革命が必要な段階なのではないかと
地動説を知ったルターは一人の馬鹿者が天の世界を変えようとしていると述べたそうです
そのくらいの展開が必要なのではないでしょうか
見たものがそのままの自然ではないという地動説が示すことを深めることが必要な段階ではないでしょうか 「進化は万能である」はなかなか面白い指摘をしているが不満はある
まだ西洋文化圏から基本として逃れていないのではないかと 新約聖書学、数学はドイツ人が
共産主義は日本人がそれぞれケリをつけています
わたしは科学もまた日本人がケリをつけて欲しいと願うものです 新約聖書学、数学はドイツ人が
共産主義は日本人がそれぞれケリをつけています
わたしは科学もまた日本人がケリをつけて欲しいと願うものです ・・・まあほとんどの人間の怨嗟の的になりそうな結論が待っていそうですが わたしの論は地動説などの認識論からの理解
静止して見える地球
球体には観えない地球
見えるものがそのままの自然ではない
鵺的な存在は規定するから
対象であるウイルスは生物非生物どちらかというのは悩まない
分類するから、規定するから
認識の在り方は究明されるべきかということ
絶対座標は実在しないが・・・
対象をその否定、静止、生死、無で規定する
それはどういうことなのか
ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ・・・ 観るということは自然が生成した認識器官の在り方に結ぶ像ということ
認識の在り方は考察されるべきかと
静止、生死、無は物理としては実在しない
どういうことを示すのか
静止は運動、生死もまた物理状態の差異、無は有の一形態
否定関係は存在しないが否定で規定する 〜に成る
最小単位からは成らない
物理条件が生成できればいくらでも小さくなる、大きくなる
親和反発して新たな濃淡の生成する過程が自然 対象ー認識ー表現
認識を挟みます
対象をそのまま認識できるのかということ 認識の在り方、認識論が必要なのだとわたしは主張します
認識に結ぶ像はそのままの自然ではないのだと 自然科学は自然の一部である人間の自己言及という側面がある
自己言及はフォイエルバッハを経て言語学者三浦つとむが語っている
街の地図を描く場合、観念として空中から眺める
場合により日本、地球、銀河系も描くことが出来るのはこの能力
また古今東西に頭の中で立ち会える
小説や映画の主人公にも成れる
〈わたし〉という表現は自己を他者として認識するということ
対象ー認識ー表現ということ
三浦つとむは野球中継を例に挙げている
意識というか精神は寝ているときは意識が低下するし、炎天下というか環境にかなり影響され、脳が破壊されたら無くなるからある物理状態の附随現象と理解できる
窓も何もない白い部屋にいると時間差はあるが百パーセント幻覚を見るという実験結果がある
これは感覚に刺激があまりない場合勝手に励起するのではないかと
空耳があるのだから視覚もというのは当然の帰結かと
宮沢賢治がこの体質らしい
簡単に言えばぶっ壊れやすいということではないかと
機能不全にかんたんに陥る
休めばまた正常にということ
わたしも幻覚体質で自覚したのは十代初めから
曲がり角でバイクが目の前に現れびっくりして立ち止まったが直ぐに消えた
大人になって仕事で疲れた時に三夜連続で体験したが試験勉強で疲れた時もいろいろ体験した
たぶん丑三つ時かな、深夜に布団の周りを人が歩く、触られたら嫌だなと思うと脹脛を触ってきたり、観たら嫌だなと思ったら隣の部屋に人影が
空耳もヤバくて、同僚がえっという顔をしたりした
精神科医が雪山での集団幻覚体験を報告している本を読んだ
物理条件で見るということかと
幽霊は西洋では足があるとか
ハムレットにそんな描写があるとか
文化形態でいろいろあることを指摘した本があったな
母が無くなり数か月後に部屋に出てきてすぐ消えた時はまた来てねと呟き、幻覚体質に感謝した 全ては幻覚というのは否定するが根拠はある
・・・まあ全ては幻覚なら、その認識も幻覚であるわけで w
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
両方とも真理だ
アガサ・クリスティー ミス・マーブルの言葉
この逆説的ものいいも認識の在り方の問題
わたしたちも含めてこの多様な自然はエネルギーの一形態が認識器官の在り方に結ぶ像
認識器官もまた自然の一形態
極めて単純、極めて豊穣 タゴール
その通りではないかと いろいろ不思議なことはある
それは雷という自然現象理解の歴史を振り返るとどのように対応したら良いのかが判るのではないかと
雷は神鳴りと理解された
人間は解らないことを解らないとはなかなか出来ない
神鳴りと理解してしまうが、それは未解明事象だということ
解らないことはなんの根拠にならない
科学では判らないと言う人が居るが、現在の科学では不明というだけ
雷解明の歴史から判る
それは未来の学問も解明できないのかということを示さなければ科学は解明できないということにならない
個人的には自然が何故存在するのかは解明できないと考えている
自然はただあるだけ
自然が無矛盾、つまり理解可能であることは、規定、否定が自然に存在しないことで証明されるということ
つまり自然に論理自体は存在しない
・・・ここからはあまり立ち入りたくないわけで
ドイツ人なら立ち入りそう
共産主義は成立しないという結論を導く論文をものした三浦つとむは、弟子の結論に最期まで抵抗したが、論拠が薄弱で、もう良いよ三浦さんと思ったことがあった
科学の結論はちと
物理学者が人間が何処から来て何処に行くのかというゴーギャン風の問題意識をテレビで語っていたが、論理としては納得するが感情は納得しない結論になるだろうなと思った 「進化は万能である」は認識の在り方も示していて出色だと思った
共産主義がなぜ成立しないのか違う方向で語っている
新約聖書学のブルトマンはイエスはキリストではなく、思想としてキリスト教と対立する可能性を示したが、学の結論とわたしの信仰は別だと語った
ネットでこれを読んだキリスト教徒が、あんなのはだなあと書いていたことがある
哲学サイトでも、マルクス主義者があんなのはだなあとマルクスの学的方法で共産主義を否定した政治学者に反発して、ああ思想、宗教は同じなんだなあと痛感した
数学者は愕然としたが不完全性定理の結論は受け容れ前提となったわけで
理数系学徒はやはり違うなとは思った
ただ科学の結論はかなり衝撃になりそうだからどうなのかなと
生きているうちは示されないだろうから、混乱は目の当たりにはしないだろうが、見てみたい気もする
星新一のショートショートにいろいろ解って世界が静まるようなのがあったと記憶している
ヒューゴー賞受賞の「地獄行列車」だったかな、あれは愉快な短編だった
絶望の果てがもたす愉悦ってことかな
どこかにあったな、中学生の時に読んだから記憶が曖昧 w
わたしは生とはとを理解したかっただけだが、結論から逃げたくなった
竹宮恵子の「地球へ・・・」の最後のコマを思いだしてしまう 数とは何かを解明する前提を考える必要があるのではということ
わたしの主張です
論理内部では解決できないのでは、ということです 人は感情で生きているからなあ
科学者も信じて居るものが否定されたら反発するのは当然で
わたしは自然を理解したいという感情を優先したらそれも克服できるかと
言うは易く行うは難し、ですが w 五チャンネルという辺境ですから、気楽に放言できます
実生活で言えないことを言い散らせる自由な場ですし
この数十年の流れだと科学革命が俟たれていると妄想しているド素人です
どなたが納得できる論を提供することを願っています わたしの結論は対象である自然に論理は存在しないということです
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた新たな濃淡を生成していく過程です
数も力も無い
・・・なんか宗教も共産主義も無碍に否定するのはとは思います
人は感情で幻想で生きていくわけで
ある知識人が宗教に回帰していくのを描いた小論がありました
ただやはり宗教は絶対だと思うから強制が伴うわけです
人間が人間である限りの背反
これまでの、これからの宇宙の何処かで繰り広げられる永遠の悲喜劇ということかも
シェークスピアも古代ギリシャ悲劇も、ニュートン、アインシュタインももそこにいるわけで
イエスもまた 科学の為の科学もアリかと
それが自然、人間理解に繋がるのなら
仮面の告白は印象に残りました
これもまた人間なのだと思えます
ここでの意見というか認識の開陳もまた 納得できればなんでも
未だ納得出来るそれは無いわけです
それ以外ではありません
悪意などはありません
ただただ納得したいだけなのです 少しだけでも認識論やった方が良い>理数系
十九世紀のある学者は科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われていると書いた
ある理系会議室で生死の瞬間は特定が甚だ困難だと反駁された
いや物理として生滅は無いから無理なんだと返したら理数系沈黙
時間は在るだろうと返された
いや0次元がないんだからさ
時間は運動(量)に還元される
仮に実在したら静止する自然、そしてわたしたちも自然だから無限に実在することになるだろう
否定で規定している
一を多で、だから四次元が必要
〜で規定するが〜は実在しない
静止、生死、無、終始・・・ 対象が宇宙非宇宙と否定関係を想定している
エネルギー保存則、光速度一定の原理を無視している
赤方偏移はアープの異説、背景放射は違う理解が可能だと天文学者が論文をだしスムート博士は否定出来ないと語った
大構造はビッグバン仮説が想定する時間の数倍が必要
無限宇宙論も未解明項がある
ガリレオは重力が発見されていない時に地球の裏側の人たちはどうしがみついていると言われ
それは後世の人が解決すると言った
現在の科学から裁断するのは疑問がある
無限宇宙論でないと科学の前提を否定することになる それはともかく
数一般は存在しない
数で規定するが数は実在しない
規定は否定
有は無で規定される
一は多で 繰りかえすが、わたしの興味は人間とはで、科学と論理はその手段
無矛盾な自然観からということで
残念ながら現在の学問は未だの観がある
未解明事項はあるにしてもここまでは言えるのではと思えることをということです
邪馬台国論争はまだまだ決着はないようだが、その時に大学者は此処までは言えるということが解かっている人だとある方が書いていた
この論争は三割くらいが確かなことで後は未確定なことばかりだと
四十年以上前のことです
わたしは現在どこまでが確かなのかを考えたい
ビッグバン仮説は確かな証拠は皆無だと認識しています
わたしは科学の成立前提と科学が確立してきたことから自然、論理を考えたい
NHKがアメリカの政治学の講義の人気シリーズに続いて物理学教室やってその中でエネルギー保存則が一番重要と言っていたが、ならばビッグバン仮説はいろいろ怪しいわけです
また数一般の実在ははなはだ疑問なわけです まあ残念ながらわたしたちは大学者ではないことは確かなわけで
籔にらみでも言いたいことは言いたいわけです w 竹内、茂木の共著では現在の学の在り方から科学理論を裁断する危うさを説いている
気象学者もと学会の否定の在り方に疑問を呈している
竹内は新たな視点が求められている現在で、この批判、否定の在り方はと疑義を呈している
それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
うん、コペルニクスが気取れるから、幸せかも www 竹内、茂木の共著では現在の学の在り方から科学理論を裁断する危うさを説いている
気象学者もと学会の否定の在り方に疑問を呈している
竹内は新たな視点が求められている現在で、この批判、否定の在り方はと疑義を呈している
それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
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それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
うん、コペルニクスが気取れるから、幸せかも www あっ、気象学者の論拠はガリレオかも
重力は発見されていなかったが後世の人たちが説明してくれるとした
地球も諸天体と同じで静止ー運動という否定関係ではないということ
ビッグバン仮説は宇宙非宇宙前提にしている
つまりこの否定関係の実在が前提
さてと もっと自由を!
社会ではともかく
そういや科学者が大学などを辞めてから、いや、実はと書くことがけっこうあるとある理系サイト運営の方が述べていた
文系でも●●超特急というのがあり、愛弟子はすぐ教授になれたとか w
人間だもの、ってことですが
文系のある泰斗は自分の論文を批判訂正した弟子に、なるほどと受け容れたそうです
そういやある方も、なるほどと受け容れたなあ
自分にはできる自信がないので尊敬しました w 仮説はさておき
理解可能ということを前提にする
科学が確立してきたことを前提にする
数の実在には疑問が在ります
ビッグバン仮説はもっと無理です 自然が生成した認識器官に結ぶ像はそのまま自然ではないことを科学は示してきた
わたしは自然は一、つまり無矛盾だが濃淡であり、淡は認識器官に像を結ばず多として像を結ぶというものです
数で規定するが数は実在しないのだと
静止、生死、終始、無、存在しないもので規定する 自然が生成した認識器官に結ぶ像はそのまま自然ではないことを科学は示してきた
わたしは自然は一、つまり無矛盾だが濃淡であり、淡は認識器官に像を結ばず多として像を結ぶというものです
数で規定するが数は実在しないのだと
静止、生死、終始、無、存在しないもので規定する 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないからとりあえず終わりかな
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w わたしも含めて自然はエネルギーの一形態ではないかと
無、真空さえも
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態だということだと
絶対座標、始まりは実在しない
ならば終わりも
わたしたちが認識する始まりはある物理状態の終わり
宇宙は無限、無矛盾なのだと示すのがこの原理とわたしは理解している 対象と認識の関係を
自然科学は自己言及
認識の在り方もまた考察されるべきだというのがわたしの理解 天・気板のフラットアーススレで暴れてた現象クンがやって来てるな 今までのをまとめていたんですが、フラットアースで二律背反を思いだし、また新たに深められた
今は書き直しの最中です
あまり余裕がないのでちと焦り気味
纏めるのは苦手だから
此処でとぐろを巻いているのはいろいろ書いていることでヒントがあるかもということです
迷惑をおかけしています >>950
今は青火氏が暴れていますが、隔離スレにしているのかな
得るものがありました
その節はいろいろと w わたしは地球は丸いという認識を相対化したい
自然科学は自然認識の在り方の相対化の歴史でもあるのだと 大地は平というのは視覚として真理
地球が丸いというのもまた真理
ただそれは認識器官に結ぶ像
此処からは実在しない
地球、非地球はどこから何処までとは指摘できない
生死で規定するが自然に物理としては実在しないから此処からが生、此処からが死と指摘できないのと同じ
此処から、つまり座標原点は実在しないのだから 地球の周りを諸天体が運動しているという認識はいろいろ有効です
丸いという認識もいろいろ有効だと
光速度一定の原理はそれらが相対的であることを示したとわたしは理解する
理論は相対が絶対なのだということです >>955
いえ、フラットアース批判も根底として数は実在しないという理解です ルターは地動説をアタオカと理解しました
基地害という批判も具体的でないと届きません
貴方が名医でないことは確かです
現代科学は基本が未だにですからトンデモの中に宝石あるかも
石だということはまだ誰も根拠を示せていない
名医はまだいません
今月の100分の名著シャーロックホームズは面白かったなあ
新たな視点を得られた
朗読CDだけでもと
筒井康隆が推奨した川端康成「片腕」の朗読CDはこれが官能小説だと筒井氏が推奨するのが判る
いや朗読CDついでに思いだした わたしのは単純そのものの理解です
自然は無矛盾であり人間も自然の一部であり自然認識は自己言及
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではないことを自然科学は示した
認識論もまた自然科学は俎上に載せるべきだということです わからないがなんか楽しそうでなにより
決定的な批判否定が無い限り続きそうです 笑 ええ、愉しんでます
ゼノンの逆説で躓き、重力が理解出来ず理系から脱落
後年それらが未解決だと知りました
とりあえず、これで行こうというのはある意味健全なわけです
ゼノンとか二律背反とかヘーゲルの運動定義とかいろいろ知ると足手まといになるわけで
わたしは雁字搦めに w
三浦つとむの自己言及、板倉聖宣「新哲学入門」の論理の性格
とりわけ山川偉也「ゼノン4つの逆理」はとても刺激的でした
わたしは認識論はとても重要だと認識しています >基地害という批判も具体的でないと届きません
フラットアーススレでさんざん具体的に批判されまくり。それらに対して何一つ再反論するでもなく、ただ芸もなく繰り返しているだけなのがお前。お前の頭が悪すぎてお前に届かないのは知ったことではない この虚数論はどうなんでしょう
第三者には否定側が沈黙しているような 重力で異世界を理解するのは、観測に基づき、なおかつ直感的で絶望的です
同じ空間に別の物体が重なって存在すると加速度的に重くなり、ブラックホールになりやすいです
だから、物体が存在できる次元として、4次元や巨次元は「無い」と断言できます
あったらこの世はブラックホールだらけ
でも、ダークマターがありますよね
まだ見ぬ次元に物体がある可能性は、ずいぶんあります
楽しみですね 測定は近似だよね
=じゃない、≒なんだ
不確定性原理は運動を静止で規定するから
0に限りなく近いが0ではないという奇妙な規定
これは決定不能ということ
有を無で規定するから
此処から此処までは自然には存在しない
つまり自然は一
今には幅が無いという規定は有を無でということ
自然という有を無でということ
規定は否定
此処から地球、此処まで地球、此処から非地球、此処まで非地球と明確には指示は不可能
此処から死、ここまでは生ということもまた
〈此処〉というのは自然には存在しないというのが光速度一定の原理 時間は一である自然を多、運動という有を無で規定するから必要なのであり実在しない
0次元は実在しないのだから 時間は一である自然を多、運動という有を無で規定するから必要なのであり実在しない
0次元は実在しないのだから 科学は自然が観たままではないことを示す
その端緒が地動説
地球は平であり諸天体は地球の周りを運動しているように見えることは真理
視覚という認識器官は自然によって生成される
静止、生死、無、座標原点、つまり此処からは実在しない
だがそれらで認識する
否定が媒介ということ
差異は否定で規定される 現代科学の在り方を批判する科学者たちは半世紀ほど前から明確に存在する
科学革命が必要な段階だと理解する科学者たちは洋の東西を問わず出てきている
コペルニクスは視覚という認識を相対化した
わたしは次の科学革命は認識自体を相対化することで、とわたしは主張する
近似値、否定で規定
これらは認識一般が≒なのだと示す
エネルギー保存則の破れというのは≒が測定値、つまり近似値だから
自然以外に何もないのだから物理として生滅は実在しないのだから
そして光速度一定の原理は始まりで、静止で規定するが、それらが実在しない、つまり規定の実在を否定することにより無矛盾であることを示す
ウイルスは生物非生物と分類困難だが、それは物理としての差異を否定で規定するから
分類行為が分類困難な対象を産み出すが対象であるウイルスには関係がない
規定を否定することにより自然が無矛盾であることが明かされる
ここで認識そのものが相対化されている
認識は相対が絶対なのだということ
規定することが決定不能の原因なのだと
理解するからこそであり対象である自然は無矛盾だということ 認識に結ぶ静止、生死、無という像は認識器官の在り方に結ぶ像であり自然そのままではない
静止は運動の一形態
生死は物理状態の変化、遷移であり否定関係では無い
無は有の一形態
自然科学は自然認識なのだから認識の在り方もまた考察すべきかと 極めて単純極めて豊穣
一は多で規定される
数一般は実在しない
〜で規定するが〜は実在しない
ゼノンの逆説
否定は規定とするスピノザ
これらは対象と規定の関係の問題
二律背反、運動規定
観測問題、不確定性原理、不完全性定理もまた 此処から此処までは実在しない
対象に宇宙非宇宙は存在しない
ビッグバン仮説は天動説同様に認識したものがそのままの自然という素朴認識論の仲間
終始、生死、無は認識、規定には必要だが実在しない
数もまた同じということです いずれにしても科学革命は必至なのだとわたしは主張します
わたしの主張は認識そのものの相対化で為されるということです 何せうぞ
くすんで
一期は夢よ
たゞ狂へ
わたしはもまた狂ってみました
一人の馬鹿者が天の世界を変えようとしていると言われても納得出来たら人の評価など関係がありません わたしの人間とはという問いの結論は新約聖書学などの結論同様にかなり衝撃でして
ハッキリする頃にはわたしはいないでしょうが 纏めることが出来たら音楽などを愉しみますか
昨日夢十夜、乙女の本棚で読みました
いろいろ面白かったですが幾つかわからないのがありました
運慶の話とかは面白かった
バッハは全部聴きたいなあ
古典音楽は近年にちかづくほど感覚が合わなくなるのが多いのは逆説的かも
ビートルズの方がとは思うのですが感覚はサイモンとガーファンクル w
中島みゆき、谷山浩子、太田裕美、ベビーメタルとかも好き
スーメタルの真っ直ぐに届く声質が好きで、ユイメタルは可愛い w
グルヴェローバ、アメリンクとかも好き
ある意味狂った方が勝ちかなと いずれにしても回答するのは自然です
どんなにもっともらしく、納得できても自然が否定することがある
光速度一定の原理は発見者が納得しなかった
この原理は認識の相対化です
規定そのものが否定されているわけです ネットの匿名空間は長短はありますがわたしのような者には快適だったりします
愉しかったし死ぬまで愉しめればと 評価基準もまた相対化したい
わたしは落ちこぼれではありますが、それは現代の知の体系からであり知の本質から落ちこぼれているのとは違うのだと
ある意味絶対は在るんでしょうがそれはまだまだ達してはいないのだと モーツァルトもまた滅びるかもというある学者の言葉はクラオタには評判が悪い
学者は妙なる音楽と評された古代ギリシャ音楽を引き合いにしていました
数千年後人類が生き残っていたら答えが出ているでしょう
半世紀前の流行歌にとてもついてはいけないというのがありました
そういや二百年くらい前の音程で演奏したのを指揮者が気持悪いと言っていました
わたしもそうでしたがもともと音感など皆無ですから慣れましたが
て
いろいろ変わりますね
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
・・・認識するからこのような逆説になるのかな しかしなかなか纏まらない
フラットアース批判スレで前進したけど、書き直さなきゃいけなくなりました
現在格闘中
素案はほぼ出来上がってはいるんですが 十代から悩んでいた諸問題を解く鍵を九十年代にまでほぼ手に入れたと思っています
真理は単純だと三浦つとむは語りますがこれほど単純だとは思いませんでした 十代から悩んでいた諸問題を解く鍵を九十年代にまでほぼ手に入れたと思っています
真理は単純だと三浦つとむは語りますがこれほど単純だとは思いませんでした まあ自分なりに納得ということで自己満足という批判はあるでしょう
本来の目的も叶えましたが、総すかんくらいそうな結論でびびっています ドイツ人ならためらわないかな
三浦さんは自身の論文が招いた結論に抵抗しました
導いた弟子は受け入れない三浦さんから離れました
でもやはり科学の結論はビビります
新約聖書学の結論は信者でもないわたしが大ショックでした 名探偵、いや名医が登場してくれれば良いんですが
萩尾望都のアメリカン・パイ
竹宮恵子の地球へ・・・
なんてのは感情と論理が錯綜しているかな 感情ではいろいろあります
対象を納得できる、論理的に理解したいというのも感情です
本能の感情、理性の感情
どちらを選ぶかの問題でしょうか 幻覚で亡き母に出逢ったときに慈母のような眼差しをして見つめてくれました
その後スッと消えていきました
姉がやはりあるのよと言っているのを聞いて否定できませんでした 理系の学徒はやはり理性としての感情を選んでほしい
これも感情ですね 数は対象と規定の関係の産物で実在しないというのがわたしの結論です レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。