虚数の実在性@物理板
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虚数は物理学的に「実在」しているでしょうか? もしそうなら、具体的に、様相をお示し願います。 数学なら、無矛盾な体系ができる故に在りですが。 物理での実在の様相(せめて具体例)を知りたい。 虚数の実在性以前に、実数の実在性があやしい もし時間や空間が連続していない離散値だったら微分方程式は使えない 自然数の実在性すら怪しい グラハム数が実在するとするなら、その根拠は何か? おいまて、実在を問うているが、その主体たるお主は実在するのか? 実在は適格な応答を返す複雑な組織の反応体 一つの点があるわけでない 離れて見ないとわからない まともな数学の人は便利な落としどころとしか思ってないけど、物理の人ってへんなドリームを夢見てるの? 目の前の自然は認識器官に結ぶ像 自身もそうだが w 静止、生死は認識には存在するが自然には実在しない 物理としての生滅は無い 静止は運動の一形態 わたしたちが言う動くとは加速 静止とは運動の均衡状態に戻るということ 絶対座標、静止が実在しないということは自然の存在形態が運動ということ 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた新たな濃淡を生成する過程として在る 自然は濃淡はあるがいわば海 粒子は認識器官に波が渦の状態が結ぶ像 無、真空はエネルギーの基底状態と理解出来る 運動を前提に無は導けない 此処から、は実在しない 静止で、生死で、数で理解するがこれらは存在しない 科学は認識の相対化の歴史でもある 地動説、進化論とか 生物非生物と否定関係で規定するが物理としては差異 光速度一定の原理は座標原点は存在しないことを示す 座標原点で規定するが座標原点は実在しない つまり規定が否定されることにより自然が無矛盾だと示される ウイルスは生物非生物と分類困難だが物理状態の差異で否定関係ではない 分類することが原因 規定することが否定されて無矛盾であることが導かれる 座標原点、此処から此処までは実在しない 数で規定するが数は存在しない 運動を静止で、有を無で 0に限りなく近いが0ではないという定義の根拠 不確定性原理は有を無で規定するから測定は≒ということ 認識器官に結ぶ像はその在り方による そのままなら諸生物の認識器官には差異があるから自然は諸生物の数だけ在る 食材を様々な料理法で違う形態に成るがどれが正しいということではない 認識の在り方は考察すべきかと 静止、生死、無は存在しないがそれで規定する 数で規定するが数は実在しない 最小単位から成らない、素粒子、紐、人間、銀河系に生成する 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡に生成する過程 物理としては生滅は無い、静止も数もまた それで規定するがそれは実在しない 人間は自然の一部だから認識は自己言及 自己を他として認識する 規定は否定 クレタ人の逆説は否定で規定するから 運動とは存在すると同時に存在しないことという定義は存在が静止だから いわゆる矛盾は決定不能ということ 有を無で規定するから決定不能に スレタイに戻れば数、多で一で規定するということ 数は存在しない 自然科学は科学革命が必要と三十年以上前から言われている 前世紀末から時間非在の可能性があると科学者は語り 今世紀に入ってから一つの潮流となりテレビ番組、科学雑誌でも紹介されている 中には重力非在説、といっても現象の違う理解を提出する科学者も 現代科学の在り方からいろいろ裁断すると過つかもと気候関係の科学者、竹内薫、茂木諸氏が指摘している 数の理解もまたそうだろう まあネットなんだから自由に w 専門家の過ちを素人が訂正することはそんなに珍しいことではないとファイアアーベントは語る 訂正 0813 スレタイに戻れば数、多で一を規定するということ 数は存在しない 天動説を典型に学者は発見観測したことを必ずしも理解しない 酸素を発見しそれが燃素説を否定していることに気が付かなかった科学者 火星に運河を発見したアメリカの天文学者などなど 脚気をその時の学問から解決しようとした森鴎外 海軍はなぜか解らないが白米を止め死者を一桁に 陸軍は戦死者より脚気の死者が多数に ・・・もしかすると数学者もこれと似たようなことやらかしているのかも そういや院卒の男が不完全性定理で何もかも解らなくなったと某掲示板で投稿していた ・・・そうなら何故〈定理〉なのだろうと思った まさか物理学の人は不確定性原理で何もかも不確定になんてことは言わないよね エネルギー保存則の破れを語った理系の方が居た でも測定値って近似値だからなあ =の測定値はありえない 自然以外無いんだから何処に消えるのやら、何処から生れるのやら 生物学者福岡氏は生物は生きつつかつ死につつあると語る 生れてから現在に至るまでわたしは大きく変化しているが同一のわたし というか同一であることはこの今もない 金属、諸生物と物理としては否定関係ではないのにわたし、あなた、金属と否定関係で規定する 同一を非同一で 宇宙は同一であることはないのに同一の宇宙と規定する 自然に存在しない静止、生死、無・・・ 自然科学は自然認識だから認識の在り方もまた考察されるべきかと 数とは何かは認識の在り方から考察されるべきかと思える 790ご冗談でしょう?名無しさん 2022/12/21(水) 13:24:49.66ID:??? 現在の物理学で「実体」なんぞ無意味 すべてはホログラムにすぎん ホログラムという認識はホログラムではなかったら全てはホログラムではないということですか 解りません あっ訂正 ホログラムという認識がホログラムでなかったら 全てはホログラムだということにはならない 実在なんぞ問題にするのは時代錯誤 すべて実在すると思っても良いし 実在しないと思っても良い 論理的可能性があるのみ 測定は近似値でしかない それが不確定性原理の語ること 何故か 対象には数が実在しないから 此処から此処までが実在しないから 0に限りなく近いが0ではないという不思議な定義の所以 有を無で規定するから、運動を実在しない静止で規定するからこその不確定性原理 存在しない数で存在を規定するから 自然の存在形態は運動であることを絶対座標の実在の否定で科学は示す つまり自然は濃淡の海 座標原点、静止、此処からは実在しない 自然は一であり多ではない 認識器官には静止が存在するが自然には存在しない 地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示す 生死も無も実在しないが認識器官には存在する 自然科学は自然認識だから認識の在り方は考察されなければならない ニュートン力学はその理論の予測したものが存在したから 一般相対性理論もまた予測したものが つまり理論が認められる基準はあくまでも対象 光速度一定の原理は不思議だが自然がそうなのだから つまり自然が決めるということ 禁酒法や社会主義は社会が混乱したり停滞するから先進国では実施されない 理論としては魅力はあるが対象である社会がおかしくなっては元も子もない それはともかく、対象が理論の真偽を決めるのでありその逆ではない 生物学者は生物は生きつつ、かつ死につつあると語る この矛盾した理解は何故か わたしと規定する 生れてからこの現在まで大きく変化しても同一のわたしと しかしこの今も同一であることは無いが同一のわたしだと規定する 生物非生物と否定関係で規定するが物理としては同一 自己に対しては非同一を同一で 他に対しては同一を非同一で 物理としては自己と他、つまり否定関係は実在しない ウイルスは生物非生物と分類困難だが、生物非生物は物理としては差異でしかない 分類は否定で規定するということ 規定は否定 静止、生死、無は実在しないが認識器官には存在する 自然科学は自然認識であり、また認識の在り方の相対化の歴史という側面がある 認識の在り方を考察する必要があるのだと ゼノンの逆説は師のパルメニデスの主張である自然は一であるに対してピタゴラス学派の主張である多、つまり数で出来ているという主張に対する論駁 競技場、二分の一、アキレスと亀、飛ぶ矢の逆説はそういうことだと山川偉也氏は「ゼノン4つの逆理」で示す 実在しない数で実在する自然を規定するのだと 光速度一定の原理はこの逆説を裏付けている 自然の一部である人間が自然を認識する、つまり自己言及が自然科学 自己言及の認識構造は三浦つとむが「日本語はどういう言語か」で解明している わたしという表現は自己を他者として認識するがそれがどのように可能なのかを語る 数で規定するが数は実在しない 有を無で規定する 規定は否定 理論の真偽の基準は対象にあるのだということ そして真理は相対的だとわたしは理解している 視覚の限りでは大地は静止している 太陽系は太陽が中心だと理解してもある範囲では妥当 光速度一定の原理は座標原点で運動を規定するが実在しないのだと示す ある規定はある範囲で妥当だがその範囲で、つまり相対であるのだと 観測問題は粒子は波が渦の状態ということ 粒子は認識の在り方に結ぶ波の一形態 静止が運動の一形態であるように 自然科学は自然認識だから認識の在り方を考察すべきかと 数が実在しないことは光速度一定の原理が示している それで規定するがそれは実在しないのだと 実在は非実在で規定される 830訂正 太陽が中心であるという理解は太陽系の中では妥当ということ 座標原点は規定には必要だが実在はしないということ 認識の相対性の所以 認識論のわたしの参考文献 三浦つとむ「弁証法はどういう科学か」は自己言及について、神といわれるものの認識論からの解明が在る 矛盾の理解については疑問があるがいろいろ面白い 共産主義者だが彼の社会科学の論文から共産主義は実現困難というか事実上の否定の結論が導き出された 新約聖書学はプロスタントがカトリックに対する優位性を示そうとした学問だが明らかに否定され、おまけにイエスはキリスト教とは無関係で、思想としては対立する可能性も暗示してしまう 数学は自身でその無矛盾を証明しようとしてそれは不可能と証明してしまう皮肉を思いだす 科学の結論もヤバそう 板倉聖宣「新哲学入門」 江戸時代に農民は米を食べていたことを史料から証明した 鷗外の脚気理解を考察して科学の失敗の典型を示した 仮説実験授業の提唱者としても有名 真偽が何で決まるかを述べている 論理の性格について言及した本 山川偉也「ゼノン4つの逆理」 ゼノンの逆説が何を意味するかを示した 理系の方たちに認識の在り方を考えるには良い本ではないかと 武谷三男氏は資本論から三段階理論を提出し、湯川理論に否定的なボーアなどに対し異議を唱えた 共産主義もそうだが、数学、新約聖書学は学問の結果はその思想というか思いを裏切ることがしばしば だが武谷三男氏は産湯とともに赤ん坊を流すなと警告した 数学の徒は結論を受け入れ、キリスト教徒、共産主義者たちは読んでいても拒否している 宗教も共産主義も人間が人間である限り不滅なんかなとも思える 自然とは、論理、学問とは 最終的には人間とはが解りたいが なんかヤバそうではある w それはともかく数で規定するが数一般は実在しないと主張したい 認識器官は自然の全てを掬わない そのそれぞれの在り方で自然の像を結ぶ そしてそれを相対化してきたのが科学の一側面ではないかと 数は多として像を結ぶ自然の抽象だろう そして対象との関係で数学は理論を発展させてきたのでは ルートにしても虚数にしても数学の歴史的発展というか展開から生れた 自然に数は実在しないのだとわたしは主張する 自然は無矛盾、つまり一であり、それを多、数で規定するということではないかと 観測結果を記述するために数学的構造が必須のとき、 その数学が「物理的に存在」すると言える。 そうでない数学は物理学のための「道具」にとどまり、 物理的存在ではない。 量子力学はどうか? シュレディンガー方程式は複素数であるが、観測値を得るには、 実数値を導出する。だから複素数が物理的に存在するとは言えない。 a+ibの虚数部のbは実数であるが、ibを測定することはできない。 >>839 >a+ibの虚数部のbは実数であるが、ibを測定することはできない。 馬鹿 量子力学の観測の解釈は (a+ib)(a-ib) だ。 現在の学の在り方でいろいろ裁断するのはアブナイことは確か 次元も実在しないだろう 今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは指摘する 今、此処とは運動する自然を静止で規定する言葉 現在主義とか唱える科学者たちが居るとか 有を無で規定するから、四次元、時間が必要となる 四次元が実在したら無限の静止する自然と観測者が実在することになる 一は多で規定されるということ 一ではあるが濃淡である自然を認識器官はその在り方から多として像を結ぶ 物理状態の差異を否定関係、つまり生物非生物、有無、生死と規定する それらは認識の在り方であり、自然に否定関係は存在しない 一は多、つまり数で規定されるが多は実在しない 一は多となり、多は一となり 認識の在り方は考えられなければならない カントの二律背反、へーゲルの運動定義などは対象と規定の関係の話 不確定性原理、観測問題、不完全性定理などなどもまた クレタ人の逆説は否定で規定するから決定不能に 対象である自然は無矛盾だが、規定は否定 規定が自然には存在しないことで自然は無矛盾であることになる ウイルスは生物非生物と分類するから分類困難に 同様に規定するからいろいろ困難なことになる 素粒子、生物非生物に成るということ 最小単位から成らない 紐に成るのであり、紐からは出来ていない 条件が生成可能ならいくらでも小さくなるということ そして粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態 X軸を時間で直説法で実数とする Y軸を自由意志で仮定法で虚数とする Y=0の時が、量子が収縮している時で、テレビを見ている状態(フジテレビとしよう) Y≠0の時が、量子が波の状態で、他のチャンネルがポテンシャルとして存在している(今は見ていないチャンネル) 人生は原点(X=0,Y=0)からスタートし、プラスのみのX軸(過去→現在→未来)、Y軸(Y>0の時が肯定的な意志(もしこうだったら)、Y<0の時が否定的な意志(もしこうじゃなかったら))を原点が移動する感じで株価のチャートみたいなのが人生です。 最後の文章分かりにくかったけど、要は決定論と自由意志は複素数で表せて、今現在の自分は常に原点だということ 赤ちゃんで生まれた時(X=0,Y=0)で、X軸の単位を年にすると、20歳のとき職業が歌手だとすると(X=20、Y=30i)と表せる←ただし、これは赤ちゃんの時から見た場合である(原点は常に移動する) Y=30を歌手と仮に適当に決めたけど、Y軸の自由意志はどういう単位にするのという話になるけど、自分の願望の難易度としておこう(Yの値が大きくなればなるほど、個人的な達成難易度が高くなる) >>845 ヘーゲル「哲学入門」 二律背反の項目 参照 20+30i=生まれた瞬間の視点で、20年後歌手だったならばという自由意志(思考) 20-30i=生まれた瞬間の視点で、20年後歌手じゃなかったならばという自由意志(思考) 極形式 z=r(cosθ+isinθ) rは絶対値を取る、つまり20年後歌手だったならばという自由意志(思考)と20年後歌手じゃなかったならばという自由意志(思考)は絶対値が同じ つまり、スピリチュアルでいう「思考は現実化する」ってことじゃないと私は思います スピリチュアルでいう「思考は現実化する」って否定形がないんです 歌手になりたい、歌手になりたくない、区別できないんです。 どちらも歌手という思考の絶対値があるのです。 >>848 物理として生滅は無い 生まれる→物理状態の変化 死もまた エネルギー保存則 物理として生まれる瞬間は無い 死もまた 科学者は死がいつかを特定するのは困難だと語る それは物理としては実在しないから当たり前では? 19世紀のガウス、アーベル以前の人びとは、虚数自体が在るか無いかを議論していた このスレタイの様に ガウス、アーベル以降は有理数、実数、複素数の定義とはその集合に対する 四則演算の公理によって定義される数であると理解した。 目の前の自然は認識器官の在り方に結ぶ像でそのままの自然ではない 自然科学は自然認識だから認識の在り方を考察すべきかと 静止、生死、絶対座標は実在しないがそれらで規定する 科学は認識の在り方を相対化してきた歴史でもある 実在しないもので実在を規定している >>1 数は実在しない …この意味では無矛盾か 無限を有限で規定 有限を無限で規定 わたしは物理としては他の物理状態の差異 つまり同一を非同一で 自身は同一であることはないが同一で 〈わたし〉は認識器官に結ぶ像を媒介にした規定 クレタ人の逆説 対象をその否定で 決定不能 ヘーゲルの運動規定、不完全性定理 無矛盾は対象に否定が存在しないことで 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の実在を否定 自然の存在形態は運動 自然は無矛盾 >>853 そんなことは、カントが200年前に考察してるわ。 それ以上のことを言ってみろ。 >>840 だから>>839 で、それを言ったんじゃないか。 読解力ゼロ。 >>841 いや、複素数でなければ理解できない現象があると主張する論文もある。 "Quantum theory based on real numbers can be experimentally falsified" https://arxiv.org/abs/2101.10873 (但し、ピアレビューはサれていない) 静止で運動は規定されるが静止は実在しない 数で規定されるが数が実在するわけではない わたしのは二律背反の解決 規定とその対象の関係の話 静止、生死、無で規定する 〜で規定することは〜の実在を意味しないのだということ 有は無で規定されるということ 次元は実在しない 此処からは実在しない 此処までも わたしたちが認識する自然は認識器官に結ぶ像 静止、生死、無は実在しないが認識器官には像を結ぶ 数で規定するが数は実在しないというだけ 複素数で理解出来るから複素数は実在するということにはならない 座標原点は必要だが座標原点は存在しない 自然と規定、つまり認識の在り方を多くの科学者は意識しない 自然科学は自然認識 地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示し、以降の科学は認識の相対化の歴史でもある 数で規定するがそのことは数の実在を意味しない 対象である自然が無矛盾であることは座標原点、つまり静止という規定が実在しないことで示される 規定は否定であるから対象には当然その否定,静止は実在しないことで無矛盾であることとなる 自然が理解可能ならば数は実在しない それで理解可能だからそれは実在する、という理解はどうなんだろうという疑問です それで理解可能だからそれは実在する、という理解はどうなんだろうという疑問です 自然、論理とかの理解が前進すればそれでOK まあアマチュアですから、面目なんかどうでもいいわけです 納得できればなんでも w 多くの物理学分野で複素数が使われるのは、それが便利な道具だからだ。 しかし、煩雑さを厭わなければ、実数だけで同じ結果を得られる。 科学的な意味で「数学が存在する」とは、観測結果を記述するために、 それが必須である場合。 通常の量子力学では、観測結果は実数値をとる。 しかし、ある種の量子もつれでは実数値で観測結果を表せない と主張するのが>>856 の論文だ。 自然科学は自然認識 科学はそのまま自然を認識できるわけではない あくまでも認識の在り方を媒介にしている 認識には自然には存在しない基準設定が必要 認識の在り方の認識が必要 「科学による自然認識」と言う場合、それは受動的なものではない。 科学は自然に働きかけ、その反応を予測する。 つまり、科学はヒトが行動するための有利な予測を与える。 これが科学が尊重されるゆえんだ。 「占い」も予測を与える。 「占い」よりも「科学」が重んじられるのは、結局のところ、 予測能力が格段に優れているからだ。 自然が解答する 対象が答える 対象が真偽を決める どんなにもっともらしい論理でも自然がノーならアウト いずれにしても、それで理解可能だからそれが実在するという理解には疑問がある 静止で、生死で対象を理解する しかしそれらは実在しない 数で、虚数で理解可能だから数一般が実在するという理解には疑問 ゼノンの逆説は自然は数で規定するが、それは実在を意味しないということ 実在したら目的地には到達しないしアキレスは亀を追い抜けず運動は実在しないこととなる 絶対座標、此処からは存在しない 此処までもまた なぜ測定値は近似値なのか 「実在」に過度に、「真の」とか「恒久の」とかといった 負荷を負わせるのは不毛だ。 あらゆる現象は変化する。 その中で、かなり安定して使える「エンティティ」があれば、 それを「実在」と呼んでよいだろう。 わたしは同一であることはない 生きつつ死につつある 科学者は認識の在り方を掘り下げるべきかと だが変化すること自体は変化しない 運動変化は恒常 変われば変わるほど変わらない 変わらなければ変わらないほどますます変わる 認識の在り方を考察しないとミス・マーブルの後塵を拝しそう 飛ぶ矢は必ず一点に存在する 静止もまた一点に存在することだから飛ぶ矢は飛んでいない 運動は静止で規定するから これは対象とその規定の問題 静止で運動を規定する 静止は実在しない 対象とその規定の問題 静止で規定するが静止は実在しない 数で規定するが数は実在しない 対象とその規定の在り方が様々な問題を出来するだけ 運動とは存在すると同時にしないこと 存在という規定の問題 今日は疲れた 中島みゆき聴きながら寝るわ あしたの昼までは残って居るよな 変化と時間は別ものだ。 変化はプロセスであり、時間は数のつらなりである(連続か、不連続かはともかく)。 物理学としてのゼノンのパラドックスでは、このことを意識するべきだ。 でないと、文学的言説に終わってしまう。 前にも書いた 現在、今には幅が無い 現に在る、過去は過ぎ去り、未来は未だ来たらざるで、過去も未来も現在、今には存在しない 今には幅が無い 今、此処と指示すると、今、此処は飛び去る 自然の存在形態は運動であることは、絶対座標、つまり運動の否定、静止が実在しないことで示される 座標原点は実在する今、此処を静止で規定するということ 規定は否定であり、今、此処という規定も運動を静止で規定する言葉 運動という有を静止という無で規定している 今には幅が〈無〉い 0に限りなく近いが0では無いという不思議な規定の所以 有を無で規定するから測定は≒でしかなく、近似値でしかない 不確定性原理の所以 0次元、座標原点は実在しない 無を無限に集めても無 静止である三次元を無限に集めても運動するわけではない 運動は直接理解出来ないから量で、0に限りなく近いが0では無いとしなければならない 四次元も0次元同様に実在しない それは認識の在り方が要請する観念的存在で実在しない 現在しか実在しないし、現在、今の正体は運動 年、月、日、秒・・・ それらは太陽の周りを地球が一周、1回転、1回転を24で割り・・・ つまり時間は運動量 年、月、日、秒は運動量で実在しない 実在したらどんな風にわたしたちの前に展開するのか 米が苗から実るまでが一望のもとに存在する? 蝉の羽化から死ぬまでが一望のもとに? 時間は認識の在り方が要請する観念的存在で物理として実在しない 静止で運動を規定するが静止は実在しない 時間で規定するが時間は実在しない 生まれるとは物理状態の変化、死もまた 生滅で規定するが物理として生滅は実在しない 対象は認識の在り方からそのままでは規定、理解出来ない 〜で理解するが〜が実在するわけではない 自然は多か一かということ ゼノンの逆説は自然が多、数で出来ているとしたら運動は不可能ということを示した しかし多で規定、認識することは否定しない 自然を多で規定するが自然は多ではないことを示した 多で出来ていると仮定したら最小単位の半分があることを示す 数に大きさが無いのなら目的地に到達することはなく アキレスが亀を追い抜くことは無く、飛ぶ矢は静止していることになる あくまでも対象はそのままでは規定できないということ 運動は静止で、物理状態の遷移は生死で 静止、生死で規定するが実在しない 〜で規定するが〜は実在しない 時間もまた 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた新たな濃淡を生成していく過程 淡は認識の在り方から像として結ばず、自然は多として認識器官に像を結ぶ 次元はその抽象 多で規定するが多はあくまでも認識器官に結ぶ自然の像でしかない 自然科学は自然認識の相対化の歴史という側面がある 静止、生死、無、此処からで自然を規定するがそれらは実在しない 時間で規定するが時間は実在しない 数で規定するが数は実在しない ゼノンの逆説は光速度一定の原理で裏付けられている 自然科学は自然認識 認識の在り方は考察されるべきだと理系の学徒に提案したい 認識の在り方に結ぶ像がそのままの自然ならば諸生物の数だけ自然が存在することになる ああ、繰り返しだな んじゃ午後にやることが無ければ午後にまた わたしは自然とは、科学とはを通して人間とはを理解したいだけ 納得できれば良いだけ わたしの理解が間違っていることを納得できる形で示してくれたら直ちに撤回します わたしの目的は人間とは?、ということ 科学もその手段です 有を無で、対象をその否定で 決定不能の所以 クレタ人の逆説は否定で規定するから 嘘つきであると嘘つきが正直に言うから 自然は無矛盾であることは規定、否定が対象に存在しないことで示される 無矛盾であるが否定で規定するからいろいろな問題が 生物非生物と物理状態の差異を否定で規定するからウイルスのような分類困難な対象が つまり分類すること、規定することが原因でなんら自然という対象の問題ではない 規定すること自身の問題 認識の在り方を考察しなければならない所以 わたしの理解だが 光速度一定の原理は対象である自然が無矛盾であることを証し、規定の本質を示している 極めて単純、極めて豊穣とタゴールは歌った この原理の評言として相応しいかと んじゃ 朝から中島みゆきはちとキツいかな w ・・・わたしの自然理解の結論はちとナニ 宗教や共産主義幻想は人間が人間である限り不滅なんだろうな 迷惑かけない限り何を妄想しても勝手だが。迷惑をかけるのが思想や宗教かなと 人間は社会的動物だからなあ とりあえず納得出来る形では解決できたが、新約聖書学、数学、マルクス主義みたいに 究明すると目的と真逆の結果が出て来たりする さてと、どうしようかなと 学問の為の学問もアリかな 芸術至上主義が成果を産まないなんてことはないし わたしの立場は究極として人間理解 そうそうマタイ福音書の動機はかなりいかがわしいが思想としては高く評価されている バッハのマタイ受難曲という西洋音楽の金字塔まで いろいろ皮肉だ バッハが苦手な母が私が映像版で視聴していたらいつの間にか横に座り 三時間最後まで観て、良い曲だねと台所に戻ったことを昨日のことのように思いだす いや、学問に少しでも寄与できればわたしの願いは叶う いろいろな視点、理解があることを理系の徒にということです 素人ですが、ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことはしばしばあるとその著書で述べ わたしが傾倒する言語学者もまた素人だからというのは違うと書いている わたしの理解がそうであればとは思いますが いずれにしてもこれからの学問が、自然が回答するかと 宇宙の妄想だけなら人畜無害だが、人間社会に関わると有害となる 神戸5人殺傷事件の男は”他人が人間と同じ姿で自我や感情を持たない哲学的ゾンビ” と称する被告の妄想が裁判で認定され無罪判決。 反駁がないのが残念です あとIDが・・・ あたいの夏休み 調子がいい曲だからかな 三十年以上前の曲だがよく覚えている 中島みゆきと美空ひばりは正座して聴くといった著名な批評家がいた 美空ひばりは苦手なんだが、ラジオから流れてきた「さくら」には聴き惚れた 自然には次元、諸力は実在しないと理解している 対象と規定の関係の問題 対象は無矛盾、規定は否定 自然はただただ運動変化しているだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる