【イエス】統合スレ【キリスト】
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天にまします我らの父よ。
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。
------------------------------------------- ロゼさん、ありがとう。^^v
こちらが活用されればよいですね。 お二人みたいに聖書の事は私は語れないので
他人まかせです(~_~;)需要がなければそれまでと・・・ 主役は書き込む人それぞれということで。
なんとかなるでしょう。^^; 新居いいですね。
今のところクリーンな状態をキープしております。^^v イエス・キリストの
会堂へ行った目的は
イエス・キリストの聖なる愛から知る知恵
というテーマだ、
漠然としたテーマだが、
漠然としているのが
イエス・キリストだと思われる。
と、
ネタあげしとく〜 聖書の中でイエスは一回も自分を神だとは言ってません。
神だと言われるとイエスは怒りました。自分は神ではないぞ!と。
イエスを神だと言ってるのは福音著者のヨハネだけです。 >>8
こんばんわ!
>>9
こんばんわ!
>>10
こんばんわ!
>>11
こんばんわ! こんばんは〜。^^
神学も科学もその手法は全く同じであり、
同じ手法だけど適用する分野が異なるだけだと、
私は確信しています。
たとえば、物理においては、物に物が衝突した時に、
物と物との間に力・Fが働いて、その結果、物が動くと理解します。
同様に、地上で物が落下するのは、
物に重力・Gが働いて、その結果、物が落下すると理解します。
しかしこの力・Fも重力・Gも、
直接観測することは不可能なのです。
力を直接観測するこは不可能なので、
物が移動する様子を観測して、
そこに力が働いているのだと、
理解しているだけなのです。
そしてそう理解することで、
全ての物の動きを簡単に予想することが出来るようになります。
それを社会に還元して、社会の利便性を向上します。
神学も同じです。
神を直接観測することはできません。
しかし神がいて、この世界が創造されたと、理解することで、
この世界で起こる様々の出来事に意味があることがわかります。
その視点で世界・社会を見る時に、
今後の世界・社会・人がどうあるべきなのか、
またどの方向に進むべきなのか、
指針を立てることが出来るようになります。
神学も科学も適用分野は違え、どちらも、
世界を観測し、そこに隠れている法則性を見出し、
人に役立てるという手法は全く同じだと、
私は理解しています。 【新改訳】ヨハネ14:9
イエスは彼に言われた。
「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、
あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」
人でもあられるけど神でもあると言うことでいいのではないでしょうか? イエス・キリストの聖なる愛から知る知恵
というテーマだ、
漠然としているが故に
絶対的な存在となる、
明白な形式の提示が不可で、
ミラクル前提が故に
唯一神であり、
絶対的な服従となるのだろうな、 >>16
落款的やな、
俺から見ると、
キリスト教世界は
悲観論的な感じる
イエス・キリストのミラクルがないと、
という仕組み、
惨状のこの世を
イエス・キリストが悩み乗り越えたように、
のたうち回るりながら、
復活の希望を見る、
という具合に、 >>16
楽観的やな、
俺から見ると、
キリスト教世界は
悲観論的な感じる
イエス・キリストのミラクルがないと、
という仕組み、
惨状のこの世を
イエス・キリストが悩み乗り越えたように、
のたうち回るりながら、
復活の希望を見る、
という具合に、 世の闇の中の希望
という感じがする〜
俺的にはな?、
とは
思うけど、
それが
イエス・キリストの道なのだろう。 >>21
>世の闇の中の希望
>という感じがする〜
確かにイエス・キリストは世の希望ですね。
彼は十字架の死と復活をとおして、
この世の死は、永遠の終わりではないことを示してくれました。 >>16
近代と違って
宗教と科学の対立はもはや過去のものですが
自分はどうして生きているのかという
問いは宗教でしか解答が出来ないものなのです。 >>22
>進化論については?
私は進化論は、科学者の凡ミスだと考えます。
進化という言葉が適切ではない。
人はミミズより進化しているか?
いや、ミミズにはミミズにしか出来ない使命があり、
人には人にしか出来ない使命がある。
進化論ではなく、生命の多様性論または、
生命の分化論とでも命名したほうが良いと思います。
もちろん生命をそのように創造したのは、
神の意思であったと言うことです。 >>23
イエスキリストは復活なんてしていません。 ( たんに死んだんです >>26
太古、人間の様な霊性を有する生物は存在していませんでした。
すなわち、「進化」したのではないの?
人間の「霊性」自体を否定する無神論者なら、いざ知らず。 進化というプロセスを「経験によるトライアルアンドエラー」と捉えると
最も進化しているのは鳥類ではなかろうか
恐竜が絶滅したと言われる6600万年前、哺乳類はまだネズミのような小さな存在だった。
ほとんど全ての生物的能力で、人間は鳥に圧倒的に劣っている。
そして人間はおしなべて、鳥の生き方に憧れている。
「翼をください」
「空も飛べるはず」 >>29
鳥ですか?
俺はかつて手乗り文鳥を飼っていた。
それ以外にも、
犬・金魚・観葉植物・コオロギなんかも飼ったり育てたりしている。
夫々の生き物には「霊性」と云うものがある。
信じ難いだろうが植物にさえ霊性がある。
程度の高低と特性の違いがある。
人間の霊性は高いです。
次いで犬。
植物の霊性はあるにはあるが、知能に例えて言うなら白痴レベルです。 今日の教会堂のネタを
聖霊の力を味わいつつも、
アタマに閃いた、
不明瞭なイエス・キリストの聖なる愛からの知恵
という不明瞭だが希望に
満ちた自分の生への
希望〜
そういう時間を〜
なんとなく、
まとまった、 聖なる希望は
聖なる知恵である〜
曖昧だが、
明白な閃き感が〜
笑 >>16
科学と聖書の中の啓示は何も関係ありません。
もし聖書の中の啓示における神の直接的に伝言が
人間から人間への伝言のごとく
実在性として存在するならば
それは他の史的のように確実に記録で証明されます。
しかし神の直接的伝言が、ただ、信じる者にとってだけ
存在するのですから
それは元々人間の直接的伝言とは法則的原理的に
別の性質を持っていますの。
聖書の中の啓示は信ぜられるものであって
科学証明や史的証明によって知られるものではありませんからです。 >>30
色々飼ってるんやね〜^_^)
うちのパキラはしばらく旅行などで留守にすると帰宅した時明らかに元気が無くなっています。
そしてしばらくするとまた元気になります。
寂しいのかな?と思ってます。 人間には視力・視覚と云う能力がある。
赤いリンゴや黄色いバナナが明らかに見えているとしよう。
仮に、同じく居合わせた生まれつきメクラな人が居て、「見える」と云う事実を証明しろと要求して来たとしよう。
俺は絶対に証明出来ないと思う。
「見える」と云う事実らしさを信用させることが精一杯で、厳密な証明は不能だと思う。
この例からも明らかなように、全くの無神論者唯物論者に「霊」を証明することは不可能だと断ずる。
すなわち、彼の人達とは「霊」について、何を話しても無駄だから、相手にしてはいけない。 >>33
>聖書の中の啓示は
それ、全部「ウソ」だよ。
何年も掛かったが、全てがウソに過ぎないと見抜いた。
信仰の問題じゃないんだ。
それは「霊性」の問題なのだ。 >>33
聖書の啓示を神の直接伝言、或いは時間空間の中で一定の場所での神の行為であり
それは特殊なものであって二度と再び直接的に伝言があるのではなく
もろもろの概念を超えてて
真なる唯一の啓示なのです。 しかし
聖書の啓示は教会の内部、信者達で信ぜられてるのです。
哲学することにおいて私達は
啓示を早まって誤って一致するのを警戒しないといけませんの。
啓示概念は叩き込まれたり見掛けの理解、和らいだ説明で
分かりやすくされることであってはなりません。 啓示信仰の特殊な性格が考慮されずに啓示とか恩寵とか科学と同じだとか口にするならばそれは自己欺瞞であり悪い趣味です。 哲学することの誠実性は
啓示信仰を厳然と理解出来ないものとして区別することにあります 聖書自体が人間の作品であり
よって多くの誤謬に満ちていて
そのことはプラトン、スピノザ、カント、アインシュタイン、ホーキング博士が意識していました。
聖書を基準としては私は信じたいという気持ちにはなりませんが
啓示信仰の驚嘆すべき現象を繰り返し眺め
無駄骨ではございますが理解しょうという衝動はあるのです。 >>16
観測
イエスは光輝を観ていますよね
直覚で神を観て
神の声を聴いていますよね 一番よくわからんのが
イエスを追う人の群れだったりする
信者が何故こんなにいるのか
どこに目をつけたのか >>28
>太古、人間の様な霊性を有する生物は存在していませんでした。
>すなわち、「進化」したのではないの?
グノさんの仰る通り、太古には人間はいませんでした。
太古はまだ人間が生きれる環境が整っていなかったからだと思います。
人が生きるためには、多くの動植物の助けが必要です。
酸素を生み出してくれる植物や人の食物となる動植物が必要です。
人が生きれる環境を造るために、
最初はバクテリアからはじまり、
次に単細胞生物、多細胞生物、植物から動物へと、
徐々に人が生きれる環境が整えられていったのだ思います。
このプロセスは、たぶん進化論と全く同じだと思います。
しかしこれを進化と呼ぶことは間違っていると思います。
人間がバクテリアより進化しているわけでなく、
バクテリアの働きも必要だったわけです。
人がバクテリアの働きを変わってすることは不可能です。
私は地球上の生物種を個別の生物種として見るよりも、
全体で一つの生命システムとして見るべきだと思います。
一種だけの生物種だけでは、生命を保つことは不可能でしょう。
多くの異種の生物種が、互いに助け合って、個々の生命を保っているからです。
恐竜より人間は進化しているでしょうか?
恐竜の時代には、人間は生きれなかったでしょう。
その時代の環境にあった、生命種が命を繋いでくれたのです。
地球全体の生物種を一つの生命システムと見た場合、
その中のどの生物種がより進化しているのかという考え方は、
一人の人の中で、
足より、手が、手より頭が進化していると考える考え方と同じです。
足も手も頭もそれぞれ違った役割があるのです。
そして、創造論とは、地球の生命システムをデザインしたのが、
神であるという、理論です。
そのプロセスは、進化論と同じかもしれませんが、
そこに神の意図があるということです。 >>45
半ば正しい認識だと思い同意するものの、半ば同意できない。
確かに、多様な生物種全体が関係しあって、一個の生命体の如き現実は認められる。
しかし、太古の「それ」と今日の「それ」ではあまりに大きな変化を遂げてしまった。
人間の霊魂とは、万物の霊長に値すると云う考え方には同意する。
かつて、人間以上の霊性を有する個体(霊魂)は存在して居ない。
その人間が誕生したのは、進化論的歴史年表としては、極最近なのである。
生物種をトータルで考える、集合無意識的な発想に反対はしないが、「神の意図がある」と云う考えには、まるで同意できない。
実をいうと私個人、創世記に示唆されるような「創造」と云う発想に、根本的な疑念を抱いている。
と云うか反発を感じる。進化と云う史実には何も関係ないことだと。
あくまでも、天地万物・生命種・人間の発生を「擬人化表現」した神話としてのみ、その観念化まで否定するものではない。
だが考えて欲しい。
それ(生命進化と地球環境の安定)は、そもそも善悪とは(そして人間の罪や人祖の罪とは)無関係ではないのか?
むしろ現実を直視するなら、「恐れ・悲しみ・困窮・無知」こそが、この世界存在の根本原理なのではないか?
私は、善なる神による万物創造と自由意志を有する人類が神の啓示を受けつつ創造の完成に向かうという発想自体を全く否定する。
それが「神話」であってさえも、その神話を受け入れることは出来ない。
それは「偽の神話」だとしか思えない。(だから私はグノーシス神話の方を支持して居る) >>44
真理を探究する人は聖者との出会いを求めているから
清らかな魂に信仰者たちは引き寄せられる
イエスのような純白な意識に
あの時代にもTwitterがあったらしいよ📱📱📱 >>45
バクテリアにも恐竜にも信仰心はありません
意識には高低があります
人が万物の霊長です
あなたの過去世は植物だったかも
あなたの前世は動物だったかも
意識は進化しています 中世ローマの神父は異教徒の少年を性的に洗脳し改宗させていたそうです。とても恐ろしい話です おはようございます〜。^^
>>32
>聖なる希望は
>聖なる知恵である〜
アーメン。 正しくはアーヌンです。間違えは神に対する冒涜です。アーヌン >>46
>私は、善なる神による万物創造と自由意志を有する人類が神の啓示を受けつつ創造の完成に向かうという発想自体を全く否定する。
>それが「神話」であってさえも、その神話を受け入れることは出来ない。
>それは「偽の神話」だとしか思えない。(だから私はグノーシス神話の方を支持して居る)
上記のグノさんの結論は、まさにグノさんの信仰表明だと思います。
私たちに人には2つの根本的疑問があります。
1)この世界がどうやって始まったかのか?
この世界が今後どうなっていくのか?
2)地球の生命体がどうやって始まったのか?
地球の生命体が今後どうなっていくのか?
考え方(A)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
たぶん、グノさんの考え方は、1)も2)も偶然の結果であり、
1)と2)の未来は定まっていない、という考え方だと思います。
この考え方は、今日の一般的な無神論者の考え方でもあります。
考え方(B)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
聖書においては、1)も2)も神が創造して始まった、であり、
1)と2)の未来は、神により定められている、という考え方です。
ここで問題なのは、考え方(A)と(B)の何方が正しいのか、
実験などによって確かめる方法が無いということです。
となると、(A)と(B)の何方を取るのか?は、
その人の信仰によるしか無いということになります。
では、聖書はどのような根拠で、(B)の考え方を主張するのでしょう?
それは、人の心に働きかける神の霊が、そのように人に教えてくれるからです。
聖書は、人に働く神の霊感を根拠として、(B)の考え方を主張しているのです。
ここで、科学と神学の違いが何か、理解できると思います。
科学は、神の霊感を対象に含まない学問であり、
神学は、神の霊感をも対象に含む学問である、ということです。 聖なる愛と希望と信仰が
土台という
キリスト教の仕組みの全体像が
見えてきたな〜 コスモの心は常に自己の理性と解明する信仰の空間の中で
言葉となるところのものが
科学認識を通じて実在性の中に神の場所を獲得したいというつもりなのですが
科学は歴史の始まりにも終わりにも手が届きません。
始まりに到達しないのは科学が記録、証明、伝承、という現実の実在性と結び付いていますので
これ等が欠けると対象を持たなくなるからですの。
科学は科学自身が歴史であり対象であるのですから。
それと科学が完結できない理由は2つのあります
第一に
具体的な実在性には無限性が有るからです。
第二に
歴史自体が完結しないからです。 神学とは聖書の中の啓示真理を前提とした学問体系です。 最終的に科学が科学の形をしてるかどうかもわからんし
いつまでも科学が同じ評価を得ているかも疑問だな こんにちは。 新スレいいですね!
『啓示は、神または超越的な存在より、
真理または通常では知りえない知識・認識が開示されることをいう。
天啓、神示ともいわれる。啓示によって真理が開示され、
それによって信仰が成立する宗教を、「啓示宗教」と呼ぶ。
キリスト教は自ら「啓示宗教」であるとする。』
『神学は、信仰を前提とした上で、
神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。』
『科学的な根拠に基づいて客観的に研究する宗教学とは異なる。』
『神道や仏教では、教学(きょうがく)や宗学(しゅうがく)と呼称することが多い。
護教学(ごきょうがく)と呼ばれることもある。』
『各宗教ごとに存在するものではなく、自身の信仰について考察する学問として、
一般的な神学が存在しうるとの理解も可能である。
Theologyの語源はギリシア語のθεολογια。
θεος (神)および λογος(言葉)の合成語。
「神についての議論(学問)」という意味。』
◆ですから、キリスト教は啓示宗教であり、キリスト教神学は
その信仰形態を前提にしているのですが、キリスト教の神をはじめとする
宗教概念について理論的考察をする学問なのです。
理論的考察をする学問であるのですから、始まりと終わりがあるかどうかで
なく、宗教概念という範疇内において、科学的な考察方法と似ているのです。 理論的考察をするから何でも科学と同じだという琴さんは
数年前に琴さんはイエスは科学者だ!イエスは科学者だ!と叫んでましたね。 実際には科学認識と技術が世界を越えず
全体として把握しないのに反して
直観や宗教は世界全体を把握します。
しかし
科学的にはいろんな世界像を排除せざるを得ないのです。
科学ですから。
それらは別の意味で有効なのです。
それらは神の記号ではないけれど
全体としての自然の記号なのです。 霊的な創造主が唯一の現実となった場合
世界そのものはただ、
世界の創造時期と終末との間の移動にあるのです。
科学で世界を探求解明するんだい、世界の神を探求解明するんだい
は違うのれす 実際には多くの科学技術成果は植物や動物や人間を
人工的製造したりするように根拠のない空想も産み出しています。
このような空間はどんな神の 記号もありません。
思考の無分別、科学進歩技術が巨大な進歩の歯車としてそんな吸収されてる人間達により
されてることもあるのです 沈んでいく人間存在の経験は科学技術の成果は
もし人間というものが変わらなければあらゆる生命を抹殺しかねないことも覚えさせます しかし現実を生きる人間は希望に基づいて生きているのです。
技術進歩に誇り思い上がって沈みゆく人間は上っ面ですが
人間が何であり何でありうるかは
各人間が自分自身と意志と思想と行動を通じて
自分の深みと自覚を通じて飛翔の経験をして
意気消沈させる経験を克服することによってあるのだという希望があるのです なんか面白い話してますね
ふと思った
これまで知識は命をもたらすと考えられていました
で、近年になって大きな実験とかが行われるようになったのです
で、いらないな、と思える物が存在します
私が知る要らない発明
スーパーカミオカンデ
水爆
高速増殖炉もんじゅ
こういうのは費用対効果と言うか、
リソースがものすごい割に
命には一切貢献しないんですね
で、そう言うただ好奇心を満たすだけの研究はもうやめた方がいい
何か知りたい事があればその命への貢献度を計算しなければマニフェストは成り立たないです
まあこんな話すると、アウシュビッツ収容所は本当にいい物だったみたいな話になる
日本もドイツも流した血への償いを計算する頃かも知れません 『natural science〔ナチュラルサイエンス〕, science〔サイエンス〕 )
または理学とは、自然に属しているあらゆる対象を取り扱い、
その法則性を明らかにする学問 。』
『科学者の発生は近代科学の成立にその起源をみるべきであろう。
古代にも自然に対する洞察とその体系化への努力はあった。
しかし、ある自然観の下に自然の解釈を概念的に展開することから一歩進めて、
これを経験と結合し、
むしろ経験のうえに自然の理解を位置づけようとする人々が現れたのは、
17世紀のいわゆる「科学革命」の時代であった。
彼らは自然法則を解明するための実験の方法を創出して、
これを論証的推論と結合させた。これが近代科学の出発である。
いわば技術的な発展を背景にして成立した新しい社会の体制、
すなわち近代市民社会の成立が科学者という新しい階層を生み出したのである。
彼らは一面では知的伝統を受け継ぐ宗教家、思想家であり、
他面では技術的蓄積を吸収発展させる技術家、啓蒙(けいもう)家であった。
彼らの出身は小貴族、商人、聖職者、医者、技術家などで、
知的な豊かさと生活のゆとりをもった社会階層であった。
彼らの科学研究はその生計とは密着せず、
また社会的生産にも直接の関係をもたなかった。
これが一つのプロトタイプとして後世に影響をもつことになる。[藤村 淳]』
◆>理論的考察をするから何でも科学と同じだという琴さんは
そのようには、言っていません。 エヴァとは命
命への道とはどのような物か
知識ではたどり着けない物のようですよ シェリングやゲーテも科学には立脚しませんでした。
科学では気付かなかったものを経験の別な様式を確定して
発展させようとしましたの 太古から人間は、四苦八苦を感じたはずです。
「生・労・病・死」を持って生まれ、
「悲しみ・嫌なこと・苦しみ・困ること」は生きている以上、やってきます。
太古からの人間の共通する四苦八苦に対して、各地域の対処の仕方があり、
それが各宗教となったのだと思います。
神話の違いもそこからなのでしょう。 >>73
旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記の1章と2章は、異なる天地創造の物語が
記録されています。
2章ですが、こちらがこちらほぼヘブライ民族(=イスラエル民族=ユダヤ民族)
の固有の創造神話に当該します。
ヘブライ人の四苦八苦から、神話が出来上がってきます。
われわれの四苦八苦は、どうしてなんだろう、原因を考えたのが2章です。
エデンの園と楽園追放は、苦が生じた理由として彼らなりに考えた
民族性による神話です(他民族から借りたり混在させているとしても) そうそう、原罪なんていつまでも祖先の類人猿様を蔑むなんてもってのほかであるとずっと言っている セムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)共通の、創世記神話による世界存在認識スケルトン自体が破綻を来たしている。
美魔女さんや琴さんは、そのことに既に気付きつつあるように思える。 (だが、この二人は仲が悪い・・) >>73-74
この神話は、豊かな場所からの追放という、
苦のなかでも、現実的な土地と場所と結びついており、
チグリス・ユーフラテス近辺への望郷がともないます。
追放された原因を考えた結果、われわれは、神に背くことをしたんだ。
エデンでは、神と共にある命の木の実も食べて、苦を感じず楽しかったよな〜。
罪が入り込んで(ヘブライ語の「ハッタート」神からの離反、反逆を示す、
罪の起源を示す言葉)追放されたのだと、
先祖の長い年月と現実の追放とが、折り重なり、神話となったのでしょう。
アダムとエバを誘惑したサタンは蛇の姿で描かれているのですが、
もともと、天使長の一人であり、神に敵対して追放されました。
この構図は、神に反逆した人間と相似しています。 >>77
このような神話世界から、独自な宗教観を持つのです。
現実にあった土地から追放されますが、現実にある場所(カナン)を
神が与えると約束する。このような現実的な契約は四苦八苦への対処としては
異色です。
神と言っても土地と契約という形は、たいへん物質的です。
カナンをすぐにあげればよいのですが、いくら選ばれている民と持ち上げられても、
心理トリックで、彼らは選ばれていない者は殺してよいの頭で、
殺しながら土地を奪うしかないのですから、それを繰り返さす神って?
離散、捕囚があるたびに、罪があったからと、エデン神話の追放に
戻り、また繰り返す。
悲惨、悲劇の神話。 なぜ現在の倫理観を適応するのか
中世のコロッセオも中国の漢字の成り立ちも世界大戦も戦国時代も三国志も等しく全て狂っているではないか
ここにおいてある種の平和や倫理観に基づき人は旧約聖書を読む 残虐、とは取り上げやすい題材のようだね
古代の人達は血を見ないと気がすまなかったようだ
これはイエスの断罪やヨハネの死にも当てはまる まあ、旧約は全て当たり前の事しか書いてない
前述のゴミのような時代に比べれば 検証事実を対象とする科学と
信仰に理由を必要としない宗教とは
相容れないのですが
コスモは
信仰に理由と対象と理性と事実を科学から見いだせると確信をしたつもりになっている。 むしろこう、長く続いた時代を否定する、というのはどうなんだろうね
人は人の血を否定する事を刷り込まれたが
実は大切な何かを失っているのかも知れない
なんなのかはわからんが 自分、仕事してない時期あったけど
あんまり仕事してない自分を
悪く言わないようにしてる
それ程差がないよ、と人に言いたいんだよね
学歴無くても職歴無くても
人は人だし働けるしみんなを笑顔にするよ、と
人はただ生きていればいい、と 俺はね、もし可能ならばヒュパティア教授の話を聞いてみたいと思う。
①神とは?
②人間とは?
③世界とは?
④人生とは?
⑤命とは?
⑥善悪とは?
⑦苦しみとは?
⑧欲望とは?
⑨愛とは?
⑩死とは?
⑪罪とは?
⑫救済とは?
etc 人間とは何か。
人々は人間が何であるのか。知ってるでしょうか。
このような知識はむしろ人間から生じるところの要因です。
人間が自分自身を如何に思い描くは自己の責任ですらあります、
人間はややもすると一般的な人間学、心理学、社会学的に知っているところのものに堕落しかねません
しかし人間は常に自分について知っている以上のものなのです。 私達自身が何であるのかは
世界と同じように極めて神秘に満ちています。
数千年において、特に数世紀において、
私達自身が何であるのかを私達は当時と同じように
ほとんど知らないのです。 私達は私達の認識以上のものなのです。
私達によって認識されたものと認識されないもの、
無限に包み込むものの前に私達は立っているのです。
世界が秘密であり
各人が各人自身 秘密なのです あらゆる世界に先立ちあらゆる世界を超えてあり
しかも世界の中では対象とならない、
別な由来が自覚されるとき
私達は高度な清らかな意識のうちに
私達自身の責任を身をもって知ることになるのではないでしょうか。
私達は世界の存在の意味では知られない何かに対して
開かれている存在なのです。 信仰はコスモが想像しているものと正反対です。
理性推論による論証や科学推論の論証は不可能です。
信仰の問題はパスカルの言うように
「賭け」なのです
パスカルがデカルトを許せなかったのと同じで
私もコスモを批判しています。 冗談ですよ🎵
ストーカーみたいじゃん
車検と
暖房買うから出費が凄い >>81 -82
ええ、一般的な残虐性においては、そのようにも言えるのですが、
神観、一神教における神話の持つ、影響力として現代まで続いているのです。
ユダヤ教のパレスチナ問題はまさにそうですし、
欧州から追放のようにしてアメリカ大陸へ渡ったキリスト教ピューリタンは、
神に与えられた土地、カナンに見立てて、選ばれた者として、
異教徒を殺戮するのは、旧約パターンですし、他民族を奴隷にまでします。
他地域にもある古い時代の出来事、残虐性という側面に気持ちを持っていかれると、
見えなくなるような事情があるのです。
彼らの神話、神とそこから生じた宗教の連綿と続く特異性は、
日本人にはわかりにくいのですが、
ユダヤ・キリスト教を、知っておかないと世界情勢の分析も、
グローバル社会において、パーソナルコンピューターを
各人が所有しているのですから専門家だけに任せる時代は終わりました。
統一教会は、イスラエルや米国と繋がっており、
ぼーっとしている日本人が金蔓になって利用されていたのも、無関係ではありません。
ユダヤ教やキリスト教をやっつけろ、というような感情的な話でなく。
(訂正)
>>73「生・老・病・死」
>>74 2章ですが、こちらがヘブライ民族 >>98
>統一教会は、イスラエルや米国と繋がっており、
イルミ・メーソンと言った方が正確じゃね
ここではこのワード御法度? 科学は人を幸せにするのでしょうか。
科学の時代に救済は可能なのか。
科学は個人の経験の様々な事象を説明できるのでしょうか。
科学は天の御告げを説明できるのでしょうか。 寒いですが、こんにちは〜。^^
>>100
>科学は人を幸せにするのでしょうか。
>科学は個人の経験の様々な事象を説明できるのでしょうか。
>科学は天の御告げを説明できるのでしょうか。
今の科学でもある程度は、人の幸せに貢献できているでしょうし、
常識的な個人の経験の事象の説明くらいなら、説明出来るでしょう。
しかし、天の御告げの説明になると、現在の科学の対象外なので、
まったく歯が立たないと思います。
科学が真に人の幸福に役立つようになるためには、
科学がより一層、神学や聖書等に学び、
霊的事象への理解を深める必要があると思います。
これからは、科学するものは神学を、神学するものは科学を、
同時に学ぶ必要があると、私は感じています。
そうでなければ、真に人を幸福にする学問とはならないでしょう。
科学の武器は理論ですが、この理論こそ、
原理を信じることからしか始められないことを
科学者たちは忘れています。
理論的説明の土台には、
説明不可能でかつ信じることしかできない、
「原理」と言われるものが必ずあるのです。
よくGreatBeast666さんが、
「哲学的思考は必ず無限循環に陥る」
と発言されていますが、全くその通りです。
理論的説明の土台である原理を別の論理で説明出来たとしても、
別の論理の土台にも別の原理があり、
その無限循環に陥るだけなのです。
科学は、原理を信じることを土台にして、そこから理論で構築されています。
神学も、神を信じることを土台として、そこから理論で構築されています。
何方も土台には、信じることが必要であることがわかると思います。
そして人の真の幸福を願うならば、
神を信じ、第一とすることが、一番だと私は実感しています。
その神のもとにあって、はじめて、
科学も他の種々の人の営みも、
生かされて有意義なもとになるのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています