【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】
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スレ主がテーマを提起させて頂きます。
そのテーマに従った仏教思想を論じるスレです。
1.荒らしは無視で。
2.テーマから外れたレスはしないで下さい。
3.その他、スレ主の指示に従って下さい。 >「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
>(ウダーナヴァルガ)
>また、如来の法座とは何か。あらゆるものごと(一切法)が空であるということ(空性)に悟入することが如来の法座である。良家の息子は、その如来の座に坐ってこの法門を四衆に説き示すべきである。
(法華経 法師品)
>また、「常住」ということに執着して(無常を常住と)顚倒する人々は、諸々のものが相似通って連続していくということを知らないのである。このような人が、無常であると観ずることが有るなら、これは、対治悉檀なのであって、第一義(悉檀)なのではない。どうしてか。一切の法は自性が空であるから。偈に説いていうとおりである。
>(大智度論)
>聖観自在菩薩は、深淵なる智慧の完成(般若波羅蜜)において行を行じながら、(次のように)観察した、「五つの集まり(五蘊)(である)、そして、それらを、それ自身(自性)空であると見た」。
>(般若心経) 中論24章18偈
>[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
>それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
>(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
>縁起によって事物の施設がある。
>現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
>この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してる。 >まず、基本的に縁起というのは、時間制を排除して考えなくてはならない
>仏教の原則は、時間と空間性の否定であるから。
これ、正気の沙汰ではないんです😯
そもそも縁起とは”縁りて起こること”です。
つまり、継時的な時間関係(因施設)なんです。 諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」) 過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。
https://genyu-sokyu.com/essay/20030408-ujisurutoiukoto
玄侑宗久公式サイト 諸行はまことに常なることなし
生滅をもってその性となすゆえなり
生じたるものはまたかならず滅す
その生滅の静まれるこそ楽しけれ
(雑阿含経 歓喜園)
一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
刹那
〜きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典)
〜「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論)
〜無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)
〜「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)) 有部の五位七十五法には時間がない。
つまり、法有を主張する有部に於いては時間とは空性のものとして認識されていた。
また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されている。
大乗では法空を説くので同じく空性として認識されている。 倶舎論では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考える。
(仏教は宇宙をどう見たか 佐々木閑)
時間
一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあった。
そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していった。
有部は、(中略)時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみである。
ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用のあるかないかによる。 大乗仏教になると、時間は執着をもたらすものとして超越されるべきものと言う考えが明確になる。
(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
(中略)唯識思想においては、(中略)時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明される。 時間論そのものとしては、『正法眼蔵』有時における道元の時間論が注目される。(中略)この立場においては、森羅万象すべて、存在は時間として顕現するものと考えられる。 >一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
>ちなみに、有部の五位七十五法には時間というダルマはありません。
>また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されています。
>大乗仏教では法空を説くのですが、ここは有部と同じく空性として認識されているということですね😯
時間に幅があるとして、その幅(時間)を測るのはなにものなのだろうか?
つまり、時間が時間を測るってことなのだろうか?
時間そのものに時間ってあるのだろうか?
認識するものは認識されないのだから、時間に時間はないのでは?
認識したときに時間はあるけど、認識されないときに時間はない。
時間に実体ない。
実体がないものに幅はあるのだろうか?
表象が刹那生滅する。
表象とは刹那生滅。表象とは存在、存在とは時間。存在とは言語。
表象があることは確かに認識されている。 刹那とは念とも訳されるという。
生じた念はこれ以上分割できない。
すでに生じたから。
すでに滅したから。
つまり、時間に生滅はあっても始めと終わりはないということではないの?
0、1、0であって0→1→0ではないってことなんだろう。
つまり、非連続の連続。
始めと終わりというのは連続でアナログで中間がある。
しかし生滅はデジタルで中間はない。 アナログ的な幅(始まりと終わり)があるってことは中間がある。
しかし、デジタル的な幅(生滅)には中間はない、分割できない、生滅に中間はない、生か滅だから。 奇妙な話だけど、無限小の幅はあっても分割出来ないデジタル的な幅ってことじゃないのか?
しかも生滅が異時なら生と滅の間で分割できるけど、生滅同時だから分割できない。
……仏教って、時間の考察について此処まで考えていたのか!? まとめておこうか。
刹那には生滅はあっても始めと終わりというのはない。
また、無限小の時間の幅があってもその幅は分割出来ない。
始めと終わりというのはアナログ的な連続性を前提としているけど、刹那とは生滅であって、それはデジタル的な非連続性を前提としてる。
もし、生滅が異時に起きるのならその幅に於いて生滅の中間点で分割は可能だけど、生滅が同時に起こるから分割は出来ない。
こんな感じかなw つまり、始めと終わりという概念で刹那を理解しようとした事から生じた混乱って事になるのかな。
たしかにそうだよなw
そもそも非連続の当体が連続で解体されちゃ矛盾だわw
つまり、無限小って事だ😆 つまり、ナーガールジュナ(龍樹)によって「空」にもとづく仏教の真理観が根本的、理念的に確立されてのち、その空なる真理を永遠・普遍なものとして(法身常住)、それでもって現実を包みこみ、あるいは、それを現実の中にそそぎこんだ(如来蔵・仏性)のが如来蔵系の経典であり、一方、それでは生滅・変化する現実相(現象)はどうなるのかということで、現象生起の説明原理としてアーラヤ識を設定し、現象分析をほどこしたものが、阿頼耶識系の経典である。
(角川ソフィア文庫 仏教の思想 絶対の真理 天台) 996 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:22:37.31 ID:TF+ElSmI
龍樹菩薩の言いたかった事は、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定なんです。
「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではありません。
↓
>(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
>(岩波 仏教辞典から)
中論24章18偈
>[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
>それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
>(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
>縁起によって事物の施設がある。
>現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
>この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してる。 993 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:13:48.33 ID:TF+ElSmI
刹那滅ということ
もう一度、その現在という時間を考えてみよう。
おそらくふつうの考え方は、ある絶対時間という、均一の速さで流れゆく時間がもとよりあって、そのなかを常住の本体あるものが動いていく、というものであろう。
では、その常住の本体あるものは、時間的に、どのくらいの幅を持った存在なのであろうか。一分間くらい存在しているものが、時間のなかを動いていくのであろうか。今の一瞬のみの存在が動いていくのであろうか。一瞬とは、どのくらいの時間なのであろうか。ここにいたって、我々は把握しきれないものにぶつかるしかなくなってしまう。
幾何学上、直線は点の並んだものといえようが、では点はどのくらいの幅を持っているのであろうか。点は、もし、幅を少しでも持っていたら、分割できてしまう。幅を持っていなかったら、どれだけ集めても線にはならない。では、点はどれだけのものであろう。ここに、微小な方向に向けての無限の問題もあるし、点は一種の極限概念とならざるをえないのであろう。
時間も同じで、たとえば一刹那という極小の時間の単位がある。これは一方で指パッチン(一弾指)の時間の六十分の一の時間だというのだが、一方でいわば極限概念の時間として語られることがある。刹那刹那、生じては滅し、生じては滅ししながら相続されていくことを刹那滅というわけだが、そのときの刹那は、ほとんど、過去でもないし未来でもない時間という、極限概念だと思われる。いや、現在は幅があるのではないか、というかもしれないが、ここは仏教は存在と関連して考えていくのである。さっきの話ではないが、存在が二刹那以上にわたって本体を有するものだとすると、それは論理的に常住の本体あるものということになってしまう。そうすると、世界に変化はないということになってしまう。しかし世界に変化がある以上は、常住の本体のあるものではなく、そうである以上、存在はすべて刹那滅、すなわち刹那刹那、生じては滅し生じては滅ししているといわざるをえない。これが刹那滅の考え方である。
(竹村牧男 入門 哲学としての仏教) 仏教は諸行無常や諸法無我を説いてるんです。
であればその時間論もその法に抵触しないものになるのが道理な訳で、つまり、時間は常住ではなく実体のないものとして把握されるという事です。 「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり(身心に真理が満ちていない時には、真理はもう十分にあるように思われる。真理がもし身心に満ち溢れている時には、まだ足りないと思われるのである)」
(道元 正法眼蔵より) 【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。 雑阿含経にはこんな句があります。
諸行はまことに常なることなし
生滅をもってその性となすゆえなり
生じたるものはまたかならず滅す
その生滅の静まれるこそ楽しけれ
(雑阿含経 歓喜園)
こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に
>一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
>法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。
>自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず
>(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ))
という思想に展開してゆくようです。
<刹那>
〜きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典)
〜「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論)
〜無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ) 一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあったそうです。
そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していったとのこと。
で、有部(倶舎論)では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考えたということです。
つまり、ダルマがスライド映写機のスライドのように未来→現在→過去へと落謝するその一連を時間とした訳です。
また、有部は時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみであると考え、ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用の有無によって判断されるとされました。 ここで、龍樹が外界に根拠する量的な時間論について批判を行います。
>(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
>(岩波 仏教辞典から)
中論24章18偈
>[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
>それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
>(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
>縁起によって事物の施設がある。
>現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
>この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してるいます。
龍樹のそれは、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定であって、「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではないと思われます。
↓ そして、唯識思想においては、時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明されるとしました。 363 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/20(火) 19:13:23.50 ID:DiKe694V
【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。
↓(訂正)
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。
かな、表象・外界っていうフレームは問題ある。 お釈迦様から始まった仏教が、その東漸の過程で様々な問題に当たりながらも至った地が日本なわけです。
ある意味仏教思想の頂点であって終着点でもあるって言われる所以です。
で、その思想の頂点っていうのが、真理顕在論・即事而真が更に先鋭化された天台本覚思想なんです。
その内容については言うまでもないでしょ。
思想的な頂点に達したときに実践的な退廃が始まるって云うのは世の常で、鎌倉仏教の起こりもそこにあるって言われてるんです。
で、明治以降、仏教東漸以前の仏教のスタイルが明らかにされて来たわけです。
そんでもって「あれ?それって俺たちの仏教とちょっと違くねーか?」って😙
また、最近は南伝仏教の一派が「これが初期仏教だ!」とかいって日本に布教をしてるんです。
当然、そこに混乱が生じるわけです😥
大乗非仏説とかね😅
しかし、よくよく考えてみると、仏滅後に生じた様々な未決の問題への解答が大乗仏教な訳でもあるんです。
そこを看過してお釈迦様に帰れって云うのはどうかなって思いますけどね。 アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。 「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」
(アウグスティヌス) >>364
>こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に
宮崎哲也の本の読みすぎww
それ刹那滅とは関係ないから 藤原保信と飯島昇藏によれば、アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。
(wiki引用) >>372
>宮崎哲也の本の読みすぎww
>それ刹那滅とは関係ないから
???
関係あるよ。 556 名前:鹿野園#Buddhist-Rinzai :2021/04/21(水) 11:07:22.54 ID:CYNmqBgn
>>534
>ここで時間に種類を設けることは、ナンセンスということになる
www
普通は
1.限定者(人間)による主観(質)的時間
2.限定者(人間)による客観(量)的時間
3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
の三つに分けて考えますけどw
以上 > 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
宗教に東西の違いはあるけど、ここはアウグスティヌスのいう「神の国」、仏教でいう「如来蔵」に該当するだろうな。 > 1.限定者(人間)による主観(質)的時間
> 2.限定者(人間)による客観(量)的時間
> 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
. 如来蔵(純粋レンマ的知性)
. ↓
. 阿頼耶識
. ↓ ↓
.ロゴス的知性(変位体) レンマ的知性(真正体)
1.がレンマ的知性(直観知)
2.がロゴス的知性(分析知)
3.が純粋レンマ的知性(如来蔵、神の国…) >>383
>嚆矢って言ってるでしょw
嚆矢とか難しい言葉を使うね
宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな?
ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう
5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから
倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念
龍樹は法空論だから法の体など認めなかった
故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している >>384
>宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな?
そういう言葉を使うのは、宮城谷昌光にハマった時があるからその影響だと思う😲 >>384
バカムイスレでやってくれ。
ここじゃ困る。 >>384
知ってますけど?
↓
>ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう
>5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから
>
>倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念
>
>龍樹は法空論だから法の体など認めなかった
>故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している 691 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:02:59.81 ID:KIWfCVYq
>>628
> 「もし自性が存在しないならば、何に変化することが存在するのか。
> もし自性が存在するならば、何に変化することが存在するのか」
> この意味分かるかな?w
そうじゃなくて、先ず引用元を明示するのがマナーだろ?
例示すると
>もしも<それ自体>が存在しないならば、何者に<変化するという性質>があろうか。
>もしも<それ自体>が在るのならば、何ものに<変化するという性質>があろうか。
>(龍樹 「中論(根本中頌) 第13章4項 中村元 訳 より)
とかな。
で、だ。
その部分は「龍樹「根本中頌」を読む 桂紹隆 五島清隆」によれば、前文として
>実に、固有の性質を持たないものなど存在しない[たといあなたの意見に従っても]諸々のものには空性[という固有の性質]があるからである。
とあり、当該部分は
>もしものに[変化の主体である]固有の性質がなければ、一体何が変化し得るであろうか。
>【龍樹】もしものに[三時にわたって変化することがない]固有の性質があるなら、一体何が変化し得るであろうか。
> (注:対論者と龍樹では、「固有の性質」「空性」「変化」の理解が全く違う)
となってる。
(以下続く) 692 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:17:19.59 ID:KIWfCVYq
>>691(続き)
で、概要は
>第13章 諸行の真実の考察
>【主題】ものの変化は固有の性質(自性)によっては説明できない。空性によってこそ、ものの変化が(諸行無常)が可能になる。
>13.1 仏語:諸行(因果関係に制約されるもの)は全て虚妄である。(第1偈)
>13.2 「諸行が虚妄である」とは、空性を明らかにするための言葉である。(第2偈)
>13.3 反論:ものには固有の性質が有り、空性にもある。固有の性質がなければ、変化が説明できない。(第3、4偈前半)
>13.4 ものに固有の性質があれば、ものは変化しない。(4偈後半〜6偈)
>13.5 結論:空でないものは何もないから、空なるものも何もない。(第7偈)
>13.6 空性はすべての邪見を取り除く手段だが、空見にとらわれる者は救いがたい。(第8偈)
な。
刹那について考察してみようか。
刹那とは点な様なものだって事なんです。
点に幅があれば分割可能で点にはならないけど、かと云って幅がなければ連ねたときに線とはならない。
また、仮に一刹那で生じて次の一刹那で滅したとすれば、現在が二つ生じることになってしまう。
また、本体というのあって二刹那以上に亘って存在するのなら、ものは変化しないものになってしまう。
つまり、「分割し得ない一刹那の間に生滅が同時に起こりそれが相続されている」って事でなければ辻褄が合わないって事なんです。 >>390
それで思い出したのが物理学の量子論
量子論では時間の幅をゼロに近づけるほど、その時間内におけるエネルギーの値が曖昧になる
言い換えると、極小の時間の中でエネルギーの生滅が起きている
ただし、確率的な偏りがあるため、長時間(または膨大な数の粒子)になると特定の値が突出する
確率的な偏りを生んでいるのは他との相互作用だ
これは刹那や空の考えと矛盾しないものの
これがわかったことで苦を滅するというところにまでは至らなかった
結局頭で理解したに過ぎないからだろな www
知障の嫉妬には応じる必要もないでしょう。
施餓鬼は終わりです😌
>内外の風気わずかに発すれば必ず響くを名づけて声という。
>響は必ず声による。声はすなわち響の本なり。
声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。
>名は必ず体を招く。これを実相と名づく。
(空海 声字実相義)
空海さんは、形あるものは音を発し、音は字となるって云うんです。
そしてその名は体を現します、実相ですよって。
関の一字もそうした視座から味わってみるのも楽しいのかも知れません。 ありのままって相分のコピーって事じゃないのかな。
八識でいうと前五識と阿頼耶識の薫習がそれ。 見分・相分は同じ種子から生じるのか?それとも別の種子から生じるのか?
・・・同種所生(仮法)と別種所生(実法)
同種所生(仮法)〜第六識の意識の分別力が見分から相分という影像を作り出す。
三種類の見解 〜 相見同種説、相見別種説、相見或同或異説
相見或同或異説(護法) すなわち、別種所生がありのままで、同種所生が分別ってなる。 自証分・証自証分 〜 現量 (→観たものを確認するので) 光というのは陽にして事、分別にしてロゴスって事なんです。
言葉とは存在であり、存在とは時間。
繋がるってこと。 さて、冗談はおいといて、
>汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝
>(祖堂集 洞山 過水の偈)
西田が言う超個(渠)の個(汝)というのがハッキリと分かった。
>我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。
>絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。
>故に、我々の自己は、根底的には自己矛盾的存在である。
>自己が自己を知る自覚ということが、自己矛盾である。
>故に、我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。 真言宗未決文(1)
『真言宗未決文』(しんごんしゅうみけつもん)とは、平安時代初期に法相宗の徳一が、空海に対し真言宗の教理への疑問を述べた書である。
徳一の疑問は以下の11か条からなる。
1.結集者の疑『大日経』冒頭の「如是我聞」の「我」とは誰か。
2.経処の疑『大日経』は金剛法界宮で説かれたとあるが、この宮は自受用土か他受用土か。
3.即身成仏の疑『菩提心論』に行願・勝義・三摩地の三行によって即身成仏するというが、これは禅波羅蜜のみであって他の五波羅蜜を欠き、また自分だけ先に成仏してしまうのは慈悲を欠くのではないか。
4.五智の疑『菩提心論』に五智の如来を説くが、これでは各如来の智が不平等であることになり、また五如来以外の如来に智慧がないことになるのではないか。
5.決定二乗の疑『菩提心論』には、決定二乗の者が灰身滅智に入った後に長い時間を経て発生すると言うが、これは矛盾ではないか。
6.開示悟入の疑『菩提心論』で『法華経』の「開示悟入」を解釈しているが、これは何を根拠にしているのか。
7.菩薩十地の疑『大日経』『華厳経』等には「十地を成就して成仏する」とあるが、『菩提心論』に「十地の菩薩の境界を超える」とあるのは仏説に背いているのではないか。 真言宗未決文(2)
8.梵字の疑梵字は誰が作ったものでもなく本来的に存在するものと言うが、梵字は作られたものではないのか。
9.毘盧遮那の疑一行『大日経疏』によれば、毘盧遮那仏は法身で説法をしたというが、一体誰のために説法をしたのか。
10.経巻の数の疑『大日経』七巻の内、六巻までが毘盧遮那仏の所説だが、七巻目は誰が説いたのか。
11.鉄塔の疑真言宗の経論は、釈迦仏滅後800年に龍猛菩薩が南インドの鉄塔で金剛薩埵より受けたとされるが、誰がどのように伝えたというのか。
以上の疑問について徳一は、このような疑問を述べることで謗法の罪になることを恐れるが、疑問を晴らして真言宗を学ぶためである、と言う。
本書は、空海の「諸の有縁に勧めて秘密法蔵を写し奉るべき文」(『性霊集』9所収)によって密教の教理に触れた徳一が、『弁顕密二教論』や『即身成仏義』などに触れることなく、『大日経』や『菩提心論』などを学んで、そこで起きた疑問を記した、と考えられている(末木文美士1985)。
また本書の末尾には、弥勒菩薩が『瑜伽師地論』を説いたことに関して「鉄塔の疑」と同様の疑問が持たれていたことについて、文書による伝承があることを強調する部分がある。この部分については、「辺主」「大覚師」などといった呼称が出てくることからも、増広されたのではないかと考えられている(末木文美士1985)。 このように考えると、相関主義の立場を取る限り、「祖先以前的言明」に意味を与えることはできないのが分かる。
相関主義者にできるのは、それは経験科学的な問題なので、哲学の守備範囲とは関係ない、と逃げを打つことくらいだろう。そうなると、哲学の守備範囲は、自然科学の発達に伴ってどんどん狭くなっていく。
そうした相関主義哲学の脆弱さが、信仰主義の蔓延を許してしまうのである。
(現代哲学の最前線 仲正昌樹 NHK出版新書) メイヤスーは、相関主義的な枠組みを脱し、「ある絶対的なもの un absolu」に到達する道を探るべきだと主張する。
しかし、論証抜きに、「神」のような特定の属性を持った「絶対者」を想定し、「○○は存在する。それは事実だ」と断言するのであれば、それは単なる形而上学的独断論にすぎない。
そこでメイヤスーは、相関主義的な思考を徹底することで、これまでの相関主義的な哲学が依拠してきた諸前提を打破し、「絶対的なもの」を見いだすという逆説的な戦略を打ち出す。
(同上) メイヤスーによると、相関主義的思考は突きつめていくと、「必然的存在者の絶対的不可能性 l'impossibilité absolue d'un étant nécessaire」は「絶対的」であるという帰結に至るはずである。この場合の「必然的存在者」というのは、それが存在することが論理的に必然的であるものということである。 このように、私たちに認識できる限界の「外部」を考慮に入れると、いかなる存在者にも必然性はない。メイヤスーによると、それは私たちが現に存在している世界と無関係な、単なる仮想の話ではない。無限の時間の流れのどこかで、私たちが存在している世界の自然法則が変化し、現在の私たちから見てあり得ない法則が成立する可能性は排除できない。そうした意味で、「必然的存在者」が不可能であるという事実は「絶対的」なのである。 これは、あらゆる存在者にはそれが存在する十分な理由があるという、「理由律 principe de raison」(ライプニッツ)の否定を意味する。全ての存在者は、偶然的(contingent)であり、この「偶然性」にはいかなる制約もなく、絶対的である。これをメイヤスーは「理由律」との対比で、「事実論性の原理 principe de factualité」と呼ぶ。いかなる理由もなく、単に事実≠ニしてそうなっているということである。「事実性 facticité」ではなく、「事実論性」という奇妙な言葉を使っているのは、対象や出来事に関する個別の事実(事実性)を成り立たせている理由が、それらが属する世界のどこにもなく、世界自体が偶然の事実としてそうなっている、というメタレベルの問題だからである。 絶対者の自己否定が我々の自己なのだから、自己(相対者、限定者)が自己否定しても絶対者にはならないんです。それ故に
>我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。(西田)
って事なんです。
「どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定」なんです。
単純な自己否定ではないんです。 聞法熏習って言葉があるんです。
唯識の視座からいえば、止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しません。現行しないなら当然に煩悩は滅しませんよね。
であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるので、それを阿頼耶識中に置くという事となるという道理です。
で、無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれております(『摂大乗論』所知依分)。
つまり、問処の道得なのですかね。 >>408
とべw
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坐禅と動中の工夫12
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615974733/796
796 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:39:31.49 ID:Ifb9qdCj
>>793
末那識⇆阿頼耶識⇆意識や無意識
これなw
(唯識) 仏教の基本w
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鹿野園は、末那識が初脳変であるソースを示すこと。
鹿野園は、阿頼耶識から意識へ転識するソースを示すこと。
出来なければ、宣言を実行しなさい。
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坐禅と動中の工夫12
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615974733/778
778 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:18:53.44 ID:Ifb9qdCj
>>775
wwww wwww
なら、俺が分かってないっていう根拠を出せよw
それが立証できたら今すぐスカイツリーから飛び降り自殺してやるから。
出来なきゃお前が飛べよ?
wwww wwww wwww wwww アルトゥル・ショーペンハウアーは充足理由律を以下の4つに分けた
生成の充足理由律 - 「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」(原因結果)
認識の充足理由律 - 「ある判断がある認識を表現するには、その判断はある規則に従っていなければならない」(論理)
存在の充足理由律 - 「時空間に存在するには、位置や継起の関係において規定しあう」(数学)
行為の充足理由律 - 「行為にはある充分な動因がある」(理由帰結) というのも、日本人は仏教の影響からか、理性的であることは客観的であることだから、理性には主観性がない、よってそれは自我(主観)から離れた状態である、と連想をはたらかせてしまう。
日本人にとっては、「自我」はむしろ「感覚的で身体的」である。一人一人違う身体をもち、感覚をもつからこそ、それぞれの自我、人格は個別的かつ個性的であると考える。
他方、ヨーロッパでは、個人の自我は感覚ではなく理性なので、理性的であることは「自我から離れる」ことではない。
むしろ身体性や感覚には、ヨーロッパは人間本来の「自我」を認めない。人間本来の自我は、あくまでもその人の理性なのである。したがってヨーロッパで理性的であると言われるのは、むしろ「真の自我」であり、「たしかな主観をもつ」ことであって、主観から離れることではない。
神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流―(新潮選書) Kindle版
八木雄二 龍樹や世親無くして仏教は語れないように、キリスト教もアウグスティヌスやトマスを抜きには語れないものか??? >>281
鹿野園さん、こんにちは。
遅ればせながら「恕す」についての回答です。
ゆるす _ 同訓異義 _ 漢字ペディア
ttps://www.kanjipedia.jp/sakuin/doukunigi/items/0006903300
聖書的には罪を「赦す」と思います。
神様から信者の原罪に対する意味合いなら、恩赦だと思われるからです。
恕す(ゆるす)は、聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳では使われていません。
新改訳 2017(最新版)新改訳 第三版(旧版)でも使われてないですね。
旧約聖書の神様が選民のヘブライ人の罪に対するなら「恕す」でしょうね。
フィーリア的な、友情あるいは友愛とは違うと思います。
神様が選民であるヘブライ人達に対して、
預言者を送って悔い改めると思って我慢していたが、ついに罰を下す、ですから。
聖書本文検索 _ 聖書を読む _ 日本聖書協会ホームページ
ttps://www.bible.or.jp/read/vers_search.html
聖句検索 _ 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
ttps://www.seisho.or.jp/biblesearch/
Bible Word Search 新改訳
ttp://www.kt.rim.or.jp/~ttakao/biblesearch.html
eBible 日本語聖書検索(Japanese Bible Search)新共同訳 口語訳 新改訳第3版 KJV WEB
ttp://ebible.jp/bsrch/srch.html キリスト教スレ(編纂中)
【イエス】み言葉と共に ふぃりぽ
【イエス】癒し主 救い主 ◆JmSbZpDnkn6F、まちこ
【野に咲く】 愛からの旅立ち しゃろん
キリスト教@質問箱 Part 0001
ヤハウェ🇮🇱イエス・キリスト Christian
【教会スレッド】キリスト教@質問箱 ラピス、カムイ
【初心者】キリスト教@談話室 まなみ
【初心者】キリスト教@歓談室35 福音伝道、キョ
順不同・敬称略(間違っていたら済みません) 仏像の一形式の天部に他教の神を取り込んで仏に仕える者として扱ってるのに
耶蘇教の神はなんでそこに入れてないの? 思想を追及している馬鹿野園は、
その追及によって、少しは性格が謙虚になった????
思想の分析の限界だよね。
おっと、このスレは馬鹿野園の知識の自慢のスレでした。
くわばら、くわばらwwwwwwwwwwwwwww 世界大百科事典 第2版「テオリア」の解説
テオリア【theōria】
〈見ること〉〈観想〉を意味するギリシア語の名詞。theory(法則,理論)はこの語を英語化したもの。ちなみに英語のtheatreも〈見るための場所〉,すなわち劇場を意味するギリシア語のtheatronに由来する。アリストテレスは〈プラクシスpraxis(実践活動)〉に対して〈テオリアの生活bios theōrētikos〉を重視し,これを人間生活の理想とした。最高の神も彼にとっては見ることだけをこととする〈ヌースnous(直観的理性)〉であった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内のテオリアの言及
【実践】より
… 実践を意味する西欧語は,〈活動〉を意味するギリシア語のプラクシスpraxisに由来する。古代ギリシア哲学では,プラトンやアリストテレスをはじめ,プラクシス(実践)を〈テオリア(認識,観想)〉に対立させて理解した。その場合,永遠の真実在(真理)としてのイデアや神をロゴス(理性)によって認識するテオリアが価値的に優先され,実践は仮象的で可変的な感覚世界に属する人間が真実在を認識するための手段と考えられた。… 滝沢克己
思想
西田幾多郎とカール・バルトの影響の下、インマヌエルの哲学と呼ばれる思想を展開した。インマヌエルとは「神われらと共に在す」の意味である。キリスト教徒であろうとあるまいと、あらゆる人は「神われらとともに在す」という事実に属している。滝沢はこれを第1義の接触という。第2義の接触は人がこの事実に目覚めるときに起きる。第2義の接触によって人は自覚を持って宗教的な生を生きることになる。
滝沢は神と人間の関係を不可分・不可同・不可逆であるとしている。すなわち神がこの世界でまぎれもなく働いているという意味において不可分。人間と神は同等ではありえず、神の前では人間は無に等しいという意味において不可同。神は絶対的主権を持っており、神から人間への啓示はあっても人間が自分の意志で神へと至ることはできないという意味において不可逆。滝沢は第1義と第2義の関係も、神と人間/世界の関係と同様に不可分・不可同・不可逆であるとする。
滝沢の思想はキリスト教と、仏教をはじめとする他宗教との対話を可能にするものであった。仏教的に言えば第1義の接触とは「仏性」、第2義の接触とは「悟り」と同義である。しかし滝沢は仏教は宗教としては不可逆性の自覚が足りないとしている。 うむ。
このスレはここで閉じます。
「宗教・哲学・思想(仮題)」というスレを立てて、また読書したものもそこに入れたスレを立てます。 >>29
このあたりを見たらちょっと違う
https://www.youtube.com/watch?v=ciShvIENqgc
三木大雲の仏教とエトセトラ Vol.4 「何故、人を殺してはいけないのか?」
転生輪廻しない場合もある ブッダって自分の父親の葬式には出席したんでしょうか? × 鹿野園
〇 狐狗狸園
m(__)m m(__)m m(__)m キリスト教のルーツはおでん。
お伝地獄の唄https://600dpi.net/komura-settai-0003128/
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