【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】
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スレ主がテーマを提起させて頂きます。 そのテーマに従った仏教思想を論じるスレです。 1.荒らしは無視で。 2.テーマから外れたレスはしないで下さい。 3.その他、スレ主の指示に従って下さい。 仏性について(wiki引用) 仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dh?tu)とは、、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。 主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。 仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。 この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、梵: Buddha-gotra)「仏の種姓」、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう、梵: Tath?gata-garbha)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。 ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない。 スレ主補足 1.仏性はサンスクリット語では ”ブッダ ダーツ” って云うそうですが、意味はご自身でお調べください。 2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。 3. 訂正 スレ主補足 1.仏性はサンスクリット語では ”ブッダ ダーツ” って云うそうですが、意味はご自身でお調べください。 2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。 3.これが正しい的な言い方はご遠慮ください ちなみに、仏性が衆生が持つ仏としての本質(wiki引用)として、その本質を空性に求めるのか自性清浄心に求めるのか、両者は同じなのか別なのかという大きな問題があると思うんです。 また、サラッと >2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。 と言ってしまいましたが、この問題についてはここでは深入りされないでください。 ”仏性について”ですが、仏性とは 、 1..空性のそれを云うのjか自性清浄を言うのか? 2.両者は同じなのか別なのか? 3.内在論か顕在論か? 上記に絞って考察して頂くと幸甚です。 ちなみに禅宗(臨済宗)では趙州無字という公案があって、 W趙州和尚ちなみに僧問う、狗子にかえって仏性ありやまたなしや、州云く無、この公案に参じておりますW ってやる。 隻手でも父母未生以前の自己でも同じ事だが、そういう公案ごっこは此処ではやらない。迷惑。 禅宗なら最低限 WムーW を師家の前で透過した奴が来て論じてくれ。 程度が低くて話にならない。 また変な話を始めるのなら、このスレも即廃スレにする。 自性清浄は客塵煩悩の存在が前提となるとして、その客塵煩悩が去った後に残ったそれはなんなのだろうか? 果たしてなにものかが残るのだろうか? それと何も残らないのだろうか? 空性に於いては菩提も煩悩もそれにおいて即ってされている様に、自性清浄も客塵煩悩も空性って捉える事は成り立ち得る、 乱入されそうだから釘を刺しておきましょう。 仏性とは何か? そう問う心そのものであるとか、説い続ける事が大事であるとか、そういう低次元の話はお断り。 ハイデガーの認識作用と存在は様々な形であり 何々をする前、と、何々をした後という先後観念に人間は取り憑かれやすいと言っている。 ギリシャ・イデア論、それこそプラトンからアリストテレスまで形而上的概念にコミットするのは ハイデガーは世界は実存カテゴリーだと主張する理由にはなるだろう。(限界) では、世界はカテゴリーという存在性格を持つというのだろうか? そう考えると「仏性」というのはアナロジーにしか思えない。 仰る通りだと思いますが、そこは空即是色に還って後得智を磨いて頂ければと思います。 悟れない馬鹿野園が言うことである。大爆笑である。 人間にも仏性がない。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>7 1、空は自性を認めてないから仏性も否定されるのでは? 2、仏性は自性なので空と対立しませんか? 3、あらゆる存在が仏性なので顕在論を支持します >>12 賛成。 即廃止。 馬鹿野園の思う通りなどなりまっかいな。 5chをなめんなよ。 >>13 あらゆる存在が仏性ならば、当然煩悩も仏性の現れに過ぎないのでは? 解脱って解脱したことにより輪廻転生しなくなるんですよね? つまり、ずっとあの世にいるということですか?あるいは あの世と一体になるとか? >>22 >解脱って解脱したことにより輪廻転生しなくなるんですよね? >つまり、ずっとあの世にいるということですか?あるいは >あの世と一体になるとか? 10年前パシフィコ横浜だったか?精華大学だったか?でダライ・ラマが同じ質問を受けた。 質問者はバルドトドル(バルドソドル)に疑問を感じるという意で。 大体こういう事を語っていた略して書くと 修行を積めば輪廻から解脱出来ます。しかし貴方は目でも見ず触れも出来ない輪廻という物を無条件で信じるのですか? 例えば貴方が高い崖から数百メートル下に波打つ海を見たら怖いと思うでしょう。 怖い怖いと思っていては、それは恐怖に自分が支配される事です。 でも、もし貴方が「怖いけど、それがどうした」と貴方が思った途端に、あなたは世界を支配する主体になるのです。 この話は多くの人が「勇気の話」だと誤解します。 しかし、高い崖も、恐怖心も消える事は無いのです。 ただ、その場から、その場の恐怖を自分の方から無にするのです。 これが解脱です。 再度言いますが、これは勇気の話ではありません。 ましてや前世や来世や死後の世界というオカルト話ではありません。 その時代その時代に、人々に伝えやすい話があったという事を考えて下さい。 その数年後、ダライ・ラマ14世は 「私の来世は金髪おてんば娘に生まれ変わることに決まっているのです」発言 テクスト論的仏教解釈の弊害に警鐘を鳴らそうとしたのだろうか? そもそも法を実体視したり自分の見解に固執したりという態度は 仏教徒らしくない態度ですよね? >>22 死後の世界、あの世はあるのよ もちろん生きてる世界、この世もあるのよ 死んだらあの世に行くんだから、あの世が生きてる世界でありこの世になる つまり、あの世もこの世も区別は無い それを区別してるのは生と死という観念だわな そもそも生まれ変わるんなら、永遠に生きれるから死なないじゃん? ほんで生まれ変わらないなら、永遠に死ぬんだから生まれないじゃん? つまり、生と死も区別は無い 解脱した世界とは、この「無い」という世界なのよ あの世とこの世、死んでる世界と生きてる世界があるんなら、そんなモノは「無い」という世界に入るのが覚者なんだよ 誤解して欲しく無いのは、あの世とこの世が無いとして短絡して否定してる訳では、無い 死後の世界も、この今生きてる世界も「無い」けど確実に「実在」しているんだよ(´・ω・`) 誰もが仏性=空性=無自性=清浄という図式を思い浮かべるのでしょうが、そう簡単な問題ではないんです。 >>27 そうは思いませんが >>28 失礼しました つーか、馬鹿ばかりでルール守れないなら話す意味ねーな。 このスレ終了。 再掲 ****************************************** まことに勝手ながらこのスレは当初の目的達成が困難と思慮しましたので終了とさせていただきます。 スレタイの主旨にご参加頂きました皆様には感謝申し上げます。 合掌 ****************************************** ま、宗教板で最強なのは、体験でも知識でもないって事だな。 超人並の嫌がらせと猿並の智能があれば、宗教板では最強って事だ。 人類が滅んでもゴキブリは生き残るっていうじゃん。 まぁ、未来永劫輪廻転生を繰り返すって事じゃないのかな? 本当かどうかはともかく、宗教板でも生存本能で生きてる奴には敵わないって事だな。 あえて言うならメンタルの図太さでしょうか 人類が地球環境の変化に適応できなければまたゴキブリからやり直すしかないでしょうねw ま、どんどん嫌がらせをしては新スレを潰して、サーバーに負荷を掛けて自らの首を締めればいいじゃん。 こっちはまたこっそりと新スレを立てるから。 んで、邪魔されたら即廃スレにするから。 土台、テーマを決めて深く掘り下げて考えていくなんて無理なんだな。 気が散ってテーマに集中出来ないんだから。 そんなんじゃ、ダメだわw >>40 ごめんなさい 気を取り直してくれませんか? そもそも悟りスレをメチャクチャにした私が悪いんです 大山さんがそれに嫌気をさして出て行って新スレ建てたのも分かります このスレだけは真面目にするんで許してください >>26 はスタンフォード大学でのスティーブ・ジョブズの演説と同じ 分析哲学的・実存主義哲学の話をダライ・ラマもしてたと言いたかったのだがな。 蓮實重彦が言う様に、仏教用語を表層批評としてテーマ主義的に構造分析した後にも 人間は意見は言える。というが、会話でもBBSでもSNSでも 言葉により、要素還元主義が出現するとはどういう事だ? いや、逆だな 安易な還元論、むしろ個人の独善的審美的価値観を持って話を出来る人は何処にいるんだろう? 私は、その人に会いたい。 間違い >安易な還元論、むしろ「個人の独善的審美的価値観を持って話を出来る人は」何処にいるんだろう? >私は、その人に会いたい。 訂正 >安易な還元論、むしろ個人の『独善的審美的価値観でラベリングをしない人』は何処にいるんだろう? >私は、その人に会いたい。 このスレ主は おそらく仏教を共分散構造分析のパス図を言葉で描きながら その不可知性や不可視性、また可視化について 考えたいのでは無いか? それなら、それでスレ主さんは仏教用語とは関係ないような言葉で 例えばポストモダニズム思想や構造主義哲学的な用語を、最初に書いて 信教という自由を自己欺瞞にしか使わない癖に、自分を仏教徒だと言っている 知の低下と教養が崩壊している人達を、除外出来たんじゃ無いかな? グレゴリー・チャイティンの「神の非存在証明」の論理演算式でも書いときゃ 邪魔な奴らは、消えるよ。理解できないから、皆んなビビって書き込みを止めるよ。 ただ「インテリぶりやがって!」というヤジは飛ぶかもしれないが そういう奴らは無視して行こうぜ 解脱した人の輪廻は無くなる。 自分の輪廻が無くなったことを分かるということは、つまり、自分の前世、前々世を分かる能力なしには、解脱はない。 輪廻を信じている状態では解脱はない。 輪廻を知る状態まで行くと、解脱は可能だね。 >>41 なーにを何をw そうやってハプニングを楽しんでるくせにwww 自分の前世や前々世を知る能力を、釈迦仏教では宿命智という。六神通の一つである。禅定が進めば、その能力が生じてくると、釈迦が阿含経で説いている。その能力なしに、輪廻や解脱を説くわけもない。 が、大乗仏教になるとわけ分からなくなった。 、_,i|::::::::::|:::::i::::::::|:::i:::::i::::::|::::::::i//.::::::::::::::::/.::::::ヽ._ノ . /i|:::::::::{::::i:|:::::::::_;L:::ノ>く:::::::::::/:/.:::::.f 〈:八:::::::::ヽj」-'′  ゙̄Y:::/.::::::::}i:, ∧:::.\::::ノ V.::::::::::ノハ 〈::::;::::ヽ::У ) ::::::〃::::::〉 ∨ヘ:::::〉 \i|:::::::∧ ヽ::∨ 、::::/:::〉 |:/ ∨::イ |′ ⌒ ∨{ ,゙ V} : / ゙: l \ , i l ヽ、ヽ ノ 今 日 も 終 日 中 年 ひ き こ も り 板 l ^ 入! ! ゙. __________r´_|______ ! Y゙´ ̄`゙'ー-=ニ ∞ _ニ=‐-'^ ̄ ̄ ̄Y '. `丶、 γ'´ ! '. ^「こ:r′ | '. |⌒| | ゙. | | . | お昼は食べた? >>46 テヘッ(´・ω・`)エヘッエヘヘヘヘヘヘ >>30 気を取り直して本題 仏性=空性=無自性=清浄 仏性とは自性そのものですよね ならば、この図式は根本的に間違ってると そういう問題ですか(´・ω・`)? >>51 仏性(如来蔵)思想にも二系統があって、空性由来とされるそれと、独立した思想というのがある様ですよ。 >>53 いろいろ調べたのですが、如来蔵思想の系統の一つは縁起説である空性由来 もう一つの系統は、釈迦が批判したウパニシャッドのブラフマン・アートマン論ですか? 基体を認めない空と、アートマンという基体を認めること つまり仏性とはアートマンの焼き直しだと 違ってたらすいません つまり仏性、如来蔵思想は仏教では無いとする説になりますわな >つまり仏性、如来蔵思想は仏教では無いとする説になりますわな さすが、話の持って行き所が分かってますね。 そういう人は宗教板には殆どいないw で、 ”如来蔵思想は仏教では無い” と云うのが私には疑問なんです。 立川先生の ”基体とその属性” だの ”インド的唯名論” のところで話したんですけど、掛かる意味において、松本説での如来蔵=基体という見方が果たして成立するのかな? と。 https://i.imgur.com/drLOqAH.jpg >>56 難しくてデリケートな問題ですね もっと根源的なことを言えば、果たして釈尊はそもそも基体は存在しないと考えてたのか?という疑問が出る もし釈尊が基体を認めていたら仏教は消えて無くなります だってバラモン教と同じですから すいません テーマとズレましたか しかし松本さんはハッキリと言ってますね 「仏性のdhatu"と は 「置 く 場所」を原義とし,「基体」とか, 英語でいう"locus"の 意味であって, そこに 「本性」や 「本質」の意味は全 くない。」 >>58 いえいえ、テーマからは外れていません。 むしろその根幹にかかわる問題点では? 松本先生はサラッと ”L(locus)とS(Super-Locus)は明らかなとおり二分される” って仰ってますけど、そうれはどうかなって思うんです。 >>59 難しいですねー 私は言語学者じゃ無いんで・・・ 『大乗 阿毘達磨経』 「無始 時来 の界(基 体)は 一切諸法の 〔等 しい〕所依(基 体)で あ る。 それが あれ ば, 一切の趣はあり, また浬繋の証悟 もある。」 『現観 荘厳論』 「法 界(諸 法の基体)は 無差別 であ るか ら, 種姓 の差別 は不合理 である。 しか し, 〔その基体 に〕置かれるべ き もの(能 依, super-locus)た る諸法 は異 なってい るか ら, それ(種 姓)の 差別が説かれる。」 松本先生によれば法界、S法とL界は二分されるんでしょうね 界という基体が縁起して法という現実?を作り出す・・・ 原因と結果みたいな関係ではないかと 基体とは、根本原因であって、それ以上遡及できないモノでしょ? いろいろ調べたんですが、松本史朗という仏教学者は皆んなからボロクソに叩かれてますね 私は如来蔵思想や仏性は、完全に仏教であると思います しかし松本史郎はある意味間違ったことは言ってない 仏教が基体を認めて何がいけないの?ってスタンスです ど素人が偉そうにすいません >>61 訂正 私は仏教が基体を認めて何がいけないの?ってスタンスです 独り言いいですか? 釈尊の縁起説を因果関係と捉えるならば、必然的に原因の無限遡及に陥る 無限遡及を認めれば諸行無常と矛盾してしまう ならば、それを解決するには、どーしても「基体」を設定せざるおえない それが無我でしょ? そもそも、無我を基体の否定とする解釈は正しいのか? それが疑問なのですが、テーマとズレますか? >>47 >うるせーよ、低知能www あなたも、こういうレベルで話したかったんですね。 これは失礼しました。 では、私は無用ですな。 釈迦は人の四苦八苦の消滅に絞って、法を説いた。それを自然界全てに当てはめて考察したのがアビダルマ論師たちだ。五位七十五法などの役に立たない論をまとめた。もし、像の子供が卵から生まれるとしたら、卵の殻の厚さはいくら必要か?と、これがアビダルマ研究だ。 釈迦は原始経典で四段階の悟りを説いた。輪廻を把握出来るのは第三段階の悟りに達した者だけである。 大乗仏教になると、この四段階の悟りが消えてしまった。そして、わけの分からん悟り話に創り変えてしまったのだよ。 例えば、原始経典四段階の悟り、とかで検索すれば、たちどころに釈迦の教えがヒットする時代になった。自分で調べてみることだ。 アビダルマ研究などは、人生の無駄遣いだ。 自己顕示欲を満たすためにこのスレに書くとか、猿だろwww 猿はこのスレに書く資格がないんだから、サル山に還れよwww >>71 見事なまでの自己紹介ありがとう。wwwwwwwwwwwwwww 大爆笑。 清浄性と云うのは客塵との関係性においての清浄性って事だな。 鏡と塵の関係になる。 如来蔵思想における如来蔵が基体と云うのはどうかなと思うんです。 基本的に仏教は基体を認めず、また、基体とその属性の区別をしないというのですが、如来蔵思想もそれに他ならないと思うんです。 つまり、如来蔵思想は ”発生論的的一元論 とか 根源実在論 ではないと思います。 その根拠は後の機会に譲るとしますw 法界の界と云うのは因だそうですが、因と云うのは果から導き出されるものであって、因が単独で成立するものではないと思うんです。 創造主を創ったのは誰だ!?っていう問題にも似てると思います。 ”発生論的的一元論”というよりも、中沢新一がレンマ学で >純粋レンマ的知性に時間性が介入することによって、スペクトル分解がおこって、そこから分別を本質とするロゴス的知性の発生がおこるのである。 仰ってるように、発生というよりも分解と云った方が近しいのではないのかと思うんです。 >>76 基体が無いとは、同時に「無い」という属性であり基体が有る事になりませんか? 『大縁方便経』 「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、 アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」 「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」 「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。 アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、 アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」 >>77 原因が無ければ結果も無い 無いと云う因が無いと云う果から導き出されるのならば、因が無いと云うのは単独で成立する事になる つまり、無いと云う原因を作ったのは、どこまで追求しても「無い」という原因であり無限遡及は回避されます しかし、ここで大問題に突き当たります 仏教では、基体が無いからリンゴが存在すると説く 言い換えれば、原因が無いのに結果が有る事になる これは、完全に矛盾でありジレンマですよね? 中沢新一さんの言う事は難しくてよくわかりませんが、レンマ的な世界がジレンマに陥ると宇宙が誕生する、みたいな(笑 科学は未だこのジレンマを解決できません 釈尊のみが、基体を否定する事で解決したのではないかと >>79 暗黙の前提においている条件で論理を語り、論理思考ばかりやっているとこの無意識の前提を忘れてしまう、それが硬直的な思考をもたらす結果となる >>78 それって、言語を立てるときは常に対義語が仮定されているって意味なのでは? ブッダの無我と自我について 田上太秀 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18739/KJ00005120206.pdf#search='%E7%A7%81 (%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80)%E3%81%AF%E6%A2%B5%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B(%E3%82%82%E3%81%AE)+%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E7%84%A1%E6%AF%94%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E9%AD%94%E8%BB%8D%E3%82%92%E3%81%BB%E3%82%8D%E3%81%BC%E3%81%97%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%B5%E3%82%92%E5%B1%88%E6%9C%8D%E3%81%95%E3%81%9B%E3%80%81%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%8F%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%80%82' 仮に、真我というものが限定されないものとしても、限定されないものとして限定されてしまいますからね。 絶対というのも同じ様に、絶対といった途端に絶対という相対になりますからね。 まさに、ネイティ・ネイティですw 仏性も掛かる意味に於いて解釈されないとと思います。 仏教は五蘊無(非)我説を説いているけど、その五蘊(ダルマ)を五蘊たらしめている場(ダルミン)としての基体を認めていない。 また、両者の別を説いていない。 >>85 真我なんて無いですね 無いモノは限定されようも無いです 絶対無いの相対関係は、絶対有るですね >>86 そうですね 仏性とはアートマンそのものである つまり仏性は無いという意味ですね >>87 そのとおりですね 坐禅が無所得・無所悟とされるのも、根性論を言うのではなく、真我を求める事は限定する事だからと思うんです。 >>83 たいへん勉強になりました >>89 無い物を求めても無駄ですね しかし! 無い物を得た時が修行であり同時に解脱である それが坐禅だと思います 坐禅したことも無いのに上から目線、すいません >>91 ですねー 話が尽きてきましたな(´・ω・`) ダライラマは解脱していない。 ダライラマ何世かが無くなると、転生を信じて、転生先の子供を探す。そして、この子供が生まれ変わりだと断定して、ダライラマ何世とかになる。活仏だとか。馬鹿げた話だ。 仏に輪廻転生などない。 法界について考えるとき、非限定というのが想起され無限の問題が頭を過るんだけど、言葉の相対性で無限という有限に堕ちてしまう。 だから、法界という限定さえたものになってしまうんだけど。 法界=基体=非限定とした場合、また、因の問題が頭を過るんだけど、因ってあるのか? 果があってはじめて因があるのではないのか? であるならば、法界だの基体と云うのは後付けって事になるのでは? >>96 やはり時間という観念が曲者ですよね 原因があるから結果があるという因果関係には、どうしても無意識に無条件に過去と現在と未来を設定してしまう そもそも時間なるものは有るのかと 今は瞬間じゃなくゼロ時間ですよね? ならば原因と結果の区別なんて無意味であり、因果は同時であり一如ですよね そこには相対性も無ければ限定もありませんよね(´・ω・`) キチガイどもが煩いので、阿頼耶識が現量である事について考えてみよう。 勿論、猿には理解できない事は百も承知で書く。 取り敢えずスクラップ。 ☆阿頼耶識の異熟性(善・不善業 → 無記化) ☆阿頼耶識(観心覚夢鈔、八門分別) 釈名(由来) 〜 能蔵、所蔵、執蔵 所縁(対象) 〜 種子、五根、器世間 仮実(存在性) 〜 別種所生 性類(判断) 〜 無覆無記 界?(所属) 〜 欲界・色界・無色界 所依(由来) 〜 末那識 三量(認識) 〜 現量 心所応相 〜 五つ(触・作意・受・想・思) ☆現量 直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。 ”任運にして無分別なり” ”諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う” ”境に任せて任せてこれを縁ずる” >八識のうちで前五識と第八阿頼耶識は常に現量である。 >なぜなら前五識すなわち五感覚は言葉を起こすことは出来ず対象をあるがままにとらえるから、 >また、阿頼耶識は深層の領域で任運に無分別にはたらく心であるからである。 >(唯識とはなにか 法相二巻抄を読む 横山紘一) 触・作意・受・想・思 〜 遍行の心所(八識がはたらくとき、常に作用してる心所) 捨受 〜 苦楽の感受はない(=非苦・非楽の感受がある) 阿頼耶識の見分・相分(身体と環境(器界) = (それ自体は)無記) 阿頼耶識の種子は、阿頼耶識自体から生じる(阿頼耶識内の種子が現行する=相分として顕れる) 見分 〜 現量・比量・非量 自証分・証自証分 〜 現量 (→観たものを確認するので) 境に似たる相は所量なり(成唯識論) >初阿頼耶識 異熟一切種 >不可知執受 処了常与触 >作意受想思 相応唯捨受 >是無覆無記 触等亦如是 >恒転如暴流 阿羅漢位捨 阿頼耶識 = 無覆無記 = 現量 って事も理解できない猿どもwww 現前にある対象の認識が相分と呼ばれており、その認識に言語に依る分節が伴えば比量、或いは非量となり、伴わなければ現量となる。 ところで阿頼耶識の相分は、阿頼耶識自身の種子から生じた身体(有根身)と環境(器界)とされており、そこに言語に依る分節は介在しない。 当たり前だけどw 故に阿頼耶識は現量。 猿の分かる事ではない。 阿頼耶識や前五識は、任運にして無分別であって境の事相を得する。 つまり、性境であって種子から実際に現れたものである。 これに対して意識は独影境や帯質境。 阿頼耶識の相分は、種子、有根身、器世間であっていずれも阿頼耶識自身の種子から生じた相分。 性境(相分)〜見分とは別の種子から生じる 阿頼耶識が縁ずる五根・器世間・種子 五識の相分 五具の意識の相分 無分別智が縁ずる真如 独影境〜見分と同じ種子から生じる、本質の無いもの(ex:兎の角・カメの毛)、遍計所執性 第六識が無法を縁ずる時の相分 第六識が仮法を縁ずる時の相分 第八阿頼耶識に相応する心所の相分 帯質境〜相境ではあるが第六識の意識の分別力が絡み錯覚したもの 第七末那識が第八阿頼耶識の見分を縁ずる場合の相分 第六識が非量するときの相分 無分別 自相を(直接知覚=現量によって)得する 分別 共相を(言語による分節=比量・非量によって)得する 仮有に実法と仮法があり、実法(現量)は見分と相分が別種所生であり、仮法(比量・非量)は同種所生であり、それは意識の分別力によって作り出された影像である 唯識の説によると、此の世の存在を構成する有根身(我、有根身、身体)と器界(法、外界、環境)は、阿頼耶識の種子から生じるとされているんです。 勿論、阿頼耶識という実体がある訳ではないので、此の世の存在は仮有であると言えるでしょう。 ところで、仮有には実法と仮法があって、実法(現量)は見分と相分が別種所生(性境)であり、仮法(比量・非量)は同種所生(独影境、帯質境)であり(末那識や意識の)分別力によって作り出された影像であるとされています。 で、阿頼耶識が現量でないと想像してみましょう… 余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww 境に任せてこれを縁ずる。 行動可能性としての種子を蔵する阿頼耶識の種子が、所縁に触れて(=任運)現行するんです。 阿頼耶識に何かしらの意思があって種子が現行するのではないんです。 それ故に ”任運にして無分別なり” なのです。 縁に触れて現行するのですから、そこにタイムラグはありません。 つまり、時間が介在する事がないといえるでしょう。 時間の介在なしに ”諸分別の行解(=言語による分節)” は当然に在りません。 ひいては、無分別って事であり、現行された相分が直接知覚されるって事です。 それ故に ”諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う” という事なのです。 …馬鹿猿の理解する処ではありませんwww 補足しましょう。 所縁に触れて(=任運)、此の世の存在を構成する有根身(我、有根身、身体)と器界(法、外界、環境)という種子が現行するんです。 その現行されたものが見分(主観)と相分(客観)とその主客の認識(自証分、証自証分)によって ”認識” されるんです。 比量・非量は同種所生であって、見分と相分が分析されること無く(=種子が見分と相分の2個ではなく)、見分から相分を産み出す故に独影境であり、遍計所執性なのです。 で、阿頼耶識が別種所生でないと想像してみましょう… 余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww 見分(主観)から相分(客観)を産み出す故に独影境であり、遍計所執性なのです。 要するに客観性がないって事です。 円成実性・・・・実有 依他起性・・・・仮有〜実法、仮法 遍計所執性・・畢竟無〜無法 仮法〜存在はしなくとも想像上存在するもの(ex:兎角亀毛) 無法〜決して存在しないもの 円成実性・・・・実有 勿論、空であり空性って事です。 阿頼耶識はいわゆるこの世の存在(我・法)を産み出してそれを同時に認識する。 その認識が現量でなければ… 余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww 心によって造られているものが刹那生滅しているというよりも、その心が刹那生滅しているって事。 言葉にして阿頼耶識は語れない 阿頼耶識を語るのが現量であり、阿頼耶識は現量でない 法然と随縁(声字実相義、空海)か。 随縁の応用って言葉が禅宗にもあったけどな。 大事なのは法然なのに、随縁の応用に軸足を置いてるキチガイが仏教スレの9割だからなぁw というか、この意味さえ分からないレベルだし。 哀れなキチガイマンに対話の機会を特別に与える。 1.倫理的実践的な意味におけるアートマンとやらの明確な定義を示そうな。 仮我である五蘊だろうな。 そしてその五蘊の中にウパニシャッドの説く真我なるものは見当たらない(=五蘊非我)。 2.倫理的実践的な意味におけるアートマンにも、そのような永久性を与えているのか? 五蘊仮和合って云うんだからそのようなものは認めてないだろうな > 永久性を認めない→ それは仮我。 > >>747 となって、「真我≠仮我」ということになる。 > >>614 馬鹿野園「仏教では真我≒仮我」は却下。 www そもそも、真我というのは真の我という意味で、そして五蘊の中にそれは見当たらないと初期仏教では説いてるんだよ(五蘊非我説、五蘊仮和合としての仮我) 単純に ”永久性を認めない→ それは仮我” とか、仮我という実体を想定しちゃ本末顛倒だなぁw それ故、真我≒仮我 って説明してやったんだがwww 五蘊非我説を説く初期仏教は、真我については捉える事は出来ない(※1)というウパニシャッド哲学の延長線上にあることは間違いない。 ※1 >実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。 >マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。 >(中略) >この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。 >壊れることがない。壊されないから。 >こだわりがない。こだわらないから。 >つながれず、動揺せず、損なわれない。 >ああ、認識の主体を何によって認識することができようか >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド) で、五蘊=一切ならば、当然に非我→無我へと帰結する。 初期(の初期)仏教ではよく説かれていたであろうアートマンが、初期(の後期)で説かれなくなってきたのは、そうした事情があるとされる。 最初期の仏教では独自のアートマン論を展開していました。 しかし、決してアートマンを形而上学的実体と見なすこともせず、また「アートマンが存在しない」と否定もせず、アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を守っていたのでした。 アートマンに対するいろいろな考え方の経緯を経て、のちに形而上学的アートマン観に対して、「個人の存在を構成する五つの要素(五蘊)の一つひとつが無常である。 無常なるものは苦しみである。 苦しみであるものはアートマンならざるもの(非我)である」という考え方が生まれてきます。 無常や苦は病苦を考えればおわかりだと思いますが、無常や苦がなぜ非我なのかといえば、アートマンとは、常住不変の固定的原理(本体)で、しかも理想的な完成された実体と見なされていましたから、生じたり滅したりして常に移り変わり、不完全な苦悩の存在がどうしてアートマンであり得ましょうか。 ですから、精神的な物質的な五つの構成要素、あるいはその機能は、すべてアートマンならざるもの(非我)なのです。 それを敷衍していえば、人々が対象として把握しようとするいかなる形而上学的なものも、あるいは機能もアートマンではない(非我)。 またアートマンに属さないと説きます。 このような教えは、じつは形而上学的な、具体的に把握されうるすべてのものに対する、人々の執着や煩悩を取り除くための教えだったのです。 解脱への実践目標を達成するための教えでした。 中村元.ブッダ伝生涯と思想(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.2337-2350)..Kindle版. @ 倫理的実践的な意味におけるアートマンとやらの明確な定義を示そうな。 倫理的実践的な意味におけるアートマンにも、永久性を与えているのか? A >>614 馬鹿野園「仏教では真我≒仮我」 という珍妙な説の根拠 >>129 124 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/08/22(土) 18:41:23.62 ID:p9FZYugM [1/5] 哀れなキチガイマンに対話の機会を特別に与える。 1.倫理的実践的な意味におけるアートマンとやらの明確な定義を示そうな。 仮我である五蘊だろうな。 そしてその五蘊の中にウパニシャッドの説く真我なるものは見当たらない(=五蘊非我)。 2.倫理的実践的な意味におけるアートマンにも、そのような永久性を与えているのか? 五蘊仮和合って云うんだからそのようなものは認めてないだろうな 125 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/08/22(土) 18:49:26.66 ID:p9FZYugM [2/5] > 永久性を認めない→ それは仮我。 > >>747 となって、「真我≠仮我」ということになる。 > >>614 馬鹿野園「仏教では真我≒仮我」は却下。 www そもそも、真我というのは真の我という意味で、そして五蘊の中にそれは見当たらないと初期仏教では説いてるんだよ(五蘊非我説、五蘊仮和合としての仮我) 単純に ”永久性を認めない→ それは仮我” とか、仮我という実体を想定しちゃ本末顛倒だなぁw それ故、真我≒仮我 って説明してやったんだがwww >>130 >仮我という実体を想定 仮我という言葉自体が実体ではないことを表わしているんだが。無知だなあ。 なんで低次元の理解を曝け出しては鼻息を荒くして噛みついて来るんだろ… >単純に ”永久性を認めない→ それは仮我” とか、仮我という実体を想定しちゃ本末顛倒だなぁw て、どういう主旨で言ってるかさえも理解出来ないんだもんなぁ。 余りにも次元が低くて嫌になって来る。 初期仏教とはいっても、勿論、仮設の域を出ないものだけど、思想の変遷はあったんです。 そこに着眼しないで初期仏教後期で形成されたであろう思想を視座に初期仏教を紐解くと矛盾が出てくるんです。 >この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。 >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド) …絶対的に捉えられないものなのに、後の人は捉えられないものとして概念(相対)化してしまったんだろうな。 仮我も同じ。実体的な我ではないと実体視してしまう愚。 >>135 辞典に「実体的な我ではない」と明記されているのに、 「実体視」としつこく連呼するのが馬鹿野園。 レベルの低さを晒してますなあ。 www 総合職でも研究機関にいた人間が、仮我を知らないとかあり得ると思う? 研究機関から転籍前は仏教書の校正までやってたんだぜ? そうやって必死になって脳内で相手を低く見積もってオナニーしてるお前の醜態が、俺には嘲笑の対象なんだけどwww で、 ”永久性を認めない→ それは仮我” だ? なんでだよwww 説明してごらんwwwwwww >>138 事務員の分際で何言ってんだよwwww。 >>138 「仮我」と言われてるのに、 >>132 「仮我という実体を想定」とか言ってるのはお前だろwwww。 「仮我」は「実体的な我ではないが、仮りに我と見る」のになあ。 馬鹿野園は完全に発狂してるなあwwww。 >>140 で、 ”永久性を認めない→ それは仮我” だ? なんでだよwww 説明してごらんwwwwwww (二回目) 出来ないならこのスレからも永久追放な。 キチガイマンが当該スレから永久追放になったから、仕方なくこのスレで対応したけどやめておこう。 スレのレベル維持優先だ。 >>143 完全論破されて見事なまでの敗走wwwwwwwwwww。 完全論破まとめ アートマンとは「精神的・永久的実体」「人間存在の不変の本質」。 https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3-26227 一方で、仮我は 実体的な我ではないが、仮りに我と見る https://kotobank.jp/word/%E4%BB%AE%E6%88%91-489584 アートマンは精神的・永久的実体だけど、仮我はそのような永久的実体ではなく、仮りのもの。 そう説明されてるのに、 馬鹿野園「で、 ”永久性を認めない→ それは仮我” だ? なんでだよwww 説明してごらんwwwwwww (二回目) 」 なんで、はっきり説明されていることを、何度も質問しちゃうの? なんで、そんなバカなの? wwwwwwwwwwww このスレは、 放逸創作仏教学者犬山先生ほのオナニーレスから、はじまったのかw 自分の言ってることが正しいと主張するのに「ボク珍は正しーーーい!!!」と喚き散らすのはバカ。 知性があれば、俺のように根拠を提示する。 予言した通りの展開で呆れる。 >>762 予言。 >>758 で完全論破された馬鹿野園は反論できずに、 悪口連呼、言い訳連呼の発狂フィーバーに突入するw。 馬鹿野園はもう詰んでるだよw。 倫理的実践的な意味におけるアートマンとやらの明確な定義を示そうな。 倫理的実践的な意味におけるアートマンにも、そのような永久性を与えているのか? 永久性を認める→ 形而上学上のアートマンとの区別はなく、アートマンを認めていることになる。 中村元「初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかった」と矛盾する。 永久性を認めない→ それは仮我。 >>747 となって、「真我≠仮我」ということになる。 >>614 馬鹿野園「仏教では真我≒仮我」は却下。 回答していない→ 中村元「アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかった」に要約。 どれを選んでも、馬鹿野園ワンコ大敗北。 馬鹿野園の選択はこれ。 永久性を認めない→ それは仮我。 >>747 となって、「真我≠仮我」ということになる。 >>614 馬鹿野園「仏教では真我≒仮我」は却下。 キチガイが過ぎて話にならないな。 結局、レスを読まないで脳内返答レスにレスをしてるだけじゃないか? また、多少話が進んで誤謬が明かされて来ると。勝手に振り出しに戻してるだけじゃないか? アートマンには様々ないわれがある旨をソースを出して説明したのに、一方的に限定されたアートマンの用法に絞ってくるだけじゃないか? 当方が聞きたいのは、何故永遠性を認めない事が仮我になるかであって、ウパニシャッドにていわれてるアートマンがその属性として永遠性を保持してる事ではないんだよ。 質問内容さえ確認・理解出来ないで、はらから勝手に脳内論破宣言してるとか、まともじゃないな。 このスレへの出入りを禁ずる。 スレの品位がガタ落ちだからな。 以後、この件への疑義は悟りスレで受けるから。 自分の言ってることが正しいと主張するのに「ボク珍は正しーーーい!!!」と喚き散らすのはバカ。 知性があれば、俺のように根拠を提示する。 予言した通りの展開で呆れる。 >>762 予言。 >>758 で完全論破された馬鹿野園は反論できずに、 悪口連呼、言い訳連呼の発狂フィーバーに突入するw。 >>154 言い訳は悟りスレでやろうねーw お前、やっぱり程度が低過ぎてこのスレじゃダメ。 追放w あっちでも、こっちでも、ぼこぼこにされて逃げ回る馬鹿野園ワンコw このスレってスレ主の存在を前提にしてて、スレを私物化してる時点でGL違反じゃん 馬鹿野園は涙拭けよwwww。 お前が呼び出したアッチのスレの寒い空気どうすんの? wwwwwwwwwwww >>162 完全スルーされてる自覚がないのはさすが馬鹿野園wwww。 あーあ、キチガイマンはもう少しこのスレのオモチャで遊べると思ったら、もう壊れちゃった。 みんなに謝らないとなーw キチガイマン >大乗クズがいるなら一発なかせてやるかなww。 ↓ このスレに来ても瞬殺されて逃走。 >>164 >>165 馬鹿野園がお友達がいるというから行ってやったら、 馬鹿野園は完全スルーされてた。 かわいそうな奴だったwww。 >>167 >>168 あっちのスレでまだ続ける気なのか? お前正気かよwwwwwwww。 あっちのスレでもヘイトを集めた馬鹿野園、フルボッコ中www。 キチガイマンの発狂も治まった様だし、そろそろこのスレも復活かなぁw 大山キリスト教スレで曰く 0.仏教の特色は基体と作用の関係について、非同非異にして それぞれが独立してあるとは説かないところにあると思うんです。 批判されると 1.有部の法有が基体説かどうかを巡って論争したときおおよその話はした。>>737 2.基体と作用の関係について比較宗教学の視座から仏教と他宗教の比較をしてるんだよ>>758 と逃げるのだが、 大山君が「基体と作用」で述べたのは A.称(唱)えるとき阿弥陀様と一体であある B.坐禅するとき、妙法と一体って言う事なんです。 C体感的にも三昧や禅定中は脳内の分け隔てを司る物質が減少する 非同非異と言いつつ、実際は「一体感」を強調している 「行者と行ずる時、宗教的真理と一体になる」というようなオウム的な宗教体験が 大山君の基本スタンスなのである https://1000ya.isis.ne.jp/0846.html 松岡さんのサイト「立川武蔵 『空の思想史』」 もうひとつ、インド哲学と仏教を分けた見方がある。基体(ダルミン)と属性(ダルマ)の あいだにどのような区別があるのかという議論のとき、インド思想一般では、明確な 区別があるという実在論の立場と、それは名前の付け方の違いだとする唯名論の立場 とがあった。 ぼくが30代前後に熱中したインド六派哲学という哲学全盛時期があるのだが(第96夜参照)、 なかでミーマンサー、ヴァイシェーシカ、ニヤーヤが実在論派、ヴェーダンダが 唯名論派、ミサーンキヤやヨーガはその中間の立場をとっていた。 実は大乗仏教は、このヴェーダンダ派の唯名論をおおまかには踏襲する。 踏襲するのだが、そこにまったく新たな展望を加えていった。 「空」はそこから出所した。 大山君の 2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから は、立川さんの「ヴェーダンダ派の唯名論をおおまかには踏襲する」から インスパイアされたというかパクリだろうが、 なぜ「ダルミン」ではなくて「ダートゥ」に結びつけたのであろうか ごっちゃになっているようだ >>176 「立川武蔵 『空の思想史』」では、天台の空解釈は間違っていた、 彼のインド仏教学は信用しても、中国チベット大乗仏教の空の理解は怪しい。 梵本『中論』「観四諦品」第十八偈に曰く yah pratityasamutpadah sunyatath tam pracaksmahe / sa prajnaptir upadaya pratipat saiva madhyama // ・縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。 ・それは、縁って仮設されたもの(仮)であり、それはすなわち、中道そのものである。 鳩摩羅什訳 青目釈『中論』24:18 「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」 書き下すと 「衆の因縁より生ぜし法を、我すなわち是れ無と説く。 また是れ仮名となし、また是れ中道の義なり」 〇縁起であるものをすべてわれわれはすなわち空であると説く。 ×その空は相対的な仮説である。→〇また縁起であるものを仮名となす 〇これが実に中道である。 「また是れ仮名となし」は、「空を仮名となし」ではない。あほう 仏教は言語哲学とも云われてるんですけど、言語哲学に非基体説や唯名論を絡ませて包括的に考察するのはハゲやバカムイの様な低知能には不可能なんですよ。 また、こいつらにその説明の時間を費やすのは、燃え盛る炎に紙を投げ入れて消火する様なもんで、とてつもない時間の無駄なんです。 身の丈に合った仏教理解でいいじゃないですか? 背伸びして仏教書やネット検索で出て来た言句を、恰も自身の体験や知識の様に、鼻息を荒くしてドヤ顔で語る事は無いんです。 確か真言さんもおっしゃってたかな? 悟入には体験が踏み台になるのと知識が踏み台になるのがあると。 で、スマサーラ長老かな、悟りは体験でも知識でもありませんって。 在家なら在家として日常生活に仏道を落とし込んで生きていく事(まぁ、修証一等)でしょ? そのための知識や体験なんですから。 私は宗教人って柄じゃ無いけど、とどのつまりそう言う事でしょ? 掛かる意味に於いて、宗教体験なんて重要じゃ無いんです。 日々の宗教実践が重要なんです。 935福音伝道2020/10/06(火) 20:57:21.36ID:PHjLSkSf 中論24-18三諦偈 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe / sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā // 漢訳「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」 書き下すと 「衆の因縁より生ぜし法を、我すなわち是れ無と説く。 また是れ仮名となし、また是れ中道の義なり」 俺のサンスクリットからの訳 ・縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。 ・それは、縁って仮設されたもの(仮)であり、それはすなわち、中道そのものである。 麦引用の中村元訳・・・ 縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。 その空は相対的な仮説である。これが実に中道である。 麦引用の三枝訳 サンスクリット文の訳 およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。それは, 相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。 大山引用の桂訳 [諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)と言う。 それ(縁起)は[何かを]因として、[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。 943福音伝道2020/10/06(火) 21:03:01.38ID:PHjLSkSf 論点1 sā prajñaptir upādāyaの sā(それ)を中村元だけが「空」と誤読しているが 俺、三枝、桂は普通に「縁起」と解釈している 論点2 prajñaptir upādāyaをどう訳すかだが 1.俺・・・縁って仮設されたもの(仮) 2中村・・・相対的な仮説 3.三枝・・・相待の仮說 (縁って想定されたもの) 4.桂・・・[何かを]因として、[何かが]概念設定されること(因施設) と訳す prajñaptiプラジュニャプティとは、「仮の指定・設定」ではあるが、 漢訳では「仮設・仮説(けせつ)、説仮、仮名(けみょう)」とも漢訳され 「概念」を意味する語でもある。 私は原義に従い、桂は拡張された「概念」と解釈する。これはわかる。 三枝は仮名(想定されたもの)と訳しているが、第一に漢訳にひきずられていて サンスクリットを訳していない。水準以下である。 また(想定されたもの)ではない。 upādāyaを俺と「縁って」訳し、三枝は「縁って」と解釈しているが 中村は相対、三枝は相待と訳しているが、そのような意味はない。 桂は、[何かを]因として と、目的語を補って訳している。 これは文法的に優れている。普通upādāyaは、目的語を伴うか、複合語として 用いられている語だからだ。しかし原文に目的語はない。 桂はprajñaptirを「概念」と拡大解釈し、upādāyaに目的語を補って 訳してるがサンスクリット文を読んでいる姿勢を認められるが 中村元と三枝は、サンスクリット文を読んでいない。 漢訳語「仮説」にひきずられた上、「相対/相待」という主観的解釈を 訳文に投影する始末である。馬鹿である。 >>185 読んでないからw 馬鹿はここに来るなよw >>962 >W縁ってWって何だよ? http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%82%86 upādāyaは漢語一時では「由」だ。 よる。たよる。もとづく。〜に関する。 中村元「佛教語大辞典」upādāyaを巻末から逆引きすると 1,p69B 【因】のH…に基づいて『中論』 2,p99C 【依】のK…に於いて。位格を示す。特に唐代の典籍に多い用語である 3,p638A【受持】のB十法行の一つ。非常な信心を持って、大乗の書物を自己の所有とすること upādāyaに「相対」という意味なんぞない。 桂の「因」はありうるが、「相対」は珍解釈による誤訳 大山君が、入門書を理解せず「それらしい単語」を並べているだけで 何の議論もできませんことを存じています。 おほほ。 >>185 読んでないからw 馬鹿はここに来るなよw 悟れない馬鹿野園が言うことである。 大爆笑である。 23福音伝道2020/10/07(水) 07:29:20.03ID:BnBNm86e>>31 中論24-18三諦偈 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe / sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā // 漢訳「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」 書き下すと 「衆の因縁より生ぜし法を、我すなわち是れ無と説く。 また是れ仮名となし、また是れ中道の義なり」 俺のサンスクリットからの訳 ・縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。 ・それは、縁って仮設されたもの(仮)であり、それはすなわち、中道そのものである。 麦引用の不明訳・・・ 縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。 その空は相対的な仮説である。これが実に中道である。 麦引用の三枝訳 サンスクリット文の訳 およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。それは, 相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。 大山引用の桂訳 [諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)と言う。 それ(縁起)は[何かを]因として、[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。 ID:/z/OyEEI引用 中村元訳 【竜樹】講談社学術文庫、講談社、p.378-384 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 33福音伝道2020/10/07(水) 07:57:46.38ID:BnBNm86e>>37 「相待の仮說」という変な誤訳をしているのは、創価のレグルス文庫の訳だけになった。 創価の麦とオウムの大山くんは、なぜ変な訳を中村元訳と主張していたのであろうか 三枝充悳は創価では無くてちゃんとした学者ではある。 さて創価の麦とオウムの大山が引用していた訳をぐぐった http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no23 「国訳解説 中論入門」というサイトであった 転載禁止である。 通報しておく つばめ道通信というHPの一コーナーである。 悟り、は無我無心、である。byカムイ。 悟れない馬鹿野園には理解できない。 大爆笑である。 屈辱に思われるかもしれないけど、ハゲに思想や哲学は無理だよ。 それからなぁ、ハゲ? 中論を論じる以前に、 日蓮宗と創価学会は別団体な。 臨済宗とオウム真理教は別団体な。 お前が馬鹿なのは分かってるけど、最低限そのくらいの知識は持とうよ。 そのくらいの知識は身に着けてから中論を語ろうよ。 その程度の宗教界知識で宗教板にいるとか、なぁw 「相待の仮説」をぐぐった。 宇井伯寿の『梵文邦訳中之頌』(1968)が 「三論解題・国訳中論・梵文邦訳中之頌 宇井伯寿著作選集4」(1971)に収録されているが 「縁起であるものを凡て吾々は即ち空であると説く。 その空は相待の仮説である。これがまさしく中道である。」と訳している。 三枝充悳『中論―縁起・空・中の思想』第三文明社 レグルス文庫(1984)なので 三枝さんは、宇井伯寿をパクっただけだな。 宇井伯寿は、大学者である。 大学者ゆえに負の遺産も多い。 例えば 「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。 此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」という有名な二支縁起。 パーリ語 idappaccayatāを今は『此縁性』と訳されるようになったが 宇井さんが「相依性」と訳し、その影響が学者にまで広がっていたことは有名。 今回の『相待の仮説』も宇井さんがやらかしてしまつた一つなのであろう 麦引用の三枝訳 サンスクリット文の訳 およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。 それは,相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。 つばめ堂通信訳 およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。 それは,相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。 http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no24 ちゃんと確認すると単純に、三枝訳をコピーしているだけだな 144 :仏教棄民の大山:2019/07/25(木) 18:33:44.88 ID:dhB8tEnR.net[17/24] 空っていうのは ”欠いてる” って意味だけど、参考までに龍樹の「中論」から空に関する記述を抜粋してみた。 縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。 その空は相対的な仮説である。 これが実に中道である。 (龍樹 「中論」) 空であると説くべきではない。 空ではないとも同様である。 その両者であるとも、その両者でもないとも説くべきではない。 それは仮の名称のために説かれる。 (龍樹 「中論」) 依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。 その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。 依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。 (龍樹 「中論」) 麦引用の三枝訳 サンスクリット文の訳 およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。 それは,相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。 大山の出どころ不明訳 縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。 その空は相対的な仮説である。これが実に中道である。 http://imachannobennkyou.web.fc2.com/131.htm 宇井伯寿の『梵文邦訳中之頌』 縁起であるものを凡て吾々は即ち空であると説く。 その空は相待の仮説である。これがまさしく中道である。 大山の出どころ不明訳 縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。 その空は相対的な仮説である。これが実に中道である。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 宇井さんというか、このサイトからのほぼパクリのようだ http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm 目次を見ると 四句レンマ 唯識など大山の興味と重なる 日蓮正宗大石寺の信徒のページのようだ 大山君か? 我執を無くす努力をしている人達は 瞋恚に焼かれ 無知に流され 執着に囚われ 自分が自由でない事を理解する 我執を無くす努力をしている人達は 何度も我執の罠にはまる それでも折れずに努力を続ける人達は 我執の罠に入らないよう慎重になり 我執の罠から抜け出すため謙虚になる ********************** このスレは一時閉鎖中です。 スレ主 ********************** 病識が無いイヌヤマ カワイソス (-∧-)合掌 >公案が進んで無くよくわからないのです、法相宗ですから唯識ですby無脳イヌヤマ 入退院の繰り返すってどうだぁイヌヤマが相手にされない時、犬嫁麦になるの原則(笑い 逝けば解かるさ、イヌと酢昆布を蹴る功徳がぁ ガチのキチガイw だっぺよ仏教棄民のイヌ山 ぁ〜♪ってさぁ クチャイキチャナイ安藤犬山色情魔栄進鬼和尚くちからでまかせを蹴り[age] 5ちゃんねるの会話の形式は、バトルです、馴れ合いを禁じています。 彼はお前はえらい、と認めてほしい、ほめて欲しいのです。 それは彼がリアル世界での無視されている現状があるのです。 一見、相手を罵倒しているように見える悪口雑言の数々は、彼の抱え込んでいるリアル社会での彼に対する社会の評価です。 糞邪鬼は月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン法相宗唯識の会に出ると偽証 講習会レジュメ収集に親子で家族で100回参加と虚飾。 もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ。 相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞邪鬼へのリアル社会の絶対評価です。 ググるシッタカ糞邪鬼は、褒めてクレヨの存在確認、承認欲求、の哀願奴隷でつ。 || ○荒らし粘着糞イヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。 || 荒らしイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる。 || ○荒らし糞イヌヤマは、自己の内側、佛心が観えず。 || 荒らし糞イヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求、承認欲求します。 || ○荒らし糞イヌヤマは問いに問いで返す無答、脊髄反射のパープリンです。 || 荒らし糞イヌヤマは悟前(ごぜん)、金魚ドジョウと救い難い。 || ○荒らし粘着糞イヌヤマの重複スレには誘導リンクを貼って放置プレイ透明アボーンが一番。 || ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。 || ○放置された荒らし糞イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘います。 || 荒らし糞イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。 || ○反撃は荒らし糞イヌヤマの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。 || 荒らし糞イヌヤマにつけ入るエサを与えない || ○荒らし糞イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除です。 || 糞邪鬼は暴れさせておいてゴミが溜まれば透明あぼ〜ん,NGID登録が適切で決してレスしない事 >山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。 >時もし懐すれば山海も懐す、時もし不懐なれば、山海も不懐なり。 >この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈花出現す。これ時なり。時にあらざれば不恁麼なり。 >(正法眼蔵 道元) 仏教の時間観について時折道元の思想が注視されますが、これ(>>208 )、時間と存在の相依性を言ってると思うんです。 つまり、仏教は縁起説に立つので何かが単体で存在することについては否定的で、相違性の中で説いてるんです。 つまり、時間とは存在であり存在とは時間であると。 …もちろんそれは循環論法になってるので論知的には誤謬と去れるのかもしれませんけどね。 >つまり、仏教は縁起説に立つので何かが単体で存在することについては否定的で、相違性の中で説いてるんです。 ↓ >>209 >つまり、仏教は縁起説に立つので何かが単体で存在することについては否定的で、相依性の中で説いてるんです。 コロナに感染すると肺が繊維化してしまうんだよ 本来風船のように収縮するはずの肺がテニスボールのように硬くなって息苦しさが続く 一番怖いのは一度繊維化した肺はリハビリしてももう元には戻らず後遺症が残ること 自分がかかるだけならともかく油断して出歩いてコロナ感染して 家族や身近な人に伝染して死なせたり一生残る後遺症を与えてしまったら悔やんでも悔やみきれないよ 犬山敏郎 屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェー ほらぁ、あの荒らし粘着糞雀鬼バカイヌヤマが言うのよ透ってないのに、初関を40回も透ったと。 それって初関を透る、じゃねーべよ。 ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代がワンコインで、これが研究会出席と見栄を張る。 イヌヤマは 華厳宗だろ、禅はカラッキシで、公案は進んでないと自白し、くちパクパクだけの悟前(ごぜん)だ。 華厳宗奈良東大寺官長じっちゃんのお抱え運転手だった、と吹聴する倒錯症状。 それが唯一の自慢タラタラで 全く無内容、年金暮らしで誰からもウトマレルじさま、だね。禅では無い。外道は去れ。 5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。 但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。 ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいの哀願です。 それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。 一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼イヌヤマの抱え込むリアル社会による正義の鉄槌を打ち下ろす絶対評価です。 と言う事で、糞雀鬼は「暴れさせゴミがたまったら透明あぼ〜んが適切ですね。 決してレスポンスしない事が、大切。 || ○荒らし粘着糞雀鬼イヌヤマは無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。 || 荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。 || ○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。 || 荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。 || ○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。 || 荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。 || ○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。 || ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。 || ○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。 || 荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。 || ○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。 || 荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい || ○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除です〜♪ 碧巌録(へきがんろく) 第23則 保福長慶遊山(ほふくちょうけい ゆさん) 雪峰義存(せっぽう ぎそん)70歳の頃、その弟子達三名・・長慶慧稜(ちょうけい けいりょう38才頃) 鏡清道?(きょうせいどうふ24才頃) 保福従展(ほふく じゅうてん22才頃)の、雪峰山、禅院での遊山問答 本則 保福従展、長慶慧稜、遊山する次(つい)で、福、手をもって指して云く、「只(た)だ這裏(しゃり) すなわちこれ妙峰頂(みょうほうちょう)」。 慶云く、「是なることは即ち是なるも、可惜許(かしゃくこ)」。 雪竇(せっちょう)著語(じゃくご)して云く、「今日この漢とともに遊山して、箇(こ)のなにをか図る」。また云く、「百千年後無しとはいわず、ただこれ少なし」。後 鏡清道フに挙示(こじ)す。 清云く、「もしこれ孫公(長慶慧稜の俗姓)にあらずんば、すなわち髑髏(どくろ)、野にあまねきことを見ん」。 → 同じ師家の若き3人の修行僧たちの一番若い保福が美しい景色を見て悟境を言った。真理(さとり)とは、一の如し、である。見る、見られるが無い。看るもの看られるものが無い。浄土教典に西方の浄土を思って日が没する様子を見詰める「日想観」がある。 西日に向かって正座するのである。。「一切衆生(いっさいしゅじょう)、みな日の没するを見よ。まさに想念を起こして正座して西に向かい、あきらかに日を観(かん)ずべし」 夕陽に照らされる風景は、あかね色に染め上げられる。 何もかもが、あかね色、一色(いっしき)である。 阿弥陀仏に手をあわせ、阿弥陀仏が手をあわせている。 さて、仏教者の中には音を観るって仰る方がおられるんですが、私も賛同するのですが、個物には音があると思うんです。 勿論、個物そのものが音を発生してるのではなく、縁起(相依性)のなかでの能所の事ですけどね。 そして、その個物を包み込んでる宇宙にも音があります。 阿(オーム)です。禅宗でいう無字でしょうね。 我々限定された者が非限定に触れて再び限定(非限定の限定)の世界に還ってきた時に初めて聞く音、それが阿(オーム)であって無字ではありませんかね。 非限定が我々限定者に受容された時、その非限定からの働きかけが妙法って呼ばれる形で顕われると思うんですけどね。 この馬鹿栄進、酢昆布!(すっこんでろ) (*'ω'*)......ん? どないしなはりましたんキチガイヌヤマはん?! 犬山敏郎 屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェー バカイヌヤマは透ってないのに、初関を40回も透ったと、それって初関を透る、じゃねーべよ。 ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代がワンコインで、これが研究会出席と見栄を張る。 イヌヤマは 華厳宗だろ、禅はカラッキシで、公案は進んでないと自白し、くちパクパクだけの悟前(ごぜん)だ。 華厳宗奈良東大寺官長じっちゃんのお抱え運転手だった、と吹聴する倒錯症状。 それが唯一の自慢タラタラで全く無内容、年金暮らしで誰からもウトマレルじさま、だね。禅では無い。外道は去れ。 5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。 但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。 ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいの哀願です。 それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。 一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼イヌヤマの抱え込むリアル社会による正義の鉄槌を打ち下ろす絶対評価です。 と言う事で、糞雀鬼は「暴れさせゴミがたまったら透明あぼ〜んが適切ですね。 決してレスポンスしない事が、大切。 ○荒らし粘着糞雀鬼イヌヤマは無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。 荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。 ○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。 荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。 ○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。 荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。 ○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。 ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。 ○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。 荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。 ○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。 荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい ○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除です〜♪ 悟れない馬鹿野園とバカまなみ、とが言うバカである。 大爆笑である。 少数の話が分かる方との対話の場も、こうした絶対的多数のチキガイに荒らされてしまう。 他人の体験や知識に対する妬みや嫉みは、実にみぐるしいのもです。 結局、絶対的にこうした話が出来ない底なしの馬鹿だから、こうした話をされるとマネが出来なくて、悔しくて悔しくて仕方ないんだろうな。 エマニュエル・レヴィナスの他者論(ウィキ引用) 他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。 一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。 いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。 「他者」が現れるからこそ、自己は自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。 空海の言語哲学によれば、言語はその一義的な意味の体系を解消して、事物の多義性に呼応したシステムとして了解・運用されるべきであるという。 ここには、近代合理主義を超克する一つの存外、有力な道としての可能性がある。 曼荼羅思想は、共生ということの究極的なモデルを提供しうるものでもある。あるいは自己を曼荼羅そのものと洞察する視点は、自我の解体と自己の構築をもたらすであろう。 まさに現代の最大の問題である他者の問題への独創的な視点を秘めている。 こうして、空海の思想は、現代の境位においてこそ、深く顧みられるべきものなのである。 (竹村牧男 空海の思想) エマニュエル・レヴィナスの提唱した他者論について、仏教的な視座から解体するとどうなるんだろう? これが次のテーマかな。 人がアと発声する、まだ特定の意味は全然考えていない。 しかし、自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。 ア音の発声を機として、自己分節もはたらきを起こした大日如来のコトバは、アからハに至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール(書き言葉)的なエネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ねていきます。 そして、それとともに、シニフィエ(音声の意味、すなわち概念)に伴われたシニフィアン(音声)が数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところにひびきを呼び、名を呼び、物を生み、天地万物を生み出していきます。"五大にひびきあり"といわれるように、それは地水火風空の五大ことごとくをあげての全宇宙的言語活動であり、"六塵ことごとく文字なり"というように、いわゆる外的世界、内的世界にわれわれが認識する一切の認識対象のことごとくが、文字なのであります (井筒俊彦 特別講演「言語哲学としての真言」) 全存在世界をコトバの世界とし、文字と声とひびきによって世界の本質が開示し、存在するという教え、すなわち神のみが真実のコトバを発し、そのコトバによって世界が創造され、その世界の住人となった人間にもともとの神のコトバが流布していったという教えは、イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッパーラー(6世紀の神秘思想のこと)でも説かれている。(空海も『声字実相義』の「言語論の典拠」の章で、「インドの最高神、梵天自らがコトバを創造し、一つの語の中に多くの意味を含ませた」と説いている) このように"存在は言葉である"という命題の絶対性において、真言密教の教え、すなわち空海の言語哲学の教えは東洋思想の歴史的展開の中で、決して孤立無援の思想ではなかったのであります 上記の要旨だとか。 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-24.html 上記の梵天は 天帝自ら声論を造ってよく一言においてつぶさに衆義を含す。 とあるから帝釈天の間違いかもな。 「諸の義利成就せり」とは、「天帝自ら声論を造ってよく一言においてつぶさに衆義を含す。故に引いてもって証となす。世間の智慧すらなおしかくのごとし。いかにいわんや如来は法において自在なるをや」。 アマゾンのプレビューより抜粋 大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……を超えて、東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学へ! 「レンマ」とは何か 哲学者山内得立が著書『ロゴスとレンマ』で提出した概念によっています。 「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。 それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。 西洋では伝統的に「ロゴス的知性」が重要視され、そのうちに理性といえばこの意味でばかり用いられるようになりました。 ところが東洋では、「レンマ的知性」こそが、理性本来のあり方と考えられました。 まさに仏教はこの「レンマ的知性」によって世界をとらえようとしたのです。 大乗仏教、とりわけ『華厳経』が「レンマ的知性」による高度の達成を実現しようとしました。 現在、人間的理性能力のうち、「ロゴス的知性」の部分をコピーしている、人工知能の急速な発達によって、より根源的なもう一つの理性能力である「レンマ的知性」の存在が逆説的に、鮮明に浮かび上ろうとしています。 そして、「レンマ的知性」は、現代数学や量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学といった人間諸科学の解体と再編成をうながしていく可能性があります。 この知的鉱脈を鈴木大拙や南方熊楠、井筒俊彦らは気づいていました。 それを現在の知的装備を駆使して掘り起こす試みが、「レンマ学」です。 人がアと発声する、まだ特定の意味は全然考えていない。 しかし、自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。 ア音の発声を機として、自己分節もはたらきを起こした大日如来のコトバは、アからハに至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール(書き言葉)的なエネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ねていきます。 そして、それとともに、シニフィエ(音声の意味、すなわち概念)に伴われたシニフィアン(音声)が数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところにひびきを呼び、名を呼び、物を生み、天地万物を生み出していきます。"五大にひびきあり"といわれるように、それは地水火風空の五大ことごとくをあげての全宇宙的言語活動であり、"六塵ことごとく文字なり"というように、いわゆる外的世界、内的世界にわれわれが認識する一切の認識対象のことごとくが、文字なのであります。 (井筒俊彦 高野山での特別講演「言語哲学としての真言」より) 全存在世界をコトバの世界とし、文字と声とひびきによって世界の本質が開示し、存在するという教え、すなわち神のみが真実のコトバを発し、そのコトバによって世界が創造され、その世界の住人となった人間にもともとの神のコトバが流布していったという教えは、イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッパーラー(6世紀の神秘思想のこと)でも説かれている。(空海も『声字実相義』の「言語論の典拠」の章で、「インドの最高神、梵天自らがコトバを創造し、一つの語の中に多くの意味を含ませた」と説いている) このように"存在は言葉である"という命題の絶対性において、真言密教の教え、すなわち空海の言語哲学の教えは東洋思想の歴史的展開の中で、決して孤立無援の思想ではなかったのであります 上記の要旨だとか。 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-24.html レンマ的な知に着目すれば当然に華厳の思想が問題になりますけど、その華厳の思想を第九位に置いた空海の思想を看過する訳にはいかないって事なんです。 私は禅宗ですけど、禅を理解するためにはどうしても禅宗の枠(枠は自身の自縛で禅宗に枠があるのではないというのは承知の上)からの超越を感じましたし、いわゆる鎌倉仏教は選択の仏教だと思うのです。 天台・真言を貴族仏教、奈良仏教を学問仏教って数行で片付けていた当時の教科書にも問題があると思いますけどねw 声字実相義務より この義は『大日経疏』の中につぶさに説けり。文に臨んで知んぬべし。 もし声字と実相と極めて相迫近にして避遠なることを得ずといわば、ならびに隣近に名を得たり。 もし声字は仮にして理に及ばず、実相は幽寂にして名を絶す、声字と実相とは異なれり。声は空しく響いて詮することなく、字は上下長短にして文をなす、声と字と異なれりといわば、ならびに相違に名を立てたり。 帯数は闕けてなし。如上五種の名の中に相違は浅略の釈に約し、持業と隣近とは深秘の釈による。余の二は二釈に通ず。 (現代語訳) これは大日経の疏の中にくわしく説いてありますからよく読んでおくとよいでしょう。 もし声と字と実相をきわめて近い意味で、離しては考えられない、とすれば、これは隣近釈です。 もし声や字は仮のもので理由にはなりえない、実相だけが幽玄寂静として実在し、名を越えている、声字と実相とは異なったものであり、声は空しく響くだけのもので意味などなく、字も上下長短があるだけで文を構成するだけだ、と解せば相違釈になります。 そしてこの場合、帯数釈は存在しません。以上述べました五種の解釈のうちで、相違釈は浅略といえますし、持業釈と隣近釈は深秘の釈で深い理解です。残りの二釈は浅略、深秘両方の説が成り立ちます。 訂正 声字実相義より この義は『大日経疏』の中につぶさに説けり。文に臨んで知んぬべし。 もし声字と実相と極めて相迫近にして避遠なることを得ずといわば、ならびに隣近に名を得たり。 もし声字は仮にして理に及ばず、実相は幽寂にして名を絶す、声字と実相とは異なれり。声は空しく響いて詮することなく、字は上下長短にして文をなす、声と字と異なれりといわば、ならびに相違に名を立てたり。 帯数は闕けてなし。如上五種の名の中に相違は浅略の釈に約し、持業と隣近とは深秘の釈による。余の二は二釈に通ず。 (現代語訳) これは大日経の疏の中にくわしく説いてありますからよく読んでおくとよいでしょう。 もし声と字と実相をきわめて近い意味で、離しては考えられない、とすれば、これは隣近釈です。 もし声や字は仮のもので理由にはなりえない、実相だけが幽玄寂静として実在し、名を越えている、声字と実相とは異なったものであり、声は空しく響くだけのもので意味などなく、字も上下長短があるだけで文を構成するだけだ、と解せば相違釈になります。 そしてこの場合、帯数釈は存在しません。以上述べました五種の解釈のうちで、相違釈は浅略といえますし、持業釈と隣近釈は深秘の釈で深い理解です。残りの二釈は浅略、深秘両方の説が成り立ちます。 声字実相義より 内外の風気わずかに発すれば必ず響くを名づけて声という。響は必ず声による。声はすなわち響の本なり。声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。名は必ず体を招く。これを実相と名づく。 (現代語訳) 身体の内であれ外界であれ、空気が少しでも動きますとそこに必ず響きを生じますがこれが声です。響きは必ず声から生じますから声は響の本になっているのです。声が起こりますとそのままではすまないで必ず物の名を表わすことになり、これを字といいます。名が出れば必ずそこに本体があらわれます。これを実相といいます。 何か個物があってそれに何かしらの命名(名前)がされるというのが一般的な常識で、また名前は名前でそれそのものではないという見解にも一理あるでしょうが、表層意識下の意識を説く大乗仏教では、その考察に留まらず、全く逆の視座からその実在を分析する一派もあります。 即ち、阿頼耶識に在する名言種子の薫習と現行の問題です。 (声字実相義) 五大にみな響あり、十界に言語を具す、 六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。 (現代語訳) 地水火風空の五大に皆それぞれ響きがあります。また、下は地獄から上は仏界までのあらゆる世界にそれぞれ言語があって意志を伝え合い表現し合っています。そして眼耳鼻舌身意という六根が対象とするいわゆる色声香味触法の六境(六塵)も広く理解すればすべて文字(メッセージ)だといえます。そう考えますとこうした声字の当体としての法身が実在するということになります。 たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。 それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。 それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。 だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?(入門 哲学としての仏教 竹村牧男) ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin有法)と呼ぶ。 「法」という語にはさまざまな意味がある。掟という意味もあり、義務、正義でもあり、教え、さらにはあらゆるもの、存在をも意味する。 一方、哲学的な論議においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。 もう一度白い紙を考えてみよう。この紙には、無色透明ではあるが基体として一つの場があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えられる。さて、これらの属性を取り除くことができたと仮定してみよう。白色を取る、匂いを取り除き、重さを取るというようにして、すべての属性を取り除くことができたとしよう。最後に何か残ると考える人もいるだろうし、何も残らないと考える人もいるだろう。 結論的にいって何も残らないという方が仏教的なのである。無色透明ではあるが基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのが、バラモン正統派の考え方である。紙という基体から白色などの属性を全部取り除いた後にも、目には見えない、匂いもしない、しかし、それがなければ成立しないというような場が残る。何かそのような場がなければ、さまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろう、というのがインドのバラモン正統派の考え方である。(空の思想史 立川武蔵) さまざまなアフォーダンスは、発見されることを環境の中で「待って」いる。アフォーダンスの実在を強調するので、ギブソン理論は「エコロジカル・リアリズム(生態学的実在論)」ともよばれる。(新版 アフォーダンス 佐々木正人) 唯識思想では一人一人宇宙を説いているおり、一個人の心(阿頼耶識)の中に宇宙があるとされている。 ここで当然に疑問も生じる。 例えば一本の木が現前にありその木を伐採してたとしても、それは一個人の心の中の現象であり他人の心の中では生じていないのでは?と。 これに対して唯識思想は共相の種子(ぐうそうのしゅうじ)と増上縁という概念をもって答えている。 即ちその木は、自らの木という共相の種子を因とし、他者の心の中にある共相の種子である木を(増上)縁として成立してるというのである。 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。 >取ること全無には非ず。 >(成唯識論) >不思量底を思量せよ。 >不思量いかんが思量せん、非思量これすなわち坐禅の要術なり >(坐禅用心記) 同じ意味。 >唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。 >(伝心法要) >三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別 >(華厳経) 同じ事を言ってる。 唯識はあくまでも一人一宇宙なんです。 宇宙の中に一個人とその阿頼耶識があるのではなく、阿頼耶識を中に宇宙があり一個人(肉体)があるとされてます。 では他者との関係はどうなんでしょうか? 例えば外には月が出てるとします。 勿論それは(その方の)種子が現行して月となって顕現しているという事ですが、同じ様に他者の識にも共通して月が出ておるのですが、その種子は共相の種子と呼ばれており、それによって月というのが共有されておるのです。 則ち、自身の共相の種子が因となり、他者の共相の種子が(増上)縁となり、果として月が顕現してるという事になります。 >つーか、そもそも定果色と遍計所起色の違い自体が分からないんだろ。 >三界唯一心 心外無別法 >心仏及衆生 是三無差別 平等か差別しかねーもんなw 爾らずんば、無漏の後得智品の二分をも、応に遍計所執と名付くべし。 つまり、後得智が遍計所執ではおかしいと護法は安慧説を批判してるのです。 許さずんば、応に知るべし、有漏もまた爾なるべし。 つまり、我々凡夫の見分・相分も遍計所執ではないですよ、と。 唯だ意識のみを能遍計と説くが故に。 摂大乗論ではそうなってると。 https://i.imgur.com/zB0hKBL.jpg だよな、言った通りじゃねーかw 切り貼り。 ここで 「安慧等の古大乗師」の説として 「相・見分は無しと説く」とされてい るのは, MV第1章第1偈において「所取・能取(相分・見分)」を非存在の遍計 所執性のものとして位置づけているとい うことに対応している.それに対して, 無 着 の 「摂 大 乗 論 』 に お い て は , 「依 他 起 性 の 見 識 ・ 相 識 」 と い う も の を 説 い て い る の で あ る か ら , 安 慧 ・ 護 法 の 時 代 (六 世 紀 ) に 論 師 ご と に 見 解 が 分 か れ て く るの は, むしろ,当然の こ とであっ たともい えるであろう マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。 それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。 そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。 サルトル 嘔吐 から。 修行が終わるとか始まるとか、それって真如にも二種類あって無漏(さとり)の真如と有漏(まよい)の真如があり、それが相即してて修行しようがない事に気付くって事でしょ。 だから、修行の終わりであって始まりでもあるんだけど。 それから、第四禅定云々も滅尽だとその自覚さえも無いからね。 『宗教名目による悪徳商法―日弁連報告書にみるその実態と対策 』 (緑風出版) (1996/5/1) 日弁連は1987年7月と翌1988年3月の2度にわたって、霊感商法の実体とその対策について提言する詳細な報告書を公表した。 第二 実体 この提言で対象とする典型的な事例を10種類選択して紹介する。いずれも弁護士や消費者センター等の相談窓口に寄せられることが多いものばかりであり、事件を担当した弁護士や被害者から直接事情徴収してまとめたものである。・・・ 8)教祖の著作を書店で見て、この教団(法人格はない)に関わりを持つ人が多い。悪霊を払って善霊を呼び開運すると銘打った除霊の儀式(5万乃至数十万円)や、 有料の気学や、やせる・美人になる・金持ちになる等の各種講演会、秘法等のイベントなどに若い人を中心に多数参加している。 子供の病気等の悩みを解決するためには除霊をしないといけない、といわれて、 教祖や教団内の資格を持った幹部の儀式、鑑定などを度々受けたため、多額の出損となったという事案を初めとして、相当数の被害相談がある。』 仏教とバラモン教の違い、則ち無(非)我と真我の違いについて、仏教は依他起性を説くけどバラモン教は自らに依る事を説いている。 バラモン教に於いては自由であり自在という事になる。 依他起〜paratantra(pra(他に)+tantra(依存する)) 依自起〜savatantra(sava(自らに)+tantra(依存する)) 仏教とバラモン教の違い、則ち無(非)我と真我の違いについて、仏教は依他起性を説くけどバラモン教は自らに依る事を説いている。 バラモン教に於いては自由であり自在という事になる。 依他〜paratantra(pra(他に)+tantra(依存する)) 依自〜savatantra(sava(自らに)+tantra(依存する)) 有りて在る〜真我 依りて在る〜無我 残しておこうw 四法界が誤解されてるね。 簡単に説明させて貰いますけど、事は差別、理は平等、理事は差別と平等の二面性の理解、事事は縁起の理解って事です。 そろそろ新しいテーマを出して考えてみよう。 テーマ:心身問題 心身問題についてはwiki等に説明があるので詳しくは書きません。 デカルトの心身二元論に端を発してスピノザの批判、ベルクソンやメルロ=ポンティの提言・・・ 現代に至っては心身問題から心脳問題としてその問題について継承されているって所でしょう。 心身問題についてはwiki等に説明があるので詳しくは書きません。 デカルトの心身二元論に端を発してスピノザの批判、ベルクソンやメルロ=ポンティの提言・・・ 現代に至っては心身問題から心脳問題としてその問題について継承されているって所でしょう。 基本的な視座は、心身(脳)一元論か二元論かって事ですけど、要は、 心=脳? 心≠脳? って事です。 心というと我々仏教とは唯識思想を想起する訳です。 ところでフロイトやユングは意識下の意識として無意識や集合的無意識を唱えました。 詳しくは存じませんが、それらは脳内の活動であると認識しております。 つまり、唯識仏教では意識下に末那識や阿頼那識を置きますが根本識(阿頼那識)を設定し脳の活動とはしておりません。 ここが、大きな違いでしょう。 少なくとも唯識の立場に立つ仏教は、脳=心って限定された視点で見ている訳ではないと思うんです。 心、こころの領域が更に拡大されている訳です。 阿頼耶識の中に宇宙があるのなら、唯識仏教でいうWこころWは当然に宇宙を超える領域にあるってなるのかもしれませんが、私はこころは宇宙に等しく、また原子や素粒子に等しい、大きさっていう表現が適切かどうかは迷う所ですけど、そう思うんです。 何故なら、心も宇宙も相互作用、相依性に依るものと思うからです。 例えば数万光年離れたところにある惑星で石ころが転げ落ちたとしてもそれは(私の)こころって事だと思うんです。 勿論、その作用(相依性)が極めて極めて弱いだけのことであって何の影響もなきに等しいのでしょうが。 日常心の認識とは? 識の認識〜帯が帯似、相が相状 無分別智の認識とは? 智の認識〜帯が挟帯、相が体相 無分別智とは? 所縁能縁平等平等智 所縁縁とは? 所縁は心法が起こる縁となるゆえに所縁縁(しょえんねん)という。 識の起こりとは? 境(対象・相)があって識が生じる。 境がなければ識もなくなる。 境識倶ミン(サンズイ+民)。 相を持つ心とは? ”己が相を帯せる心”という 帯の二種類 帯似(似て非なる帯び方) 挟帯(けったい) 相の二種類 相状(対象の表層的姿) 体相(対象そのもの) >純粋レンマ的知性に時間性が介入することによって、スペクトル分解がおこって、そこから分別を本質とするロゴス的知性の発生がおこるのである。 (中沢新一) 直交補構造って事です。 純粋レンマ的知性が有情のアーラヤ識に送り込まれるやいなや、瞬時にしてそれは(アーラヤ識内の)レンマ的知性とその変異体であるロゴス的知性に分解を起こす。 二つの知性は互いに「直交」しているので、ロゴス的知性は自分自身の本体をなすレンマ的知性の存在を認識することができない。 人間の意識はロゴス的知性の制圧下にあるので、意識はレンマ的知性のとらえている世界認識を直接感知することができない。 ただ無意識だけがそれを直観的に知ることができるのである。 (レンマ学 中沢新一) . 如来蔵(純粋レンマ的知性) . ↓ . 阿頼耶識 . ↓ ↓ .ロゴス的知性(変位体) レンマ的知性(真正体) 直交補構造 . ロゴス(分析知) . ↑ . ↑ . ↑ . 如来蔵→(阿頼耶識)→→→→→→レンマ(直観知) 言葉とは他の否定である(アポーハ論) つまり、相依的なもの。 だから、言葉で説明する事は循環論法に堕ちる。 つまり、矛盾を孕んでる。 ところで、言葉とはロゴスに他ならない。 ロゴス的な知性では循環するのみである。 そこで、レンマ的な知性が求められる。 しかし、レンマ的知性はロゴス的知性と直交する。 1.肯定 西洋排中律←[個物]同一性へ向かう 2.否定 西洋排中律←[個物]同一性へ向かう 3.肯定でも否定でもない 東洋容中律←[個物]同一性へ向かわない 4.肯定でも否定でもある 東洋容中律←[個物]同一性へ向かわない 523 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/03/10(水) 21:17:55.81 ID:rt1SI7ve >>515 wwwwwwwwwww wwwwwww そうか、じゃあ自称覚者はそれを証明出来ないって言うんだな。 「証明は主張する者にあり、否定する者になし」という格言があるのは知ってるか? 積極的事実の主張者がその証拠を示さないで、その反論者に対して反対事実の証明として、その消極的事実の証明を課すことは、証明責任の転換であって、論理的にはそうでも修辞学上は立証責任の放棄として詭弁として扱われるんだよw つまり、証明出来ない悟りは詭弁という事だ。 「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑにしからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆゑに、おほよそ行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり」 (親鸞 末燈鈔 第五書簡 法爾自然事) >>524 (続き) この部分は道元さんの以下と共に拝読すると味わい深いものがあります。 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。 万法に証せられるといふは、自己の身心 および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり。」 (道元「正法眼蔵」「現成公案」) 仏教では自然(しぜん)とは云わないで、WじねんWって呼ぶことが多い様ですが、その意味するところは上記の親鸞さんの書簡に説明されておる通りでしょう。 私は親鸞さんの法爾自然と道元の法に証せらるるという言葉に凄く親しみを感じます🤗 一切の言説は仮名にして実無く、担だ妄念に随いて不可得なるを以っての故に、真如と言うは亦た相有ること無し。 謂わく言説の極、言に因りて言を遣るなり。 此の真如の体は遣るべき有ること無し、一切の法は悉く皆な真なるを以っての故に。 亦た立つべき無し、一切の法はみな同じく如なるを以ってが故に。 当に知るべし。一切の法は説くべからず念ずべからざるが故に名づけて真如となす。 (大乗起信論) 問うて曰く、若し是の如き義ならば、諸の衆生等云何が随順し而して能く得入せん。 答えて曰く、若し一切の法は説くとは雖も能説と可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念と可念と無を知る、是を随順と名づく。 若し念を離るるを名づけて得入となす。 (大乗起信論) 随順・・・知的に深く了解する事。 得入・・・実際に悟りをひらくこと。 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。 >取ること全無には非ず。 >相分は無しと雖も、而もこれ如の相を帯して起こると説くべし。 >如に離れざるが故に。 >自証分、見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし (成唯識論) >>539 (続き) 難解ですけど、竹村先生はその解説書で >相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略) >智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。 >そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。 >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。 と解説されており、また、 >相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。 >したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。 >また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。 とおっしゃってます。 !!! さすが、竹村先生😌 「自己をはこびて万法(まんほう)を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」 (道元正法眼蔵 現成公案) 自然法爾(親鸞) 万法に証せられる(道元) 若し念を離るるを名づけて得入となす(起信論) 如に離れざるが故に。(成唯識論) >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。 まぁ、仏教の大事なポイントの一つはここだと思うんです。 煩悩の止滅(すなわち涅槃)は離繫果として五果の一つに数えられる。煩悩の止滅といっても、煩悩はやはり“三世に実有”する有為のダルマであるから、それがなくなってしまうことはありえない。のちに述べる(六章「心と心作用との「俱生」)ように、ただ心相続が煩悩の拘束から離れる、すなわち離繫することを煩悩の止滅といい、涅槃というのである。 離繫するのは正しい知恵による。したがって涅槃は正しい知恵によって得られる結果である。離繫果と呼ばれるゆえんである。しかし涅槃とは因果関係の上に成り立つ縁起―有為―無常の世界からさとりの境地への超出である。離繫果とはいっても、有為のダルマ(正しい知恵もやはり有為のダルマの一種である)を因として通常の意味の因果関係によって生じた果とみなすことはできない。そこでこれは、果ではあるがその因をもたないとされる。要するに、無為のダルマは能作因であるがその果をもたず、無為のダルマの一種である涅槃は離繫果であるがその因をもたないのである。 本覚の義は始覚の義に対して説く。 始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり。 始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり。 不覚に依るが故に始覚有りと説く。 (大乗起信論) 念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、(自信教人信 難中転更難)(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。 人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、(まはさてあらん)とは申すなり」と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり。 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵 の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじて四五日ばか りありて、思ひかへして、よませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。 三論宗覚書き(主に八宗綱要から) 一には、外道実我の邪見を破し、 二には、毘曇実有の執見を破し、 三には、成実偏空の情見を折し、 四には、有所得大乗の見解を摧く。 至道は是れ玄極なれば、言論及ばず。 有と言えば則ち愚に返り、無と語れば則ち智に非ず。 善吉(須菩提)呵せられ、身子(舎利弗)責めらる。 有に非ず、無に非ず、亦有亦無にも非ず、非有非無にも非ず。 言語の道断じ、心行の処滅す。 湛湛として寄る無く、寥寥として拠を絶す。 知らず、何を以ってか銘けん。 強いて顕正と名づくるなり。 無得を以っての故に、仮名の諸法は法爾として森羅たり 一には、有を俗諦と為し、空を真諦と為す。 二には、有・空を俗と為し、非空・非有を真と為す。 三には、空有・非空非有を俗と為し、非非有・非非空を真諦と為す。 四には、前を以て俗と為し、非非不有・非非不空を真と為す。 四種釈義 依名釈義(言葉によって説明する) 因縁釈義(反対の概念によって説明する。善を悪によって表す等。互相釈義) 見道釈義(無名相の法をあえて言葉で説明する) 無方釈義(自在に解釈し説明する) 興味深いのは、三論宗の修道論です。 あらゆる二元対立の分別を否定するということは、迷・悟の対立をも否定することになり、したがって成道するとかしないとかいうことも本来ないことになります。 言葉の世界では、迷いに対するが故に悟りを立て、悟りに対して迷いがあるということになりますが、実際に悟りが成就すれば、迷いなどもともとなかったのだと気づかされます。 迷いがないとすれば、何の悟りがあろうかということにもなるでしょう。 本当は、迷いもなく、悟りもないのであり、迷・悟は本より無にして、本来寂滅なのだ、迷・悟は仮に言葉で説いたに過ぎず、無得正観こそすばらしい究極の真理の世界なのだ、と主張することになります。 (日本仏教 思想のあゆみ 竹村牧男) 理 即(未断惑の位)…凡夫で仏性があっても自覚できないままの位。 名字即(未断惑の位)…経論や師の導きで、自己が本来、仏であることを信解する位。 観行即(伏惑の位)…天台の円頓の教によって止観行を修行する位。 相似即(見思塵沙を断ずる位)…覚りの智慧に似た心境を実現し六根清浄の徳を得る位。 分証即(断惑無明中道の位)…覚りの智慧を発して仏性を自覚し、一部の無明を断じる位。 究竟即(断惑無明中道の位)…究極的で完全な真実の智慧を実現する位。妙覚。 草木は依報、衆生は正報なり。依報は依報ながら、十界の徳を施し、正報は正報ながら、依報の徳を施すなり。 もし草木成仏せば、依報減ず。三千世界の器世間に減少あらんや。 故に、草木成仏とは巧に似て、還って浅に似たり。 ……その体を捨てずして、しかも己心所具の法を施設するが故に、徳を法界に施すなり。 もし当体を改むれば、只だ仏界の一界なり、常住の十界まったく無き故に。草木も常住なり、衆生も常住なり、五陰も常住なり。 よくよく、これを思うべし。 (『恵心僧都全集』・三巻・四八一頁) 阿頼耶識の根拠は、言語によって構築された仮構(虚妄)であるから、その根拠の転換、すなわち真如への転識が要請される。 止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しない。 現行しないなら煩悩は滅しない。 であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるから、それを阿頼耶識中に置くという事となる。 無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれる(『摂大乗論』所知依分)。 >「相関主義」というのは、主体から分離された「対象それ自体」を把握するのは不可能であり、主体の側も常に対象と関係づけられ、それによって規定されている、という見方だ。 >(現代哲学の最前線) >無論、これは狭い意味での宗教に限ったことではない。 >絶対的な基準がないといったん悟って≠オまうと、あらゆる価値観や世界観が、他の人たちには相容れない、自分なりの信仰にまい進しようとする。 >このように考えると、西欧近代を支えてきた啓蒙的理性の解体が進行したことによって生じたポストモダン的な相対主義・ニヒリズムの状況──リオタール(一九二四〜九八)の表現を借りれば、啓蒙という「大きな物語 grands rcits」の終焉──と並行して、宗教的原理主義の運動やスピリチュアリズムが台頭している背景が分かりやすくなる。 >(現代哲学の最前線) >メイヤスーは、相関主義的な枠組みを脱し、「ある絶対的なもの un absolu」に到達する道を探るべきだと主張する。 >しかし、論証抜きに、「神」のような特定の属性を持った「絶対者」を想定し、「○○は存在する。それは事実だ」と断言するのであれば、それは単なる形而上学的独断論にすぎない。 >そこでメイヤスーは、相関主義的な思考を徹底することで、これまでの相関主義的な哲学が依拠してきた諸前提を打破し、「絶対的なもの」を見いだすという逆説的な戦略を打ち出す。 これは、あらゆる存在者にはそれが存在する十分な理由があるという、「理由律 principe de raison」(ライプニッツ)の否定を意味する。 全ての存在者は、偶然的(contingent)であり、この「偶然性」にはいかなる制約もなく、絶対的である。 これをメイヤスーは「理由律」との対比で、「事実論性の原理 principe de factualit」と呼ぶ。 いかなる理由もなく、単に事実≠ニしてそうなっているということである。 「事実性 facticit�vではなく、「事実論性」という奇妙な言葉を使っているのは、対象や出来事に関する個別の事実(事実性)を成り立せている理由が、それらが属する世界のどこにもなく、世界自体が偶然の事実としてそうなっている、というメタレベルの問題だからである。 当然、全ての存在者が「偶然的」だとすれば、どうやって「実在」について考えたらいいのか、という疑問が浮かぶ。 そこでメイヤスーは、いかなる存在者も(主体である私にとって)現にあるように存在する必然性がなく、全く異なったあり方に変容したり、存在していた痕跡もなくなる可能性があることを、「ハイパーカオス」という能動的な状態として読み替える。 「ハイパーカオス」という「絶対者」にあっては、あらゆることが可能であり、何も不可能ではない。 それはあらゆる事物や世界を破壊し、非論理的な怪物も生み出せる。 狂乱する無秩序な変化を起こすこともできれば、不変不動の宇宙を生み出すこともできる。それはある意味、「全能なるもの」だ。 ただし、これまでの哲学者が前提としていた神とは違って、善や理性の狡知のようなものによって特徴づけられることなく、私たちの理性に判明な観念を与えて導いてくれるわけでもない。 いかなる法にも従わない。 世界は超(ハイパー)カオス的であり、無矛盾律は保持されるが、充足理由律は打ち捨てられるのである。 (ウィキ引用) この見方に従う限り、「主体」も「対象」も、それ自体として自立的に「実在」しているとは言えない。 カントの影響で「相関主義」を前提としている人たちは、最初から「実在」について語ることを諦める傾向にある。 私たちは自らの意識と言語に囚われており、その外≠ノ出て、対象の「実在」を知ることは不可能とされてきた。 カントの用語で言えば、「物それ自体」は認識不可能だということである。 相関主義」の下では、主観を越えた真理や価値に到達できる可能性は否定される。 そうなると、各人や共同体がそれぞれに抱いてる自分(たち)なりの信仰によって、絶対的なものに到達しようとするのを、普遍的な論理によって批判することはできない。 ハーマンの四つの極み 「実在的対象 Real Object (RO)」 「実在的諸性質 Real Qualities (RQ)」 「感覚的対象 Sensual Object (SO)」 「感覚的諸性質 Sensual Qualities (SQ)」 O同士の結合(連結 junction):SO-SO、RO-RO、SO-RO、 Q同士の結合(放射 radiation):SQ-SQ、RQ-RQ、SQ-RQの、 併せて一〇種類の結合が考えられる。 十如是 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等 OとQの組み合わせから、 SO-SQ:「時間」、 RO-SQ:「空間」、 RO-RQ:「本質」、 SO-RQ:「形相」、 の四つのパターンが導き出される。 唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。 所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり 十如是とは、すべてのものが相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の一〇個のしかたでもって存在し、生起するということである。 相は外なる様相、 性は内なる性質、 体は外相・内性をあわせた全体、 力は潜在的な能力、作は顕在的な作用、 因はものの生起する直接的原因、 縁は因を助ける間接的原因(条件)、 果は因縁によって生じた結果、 報は結果が事実となって外に現われ出ること、 本末究竟等は第一の相から第九の報まで関係しあい、一貫していることである。 この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、(煩悩を)滅することに導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニルヴァーナに導かない。 ただ、「なにもないという境地」「想いがあるのでもなく、ないのでもない境地」に達するのみであると。 そこで、修行僧たちよ、わたしはその教えに満足せず、厭って、その教えから去った。 (『中部経典』) 超越的な何ものかと結託して、それを根拠に「自己」を肯定する(たとえば「真の自己」という観念)方法は、所詮「自己」という錯覚から修行者を離脱させない。だから、シッダッタは、「その教えから去った」のである。 これはある意味で、「自己」の錯覚を解消する方法のように見える。 ところが、まさに特異な領域を設定したその瞬間に、錯覚に陥る。 目指している特異な領域が実在して、そこに到達したのだという「判断」を行うには、自意識と言語機能を使うほかないからだ。 いや、その「判断」は「超越的で特異な自意識と言語機能が行う」と言っても、事情は変わらない。 その「特異さ」の判別は何が行うかが問われ続け、無限遡及になるほかはない。 「超越」はしばしば、「言葉を超える真理」と説明される。 しかし、本当に言葉を超えれば、もはや語り・考える意味も手段もない。 だから、「言葉を超える真理」は、まさにそう語られた瞬間から、意味不明の空虚な言葉としてしかありえないのである 「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。 このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。 すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。 したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。 なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。 それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。 そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。 義に依って文を読むに及そ三転有り。 一に云わく、是相如、是性如、乃至是報如なり。 二に云わく、如是相、如是性、乃至如是報なり。 三に云わく、相如是、性如是、乃至報如是なり。 若し皆如と称するは、如は不異と名づく、即空の義なり。 若し如是相、如是性と作すは、空の相性を点じて名字施設し、�s同なるは即仮の義なり。 若し相如是と作すは、中道実相の是に如す。即中の義なり 如に約して空を明かさば一空一切空なり。 如を転じて相を明かさば一仮一切仮なり。 是に就いて中を論ずれば一中一切中なり。 一二三に非ずして而も一二三、不縦不横なるを名づけて実相と為す 若し如の義を作さば、初後皆空なるを等と為す。 若し性相の義を作さば、初後相在るを等と為す。 若し中の義を作さば、初後皆実相なるを等と為す。 三法具足するを究竟等と為す。 夫れ究竟とは、中乃ち究竟、即ち是れ実相なるを等と為す。 鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、@何であり、Aどのようにあり、Bどのようなものであり、Cどのような特徴を持ち、Dどのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。これまで説いてきた諸々の教え(諸々の法)については、「如来だけが明瞭で明らかに見ているのである」と述べ、三乗の教えの本質を知っているのは如来であり、「三乗の教えは、一仏乗に導くための方便として説かれたものである」ことを明かすための前段階の言葉になっている。 鳩摩羅什は、「諸々の法」(諸法)を「教え」から「あらゆるものごと」に広げて一般論化して、相(外面に現れた姿・形)、性(内在的性質)、体(本質・本体)、力(内在的能力)、作(力の具体的顕現)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的間接原因)、果(因・縁の和合による内在的結果)、報(果の具体的顕現)、本末究竟等(相から報までのすべてが融合していること)──という存在の在り方、因果の理法などの十如是として展開していたといえよう。 仏教は最初から、一元的な創造説や流出説を因果の道理に反するものとして、強く批判した。また、同一性論もとらない。 だから、同一とか一体ということばは、できるだけさけ、二ならず(不二)という表現にとどめたのである。 そうして、その不二は直ちに二(不二而二)であるとしたのである。 無自性の説明として >それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定して「無自性」が説かれる。 >(wiki daruma から) キチガイの発狂観察が面白いから、俺のした質問に対する自身の見解を茲に書いておこうwww で、その質問って ”>お前は先程 ”長短” って言ったが、そうした概念は何によって滅するって龍樹は言ってるのかな?”だよな。 こんなの超簡単明瞭だろwww ”智慧”だよ。 以下根拠を…って云うことの程でもないし、そんなのいくらでもあるから乗せるまでもないけどなw 仏教とキリスト教って、 東洋と西洋の違いってこと? でだ、 宝行王正論 90>個々に独立して存在しないのならば、諸元素には、個別の特質がどうしてありえましょうか。 >個々に独立して存在しないものをいかに多く集めても(個別の特質は)存在しません(が)、 >それらの特質を世間の常識(世俗)として説くのです。 92>(前略)因・果、時、長・短など(という形)、名称、名称をもつものも同じであります。 93>(前略)長・短、細・粗、善(・悪・無記)などは、識の中において滅する、牟尼(仏陀)は説かれています。 96>無知のために識の中に以前に生じたものすべてが、知によって識のなかでのちにこのように滅するのであります。 97>この世のものはすべて、識という火の薪である、といわれます。それらは正しい思惟の炎をそなえた(知の火)によって焼かれて、寂滅します。 とある。 >「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 >(ウダーナヴァルガ) >また、如来の法座とは何か。あらゆるものごと(一切法)が空であるということ(空性)に悟入することが如来の法座である。良家の息子は、その如来の座に坐ってこの法門を四衆に説き示すべきである。 (法華経 法師品) >また、「常住」ということに執着して(無常を常住と)顚倒する人々は、諸々のものが相似通って連続していくということを知らないのである。このような人が、無常であると観ずることが有るなら、これは、対治悉檀なのであって、第一義(悉檀)なのではない。どうしてか。一切の法は自性が空であるから。偈に説いていうとおりである。 >(大智度論) >聖観自在菩薩は、深淵なる智慧の完成(般若波羅蜜)において行を行じながら、(次のように)観察した、「五つの集まり(五蘊)(である)、そして、それらを、それ自身(自性)空であると見た」。 >(般若心経) 中論24章18偈 >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。 >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。 >(龍樹「根本中頌」を読む より) 上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で >縁起によって事物の施設がある。 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。 と解説してる。 >まず、基本的に縁起というのは、時間制を排除して考えなくてはならない >仏教の原則は、時間と空間性の否定であるから。 これ、正気の沙汰ではないんです😯 そもそも縁起とは”縁りて起こること”です。 つまり、継時的な時間関係(因施設)なんです。 諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。 世俗諦と勝義諦とである。 これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。 ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。 勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。 (龍樹 「中論」) 過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。 https://genyu-sokyu.com/essay/20030408-ujisurutoiukoto 玄侑宗久公式サイト 諸行はまことに常なることなし 生滅をもってその性となすゆえなり 生じたるものはまたかならず滅す その生滅の静まれるこそ楽しけれ (雑阿含経 歓喜園) 一切の有為は有刹那なり(倶舎論) 刹那 〜きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典) 〜「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論) 〜無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ) 〜「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)) 有部の五位七十五法には時間がない。 つまり、法有を主張する有部に於いては時間とは空性のものとして認識されていた。 また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されている。 大乗では法空を説くので同じく空性として認識されている。 倶舎論では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考える。 (仏教は宇宙をどう見たか 佐々木閑) 時間 一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあった。 そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していった。 有部は、(中略)時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみである。 ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用のあるかないかによる。 大乗仏教になると、時間は執着をもたらすものとして超越されるべきものと言う考えが明確になる。 (中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。 (中略)唯識思想においては、(中略)時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明される。 時間論そのものとしては、『正法眼蔵』有時における道元の時間論が注目される。(中略)この立場においては、森羅万象すべて、存在は時間として顕現するものと考えられる。 >一切の有為は有刹那なり(倶舎論) >ちなみに、有部の五位七十五法には時間というダルマはありません。 >また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されています。 >大乗仏教では法空を説くのですが、ここは有部と同じく空性として認識されているということですね😯 時間に幅があるとして、その幅(時間)を測るのはなにものなのだろうか? つまり、時間が時間を測るってことなのだろうか? 時間そのものに時間ってあるのだろうか? 認識するものは認識されないのだから、時間に時間はないのでは? 認識したときに時間はあるけど、認識されないときに時間はない。 時間に実体ない。 実体がないものに幅はあるのだろうか? 表象が刹那生滅する。 表象とは刹那生滅。表象とは存在、存在とは時間。存在とは言語。 表象があることは確かに認識されている。 刹那とは念とも訳されるという。 生じた念はこれ以上分割できない。 すでに生じたから。 すでに滅したから。 つまり、時間に生滅はあっても始めと終わりはないということではないの? 0、1、0であって0→1→0ではないってことなんだろう。 つまり、非連続の連続。 始めと終わりというのは連続でアナログで中間がある。 しかし生滅はデジタルで中間はない。 アナログ的な幅(始まりと終わり)があるってことは中間がある。 しかし、デジタル的な幅(生滅)には中間はない、分割できない、生滅に中間はない、生か滅だから。 奇妙な話だけど、無限小の幅はあっても分割出来ないデジタル的な幅ってことじゃないのか? しかも生滅が異時なら生と滅の間で分割できるけど、生滅同時だから分割できない。 ……仏教って、時間の考察について此処まで考えていたのか!? まとめておこうか。 刹那には生滅はあっても始めと終わりというのはない。 また、無限小の時間の幅があってもその幅は分割出来ない。 始めと終わりというのはアナログ的な連続性を前提としているけど、刹那とは生滅であって、それはデジタル的な非連続性を前提としてる。 もし、生滅が異時に起きるのならその幅に於いて生滅の中間点で分割は可能だけど、生滅が同時に起こるから分割は出来ない。 こんな感じかなw つまり、始めと終わりという概念で刹那を理解しようとした事から生じた混乱って事になるのかな。 たしかにそうだよなw そもそも非連続の当体が連続で解体されちゃ矛盾だわw つまり、無限小って事だ😆 つまり、ナーガールジュナ(龍樹)によって「空」にもとづく仏教の真理観が根本的、理念的に確立されてのち、その空なる真理を永遠・普遍なものとして(法身常住)、それでもって現実を包みこみ、あるいは、それを現実の中にそそぎこんだ(如来蔵・仏性)のが如来蔵系の経典であり、一方、それでは生滅・変化する現実相(現象)はどうなるのかということで、現象生起の説明原理としてアーラヤ識を設定し、現象分析をほどこしたものが、阿頼耶識系の経典である。 (角川ソフィア文庫 仏教の思想 絶対の真理 天台) 996 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:22:37.31 ID:TF+ElSmI 龍樹菩薩の言いたかった事は、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定なんです。 「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではありません。 ↓ >(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。 >(岩波 仏教辞典から) 中論24章18偈 >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。 >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。 >(龍樹「根本中頌」を読む より) 上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で >縁起によって事物の施設がある。 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。 と解説してる。 993 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:13:48.33 ID:TF+ElSmI 刹那滅ということ もう一度、その現在という時間を考えてみよう。 おそらくふつうの考え方は、ある絶対時間という、均一の速さで流れゆく時間がもとよりあって、そのなかを常住の本体あるものが動いていく、というものであろう。 では、その常住の本体あるものは、時間的に、どのくらいの幅を持った存在なのであろうか。一分間くらい存在しているものが、時間のなかを動いていくのであろうか。今の一瞬のみの存在が動いていくのであろうか。一瞬とは、どのくらいの時間なのであろうか。ここにいたって、我々は把握しきれないものにぶつかるしかなくなってしまう。 幾何学上、直線は点の並んだものといえようが、では点はどのくらいの幅を持っているのであろうか。点は、もし、幅を少しでも持っていたら、分割できてしまう。幅を持っていなかったら、どれだけ集めても線にはならない。では、点はどれだけのものであろう。ここに、微小な方向に向けての無限の問題もあるし、点は一種の極限概念とならざるをえないのであろう。 時間も同じで、たとえば一刹那という極小の時間の単位がある。これは一方で指パッチン(一弾指)の時間の六十分の一の時間だというのだが、一方でいわば極限概念の時間として語られることがある。刹那刹那、生じては滅し、生じては滅ししながら相続されていくことを刹那滅というわけだが、そのときの刹那は、ほとんど、過去でもないし未来でもない時間という、極限概念だと思われる。いや、現在は幅があるのではないか、というかもしれないが、ここは仏教は存在と関連して考えていくのである。さっきの話ではないが、存在が二刹那以上にわたって本体を有するものだとすると、それは論理的に常住の本体あるものということになってしまう。そうすると、世界に変化はないということになってしまう。しかし世界に変化がある以上は、常住の本体のあるものではなく、そうである以上、存在はすべて刹那滅、すなわち刹那刹那、生じては滅し生じては滅ししているといわざるをえない。これが刹那滅の考え方である。 (竹村牧男 入門 哲学としての仏教) 仏教は諸行無常や諸法無我を説いてるんです。 であればその時間論もその法に抵触しないものになるのが道理な訳で、つまり、時間は常住ではなく実体のないものとして把握されるという事です。 「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり(身心に真理が満ちていない時には、真理はもう十分にあるように思われる。真理がもし身心に満ち溢れている時には、まだ足りないと思われるのである)」 (道元 正法眼蔵より) 【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】 先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。 どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。 雑阿含経にはこんな句があります。 諸行はまことに常なることなし 生滅をもってその性となすゆえなり 生じたるものはまたかならず滅す その生滅の静まれるこそ楽しけれ (雑阿含経 歓喜園) こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に >一切の有為は有刹那なり(倶舎論) >法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。 >自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず >(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)) という思想に展開してゆくようです。 <刹那> 〜きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典) 〜「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論) 〜無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ) 一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあったそうです。 そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していったとのこと。 で、有部(倶舎論)では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考えたということです。 つまり、ダルマがスライド映写機のスライドのように未来→現在→過去へと落謝するその一連を時間とした訳です。 また、有部は時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみであると考え、ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用の有無によって判断されるとされました。 ここで、龍樹が外界に根拠する量的な時間論について批判を行います。 >(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。 >(岩波 仏教辞典から) 中論24章18偈 >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。 >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。 >(龍樹「根本中頌」を読む より) 上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で >縁起によって事物の施設がある。 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。 と解説してるいます。 龍樹のそれは、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定であって、「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではないと思われます。 ↓ そして、唯識思想においては、時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明されるとしました。 363 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/20(火) 19:13:23.50 ID:DiKe694V 【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】 先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。 どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。 ↓(訂正) 先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。 どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。 かな、表象・外界っていうフレームは問題ある。 お釈迦様から始まった仏教が、その東漸の過程で様々な問題に当たりながらも至った地が日本なわけです。 ある意味仏教思想の頂点であって終着点でもあるって言われる所以です。 で、その思想の頂点っていうのが、真理顕在論・即事而真が更に先鋭化された天台本覚思想なんです。 その内容については言うまでもないでしょ。 思想的な頂点に達したときに実践的な退廃が始まるって云うのは世の常で、鎌倉仏教の起こりもそこにあるって言われてるんです。 で、明治以降、仏教東漸以前の仏教のスタイルが明らかにされて来たわけです。 そんでもって「あれ?それって俺たちの仏教とちょっと違くねーか?」って😙 また、最近は南伝仏教の一派が「これが初期仏教だ!」とかいって日本に布教をしてるんです。 当然、そこに混乱が生じるわけです😥 大乗非仏説とかね😅 しかし、よくよく考えてみると、仏滅後に生じた様々な未決の問題への解答が大乗仏教な訳でもあるんです。 そこを看過してお釈迦様に帰れって云うのはどうかなって思いますけどね。 アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。 「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」 (アウグスティヌス) >>364 >こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に 宮崎哲也の本の読みすぎww それ刹那滅とは関係ないから 藤原保信と飯島昇藏によれば、アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。 (wiki引用) >>372 >宮崎哲也の本の読みすぎww >それ刹那滅とは関係ないから ??? 関係あるよ。 556 名前:鹿野園#Buddhist-Rinzai :2021/04/21(水) 11:07:22.54 ID:CYNmqBgn >>534 >ここで時間に種類を設けることは、ナンセンスということになる www 普通は 1.限定者(人間)による主観(質)的時間 2.限定者(人間)による客観(量)的時間 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間 の三つに分けて考えますけどw 以上 > 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間 宗教に東西の違いはあるけど、ここはアウグスティヌスのいう「神の国」、仏教でいう「如来蔵」に該当するだろうな。 > 1.限定者(人間)による主観(質)的時間 > 2.限定者(人間)による客観(量)的時間 > 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間 . 如来蔵(純粋レンマ的知性) . ↓ . 阿頼耶識 . ↓ ↓ .ロゴス的知性(変位体) レンマ的知性(真正体) 1.がレンマ的知性(直観知) 2.がロゴス的知性(分析知) 3.が純粋レンマ的知性(如来蔵、神の国…) >>383 >嚆矢って言ってるでしょw 嚆矢とか難しい言葉を使うね 宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな? ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう 5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから 倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念 龍樹は法空論だから法の体など認めなかった 故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している >>384 >宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな? そういう言葉を使うのは、宮城谷昌光にハマった時があるからその影響だと思う😲 >>384 バカムイスレでやってくれ。 ここじゃ困る。 >>384 知ってますけど? ↓ >ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう >5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから > >倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念 > >龍樹は法空論だから法の体など認めなかった >故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している 691 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:02:59.81 ID:KIWfCVYq >>628 > 「もし自性が存在しないならば、何に変化することが存在するのか。 > もし自性が存在するならば、何に変化することが存在するのか」 > この意味分かるかな?w そうじゃなくて、先ず引用元を明示するのがマナーだろ? 例示すると >もしも<それ自体>が存在しないならば、何者に<変化するという性質>があろうか。 >もしも<それ自体>が在るのならば、何ものに<変化するという性質>があろうか。 >(龍樹 「中論(根本中頌) 第13章4項 中村元 訳 より) とかな。 で、だ。 その部分は「龍樹「根本中頌」を読む 桂紹隆 五島清隆」によれば、前文として >実に、固有の性質を持たないものなど存在しない[たといあなたの意見に従っても]諸々のものには空性[という固有の性質]があるからである。 とあり、当該部分は >もしものに[変化の主体である]固有の性質がなければ、一体何が変化し得るであろうか。 >【龍樹】もしものに[三時にわたって変化することがない]固有の性質があるなら、一体何が変化し得るであろうか。 > (注:対論者と龍樹では、「固有の性質」「空性」「変化」の理解が全く違う) となってる。 (以下続く) 692 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:17:19.59 ID:KIWfCVYq >>691 (続き) で、概要は >第13章 諸行の真実の考察 >【主題】ものの変化は固有の性質(自性)によっては説明できない。空性によってこそ、ものの変化が(諸行無常)が可能になる。 >13.1 仏語:諸行(因果関係に制約されるもの)は全て虚妄である。(第1偈) >13.2 「諸行が虚妄である」とは、空性を明らかにするための言葉である。(第2偈) >13.3 反論:ものには固有の性質が有り、空性にもある。固有の性質がなければ、変化が説明できない。(第3、4偈前半) >13.4 ものに固有の性質があれば、ものは変化しない。(4偈後半〜6偈) >13.5 結論:空でないものは何もないから、空なるものも何もない。(第7偈) >13.6 空性はすべての邪見を取り除く手段だが、空見にとらわれる者は救いがたい。(第8偈) な。 刹那について考察してみようか。 刹那とは点な様なものだって事なんです。 点に幅があれば分割可能で点にはならないけど、かと云って幅がなければ連ねたときに線とはならない。 また、仮に一刹那で生じて次の一刹那で滅したとすれば、現在が二つ生じることになってしまう。 また、本体というのあって二刹那以上に亘って存在するのなら、ものは変化しないものになってしまう。 つまり、「分割し得ない一刹那の間に生滅が同時に起こりそれが相続されている」って事でなければ辻褄が合わないって事なんです。 >>390 それで思い出したのが物理学の量子論 量子論では時間の幅をゼロに近づけるほど、その時間内におけるエネルギーの値が曖昧になる 言い換えると、極小の時間の中でエネルギーの生滅が起きている ただし、確率的な偏りがあるため、長時間(または膨大な数の粒子)になると特定の値が突出する 確率的な偏りを生んでいるのは他との相互作用だ これは刹那や空の考えと矛盾しないものの これがわかったことで苦を滅するというところにまでは至らなかった 結局頭で理解したに過ぎないからだろな www 知障の嫉妬には応じる必要もないでしょう。 施餓鬼は終わりです😌 >内外の風気わずかに発すれば必ず響くを名づけて声という。 >響は必ず声による。声はすなわち響の本なり。 声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。 >名は必ず体を招く。これを実相と名づく。 (空海 声字実相義) 空海さんは、形あるものは音を発し、音は字となるって云うんです。 そしてその名は体を現します、実相ですよって。 関の一字もそうした視座から味わってみるのも楽しいのかも知れません。 ありのままって相分のコピーって事じゃないのかな。 八識でいうと前五識と阿頼耶識の薫習がそれ。 見分・相分は同じ種子から生じるのか?それとも別の種子から生じるのか? ・・・同種所生(仮法)と別種所生(実法) 同種所生(仮法)〜第六識の意識の分別力が見分から相分という影像を作り出す。 三種類の見解 〜 相見同種説、相見別種説、相見或同或異説 相見或同或異説(護法) すなわち、別種所生がありのままで、同種所生が分別ってなる。 自証分・証自証分 〜 現量 (→観たものを確認するので) 光というのは陽にして事、分別にしてロゴスって事なんです。 言葉とは存在であり、存在とは時間。 繋がるってこと。 さて、冗談はおいといて、 >汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝 >(祖堂集 洞山 過水の偈) 西田が言う超個(渠)の個(汝)というのがハッキリと分かった。 >我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。 >絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。 >故に、我々の自己は、根底的には自己矛盾的存在である。 >自己が自己を知る自覚ということが、自己矛盾である。 >故に、我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。 真言宗未決文(1) 『真言宗未決文』(しんごんしゅうみけつもん)とは、平安時代初期に法相宗の徳一が、空海に対し真言宗の教理への疑問を述べた書である。 徳一の疑問は以下の11か条からなる。 1.結集者の疑『大日経』冒頭の「如是我聞」の「我」とは誰か。 2.経処の疑『大日経』は金剛法界宮で説かれたとあるが、この宮は自受用土か他受用土か。 3.即身成仏の疑『菩提心論』に行願・勝義・三摩地の三行によって即身成仏するというが、これは禅波羅蜜のみであって他の五波羅蜜を欠き、また自分だけ先に成仏してしまうのは慈悲を欠くのではないか。 4.五智の疑『菩提心論』に五智の如来を説くが、これでは各如来の智が不平等であることになり、また五如来以外の如来に智慧がないことになるのではないか。 5.決定二乗の疑『菩提心論』には、決定二乗の者が灰身滅智に入った後に長い時間を経て発生すると言うが、これは矛盾ではないか。 6.開示悟入の疑『菩提心論』で『法華経』の「開示悟入」を解釈しているが、これは何を根拠にしているのか。 7.菩薩十地の疑『大日経』『華厳経』等には「十地を成就して成仏する」とあるが、『菩提心論』に「十地の菩薩の境界を超える」とあるのは仏説に背いているのではないか。 真言宗未決文(2) 8.梵字の疑梵字は誰が作ったものでもなく本来的に存在するものと言うが、梵字は作られたものではないのか。 9.毘盧遮那の疑一行『大日経疏』によれば、毘盧遮那仏は法身で説法をしたというが、一体誰のために説法をしたのか。 10.経巻の数の疑『大日経』七巻の内、六巻までが毘盧遮那仏の所説だが、七巻目は誰が説いたのか。 11.鉄塔の疑真言宗の経論は、釈迦仏滅後800年に龍猛菩薩が南インドの鉄塔で金剛薩埵より受けたとされるが、誰がどのように伝えたというのか。 以上の疑問について徳一は、このような疑問を述べることで謗法の罪になることを恐れるが、疑問を晴らして真言宗を学ぶためである、と言う。 本書は、空海の「諸の有縁に勧めて秘密法蔵を写し奉るべき文」(『性霊集』9所収)によって密教の教理に触れた徳一が、『弁顕密二教論』や『即身成仏義』などに触れることなく、『大日経』や『菩提心論』などを学んで、そこで起きた疑問を記した、と考えられている(末木文美士1985)。 また本書の末尾には、弥勒菩薩が『瑜伽師地論』を説いたことに関して「鉄塔の疑」と同様の疑問が持たれていたことについて、文書による伝承があることを強調する部分がある。この部分については、「辺主」「大覚師」などといった呼称が出てくることからも、増広されたのではないかと考えられている(末木文美士1985)。 このように考えると、相関主義の立場を取る限り、「祖先以前的言明」に意味を与えることはできないのが分かる。 相関主義者にできるのは、それは経験科学的な問題なので、哲学の守備範囲とは関係ない、と逃げを打つことくらいだろう。そうなると、哲学の守備範囲は、自然科学の発達に伴ってどんどん狭くなっていく。 そうした相関主義哲学の脆弱さが、信仰主義の蔓延を許してしまうのである。 (現代哲学の最前線 仲正昌樹 NHK出版新書) メイヤスーは、相関主義的な枠組みを脱し、「ある絶対的なもの un absolu」に到達する道を探るべきだと主張する。 しかし、論証抜きに、「神」のような特定の属性を持った「絶対者」を想定し、「○○は存在する。それは事実だ」と断言するのであれば、それは単なる形而上学的独断論にすぎない。 そこでメイヤスーは、相関主義的な思考を徹底することで、これまでの相関主義的な哲学が依拠してきた諸前提を打破し、「絶対的なもの」を見いだすという逆説的な戦略を打ち出す。 (同上) メイヤスーによると、相関主義的思考は突きつめていくと、「必然的存在者の絶対的不可能性 l'impossibilité absolue d'un étant nécessaire」は「絶対的」であるという帰結に至るはずである。この場合の「必然的存在者」というのは、それが存在することが論理的に必然的であるものということである。 このように、私たちに認識できる限界の「外部」を考慮に入れると、いかなる存在者にも必然性はない。メイヤスーによると、それは私たちが現に存在している世界と無関係な、単なる仮想の話ではない。無限の時間の流れのどこかで、私たちが存在している世界の自然法則が変化し、現在の私たちから見てあり得ない法則が成立する可能性は排除できない。そうした意味で、「必然的存在者」が不可能であるという事実は「絶対的」なのである。 これは、あらゆる存在者にはそれが存在する十分な理由があるという、「理由律 principe de raison」(ライプニッツ)の否定を意味する。全ての存在者は、偶然的(contingent)であり、この「偶然性」にはいかなる制約もなく、絶対的である。これをメイヤスーは「理由律」との対比で、「事実論性の原理 principe de factualité」と呼ぶ。いかなる理由もなく、単に事実≠ニしてそうなっているということである。「事実性 facticité」ではなく、「事実論性」という奇妙な言葉を使っているのは、対象や出来事に関する個別の事実(事実性)を成り立たせている理由が、それらが属する世界のどこにもなく、世界自体が偶然の事実としてそうなっている、というメタレベルの問題だからである。 絶対者の自己否定が我々の自己なのだから、自己(相対者、限定者)が自己否定しても絶対者にはならないんです。それ故に >我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。(西田) って事なんです。 「どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定」なんです。 単純な自己否定ではないんです。 聞法熏習って言葉があるんです。 唯識の視座からいえば、止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しません。現行しないなら当然に煩悩は滅しませんよね。 であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるので、それを阿頼耶識中に置くという事となるという道理です。 で、無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれております(『摂大乗論』所知依分)。 つまり、問処の道得なのですかね。 >>408 とべw ---------- 坐禅と動中の工夫12 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615974733/796 796 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:39:31.49 ID:Ifb9qdCj >>793 末那識⇆阿頼耶識⇆意識や無意識 これなw (唯識) 仏教の基本w -------- 鹿野園は、末那識が初脳変であるソースを示すこと。 鹿野園は、阿頼耶識から意識へ転識するソースを示すこと。 出来なければ、宣言を実行しなさい。 ---------- 坐禅と動中の工夫12 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1615974733/778 778 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:18:53.44 ID:Ifb9qdCj >>775 wwww wwww なら、俺が分かってないっていう根拠を出せよw それが立証できたら今すぐスカイツリーから飛び降り自殺してやるから。 出来なきゃお前が飛べよ? wwww wwww wwww wwww アルトゥル・ショーペンハウアーは充足理由律を以下の4つに分けた 生成の充足理由律 - 「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」(原因結果) 認識の充足理由律 - 「ある判断がある認識を表現するには、その判断はある規則に従っていなければならない」(論理) 存在の充足理由律 - 「時空間に存在するには、位置や継起の関係において規定しあう」(数学) 行為の充足理由律 - 「行為にはある充分な動因がある」(理由帰結) というのも、日本人は仏教の影響からか、理性的であることは客観的であることだから、理性には主観性がない、よってそれは自我(主観)から離れた状態である、と連想をはたらかせてしまう。 日本人にとっては、「自我」はむしろ「感覚的で身体的」である。一人一人違う身体をもち、感覚をもつからこそ、それぞれの自我、人格は個別的かつ個性的であると考える。 他方、ヨーロッパでは、個人の自我は感覚ではなく理性なので、理性的であることは「自我から離れる」ことではない。 むしろ身体性や感覚には、ヨーロッパは人間本来の「自我」を認めない。人間本来の自我は、あくまでもその人の理性なのである。したがってヨーロッパで理性的であると言われるのは、むしろ「真の自我」であり、「たしかな主観をもつ」ことであって、主観から離れることではない。 神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流―(新潮選書) Kindle版 八木雄二 龍樹や世親無くして仏教は語れないように、キリスト教もアウグスティヌスやトマスを抜きには語れないものか??? >>281 鹿野園さん、こんにちは。 遅ればせながら「恕す」についての回答です。 ゆるす _ 同訓異義 _ 漢字ペディア ttps://www.kanjipedia.jp/sakuin/doukunigi/items/0006903300 聖書的には罪を「赦す」と思います。 神様から信者の原罪に対する意味合いなら、恩赦だと思われるからです。 恕す(ゆるす)は、聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳では使われていません。 新改訳 2017(最新版)新改訳 第三版(旧版)でも使われてないですね。 旧約聖書の神様が選民のヘブライ人の罪に対するなら「恕す」でしょうね。 フィーリア的な、友情あるいは友愛とは違うと思います。 神様が選民であるヘブライ人達に対して、 預言者を送って悔い改めると思って我慢していたが、ついに罰を下す、ですから。 聖書本文検索 _ 聖書を読む _ 日本聖書協会ホームページ ttps://www.bible.or.jp/read/vers_search.html 聖句検索 _ 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK) ttps://www.seisho.or.jp/biblesearch/ Bible Word Search 新改訳 ttp://www.kt.rim.or.jp/~ttakao/biblesearch.html eBible 日本語聖書検索(Japanese Bible Search)新共同訳 口語訳 新改訳第3版 KJV WEB ttp://ebible.jp/bsrch/srch.html キリスト教スレ(編纂中) 【イエス】み言葉と共に ふぃりぽ 【イエス】癒し主 救い主 ◆JmSbZpDnkn6F、まちこ 【野に咲く】 愛からの旅立ち しゃろん キリスト教@質問箱 Part 0001 ヤハウェ🇮🇱イエス・キリスト Christian 【教会スレッド】キリスト教@質問箱 ラピス、カムイ 【初心者】キリスト教@談話室 まなみ 【初心者】キリスト教@歓談室35 福音伝道、キョ 順不同・敬称略(間違っていたら済みません) 仏像の一形式の天部に他教の神を取り込んで仏に仕える者として扱ってるのに 耶蘇教の神はなんでそこに入れてないの? 思想を追及している馬鹿野園は、 その追及によって、少しは性格が謙虚になった???? 思想の分析の限界だよね。 おっと、このスレは馬鹿野園の知識の自慢のスレでした。 くわばら、くわばらwwwwwwwwwwwwwww 世界大百科事典 第2版「テオリア」の解説 テオリア【theōria】 〈見ること〉〈観想〉を意味するギリシア語の名詞。theory(法則,理論)はこの語を英語化したもの。ちなみに英語のtheatreも〈見るための場所〉,すなわち劇場を意味するギリシア語のtheatronに由来する。アリストテレスは〈プラクシスpraxis(実践活動)〉に対して〈テオリアの生活bios theōrētikos〉を重視し,これを人間生活の理想とした。最高の神も彼にとっては見ることだけをこととする〈ヌースnous(直観的理性)〉であった。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報 世界大百科事典内のテオリアの言及 【実践】より … 実践を意味する西欧語は,〈活動〉を意味するギリシア語のプラクシスpraxisに由来する。古代ギリシア哲学では,プラトンやアリストテレスをはじめ,プラクシス(実践)を〈テオリア(認識,観想)〉に対立させて理解した。その場合,永遠の真実在(真理)としてのイデアや神をロゴス(理性)によって認識するテオリアが価値的に優先され,実践は仮象的で可変的な感覚世界に属する人間が真実在を認識するための手段と考えられた。… 滝沢克己 思想 西田幾多郎とカール・バルトの影響の下、インマヌエルの哲学と呼ばれる思想を展開した。インマヌエルとは「神われらと共に在す」の意味である。キリスト教徒であろうとあるまいと、あらゆる人は「神われらとともに在す」という事実に属している。滝沢はこれを第1義の接触という。第2義の接触は人がこの事実に目覚めるときに起きる。第2義の接触によって人は自覚を持って宗教的な生を生きることになる。 滝沢は神と人間の関係を不可分・不可同・不可逆であるとしている。すなわち神がこの世界でまぎれもなく働いているという意味において不可分。人間と神は同等ではありえず、神の前では人間は無に等しいという意味において不可同。神は絶対的主権を持っており、神から人間への啓示はあっても人間が自分の意志で神へと至ることはできないという意味において不可逆。滝沢は第1義と第2義の関係も、神と人間/世界の関係と同様に不可分・不可同・不可逆であるとする。 滝沢の思想はキリスト教と、仏教をはじめとする他宗教との対話を可能にするものであった。仏教的に言えば第1義の接触とは「仏性」、第2義の接触とは「悟り」と同義である。しかし滝沢は仏教は宗教としては不可逆性の自覚が足りないとしている。 うむ。 このスレはここで閉じます。 「宗教・哲学・思想(仮題)」というスレを立てて、また読書したものもそこに入れたスレを立てます。 >>29 このあたりを見たらちょっと違う https://www.youtube.com/watch?v=ciShvIENqgc 三木大雲の仏教とエトセトラ Vol.4 「何故、人を殺してはいけないのか?」 転生輪廻しない場合もある ブッダって自分の父親の葬式には出席したんでしょうか? × 鹿野園 〇 狐狗狸園 m(__)m m(__)m m(__)m キリスト教のルーツはおでん。 お伝地獄の唄https://600dpi.net/komura-settai-0003128/ アテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンするアテンする 悟れなくても威張れる派の鹿野園が言う、ことである。 臨済宗も多才である、か。 大爆笑である。 宇宙は曲率的に放物線的ー宇宙はずっとずっと広がり続ける。 宇宙は曲率的に楕円形ー宇宙は定常。 宇宙は双曲的だと宇宙はビッククランチです 宇宙は何れかによって動いていましゅ 知能20違うと話が合わない 知能40違うと話が通じない 知能60違うと犬と人間 「幸福の科学グッズ」は呪物 https://twitter.com/oOOcEKJbW1MIbzB/status/1481528799342698497?s=20 自殺者続出! 「幸福の科学」関連グッズは「呪物」! 「性魔術(黒魔術)」の呪いか!? 「ケリューケイオンの杖」は、性魔の性器!! https://twitter.com/oOOcEKJbW1MIbzB/status/1416332638650998785?s=20 HSグッズの恐ろしさに気付いて下さい。 ケリューケイオンの杖は、教祖に対し恋愛感情を抱かせる呪物。 狂ったように恋焦がれさせる呪物。 法輪もまた性魔の性器。 輪は女性器、降魔の剣は男性器。 HSは完全な性魔術集団。 完全な黒魔術。 だから女性信者が狂ったようになり、全財産を貢ぎ尽くし 次々と自殺してゆくのです。 セックス・マジックの恐怖!! https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >又た心起というは、初相の知るべき有ること無し。而も初相を知るという言うは、即ち謂わく無念ぞ。 実在(じつざい、英: reality)は、認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。 存在(そんざい、英語 being, existence, ドイツ語 Sein)とは、 あること[1]。あるいは、いること[1]。また、そのある(いる)何か[1]。事物、物体、事柄、物質として有るという概念及びそのもの。「歴史に存在する人物」「神の存在」のように用いる[1]。 (哲学) 他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの[2]。 ものの本質[2]。 (人間にとって)まず現実(リアリティ)としてあるもの。実存[2]。 《現象》として人の意識に映じているものや人が経験している内容[2]。 実存主義は、サルトルによると普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想である、とされる(「実存は本質に先立つ」)。 病名:脅迫性人格障害のインチキキチガイイヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌヤマ談 ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ! イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷。 イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか、俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴) ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は、誰からも疎まれる。 イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾ス。 5ちゃんねるの会話はバトル形式、馴れ合いを禁じる。ググるシッタカイヌヤマは、褒めてクレヨの唾棄すべき哀願奴隷。 相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価です。荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。 食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で、食業ドライバーだったに過ぎず仏教からは門外漢だね。 だから、しったかぶる以外に存在承認欲求を満たすものは一切無い ① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる ② 放置された脱糞イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。 ③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事。 ④ ;外道イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除で寸 多数者を演じて孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物むらりひょんイヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療対象者。 虚言癖病:鬼子鬼和尚エロ和尚アカベイ偽和尚イヌヤマ軍曹安堂麦野良屁魔女は異名同一人物がキャラ変で世をたばかる極悪人です。 保守 閲覧の邪魔になる変なレスは迷惑。やめなさい。 そこから現象界の構築があるブラフマンは、はじまりももたず終わりももたず、言葉の本質であり、不滅の字音であり、意味=対象=事物として[この現象界に]変成する。 (『文章単語論』第一巻第一詩節 バルトリハリ より) 我々の経験的世界は、我々自身の意識の「付託」的働きによって、様々に分節されて現われるブラフマンの仮象的形姿にほかならない、ということになる。どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形でわれわれの表層意識に映るのだ。絶対一者が客観的に自己分節するわけではない。 (『意識と本質』 井筒俊彦 より) 病名:発達障害ASD鹿厨のインチキキチガイイヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障観念論者イヌヤマ談 ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ! イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷 悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか、俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴) ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる 独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾ス。 5ちゃんねるの会話はバトル形式、馴れ合いを禁じる。ググるシッタカイヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価です。荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。 新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーだったに過ぎず仏法からは門外漢だね。 だから、しったかぶる以外に存在承認欲求を満たすものは一切無い ① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる ② 放置された廃人知障イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です ③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事 ④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除 多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療対象者 虚言癖病:鬼子鬼和尚小鬼安堂イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚野良雀は異名同一人物がキャラ変で世をたばかる極悪人 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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