色即是空の誤り
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「色即是空空即是色」というのは間違っている。
「色即是空空即是色」とは「有は無であり、無は有である」という意味である。
だがそもそも無はないのだ。ないから無なのだ。無はあり得ないのだ。
だから「有は無であり、無は有である」ということはできないのだ。
それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつだ。 >>121
中途挫折のポンコツ坊主がどうしたというんじゃ? >>121
そーゆーのは止めてくれ。(笑)
俺は単なる底辺労働者の爺だから。(笑)
>>120
自分で確認せずに、権威ある誰かの話を鵜呑みにするのも君の自由だから、そんな気にしなくても。(笑) >>123
おぬしロムるぐらいなら入って来たらええんじゃ
まあいきなり赤の他人にキモすぎとか言うぐらいの人徳しかないから
受け入れてもらえるかどうかは保証せんがのうw 色即是空空即是色は「空」というものについて述べたもの。
有が空である。空は有である。という意味。
つまりこの世もあの世も何もかも有ですよ。という意味。
↑ いくら何でもこれに反論あるバカはいないだろうw 色即是空空即是色は「空」というものについて述べたもの。
有が空である。空は有である。という意味。
つまりこの世もあの世も何もかも有ですよ。無というのはどこにもありませんよ。という意味。
↑ いくら何でもこれに反論あるバカはいないだろうw >>123
話の内容からすると単なる得度僧じゃなくて阿闍梨にはなってたんでしょ? >>122
それ以下乙
天台なら水汲み三年やらないと得度もさせてもらえないんだっけ? サンスクリット語って意味が何通りも有るから 原文の意味が漢訳の般若心経にそのまま訳されてるとは限らない
もっともチベットの大本般若心経以外にサンスクリット語原典は見付かっていないから偽経説も有るが 般若経典群全品通読という難行から僧侶を解放したという点で秀逸かもね 仏教の空は無でも有でもない
実体がない
移ろい変化する 空の思想によるとこの世に自性のあるダルマはないんだろ?
だからすべては虚しく移ろう
それを前提にしたとき、縁起はどのように解釈されるのだ?
@虚しく移ろうもの同士の関係性によって物事が変化する
A縁起とはダルマ間の関係なので縁起もない
どっち? >>102
自性の存在する世界が作り出されたと考えることは可能
自性のない世界だったならば、変化や認識がどうして生じたのか説明してくれ >>131
@でしょうね。
>>132
中論24章を一読することをお勧めします。
「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530364
この中の
一九 なんであろうと縁起して起こったものではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない。
が、>>131の疑問に対して@でしょうね、と答えた理由の一つです。 >>133
なるほど。
確かに@のように解釈しているようです。
しかし、そうすると移ろうものの生滅によって移ろうものの生滅が引き起こされるということになります。では、その状況はどこから引き起こされたのでしょうか?
世界の始まりについての見解を述べている箇所はないのでしょうか? A+BによってCが引き起こされる場合、Aを縁としてCが引き起こされたと言えるのか?
「AなければCなし」ではあるけど、「AあればCあり」とは言えない。なぜなら、AがあってもBがなければCは引き起こされないから。
この場合、縁起に該るのか否か。どちらでしょう? >>135
「AとBに縁ってCが生じた」
例:水と種に縁って芽が生じた >>130
実体がないから移ろい変化するのじゃ。移ろい変化するから実体はどこにもないのじゃ。
つまり実体というあり得ないものを想定して、それはどこにもないよと言っているだけなのじゃ。
つまり「実体」とは単にご都合主義によって勝手につくり出された言葉なのじゃ。 >>136
縁も空なり
縁も移ろい変化する
見方によっても変わる >>139
その空というのは貴方にとっての真理じゃないか
なんでも空というなら空は貴方にとっての真理 ねえよ
いつか死ぬし、その前に認知症になるかも知れないし
真理ではなく、ただの定義
変化を楽しめるか?苦に感じるか?
それだけだ >>1
別にオマイがそう思うならそれでいいじゃないか。
なんでオマイと同じでなくてはならないんだ ? >>134
>しかし、そうすると移ろうものの生滅によって移ろうものの生滅が引き起こされるということになります。では、その状況はどこから引き起こされたのでしょうか?
中論においては縁起は勝義では不生不滅で生滅はないですよ。
相依性(相互依存)が縁起ということになり、それは一対一の関係にとどまらず、一切法空(なんであろうと縁起して起こったものではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない。)ですから
一即一切にまで発展可能ですw
中論 第1章 原因(縁)の考察
一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9504614
参考
『相応部』「因縁相応」
(『南伝』第一三巻、二七−三〇頁。『雑阿含経』巻一二、八六上)
「ゴータマよ、苦は自作じさなりや」。「迦葉よ、然らず」と世尊は言われた。
http://www.saisyo.org/EnTyYu/e5.php
※この経典にに縁起の自作、他作、苦は自作にして他作、無因性をブッダが否定されたことが述べられています。
>世界の始まりについての見解を述べている箇所はないのでしょうか?
「中論」第二七章 誤った見解の考察
●個人については
一七 もしも【連続している個人存在が】一部分は神的で、一部分は人間的であるならば、無常でもあり、常住でもあることになるであろう。しかしそういうことは理に合わない。
一八 もしも無常と常住との両者が成立するならば、<常住でもなく、無常でもない>ということが、欲するままに成立するであろう。
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
●世界については
二一 もしも世界が時間的に有限なるものであるならば、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。またもしも世界が時間的に無限であるとしても、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。
※世界が有限か無限かについては見解を説かず無記です。
「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
の二一〜二五詩でも同じようなことを説いています。 >>136
縁起はAとBによってCが生じることを縁起と呼ぶことのソースは? >>143
人間の死や病や生によって引き起こされる、とブッダも言ってるのでは。そういう意味での死や滅はありますよ。
それが真の滅ではないというならそれでもいいですが、人間が死ぬことはブッダも認めていますので、そういった変化は否定できないでしょう。
そのような死はどうして生じたのかと言う話です。 >>143
中論 第1章の一の「自」「他」は自分、他人ですか?
http://www.saisyo.org/EnTyYu/e5.php
を引用しているのはそういう意図があるように思いましたが、違いません? >>143
ニルヴァーナではなく現実世界についてです。
夢であろうと、無であろうと、なんであろうと、現実にこの世界に生きていると感じているのは事実であり、
そのような認識、そして認識される変化はどこから生じるのでしょうか?
それに対する仏教の回答はなんですか? >>147
あほう
ニルバーナを現実世界で体現するのが仏教じゃ >>148
で、ごたくはいいから回答は?
回答できないなら出てくんな >>150
回答できないんだから最初から出て来るな
みっともねえ >>148
それは日本仏教のオリジナル思想や
本来の仏教はあの世もこの世も望まない空性の境地が辿り着くべき向こう岸で他は方便や >>145-146
下記サイト
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon00.htm?v=20190528
の「12.苦」をクリック(タッチ)すると分かりやすいです。
というのは、このサイトでは鳩摩羅什訳の龍樹の中論が背景黄色の漢文で書かれてあり、その読み下し文もあり、
更には中論のサンスクリット訳かチベット訳もあり(参考:
苦は,自身によってつくられたもの(自作),他によってつくられたもの(他作),両者によってつくられたもの(共作),無因のもの(無因作)である,と或る人々は主張する。しかるに,それ(苦)が結果であるというのは,正しくない。
などど緑文字で書かれてあるもの)、
更には青目(ピンガラ)によると思われる中論の注釈もある(肌色とオレンジの中間色を背景に書いてある漢文とその読み下し)からです。
で、質問に単刀直入に答えれば、もちろん龍樹も世の諦として生病老死を認めています。
ただ、それが自作、他作、共作、無因作ではないとしているということです。
自作、他作、共作の否定は有自性の否定、無因作の否定は因果の肯定ということになるかと思います。
「中論」第二六章 【縁起の】十二支の考察
七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。
八‐九 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。
生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望―――これらは<生>から生ずる。このようにして、このたん【に妄想のみ】なる苦しみのあつまり(苦陰)が生ずるのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530381
取→有(生存、存在)→生→老死(苦)
という流れは阿含経と同じです。
(龍樹は阿含経[と般若経)により中論を説いたとされるので当然のことではありますが) >>147
ニルヴァーナも現実世界も究極的には同じですよ。
「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
この考えを生死即涅槃と言います。
スッタニパータでも同じように説かれています。
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り越えているのである」と。 >>153
サイトの紹介ありがとうございます。
ただ、有自性の否定は既に認めています。有自性を否定した死はある訳です。
で、そのような変化、死はどうしてどこから生じたのかと言う話です。
最初の縁はどこから生じたと説明しているのでしょうか? >>154
これについても、現実世界の有自性を否定したければ否定してもいいです。ただし、我々は、現実にこの世界に生きていると感じているのは事実です。
そのような認識、そして認識される変化はどこから生じるのでしょうか?
それに対する仏教の回答はなんですか?
我々の認識が無であろうと、無自性であろうと何でもいいのですが、我々が認識していると思っていることは仏陀も認めています。
そのような認識はどこから生じているのですか?
それを無だと言おうが、現実に我々が認識していると感じていることは否定しようがありません。 >>154
質問の仕方を変えたほうがいいですかね。
キリスト教では神が最初に世界を創造したのです。だから世界の始まりは神による創造です。
仏教では世界の創造について何も説明してないのですか?
移ろい行くものが既にある世界で縁起が働くのはいいです。
しかし、移ろい行くものたちが存在する世界はどこから生まれたのでしょうか? >>157
横からですが仏教に創造説は有りませんよ
個々の宇宙に始終は有りますが 全体としての始まりも無ければ創造者も発見出来ないのです
なので仏教では宇宙に絶対的な創造者を認めず 始まりも終わりも無いと説きます 此を無始説と言い その中で働く法則を絶対のものとして信仰する法信仰が基本です >>158
なるほど。世界がどうして創造されたかは何も説明してないのですね。
しかしそうすると、何故だか存在するこの世界が自性あるものたちが存在する世界であったということは否定できないように思います。
この世界において自性あるものは生成できないということを説いているようですが、自性あるものとして世界は創造されていたことを否定できる根拠は提示できていないように思われます。 >>159
仏教の目的は無限訴求しても見つからない創造主を探す事ではなく生死有る世界からの解脱に有りますから 既に存在しなくなった根源の創造者が居ようと居まいと関係ないのですよ
我々が今いるこの世界に何の影響もない事ですからね
この宇宙の始まりにも終わりにも「神」の関与は無く 法の働きが有るだけですから
起源経という経典に その辺りは詳しく記されていますので差し支え無ければ 読んで見られて下さい >>160
回答になってないですよ。
> 既に存在しなくなった根源の創造者が居ようと居まいと関係ないのですよ
だから、世界がどうして創造されたかは何も説明してないでしょ。
だったら、ダルマが実在する世界として創造された可能性を否定できないですね。 >>161
> この宇宙の始まりにも終わりにも「神」の関与は無く 法の働きが有るだけですから
これもおかしいですね。世界における理は世界の存在が前提となります。
前提となる世界がどのようなものであったかという話をしているのに、世界を前提とする理で説明するのは論理破綻。 ちなみに私はキリスト教徒ではないので、キリスト教が正しいという主張でもありませんのであしからず。
ただし、キリスト教においては説明されている世界の創造について仏教は説明してないのかの確認です。
そして、世界の創造を説明していないのにも関わらず、そこには有自性のあるダルマはないと断定してしまうのは論理的根拠に欠けます。
仏教というより、中観派?の問題ですが。 それでキリスト教では諸法の自性についてはどのように説いているのですか? >>164
しりませんが。キリスト教に自性なんて概念ないのでは?
中観派の論理的整合性とキリスト教は関係ないでしょ。 創造神は存在してもいいし、存在しなくてもいい
これが仏教の「空」でありスタンス
みなさーん、勘違いしてますよー(´・ω・`) >>166
勘違いしてるのはあなたでしょ。
創造神は存在していないのがおかしいとか、創造神は存在しているのがおかしいとか、そんな話はしてません。 >>168
はっきり書いてるでしょ。
世界の創造を説明していないのにも関わらず、そこには有自性のあるダルマはないと断定してしまうのは論理的根拠に欠ける。 >>161
全ては他縁によって成り立つ世界に凡そ実在するものなど何も有りませんよ
現れては消える仮の存在しかありません >>169
そもそも仏教は矛盾した宗教なんです
梵天勧請で創造神が説法をお願いしないと仏教は存在しなかった
それだけ仏教では創造神は重要な存在なんです
しかし悟ったら、そんなもんは「無」なんですよ
矛盾するから人間は対立して争う
なら矛盾を受け入れて、どっちでもいいじゃんと
それが中道であり空なんです(´・ω・`) >>172
どっちでもいいじゃんが中道とか、とんでも解釈ですな。 >>162
前提となる世界等存在しないという話をしています
成 住 壊 空 の繰り返しでしかありません
この宇宙の始まりは前の宇宙の終わりであり 前の宇宙の始まりはその前の宇宙の終わりで その前も その前の前も その前の前の前も ずっと同じです
これを無限訴求と言って意味の無い事とされています
違うというなら自ら確認する以外にありません
ご自由に >>174
世界が存在しないのに、その中で働く法則を絶対のものとして信仰するって無茶苦茶ですよ。 >>163
今回の宇宙の始まりに付いては起源経に明かされているとお話した通りです
興味が有るなら ご自分でお読みになれば良いだけですから勧誘はしません >>174
宇宙の始まりはその前の宇宙の終わりだとか、一体どこの邪教の教えですか?
ソースは? >>173
どちらか一方を肯定したり否定するのを常見や断見として戒めてるんでしょ?
なら、どちらも両立させるしかない
矛盾してもいいから、どっちでもいいじゃんと
それしかないでしょ?中道って
それ以外にナニがあるんですか(´・ω・`)? >>164
キリスト教が諸法の自性をを説いた教典を存じ上げません
有るならご教示願います >>174
>>143に
※世界が有限か無限かについては見解を説かず無記です。
「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
とありましたし、初期の仏典にそのようなことが書かれていたような気がしましたが、検索したらおっしゃっているような内容の記述もありました。
どこかの宗派の経典ではそのように説いているのでしょうか。 >>169
中論においては有自性も無自性も否定されるのですよ。
「中論」第一五章 <それ自体>(自性)の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529952
特に五以降の詩をお読みになってください。
>>177
私も横からになりますが仏教ではそう説かれていますね。
起源経のほかに梵網経やパーティカ経でもそういう説法があります。
パーティカ経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnpv/dn24/dn24c00.html
>>179
私も直接的には存じませんが、創造主を除く全ては創造主によって作られたという因があるので自性はないと言えるのではないでしょうか?
創造主は自然発生のようですから有自性かもしれません!? >>181
この辺りがまったく意味不明なんですが、どのように解釈されてるのでしょうか?
また、世界が有限か無限かについては見解を説かず無記であることと、宇宙の前に宇宙があったということの論理的整合性はどうなってるんですか? バッガヴァよ、私は世界の起源を知っています。それを私は知り、またそれよりすぐれたものを知ります。しかしてその知見に執着しません。
そして無執着のゆえに、私にはじつに内心の寂静が知られるのです。その証知ある如来は、災いに遭うことがありません。
その証知ある如来は、災いに遭うことがありません。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnpv/dn24/dn24c09.htm
最初の言葉は、正確には「私は諸々の世界の起源についての説を知っています」ですかね。 >>182
>また、世界が有限か無限かについては見解を説かず無記であることと、宇宙の前に宇宙があったということの論理的整合性はどうなってるんですか?
>>183の通りです。 >>183
「言わないけど知ってるよ」って…。
こういうところが正直だめだと感じるところです。
「有であり、無である!!おかしい?修行が足りんからじゃい!」
「わしはしっとる。じゃが教えん。」
リアルでこういうこと言う奴はダメな奴。 >>185
>「有であり、無である!!おかしい?修行が足りんからじゃい!」
正確には「有に非ず、無に非ず」ですね。
中論第一五章では、諸法を有または無という固定された相で見てしまうと変化することができなるなるだろうと言ってるわけです。
八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。
>「わしはしっとる。じゃが教えん。」
それぞれの起源説についてそれを語るバラモンよりも詳しく知っているし、自らそれを説くことも容易ではあるけれども、その説(見解)に固執することはないということだと思います。
決して教えてないわけではありません。
ちなみき起源経
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=30601040 >>186
「有でなく、無でもない」でも分からないです。
「有または無という固定された相で見てしまう」というのも意味不明なんですよ。
有でも無でもないというのはどのような状態えしょうか?
> それぞれの起源説についてそれを語るバラモンよりも詳しく知っているし、自らそれを説くことも容易ではある
なら、説いてから言え、なんですよ。
結局、世界の創造を説明していないのにも関わらず、そこには有自性のあるダルマはないと断定してしまうのは論理的根拠に欠ける、ということへのまともな回答はなされていません。
真剣に検討すれば、論理的な課題として出てくる難題に対しては結局回答がないんですよ。 >>187
>有でも無でもないというのはどのような状態えしょうか?
今あなたが目にしている状態です。
有有相(有only)、有無相(無only)ではなくただ無相(固定された実体はない)ということです。
この辺は青目さん?が巧みに注釈を入れてますので、ゆっくりと何遍でも読んでくださいな。
中論 觀有無品第十五(自性の考察)
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon03.htm?v=20190528#no15 >>188
自性のあるものはなく、何もないのでもない、という状況ですか?
なるほど。そこは受け入れましょう。
しかし、そもそもの自性のあるものはないという主張の根拠が弱いような。 >>188
有が自性のあるもの限定だとどこかに書いて有りましたっけ?
死は有るんじゃないですか?死も有でも無でもないという立場? >>191
なるほど。宇宙も移ろうものだという立場ですか。
しかし、普通の言葉としては移ろい変化し続けるものであっても有るといいますよね。
永久不変でないから有るではないというのは通常の言葉遣いではないです。
そういう特殊な意味で用いているということなら、そこはすっきり理解できますが、本当にそういうことなんですか? >>171
根拠は経典にある事を自ら確認するしかないと言っている >>193
経典にも書いてないと言ってる。
書いてあるなら、どこに書かれているか明示すりゃいいだろ。 >>175
理の前提となる世界が存在しないと言ってるのです
法と世界は相衣してるのでどちらが欠けても成立しないのです >>190
生という因による死は当然ありますが(十二支縁起)、独立したそれ自体として存在する(自性のある)死(無因の死)はないということです。
それ自体として存在する(自性のある)法はないので一切法空ということになります。
是諸法空相 不生不滅〜是故空中〜無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
諸法は空相であるので(それ自体(自性)がなく無分別の故に)不生不滅であり〜この故に空中には〜無明なく、また(もともとないので)無明が尽きること(無明の滅)もなく、ないし老死もなく、また(もともとないので)老死が尽きること(老死の滅)もなく、
と般若心経で説かれているのはもちろんご承知とは思います。
ちなみに十二支縁起は中観では世諦縁起として認め、更にそれを空と為せば第一義諦(勝義諦)となります。
なお、何を第一義諦(勝義諦)とするかは部派や宗派によって異なり、部派仏教では自性を有する法が三世実有とか現在有体とか部派によって異なりながらも第一義諦となり、大乗仏教ではそれらも空として空が第一義諦となります。 >>177
ソースは起源経その他複数の仏典に有ります
一々提示はしません
探してまで理解する意志が無ければ話は打ち切ります >>195
> 法と世界は相衣してるのでどちらが欠けても成立しない
の根拠は?
世界がどのように創造されたかを明示してないのに、どうしてそんな断定できる? >>197
ソースを明示できない相手とは会話する意味がないので去ってくれ。 「中論」第二一章 生成と壊滅の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530014
一二 有【存在するもの】は有から生じない。有は無から生じない。無から無は生じない。無から有は生じない。
一三 事物は自体(自性)からも生じない。他のものからも生じない。自体と他のものからも生じない。何から生ずるのであろうか。
一四 有【存在するもの】を承認する人にとっては、ものが常住であると考える偏見と、ものが断滅すると考える偏見とが付随して起こる―――何となれば、その有なるものは、常住であるか無常であるかのいずれであろうから。
【法有の立場の人の主張】
一五 有【の立場】を承認している人にとっては、断滅ということも無いし、また常住ということもない。【われわれの】この生存というものは結果と原因との生起、消滅の連続であるからである。
【ナーガールジュナの反駁】
一六 もしも結果と原因との生起と消滅との連続が生存であるならば、消滅がさらに生ずることは無いから、原因の断滅が随い起こる。
一七 それ自体として実在するものが非実在となるということは、理に合わない。またニルヴァーナの時には、生存の連続はやすらぎ(寂静)に帰するから、生存の連続は断滅する。
一八 最後の生存が滅びてしまったときに最初の生存が起こるというのは、理に合わない。また最後の生存が未だ滅び去らないときに、最初の生存が起こるというのは、理に合わない。
一九 もしも最後の生存が滅びつつあるときに、最初の生存が生ずるというのであるならば、滅びつつあるものは一つの生存であり、生じつつあるものも他の一つの生存であるということになるであろう。
二〇 もしもいま現に滅びつつあるものといま生じつつあるものとが倶に【同時である】ということが理に合わないのであるならば、これらの構成要素(蘊)において死に、またその同じ構成要素において生まれる。
二一 このように三つの時(過去・現在・未来)にわたって<生存の連続>があるというのは正しくない。三つの時のうちに存在しない<生存の連続>がどうして存在しえようか。 >>180
宗派の経典というものは存在しません
初めに口伝があって 根本分裂が起こり上座部の中では細部の改変は有りましたが大同小異です
独立した大衆部も十前後の部派に別れましたがやがて一つにまとまり密教へと連なって行きました
宗派というものが出来たのは中国ですが数ある経典群の中から依経を選出してそれだけを学ぶといったものです
日本でも一部で四宗兼学という様な流れは有りましたが基本的には宗派毎に依経を選出して悟るにはこれが一番といった思想で専学に変わって言っただけです
基本的に宗派独自に創作された経典は存在しません >>196
どうもはっきりしないので、質問に直接回答して頂きたいです。
自性がなければ有ることにはならないということですか?
自性がなければ生じることもないのですか?
有が自性のあるもの限定だとどこかに書いて有りますか?
日常の用語では人は生まれて、死にますし、生きている間は有ります。
これを自性がないから、生じないし、滅しないし、有りでもない。こういう風に言ってるだけですか?
用語の問題なのであれば、普通の言葉遣いではないですが、それはそれとして受け入れますが、そういうことでいいのですか? >>181
法に自性が有るとしたら自ら生まれたという事になりますからね
その場合創造主の被造ではない事になるのでやはり法が前提で諸々の物事が生まれるという事になります >>200
ここで、
有=自性のある法
なのか不明瞭です。どちらなんですか? >>192
我々の知覚出来る範囲の有は必ず滅ぶので絶対では有りません
同時に絶対的な無も存在し得ません
存在しない無が存在する事自体が矛盾となってしまいますから
其処で有でも無でもない事を表す概念として空が用いられます >>205
ここにリンゴが有るというとき、りんごが永久不変に有るとは主張してないでしょう。
普通の言葉としては移ろい変化し続けるものであっても有るといいますよね。
永久不変でないから有るではないというのは通常の言葉遣いではないです。
そういう特殊な意味で用いているということなら、そこはすっきり理解できますが、本当にそういうことなんですか?
と、意図は十分に明確に記述していると思いますので、意図からずれて解釈した上で、回答するのは控えて頂きたいです。 >>202
>自性がなければ有ることにはならないということですか?
>自性がなければ生じることもないのですか?
二諦を知ることですね。
もっとも、前述の通り何を第一義諦とするかは部派によって異なります。
例えば説一切有部の第一義諦は五位七五法
https://i.imgur.com/N2zJDUL.jpg
であり、
テーラワーダでは四位百七十法(という用語はないですが)が第一義諦となります。
これら部派仏教では法の自性は有るとしていますが、大乗仏教では法の自性は空となります。
空は無自性で無分別ですのでそれ自体として生じることも滅することも第一義としてはありませんが、空即是色として世間に戻る時に現象としての一時のあり方を生とか死とか言ったりするわけです。
>有が自性のあるもの限定だとどこかに書いて有りますか?
有は無との対立概念で中観では自性に限らず全てにおいて有無の対立は絶せられており、その対立を超越したものが空となります。
従って無自性という言葉も自性は無であるというのは本来は正しくはなく、ただ自性の有に固執する者へその見解を脱する為に仮に自性の無と言語表現されたもので、本来は自性空相とか表現するのが正しいと思います。 >>207
そもそも異なるレベルの物事を論じるのに、用語を区別しないというのが議論のやり方として問題でしょうね。
都合のいいときに区別せず、都合が悪いときに区別するなどの恣意的なごまかしが横行してしまいます。
世間レベルのものを「ある」とし、
勝義諦ものを「アル」としましょう。
そうすると、大乗仏教では
自性がなければアルことにはならないということですか?
アルが自性のあるもの限定だとどこかに書いて有りますか? >>194
確認したがそんな事は昨日今日のレスで言ってないぞ?
此処に端的に世界には終わりと始まりが有ると述べられているし 熟読すれば創造と破壊が繰り返される事も 創造の始まりに創造神梵天が存在せず 後から生まれた事も述べられている
http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_agganna-suttanta/
第二章
「長い時が過ぎると、この欲界は消滅する。
その際には、生きとし生ける者の、大部分は、
二禅天に存在している、光音天に生まれ変わる。」
「彼らは、身分の差が無く、同じ姿を持ち、
光輝を放ち、空中を歩き、歓喜を食べていた。
そこは、日もなく月もなく、男も女もなかった。」
「究めて長い期間、光音天に止まった後に、
梵天界が創造されて、生ける者が落ちて来る。
彼らは、そこに、天の味が広がることを、知る。」
「そして、独りの、意地の汚い者が現れて、
天の味を舐めてみて、とても甘い事を知った。
彼は、その味を貪ったため、容色が汚くなった。」
「そして、次々に、意地の汚い者が真似て、
天の味を舐めてみて、とても甘い事を学んだ。
皆が、その味を貪ったため、光輝が弱くなった。」
「自ら発する光が消えて、日と月が現れた。
日と月と星が現れると、昼と夜とに分かれた。
昼夜が現れて一日が、季節が現れ一年が現れた。」
「貪るほど、体は硬くなり、光は弱くなり、
初めは等しかった容色に、違いが現れ始めた。
そして、身分の差が現れて、高慢の心が現れた。」 >>198
起源経に明示されてると言っただろ?
ガラケーの俺でも探せるのに
http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_agganna-suttanta/
第二章
「長い時が過ぎると、この欲界は消滅する。
その際には、生きとし生ける者の、大部分は、
二禅天に存在している、光音天に生まれ変わる。」
「彼らは、身分の差が無く、同じ姿を持ち、
光輝を放ち、空中を歩き、歓喜を食べていた。
そこは、日もなく月もなく、男も女もなかった。」
「究めて長い期間、光音天に止まった後に、
梵天界が創造されて、生ける者が落ちて来る。
彼らは、そこに、天の味が広がることを、知る。」
「そして、独りの、意地の汚い者が現れて、
天の味を舐めてみて、とても甘い事を知った。
彼は、その味を貪ったため、容色が汚くなった。」
「そして、次々に、意地の汚い者が真似て、
天の味を舐めてみて、とても甘い事を学んだ。
皆が、その味を貪ったため、光輝が弱くなった。」
「自ら発する光が消えて、日と月が現れた。
日と月と星が現れると、昼と夜とに分かれた。
昼夜が現れて一日が、季節が現れ一年が現れた。」
「貪るほど、体は硬くなり、光は弱くなり、
初めは等しかった容色に、違いが現れ始めた。
そして、身分の差が現れて、高慢の心が現れた。」 >>199
自分でソースを探して学びもしない奴の批判は受け付けられないから君が去りなさい
不勉強な癖にクレクレとか甘えすぎ >>206
もちろん通常の言葉使いではなく 厳密に考え抜かれた上での言葉です
原始経典の中で釈迦の言葉に依って単独で成り立つものは存在しないと定義されています
つまり全ては他との因縁に依って成立しています
異なる複数の物事が互いの存在に依って成り立つ事を相依性と言います
基本の教学をご存知無い方に細々と説明するのは非常な労力を要求されるとご理解ください
http://fallibilism.web.fc2.com/087.html
>しかし、どのようにして、自性が実に作られたものになるであろうか。何となれば、自性は、作られないもの(akr(・)trima)であり、また、他のものに依存しないもの(nirapeks(・)ah(・) paratra)であるから。(一五−二)
ここで、自性≠ヘ、(a)「作られないもの」、(b)「他のものに依存しないもの」と定義され、それ故にこそ縁起する(因と縁から生じる)ことはありえない、とされている。
他のものに依存しない≠ニいうのは、あるものが存在するために、他のものの存在を必要としない、という意味である。
このように性格づけられ定義づけられた自性≠ヘ、他者の存在を必要とせず全く独立に自立的に存在するもの、つまり自立的存在≠るいは端的に実在≠意味するであろう。
>>211
そこのどこに理の前提となる世界が存在しないと書かれているというのでしょうか?
>>212
だからさ、そういう発言しかできないなら回答しないで。こっちも不愉快になるだけなので。
こちらもそんな回答してくる相手との会話は望んでません。 >>214
世界の定義の二重性として空性を理解していないと 意味は理解出来ません
目に見える存在の世界を仮性と考えて 五感と識別で捉えられない世界の実相を空性と観た時に 仮性の世界ないし宇宙が滅んで何も無かったとしても空性は存続してる訳です
この空性の世界は我々の認識から見れば存在しておらず かといって無かと言えばそうではない訳です
この事を無数に有る経典の中から探してソースとして提示しろというのが相当な難儀な訳ですよ
現に経名を出しても該当箇所を探せない 出して見せても その裏付けになる経典を読んで無いから認識の共有が出来ないでしょう?
何も知らない 学んでいない状態で対等な議論なんて不可能なんですよ
般若心経の空の概念さえ原始経典の中にルーツが有るし それを見付けて理解するにも相応の時間と労力が必要なんです
其処まで勉強してるなら未だしも 何も知らない状態で議論を挑まれてもわざわざソース探してハイどうぞとサービスをする義理は仏教側には存在しないのですよ
スッタニパータやダンマ・パダ辺りなら現代語で分かりやすく訳されてるので その辺りから読んで基礎知識を積んでからにして貰えませんか?
貴方の宗教が何で有るかは存じ上げませんが何も知らない状態で教義の根本を説明しろと言われたら遥か手前から説明して行くしかない筈ですよ?
そんな事をネット上の見ず知らずの相手に議論するから資料はそっちが出せという方が不躾ではないですか?
仏教の何を知っているのかという所からそちらが先に示すべきです
教義の基本からね だーかーらー
「空」ってのは、どっちでもいいじゃん!という意味にすぎんのよ
矛盾してもいいじゃんと
自分も世界も宇宙も矛盾してるけど、どっちでもいいじゃん
好きな方を選択しなさい
ただ、それだけ
真言宗氏よ
お前は、もう瞬殺されている・・・・mg(´・ω・`) >>216
やかましいわ
真面目な話してる時に茶化すな >>217
(^。^)それは心を持たないBotだと思いたまえ。(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています