突き詰めていけばその観察者、つまり慈悲の主体は他ならない自分自身だが
それは仏典にも書いてあるものの、単語の訳が違う意味の方でしか訳されてないことが殆どだけど
山下さんが「青空が青空をみている」といったことそのものを仏陀も説いてる
僕も見てる
そこに色即是空空即是色があるのもよく見てるよ

瞑想において慈悲の主体は自分だが、あたかも他力
だが日々の生活において慈悲の主体が自分であるなんて感覚は全く無いよ
肉体として生きている自分は慈悲の主体ではない
肉体を生じさせている主体、涅槃が慈悲の主体だから

さて
しかし、それは瞑想の中のことであって
瞑想の外で「自分が慈悲の主体である」なんてことは全く思わないものだね
やはり「あたかも他力」なんだよ

だから、「人助けの活動こそが慈悲の実践だ」というのは違和感どころか
全くのニセモノだとわかってるわけw
もちろん、プラユキさんは本心そこまで傲慢なことは思ってないかもしれないが
そう取れるに十分なことを言ってしまってるからね
魚川さんも、プラユキさんが「雑なマウンティング」をしまくって困惑したことを言ってる

開発僧のみなさんにとってそれが共通見解ではないだろうとも思っているよ
その話とごっちゃにしないでくれ