第五図ということに絡めて慈悲について話すならば、
第五図というのは瞑想のある程度進んだ人たち(皆ではないが)の言う観察者のこと
これは観察者などという言い方をするくらいで、あたかも他力であるかのように働いており
苦の滅がある、家の造り手を見る、もちろん生滅は止まる
つまるところ常、楽、無我の涅槃ということだ
能動的に慈悲を施すなんてことは出来ないのは、それが無我だから
実際そうだからとしか言いようがないんだけど

その観察主体が普段自分とされてる自分ではない何かであるということが重要なのね
その観察主体が現れるということが、ビギナー卒業
カバットジンとかの本読んで大体二ヶ月で出来ること
慈悲の瞑想にも抵抗がなくなる

つまり、慈悲を施す主体が自分という意識があるところに瞑想の行き詰まりと同じものがある
そう思ってるよ