だから仏法の修業とは潔斎だから、それが進むにしたがって他者への共感性というのが生まれて来るのな。
喜怒哀楽を共にする 与えることを喜ぶなど。

それが無くて 何時までも際限なく内面性だけのさとりの追求とか智識とか言うのは ぜんぜん修業として成立していないという事 どこかかたわなのな。
ここにいるのは 現在は金持ちでも 次第に貧乏になって行って ひどく貧しい状態で終わるだろう。

ニセの宗教とは そういうものだ。