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> wwwwwwwwwwwwwwww なんだよ、自分の言葉ってw そんなルール誰が決めたんだよw お釈迦様がそう言ってたと言うのなら根拠を示せw キチガイwwww 』


バカアホのイヌヤマですら多分理解済みだとは思うが、
2500年前の人が存在していたのか誰にもわかる事ではなく、
何を教えていたのかも、誰もわからないのだよ。

文字であらわすことは 聖ではない、と考えられていた時代だからだ。

固定して、
ああ言った、こう言った、
あの本に書いてある、この本に書いてある、と言い立てても、本人は見た事も無い、代物だ。

何を伝えて来たのか、が大切で、
それを確かに受け取る、
それが さとり という 体験だ。初関を透る、である。

初関を透れば、祖佛祖師方と手を把って供に歩み行く、である。

むなしい教典を拠りどころとして議論するむなしい風景は、まさに 外道だ。

眼は 事故に向けよ、それが歩みだ。

わたしの教えは優しい、どこへ行っても必ず大歓迎される、
だから、この道を二人して行くな。
犀の一本角のように一人歩め。

これを聞けよ。
耳に口を当てて行ってくれている。

全く同じ心をヨシュアはこう言う。
わたしの教えは厳しい。
必ず弾圧を受ける、死が待つ。
一人ではとても耐えられない、
だから決して一人では行くな、二人して行け。
二人なら耐えられない苦痛にも耐えられるだろう。

二人は慈しみにあふれている。この心を受け取れ。

この槍は重い、つまり、重い槍である。而して 思いやり である。

思う、とは 自己ではなく相手を思う、である。
相手とは、つまり、一切である。
自己と一の如しである。
それが 真理(さとり)である。これを体得していくのである。

イヌには 至難である。吠え、噛み、それが故に 散歩歩めば こん棒で殴られる定説である。

無駄をしてコピペに走るな、自己を出せ。自己を出せとは、誰も言い出した事が無い 真理(さとり)を 発見せよ。

それが自己の言葉で語れ、という事である。

趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)禅師(ぜんじ)ちゃんも言う、三歳児に学ぶ、と。