>>270
てゆーか、空想は共有出来ない
共有出来るのは現状
現実を通して語ってこそ共有出来る
もちろん、価値観違えば共有出来ない
ただ、違う価値観を認めるか?認めないか?だけ
価値観違えど目的は共有出来る
総論賛成各論反対とかな
目的を共有出来ないなら議論にすらならない

悟りは開くと表現する様に、誰でも閉じこもってるだけで悟れる
自発的に、しかも脳の生理現象を必要とする
教えられるものではない

悟りの状態は言葉で説明出来ない
言葉はコミュニケーション
イメージを全て言葉に表す事は出来ない
言葉は言い足りなかったり、誤解を生んだり、解釈が移ろうもの
様々な角度で条件を変えたりしながら、本質を見つめようとするのが、コミュニケーションにおける説明であり、説得である
定義が一つである必要もない

もし悟ってる人と同じ思考の組み立てをしたいなら因果を見よと
自分が見つめるなら言葉の正しさにこだわる必要はない
自分で定義付けてもよし
誰かに語る時に持論として説明出来る自分であればイイ
善悪のフィルターを外して全ての因果を見よ
善悪は、価値観判断に過ぎない
価値観は移ろうもの、善悪も状況や立場により変わる
求める結果が何か?が重要であり、その手法に問題があるなら、善悪ではなく条件を加える理屈になる

苦悩は、正しさにこだわると起きる
これでイイのだ!が悟り

結果が出ないなら、正しいとされた事、常識とされた事が障害になるのは当たり前にある
発想の転換という言葉さえある
それは、善悪のフィルターを外し因果を見つめる事により視野が広がる有様でもある

オレが出来て、オマイに出来ないというのは、常識や正しさにこだわる人には捉えられない因果も見つめていて、細かな様々な視点と広い視野があるからだ
それはイメージ思考

禅でも息遣いに意識を集中したりするだろ
イメージで捉える事が大事で
右脳中心思考ともいえる

そして、今に因果がない見方で未来を見つめたりはしない
未来より今が大事
そして自分については過去の因果は見つめない
過去は取り戻せない