イエスはわたしの救い主
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イエスによって救われるとは、どういうことなのか。
どうして、人は救われなければ、ならないのか。
救いによって、何が得られ、何を失うのか。
救われた人は、どうなるのか。
イエスの救いについて、聖書を通して、より良く知り
信仰を深められ、思いと生活ををきよめられて、共に
救いにあずかる者となるために、この場を活用させて
いただきたいと思います。
教派・信じる・信じないの違いを超えて、ご自由に
お書き込み下さい。
ただし個人名・団体名を出して、直接に誹謗中傷する
ことは避けて下さい。あくまでも一般論としての意見
の交換の場とするようにお願いします。 イエス様は神様に似せて造られた人間が
神の国に入り、永遠の命を得るためには、
水と霊とからもう一度生まれる(再創造
される)必要があると言っています。
ヨハネによる福音書3章
3イエスは答えて言われた、「よくよく
あなたに言っておく。だれでも新しく
生れなければ、神の国を見ることはで
きない」。
4ニコデモは言った、「人は年をとって
から生れることが、どうしてできます
か。もう一度、母の胎にはいって生れ
ることができましょうか」。
5イエスは答えられた、「よくよくあな
たに言っておく。だれでも、水と霊と
から生れなければ、神の国にはいるこ
とはできない。 6肉から生れる者は肉
であり、霊から生れる者は霊である。
7あなたがたは新しく生れなければなら
ないと、わたしが言ったからとて、
不思議に思うには及ばない。
8風は思いのままに吹く。あなたはその
音を聞くが、それがどこからきて、
どこへ行くかは知らない。霊から生れ
る者もみな、それと同じである」。 なあ、コズモさんはPCに詳しいくせに、なんで解像度の低いモニター使ってるの?
改行までの長さから、表示能力jの相当低いモニターでしょ。 >>534
私の環境は、1200x1600のモニタを縦置き
2台で使用してます。
横文字数を短い一定長にしてるのは私の癖
で、モニタのせいではありません。
スマホ等でみた時に見にくいかと思って、
そうしてましたが、他の人のように、一文
が終わるまで、改行しないほうが、スマホ
等で見やすいのかもしれないです。
横一定長で改行するの見にくいですか?
そうであれば、一文終了まで改行無しに
変えます。^^; >>535
なるほど。癖ですか。
少し読みにくいかも。
短文ならばそうでもないんだろうけど、コズモさん長文のことが多いから。 こんばんは
>>535
ぼくもそう思ってそうしていた頃がありますが、それは勘違いでした
スマホは画面に合わせて勝手に改行されて表示になるので、書き込む方は気にせず一文は書ききった方がいいですよ
一文で改行、そうしてもらえると読む方は読みやすいみたいっす >>536
了解です。
これからテスト的に、一文終了まで無改行形式で書き込んでみます。
スマホで見てみて、良さそうなら、そのままいきます。
指摘ありがとうございました。 >>537
サティさん、もっと早く指摘してくだされば、よかったのに。^^;
それと、一文末に「。」をつけないほうが、5ch流儀で良いですか? >>539
句読点は名無し識別の特徴でもあるので、個人的にはあったほうがいいと思います
ない人はない人で特徴になりますので、むしろ誰だか分かりやすかったりします
紛らわしくてすいません
ぼくはサティさんではないですw いや、句読点は付けようよw
あんまりサティのアドバイスを有難がると、あとあと面倒なことになるので、ほどほどに。 >>539
それはサティさんではありません
なぜならサティさんは私だからです
改行なんて気にしないでいいですよ
むしろ、読みやすくしたい、というその心が美しい
なみさんの改行は読みづらいかもしれないけど美しいわけどす
マーベラス
「。」をつけないのは5ch流儀なわけではないですよ
つけていいと思います アドバイスしている人間を見ると、俺だけでなく海波氏もサティだと思うんだなw >>537
あなたはまちこさんのスレに書き込んでた方? >>544
はい、まちこさんのスレに書き込み色々尋ねてみました >>545
あなたがあちらの>>201で言ったこと
おそらく行為者感覚の減衰でしょう。
これは心の清めが上手く言っているのだと思います。 5chの句点なしは、漠然とした理由しかないですが
元々短い文が多かったため、わざわざ句点をつけるまでもなかったこと、
さらには句点の代わりに顔文字が使われることが多かったこと、などが理由だと思います
実際そのような文が大勢を占める板やスレでは句点付きの文を書くと批判されることもあったりして
5chでは句点なし書き込みが増えていったのではないでしょうか
俺はなぜ句点なしで書いているのか記憶がないのですが
おそらくはそういった5chの流れに従ってそうなったんだと思います
基本的に句点をつけるべきでない明確な理由が存在しないのですから
あとは好き好きだと思います
科学技術系の論文や書籍などで句読点の代わりにピリオドとカンマで代用することが多々ありますが
これは数式やアルファベットの使用頻度が高い文章なので、おそらくは見た目の親和性から
そうなったんでしょう
これもまた特に明確な書式上の理由があるわけではないようです >>546
他者が読んで、そう評価してもらえるならほっとします
自我にもよらない、無意識さえ一つのペルソナだと感じることは、正直にぼくの中でも戸惑いに近い気分でもあったりしますので
抽象的な言い方になりますが、意識と無意識の中心にあるものが人格というものであったならば、漠然とパウロのいう「キリストが内に生きている、もはや私はいない」という感覚に一致するのではないか、と感じました
話は変わるけど、ぼくが宗教スレに始めてきた時、なりふり構わず空気を読まず、思いの丈にあるキリスト教的質問をぶつけた時、答えてくれた人の一人にMewさんがいたのを覚えています
サティさんもそうだったし、他にも何人かいましたけど
だからぼくもあなたが誰だか識別していますw
神に委ねること、それを大切にしている人ですよね >>533
ヨハネによる福音書3章
3イエスは答えて言われた、「よくよく
あなたに言っておく。だれでも新しく
生れなければ、神の国を見ることはで
きない」。
マジレスすると、今も生きている神、イエス・キリストとの深い関係にあることを意味する。
残念ながら多くのキリスト教徒は十字架前のペトロの位置で満足している。 >>533
8風は思いのままに吹く。あなたはその
音を聞くが、それがどこからきて、
どこへ行くかは知らない。霊から生れ
る者もみな、それと同じである」。
うみのなみ、括目してこの聖句を感じろ、
そして「普遍化」は不可能と、この聖句から知れ。 >>551
デオーさん、いらっしゃい。
普遍化は私も出来ないのではないかと思っていました。
普遍化については、のちほど再考察してみたいたいと考えています。
話は変わりますが、サティさんのいたずらには私も思わず笑ってしまいました。
座布団一枚です!昨日と今日で合計2枚の座布団でした。^^ すませんw
僕が他コテで遊ぶ時はコテに「真実の」とか「絶対」とかつけるので、それで識別頂ければw おはようございます。
ヘブル人への手紙10章〜13章 真実を述べます
あなたはあなたの世界の救い主です
人間、誰一人としてイエス様でない者は居ません
その事を知るには、祈りを深めることです
その祈りの深まりの証は聖書に必ず見いだされます
みなさんがみなさんの神に救われますよう おはようございます。
ペテロの第一の手紙1章〜3章 おはようございます。
ペテロの第一の手紙4章〜5章 実際好きなんだからしょうがない。^^
メロディもいいし、歌詞もいい。歌ってる人たちもいい。自分でも歌えたらいいなと思ってます。^^ さてここから、ユダヤで行われていた生贄の意味について考えてみたいと思います。
生贄にはどういう意味があり、何のために行われるのか?
なぜ生贄の血を流すことで、人の罪の贖いがなされるの?
イエス様がその生贄の最後となって、十字架に架けられたことは、どのような意味を持つのか?
生贄の意味について考えていきたいと思います。 おはようございます。
ペテロの第二の手紙1章〜3章 >>565
>さてここから、ユダヤで行われていた生贄の意味について考えてみたいと思います。
生贄にはどういう意味があり、何のために行われるのか?
なぜ生贄の血を流すことで、人の罪の贖いがなされるの?
まあ、関連は出せるだろうが、
人の罪が何か?を知るほうが大事だと思うぞ。
それが解らないと、イエスの十字架も解らんだろう。 >>567
適正なアドバイス有難うございます。そのとおりだと思います。
それで、罪とは何かの簡単な考察を前半でしてから、生贄の意味の考察に入る予定でした。^^ >>568
あるクリスチャンになるであろう人物の話をすると、
過去の家庭環境が厳しい面があったために、怒りの沸点が低い、
怒りは極端に表に出さないが、
怒りから自由になれないので簡単に鬱状態になる。
こういうケースは人の罪の贖いという神学的考察では、当人は何も発見できない状態で、
そういう意味で、人の罪とは何か?
であると思える。 >>569
例えば、風邪にかかった人がいたとします。風邪にかかったのは、その人の罪の結果でしょうか?
ある部分は罪の結果かもしれませんが、直接の原因は風邪ウィルスの感染によるものです。
病気になった原因を一意に罪の結果だとすることは、間違いだと思います。
鬱病は精神疾患ですが、風邪と同じ心の病気の一種だと思います。
鬱病の原因が一意にその人の罪の結果だとは言い切れないと思います。
鬱病等の精神疾患は伝染すると言われますし、私もそう思います。
精神疾患が伝染するのであれば、逆に健康な人の精神の状態も伝染するはずです。
ですから鬱病などの精神疾患患者に接する時に、大事なのは接する人の精神の健康状態だと思います。
聖書に次のような、興味を引く箇所があります。
サムエル記上10章
10彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。
11もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。
12その所のひとりの者が答えた、「彼らの父はだれなのか」。それで「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのが、ことわざとなった。
上記の箇所は、預言者たちの精神状態が預言者ではなかったサウルに多大な影響を与えたことを示しています。
私は、精神疾患の人に接する時、接する人の霊的状態が患者の状況に大きく影響すると考えています。
キリスト教を理性で理解しようとすると、見落としてしまうのが霊的状態のレベルです。
霊的状態のレベルは日々聖書を読み祈り神様の前に祭壇を築くことによって、徐々に研ぎ澄まされていきます。
本当に研ぎ澄まされ鍛錬された霊的状態にある人は、その人の身につけていたタオルにふれるだけでも、触れた人の病が癒やされるほどだったと、聖書に書かれています。
これは、おとぎ話でしょうか?私は現実だと思います。そして生きているうちに、そんなレベルを経験してみたいと願っています。 おはようございます。
ヨハネの第一の手紙1章〜3章 神様、台風19号により、犠牲者が出ないよう、台風が通過する地域の人々をお守り下さい。
主イエス様の栄光が現れますように。 おはようございます。
ヨハネの第一の手紙4章〜5章 赤十字や救う会に寄付した方がいいと言ったけど、
この団体に寄付するのも良い。
良い団体だ。
一般社団法人アジア自由民主連帯協議会
http://freeasia2011.org/japan/
寄付案内
http://freeasia2011.org/japan/membership >>575
おはようございます。とても良い働きをされていますね。
さて、赤十字や救う会と、キリスト教会とでは、目指すゴールが少し違うと思います。
前者は主に人の健康面の向上や社会的不正からの救出を目指し、後者は人の霊的救いを目指す団体であると思います。
霊的救いは、目えないに働きなので、誤解されやすいのですが、この働きが無くて、苦しんでいる人も大勢いると思います。
献金欲しさの働きでないことは確かですので、そのへんを理解してもらえたら幸いです。 >>575
その団体の会長ペマ・ギャルポは「最終目標は天皇の処刑」というとんでもない本を出していますが、大丈夫ですか?w >>多少の違いはあれ、目指すものは同じ人の救いならば、
>>違いを乗り越えられるのかもしれないと思わされました。
私は、宗教オタクで、色んな宗教を学ぶのが好きなのですが、
昔から、「なぜ、人は宗教の違い等で戦争や争いごとを起こすのか?」
疑問でした。
キリスト教では、愛を説き、仏教では、慈悲を説いているのに、
真逆の行為が宗教家によって、引き起こされています。
この謎を探求することと、「救いとは何か?」を探求することが、
ライフワークとなっております。 世界には、多くの宗派がありますが、目指すものは「同じようなもの」のような気がします。
パレスチナ地方のような厳しい気候や環境で育まれる思想と、
日本や東南アジアのような温暖湿潤の環境で育まれる思想には、
おのずと違いが出てくるのは、自然なことだと思います。
また、島国であるか、大陸であるか、という地理的な観点からも、
住民の思想に違いが出てくるでしょう。
あまり上手な例えではありませんが、
「富士山をどの方向から見るかで、見方が変わる」
ということが、宗教に当てはまるのではないか?
・・・と私は感じています。
(当然、富士山を上から見たり、地下から見ることも含みます) 私は、10月末までは、就労することはありません。
毎日、認知症の母親の世話をする程度ですので、かなり暇です。
10月末までに、あなたと30レス程度ずつ、レス交換できれば・・・
と考えております。
あなたの休みの日等に、集中してレス交換しても良いと思いますし、
仕事でお疲れの時は、お休みいただければ・・・と思います。 浄土真宗さん、おはようございます。
早朝には、書き込みできるので、レスしたいと思います。
が、時間が取れないときはお許しください。^^ >>577
ありゃ、献金先の詳しいこと調べてませんでした。
怪しい団体でない場合を想定しての書き込みですので、誤解のないよう。^^; >>570 こんにちは。
では、コズモスティオスさん、
自称クリスチャン(神の子)は、どうして
イエスキリストが感染しないのでしょうか。 >>585
いさなさん、こんばんは〜。
受洗は、クリスチャンの歩みの出発点なのですが、受洗をゴールとしてしまっている教会が多いのかもしれません。
受洗後にイエス様に似たものに変えられていく、成長のプロセスが大事だと思います。
ところが、教会に於いて受洗を大事にするあまり、受洗=割礼のように見てしまい、そこから成長するためのプログラムが確立されていないのだと思います。
受洗後の歩みの >>586
こんばんは。
10月中の、お休みの日は、いつですか? >>587
書き込み今気づきました。^^;
自営なので、きまった休日はないのですが、日中は仕事優先でレスできません。
レスできるのは朝か夜のみです。 >>Mewさん
早速一つの疑問を述べておきます
ただ今は先客がいるようなので、話題は彼を優先して時期がいい時にでも再開、と前置きしておきます
神を知る、という作業は意識の肥大化か縮小化が限度なく発達してしまうのではないか、と考えました
実際にぼくも経験があるからです
神の如く善悪を知っているかのような自惚れと、それに秘められた承認を求める自己卑下という仮の謙遜、人間を超越しているという点では「神に似た」状態であったとも今では思います
だけど「似ている」だけで、パウロのいうような神が内で生きている、ということの真似事にすぎなかったとも自覚しています
そしてさいあくなことに、まるで魅せられたように、この誤解を自分で解くのは難しいです
似ている、ということと、神を自己で認識しているため内部で生きている、ということはまったく違うことなのかもしれません
しかし見分けがつかないように似ているため、それは傲慢という罪を背負うことになる、なんて個人的には解釈しています
そういう自己肥大化から救いとなったのが、癒しスレで書いた葛藤という内的な対立感情でした
だから、自我と無意識(願いなど)を対立させていくことが神を認識する方法だと思い、そしてそれが宗教ではないだろうか、と書きました
そして牧師的な経験をされているまちこさんにも尋ねてみたのです
そして向こうで書いたように得られたことがあります
「神の考えと自分の考えは別の道にあることだと」
Mewさんなら、ヨハネの聖句の如くイエスキリストを知る、ということをどう解釈されますか >>589
おはようございます。
他の方もいるので十全を答えることはできないかもしれませんが
その点はご了承ください。
仰っているように、宗教的な達成とエゴの肥大化は
分けて考えることができない問題です。
途上における簡単な解決策は
思いが湧いたときにコリント第一4:7を思い出すこと
あるいは別スレでお話したように
その欲求が本当に価値のあるものかを熟考することです。
簡単に言えば、エゴが自分のものにしないように
エゴにとって価値のないものにすること
これによって内省、その種の思いを中和することができます。
確かに隠れていた欲求、例えば承認欲求や何らかの達成
人を救うという思い(言葉を伝えることはできても救うことはできないので)等は
問題になりますが、根本的に解決するのは最後になっても問題ありません。
なぜなら最良の浄化は、神、自己、人に関する正しい知識を適用することだからです。
なので例の17:3を知ることが可能になるまで深くやる必要はありません。
ただキリスト教では、イエスがすべてを明確にしなかったこと、譬えを多用したため
神を知るという最重要な部分が非常に難しくなっています。
また内面的な問題のため、正しい解釈が起こるかどうかも
気をつける必要があります。
しかしヒントはあります。
ヨハネにはイエスと神が一つであることを示す聖句が多くあります。
そしてそれが可能にすることとしてあなたも一つであるという句が続きます。
だからこれを発見することです。
まあ必要なすべての知識を一人で得ることは難しいので
誰かに手伝ってもらうことでも十分に可能です。 >>591
コズモスティオスさん申し訳ないです。
まちこさんのスレで出すような話ではなかったので
こちらをお借りします。
仏教?の方とのやり取りのお邪魔になるようでしたら他に行きます。 質問者さん(だと思います。^^;)とMewさん、おふたりの書き込みを読み考察することで、キリスト教信仰の根幹を私なりにとても良く整理することが出来ました。
感謝いたします。^^
>「神の考えと自分の考えは別の道にあることだと」by まちこ師
>「ヨハネの聖句の如くイエスキリストを知る」by 質問者さん
>「宗教的な達成とエゴの肥大化は分けて考えることができない問題です。」by Mewさん
これらを考察し理解することは、キリスト教信仰の根幹を知ることだと思いました。
今日の日中は時間の都合で、後ほどまた書き込みさせていただきます。
ここのスレは他人の誹謗中傷以外は書込み自由ですので、遠慮しないで自由に書込んで下さい。 こんばんは
>>590
読ましてもらいました
読んでいて思い出したことは、神をこれ以上なく意識した時のことです
大きな必然性に圧倒された時、人間はもらうことしかできない存在なんだと自覚したさせられた経験もあったと思います
その瞬間が今でもどこかで、ぼくのエゴの抑制として残っているのかもしれないです
ただし大きな苦痛でもありますけど
なぜだかは分からないけれど、ぼくには物事を原理主義的にとらえようとする傾向が昔からあります
だから神の問題はこれ以上にないテーゼになりました
信じるならば自分を手放すか、信じないで自分を留めるか、そう考えると意識と無意識がなにか分離したような気分で葛藤するのかもしれません
それがキリストを求めることとして、ポジティブな何かなのか、ネガティヴな何かなのかは正直自分でも分からないですけど
ぼくは、完全性と十全性についてどちらも完全であるけれど、完全性とは悪をふくまない一面的なこと
十全性とは悪もふくんで全体的なこと、なんて解釈しています
あってますか
もっとも伝統的キリスト教とは異なる自覚はありますけど、後者の方が自分の認識には近いようです >>593
はい、そうです
勝手に個人的な話をしてしまっていますが、うみなみさんも時間があったらよろしくお願いします
>>浄土真宗さん
まちこさんのスレでレス読みました
気にしてもらってなんか悪いっす
だけど気にしないでくださいね、話題はなんでも入りたくなったら勝手に横入りしますのでw すみません ('A`)
朝鮮の戦争を朝鮮学校で学んだ日帝からの解放戦争は嘘で
只の内輪もめだと知って吐いた
日本人在日コリアン社会のどうやら嘘をついていたのは
我々と我々の前の世代だったのか >>592
>>595
こんばんは。
ちょっと別のスレで私のテーマに付き合ってくれる人が
現れたので、コズモスティオスさんと対話するのは、
来年4月になりそうです。
それまでに、聖書を勉強し直す必要もありますので。
(私は、11月から3月まで、5ちゃんねる休止する予定です)
また、改めて、コズモスティオスさんに、延期を申し込むつもりです。
お先に、どうぞ! >>597
浄土真宗さん、おはようございます。延期の件了解しました。
ただ、私は掲示板での自由なレスの応答が対話だと考えていますので、そこのところはご理解下さい。^^ どこかの教会、宗派に属することや洗礼などの形式は、救済とは一切関係無い >>594
神とイエス・キリストと人間、信仰と救い等、聖書の内容を原理的に考えることを人間はしてきたし、これからもしていくと思います。
人生は矛盾や苦難に満ちており、聖書の教えが無ければ、人間が正しい方向に進むことが困難だ、というのが理由だと思います。
テモテへの第二の手紙 3章
16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
しかしMewさんも言ってましたが、霊感を受けて書かれた書物故、本質そのままで、説明部分が省かれ、誤解を生むことが多いのも確かだとと思います。
それ故、聖書の内容を原理的に考えることは大事なことだと思います。
さて、信仰者は自分のエゴと神様への信仰心とどう折り合いをつけるべきか?自分の願いや欲求を持ったままでの信仰は成り立つのか?
これを考える時に、まず私は信仰と人間の存在目的は別だと考えています。
聖書で信仰によって神様から祝福された最初の人はアブラハムだと思います。
パウロはアブラハムを例にあげ、人は信仰によって救われるので、行いによって救われるのではないと言いました。
パウロはここで信仰の対象に言及しませんでしたが、信仰の対象は、新約聖書にかかれている神様とイエス様と人間の救いのストーリーだと思います。
信じる対象が何でもよいのではなく、何を信じるかが大事だと思います。
すみません、時間の関係でまた後ほど。 こんばんは
感覚として、真っ直ぐな何かをいつもうみなみさんのレスには印象を持ちます
自分が持ちえなかったけれど持つことも出来たであろう姿、みたいな印象は自己の補完の問題として、読んでいて勉強になります
キリストという固有なペルソナの声にどれだけ普遍的に答えられるのか、とても難しい問いだと思いました
別スレでキルケゴールのことがでていますけど、(死に至る病については)彼はむしろ普遍的な神の問題をどれだけ固有(単独者としてキリスト)に答えられるのか、を問題としたと個人的には解釈しています
それでも二ケア信条とアウグスブルク信仰告白が彼の本質なんだと思っていますけど
ぼくはコッチ側(単独者としての信仰)を求めてしまうような傾向があるのかもしれません
あくまで自分で観察できる自己の意識なので、評価自体が曖昧ではありますけど
>>601
>さて、信仰者は自分のエゴと神様への信仰心とどう折り合いをつけるべきか?自分の願いや欲求を持ったままでの信仰は成り立つのか?
そうっす
これが今考えているぼくの問題でもあります
何かあったら教えてくださいね エゴとは何なのかと言うとキリスト教では罪で肉の欲と答える
これは欲の文脈で、エゴは人格と欲の混合物なニュアンスがある
自己を捨てて、もしくは無私で、もしくは神に委ねる、みたいな概念はエゴと人格の混合物の中のエゴ、もしくは肉の欲を限りなく透明にしてゆき純粋な人格
つまり創造時の神の計画に即した人格に純化させてゆく作業と言い得る
この解釈は正教会の神成の概念と等しい
さて、エゴと信仰心の関係性に対して考える際に、「エゴ」という単語にどんな意味を付与しているか、が非常に重要であると考えられる
仮にエゴという単語に「欲と我の混合物」という意味を付与する場合、信仰との関係性は欲を落として行く道のり、という意味を持たせることが出来るだろう
仮にエゴという単語に純粋な「肉の欲」という意味だけを付与する場合は神成を妨害する躓き石、もしくはハードルとしか映らないだろう
欲求を持ったままで信仰はなりたつか、という問いはいずれのケースもナンセンスなように感じる
前者の場合は善と悪の混合物であり、完全に悪ではないから自由意志で善を望むことが可能である
その意味ではむしろ、善と悪の完全に混ざり合ってない混合物だからこそ信仰が可能だ、とも言い得る
後者の場合は信仰するのは常に人格であり主体であるから、肉の欲の妨害は受けないから可能でしかない、という答えにしかならない
いずれにせよ、信仰とは神を求めることであり、それが可能なのは、そうではない事態、つまり悪を求めることが可能であるから、
となるので、善悪のある世界でしか信仰は成立しない、という答えになるしかないように思われる しばしば何かのスキルに特化した熟練のプロフェッショナルは、素人では分からない僅かな未熟に痛みや罪に似た感覚を知覚する
この繊細は知覚はミクロに未熟をセンサリングする
信仰深い人間は自己のミクロの罪に繊細な人間とも言い得る
そのミクロな定規の世界から見ると一般的な罪は大海のように見えるだろう
つまり、信仰深い人は罪深さを深く自覚する人でもある
キリストはだから罪人の頭でもある この罪人に信仰のために必要なものは何か
過去、今の私、そしてゴール地点の3つの支点だけだ
過去は悔い改めの事象、今はそれを悔い改める私、ゴールはキリスト 罪深い私がキリストを求めることが可能なのか?
実は欲深さが欺き、実はエゴのためにそれを行なっているのではないか?
という疑いが生じるケースが常にある
そんな中で自身の信仰の正統性をどう証明するのか悪霊に欺かれているだけではないのか?という疑念
この疑念には「大きな光」と「運動」と「信頼」という三つの足場が欠けていると思われる
キリストは大きな光、が信仰
気の遠くなるような遠点でも何よりも大きく輝いている
細部の疑念で神の名を語り自罪を起こすことはあれど、大きな光を求め続ける限り、どんなに遠回りしてもいずれそこには辿り着く
信仰は悔い改めの運動の中に求めるべきもの
自罪を完全に回避することは完全ではないから不可能
だから自己を疑い、監視し、罪を見つけ、悔い改める
信仰とその深まりを悔い改めの運動と捉えると、むしろ日々の自罪におそれる必要はなくなる
信仰に必要なのはその「運動の筋肉」であり、0か1かの結果ではない
信仰はゴールに辿り着くことができることへの信頼
神は人類を愛し、創造には完成形があり、自由意志はそのための道具であり、回り道は信仰を完成させるためにある
神の創造を信じ、人が完全を志向して作られていることを信じ、そのために助力を惜しまない神の愛を信じる
どんなに無理だと感じ、考えられても、神を愛せば必ずゴールに辿り着ける
この絶対的な安心と信頼は信仰だ
この三つの足場があればどんなに欲深く不完全であっても、必ず神の元に向かい入れられる、辿り着く、という確信を持つ >>603
まだしっかりと読んでいないのと、意味が多く含んでいる文脈に見えるのでしっかりと読んだ後で考えてレスします
眠気で頭が回らないのと、回すと眠れなくなるのでw
ただ、知識を求める何かもエゴでありえるし、わき起こる感情の発芽もエゴから来ているという意味を寄与しました
いわく、無意識といわれる存在からの欲求、みたいにぼくはとらえています
いっけん無意味に見える空想の夜の世界と、理想に揺らぐ昼の世界の間は、両者なくしてどちらもありえないようにも思えてならない瞬間があります
あまりに心理に特化しすぎている自覚はありますよ
そして個人的内面の問題でもあると
たまには見方を変えてみるのも悪くないと考えました
おやすみなさい💤 >>594
おはようございます。
レスが遅くなって申し訳ありません。
求道における抵抗感、混乱、挫折は自然なものです。
なぜなら教えは私達のエゴが大切にしている信念を揺さぶるからです。
反対にそうならない場合は、都合の良い部分を委ねてはいるが
都合の悪い部分を委ねていない可能性があります。
エゴの自己防衛本能とも言うべきものですが
これはマタイ13:14のような状況に陥っている状態です。
次に神についてですが、ヨハネの福音書16:12を分析するならば
信仰にとって都合の悪いことは明かされていないと考えられるでしょう。 >>597
浄土真宗さん、後出しのようで申し訳ないです。
お先に失礼します。
コズモスティオスさんに改めて感謝!! >>602
これは創造と最終的に求められているものを
理解することによって考えることができます。
まず生きることは欲望なので
それが創造と調和している場合、基本的に問題はありません。
言い換えれば世界と社会、個人にとっての善なる欲望は問題になりません。
しかし信仰にとって心は重要なので
それが心を曇らせる欲望である場合は問題になります。
次に私達は行為のみすることができます。
私達の行為は必ずしも特定の結果とセットではありません。
私達が自分の支配下にない物事を望むと好き嫌いが生まれます。
これは執着に繋がるので心を曇らせます。
最後に神が与える救いの一つは神と一つであるという状態です。
教えは神を完全な存在としているので、これは私達が悩まされている
不完全さ、制限されているという感覚などを終わらせます。
問題はこの解放は心がオブジェクトとして感じるものではないということです。
神を知り得た上でもしそのような感覚があるなら
私達は神を離れた存在として認識していることになります。
エゴが持つ不完全さは、私達の心に対象を得ることで
幸福や安全を求める傾向を植え付けています。
従って、最終的にですが世界がエゴのこの問題を解決するという
信念は放棄される必要があるというわけです。
欲望の追求は欲望を生むだけなので
この種の欲望はその限界を理解する必要があります。 こんばんは
>>603
なるほど、人格をどうとらえるかによって自己認識が大きく変わってきますね
欲の面を透明にしていく、いわく神の計画にのるような人格、この考え方は現状の認識にとても近い気がします
>>606
誰もが聖霊を宿し、誰もが苦悩する被造物であり、誰もが十字架に張り付けられるような救世主の面を持っているのかもしれない、なんて思いました
>>608
光、運動、信頼、とは、静、動、円、という形而上の内的な世界を引き出せるのかもしれない
信仰に対する考え方をソフィアとして構築できる可能性を読んでいて見たような気がします
善悪のある世界でしか信仰は成り立たない、日常で見落としそうだけどこの世界観は大事なんだと、ぼくは直感的にそう思いました >>611
抵抗感や違和感はあるものなのですね
むしろ高揚感があったりしますが、それが正しいことなのかどうかは、他人の心を体験できないので、普遍的に誰もが持つのか個人のものなのか、具体的に聖句を示してもらえてありがたく思います
>>613
神を自己の中で主体とするか客体とするのか、とても難しいことだと考えています
「神が内に生きている、もはや私は生きていない」、というパウロの言葉を思い出すたびに、光として受肉した内なる神に似た人格を、一つの人格として「対峙」と認識するのか「同化」と認識するのか、
前者は客体であり後者が主体ならば、はたしてどう折り合いをつけていいのか、已然としてぼくの中では解決していない問題でもあります
ですが、救いは神と一つである、という考え方は何か惹きつけられる気分を瞬間的に感じました
最近は、感覚的な超個人の受け方の話ばかりですいません
善悪を持つ人格と、善悪をまったく持たない人格の二重性を意識してはいますが、統合する光がキリストであるのかもしれない、なんて思いつきますが、話を急ぎすぎるのはぼくの悪い癖なのかもしれません >>615
こんばんは。
>>613はあくまで方向性を確認するためです。
信仰の深まりは漸進的であり、本来何年、十数年とかかるものです。
難しい部分、一つであるという表現は核心に関わることなので
今はそういう意見があるくらいに思ってください。
ただテスト勉強のようにやるべきことが明確であれば
自身を持って進むことができるでしょう。
そういう意味でお話しました。 >>616
はい、急ぐと躓きますよね
>>1のスレ主さんのテーゼを考えていこうと思いました >>614
>静、動、円
本当ですね
動が円を描いて静に向かうと螺旋が作られます
>信仰に対する考え方をソフィアとして構築できる可能性を読んでいて見たような気がします
ソフィアは神の収まる場であり行動範囲であると理解してます
もっというとソフィアがないと神は降りることが出来ない
静、動、円をどうソフィアと関連づけてるのですか? 今までの話題からそれますが、ここでキリスト教における救いについて考えておきたいと思います。
救いとはなんでしょうか?
クリスチャンとはイエス・キリストを主と仰ぐ弟子です。主とはload、行く道を教え導いてくれる師のことです。
この世で行く道を知らずに迷っていた人間が、確かな道を示し、我が主と仰ぐことができる師に出会えた事が、救いだと思います。
では、その主イエス・キリストが示してくれた道とはどのようなものでしょうか?
それは、聖書で書かれている全ての内容だとおもいます。その一部は以下のようなものだと思います。
イエス様は、神様は愛の神様であり、被造物の人間を、一人子イエス様のこの世の命以上に愛されていることを教えてくれました。
ですから、この世に於いて、主イエス様のように死を恐れずに、神と隣人を愛する者になりなさいと教えてくれます。
またそう生きた人(できなくても、そうあろうとして主を仰ぐ人)には後の世で、天の御国において永遠の命を与えてくれると約束されています。
その保証としての聖霊を送って下さり、この世での罪の誘惑と死の恐怖に打ち勝つ力を与えてくれます。
私は、この世に於いて、これほど確かな生きる道を他には知りません。 >>620続き
実は愛とは、対象を必要とします。どの対象を愛するかで、同じ愛でも善にも悪にもなれます。
人は神様と隣人以外のものも愛することができます。
自分の栄光・誉れ・富・快楽・欲望や木の像までも愛することもできます。
聖書は、神様を愛することに以上に被造物を愛することを、偶像礼拝と称しています。
サタンでさえも、この世の栄華・繁栄を愛し、神様や隣人を憎んでいるわけです。
Mewさんの言っているように、この世は仮の世であり、過ぎ去るもので、後の世には滅ぼされるものです。
聖書はこの世に執着せず、この世を神様と隣人を愛するための道具として有効に用いなさいと教えています。
この世は目的を達成するための道具であって、目的ではないということです。目的は永遠の命だと思います。
そこで、神様と隣人を愛する姿勢を具体的に教えてくれるのが、質問者さんが上げてくれた聖句だと思います。
この聖句は、エゴに対してどうあるべきか教えてくれます。エゴを単純に切り捨てろと言っているわけではないと思います。
そのへんを皆様がよく考察されており感謝いたします。皆様のさらなるご意見を書き込んでいただければ幸いです。 腐れ神腐れ神腐れ神腐れ神腐れ神腐れ神。クズ神嫌がる事しかせんのクズ神 >>620
救いとは一人よがりな誤った判断から自由になり、
イエスの意思を確認して共に歩むことである。
さて、とある教会で、一度鬱病持ちの男が牧師が無牧ゆえに、過剰に教会業務をこなし、入院して、退院したと聞いた、
しばらく危険だろうね、鬱病の再発は。
このような経過になった理由は、上記の信仰が当人及び、周囲の教会の役職の人達に自覚が無かったからだ。
俺は、その破綻を食い止めようと、一年前にやめさせようと上手に根回ししたが、
今回の破綻に至った。
もはや、温和だが言った内容は、サムエルのサウロ王への破綻の宣告に近い。
俺は、そういう意図は無かったんだけどもね。 すみません ( ;∀;)
朝鮮の戦争が朝鮮学校で学んだ
日帝からの解放戦争は嘘
只の内輪もめと知って吐いた
日本人在日コリアン社会
どうやら嘘をついているのは
我々と我々の前の世代なのか こんばんは
形而上の言葉であらわすしか、ぼくには能力がないので抽象的な言い方になるのは了承してくださいw
>>618
ソフィアは神の知恵、神の霊、完全に永遠なるもの、そして「流失」であるとぼくは理解しています
神が光であるならば、神は霊であるが霊とも言いあらわせない、彼は彼自身を必要としない、生命すら必要としない、万物に先立って在る前に在るもの、完成する必要のないゆえにすでに完成されたもの、つまり光である
と、限定しない言葉が続きますが、「不動」とぼくは理解しています
神が静であるならば、流失した知恵は動であり、受肉が円になり円運動を描くイメージです
人に置き換えるならばそっくりそのまま、そして>>608を引用させてもらって、神(静)より人間が悔い改める運動に聖霊(動)が宿り、その目的を信じることで自由なる意思が信仰へと向かい根本のキリスト(静)に戻る
静から動になり静に戻る円運動を描く
はじめにはじまって最後ははじめに戻る、こんなイメージが、>>614でぼくが書いたソフィア(言葉、知恵、ロゴス)として構築できえるかもしれないという可能性です
なぜなら、人間の内なる意識でこの運動を「知恵」として受け入れることが「可能かもしれない」と思うからです
形而上の構想なので超感覚的な個人の解釈なので、と前置きの通りになってしまいますけど、言葉にするとこんな感じですが、自分で読み返してみて抽象的すぎるようでしたw >>620
うみなみさんの言う隣人愛も今までの話題は繋がるのではないかと感じました
隣人愛って、隣人を自分自身のように愛することだとすれば、他者と自分が同じ人間であるから(そう認められるから)対話でき得るし、同じところで何かを共有しているという意識が前提になければ出来ないことなのかもしれません
キリストがいう、みな神の子、とう聖句の表現が見落としそうな灯台のふもとにある真理だったりするのかも、とも思いました
万物を誰ではなく何であるととらえるのか、そういう問いが潜んでるのかもしれない、という所で>>1の救いとも話題は繋がるののではないでしょうか 前にも少し書いたけど、ぼくは自分の中に善悪をまったく持たない人格を意識したことがあります
どうしてこんなにも自分がモラルや倫理を持ちえないのか、きっと自分が嫌いだったんだと今は感じています
正直には今でもありますけどw
そしたら他者の奔放な態度とか、非道徳的な行為とか無性に腹が立って反応せずにはいられなかったです
運転していてもムカつくことはあるじゃないですか、食べ放題という名のもとにピザの耳のこし放題のやつとかw
そんな感じですw
人間には啓示というか、大きな苦悩によって立ち返る瞬間はあるもんですよね
それによってつぶされる人も多いのは事実ですけど、逆境という雨が地の固まりになることもあります
そういう時に、自分の劣等性を受け入れ、自分に対して多くを許せるようになる瞬間もあるんだと思います
そうなった時、ぼくはぼく自身が許せるようになった、というか、それも自分なのだと同化したのかもしれません
同時に他者もまた「同じ」何かを抱えているにすぎない、だからそういう非道徳的な自分を抱えているのだろうと認識できた時、そもそも許せるというより他者のそういう「行為自体」が気にならなくなりました
許容ではなく人格の同化に過ぎないのかもしれませんけど
隣人愛って、自分をどうとらえるかで相手を「同化」しえる存在かどうか、という問いと同じ意味を持つように思えます
だから>>620のうみなみさんの隣人愛の問題も、ヨハネの神々であるという聖句にあるように人は審判者と救済者の両者の顔を同時に持っているのかもしれない、なんて思いました
ヤバイ覚醒してきた、寝れなくなりそうなのでやめますw
おやすみなさい💤 >>625
大体理解一緒ですが細部が微妙に異なるようです
それは置いといて「流失」に拘りを感じましたら
どんな意味を込めてるのか表現してもらえないでしょうか?
ちなみに、僕はソフィアは知でもあり場でもあり動でもありますが、知=場として理解してます
一方で知=場とは働きの違うソフィア=聖霊の側面もある
それは動で魂から魂へ広がっていくダイナミックな聖霊の側面
この聖霊の二つの側面の差異は、論理的に説明しようと思えばできるのだろうが、完全には分かり切ってない
質問者さんはこの二つの側面の違いと、それが一つの働きであることをどう説明しますか? ちなみに聖霊にはもう一つの側面があって、キリストの光を反射する個体としての自立存在、という側面
これを加えると聖霊の側面の三位一体ができあがる
この三つの側面を理性が納得できるレベルで説明できる人にはあったことがない 発する主体でもあり、他者から他者へ旅する伝播/流動性でもあり、移って作られる環境でもある
どれも無矛盾の聖霊の作用だが、キリストと違うのはヨハネ的な作用である、という点だ
その意味でヨハネは全く聖霊「的」で道を真っ直ぐにした存在だった
そしてその道にキリストが降り立ち奇跡を起こした
それと同様に、聖霊は私に働き、私の中のキリストの土壌を作る
従って、私視点で語ると聖霊=ソフィアとは私の中のキリストを可能にする前提条件であり、他者から他者へ移ろうから私に至ったダイナミックな波であり力、その発信源である存在でもある
私の語る場としてのソフィアは私を経由することから、もしかしたら聖霊の影でしかないのかもしれない
そして隣人のために十全に生きれるようになる時、私も聖霊に連なる存在まで昇華できるのかもしれない 聖霊とは、キリストから見て常に間接的な作用であり、それを作用する主体のことを指す ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています