【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 229
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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※前スレ
【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 228
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1562282500/ また、まちこさんはヘーゲンとイコールにされる傾向がありますが、それは違ってドンゴセットさんという方に一番影響を受けている、と本人が語ってます
その方の書籍の章立てを読むだけで生長の家との類似性を理解いただけるかと
191 名前:神も仏も名無しさん :2018/03/16(金) 09:37:55.82 ID:H7I5FI9g
ドンゴセットさんのまちこさんが言ってる本の見出し
宗教本というか成功哲学みたいな感じ
この中で16章に恐れについて語っているが、これが先日まちこさんがシャロンさんに言っていたことだろう
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告白で人生が変わる
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第一章 口で言うことには力がある!
第二章 必要を満たしてくださる方
第三章 山に向かって言うこと
第四章 「できない」ということば
第五章 沈黙は金か?
第六章 正直は最上の策
第七章 お金のふやし方
第八章 さらにお金について
第九章 悪霊に勝利するための告白
第十章 イエス様の御名の力
第十一章 あなたにもできます!
第十二章 あなたにも起こります!
第十三章 癌の治療法
第十四章 自分の口で言う通りにならない原因
第十五章 語り出しなさい!
第十六章 恐れ以外に恐れるものはない
第十七章 聖霊の偉大な働き
第十八章 神にはどんなこともできる! まちこの間違い
1 キリストは罪とされたのではありません。罪祭とされたの。
日本語訳がそうなってるからといって鵜呑みにしてはいけません。
旧約聖書とヘブライ語の慣用句と用法と照らし合わせなければ正しい意味はつかめません。
2 キリストは神に呪われていません。罪を一度も犯していないのですし、
「父は私が自らを死に渡すことを祝福してくださっている」と
ヨハネ福音書でいっておられます。
罪なきほふられた神の子羊を神が呪うわけないでしょ。
3 したがって、サタンがキリストを地獄に引きずっていき、三日三晩拷問したというのも間違いです。キリストが死後に行かれたのは右の十字架につけられた男に言われた「楽園」(パラダイス)です。 まちこさんの蛇説はコリントの「罪とされた」という一点からのみ演繹されている
このトンデモ主張は「罪とされた」の解釈のみに左右される
であるならば、以下について考慮すれば全ては証明できる
1.そもそもキリストは罪を犯すことは可能か?
→キリストには何の罪もないし、そもそも罪を犯すことができない
(Tヨハネ3:5、Tペテロ1:18-19、2:22、ヨハネ3:5、8:16、ヘブライ7:26、ヘブル4:15、7:26)
2.キリストは罪「そのもの」になったのか?それとも罪を「背負った」のか?
→キリストは人類の代わりに罪を「背負った」
(イザヤ53:5-6、Tペテロ2:24、Tヨハネ2:2、ヤコブ5:6)
3.十字架上の贖罪は「何の」ためか?
→血の贖いによって神と人類を和解させ愛を示すため
(ヨハネ15:13、ローマ5:8、3:23-24、Tヨハネ1:29、3:16、エペソ1:7、
4.キリストの死は霊の死が原因か?
→肉に死に霊に生きたのだから違う
(Tペテロ3:18) >>853の続き
以上を論理で結ぶとまちこさんのぐうのでようのない聖書を元にした正しい御言葉による反論が出来上がる
まちこさんの十字架敗北説は聖書が語る内容と真逆のことを語っている。
キリストは十字架上でサタンの性質、ようするに罪そのものになった、と主張するが聖書ではそもそも、キリストは罪を犯したことがないし、罪を犯そうと思うことすら出来ないと語られている
(論拠:上記1を参照)
十字架敗北説は「罪になった」を「人類の罪を代わりに背負った」ではなく「罪そのものになった」という間違った解釈をしていることが原因
しかし、上記でキリストは罪を犯していないとはっきり語られており、かつ「罪そのものになった」ではなく、「人類の罪を代わりに背負った」とあることから、その解釈が間違いであることがはっきりと記されている
(論拠:上記2を参照)
そもそも、十字架敗北説をとると、未熟なキリストがサタンに敗北したが、地獄で神に引き上げられた、ということになるが、キリストが世にやってきたのは、「血による贖い」で人類を罪から救済するためである
十字架上での敗北は血による贖いの敗北である
その解釈はキリストの存在自体を無に帰す聖書と真逆の精神を導き出す
(論拠:上記3を参照)
また、まちこさんの論拠として霊が死なないと肉体が死なない、という解釈があるが、これは、聖書ではっきりと否定できる
(論拠:上記4を参照)
以上を踏まえて、まちこさんの「強引な解釈が介在しないとそう読めない」十字架敗北説は聖書に書かれている様々な解釈の介在する余地のない御言葉によって否定されるので、間違いである、とはっきり言える
補足:まちこさんの自論の背景
※まちこさんは生長の家の「人は罪人だ」に疑問を抱いていた
※キリスト教は原罪と自罪を分別し、原罪はキリストが贖ったことを認める
※生長の家の疑問を原罪と自罪の混同で解決したからこそ、今のまちこさんの信者無謬説が出来上がった 繁栄派といわれる宗派でよく見られる傾向は、この世での繁栄
(健康・成功・富・称賛等)を得られることが、信仰の証しだと
主張しすぎることだ思います。
この世で繁栄を得られることは、必要だけど、最終目的じゃない
ことを理解していれば、いいと思います。
例えば、二人の病人がいたとします。二人の病人が癒やされることは
神様のみ心だから、二人のために祈って、信仰によって二人が健康に
なったとします。さて健康になった二人が、喧嘩をし、二人共健康な
ために、殺し合いになったとしたら、健康になったのはなんのため
だったのか?ということになります。
この世の健康は、最終目標じゃなくて、この世で隣人愛を実行し、
後の世では、永遠の命に至るための、この世で与えられた仮の富だ
ということに気づく必要があるとおもいます。 ヘーゲンさんは繁栄の神学を生むきっかけになったのだから罪は深いけど、擁護すると、その流れが今みたいな俗物的なものまで堕落するとは想像すらしてなかったのではないか、とも思います
プロテスタントの潮流はカウンターカルチャーで、常に何らかの事柄へのプロテストの衝動に突き動かされる
プロテストする対象(大体がプロテストすべき事柄)が生きている間はプロテストする意義があるが、それが改善されてしまったらプロテストする強調だけが残ってしまう
その結果が唯物主義に毒されたご利益信仰に堕ちてしまうのは皮肉だなぁといつも思う
たしかにキリスト教は「苦」を強調しすぎたところはある
でもだからと言って今のご利益信仰教が正しいとは言えない そうですか。カソリックも現在では改善されて(偉そうにとらないで^^)
プロテストする対象を失った結果がヘーゲンさんの出現の原因の一旦なの
かもしれないですね。
「苦」を強調する派と、ご利益を強調するする「派」ですか、いい視点です
ね。この視点からキリスト教を捉えると、新たな発見ができそうですね。
ちょっと仏教的ですが、苦・楽があって感情がでてきて、メリハリのある
存在になるのかもしれないですね。苦・楽がなければ、無と一緒のこと
なのかもしれないです。もし楽だけの世界だと、楽ってなんだ?ってこと
になって、やっぱり、苦があって初めて、今は楽なんだなって、逆も
またしかりで。喜び・悲し、生・死、白・黒、いろんな事柄は対で存在
しますね。あまりキリスト教的ではないかもしれないですが。
それで対になって存在があるとすれば、後の世もやはり、神様は神の都と
火の池が対で永久に存在するように、計画してるのかな?って夢想です^^ キリスト教の苦と原始仏教の苦は単語は同じですが中身が違う苦だと理解してます
前者は隣人愛に突き動かされた供儀を志向します
原動力は愛です
後者は自身への愛に突き動かされた超越を志向します
原動力は逃避です
原始仏教の苦は方便で、それを語る精神は慈悲ですが、キリストは厳しくて慈悲ではなく、当事者として自分のようになれ、と人類に語ります 重要なのは、キリスト教の苦を正しく認識することだけど
一方でキリスト教は大道、万人のための宗教だから、キリスト教の語る苦が誤解されるのも仕方がない
カトリックとプロテスタントは螺旋を描きつつ切磋琢磨し前進する二つの諸力
二つの力は時代精神と共に、万人のための宗教足れ、と語りながら歩む
唯物主義に毒されたご利益教が力を持てば、カトリックもエキュニズムの文脈で教条主義的態度を改め民に寄り添う
未熟な今に困難があれ、二つの諸力が影響を与えあい、行き着く先が結果として神の御心に叶っていることは言うまでもないと思う
神は悪からも善を引き出すことができる >神は悪からも善を引き出すことができる
ここから聖句を思い出しました。
ローマの信徒への手紙8の28
「神を愛する者たち、その御計画に従って召された者たちには、
すべての事が益となるように共に働くということを私たちは知っている」
こんな賛美歌もありましたね。
讃美歌142番「さかえの主イエスの」
https://www.youtube.com/watch?v=5l44646ksww >>862
カテキズムにカトリックの悪についての基本的考え方がまとまっています
私は正直で誠実なその項が大好きです
また、オノ・ヨーコは世界はよくなり続けている、とオプティミスティックな見解を持論としてますが、僕も基本的にそう思う派でもありますw
---
全能の父であり、秩序あるよい世界の創造主である神が全被造物を配慮しておられるなら、なぜ悪が存在するのでしょうか。
(…)
神は、なぜ、何の悪も存在しないほどの完全な世界を造られなかったのでしょうか。神は無限の力を持っておられるので、つねによいものを造ることがおできになれるはずです。
しかし、神は無限の英知と善とをもって、世界を究極の目的に「向かう途上」のものとして創造することを自由にお望みになりました。
神の計画によって、この生成には、ある存在が出現すれば他のものが消滅し、より完全なものがあればより不完全なものも存在し、自然的な形成もあれば破壊もあることになっています。したがって、被造物が完成に至らない限り、物理的善と物理的悪とが共存するのです。
(…)
神は直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではありません。
それにもかかわらず、神は被造物の自由を尊重して、道徳的悪を妨げません。また、神秘としかいえませんが、そこから善を引き出すことがおできになるのです。
(…)
これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。
これはあらゆる人問の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。
とはいえ、悪が善になるわけではありません。
(…)
また、聖トマス・モアは殉教を間近にして、娘にこう書いています。「起こることは何であれ、神様のお望みなのだ。ところで、神様が望まれることはすべて、たとえわたしたちには最悪に見えても、最善のものなのだよ」。
(…)
ノリッジのジュリアンはこういっています。「神様のお恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、すべてがよくなることを同様に固く信じなければなりません……あなたは、すべてがよくなることが分かるでしょう」。 キリストの本質的な神秘は矛盾の中にある
人類の罪を代わりに贖って罰を受けることで、栄光のからだの恩寵を地上に現出させたこと
神から神が神として最も離れることにより神に最も近いたこと
ゴールから真逆に向かうことでゴールに最も近付く
この矛盾を孕んだ神秘は愛によってなされる事を教えます ケネス・へーゲンとナポレオン・ヒルは深い関係があるそうです。
ケネスと同じ市で同じ哲学を広めていた友人がオーラル・ロバーツ
ふたりともフリーメーソン33階級。
オーラル・ロバーツの師匠が成功哲学の元祖、ナポレオン・ヒルでした。
ヒルは瞑想を日課としていたのですが、ある日、
瞑想中に霊が降りてきたそうです。その霊いわく
「ヒマラヤにある33人会議秘密から下界に支部を作るために派遣されてきた」
そして思考は現実化するという本をディクテートし始めたのです。 繁栄の神学と成功哲学の関係性は2016年に語り尽くされてますよ カテキズム、いいですね。こんなよいものがカソリックにあったとは
目からウロコです。プロテスタントではこれほど整理された共通文書
をもってませんね。
神様は発展途上の不完全な世界(善と悪が混在する世界)に自由意志
をもつ人間を置かれることによって、自由な意思でもって、キリスト
(完成された善)を望み、完成された世界への道を進むように望まれた
のぞまれたってことが、よく理解できる文章ですね。
ここでわたしが、全く分かってないところが、一つだけあるんです。
それは、この世界がだんだん良くなって、最後には神様の御国に至る
のか。それともこの世界はあくまでも仮の世界であって、再臨の時
には、壊されて、全く新しい世界がイエス様によって用意されるのか?
どっちなのか、全く分かってないんです。 >>866
リドビィナさん、貴重な文書箇所ありがとうございます。
(ゲッ英文だ^^;)
google翻訳でなんとか読んで理解に努めます^^ >>868
カテキズムは父なる神とキリストの教えと聖霊の働きを信仰深い先人たちが、私のような未熟な人に正しく理解しやすい形式でシンプルに伝えるために結晶化したとてもありがたいものだと思ってます
歴史深く中央集権のガバナンスが効いているカトリックだからこそできることだと思ってます
(ただし中央集権は負の側面もあることを歴史は語っていますが)
プロテスタントや正教会など一先ず横に置いて、神に誠実で謙虚な姿勢で向き合ってみると益があると思います
>ここでわたしが、全く分かってないところが、一つだけあるんです。
>それは、この世界がだんだん良くなって、最後には神様の御国に至る
>のか。それともこの世界はあくまでも仮の世界であって、再臨の時
>には、壊されて、全く新しい世界がイエス様によって用意されるのか?
>どっちなのか、全く分かってないんです。
僕の理解とカトリックのスタンスでは、前者です
世界は常に創造の「途上」で完成に向けて歩みを続けるもの、だからこそ悪が存在する、と語られています
最後の審判は全ての教派のクリスチャンは信じてますが、信仰が深まると自然にそれらは創造の前では「地続きのもの」みたいな理解をするようになると思われます そうですか、カトリックのスタンスは前者なんですね。
ところが、プロテスタントのスタンはどちらと言うと後者なんです。
新しい天と地がもたらされる前に、古い世界は滅ぼされるってスタ
ンスなんですね。ではこの世界の存在価値は?というと、隣人愛を
実行して、天に宝を蓄えるための準備期間という捉え方ですね。
まあ、どちらが正しいのか?それとも表現の違いはあれ、どちらも
同じことを意味しているのか?もう少し考察してみます。 >>871
その理解はカトリックもそうですよ
僕が語ってるのはその表象を前にして、どう理解するか、という話をしました
崩壊を非連続的なものとみなすか、「創造を前にした時に」「連続的な完成へと向かう歩みとみなすか」みたいな話です
ここら辺から悟性は無力になってきます キリストの贖罪と陰府降下と復活を非連続的なものとみなすか、と似てる話ですね そうですね。崩壊を非連続とみなすか連続とみなすかは、哲学的
問題なのかもしれませんね。本質的問題じゃないってことですね。
連続変化も非連続変化も、変化したということは、古い世界では
なくなり、新しい世界になったということには、変わりないです
からね。 連続変化も非連続変化も、変化には変わりがないってことで
問題は、完全な世界が出現したときには、完全な世界が出現
した時点で、変化は終わるってことですね。了解です。 カトリックも実際は一枚岩じゃないから、いろんな解釈する司祭がいますよ。
日本ではどうか知らないけど。 いや、それを非連続的とみなすか連続的とみなすか、が「創造を前にした時に」本質的な問題だと理解しています
古い世界も新しい世界もないです
今ここで私が変わればそれは新しい世界で、それは古い、新しい、みたいな分断では語り得ない、連続的な変化なのだと思います
この世界が出来る前から存在する子なる神であるキリスト、愛により神から離れることを選んで受肉したキリスト、受肉することで神の御心である贖罪を果たしたキリスト、
神から最も離れた場所である陰府に福音を鳴らすために降りていったキリスト、役目を果たして子なる神でありつつ人であるにも関わらず歩みが復活を生むことを知らしめたキリスト、
これらは僕の視点からは霊において連続的な事柄なのだと認識しています
但し、肉の視点からは、(それを失うから)非連続的である、と認識する人も沢山いるのだろうと思います
キリストは常に肉でなく霊を取れ、と教えます 最後の審判は永遠に続く連続的変化の分かりやすい節目でしかない
それに執着しすぎると足元をすくわれる
重要なのは父なる神の創造であり、堕落した人類に創造への参画の資格と方法論を与えたキリストの生き様であり、それに倣うことにより連続的に変化する個人の世界
ゴールは最後の審判にはなく、キリストにしかない
最後の審判は「私ではなく人類」に関する事柄でしかなく、「私に重要なのは私の世界」だと考えています
ここでいう「私」は全ての「個我」を指しています こういう話になってくると難解になりすぎるから、ここいらで寝ますね
なみさんとなるみたん、おやすみなさいませ なみさんは前からいるし、話せるの知ってますよw
でも、僕の推しメンは質問者さんなのですw わたしの個人的想像では、今の世界は完成された世界の出現に向けて
進歩していくと考えています。その進歩とは、多分この世界がイエス
・キリストの霊によって、良いものと悪いものとに徐々に分離されて
行く事だと考えています。分離度は進んでいきますが、完成以前では
良いものと悪しきものが混在することが許されていると思います。
最終的に良いものと悪しきものとの分離が完成した後には、混在が許
されない世界になると、考えています。神の都と火の海との世界です。
今まで一つだった世界が、完全に分離されて、混在が許されなくなった
時に、神様の想像の業が完成するのではないかと考えています。 >>882
分離はご指摘の通りで必ず起こります
でも、その「分離」の単語の意味合いは、我々人類の善悪の認識において、です
我々の認識は存在性のステージにおいてマクロでフラクタルに成熟します
父なる神の創造は、むしろそれにより、「よりよき善を生む」であり、その完成は「完成された善しかない」だと私は予感してます
その意味で最後の審判の崩壊も途上でしかない、が僕のリアリティです
また今後、対話させてください
今度こそおやすみなさいませ うみのなみ
うみのなみのように漂ってるならまだしも
サテーの悪の重力に引き寄せられて、
堕ち込んでいってるわ うみのなみ
「自分の意見と違うものは皆『誤解している。』」 「あなたは間違っている」
「あなたは誤解している」
ただの表現の違いなのか。
ニュアンスの違いに過ぎないのか、
それともっと大きな違いが潜んでいるのか? サテーの悪の重力に引き寄せられる者たちの共通点とは何か? おはようございます。
十字架は敗北だ、と一体誰が言っているのですか?
大雨がきたら、台風がきたら、地震がきたら、火事になれば、
病気になれば、 事故にあえば、
誰しも、それを避けようととするではありませんか。
天災であれ、人災であれ、不幸や苦から逃れようとします。
なぜ、無事を祈るのですか?
イエス様は、みんなの当たり前の無事への願いにこそ
応え、具体的に救われています。
津波がくれば、わけのわからない観念分離で周辺を
脳内徘徊している人たちは、
一番、速く高台に逃げることでしょう。 あの世でも、死んでからも 幸福を得ようとする
最も欲深な、クリスチャンが、何をかいわんや。
誤魔化しの衣装をはおらなくても良いではありませんか。
神は、お見通しですよ。 キリストの十字架は勝利のシンボルです。
主を殺せたものは誰もいません。
主は生死を支配する神の権利を行使して
自ら十字架につけられ、自ら死に、
民をあがなうその死をもってサタンに勝利し
自ら復活したのです。
十字架を忌まわしい蛇と呼び、
罪に覆われた穢れた象徴とさげすむ馬鹿は死んでください。 イエスは罪人になりました。
罪人は最も過酷な十字架刑で、言葉にならない激痛を受けます。
イエスは、罪人ではないけれど、罪人となったから、
絵空事でない、リアルを受苦されます。
「自分を救ってみよ」の放棄。
罪人になったのです。
イエスが罪人になることのとてつもない深い愛は、
冤罪の肉体側面の苦痛だけで終わるなら、
キリストと言われる、
霊的にも救いをもたらす大転換が可能だとは思えません。
肉体と霊への拷問、これはもっとまじめに考えた方が
よさそうです。
わたしは、ヘーゲンさんや繁栄の神学をしりませんが、
自分に向き合い、世を観察して言っている立場です。 ヨハネ
10:17
父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18
だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。 まちこは何度も読みなさい
父が御子を呪ったのか愛したのか、わかるまで。
↓
ヨハネ
10:17
父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18
だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。 >>897
ご自分のことですよ、ナルミさん。
このような卑怯な逃げ方を、いつもしますね。 ゴリラは日本語が通じないので>>849を読んでもうんこを💩投げ続けるのじゃろうて >>890
おはようございます。
十字架は敗北だ、ではなく、十字架で終わったら敗北なんです。
どうしてかというと、そこで終わると聖霊も送ったくださらない。
神様への私たちのための仲介役にもなってくださらない。
また、神からの相続財産も私たちはもらえない。
と言うことです。 十字架って贖罪を指しますな
贖罪で終わったらまちこさん的に敗北らしい
そう個人として思うのは勝手だけど
一人でやっとけとは思う 教義の詳細、正確な理解の違いなどをもって、人間が審判で裁かれるとは到底思えない。
神様が審判で問題にするのは、専ら個の心の浄不浄や善行悪行でしょう。
人間とは居丈高になってま結局は弱き者に過ぎない。それを基本とした上で人としての生の試練とはどこまで隣人に心を砕くか。
そこを神様は見ているでしょう。
その点でまちこさん等は、基本丁寧ですよね。教義云々の子細はともかく(おいらは知らないケド)、神様はまちこさんの人格を見るでしょう。
教義の詳細に正確な理解は、学者がこの世において勝利します。
ですが、神様はその人間の勉強量でなく、諸々の振る舞い、隣人への態度、聖書への至誠を見るでしょう。
もし仮に、教義の詳細に正確な理解が『良い実』とされるというなら、後世に生まれるほど良い実を結ぶ(笑)ことになるし、
キリスト教圏に生まれただけで、「ラッキー、救われる」となってしまう。
そして個人的な資質が学者に近ければ近いほど、義となることになってしまう。笑うべきですよね。 聖霊は、私たちを助け、弁護し、慰め主です。
イエス様は、天に上られるときに、あなたがたを一人にしないと、言って、上られた後に聖霊を送ってくださいました。
そう聖霊が私たちを助けてくださっています。
ハレルヤ! >>900
> ゴリラは日本語が通じないので>>849を読んでもうんこを💩投げ続けるのじゃろうて
他人を悪しざまに嘲り、見くびる時点でアナタは【キリスト者として破綻している】ばかりでなく、人としても破綻しています。
サチエさん、女性コテを侮辱をすることをやめましょう。 ✝「主は遠くから彼に現れた。
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに/真実をつくしてきた。
https://www.bible.com/1820/jer.31.3.口語訳」
エレミヤ書 31:3 口語訳 >>905
男女差別キモい
5chに何求めてんの?w 十字架蛇教もひどいが、輪廻河童教もそこそこひどい。 >>907
面白い、男女差別しているのは、あなたですよ。 うーん、日本語通じないずは何言ってるのか意味がわからない 教義のこの世的な理解(≠霊性からの直接理解)は知力に依拠し、勉強量に比例します。
ですが、彼・彼女が真にキリスト者かどうか、隣人愛の実践者かどうかはその口舌でもって量られます。
それは他人に対する態度(丁寧さ)でもわかります。
粗雑で暴力的な他者を軽んじる態度を、誰が看過するでしょうか。
他者を説き伏せる説得力というものは、そういった諸々の人間的要素をも含むのです。
知力(?)や勉強量では他者を論破できても、説得はできません。
他者に自分を良く振る舞って見せたところで、【お里が知れる】からです。 男女差別の原因は聖書。
もともと女子供を差別しているのだが
その中でも特にひどいのがパウロ。 >>911
たろくんよ、それが本当なのであれば
まちこが異端カルトであり
シャロンさんが心配して愛からアドバイスしているのがわかるはすだ。
しかる
たろくんとうしおくんと月見君は異端カルト側を擁護している
キミたちはダメだ >>907
相手の女性コテを侮辱し、得意になるのはやめましょう。 >>914
うんうん、たろちんは女性コテに拘ってるのね
それは凄く伝わってきたからもう主張しなくてもおけ
大爆笑である >>913
まちこさんの派が傍流かどうかは詳しく知りません。
ですが、異端であるかどうかは隣人愛が一つの基準となるでしょう。 >>916
キミの論は、実を見れば本物かどうかわかるというものだろ
まちこの実はなんだ?
・娘のアコムちゃんは、消費者金融借金で破産
・信者のお隣さんは、若死に
・商売(ラーメン屋)は廃業。
・年何経っても、何十年経っても教会堂建設はできず 169 名前:たろ ◆Lxb2nzo/aQ [sage] 投稿日:2019/07/18(木) 15:53:14.10 ID:euQZysGd [3/4]
マナーを示したのでなく、自尊心を傷つけられ対抗して、それでも解消されず女性コテに八つ当たりをしたダケですね。
それは初心者以外にはわかります(笑)
サチエさんは子供の様にすぐ悔しがる体質で、これはキリスト教系スレでは衆知の事。
承認欲求にまみれるも満たされず、己の幼児性に悩まされるがゆえにパワハラをする。
挙げ句の果てには女性コテを追いかけ出し、毎度毎度、相手にされずに終る。
また、背伸びをして仲裁役を買って出るも性格に難があり、包容力なく、いつものごとく頓挫し、邪魔者扱いされて嫌がられる。
あたかも己自身とあがき回る思春期のように、儚くも哀しい大人、それがサチエさん(笑) 658 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/07/19(金) 09:25:05.92 0
ハイルサティ >>901-902
イエスが、十字架で処刑されたで終われば、
無実の罪で処刑された冤罪の人がいて、
それを、ゆるされない事だと感じる人がいたとしても、
それを持ってしてサタンに勝利したと、言わないでしょ?
この世の、大衆の欲望、愛の無さに負けた、=敗北
では、ありませんか。
そこから、学ぶことがあったとしても、
そういうことでなく、負けていない
勝利したと言えるのは、復活があったからです。
冤罪処刑だけならば、みんながっくり肩を落とし、
敗北を胸に、よくてもそこから誰かが又奮起するしかないでしょ。
何を理解できないで、そのような事を言っているのですか?
イエスの復活がなければ、勝利とは、言わないの。
なぜ、わからないの? 霊性の最上の神の子であるし、贖罪意識(使命)を持って死んだのだからという理解なのでは。 >>921
何言ってるかよく分からないけど
>>890
>十字架は敗北だ、と一体誰が言っているのですか?
答えはまちこさん、は理解できました?
理解できたらなるみさんきゴリラ風情が人間様の会話に横入りしてすみませんでした(ウホッ)と謝りませう >>923
> 理解できたらなるみさんきゴリラ風情が人間様の会話に横入りしてすみませんでした(ウホッ)と謝りませう
サチエさん、他者を軽んじ、嘲って笑うのはやめましょう。
それはキリスト者(宗教者)の取るべき態度ではありません。 統一教会のおばさん、
十字架の死をもって
主は『完了した』あるいは『こと終われり』と
終了宣言されたのですよ。
何が終了したんですか。
何を完了したんですか。
何が終わったの?
主が降誕された目的、人類のあがないですよ。
ほかに何があるって言うのよ。
復活は付けたしですよ。人間がその目で信じられるためにです。 復活は復活でめちゃ意味がある
十字架は贖いだが、復活は贖いの先にあるゴールの提示だわな
贖罪により罪は贖われ、罪の不可避の重力から自由になり、自由意志で神を選ぶことが可能になる
その道の先に復活がある まちこは宗教板から出て行きなさい。
異端が正統のふりするんじゃないわよ。
ふざけんなっての まぁ、人間の通常の価値観から見たらキリストの十字架は敗北に見えるだろうが、神の価値観からみたらそれは勝利だ、みたいなことを教皇もキリスト教も語る
まちこさんは人間の通常の価値観から見たキリストの十字架観だよな
別に個人の解釈は自由だから勝手にやればいいけど、そのトンデモをキリスト教の通常の解釈として、自称牧師の立場から語るのであれば罪は深い >>926
アーメン 成就したと宣言されましたものね
>>928
それ、言い過ぎ
まちこも悔い改めて、カトリックに行けばいいのです 繁栄の神学者の子供に自殺者が続出してますね。
オーラルロバーツの息子は車の中でピストル自殺
リックウォレンの息子も自殺
子供は親に死をもってしか抗議できなかったということですよ。
そこまで子供を追い詰めてTT >>927
パウロは、ただただ死ぬのが怖かったので、
「復活がなければずてがだいなしだ」と言って
自分だけは生きたまま携挙されると信じていたが、
最後はエルサレム教会から告発されて逮捕。
エルサレムで処刑されるところを死にたくないので
「ロマ市民権」を振りかざしてロマでの裁判を主張。
仕方なく、ロマに護送されるが途中、船が難破。
エルサレム教会に献金するはずの金を使い果たし、のたれ死に 牧師の自殺と教会の沈黙(1)悩ましい統計、沈黙する教会
https://www.christiantoday.co.jp/articles/25373/20180329/churches-mum-on-troubling-clergy-suicides-1.htm
パーカー牧師が亡くなった数カ月後の14年4月、今度はノースカロライナ州ハイポイントにあるコミュニティー聖書教会のロバート・マッキーハン牧師が自宅で首をつっているのが発見された。マッキーハン牧師はパーカー牧師と同じ42歳で、2児の父親でもあった。
しかし、牧師の自殺はこれだけではなかった。
過去5年間に、驚くべき数の牧師たちが自ら命を絶った。しかも、自殺率は全米規模で高まりを見せており、それは幾つかの聖職者のグループでも見られていたが、多くの教会はこの問題について沈黙したままだ。
パーカー牧師の自殺から3週間後の13年11月にはエド・モンゴメリー牧師、さらにその3カ月後にはアレン・トミー・ラッカー牧師が自殺した。
そしてその2カ月後に起きたのが、前述のマッキーハン牧師の自殺だった。
またそれから1カ月もたたないうちに、D・B・アントリム牧師が自ら命を絶ち、その3カ月後には、ウィリアム・ビル・スコット牧師が妻のシャーロットさんを銃で殺害し、自らも銃で自殺した。 >>923
考えてみてください、言葉の意味をしっかりと。
イエスが、十字架で処刑されたで終われば、
無実の罪で処刑された冤罪の人がいて、
それを、ゆるされない事だと感じる人がいたとしても、
それを持ってしてサタンに勝利したと、言わないでしょ?
この世の、大衆の欲望、愛の無さに負けた、=敗北
では、ありませんか。
そこから、学ぶことがあったとしても、
そういうことでなく、負けていない
勝利したと言えるのは、復活があったからです。
冤罪処刑だけならば、みんながっくり肩を落とし、
敗北を胸に、よくてもそこから誰かが又奮起するしかないでしょ。
何を理解できないで、そのような事を言っているのですか?
イエスの復活がなければ、勝利とは、言わないの。
なぜ、わからないの?
901まちこ ◆8ZfsvidDB5y4 2019/07/19(金) 09:05:09.56ID:cmAOPEDK
>>890
おはようございます。
十字架は敗北だ、ではなく、十字架で終わったら敗北なんです。
どうしてかというと、そこで終わると聖霊も送ったくださらない。
神様への私たちのための仲介役にもなってくださらない。
また、神からの相続財産も私たちはもらえない。
と言うことです。
902神も仏も名無しさん2019/07/19(金) 09:06:25.49ID:EKOj9kgi
十字架って贖罪を指しますな
贖罪で終わったらまちこさん的に敗北らしい
そう個人として思うのは勝手だけど
一人でやっとけとは思う >>935
あほう
ヨハネ
19:30すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、
「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
↑
終わったと訳されている語は「成就した」という語だ ナルミさんのように、統一教会だとか、
サティさんのように、ゴリラだとか、
そういうことを、人にいわなければならないのは、
ご自分の意見が正々堂々としていない、姑息であるからです。
嘘があって誤魔化しているからです。 ウシオ君が一番誤魔化しているやん
「終わった」とイエス様が云っているのに、屁理屈かましているやん 贖いが完了したという意味や
後は、イエスの十字架の贖いをしんじて救われるか
イエスの十字架の贖いを蛇だの、遺産を貰えないだのと難癖をつけて信じず
地獄に墜ちて焼かれるか
本人次第だ。 んなことはない。
俺はイエスに会ったし、使徒も聖徒もその後、イエスにお会いされている。 「テテレスタイ、完了した。」(ヨハネ19:30)
このテテレスタイというギリシャ語は、「完了した」と言う意味ですが、過去と現在と未来に及ぶ、「完了」
「すべてが終わった=完了した」という言葉は、ギリシャ語で「テテレスタイ」といい、「完成する、約束が成就する、債務の支払いが完了する」という意味です。
☆この、イエス様のお言葉から、まちこさんの間違いは明らかです。
悔い改めましょう。 んなことは書いていない。
勝手な想像で話を枉げるな、あほ >>937
いえ、復活がなければ そこで終わりです。
復活したイエスに接したことが、死後直後の弟子たちにとって
極めて重要でなければ、
信仰告白でも、三日目によみがえった事を入れませんって。
どこかのおじさんが冤罪処刑されました、ではありませんし、
十字架でことたりるのだあれば、聖書の記述の
そこの記述で終了すればいいのですよ。
成熟されたと、あなたがた言うように、納得があるのなら。
現実的な意識に戻って考えてください。
口先と頭だけで浮遊しないで。 うしおは知らんだろうが
本物のマルコには、復活はなかった。
復活は後代の追加だ >>947
マルコ
8:31
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32
しかもあからさまに、この事を話された。 ×成熟
○成就
>>941
そうです、考えれば、わかることですよね。
この前も言いましたが、
受肉体としての仕事
復活体としての仕事
昇天後の聖霊降誕の仕事
神の御業は、人に見えないで良いのなら、
イエスは、わざわざ、このたび、
その時、受肉する必要はなかったのですから。 >>947
甲賀流さんは、もともと、聖霊での受胎や
イエスの復活はなかったという、お考えですからね。 >>949
いいえ、違います。
イエス様の贖い、身代金の支払い、代価は十字架上で完済された、支払われたのです。
地獄で苦しんで贖うというまちこさんの主張は成り立たないのです。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。