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--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/06/13(木) 09:52:06.35ID:omIq6Dlw
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
  10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0841神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/25(日) 19:08:15.28ID:ysc3mnoQ
>>839
はい、そしてリンク先の原文では私はあくまでAhaṃであり、我attā(梵語だとātman)ではないんですよね。

アーガマで定型句となっている

比丘たちよ、◯◯は無常である。
無常であるから苦である。
苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。

はつぶさに見ていくと

わが所有 もの 「私のもの」(パーリ語: mama मम)
我 「私」(パーリ語: ahaṃ अहं)
わが本体 「私の我」(パーリ語: me attā मे अत्ता)

あくまで2番目の私ahaṃまでは阿羅漢は言い得るのであって、流石にattā(ātman)は言うということまで慣用句であるから言ってもよい、とまでは説いてないようです。

従って

 『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』
(『ブッダ神々との対話』)

という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。
この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。
0842神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/25(日) 22:17:32.11ID:LRORolkh
取り敢えず、宝珠自身の言葉から、一文引いとこう。
*(ここまで【私の】意見を解ってて、まだ言うか?って感じだけど・・w)


http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533070464/488
> 『言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである』>> 463
> セブンは、この後半部分を指して、ただ言葉上での仮の表現に過ぎないのであって、
> だから、それはアートマンが在るという意味などではない。
> アートマンが無いから言葉の表現を使っているだけだ。
> もしも、本当にアートマンが在れば、ゴータマはハッキリ「在る」と断言している筈だ。
> という見解でしょう。
0843神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 00:27:41.95ID:MMTl81Tv
普通にブッダのアーナンダとの間の会話だと
「無我」
が当然の共通認識としてあるので、
「なぜあの外道に無我とはっきり言わず、無記だったのですか?」
と言われて
「外道がショックで錯乱するから」
と、相手に合わせた対機的対応だったというやり取りがあったのだから
無我でFA
0844宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/26(月) 03:36:05.36ID:Hd52MlUd
>>818
>つまりブッダは存在と非存在の中間の状態即ち空に永遠に止まる選択をしたのだと思います

「空」というのは、現象界(有為)には固定的な恒常性はないことを一語で表現したものに過ぎない。
その現象界(有為)の諸性質の支配下から解脱した境地が無為である涅槃なのであって、
自己の意識がその涅槃に永遠に住しているのが如来(ブッダ)です。
従って、まだ生存中であっても意識が現象界の支配を受けないならば有余涅槃ということになる。
そして一度、涅槃の到達した者は肉体崩壊後もその境地から堕ちることは二度とない。
なので、現象界が「空」であることを悟るということと空の中に永遠に住することとは意味はまったくことなる。
無為法が空といったのはすべてアビダンマの間違いです。

「空」とは有為のことであり、それは無我性のものだということ。
そして、それは“一切に限定されたもの”のことです。
そのことについては、『仏教要吾の基礎知識』(水野弘元著)に明らかなのですが、
また話題に上げられている一代による最高の推奨本がこの『--要語』なのでした。
ただし、あの方は自分が奨める本が自分の主張には不利な内容のものであることすらも理解できてはいませんでした。
どうしてもテーワワーダに洗脳された色眼鏡で読むから分からないのですね。
あの方の推奨した本は、その殆どが自分の間違いを指摘した内容となっていたことすらも分からず誤読ばかり。
まずは、「一切」について正しく理解しないことにはすべて誤読に終わるだけです。

>空の中に於ては全ては空なのでどれとか彼とかの代名詞が全く通用しなくなり
>自他の区別も生滅も無くなるから何の不安も無くなるという事でしょうね

自他の区別や消滅がなくなるのは無為である涅槃です。
「空」は有為に限定された話です。これが分かっている仏教徒はいったい何人いることやら...。
般若心経の“色即是空/空即是色”がそのことを端的に表現している。
空とは「色」(物質、及び物質的現象のすべて)に限定されたものです。
それ以外は含まない(涅槃は空ではない/それはアビダンマの間違いだ)。
0845宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/26(月) 03:37:07.28ID:Hd52MlUd
>>809
>世俗諦を超えたところに空である勝義諦がある

どうして... こうなるのかな?
“空とは素晴らしいもの”という誤解に陥っている平均的な仏教徒たちというのは...?
「空」とは“価値の無いもの”のことです。

なので、
涅槃は空だとか、如来は空などといっているということは、
それらはすべて無価値だと自ら宣言してるも同じこと。
『中論』も空だ、龍樹も空だ、空の教えも空だ...は、
これらは無価値なんだと自ら宣伝してるも一緒です。
0846宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/26(月) 03:37:43.17ID:Hd52MlUd
>>841
>という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。
>この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。

いや.だから...
ならばどうして、ブッダはわざわざここで断り説明をしたのです?
ただの阿羅漢、応供でいいならば今更、何のための<<仮に>>なのですか?
それはどうしても<<仮に>>と、付け加えておきたい言葉で表現したからではありませんか?
そもそも元々、すべての話が真理そのものを指し示すことは不可能だと教えていたのがブッダの教えの筈でしょう?
それなのに何を今更、<<言語表現としては>><<仮に>>などという但し書きが必要だったのか?

ですから、
その部分を含めた全体のニュアンスが重要なんであって、
だからこそ中村氏はそのことを的確にとらえて表現したのです。
0847宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/26(月) 03:48:29.88ID:Hd52MlUd
>>813追記:
---中村氏については---

普通ではとても信じがたいような『佛教語大辞典』の原稿紛失の凄いエピソードがある。。
もしも、これがこの私だったら19年間を費やして完成した原稿がゴミと間違われて捨てられたとなったら、
「この私の19年間の人生を返せ!!」といってその人の首を絞めていたと思う。
けれど中村氏は、「怒ったって出てこないでしょう」といって間違ってゴミに出してしまった出版社を決して責めなかった...。
そして、原稿を紛失した出版社名を終生明かさなかった。これは常人にはとても真似ができることではないと思う。
私がこのエピソードを初めて知ったときには、どうしても自分の目頭が熱くなるのを押さえられなかった...。

中村氏は、書き直したものはもっと良いものができたといってるけれども、これについてはこの私も何度も体験していることでして、
一昔以前のPCというのは、「上書き保存」をクリックする前に瞬停電とかするとせっかく苦労して書いた原稿が瞬時にして消滅しました。
私は仏教関係の投稿を始める以前の約十間年は、地震予知に関する研究をしてきており、それで学者ら相手に掲示板やML上で議論をしてきた。
6時間とか〜数日間、物事を調べながらやっと書き上げたものを何度も無くし、その度にまた新しく書き直すという体験をしてきた。
その度に経験するのは、一度書いてることで中身はほぼ脳裏にはあるので、書き直したものの方が更にもっといいものが書けるということ。
ただし、その分の時間と労力が膨大に失われてしまう...。そのことに睡眠を削って没頭し、体がボロボロになった。
0848宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/26(月) 03:49:08.45ID:Hd52MlUd
 『中村が常に心がけていたことがある。原始仏典の翻訳に際し、平易で明確であることである。彼は常用漢字以外は使わず、大和
言葉で訳すことに努めた。「インドにおいて釈尊の教えは、誰にでも理解できるものであった」からである。そうした信念で取り組ん
だのが、『佛教語大辞典』であった。これが完成したのが1967年、19年の歳月を費やした。2百字詰め原稿用紙約4万枚に約3
万語が収録された大作であった。リンゴ箱に入れて出版社に持ち込んだのであるが、あろうことか、出版社がその原稿を紛失してし
まったのである。社の移転騒動の中で、ゴミと間違えて出されたしまったようなのだ。
 1ヶ月ほど、呆然として何も手につかなかった。中村は当時を振り返り、「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがした」と
語っている。そんな夫の姿を見て、妻の洛子夫人が言った。「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどう
ですか」。また、友人の篤志家が、やり直すための費用として多額の私財の提供を申し出てくれた。こうした声に励まされて、中村は
不死鳥のごとく甦った。1968年1月、やり直しの作業を開始するのである。そして8年後の1975年2月、ついに『佛教語大
辞典』が刊行された。着手してから27年の歳月を費やした労作となった。
 語彙は4万5千に増え、分量も倍以上になり、難解な仏教用語が分かりやすく表現された。これが大評判となり、毎日出版文化賞を
受賞した中村は、次のように言った。「やり直したおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となり
ました」。しかし、これで終わりではなかった。84歳の時、中村は「あれはまだ不本意です」と言って、改訂作業を開始した。彼に
は「終わり」はなかったのである。一つの完成は、次の「始まり」に過ぎなかった。中村はこの改訂版を見ることはできなかったが、
彼の死後、弟子たちが師の遺志を受け継ぎ、2001年に『広説佛教語大辞典』として完成したのである。』
 http://ifsa.jp/index.php?Gnakamurahajime
0850神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 06:33:02.52ID:BMCg6d5v
SN.1.3.5 arahantasuttaM(世尊の偈の部分)

比丘にして羅漢たり、煩悩尽きて後有無き者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語れと言い得べし。
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。

我慢を捨てて縛られず、あらゆる慢心滅びし者は、
思弁によらぬ智慧ある者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語れと言い得べし。
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。
0851神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 06:33:59.35ID:BMCg6d5v
片山訳まだ届いてないけど、835リンク先で、
「mamaM」のモヤモヤがスッキリしたw
てことで、
間違いあるかもしれんけど、語呂善くできたので一旦書込み。
0852神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 07:29:59.16ID:ExOw15Bs
>>845
>>693
0853神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 08:33:05.88ID:ExOw15Bs
>>844
>自他の区別や消滅がなくなるのは無為である涅槃です。
>「空」は有為に限定された話です。これが分かっている仏教徒はいったい何人いることやら...。
>般若心経の“色即是空/空即是色”がそのことを端的に表現している。
>空とは「色」(物質、及び物質的現象のすべて)に限定されたものです。
>それ以外は含まない(涅槃は空ではない/それはアビダンマの間違いだ)。

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

空においては自他の区別も生滅もないことは般若心経にもはっきりと書かれていますよ。
この識別作用がなくなることを無分別智と称するはずです。

あるいは仏教での無為というのもこの無分別智(識別作用の消滅)によって作られたものという概念がなくなるから無為なのかもしれませんね。
これは自分の憶測ですが。
0854神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 08:35:13.54ID:ExOw15Bs
>>846
>ならばどうして、ブッダはわざわざここで断り説明をしたのです?

ウダーナみたいな自説ではなく、神からの問いへの回答だったからでしょうね。
ですから神に誤解が生じないように断り説明をしたのだと思います。
0855神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 09:35:42.44ID:BMCg6d5v
横から。

>>846>>854
後にまた触れるかもしれんが、
たとえば隠居の如く、たとえば紐の如く、たとえば過去哲板の最高位の如く、
或いはその他、極々一般の多くの人の謂いとして、(或いはデカルトか・・?)
 「ほら、≪私(我)≫って言ってるじゃん。」
 「≪私(我)≫が、〔そこ〕に、〔居る〕じゃん」
 「≪私(我)≫が無かったら、思考も、発言も、行動(行為)も無いじゃん」
 「貴方の肉体がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
  『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
という意見を斥けねばならないからなんだけどね。
そのように社会の中にある時は、
「その社会の中の一員として」、「大勢居る中の誰それ」、ということが
「互いに」「特定」できなければならないので、
その為に、自称するし呼応するのだ、と。
けれどもそれは、絶対永遠ではないよ、と。


※上の「肉体」を「魂」や「霊魂」或いは「識」或いは「アストラル何ちゃら」、或いは「真我」、
 などと言い換えても何も変わらない。
 >「貴方の○○がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
 > 『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
0856神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 09:37:43.80ID:BMCg6d5v
あ、少し修正
>けれどもそれは、絶対なるもの永遠なるものではないよ、と。
0857
垢版 |
2019/08/26(月) 10:13:21.78ID:BMCg6d5v
だから、
極端な作業として上記相応部の一文に少し手を加えるなら、
>最後身の保持者となったとしても、鈴木さんは『鈴木は言う』と言い得る。
>また田中さんはは『彼らは田中へ言う』と言い得る。

>「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった佐藤さんは、
>『佐藤が語る』と言ってもよいでしょう。
>また『人々が〔これこれは〕〈佐藤のもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。

というのと同じ。代名詞だから。
一人称で自分の名前を言うことは女の子には多いけど、
名字を使うことは、まず無い。軍や体育会系でも「自分は、○○であります!」「自分にやらせてください!」
などはあっても、名字を自称することは限りなく稀。
ビジネスシーンでは、多くのスタッフ、社員の中の「その件は、(わたくし)木村が担当致します」
などということがあるだろうが・・。

鈴木さん田中さんが、絶対・永遠(なもの)でないように、私もまた絶対・永遠ではない。
0858神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 13:13:48.66ID:H1NbNM0m
>>844

空をエネルギー 色を物質として考えた場合 物質は密度の高いエネルギーで有ると言えます

その物質の密度を上げない様に保てばエネルギーのままです

アビダルマは正直 余り読んでません

龍樹の小乗批判から推測する程度です
0859神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 14:14:42.07ID:ExOw15Bs
>>844
>なので、現象界が「空」であることを悟るということと空の中に永遠に住することとは意味はまったくことなる。

ダンマパダ

7 阿羅漢の章

7.3 ベーラッタシーサ長老の事例

92.(92) 彼らに、蓄積“たくわえ”が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら
――彼らの、解脱の境涯が空“くう”にして、かつまた、相“そう”なきものであるなら――
彼らの境遇(趣:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔足取り〕のように、捉えどころがない。


7.4 アヌルッダ長老の事例

93.(93) 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら
――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら
――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-2.html

中村元の訳だと

第七章 真 人

92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。


どの道>>693の経典からも解脱した者は空の境地にある、空に住する、とブッダは説いているように思えます。

あと補足として有名なスッタニパータの詩偈

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
0860神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 19:38:32.44ID:8+s5tiqU
いい加減、聞く耳持たない、自分の意見を一方的に押し通すことしか頭にない相手(宝珠)に、何を言っても意味ないって分かんないのかな<<セブンほか

日本の製造業が、ただ、良い物さえ作る努力してればいいなんて、作り手視線に胡座をかいてやがて消費者側のニーズを無視したツケがきたわけだけど
聞く耳持たない相手に、ひたすら自分らの反証の示し方(論文)の補強を計る
日本製造業の驕りと同じ愚に陥ってんじゃないのかと

全くニーズの有る無しに関係なく、自分の供給者としての動作をどう工夫するかしか考えが回らない

10年超の平行線の片翼を担ってる

真っ直ぐ斬り込んで「この悪魔憑きの仏敵が!」って言えば済むだけじゃん

聞く耳ある人間に一人でも多く仏法を広めるために、有意義に時間労力を費やすべき
0861神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 21:03:55.90ID:BMCg6d5v
まあ、
自分の遊興余興になっていることは否定はしないけどw  >>860

それでも、
(調べ直したり、スルーしてた部分・興味なかった部分にも目を遣ったりもあって)
自身の頭の中の整理には、ものすごく役に立った面がある。
新たな発見があったりとか、目から鱗とか、腑に落ちるとかも。

また、家庭教師のバイトもそうだろうけど、学校でも生徒同士で互いに教え合うような授業もあると思うけど、
そのように、人に教えるには自分がちゃんと理解しておかないといけないから、
改めて勉強し直す感じにもなるし、なんとなく雰囲気で知った気になってただけで、
実はあまり理解していなかったことに気付いたりとか、学生時代以上のwプラクティスになってる面もあったりw、
机の上や、引き出し本棚を整理し直すみたいに、自分の中での理解が整頓された面もあるし、
そういう意味では、(一代だけでなく)宝珠にも感謝するし、過去の(他の板も含め)種々の論客や会話相手にも
今振り返ってみれば、感謝すべきだろうなと思うし。

(つか、このシリーズを立ち上げた宝珠への感謝レスは、過去何度か書き込んだことがあるな・・・w)
0863神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/26(月) 23:39:36.40ID:BMCg6d5v
>>862
馴れ合いというか、
マジで、学生時代より勉強したなぁ・・という感慨。
(特に、宝珠在家隠居等相手の時w)
0864
垢版 |
2019/08/27(火) 17:13:51.56ID:4gJVq61J
涅槃(ニルバーナ)は必ずしも死後世界の事ではなく、生きている間において
体現できるものであるらしい。仏陀の言う五戒を守り八正道を実践し生きていれば
涅槃を体現出来るものらしく、現に仏陀がこの点について質問されたならば、その回答として
(仏陀活躍当時で〜)在家の男女であっても数百人以上の人間が涅槃を体現した〜というのがある。
しかし、現代においては、僧侶に籍を置く人間であっても涅槃を体現しない。
そもそも、己が涅槃を体現した事をもって他者をも救おう〜というのならばまだ話は分かるが、ww
己が涅槃を体現していないのに他者を救おう〜というのは、こういうのであっても、いわゆる大乗仏教と言えるのか?w
ギターを演奏できないのにギターの先生になって生徒を教える〜なんて馬鹿げたギター教室と同じだろうw
だから、世の中の涅槃を体現出来ていない僧侶で住職など言語道断であり、こういう連中は全員降格で単なる修行僧-雲水
とするべきだろうなあ。

世の中が、こういう形骸化した仏教を切り捨てるのも時間の問題だろう。
とはいえ、葬儀(に伴う戒名や読経)、法事などはまだ急に無くすわけにはいかないだろうから、一律、一個1万円〜
とかなる日が来るだろう。葬式で読経してもらって戒名書いてもらって2万円、法事の読経は1万円〜とかねえw
納骨の墓も必要なし。自宅で仏壇を設けて自分でご先祖を祈れば良い。

無駄な仏教など切り捨てて、中村元氏の岩波文庫で原始仏教世界を読んで各自参考にして生きる方が遥かにマシだ。
0865ポッタン師
垢版 |
2019/08/27(火) 17:38:47.21ID:3XmTeckR
864.先祖供養は儒教である。
涅槃は体現する、ものではない。
バカには理解できない。
大爆笑である。
0866
垢版 |
2019/08/27(火) 17:53:18.83ID:4gJVq61J
>>865
現代の日本の仏教では先祖供養もテリトリーに入っている。
涅槃が「体現するものではない」のならアンタにとっての涅槃は何なのだ?
死後世界で実現可能なものでこの世のものではない〜という見方なのか?
もし、そうであればそのような見方は却下する。バカで結構、こちらから見れば
アンタの方がバカなだけw
0867神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 18:46:13.35ID:+vdwNdjT
>>864
> そもそも、己が涅槃を体現した事をもって他者をも救おう〜というのならばまだ話は分かるが、ww
> 己が涅槃を体現していないのに他者を救おう〜というのは、こういうのであっても、いわゆる大乗仏教と言えるのか?w
> ギターを演奏できないのにギターの先生になって生徒を教える〜なんて馬鹿げたギター教室と同じだろうw

何言ってんの、言えるか? じゃなくて、それこそが大乗、そうじゃなきゃ大乗じゃないんだよw

そこを悟っていないのに菩薩の方が阿羅漢より格上うんたらって色々と勝手な理屈を後付けして正当化してるんだから

相変わらず、突っ込み方がおかしい奴w
0868神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 18:56:09.70ID:+vdwNdjT
「サンタがお父さんであること」を世紀の発見のように嬉々として語るみたいなw
0869
垢版 |
2019/08/27(火) 18:56:49.80ID:4gJVq61J
それこそ大乗かww
ふ〜〜んwww ならば、そんなのは「馬鹿げたギター教室と同じ」だなw
0870
垢版 |
2019/08/27(火) 19:01:08.96ID:4gJVq61J
「馬鹿げたギター教室」は永くは続かんだろうなあw
0871神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 19:13:28.14ID:IWE3IGBh
菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、
早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。

(大意)
仏の道を歩いていこうとすることは、自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということでもある。
在家の人であろうと、出家して僧侶となった者であろうと、どのような境遇にあっても、
自分の幸せよりも人の幸せを願うような心をおこして生きていきなさい。


『修証義』第四章「発願利生」冒頭
https://www.zen-essay.com/entry/hotsugan-risyou

日蓮から個人成仏主義と批判された禅宗でさえこう説いています。
もっとも、日蓮は栄西や道元といった禅宗の宗祖のことは批判していません。
栄西を批判しなかった理由は分かりませんが、道元を批判しなかったのは道元が法華経を厚く信仰していており、
その著書正法眼蔵の中でも法華経を敬うことが書いてあったり、法華経からの引用が多かったりしたからではないかとも言われています。
ちなみに鎌倉仏教での浄土教の祖、法然のことは日蓮は手厳しく批判しています。
0872
垢版 |
2019/08/27(火) 19:22:10.68ID:4gJVq61J
>>871
>自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということ

これもおかしなことでw これが事実上実践できていれば涅槃も近かろうが、
実際は、周囲の人の幸せよりも己の幸せを優先する僧侶ばかりだろ?ww
だからン十万も読経料として布施を要求する。

何度も言うが己が出来ていない事を他者に広めようという志向自体が駄目だろうよ。
上の人の話ではこれこそ大乗らしいから、大乗は駄目ということだろうなあ。
まだ、寺和田の方が可能性があるww
0873神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 21:27:05.68ID:cEloQSSp
>>872
うん、だから、なーんの文化慣習のしがらみのない、都会育ちの現代日本人感覚にはむしろテーラワーダ仏教の方がマッチする
超人めいた時空を超越する偉大なる存在ブッダとか、如来とか、観音とか、そちらに飛躍するよりは、
(もちろん、歴史的な生身の実在人物としてのブッダには全幅の敬意を持つという意味での信仰心はある)
ただ、世間を捨てて、内心の絶対的自由と平穏の獲得を目指す
何も現代の自然科学と抵触する(表立った)社会活動とは結びつかない
(これが例えば日蓮宗とかイスラムだと、開祖を習って俗世間をどうにか自分らの都合の方に実際的に変えようという動きになる)

というわけで、紐は、こんな所で文句を言ってる暇があったら、自分でミャンマーに行くなりして「ギターのプロにギターを習って」来るべきw

そもそも「ギターを習うつもりがない奴」外野=外道には何にせよ口を挟むこと自体が野暮
0874
垢版 |
2019/08/27(火) 21:47:45.94ID:4gJVq61J
>外野=外道には何にせよ口を挟むこと自体が野暮

そうかねww
ならば、そちらの方がこちらの方へ、葬儀の読経、戒名代として数十万を慣習的に
要求するのは、日本仏教界から世俗に「口を挟むこと」ではないのかね?
お互いが口を挟まないのであれば、そのような関係(世界)も無くなり大いに結構なんだがw

まるで今の韓国と日本の関係のような話だなあwww
0875神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 21:57:49.97ID:cEloQSSp
>>874
いやいや、そちらって言われたって俺坊主関係者じゃないし

嫌なら葬式法要を頼まなきゃいいだけ

頼んどいてタダにしろはないだろ、それこそ現代人感覚的にな
0876神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:02:12.59ID:cEloQSSp
俺テレビないから、人んち行った時くらいしかテレビ観ない
ともかくテレビに何の価値も感じない人間
だから、NHKは完全に無価値で筋が通る
ところが、世の中には、NHK観る癖に、金をケチって払わない、払いたくないってブーブー不平言う連中がいる

紐がそういう奴らと同類じゃなきゃいいんだけどなw
0877
垢版 |
2019/08/27(火) 22:02:59.29ID:4gJVq61J
>嫌なら葬式法要を頼まなきゃいいだけ

まあ、近い将来皆、頼まなくなるだろうなあw

ちなみに俺はプロのオルガニストにオルガンを習ているw
0878神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:04:42.57ID:XfZorr52
涅槃に例えられるレベルに達したギタリストを例えばジョンマクラフリンやアルディメオラにすると彼らのギターが弾けないギター教室の先生はたくさんいます。
https://youtu.be/Om6HDUKBbzE

ジミヘンドリックスレベルの即興演奏やバッキング構成力がないギターの先生も掃いて捨てるほどいます。

あるいはベートーヴェンの熱情第3章やショパンの英雄ポロネーズなどをピアノの涅槃レベルだとすると、それらの曲をたどたどしくしか弾けないピアノの先生もたくさんいます、
って言うか綺麗に弾ける先生のほうが少ないと思います。

プレイヤーとして涅槃レベルに達してないからといって別に人に教えていけないなんてことはありませんよ。
0879
垢版 |
2019/08/27(火) 22:09:53.07ID:4gJVq61J
>>878
作曲、編曲レベルではその通りだろうが、演奏テクニックまで下げればそうではない。
演奏面でプロの水準に届いていない人間が他者に教えること自体が糞w

上の人の説によれば大乗仏教も同じ糞という事になる。
0880神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:11:38.75ID:cEloQSSp
>>877
そうか?

西洋で近代化の結果、一般大衆が宗教的な葬式をやらなくなったとは聞かないけど
0881神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:16:15.59ID:XfZorr52
>>879
>演奏面でプロの水準に届いていない人間が他者に教えること自体が糞w

だいたいがプロになり損ねたプレイヤーがギターやピアノ教室の先生やってるケースが多いと思いますが。

まあプロといってもヘタウマの人もいれば超絶技巧の人もいて様々ですがね。
0882
垢版 |
2019/08/27(火) 22:16:47.14ID:4gJVq61J
>>880
だから頼むだろうが、1個1万円だww
葬儀の読経だろうが法事の読経だろうが1万円、戒名も1万円。
これならば馬鹿高い布施を払う事も無くなるだろうよ。西洋の葬儀費用なんて
日本と比べたらどれだけ安い事かww
0883神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:37:50.35ID:uLbGk5cw
その代わり日本仏教は、年間経費が少なくて済む。
疎遠なフリをすれば、毎年墓地の管理費だけで済むし、
寺へ行く事も顔を合わせることも数十年に一度で済む。
楽な宗教だw
葬儀だって、急だったので荼毘まで済ませちゃいました、と事後報告って手もあるし。

まあ、「経費」という言い方が、そもそもかもしれんが。
0884
垢版 |
2019/08/27(火) 22:49:18.13ID:4gJVq61J
>>878
ギターの師はマヌエルバルエコだなw
https://www.youtube.com/watch?v=O92TO-l2XbU

まあ、ここまで弾けなくても良いのだが、プロ演奏家のレベルとして全然ダメ
という人間がいかに多い事かww
プロならばプロの意地を見せろと言いたいww

そんな糞似非プロが素人に教えること自体が駄目だろうw →大乗
0885神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/27(火) 23:11:14.98ID:ovZbRvEB
>>884
んーまあ、紐個人の姿勢は何も肯定できないのは従前通りだが

自分でも時折プライベートコンサートやるレベルの人が、それだけでは食っていけないから、普段は音楽教室やってるみたいな市井のプロの音楽家は確かによくある話

日本の大乗のお坊さんは、公立小中学校の先生みたいなもので、受験勉強のチャンピオン側の人材が後進を教えているわけではない
そういうのに近いかな

となると、宗派的な問題というよりも社会制度的な問題とも言えるが……
0886神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 00:59:25.85ID:KYgvE3IC
>>813
>この「真人」と訳して使用したのは中村 元氏ですよ

これ本当に良くない訳だよね
0887宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:40:43.51ID:iIAqGXjQ
>>764
>それに輪廻転生なんてのはインド地方の信仰にすぎず、

 『古代ギリシアには、オルペウス教やピタゴラス教団、プラトンなど一部に転生の発想はあった。
竹倉史人によると、ピタゴラスは前世の記憶を持っていたと伝えられている。』(Wiki)

アジア地域にも復活の思想がありますし、この教えは全世界的なものです。
あのイエスも転生の教えは説いていたので原始キリスト教ではそのことはよく知られていました。
しかし、それがローマの支配下の中でキリスト教会議に拠る教義編纂において異端扱いされて、
それ以降、キリスト教ではこの教えは抹殺されたのです。
尚、異端派キリスト教諸派の中には、歴史上のカタリ派などは転生教義でよく知られています。
(彼らはカトリックからの弾圧を受けて虐殺されました。カトリックによって100万人もの異端派クリスチャンが殺されました)
いつのどの時代、世界中の何処であろうとも、 本物の覚者と覚者に近いレベルの聖者によってこれは事実として説かれました。

>インドの信仰のバイアスがかかているからだろうなあww

それは認めますよ。
ただし、それは前世の記憶を保持する事例が多いという意味に過ぎず、
もちろん転生そのものがインドや転生を信じる人々に限るということではありません。
すべての人間が繰り返し転生しており、こうしてまた再び生れてきたのです。
ただし、通常は前世の記憶は消失するのであり、
ごく稀にイレギュラー的に記憶保持者があらわれるということ(それがインドに多いということに過ぎない)
修行者はいずれ自分自身の力で失われた記憶のすべてを取り戻します。
0888宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:45:34.51ID:iIAqGXjQ
>>733
>仏教の特異的な特徴は無我にある。他宗教ではアートマンを肯定するが、仏教だけ
>これを否定する。これが仏教の特徴であり魅力でもある。仏教がアートマンを肯定して
>いるのなら仏教の魅力なんて無いも等しいww

その言いたいことは、もちろんよく分かるけれども、
しかし、その見解というのが実は180度、完全に間違っていたということです。

 つまり、あなた方の理解はこういうものです。
 ブッダはアートマンを否定した。そんなものは無いと教えた。だから、アートマンや自己の永遠なることを説くヒンドゥーをはじめ、
その他の宗教はすべて間違っていた。全世界において仏教だけがこの真理を悟り、その教えを説いているのだと。だから、この仏教の
教えでなければ悟りに達することはできないのだと。そして、アートマンが無いのであれば輪廻転生も当然ある筈がない。何故なら、
転生する核コアがないのだから転生のしようがないのだと。
 この仏教独自の教えと姿勢には、新しく唯物主義者らが大勢食らいついて支持を表明するようになった。一方、仏典で説かれている
輪廻転生をブッダの説いた真理だと受け止める伝統信奉者の側は、アートマンに拠らない輪廻転生を説明しなければならないこととなった。
それで業そのものの作用で輪廻するので転生の主体(基体)は不要だとする理論や、輪廻主体としての阿頼耶識(アートマンではない)を
説く派まで現れるようになった。尚、これについては今だに納得できない人たちによって、あーでもないこーでもないと同じ議論が続
いている...。
 ところが、実はそうではなかったのです。
0889宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:46:22.38ID:iIAqGXjQ
 ブッダは、アートマンの有無については明言は避け(無記)、決して「アートマンは無い」などとは言わなかった。
 ブッダが語ったこととは一貫して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」(五蘊無
我説)なのです。なので、ブッダは「アートマンは無い」ではなくて、「アートマンではない」とする“非我(我にあらず) ”を説かれたの
です。これを言い換えるならば、“誤認することなくアートマンであるものをアートマンとして正しく見よ! ”ということになるのです。
要するに、非我の教えというものはアートマンがあることを基本前提としており、“(正しく)アートマンを見つけなさい”と述べている
ことになるのです。
 であるからその通りに、“(真我)真実の自己を探究せよ! その自己(アートマン)こそが自己(あなた)の主であり、最も尊いものだ”と教
えているのです。この五蘊非我の教えが永い年月を経過した後に出現した部派仏教において、五蘊の何処にもアートマンが無いのならば、
つまり、それはアートマンそのものが無いことに他ならないということとなった。そして更に、勝手に仏教の説く「一切」の中に無為涅
槃までも含めてしまった...。
 こうして、恒常にして永久不滅のアートマンについてはすべてただの妄想扱いにされてしまったのです。しかし、近代仏教学の進歩に
よって、その無我の理解が根本的に間違いだったことが明らかとなったということです。
 紐さんには、その辺を勉強して欲しいと思う。
0890宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:51:12.18ID:iIAqGXjQ
>>757
あなたはこれも馬鹿にするのか?
馬鹿にしてるならば、それは紐>>733と同じだぞ!
 http://mimizun.com/log/2ch/psy/1302158994/421

>727七
だから、
それはブッダのレベルが低いなどというものではなくて、
ただ単に、現存する仏教という宗教は古くてすでに2500年以上を経過して
以来、時が止まっていることが主な理由ですよ。
新しい教えというのは常に、これまでの“古い教えの上に築かれる”のです。

>>728
>寧ろ、ブッダよりも舎利弗やその他弟子の方が上位階層へ登っていて、---中略---
>弟子たちの方が釈尊より上だった、という仮説もとれますよ?w

だから、神智学の教えというものは「仮説」ではないのです。
それは誰かによる研究成果でもなければ、仮説や仮定、想定、憶測...etcなどではない。
これは“総てを知り賜いし存在(覚者) ”から真理として直に提供されたものです。
神智学の教えというのは覚者からコンタクティ(弟子)へと、
オーバーシャドウすること(覚者がコンタクティの肉体を用いること)によって、
または自動書記(勝手に手が動いて自分の知らない内容を綴る)の手法によって、
或いはまた、テレパシー通信(覚者の声がしたり、映像を見せられる)などによって、
時には、肉体の覚者及びアストラル体の覚者と対面しつつもたらされたものです。

>>730
また、そうやってデタラメを語る...。
ブッダは、アートマンの有無を明言しなかったということ。「無記」の態度を採ったのです。
「アートマンは無い」などとは述べたことがない。

それから単純に、
進化段階の高い方がより正しいことを述べるということも限らない。
それは相対的で全般的な傾向でしかない
そして、マハルシのようなアヴァターの場合は、
この惑星ハイアラキーの覚者方によって神の代理人(手伝い)として地球外から招待した方々であり、
その個々についての進化段階は基本的に公表されていません。
もちろん、アヴァターはすべて五段階以上の覚者であり、その殆どが6.7段階か、または8段階以上でしょう。
0891宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:52:57.58ID:iIAqGXjQ
>>731
想像上で仮定の如来や諸菩薩などではなく、
歴史的に実在した個性の進化段階の話のことです。
そして、各個人の素質や努力の差は当然あるわけですが、
まずは第一にして各個人の大きな差が出るのは“イニシエーションを通過した順”に拠るものです。
先に通過した者が進化の高みに位置しているのは当然のことです。
だから、ブッダの場合はこの惑星における一番最初にイニシエーションを通過したグループにいた一人であり、
そしてもう一人が、アトランティス時代に共にブッダの兄弟であった後継者のMaitreyaです。
だから、それ以外の存在はブッダよりも下位に位置しているのです。
すべては単に時間的タイミングが主な理由であって、別に特別優遇したのでも何でもない...。

>>732
先祖供養というのは元々、これはブッダ自らが説かれたものです。
“説かれてなかったのに儒教影響で導入されてしまった”ということではない。
そして、祭祀のあり方と詳細についてなどは儒教道教などから良いものを利用したということなのだから、
それはそれで全然良いことです。後で、ブッダ御自身が先祖供養を行うよう説いたことを明らかにします。
0892宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:54:08.85ID:iIAqGXjQ
>>737
>或いは、自我・自己等「わたくし」の消失を怖れる西洋的感性・神智学的感性もまた、
>それを怖れる。

ヒンドゥーでも神智学でもそう。
それは自己の消失を恐れているからではなくて(大衆は恐れる)、
そのすべては覚者によって確認された事実だからです。
ただブッダは語らなかっただけのこと。

>しかしながら、
> 「涅槃」が「寂滅」と同義と扱われる所以に思いを馳せるなら、
> 虚無ではなく安楽だと、ストンと解るんだけどね・・。

寂滅したのは煩悩(低我)ですよ。
その「安楽」だと感受してるのは誰なのか?
もちろんそれは自分自身に決まってる。つまり、低我が消滅した後に残った真実の自己です。

>>755
お盆の先祖帰郷というのはあくまでも民間信仰であって、
本来的には事実ということではない。ただし、これは想念の世界のことですから、
それが諸霊の住む世界であるアストラル界とリンクして、本当の現実となるケースもあるかもしれません。
ただし、帰郷したそれは「霊」(心霊ゴースト、アストラル想念形体...)であって、転生する「魂」ではありません。
そして、諸霊活動がある期間は絶対に転生しません。なので、諸霊活動の永い人はその間の転生はないので、
その分その人の進化する機会は失われ時間をロスします。
従って、転生後に生前の霊体と一緒に存在することはありません。
(すでに説明した自己の“四段階のレベル”を参照のこと)
0893宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 04:56:21.88ID:iIAqGXjQ
>>852 >>693 >>859
失礼しましたm(__)m
一応、中村氏による解説(『ブッダ伝/生涯と思想』角川ソフィア文庫p272-p286)を確認しましたけれど、
(ごく当たり前の普通の理解で以て)物質現象界の性質というものは永遠不滅の固定的な実体というものはなく、
ただ縁起により流転変滅して生じては滅することを繰り返すだけであるとするこの真理を仏教では「空」と呼ぶ。
その理解を根底において生きることを“空に住する(空を生きる) ”と表現する。
〜ということでした。

なので、この意味であるならばこの私も了承します。

>>853
これは、物質現象界の見た目だけの変滅の繰り返しは、
“実体として生じ滅しているわけではない”という意味で述べた言葉だろうとは思いますが、
しかし、これではまるで龍樹の説く“輪廻も涅槃も違いがない”にも通じるような
殆ど一元論的な勝義諦の表現として映ってしまいかねない。
ましてや、これはそのまま涅槃の状態についての説明とも被ってしまうものなので、
これではただ余計な誤解を招く言葉でしかないとこの私は思います。
取り上げたのは私の方ですが、所詮、大乗諸経典の記述について真剣に対面する価値などはないと改めてそう思います。
0894宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 05:22:11.06ID:iIAqGXjQ
>>859
そして当然、
“涅槃も空である (涅槃に住する如来も空) ”という見解には、やはり私は異を唱えさせてもらいます。
そのようにブッダが説かれたとする根拠については未だ私は見たことがありません。
ブッダは『ウダーナ』において、“涅槃とは縁起せず有為とは全く異なる境地”だと明確にハッキリ説いている。
なので、縁起している無自性/無我空なる現象界(有為)とは異質の縁起せず無自性/無我空ではない境地が無為なる涅槃です。
確かに、経典上では明確にされていないかもしれませんが、
つまり、これは実際上は“自性/我”ということになるのではないのか?
尚、“涅槃は空ではない”そして、“輪廻と涅槃を同じものにしてはいけない”という意味については、
あのテーラワーダのスマ師も同じことを述べています。

 『仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、
実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないの
です。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。
釈尊は、涅槃を anakkhāta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。』
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou125/

>>858
物質はすべてエネルギーであるという見解は私も同意します。
尚、「空」というのはただ単に、
“物質には永遠不滅の固定的な実体というものはない”という意味でしかないです。
その状態がただ単に「空」であり、
流転変滅して止まない現象(無常)を引き起こしている作用を「縁起」(因縁生起)として説明しているのです。
0895宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 05:24:14.33ID:iIAqGXjQ
>>857
いえいえ全然、違いますよ!
七は、あの経文の一体どこをどう読んでるの???
鈴木さん、田中さんそんなことは関係ないです。

仮に、言語表現としては、
ウパニシャッドの説く“恒常不滅のアートマン”という意味での「わたし」として語っても良いとブッダはいってるのです。
ただし、それは修行完成者に対しての限定付きですよ、と。註を見ればそのことが明らかでしょう!
もちろん、ここでは「アートマンはある」ということをいっているわけではないけれども、
しかし、完成者はアートマンという意味で「わたしは語る」といってもいいよとブッダは述べられたのです。
これはあなた方のいつもの立場から見たならば、本来ならば
「ある筈もないアートマンについて誤解を生じかねないそのような正しくない発言は止めなさい」というのが、
いつもブッダの説かれる“正しい態度と言葉遣い”というものなのではないのですか?
と、この私はいってるのです。

 【なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよ
いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。真に力量ある人は、世間における
名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死
の領域を超えてしまったので、『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と
言ってもよいであろう。真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタ・ニカーヤ T,3-5 )

【註:『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)
0896宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/08/28(水) 05:26:49.96ID:iIAqGXjQ
七.あのですね...。

 例えば、石飛道子氏との昨年のあのときの議論では何が浮き彫りとなったのかというと、“アートマンは無い”という意味での伝統説とし
ての無我論は、実は部派仏教による間違いを継承したものだとする仏教学上の事実を彼女自身も学者の一人として、その厳然たる事実とし
てしっかりと受け止めているということ。がしかし、それでも自分自身はテーラワーダを中心とする伝統教義を信奉するんだというものです。
 彼女は一代によっても大天才と讃えられた聡明な学者さんですが、その一代が惚れ込むのも当然のことであって、彼女の思いというのは
一代(ただし、一代は日蓮さんには苦言あり)と同様に大乗上座部を問わず、すべての仏教諸派がブッダの教え(意志?)を受け継いだ素晴ら
しいものなんだというものですよ。
 だから、これだったならば全然いいのです。これならこの私も(その人には)何もいいません!
 何が好きだとか、どれを信仰するというのは人それぞれまったくの自由だからです。全然、自分の好きなものを大いに学び信奉すればい
いのです。ただし、目の前の事実は事実としてしっかりと受け止めろということです。“自分の眼耳を塞いで嘘吹くな!!”といってるのです。

 日本の大乗諸派も未だに大乗非仏説には無視の態度を保ち続けている。そして、大乗諸教(諸経)がブッダの教えだなどと今もテキトウな
ことを話している。それをいい加減にしろ!と、この私はいってるわけです。

 まずは、事実を事実として謙虚に受け止めて認めなければならないということ。そして、その上で自宗自派の存在意義とその素晴らしい
点について各自で主張すべきです。そうでないならば、ただの詐欺集団ですよ。
0898神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 13:14:42.15ID:KYgvE3IC
>>896
>ただし、一代は日蓮さんには苦言あり

どうも批判の主眼というか動機は「日蓮は真言密教の教えをパクったからアウト」っていうノリだったね
0901神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 16:21:00.25ID:ACSAhhU1
>まずは、事実を事実として謙虚に受け止めて認めなければならないということ。

>そうでないならば、ただの詐欺集団ですよ。

ここね
0903神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 16:23:46.33ID:ACSAhhU1
>>896
>例えば、石飛道子氏との昨年のあのときの議論

何? 何? そんなイベントがあったの?

誰がリンクよろしく
0904ポッタン師
垢版 |
2019/08/28(水) 17:41:40.71ID:UM4ZfqJO
896.無我論が理解できないバカである。大爆笑である。
0905神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 18:48:47.31ID:KYgvE3IC
>「ある筈もないアートマンについて(アートマンはあると)誤解を生じかねないそのような正しくない発言は止めなさい」というのが、
>いつもブッダの説かれる“正しい態度と言葉遣い”というもの
0906神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:34:44.69ID:KrM4D/T7
>>895
>>835のリンク先の相応部阿羅漢経に原文が在りますが、ブッダが認めた「私」とは自我、エゴ、マインドなどと言われるAhaṃ(英語のI)とその目的格であるMamaṃ(英語のme)までで、
私の本体であるatta(英語のmyself サンスクリット語のātman)まで使用を認めてはいません。

この経典からブッダはアートマンを認めたとするのは無理があると思います。

なお、何度も繰り返しますが、

善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである。

の但し書きをわざわざブッダが述べていることも重要かと。
私という名詞、概念は単に世間の呼称であり、慣用語であり、それ以上のものではない、ということです。

なお、経典の「漏尽者にして最後身」というのは五蘊が滅してアートマンだけの体になっているという意味ではなくで、
生存の素因(煩悩、渇愛)が尽きて輪廻における最後の身体になった、という意味ですので注意が必要です。念の為。
0907神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:44:07.25ID:KrM4D/T7
>>894
>そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。

輪廻と涅槃は同じだが修行することで違うものになるということをあなたがよく引用される中村元先生はその著書「龍樹」の解説で書いています。
龍樹はそう考えていたという中村の解説ですが、

「われわれの現実生活を離れた彼岸にニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に期するものであって、それ自体はなんら差別のあるものではない。 」

無明の束縛を解くのが修行ということになるでしよわう。
なお、龍樹は六波羅蜜の修行において最後の般若波羅蜜では説明三十七道品の修養が必要と説いています。
0908神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:52:08.36ID:KrM4D/T7
>>894
もう一つ、涅槃は無為で縁起しないのではなく、無為なので縁起によって形成されたものではない、というのが正しいと思います。
ただ、涅槃には縁起の対象となる何かが存在するわけではないようなので、縁起しないという言い方もできないでもないと思いますが。


「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。

一〇 師(ブッダ)は生存(J註:原語で有の意もあるとの事)と非生存(J註:原語で無の意も)とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。

一一 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それでは解脱は無でもあり、また有である【ということになるであろう】。しかしそれは正しくない。

一二 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それではニルヴァーナは【他のものに】依存しないで成立しているのではない【ということになるであろう】。何となれば【有と無との】両者は【他のものに】依存して成立しているからである。

一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。

一四 ニルヴァーナのうちに、どうして有と無の両者がありえようか。この両者は同一のところには存在しえない。それは光明と暗黒とが同一のところに存在しえないようなものである。

一五 <ニルヴァーナは無でもなく、有でもない>という想定は、無と有が成立してこそ成立しうるのである。


これらの龍樹の説は、無為を存在するものとして法に加えた小乗仏教(部派仏教)への批判ではないかと思います。
0909神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 21:01:44.00ID:KrM4D/T7
(参考)

貪瞋痴の三毒の壊滅を涅槃というとここ(相応部無為相応)では説かれています。
https://i.imgur.com/E04Y462.jpg
https://i.imgur.com/CUMoJcp.jpg
https://i.imgur.com/jXwf2Zc.jpg

その貪瞋痴も生存の素因と言えるのでしょうが、この根本となっているのは五蘊でしょうね。
ちなみに五蘊は修行の結果空となるのではなくて、最初から空であり、それを正見できるように修行するのだと思います。
0910神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 22:40:59.72ID:xsotv8un
>>898
俺は日蓮はナショナリズム(反出世間)だから(仏教的に)アウトという考え

誰も聞いてないって?
09111/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:27:30.45ID:NTZ0HIE9
SN.1.3.5 arahantasuttaM
yo/hoti/bhikkhu/arahaM/katAvI,/khINAsavo/antimadehadhArI
所のものは/である・ある(いる)・なる/比丘は/阿羅漢は/作し終り/煩悩尽き/最後の身を持つ
 『比丘にして、阿羅漢となり、煩悩を尽くして最後の身を持つ者は、』
  片山> 阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、最後の身を保つ比丘は・・・
  中村> なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は・・・
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
pahInamAnassa[為格]/na/santi/ganthA
慢心の捨てられた(人)に/ない/あることが/繋縛が
 『(私という)慢心が捨てられた人には、(それに)縛られるということがなく、
  片山> 慢の捨断者に縛りはなく、
  中村> 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。

 vidhUpitA[pp.pl.N.]/mAnaganthassa/sabbe[pl.N.]
 滅びた(ものは)/(彼の)慢心の繋縛の/一切は
  (私という想いを始め)全ての慢心による捕らわれは滅した。
   片山> 慢の縛りは、みな〔破られて〕いる、
   中村> かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。

  sa/vItivatto/【maJJataM】BD/sumedho
  彼は/超えたものは/妄執を/優れた智慧のある者は
   (愛・慢・見三つの)妄執を超えた、智慧ある者は、』
    片山> その妄執を超えた賢者は・・・
    中村> 聡明な叡智ある人は、【死の領域】Dを超えてしまったので、
09122/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:30:19.33ID:NTZ0HIE9
ahaM/  vadAmItipi  /so/vadeyya
     vadAmi-iti-【pi】C
私は/話す-〜と-【でさえ・としても】/彼は/話す事ができる・話してもよい
 『「《私が》、喋る」と、口にしても(表現しても)よいだろう。
  片山> 言えるだろう、「私が語る」と。
  中村> 『私が語る』と言ってもよいであろう。

【mamaM】[為格]A/ vadantItipi /so/vadeyya
            Vada【nti】@ -iti- pi
(彼らは)【私に対して】/話す-〜と-でさえ/彼は/話す事ができる・話してもよい
 (また、)「(世の人は)《私に》、話しかける」と、口にしても(表現しても)よいだろう。』
  片山> また「かれらが私に語る」と。
  中村>また『【人々が】【〔これこれは〕〈わがもの〉である】と語っている』と言ってもよいであろう。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
loke/samaJJaM/kusalo/viditvA
世に於いて/名称を/善きもの、よくできた者が/と知って
 『世間の名称(の使われ方(仕組・在り様))を、賢者はよく知って、
  片山> 巧みな者は世の名称を知り、
  中村> 真に力量ある人は、世間における名称を知って、
 vohAra-mattena/so/vohareyyA
 (世の)慣例-のみによって/彼は/説明する・示す
  世の習いに従って、話す(会話する)のである。』
   片山> 慣用語でのみ表すであろう。
   中村> 言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
@、人称別のきっちりした言語ではよく見られることだが、
  たとえ主語として「誰それが」と明示されていなくても
  動詞の語尾の形で「時制も含め、それら」が特定できる。
  動詞vadが3人称複数であるので、想定される主語は当然「彼ら」であり、
  中村さんも「人々が―語る」とすることになる。
09133/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:32:57.02ID:NTZ0HIE9
AmamaMは、A、G、Dどの格でも読める語形。おそらく、中村訳漢訳も
  どちらかと言えばAc.目的格・対格ととっているのだろう。(835リンク先も。)
  Ac.も、時間的・地理的、或いは抽象的なものまで様々な対象を含みながら
  「〜へ向かって」という意味が出るので「誰それに向かって話す」
  と読むことができる。
  Dat.為格・与格で読んでも、「〜の為に、に対して」という構図が取れるので
  「誰それに向かって」「〜へ、〜に」という読みができる。
  水野文法書の文例も、Ac.の例にはない「話しかける・働きかける」際の語形が多い。
  そのため、ここは文脈(下記貼付註釈参照)から、
  また、「『漏尽者による自称』の是非」というテーマの上でも、
  きちんと「対(≒対句)」としたいので、寧ろDで読んだ方が良いようにも思われる。
  そして語義は、「私のもの」(というGen.属格の派生的、或いは
  一語内だが依主釈的読みとして)ではなく、「私」という語義のまま読みたい。
     ahaM vadAmi       mamaM   vadantI
    『「私が」「語る」』←→『(彼らが)「私に」 「語る」』
  中村訳も、文庫註にあるように、下記貼付註を承けて「私のもの」
  という語義で読んでいるのだろう。
  しかしそれでは、漏尽者の主体及び自称の問題から離れてしまう。
  ≪「人々が話しかけてくる対象(主体)として『この私』が実にある」という想い≫
  を、漏尽者は持っているのか?という問いだから。(漢訳もおそらくこちらではないか?)
  勿論、「私のもの」という想いも、斥けられるべき、慢・見としての
  基本概念なので、ここのmamaMも、前句ahaMの意味上の併列・対として
  また、下記註中の、神が挙げている例からも、「私のもの」と読みたくはなる。
  或いは、≪漏尽者(so)は
  「(彼ら漏尽者達は)[私のもの]と言っている(vadanti)」と言ってよい≫
  と読むべきか・・・。結構ややこしいが・・w。
  ポイントは、「誰が」「[私のもの]と言っている」のか見えない点。
  (私が岩波版で感じていたモヤモヤ&違和感はココ。)
09144/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:35:13.91ID:NTZ0HIE9
  また、mamaMは単数形なので、「人々の[私のもの]」ではない。
  もし、下記註を承けて、「[私のもの]と言ってよい」、ならば、
  二句目も【vadAmi】或いは【vadAma】でよい。こちらの対句でも、
  それなりにスッキリはするけれど、【vadanti】である限り、それはない。
  せめて【mamaM】ではなく、-ntiと合わせて【amhaM】他の複数形であるべきだろう。
  (いや、「みんなの」でなく一人一人の個別の発言だから良いのか、単数で・・。)
   *漢訳は、我、我所としているので、或いは「我」と「身体的存在(五蘊)」と
    見たものかもしれないが、漢訳はまた別に考察が必要だろう。(望月辞典を参照した。)
    偈が繰り返されて4種になってるし。

B、ほか異版「yamataM(PTS版)、mAnanaM(Ce.版)、maJJitaM(?)」。
  (もし「水野辞書maJJanA」のAc.ならば「思惟・思弁を超えた、それらに依らない」人、
  とも読める。意は835リンク先と同じい。註では、maJJanA、のこと、
  「taNhA、diTThi、mAna」の三つの妄執、とする。
  (PTS辞書には、maJJanA(f.):『conceit』(taNhA-, diTThi-, mAna-, kilesa-, etc.
  (conceit:自負心、うぬぼれ、独断、私見。他。))
  我見・我慢の文脈で見るならばこちら。片山訳はこれに拠る。

 ※この問いを発した神は、(原文は下記貼付註)、
  ≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
   なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
   「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
   そのように言うのではないか?
   【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
   のではないか?≫
  という疑問を持ったので、このように質問をした。
  『まさに>>855そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
  当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
  凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。
09155/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:37:43.48ID:NTZ0HIE9
C、漏尽者にとって一見相応しくないように見える言葉であっても、
 そうだとしても、そのような語であったとしても、の意。

D、中村訳は、PTS版yamataMに従い、且つW.L.Geigerの読解に拠ったもの。

 ※ahaMの初出箇所(から)にある註。
  〈この神は密林に住む者である。かれは、森林住の比丘たちが
   「私は食べる」「私は坐る」「私の鉢は」「私の衣は」
   などと語る言葉を聞いて、考えた。
   「私はこの比丘たちを漏尽者であると思うが、はたして漏尽者たちには
   このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
   それとも生じないのか」と。
   このことを知るために、このように問うている。〉

  *(片山版の体裁(記載箇所)を信じれば、「mamaMの註」というより、
   この神の発言全体の総括的註か。(そこは原本見ないとわからない。)
   中村訳は、文庫註の書き方から、この内容「私の鉢は」「私の衣は」から、
   「私のもの」という読みをしたものと思われる。)
  *mAnaganthassaは、mAnaganthA+tassa(assa)の短縮形
   とも言われるが、いずれにしろD.G.で読むことになるので
   それほど重要ではないだろう。もし、短縮形であるなら、
   ここは詩句なので、韻律上、音韻の数の調整からのことかもしれない。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

以上、どう読んでも解釈しても、
「アートマン」(及び「真我」)が出てくる理由が見当たりません。
m(_ _)m

が、mamaM vadanti については、まだまだ要検証といったところ。
0916神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 23:47:20.15ID:NTZ0HIE9
で、本筋とはまったく別の所で、
疑問や解決の必要のある案件が生じたりもするし、
自身従前の誤解・勘違いが発覚したりと、結局2倍3倍の調べ量になるので、
真面目な「お勉強」になってたりもするのw  >>862
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

>>915 一ヶ所訂正。
>このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
 ↓
>このような自己の妄説(attupaladdhi)による語が生じるのか、
0917神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 23:50:20.56ID:NTZ0HIE9
ということで、偈文調の一節を改訂再掲

SN.1.3.5 arahantasuttaM(世尊の偈の部分)

比丘にして羅漢たり、煩悩尽きて後有無き者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語ると言い得べし。
(吾今語ると言い得べし、吾がものなりと言い得べし。)
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。

我慢を捨てて縛られず、あらゆる慢心滅びし者は、
我我所を超えた智慧ある者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語ると言い得べし。
(吾今語ると言い得べし、吾がものなりと言い得べし。)
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。
0918神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/29(木) 00:07:53.26ID:zU1iZDLD
>>907
>なお、龍樹は六波羅蜜の修行において最後の般若波羅蜜では説明三十七道品の修養が必要と説いています。

説明三十七道品→菩提三十七道品

でした、失礼しました。
0920神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:00:02.15ID:2CiuaGsK
>>907
輪廻とニルヴァーナはそれ自体はなんら差別のあるものではない、というのは生死即涅槃と言って大乗仏教の基本的なスタンスです。

維摩経の仏国品にて分かりやすく説明されています。
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima065.html
シャーリプトラを凡夫扱いしてしまうというのはどうかとは思いますが(^-^;
まあ初期大乗仏教では声聞、どころか声聞の中で修行を完成させた阿羅漢でさえdisられていたのですが…。
0921参(暫定)
垢版 |
2019/08/30(金) 11:20:02.01ID:6B4ASOLq
漢訳雑阿含巻二十二
(581偈)
〔世〕若羅漢比丘 自所作已作
    もし、羅漢なりし比丘の、自ら作すべき所を作し已り、
  一切諸漏盡 持此後邊身
    一切諸の漏盡き、此の後邊身を持すときんば、
  正復説有我 我所亦無咎
    正に復た「我れ有り」と説き、「我所」(ありと説く)もまた咎無し。

〔世〕已離於我慢 無復我慢心
    已に我慢を離れ、復た我慢心無く、
  超越我我所 我説爲漏盡
    我と我所を超越し、「我れ漏盡を爲せり」と説く。
  於彼我我所 心已永不著
    彼、我と我所について、心 已に永く著せず。
  善解世名字 平等假名説
    (ただ)善く世の名字を解し、平等にして仮に名づけて説く。

(582偈)
〔世〕若羅漢比丘
    もし羅漢なりし比丘の、
           漏盡持後身
          漏盡きて後身を持すときんば、
  亦説言有我 及説有我所
    また「我れ有りと言う」と説き、また「我所有り」と説く。
〔世〕若羅漢比丘 自所作已作
     もし、羅漢比丘の、自ら作すべき所を作し已り、
   一切諸漏盡 唯持最後身
     一切諸の漏盡き、唯だ最後身を持すときんば、
          説我漏已盡
             「我が漏 已に盡く」と説き、
   亦不著我所
     また我所に著せず、
   善解世名字 平等假名説
     (ただ)善く世の名字を解し、平等にして仮に名づけて説く。
0923参2
垢版 |
2019/08/30(金) 15:24:56.74ID:6B4ASOLq
望月仏教大辞典
我所:
我の所有、我の所属、若しくは
我と離れざる物の意。
即ち、我所見の所執たる五取蘊の法を云う。
大乗阿毘達磨雑集論第一に、相応我所、隨転我所、不離我所の三種ありとし、
之を執するを我所見となすと云へり。
百法問答鈔第一に、
「所とは所属なり。余法を我に属するが故に我所と名づく」と云へるは
即ち従属の義によりて述べたるなり。〔我所見参照〕

我所見:
我所を執する謬見の意。
即ち、我が五蘊の法を執して、
我れ五蘊を有す、五蘊の法は是れ我が所属なり、我は五蘊の法の中に在りと計度するを云ふ。
 〜中略〜〜
大乗阿毘達磨雑集論第一に、我所見に、相応我所、隨転我所、不離我所の三種ありとし
「相応我所とは、我は色を有す乃至我は識を有す、
我と彼(五蘊の法)と相応するによりて彼を有すと説くが故なり。
隨転我所とは、色は我に属す乃至識は我に属す。
若し彼れ、此の自在力に由りて転じ、或いは滅し或いは没するを、
世間に彼れは是れ我所と説くが故なり。
不離我所とは、我は色の中に在り乃至我は識の中に在り。所以は何ん、
彼れ実に我は蘊中に處在し偏體隨行すと計するが故なり」と云へり。
〜後略〜



※いずれも、「我と五蘊の関係について」言われている。
少なくともアビダルマ(及び漢訳)では、
一般的日常の「私のもの」ではない。
パーリ等インド語からの現代語訳に見られる「我所」は、
漢訳と切り離し、一般的日常語として見る必要があるもしれない。
0924神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/30(金) 15:33:12.48ID:6B4ASOLq
まあ、阿含の漢訳が、
どこまで素朴な「我所」と読めるか、なんだろうけど。
上記相応部該当詩句が約された時、訳者のなかに、
上掲の専門的限定的意味が意識されていたかどうか。
「我」についても、
アートマンが意識されていたか、それとも自称としての己か・・。
0925神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/31(土) 00:35:28.93ID:qeKeLBja
https://i.imgur.com/AIL820l.jpg
大乗仏教般若経典の中でも最初期の金剛般若経の中村元訳の注釈より。

記述の通り説一切有部などの小乗仏教(部派仏教)では無為も実有であると考えられたので無為法となり、法処などと分類され、
一切法の中では「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。(略)意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。」
とあるように意の対象の法に無為も含まれることにねりました。

これに対して、法空を提唱する大乗仏教では金剛般若経もそうですが、龍樹の中論で理論武装が強化され、涅槃は実有なる法ではない、
というよりも実有なる法などというものは概念であって本来は有ではなく空であるという主張をしました。

なお、縁起の理法は部派仏教によって分類された五位などの法には含まれていませんので、大乗仏教で縁起の理法まで空としたと言うのは間違いだと思います。

五位
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D

中論
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=11202115
この中では
第7章 つくられたもの(有為)の考察
が法有を否定したものとして解りやすいかと思います。
0926
垢版 |
2019/08/31(土) 20:53:56.06ID:uc3Q2mQm
自己防衛や自己保存(あるいは拡大〜)というのは人間というより生物一般に
備わった仕組みであり、この事に個々人が執着するのは本能的なことであり、
仕方がない事である〜では済まされないのが仏陀の教えだろうよww
この「自己」に対する「執着」の放棄をどれだけやれるのかがポイントだろうなあ。
だから、我が物というものはなく〜から進んで「無我」の教えに繋がるんだろうよ。
無我の教えはその核心は執着を無くせ〜という事だ。他の事に対する執着などは簡単に
無くせるだろうが「我」に対する執着は最後までしぶとく残るのが当たり前だからなあ。
だが、その我すら残さず無くせ〜だ。
さて、大乗仏教の「プロ」でここまで実践できている人間なんて皆無だろう。
だから、そんな糞僧侶の言う事自体が何の役にも立たん無駄話に過ぎないという事だ。
無駄な行為に馬鹿げた金額(日本での葬儀費用、戒名代〜)など払う必要なし。
0927ポッタン師
垢版 |
2019/09/01(日) 07:51:19.39ID:DVjqSymG
826.無我を理解できないバカである。
大菩薩である。
0929宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:05:40.55ID:L1I9PDqN
>>928
そうそう...。
そういう議論がズ〜と続いてるのが仏教界の実態です!
その原因は単に無知と誤解であり、それがすべて。

テーラワーダの教義ドップリの佐藤哲郎氏と、
ブッダはアートマンは無いという意味での無我は説かなかったが、
けれども、アートマンがなければ輪廻が成立しないと見ているこの相手方、共に理解が間違っています。

『実際は初期経典を読んでも仏教は無我論であり、かつ輪廻を認めています。伝統説が正しいのです。
無我と輪廻を矛盾と捉える発想自体が仏教からズレてます。---中略---
無我と輪廻説は矛盾しないと経典に基づいて論証できれば、ブッダは輪廻を説かなかったとか、
無我は仏弟子の捏造だとか、無理な仮定をする必要は無くなるのです。』(佐藤哲郎)

詳しく取り上げる価値すらないので、この部分だけをピックアップ!
0930宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:12:40.61ID:L1I9PDqN
いやいや.
そうではなくて初期経典を読むならば非我以外にはない。そして、尚かつ輪廻を認めている。
そして、伝統説というのは実は仏典に忠実ではなくて部派教義の信奉者に過ぎない(捏造ではなく仏教学上の事実)。
そもそも五蘊は非我であり、そこにアートマンがないから輪廻するのです。
元々、最初からアートマンというのは輪廻しないからね。その辺をアホは誰も分かってない。あなた方の理解はすべてレベルが低過ぎるから。
ブッダの教えというのは、「アートマンでないから苦があり、アートマンでないから輪廻している」というものです(無我の経文を百遍嫁!!!)。
では、どーやって輪廻してるのか? それは五蘊の「識」だと仏典では説かれている。
ただし、「これをアートマンと見なすなかれ」ということだ(これが重要!!)。
アートマンでなければ三世の時空を超えられないという理解がすべて浅はかだということだ。
そもそも五蘊(識)とは何か? これが唯物論的理解と同じものでいいのかどうかを比較することだ。
とにかく---もっと勉強しろってことです。

「アートマンは無い」という意味での無我説というのは完全に誤解であり、
本来、元々ブッダの説かれたものではなかったが後の部派仏教によって教義として確立されたものだ。
〜この仏教学上において確認された事実というのは、もうほぼ統一的な見解であって殆ど定説とみてもいいものです。
部派仏教〜以来の約二千年来も続いてきたこの伝統仏教の伝承(口伝及びアビダンマ)が間違いだったと確認されたというものなのであって、
これが再びまた、「いや、やっぱり伝統教義はそのままで正しく合っていました」などということにはまずならないでしょう。
それはまるで、地球は太陽を回る惑星の一つに過ぎないと判明したにも関わらず、
再びまた、いやいやこの地(地球)を中心として宇宙のすべてが回っているという理解に戻ることはあり得ないでしょうから!
しかし、その昔は地動説を主張し続けたら投獄され教会に処刑されたのです。

宗教上の迷信を打破するのが学問と研究の成果です。
しかし、宗教で説かれる真理の実体験は宗教上の実践による以外にはない。
この二つは共に正しく必要なことだ。
0931ポッタン師
垢版 |
2019/09/02(月) 08:20:24.31ID:xCt2EkzG
930.929.輪廻は科学の問題である。
それは宗教問題ではない。
バカ宝珠には理解できない。
大爆笑である。
0932宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:37:15.98ID:L1I9PDqN
>>931
だから、すでに科学的に研究されており、
そして“事実として認められている”といったろ!! >>676

何を読んでる(怒)
リンクのページもすべて嫁!!!
0933ポッタン師
垢版 |
2019/09/02(月) 08:46:21.86ID:xCt2EkzG
932.それならば仏教をやめて科学者になれ。
大爆笑である。
それは宗教問題ではない。
バカ宝珠には理解できない。
大爆笑である。
宗教問題をやれ。
0934宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 09:45:54.05ID:L1I9PDqN
>>933
>しかし、宗教で説かれる真理の実体験は宗教上の実践による以外にはない。>>930

相手してられんから消えてくれ!!
0936神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/02(月) 13:32:33.78ID:zuYzx0FB
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、
したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。
一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
0937ハジ
垢版 |
2019/09/02(月) 13:37:46.20ID:Uc+k084y
自分が沈黙した時に現れる状況は、この実際ある世界に対しての認識の変化と、それに、あらゆることの輪廻だとして
その寂静によってもたらされたもの
それは、認識にないものであるから、それが我であるとかないとか言うこと自体に意味が無い
それでわかることは、その、寂静から空輪廻を正しく見ている状況が維持されるなら苦の滅するだろうということ
実際は世の動きに執着や恐怖怒り、欲望などがあるから難しいが、それらを戒律や止観によってできるようになる方法を説いてるのだろう
その寂静から導かれた涅槃が、我であるとか無いとか、真我であるとかないとか言っている頭脳こそは
空輪廻の世界の頭脳の働きであって、その活動的であるものたちが、縁起して輪廻している実体のない流れてゆくものなので
縁起しているから自性空であるというのを、その、空であると見ている我がいるとするが、それもまた空であるから残るものがない
それ以外の涅槃というものが、ないと言えばおかしくなるし
あると言えば、それもまたおかしくなる
それによって安楽になっているのであるが、それは、智慧の、つまり正しく縁起、無我、空をみているからであるが
それは、そのような個人の側の変化が必要である
0938ハジ
垢版 |
2019/09/02(月) 13:59:43.74ID:Uc+k084y
あらゆることが縁起していると見るには
仏教的な視点からの瞑想、つまり、その智慧の目で見ているという状況が必要である
その時に、この個人は、寂静安楽の涅槃に誘われるわけである
あらゆる物が縁起していることを知る事で苦の消えないのは誰もがそうなのではないか
縁起していることを事実体感的理解にするために、瞑想的な視野から見ていることが、苦の立ち消える効果を及ぼす
この視野が滅尽した涅槃なるものを登場させるとして

その、そこが真の私だと言うことを言う

が、その寂静の導いた先というのは、何とも言えないものであると言う方が正しいのだ

なんかうまく書けんが
0939承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/09/02(月) 18:45:33.31ID:GKXJEU8E
こうしたすれ違いを見ると、本当に智度という門は単体では役に立たないなぁと思う。(笑)
当たり前というものは、本当に当たり前すぎて、掴み所がないし、(笑)
また、言葉なんてものには、誠意の欠片も乗ら無いもんだなぁと。(笑)


(^。^)まぁ、キリスト教徒に忠孝を説明しても悪と断じられるしな。(笑)
0940神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/02(月) 19:12:27.36ID:wyZxF6i7
>>936
私が持ってる増谷文雄先生訳の相応部経典22.55とは違います。
その経典は相応部にしては長いですし、多分要約しているうちに要約者のドグマを少し入れてしまったのではないかな、と。
大意としては合ってるとも思いますが、原文よりも無我は確定的であるという方向に近づけてまとめている印象ですね。
特にウダーナ(感興偈)の訳の改変に意図的なものを感じます。

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レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。

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