--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう) 3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。 4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。 6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!! 10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 >>743 追記 「十二分」を広辞苑で調べとき。 本来は「十分」が正解で、「100%と120%の違い」は、たぶんそこから来てるんだろうと思うけど。 阿呆ww 日本語が向いていないのはお前らの方だろうがww 200%とか500%とかいうのは何らレトリックではないww 日本古来の言葉の使い方で200%とか500%とかあるのかよwww 日本古来の言葉の使い方はOKだが、「200%とか500%」なんてのはいただけないなあw 使う人間の感性を疑うw >>745 「ら抜き言葉」「させていただきます」の濫用より遥かにマシw 人によっては、主語と敬語・謙譲語の連関が滅茶苦茶なの多いしね。 こわいのは、ビジネス・営業の場面で、それが黙認されている(というか気付かれずにある)ということ。 ま、言葉は生き物だから、いずれ、 「写真を撮らさせていただきます」とか、 「では、あと数分もすれば、○○先生が、ここに来ていただけますので云々」とかも、 通常如常の、正解の言い回しになるのかもしらんけど・・・ orz そんな言葉の変化より200%とか500%の方が遥かに気色悪いがなあw >>747 まあ非科学的な頭の人間にはこれがレトリックにうつるんだろうなあw まあ情緒の解せない人間には、計算通りの数字しか見えないんだろうなぁw >>748 算数が出来ない人間は、 >計算通りの数字〜 となるが、そもそも「計算」なんてしていないし、「数学」ですらない。算数でもないw 表記の問題なのを理解できないのは日本語の理解力の欠如が甚だしいw やっぱ、あらゆる方角から見てセブンは僧侶には向いていないだろうなあ。 表記の問題だから、そこに情報の上乗せがされる(され得る)ということが理解できないなら、 やっぱ、あらゆる方角から見て紐は日本語には向いていないだろうなあ。 表記だから>>745 >使う人間の感性 なので、 200%やら500%が、100%を超える甚だしい状態を指す表現を示そうというのであっても 駄目ということだよw センスのないのは性分だから変えようがない。僧侶もその意味で合っていないという事だ。 表記だから、使う人間の感性 なので、 甚だしい状態を強調したい表現として上乗せされるわけだよw (八百万の神、八万四千の法門、八百屋、千代に八千代に細石の、 万国博覧会、千の風になって、百千万劫難遭遇、などまさにそう。) センスのないのは性分だから変えようがない。日本語の使用もその意味で合っていないという事だ。 ああ、でも、 出会った当初から、 日本語の使い方でコンセンサスが取れてない感じはあったかも。 >>紐 ワシとはともかく、他の人とも齟齬が多かったのは、存外、その辺にも原因があったのかもな・・。 >>732 補 強いて一言二言添えておくなら、 「生まれ変わり」と「日本的先亡の諸霊」と「盆彼岸等の先祖の霊の【帰【郷】】」、 或いはまた、 「(日本的には)先亡の諸霊と(ある種)合一化し(祖霊というグループ化を果たし)、 「そのポジションのまま」子孫・家系を守護する」 ということと、 「生まれ変わって別の人生を生きるということの両立」は成立するのか? ということを、神智学ではどう理屈をつけてるのかね? 地域によっては、盆踊りの際は、死者が戻ってきて一緒に踊ってるという考え方もあるらしいけど、 生まれ変わって、別の人生を生きて、別の我が子と盆踊りを踊りながら、 別の場所で、前世の縁者と盆踊りを踊ってるのかね? んー、まあ、多少は紐の立場も擁護を試みると、 時代的に日本人がそな言語的背景にある文化教養的コンセンサスの厚みや幅というのがどんどんと薄く、狭くはなってきているので、 セブンの期待するほどの“日本語理解力”はそれほど求めることは難しいのかもしれない まあ、紐のは確かにアスペルガー寄りなんだけどw ただ、仏教とか特定の文化カテゴリーに足を踏み入れて何か言論行為をなすにあたって、そのカテゴリーのレトリックを踏まえず、一方的に元来から持っている自分の了見を押し通すのはね…… ……あ、なるほど、宝珠がどうりで紐に秋波を送るわけだw いやもうね、宝珠たんのUFOとか真顔で言ってるのと同じ路線で「本当の仏教ガー」ってやられると本当、 エクソシシズム必要なんじゃないかと 「俺は見た見たって」言い張るんだけど、 尊師よ、眼は私の物です って悪魔のセリフのまんまだしね そんな人の見た弥勒菩薩なんて もう99.99%本物の弥勒菩薩じゃなくて あれだよね 「悪魔のもの」である眼が見させている経験を何の疑いもなしに丸呑みしてるだけだよね >>755 全員が全員自動的に転生されるのか それとも生前の世に未練を持って迷うのか または転生するものとこの世に止まり続ける者に別れるのか? そもそも肉体と心のどちらに主体が有るのか? 死後も心が有るとして それは永遠に有るのか? それとも一時的な仮の現象に過ぎないのか? 永遠に有るとすれば恐竜や原始人の霊が見られない事の説明が付かないし 直ぐに自動的に転生するので有れば死者の霊が目撃される事の説明が付かない 或いはフアントム・ペインの様に生者の心に帰属する幻痛が産み出す錯覚なのだろうか? 貴方はどう考えますか? >>760 有り難うございます ゴーディカ経を始めて読みました ですが 私の問いかけはそのレベルに達する遥か以前の俗人の死後に対するものです また文中の黒い煙の様なものの表記で亡くなった身内の顔から出た同様のものの正体が私の直感と合致していて納得が行きました 重ねて有り難うございます >>743 そこはジンバブエのインフレ率とか宇宙の膨張率とか、具体例を上げてやんないと、バカは納得しない…… あ、しないからバカなんだっけ。(笑) (^。^)そうそう、だから係わりたくないんだった。(笑) >>724 いや、「人が転生しない」ですよ。 例えば、数劫の間地獄にあるという場合、生命の歴史は数十億年なので、それは未来の話であり、 現状は永遠に地獄に在るのと同じことです。 また、何かに封じられれば、転生も何もありませんし。(笑) そもそも、マクロな観測が出来ないんだから、「全て転生してる」とは言えないんですがね。 全て個人からの観測の伝聞でしかないので。 霊に関する通説は、 「太陽は毎日昇って沈む」ように見えるから、「太陽が死と再生を繰り返してる」と信じるのと同じく、 見たままを信じてる「素朴実在論」レベル。 これと「輪廻」を同じレベルで扱うのはね。(笑) (^。^)もう、宝珠いじりは飽きました。(笑) 後は頼んだぞ、諸君!(笑) >>762 他人の言葉にはうるさいが己の言葉にはいい加減な承狂大先生かよww 俺は列車の乗車率などで100%を超える表記は許されるが〜と念を押しているw 何でも全て駄目だなどとも言っていない。 お前は人の何を読んで偉そうに茶々をいれているんだ?カスがw ↓こういう表記で100%を超える表記は駄目だと言っているんだよ。 >500%お釈迦さんの系譜ではない >200%西洋的価値観の人間。 200%あり得ない〜 500%そうに決まっている〜 なんて頭の弱い人間が言う言葉だw そんなに頭が弱くて僧侶が務まるのかよww だから辞めろとwww それに輪廻転生なんてのはインド地方の信仰にすぎず、体験例として上がっているのも そのほとんどがインド辺りのもので、世界的に他の地方での報告例はごくわずかしかない。 臨死体験の報告例が世界全体に偏らずあるのに対して輪廻転生はインドに偏っているのは インドの信仰のバイアスがかかているからだろうなあww >>762 > >>724 > いや、「人が転生しない」ですよ。 それは失礼しました 宇宙が崩壊する時、第2禅定地未満の存在がどうなるのかという話もありますね 地獄界の連中は「他の」宇宙の地獄界に転生するしかない、というような話もどこかで聞いたような 転生するしかない、という話であって、自動的に転生するシステムになっているという話ではないですからね まあどこまで仏教的に通説なのかも不明ですし 愚か者が人に生まれるのは奇跡 たとえば、穴の一つ開いたくびきが海に浮かんでいて、一匹の盲目の亀が百年に一度浮かびあがって、たまたまそのくびきに頭を突っ込んだぐらいの奇跡。 「それはどうしてでしょうか。弟子たちよ、 (地獄、畜生、餓鬼といった)悪趣には、法に適う行いがなく、正しい行いがなく、善を積むことがなく、徳を積むことがないのです。 弟子たちよ、そこには足の引っ張り合いがあり、弱肉強食があるのです。 弟子たちよ、そのようにして、その愚か者が幾久しい歳月の後に人という境涯にやってきますが、そのときには、卑しい家−−チャンダーラの家、猟師の家、竹籠作りの家、車作りの家、あるいは屠殺者の家に生まれ変わります。 ・・・そこでは衣食を得るのが難しいのです。 それでかれは容色悪く、容貌醜く、病気がちです。 目がつぶれていたり、手が曲がっていたり、足をひきずっていたり、半身不随であったりします。 また、食物や飲み物や衣類や乗り物や花環や香料や塗油や寝具や家屋や灯明も手に入れることができないのです。 かれは悪しき行いをし、悪しきことばをしゃべり、悪しき考えを抱いてから、死んで肉体が滅んだ後、幸なきところ、悪い行き先、落ち行く先である、地獄に生まれます」 博打ですべてを失ったとしても、地獄に行くことに比べれば取るに足りない。「弟子たちよ。これこそ、まさに愚か者の完成する境地なのです」 (中部経典 第一二九経 癡慧地経) >>767 個別具体的な他者に対する害意ではなく、 仏法 という抽象的なものに対する「盗み」ってどうなるんでしょうね? エキノコックス星人がやらかしているかもしれないという >>768 横からすみません 造られた法なら盗みも出来るだろうけど 始めから有る法なら盗む事も所有する事も不可能ではないのですか? 寧ろ万物が法の支配下に有る訳ですから >>769 そういう意味での「盗み」ではなく 「仏」法 を 「コンコンチキ」法 とか、ラベルを貼り変えてしまうということです 相対性理論を「アインシュタインではなく俺が発見したんだ!」と強弁したりするような >>770 ああ久遠実成の日蓮が釈迦を産み出したという様なアレな人達のそれですね? 彼はちゃんと話せば解らない人ではないし そこまでではないのでは? からかう様な物言いに反応して少し制御が効かなくなる感じはしますが 仏以外にも仏教VIPである弥勒菩薩や大梵天サナンクマーラの名を騙っている嫌疑もありますけどね その場合は名や権威を盗んでいることにもなりますね >>771 そんな酷いのがいるんだw 専ら話題にしているのはこのスレ参加者のUFOおじさんです >>774 日蓮本仏論は個人じゃなくて宗派まるごとなんで 酷いなんてものじゃ有りません 笑 そういう人達に絡まれてバトルしてると大抵の人は許容範囲内になりますよ >>772 そういう体験は個人的なものだから否定も肯定もしない方が良いのではないですか? 有ると言っても無いと言っても推量による断定だから確証には至りません 私も未確認飛行物体本来の意味でなら見た事は有るけど それが異星人の乗り物かどうかは確認出来ていませんので真偽保留にしています 現代では写真や映像も完璧な証拠にはならないし 誰かの経験と誰かの未経験だけで論じるのは余り意味を持たない様に思います 経験者で肯定派 経験者だけど否定派という様な細分化が適切かも知れません 確認出来るものは確認して 確認出来ないものは保留というのはどうでしょう? その方が仏教的だと思いますが? >>776 まあ、一般論としてはそうでしょうね 今、現に、このスレで訳の分からない偽の仏教像を語っているUFOおじさんは その個人の体験をここでねじ込んで来ているわけ なのでその行動ぶりから逆に何だかこれは異常だなってなるのね 冷静な姿勢の個人と個人のそれぞれの主観体験を別にとやかくするようなとこじゃないのね そこまで主観に踏み込んで客観で行き過ぎるのは紐だしw >>777 皆さん高度なお話をされてるのに僅かな違いで言い争うのは少し勿体無い気がしますね 既に知り得ている素晴らしい事を実践出来ていないのは見ていて歯痒い思いです 宝珠氏も皮肉ったりからかったりされなければ落ち着いて話の出来る方だと見えますので お互いに揶揄や皮肉を交えずに話し合われてみてはどうでしょうか? 一定以上の宗教知識と理解が有る同士がVIP板みたいな煽り合いをしてる様に見えてしまいます >>779 それが11年に渡ってこうだと思うとですね……(苦笑 結局、自説の確認行為しかやっていないんじゃないかと 私は、一代のおかげで、 「なるほど、そういう視線なら、(奈良さんの仏教風呂敷論よろしく) 阿含から“近世”日本仏教まで、ちゃんと仏教として(ブッダの教えとして)筋が通るのね」 と、視野拡がったけど。 別に非仏説とは言わんけど、理や筋は曲がり過ぎじゃね? と思ってたからw そんな彼も、日蓮さんは嫌いだったみたいだが・・ >>781 原始経典から密教迄を緻密に見れば糸は見えると思います 日蓮はその糸を法華経でおしまいにしてブチッと切るから嫌われるのは当たり前という気がしますね 華厳の一即多 多即一も 密教のシンボリズムも彼の視野に入らなかったのかなと思えます ああ、ここにも・・・w つか、仮面被った一代だったりして。 欲求を抑えられず、再び書き込んでるのかという気がするほどw、 ここ暫く、同系統の匂いの書き込みが続いてるので。 >>784 違う、その人はマインドフルネススレで念を保っていながら車のドアを閉め忘れたとして有名な人。 しかし7はいつまでも一代に恋い焦がれているんだな。 彼の再来を待ち続けるために5ちゃんねるを続けているかのようにみえる。 >>785 ああ、大乗(及び中観)って、こういうことか・・ という実例を見せてくれた点で、手帳に名前を残したくなる人物w つか、龍樹に関しては、 (今でも、 「尖り過ぎてて要らない、という判断をしてもいいんじゃないか」 とは思ってるけどw それでも)、 「縁起」という在り様の考察(及び教理面での発展)に関して、大いに参考になった。 >>788 補 「尖ってる」のは(理としての)中論だけで、 他は、ちゃんと(易行も含め)順を踏んだ行論だ、という 彼の言葉にも頷きはするけれど。 一代氏って宝珠に対しては当時からかなり否定的だった気が 過去スレ確認すれば分かることだけど(サボりスマヌ 宝珠は昔議論スレでその一代を含む色々なコテと議論してたのが楽しく懐かしい思い出ででありその続きをやりたくてこういうスレを立てている >>759 h t t p :// mailseijin. bl og129. f c 2 . com / bl og-entry-274. h t m l 漢訳は、その訳経のスパンの長さから、 「文体・単語・文意等で、古形を残している可能性」も高いのだけれど、 同時に、 「当時の価値観に合わせて、訳し方に語義の変更を加えているケース」も多い。 (というか、「6・7・8割がそうだ!」というのが、「格義仏教」という批判語なわけで) で、無我を初め、様々な中国的訳語を批判しながら、「真人」は無批判にそのままとか、 どんだけ御都合主義だよwと。 >>宝珠 「真人」を受け入れるなら、同じように「無我」も受け入れとけ、っていう話。 そしてもし、宝珠が、 「ちゃんと、語の意味内容を吟味して、正しい(―仏陀が説いたと思われる意義―) 訳され方、使われ方、解され方がされてる語は採用し、 そうでない、間違った(―仏陀が説かれていないと思われる意義―) 訳され方、使われ方、解され方がされてる語は採用しない」 というスタンスならば、 (私も含め)多くの対論者が、全く同じ思い・スタンスで、貴方に反論している、 ということも、 十分理解できる筈なんだけどね・・・。 >>799 補 その意味で、 大乗の末席にあることを自覚する者は、 「常楽我浄」を、仏説として、縁起の理の上に、まことしやかに説明できねばならないわけでね・・。 (まあ、だから 「涅槃の四徳」という逆相を設定していくことになった、 と、個人的には類推するのだけれど) ただ、その説明の際に用いる構図が、 キ教的なるもの神智学的なるもの古代中華的なるもの、 そして古代インド的なるもの、でないことが、ただただ希われる・・・・。 何て言うか、仏法を盗む、というか勝手に別物にして読み替えてしまうような真似をすると、 業論的には、 その業報として、 その者から、仏法が盗まれてしまう つまりダルマの深い真実に到達するという縁を自ら断ち切ってしまうという自業自得に陥るんじゃないかという気がするんだよね あ、それで今現にそうなって(現法受業)、悪循環してるわけか(苦笑) 完全な自己否定しか救いよう(改心のチャンス)はねーな 龍樹「空七十論」 第62詩頌から第66詩頌 真実を見ることによって4つの倒錯(無常を常と見ること、苦を楽と見ること、不浄を浄と見ること、無我を我と見ること)がなくなり、 4つの倒錯に縁って生起する迷い(=無明)もなくなる 迷い(=無明)がなければ行(=生成のはたらき)は生ぜず、その他の十二支も生じない Aに縁ってBが生起するという相互依存関係にある存在と無存在も、生成変化するものと生成変化しないものも、実体としては寂静だ そしてそれこそ涅槃ということに他ならない 「Aに縁ってBがある」というものを真実に実在するものだと妄想することこそ迷い(=無明)に他ならないと尊き師は言われた この迷い(=無明)から十二支が生ずるのだ 真実を見て、「実体はない、空だ」としっかり知るならば迷い(=無明)は生じない これこそ迷い(=無明)の滅であり、これによって十二支も滅する ということで、龍樹の立場に立つと 常と無常 楽と苦 我と無我 浄と不浄 は此れあれば此れありの相互依存関係にありはたまたそれは単なる名称である それらを真実に実在するものだと迷妄することなく全ては空であると知れば執着を手放し解脱できる 真の世界の実相は「不常不無常、不楽不苦、不我不無我、不浄不不浄」であり、涅槃の如しである。 という感じになるかな? >>805 素晴らしい 先日寝ぼけてて 涅槃とはそれらの対立概念のどちらにも行かない境地だという考えが浮かんだのですが合ってますかね? 結局 それ以上の説明は出来ないし 出来ても不要なんじゃないかと… 生滅の間 有無の間 光陰の間 過去と未来の間 輪廻の間 天地の間‥等々の中間の領域に止まる事でしかないのかなと それなら「〜ではない論法」からはみ出さないで成立しますから >サンジャヤ・ベーラッティプッタ 不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。 可知か不可知か 可能か不可能か のどちらかの立場を取らないという違いが有りますね それに判断の留保ではなく停止だと思います 有無の二見を邪見とする仏教ではどのような見地にも立たなくなる事が望ましいのではないかと… >>806 そうですね、龍樹における世俗諦と勝義諦の思想で対立概念という世俗諦を超えたところに空である勝義諦があるというのは、かなりブッダの思想に忠実なのではないかと思います。 時間がないのでとりあえず参考サイトのリンク 龍樹と輪廻転生 石飛道子 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html (特に 善悪と空 が考えを理解する上で分かりやすかったです) 中部経典 第117経 『聖道経』 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429& ;id=29096929 (世俗における正しいものの見方と世俗を超えた(比丘用の?)正しいものの見方という考えは龍樹の世俗諦と勝義諦の思想と同じなのではないかな、と思いました) >>795 所詮は、それらの諸宗教の教義レベル、 及び単なる心霊主義者とニューエージの類には分からないことだ。 すべてを分かっている者は、 本物の覚者レベル(ゴータマ仏のみならず)と神智学のみ。 尚、仏教というのは実に古いものであり、知りたい肝心なところはすべて無記で無回答ばかり。 (そして、「そのときがくればいずれは分かることとして、今のあなたには無用な知識だと戒められるか、 または、<もしも、知りたければ自ら体験せよ!>といわれることになるのが仏教だ) 従って、知的(知識的)に理解する残された唯一の方法は、神智学の学習だけだということ。 その神智学には無記はなし!!(その代わり当然、凡人や一般人には無用な知識が多く、 また、常人の理解を遥かに超えた内容で満ち満ちている。それが神智学というものだ) それらの疑問ついては後で回答します! >>784-785 一代を待ち望んでも無駄!! たとえ来たところであなた方に勝ち目はないから(ゼロ) >>790 アートマン肯定派だから、そりゃ〜当然でしょ! (ブッダがアートマンが在ると説いたとはいってないが) >>791 >>793 書籍やサイトページなどによる情報発信というのは他にもいろいろとある。 ただし、その殆どは対話のできない一方通行ばかり。 この私は、仏教を唯物論化している者に対して、そして、間違った無我の理解によって、 唯一の真理は仏教だけで他はすべてダメだとする偏見に対して、 それらと徹底的に議論するためにこれらの各スレを起こしてきたのです。 つまり、どこがどうダメで間違っているのかを具体的に指摘すること。 そしてまた、その人達の持つ疑問に対して明確に答えるためです。 それを続けてたら、なんともう十年を超えてた...。 なので、これは“アソビ”ではないの!! 龍樹ばかの誕生である、か。 大爆笑である。 なんでか。 有無の二見を邪見とする、か。 対立概念のどちらにも行かない、か。 それが、空、か。 バカ丸出しである、よ。 なんでか。 その、空、を否定したものが正解である、からである。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>721 >>797>>798 >>800 あのね... 文句があったら中村氏にいってくれ!!! http://ifsa.jp/index.php?Gnakamurahajime http://www2s.biglobe.ne.jp/ ~posteios/PROJ_B035.htm これまでも何度かいってきたけれども、しかし、ホントにあなた方は“直訳”が好きだね! ハッキリというけれども、「直訳」というものは極端な話が翻訳辞書と最低限の基本ルールさえ押さえれば、シロウトの誰にでもできるものだ (ちょうど話に出てきたようですが、見たところ石飛氏もそうだ。結局、殆どが直訳ばかりだから、まともな意味が通り難く全体的にギクシャ クした感じの文章が多い。ただの直訳しかできない下手くそ文章の典型だ)。 ただの単語直訳でいうのならば、そもそも「アートマン」の単語だって本来は「息」(気息)ということであって、そこには“恒常不変なる 真実の自己”などという意味はない。しかし、もちろんウパニシャッドが説いているもの、その指し示しているものというのは「息」の話をし ているのではない。そんなことは当たり前の話だ。それをあなた方は、「この単語は息だ。気息のことだ!」と言い張ってるも同然。 この「真人」と訳して使用したのは中村 元氏ですよ(私は自分の先生以外は決して「センセ」とは呼ばないけど)。この方を舐めないほうが いい...。中村氏にはいつも、神智学関係でもご理解とご協力を頂いています(神智学の最高原典である不朽のブラヴァツキー著『シークレット ・ドクトリン(秘密教義)』の翻訳書の帯に有難い推奨文を頂いた。実に本物のプロだけに神智学の評価は認められるのです)。 『[帯の文章] シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。本書は1888年に出版されて 以来、アインシュタインやカンディンスキー、イエーツやモンテッソリなど20世紀を代表する西洋の思想家や科学者、芸術家たちに多大な影 響を与えてきた。 H・P・ブラヴァツキーは、アジアの人々に自分たちの宗教的、文化的伝統の尊さを自覚させ、アジアの精神的復興に大きく貢献した。 (東大名誉教授/中村 元)』http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info& ;products_id=11258 世に知られる仏教学やインド哲学の専門研究者たちの殆どが皆、この中村氏の弟子かその教えを受けた者ばかりであり、中村氏の影響を受け なかった者などいない。この中村氏の天才ぶりとその偉大さは並の学者陣のレベルを遥かに超えたものだ。その歴史的に最も偉大な天才的な研 究者であった中村氏が、何故、この「真人」などという一風変わった言葉をわざわざ「araham」の訳語に選出したのかということ? その意図を感じ取らないでいて、ただ単純に単語の直訳と比較して判断する愚ではとてもそのことを理解することなどできないと思う。ちょ うど輪廻転生の否定論者たちの殆どがいつもやってるような経文の中のごくごく短い部分的なところや一つの単語だけを抜き出してきて、「〜 だから輪廻転生はない」といってくるのとまったく同じ勝手都合の卑怯なやり口と一緒だと思う。 それが本当に正しい訳であるか? 正しい理解であるかどうかというものは、必ずもっと全体でもって、つまり、その文章のあるところの節全 部や章全体とか、そして当然、それは「仏教経典」全体の意図するところとの符合性において判断しなければダメに決まってる。 その第五節の『敬わるべき人』を読むならば、それは「“わたしが語る”と言ってもよい」ということであり、そしてまた、「言語表現だけの ものとして<<仮に>>そのような表現をしてもよい」といっている。訳注で中村氏は、ここでいう「わたしが語る」のわたしとは、存在の有無が 議論される「アートマン」のことだとハッキリ指摘していることが極めて重要だ。であるから、このアートマンとは真実の自己である真我のこ とであり、これについてブッダ自らが言語表現としては「アートマンと言ってもいいよ」と話したということをここで指摘してるのです。だか ら、わざわざ「仮に」とか「言語表現としてはいい」という断り書きがブッダによってここに付け加えられているわけです。ただ単に、普通に この単語のままの「阿羅漢」(如来の十号の何でもいいが...)の意味でいいんだったならば、わざわざブッダがそれらの断りをいちいいち話の中 に入れる必要性がないでしょ!! 「araham」なので阿羅漢でいいんだ、その限られた意味でいいということだったならば、この断りを附け加える ことの理由がないから。「araham」だから阿羅漢と訳すでは、普通にただ当たり前であって、その断りを附け加えた全体の文意にはまったく適さ ないものです。そこで中村氏は文意文脈と見事に符合して、尚且つ、「わたしが語る」のアートマン(真実の自己)ともリンクできる漢字熟語の 「真人」をこの適語として敢えて採用した。これは中国では究極の完成者の意味であり、そして文字通り、日本人からみれば真実の人を意味す る語だとすぐ分かる熟語となっている。なのでこれは、天才中村氏だからこそできた的確で神業的に見事な翻訳となっているのです。これがあ まりにも適した訳語だったので、たぶんご本人もすごく気に入られたと見えて、この「真人」は『パーリ涅槃経』の翻訳でも随処において使わ れているのです(例:第一章p14.p29、等々)。 ということで、もいい加減にその一つの単語の原語だけで判断するなんてのは、そろそろ卒業してはどうなのかな? >>799 皆さん、遠慮してるだけ。 ハッキリいうならぱ仏教学上は「無我」という漢訳などは誤訳以外の何ものでもないから。 815.無我、を理解できないバカ宝珠である。 よって、真我、真人、も理解できないバカ宝珠である。 大爆笑である。 >>813-815 追記: そして、もしも本当にアートマンのアの字も存在しないのであれば、 そのことをブッダ自らがシカと確認済だったのならば、 それが仮に表現だけであろうとも、ブッダが弟子たちに“私(アートマン)は語るといってもいいよ” などと言うことは在り得ないでしょ。「それはとても可笑しな表現だから辞めなさいな。 完成者であれば物事は正しく語り、それらの迷信的な誤解を産むような相応しくない表現は止めなさい」 という筈ですから。 >>818 「真人」とは、この私の本名のことだ。 このバカタレが!! おまえは引っ込んでなさい! >>809 有り難うございます 大般涅槃経に有る「法を見る者は私を見る」の意味が少し解りかけて来ました つまりブッダは存在と非存在の中間の状態即ち空に永遠に止まる選択をしたのだと思います 空の中に於ては全ては空なのでどれとか彼とかの代名詞が全く通用しなくなり 自他の区別も生滅も無くなるから何の不安も無くなるという事でしょうね 識別が止まるというか識別のしようが無くなるのだと思います >>817 >>>818 「真人」とは、この私の本名のことだ。 このバカタレが!! おまえは引っ込んでなさい! 私は真人の話なんてしてないけど 何か? >>812 ばかしか言えない貴方の悟りを誰も求めて無いから コメントは不要ですよ マーラは望まれていない存在だと覚って口をつぐんでください >>817 大変.失礼しました。 >>816 ポッタン師宛てのアンカーミスですm(__)m すみません。 南伝大蔵経は ・6巻DN3阿摩畫(アンバッタ)経での「阿羅漢」の訳として ・6巻DN1梵網経での「如来」の訳として ・9巻MN1根本法門経,2一切漏経、22蛇喩経、 10巻MN44有明小経、46得法大経、64摩羅迦大(大マールンキヤプッタ)経での「善人(sappurisa)」の訳として、 使われてる。 其々訳者は ・長井真琴 ・宇井伯寿 ・干潟龍祥 >>真人 ただ、それぞれ、ほぼ一回か数回ずつのピンポイント用例。 梵網経やアンバッタ経は、それぞれ38頁132頁。 (参:南伝大蔵経総索引) 梵網経当該箇所は、所謂「無記」の段。 「( )はその死後に存するや、( )はその死後に存せざるや、云々」 末尾註の(宇井さんの)文章 「真人(tathAgata)は、如来の原語と同じ。 如来は仏陀の自称なること阿含経蔵において通例なれど、 ここにては詭弁論者の用うる語にて仏陀を指す理なし。 註釈者〔ブッダゴーサ〕も此の場合には有情の意味と同じとなす。 此の経の説時とせらるる頃に、外道の間、又は仏弟子の間に、 仏陀の死後を問題とすべきが如きのあるべき理なし。 故に如来と訳さずして、単に真人と訳したり。」 大正蔵経 阿含部「真人」検索 583 hits 大正蔵経 阿含部「阿羅漢」検索 10143 hits 大正蔵経 阿含部「応供」検索 2538 hits ちなみ5 大正蔵経 阿含部「無我」検索 10093 hits 大正蔵経 阿含部「非我」検索 3137 hits https://i.imgur.com/s8mYw6T.jpg https://i.imgur.com/hIFdNwZ.jpg まあ中村元氏においても真人を使う場合そこに真我アートマンを匂わす意図で使っていないことは、本人の注釈から察せられますね。 アラハットを神のような存在にまでしているのは仏教ではなくジャイナ教である、と。 直訳なら「応供」一択。 阿羅漢は音写語。 意訳なら、 人々から敬われるのは、その価値があるのは、 「完き人」「(道徳的宗教的に)正しき人、真っ直ぐな人」であるといった意味合いで 「本来の、あるべき姿の人」→「真の人」→「真人」 が、自然な読解。 もっと直訳すれば「敬人」「尊人」、「被敬人」「受尊人」とか「有価人」とか? >>arahant あとは、 意訳の射程をどこまで拡げるか。 確かに、阿羅漢は「悟った人」であるから、 「悟った人」を形容する呼称を、そこへ持ってくることを妨げる理由はない。 (翻訳はセンスだから。月が綺麗ですねじゃないがw) だから、極端な謂いをすれば、arahantのところを仏陀と(或いは如来と)訳してもいい。 まあ、さすがにそれは混同が過ぎるというか不便なので、違う言い方を捜した方が良さそうだが・・w Aという原語のA’という単語があって、その意味にaやbやcがあって、 Cという原語の持つcという意味に合わせてCの語の訳にA’を使う時、 それがcの意味であるということが等閑視され、ましてやaの意味で解されるようなことがあるなら、 その訳は不適切だし、せめて読解に於いて注意されるべきだろう。 さて、「arahant」と「真人」の関係はどうだろうか・・・。 雑阿含二十二 阿摩畫経該当箇所 時に、沸伽羅娑羅婆羅門は 『沙門瞿曇釈種子の出家成道し大比丘衆と 〜 十号具足し、 諸天、世人、魔もしくは魔天、沙門婆羅門中に於て自身作証し、 他の為に説法す。上中下善く義味具足し、梵行清浄なり。 此の如き「真人」に往いて親観すべし』 と聞きぬ。 我れ今、寧ろ沙門瞿曇を観るべし。 (定めし三十二相有るが為に名聞流布せむ。 実を称すと爲すやいなや、當に何かの縁を以て仏の相を見るを得べし。 復た此の念を爲して謂う。今我が弟子の阿摩畫は、 〜 三部の旧典の諷誦通利し、 種々の経書を尽く分別す。又、能く大人の相法、祭祀、儀礼を善解す。 唯だ此の人有りて仏を観て、相の有無を知らしむべし。云々) >>815 〔神霊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったならば、 彼は『私は言う』と言い得るのであろうか。また彼は『彼らは私へ言う』と言い得るのであろうか。」 〔世尊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、彼は『私は言う』と言い得る。 また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。 善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」 https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c25.files/sheet001.htm >善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」 龍樹に言わせればそれこそが世俗諦だということになると思います。 八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。 九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。 一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。 (「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察) https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406& ;id=9530364 この二つの真理の区別を知っている人々が生存の素因を滅しつくして最終身となった阿羅漢(中村元氏の訳だと真人)で、 区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」という意味に恐らく龍樹は説くと思います。 まあ、そうではないか、と私(自分)が思っているから上の推論になるわけですが。 >>835 区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」という意味に恐らく龍樹は説くと思います。 ↓ 二つの真理の区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」とブッダは説いた、と恐らく龍樹は説くと思います。 >>28 を再掲載 ブッタ 「じつにポッタパーダよ、私にとって、我の獲得体は三〔種〕あります。粗大な我の獲得体、意所成の我の獲得体、無色の我の獲得体です。」 「チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我(アートマン)の獲得体)による言説をなします〔が〕、 じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」 https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c04.htm 龍樹 五 業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的議論(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。 六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。 七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。 http://matsunamilab.cocolog-nifty.com/dharma/2015/07/2002-8dee.html やっぱり龍樹はブッダに忠実だと思います。 837.業と煩悩が滅びてなくなる、ことはない。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>835 そんな面白いページがあったとはw 真宗系は学者肌多いからなぁ・・。 けど、こうして、 いつか片山訳が定番とならんことを願うw けど、全部が全部は分解してないのね。(やりかけてるから自分でやるけどw) 片山訳届いたら、こっち「私が語る」の方も詳説します。 ノシ >>839 はい、そしてリンク先の原文では私はあくまでAhaṃであり、我attā(梵語だとātman)ではないんですよね。 アーガマで定型句となっている 比丘たちよ、◯◯は無常である。 無常であるから苦である。 苦であるから無我である。 無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。 はつぶさに見ていくと わが所有 もの 「私のもの」(パーリ語: mama मम) 我 「私」(パーリ語: ahaṃ अहं) わが本体 「私の我」(パーリ語: me attā मे अत्ता) あくまで2番目の私ahaṃまでは阿羅漢は言い得るのであって、流石にattā(ātman)は言うということまで慣用句であるから言ってもよい、とまでは説いてないようです。 従って 『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。 わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』 (『ブッダ神々との対話』) という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。 この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。 取り敢えず、宝珠自身の言葉から、一文引いとこう。 *(ここまで【私の】意見を解ってて、まだ言うか?って感じだけど・・w) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533070464/488 > 『言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである』>> 463 > セブンは、この後半部分を指して、ただ言葉上での仮の表現に過ぎないのであって、 > だから、それはアートマンが在るという意味などではない。 > アートマンが無いから言葉の表現を使っているだけだ。 > もしも、本当にアートマンが在れば、ゴータマはハッキリ「在る」と断言している筈だ。 > という見解でしょう。 普通にブッダのアーナンダとの間の会話だと 「無我」 が当然の共通認識としてあるので、 「なぜあの外道に無我とはっきり言わず、無記だったのですか?」 と言われて 「外道がショックで錯乱するから」 と、相手に合わせた対機的対応だったというやり取りがあったのだから 無我でFA ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる