果たしてオウム・Aleph・ひかりは完璧か?314
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アーナンダよ、修行者たちは私に何を期待するのであろうか?
私は内外の隔てなしに法則を説いた。
真理到達者の教えには何かを弟子に隠すような教師の握り拳(隠し事)は存在しない。
「私は修行者たちを導くであろう」とか、あるいは
「修行者たちは私に頼っている」とこのように思う者こそ、修行者たちに何かを語るであろう。
しかし、真理到達者は
「私は修行者たちを導くであろう」とか、あるいは
「修行者たちは私に頼っている」とか思うことがない。
真理到達者が修行者たちに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
私の齢は八十となった。
たとえば、車を引く年老いた牛がムチを打つことによってやっと動いているように
私も自分にムチ打つことで動いているのだ。
しかし、真理到達者が一切の相を心にとどめることなく、一部の感受を滅することによって
相のない心の集中に入ってとどまるとき、そのとき、私は快適なのである。
サマーディ
それゆえに、この世で
自らを島とし、自らを拠り所として、他を頼りとせず
法則を島とし、法則を拠り所とし、他を頼りとせずにあれ。
〜 仏陀の言葉 マハーパリニッヴァーナ経より 〜 修行者たちよ、修行者が欲(意欲・チャンダ)によってサマーディに至り
心が一点に集中する状態(チッタ・エーカッガター)を得たならば
これを名付けて欲サマーディという。(チャンダ・サマーディ)
修行者たちよ、修行者が勤(努力・ヴィリヤ)によってサマーディに至り
心が一点に集中する状態(チッタ・エーカッガター)を得たならば
これを名付けて勤サマーディという。(ヴィリヤ・サマーディ)
修行者たちよ、修行者が心(チッタ)によってサマーディに至り
心が一点に集中する状態(チッタ・エーカッガター)を得たならば
これを名付けて心サマーディという。(チッタ・サマーディ)
修行者たちよ、修行者が観(観察・ヴィーマンサ)によってサマーディに至り
心が一点に集中する状態(チッタ・エーカッガター)を得たならば
これを名付けて観サマーディという。(ヴィーマンサ・サマーディ)
〜 仏陀の言葉 「神足相応」より 〜
修行者たちよ、サマーディを修習しなさい。
修行者たちよ、サマーディに入った修行者は実感する。何を実感するのか。
「これは苦しみである」と実感し
「これは苦しみの生起である」と実感し
「これは苦しみの滅尽である」と実感し
「これは苦しみの滅尽に至る道である」と実感する。
修行者たちよ、だから
「これは苦しみである」と心を集中しなさい。
「これは苦しみの生起である」と心を集中しなさい。
「これは苦しみの滅尽である」と心を集中しなさい。
「これは苦しみの滅尽に至る道である」と心を集中しなさい。
〜 仏陀の言葉 「真理相応」冒頭より 〜 心は胸の奥の洞窟にひそんでいる。
この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜
わたしは内側に光を燃焼させる。
永遠の火を灯し
常に心を静かに集中していて
わたしは清浄行を実践する。
心臓は光の場所である。
よく自己を整えた人が人間の光である。
真実と法と自制と清浄行
これは中道によるものであり、ブラフマン(宇宙原理・宇宙全体を満たしている光)を体得することである。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜
懸命に修行しているバラモンに
もしすべての真実が明らかになれば
彼を魔を打ち破って端然としていることができる。
あたかも、太陽が宇宙全体を照らしているかのように。
〜 成道した直後の仏陀の言葉 原始仏典より 〜 修行者たちよ、「修行者が広大無辺な心によって、光り輝く心を修習する」というのは何であろうか。
修行者たちよ、ここに修行者がいて、光明の状態をよく保ち、一日中光明の状態を完全に保っている。
修行者たちよ、このような状態を「修行者が広大無辺な心によって、光り輝く心を修習する」というのである。
〜 仏陀の言葉 「神足相応」より 〜
アーナンダよ、タターガタ(如来・真理到達者)は三千大世界(十億世界)を光で満たす。あるいは望むだけ。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜
※太陽と月が照らす範囲が一世界
一世界の千倍の世界が小千世界
小千世界の千倍の世界が中二千世界・百万世界
中千世界の千倍の世界が三千大世界・十億世界 四つの無量の心がある。
友よ、ここに修行者が
慈しみに満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の方角に広げる。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
慈しみに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
哀れみに満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の方角に広げる。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
哀れみに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
喜びに満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の方角に広げる。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
喜びに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
平静に満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の方角に広げる。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
平静に満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜 誰か>>297知りませんか
教義を教えていただきたくて… >>959
プルシャとアートマンは共に同じく「真我」であって、違いは無いはずです。 何と最近、上祐より恩田の方がアクセスが多い
一体どうなっているんだ? アジャシャンティの「自由への道」
上級者向けと言える内容ですがおすすめです。 (グル麻原)
ところでよ、シャンティー大師どうしてる? >>959
ウパニシャッドに「アートマンはプルシャである」と書かれています。
プルシャという言葉はサーンキャ哲学とサーンキャ哲学から生まれたヨーガ・スートラでよく使われています。
ムーラ・プラクリティ(根本自性)という言葉に対して、プルシャ(真我)という言葉が使われます。
ムーラ・プラクリティ(根本自性)が三つに分化したのがトリ・グナ(三グナ ラジャス・タマス・サットヴァ)です。 >>964
無我(アナートマン an-Atman)は、「我(アートマン Artman)に非ず」、つまり「真実の我(アートマン)では無い」という意味。
だから五蘊など無常なる事象に対して「無我(非我)」であると、「永遠不変の真我(プルシャ=アートマン)では無い」と、説かれている。 >>968
それはおそらく悟っていない修行者の視点から見た見方ではないかと…
最終的な境地では、「ではない」として否定したものすべて真実、真我そのものであった
という境地に至ると
我々は答えしか無い中で答えを探す愚か者のようなものなのかも (グル麻原)
いいか君たち。
「〜でない」と否定しても、〜をイメージするのが人間なんだね
非二元と言ったら二元がイメージされているのである。
パヴィッタ!お前は「キラキラ系スピリチュアル」がどうのこうの
必ず二元で発言している
ピンクの象を想像するなと言ったらピンクの象を想像してしまうのである
いいかな? >>971
(グル麻原)はアホじゃん
それは 『見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮』
に対するガキの感想として有名なものだな
「花も紅葉もない」と言いながら、「花と紅葉」がイメージされて
華やかさを感じるという低脳の感想に過ぎない
「貧乏だからトンカツもステーキも食えず、食パンの耳とカップめん
だけだ」と言ったら、トンカツやステーキがイメージされて豪華な食事
している気になると言うのと同じアホのレベルだぞ 修行者というものは、唯物論ではなく、想念主体の考え方をする人たちなんだ。
多分。 >>969
>それはおそらく悟っていない修行者の視点から見た見方ではないかと…
>最終的な境地では、「ではない」として否定したものすべて真実、真我そのものであった
>という境地に至ると
>我々は答えしか無い中で答えを探す愚か者のようなものなのかも
悟っていない者が頭だけで考えた(妄想した)だけの、「ただ、ある」系統の典型的な謬見解ですね。
非認知非非認知境や想受滅の体験どころか基本中の基本である現世捨断すら出来ておらず
未だに日常の五蘊に意識が埋没している者がネットや書籍で読み囓った言葉面の知識を振りかざすから、
サキャ神賢真理勝者が何故五蘊無我(無常なる五蘊は、真実の我でない)などの形で法則を説いたのか理解出来ぬまま
「否定したものも全て真実ニダ!」等と嘯いて平気で煩悩を修習し真理を否定し下位のチァクラからエネルギーを漏らしながら無智無明に埋没し続ける訳です。
末法世になると、こういう偽覚醒者が出鱈目な法則を説き「瞑想セミナー」と称して人を集めてはお客さんにアパーナ気優位の下降エネルギーを注入して魔境に陥らせた挙げ句、
「ウリは揺さぶりに遭ったニダ!」「ウリは絶対に悪く無いニダ!ウリは被害者ニダ!」等と見苦しく責任転嫁する訳です >>972
妄想レスにマジレスとか、貴方自身がまさにアホの極みですな。 >>975
サリン仲間は同じ穴のむじな 人々を苦しめた責任取れよ >>976
自分の都合が悪くなると唐突に責任取れの話を持ってくる。
相手がどういう立場の者かなんて分からなくても無関係のようで。
そういう意味では、このスレに書き込みをしている時点で
すでにあなた自身も世の中の人からは「サリン仲間」と言われても不思議では無いのだが。
精神性、知性、共に低すぎ。 「 五比丘に五蘊無我(五蘊は我では無い)と説く仏陀釈迦牟尼 」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html
色は、比丘たちよ、自己ならざるもの(無我、anattan)である。
感受は、自己ならざるものである。
表象は、自己ならざるものである。
志向作用は、自己ならざるものである。
識別作用は、自己ならざるものである。
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。
比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、色において厭離する。
感受において厭離する。表象において厭離する。志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。
厭離するものは、貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。
滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。
為したのは、為すべきことであり、さらに、この(輪廻の)状態にいたることはない、と知るのである。」
尊師は、このように言った。心かなえる五人の比丘たちは、尊師の説いたことに歓喜した。
そして、この説明が説かれている最中に、五人の比丘たちは、執着なく、煩悩より心が解脱したのである。 「 アーナンダに空の境地を説く仏陀釈迦牟尼 」
〜 空小経・空に関する小さな経(チューラスンニャ・スッタ) 第一章 〜
あるとき、わたしはこのように聞いた。
ある日のこと、仏陀はサーヴァッティのミガーラマーター講堂にとどまっておられた。
そこに尊者アーナンダが訪れ、このように言った。
「世尊よ、以前ナガラカの町を訪れた時、仏陀は空にとどまっている、と説かれました。
これについて、更に詳しく教えて頂けますか。」
「アーナンダよ、昔にしても、今にしても、確かにわたしは空の境地にとどまっている。
アーナンダよ、汝に空について私は説こう。」
「たとえば、己の心を天空に広げていく。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ心が天空と合一すると、そのときは心の中に天空の観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「たとえば、己の心を大地に広げていく。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ心が大地と合一すると、そのときは心の中に大地の観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「すなわち、己の心をAに広げていくと、そのとき、Bが消え、Cが消え、Dが消えて、
次第に、心が空っぽになり、非Aが消えていく。」
「そして、いよいよ、心がAと合一すると、そのときは、心の中に、Aの観念だけがあり、
非Aが消えて、Aも消えて、すべてが空になる。」 第二章
「たとえば、己の心を空無辺処に広げる。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ空無辺処に達すると、そのときは空無辺処、その観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「たとえば、己の心を識無辺処に広げる。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ識無辺処に達すると、そのときは識無辺処、その観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「たとえば、己の心を無所有処に広げる。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ無所有処に達すると、そのときは無所有処、その観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「たとえば、己の心を非想非非想処に広げる。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ、非想非非想処に至り、そのときは非想非非想処の観念だけがあり、
それ以外について、あらゆる観念が空になる。」
「たとえば、己の心が無相心三昧に至る。
そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ、心が空と合一すると、そのときは心の中に空の観念だけがあり、
観念が消えて、空も消えて、すべてが空になる。」
これを聞いた、アーナンダは、歓喜し実践した。 >>973
修行者というものは、無常の物質を超え、無常の五感を超え、無常の想念を超え
永遠に存在している自己を自覚することを求めています。
仏陀釈迦牟尼はサマーディ・禅定の深まり・広がりを九段階(九次第定)に分けて説いています。
九次第定の最終的なサマーディ・禅定は
滅尽定
滅想受定
無相心三昧
と呼ばれています。
滅想受定は「感覚と想念が完全に滅するサマーディ」という意味です。 麻原の呪いだと信じて疑わない麻原スレ民にグルからの試練を与える麻原 自分に都合の悪い弁護士一家を虐殺する一方で悟りを説いていた麻原って何なん?
サリンを撒き散らして一般人を殺しまくる一方で悟りを説いていた麻原って何なん? (グル麻原)
邪悪なエネルギーは耐えられない。
だから愛する(キリッ! >>981へえ、そうなんだ。
想念も超えるんだ。
それはかんがえていませんでした。
ありがとうございました。 (グル麻原)
みんなで楽しくだーえーえばー
みんなで楽しくだーえーえばー >>983
ポアに伴う殺生の背景に瞋りや憎しみが存在すると思い込んでいる所が、如何にも修行経験が無い凡夫の見解ですな。
グルのエネルギーを使って自分自身の意識を瞋りや憎しみから完全に切り離す事が出来た経験が全く無いから、
ポアが出来る密教のグルが相手であるにもかかわらず「現世為的な利害関係から瞋りや憎しみを生じさせて殺生したに違いない」等と何の疑問も持たずに思い込んでしまうと。
此処まで根深く現世に固執し無智無明に覆われている人が、宇宙の実相を如実に認識し理解する事は不可能だと思います。 >>987
おまえ絶対に病気やな
早う病院行かんと将来おまえも麻原みたいにサリン作るようになるで
あぶないやっちゃ >>988
自分が理解できないことを少しでも理解しようと努力するのではなく、病気という一言で排斥しようとする。
それこそが現代人に巣食う病気ではないですか。 >>988
ほらね。
貴方自身の意識が無智無明に覆われていて、自と他を区別する瞋りや憎しみだらけであるという事を、自ら証明して下さいました。
その様に御自身の意識が未だに欲界に縛られ苦界を彷徨っている事を自覚出来ない内は、真理を理解するどころか修行を始める事も出来ますまい。
>>989
今の人間界は、世界中で嫌悪が蔓延しています。
非常に幼稚かつ低レベルな意識状態のまま、観念的な正義感に酔いしれて独善的・排他的嫌悪を発しているだけという、かつての“みのもんた”風の「正義」マンが多くみられるようになったのも、その影響です。
日本国内だけでなく、米国の現大統領やイスラム原理主義者やお隣の二つの半島国家など、国際社会でも最近特に良く見られる現象です。 (グル麻原)
それは君がが元々おかしいんだよ
自分の調子まで人のせいにすんな(笑) >>989 、>>990
おまえら絶対に病気やで 麻原とおんなじ病気やで
おまえらの家族がサリンの被害者やったらどうなんや
よう、考えてみいや >>993
この話の流れは、麻原彰晃という人がどういう考えで、事件が起こったかということですよね。
事件の被害者の気持ちを考えるのは大事なことですが、感情面ばかりを優先して事実関係をないがしろにするのは、隣の半島の国が行なっている反日運動と同じ構造ですね。 (グル麻原)
オレが虐殺したんじゃなく弟子がやったんだよ
新実君や村井君がやったんだ。
オレは家庭では優しいパパだったんだ。
なあアーチャリー?そうだよな >>81
ヤソーダラーは家で普通に虫殺してたらしいけどな 四つの無量の心がある。
友よ、ここに修行者が
慈しみ(メッター)に満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の(方角に広げる)。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
慈しみに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
哀れみ(カルナ―)に満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の(方角に広げる)。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
哀れみに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
喜び(ムディター)に満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の(方角に広げる)。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
喜びに満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
平静(ウペッカー)に満ちた心を一つの方角に広げる。同じように第二、第三、第四の(方角に広げる)。
このように、上に、下に、横に、あらゆるところに、すべての場所に、世界中くまなく、
平静に満ちた、広く、大きく、無量の、恨みのない、怒りのない心を広げる。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜 それでは、どのように苦を越えるのか。
楽にまみれる左道を越えて、苦にまみれる右道を越えて、
中道に入ってこそ、苦楽を超越する涅槃に至る。
例えば、愛する女が他の男と戯れる時、
愛する楽にとらわれるなら、嫉む苦が生じるが、
愛する楽にとらわれないなら、妬む苦は生じない。
こうして、楽と苦は同時に現れている。
楽しみに溺れると、善が減って、悪が増える。
苦しみに気づくとき、悪が減って、善が増える。
苦しみに気づいて、苦しみにとらわれると、
悪が減ることなく、悪を重ねてしまうだろう。
苦を悟ることと苦を行じることは別である。
例えば、左に曲がった矢を右に曲げる。
もし、右に曲げすぎたら真っ直ぐにならず、
今度は、左ではなく右に曲ってしまうだろう。
同様に、楽にとらわれた心を苦に漬ける。
もし、苦に漬け過ぎたら真っ直ぐにならず、
今度は楽ではなく苦に溺れてしまうだろう。
それゆえ、如来は中道を説くのである。
左の楽を越え、右の苦を越え、中の道に入る。
比丘達よ、如来が説かれた中道を修めなさい。
〜 仏陀の言葉 原始仏典より 〜 オウムて北朝鮮と秘密裏に協議しててテロが成功してたらドサクサの最中に東北から北朝鮮軍が上陸して東京へ進軍して陥落させて政府転覆させる計画だったらしいね。 「心を感じながら息を吸おう、心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
「心を喜ばせながら息を吸おう、心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
「心を集中させながら息を吸おう、心を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
「心を解き放ちながら息を吸おう、心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。
〜 仏陀の言葉 アーナパーナサティ・スッタより 〜 このスレッドは1000を超えました。
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