禅、クリシュナムルティ
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キャンプで薪割りもですかあ・・・
グランピングな感じですか? >>13
グランピングってなんですかね?
わたしはナイフが好きなので薪を使う訳です。 フェザーステック難しいですね。
ファイヤースターターで火を付けるのも難しい。 グランピング調べました。
これは・・・
不自由さにキャンプの醍醐味があると思います。
ここまで来たら家ですよね。 作務衣楽ちんだな。
坐禅とは何もしないことをする作業
さて、夜風に当たりに行くかな。 さて、お風呂に入ろっと
規則正しい生活は健全な精神が宿る。 衆生無辺誓願度
(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断
(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学
(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成
(ぶつどうむじょうせいがんじょう) 皆、たくさんの迷いをもっているが、皆の迷いを救い悟りに到ることを誓い願います。
煩悩は尽きない程たくさんあるが、しかしその根源を断ちきることを誓い願います。
仏様の教えは、計り知れないほど多いが、その教えを学び実践することを誓い願います。
仏の教えの道は、この上なく清らかだがら、その道を成就することを誓い願います。 刻々に体験するためには、一切の一体化が終わらねばならない 煩悩になり切るのは、実は本来の自己になり切ること。
わたしだと思ってるものは何一つない、全て本来の自己の現れ。
あらゆる思考、感情は本来の自己から来てるんで、良い思考、悪い思考、良い感情、悪い感情に分けるが迷い。 思考停止とは本来の自己の停止を意味する。
本来の自己の停止が空 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」 「禅の実践的探究には、まず禅の祖師方によって設けられた関門を透過せねばならない。
絶妙の悟りに至るには普通の心意識情といわれるものを完全に滅してしまわなければならない。
もしそのような関門を透った体験もなく、普通の意識を滅した経験もなしに、禅を「ああだこうだ」と評判するとすれば、その人たちはいわば藪や草むらに住み着く幽霊のようなものである。 さて言ってみるがよい。この関門とはいったいどんなものであろうか。
ほかでもない本則でいわれた趙州の「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称するのである。 もし人あってこの関門を透ることができれば、
その人は親しく趙州におめにかかることができるばかりでなく、達磨をはじめとする歴代の祖師たちと、手と手をとって歩き、たがいの眉毛が結びあわさって祖師たちの見たその眼ですべてを見ることができるし、同じ耳ですべてを聞くことができる。 それこそまことにすばらしく快いことではないか。
さあみなのもの、この関門を透過しようではないか。
それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。
日夜この問題をとって工夫してみるがよい。 しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。
一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、ちょうど熱い鉄丸を呑み込んでしまって吐くこともできず、呑み込むこともできないようなもので、このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落としてしまうがよい。 そのように長く持続して時機が熟すると、自然に「外と内」(意識と対象)との隔たりがとれ、完全に合一の状態に入る。
その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、自分自身にははっきりしているが、他人にはどのようにも語れない。 突如そのような別体験が働きだしてくると、それこそ驚天動地の働きで、
ちょうど蜀の劉備の臣で天下に豪勇を轟かした関羽からその得意の大刀を奪いとっておのれの武器としたごとくに、
「無」の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し、達磨に逢うては達磨を斬って捨てるのであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる。 それでは、どのようにこの「無」の一字に全霊を集中させたものであろうか。
それこそ君たちの平生の精神力をつくしてこの「無」に集中せねばならない。
そうして間断なく休止することがなければ、君たちの心中に仏法の灯り(悟りの光)がパッと一時につくといった境地になることであろう。」 頌(じゅ)に曰(いわく)狗子仏性(くしぶっしょう) 全提正令(ぜんていしょうれい)纔渉有無(わずかにうむにわたれば) 喪身失命(そうしんしつみょうせん)
〔犬! 仏性!仏祖の全ての命題がズバット提出されたのだ。少しでも有無相対の 考えに堕すればただちに息絶えるだろう。〕 衆生無辺誓願度
(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断
(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学
(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成
(ぶつどうむじょうせいがんじょう) 大分昔に
親しかったヒンドゥの坊さんが
日課をするときに
私は今からシャワーします
とか、言ってからするので
からかってシャワーの時間ですよ?
と言うと、少し笑いながら
はい、私はシャワーしますと
言うのが面白くて
わざと早めに散歩の時間ですよ?
とか言ってました
日課について聞いたとき
日課は最初は窮屈ですが
習慣になると
そのお陰で自由になります
と言ってました
もう15年くらい前に
バラナシで亡くなりましたが
その坊さんとの会話は
良く思い出します >>56
そう、良い思い出ですね。
さて、散歩に行こう 煩悩即菩提
煩悩も菩薩も本来の自己のもの
これをわけるのが迷い 犬には仏性がない。人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。 わーー!って大声を出します。
目の前に広がる風景が空です。 バカ座り、をやるバカである。
手段を目的化するバカである。 えらく寒いねえ
元気で健康なら
水浴びして座ったらいい気分だろうが 水浴びする意味がわかりませんね
暖房つけて暖かくしてます。
あ〜幸せ 単に私の趣向です
昔数ヵ月歩いて過ごした時に
川で水浴びしたり滝にあたったり
してから座ったりして
とても良かったので
今は無理ですが 自分を勘定に入れないで成り行き任せ・・・サラサラ生きたいですね。 おやこんなスレが
クリシュナムルティ好きでしたら
弟子のラリー・ローゼンバーグの本は読みましたか? まいっかw
Kも只管打坐も本当はノーメソッドではないからね
一応頭の片隅に置いておいて クリシュナムルティはほぼノーメソッド かな
観察者なしの観察とかあるけどね。 ここ最近でクリシュナムルティほどの覚者は居ないんじゃないかな、なのでモテて当たり前ですね。 まぁ、わたしは彼ではないんで、彼の悪口言われてもどうでもいいんだけどね。 悪口は本人に言えないなら
つまらない行為だとは思う クリシュナムルティがノーメソッドを強調するのは、慣れ過ぎてしまうと瞑想にならないからだよね?
けれど、彼のように生活の全てにおいて瞑想・観察に入れるのは、
最初からノーメソッドのままで実現することはかなり困難だよ
だから彼の周囲の人もほとんど理解していなかったと言われる 悟れば坐禅はしない。
バカには理解できない。大爆笑である。 まぁ、クリシュナムルティは天才だから出来たのでしょう。
わたしには無理なんで無字とか使いますね。 ただのムッツリスケベが聖人の振りをしていただけで天才ですか(笑) クリシュナムルティさんにとって
他人や回りの人に理解されることは
どのくらい重要だったんですかね
天才のふりをする天才だった
ってことですか? 彼にとっては簡単に出来てしまう事が、相手に理解されないんでしょうね。 >>100
天才でない我々が同じ様に瞑想できるにはどうしたらいいのか
を追求したのがラリー・ローゼンバーグです
>>101
思いではなく伝えたかったのは真理のようなものでしょう 彼が言いたかったのは、あるがままである事、即今である事だと思っています。 それだと「ああなんだまた今ここ、あるがままかぁ知ってるよ」ということになる
Kは実際に一人ひとりの人に瞑想を通して観てほしかったんですよ 時空を超えるとは何を意味するか。
全てがわたしなんです。 煽って貶めるような意図はないですよ
言葉通りの質問 みんなにご自分も含まれるのですねw
よかった、それならば清浄だと思います ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています