--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2の戒律と資料リンク)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 >>815
そもそも
「助ける」
って、何をすること?
「食べさせる」こと?「金品を施す」こと?
「生活の様々な場面を物理的時間的に補助する」こと?
「行政、国に働きかける」こと?「様々なデモや社会運動によって自治体や社会を動かす」こと?
「友達のいない人間のともだちうになる」こと?「恋人のいない人間の恋人になる」こと?
「母親或いは父親のいない子の母親父親になる」こと?
「学校へ行く時間の無い子(金銭的余裕のない子)に教育費等支援する」こと?
災害でひな生活する人たちに、新たな住宅を提供する」こと?
「仕事がなかなか決まらない人に、職を提供する」こと?
「災害で地域産業が壊滅した地域に、再生の為の資金援助や人寄せ、魅力の再構築再宣伝をする」こと?
「不治難病に侵された人の病を治す」こと?「怪我をした人障碍を負った人の怪我や障害をなくす」こと?
「手足を失った人、視覚聴覚を失った人に、手足や視覚や聴覚を取り戻させる」こと?
「全国のホームレスに食事を提供する」こと?
つか、>>814、>>815は、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
とか
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1475096945/
とかで質問すべき。
貼っておいてあげる。 つか、
この話も、永遠のテーマなんだろうなw
何度出てきてる話題か数知れないが、
「過去スレ嫁」とかだと、また怒られるしなぁ・・・ orz あ、一つ参考ワードを。
「全人類総出家(≒総解脱)」はあり得るか?また、是とし得るか否か? >>816 それ全部全て出来るのが仏教じゃないの? 少なくともキリスト教はそれ全部がイエスの愛で叶うとしている。仏教では、それは出来ないことなの? >>818 総出家したら社会は成り立たない。と言うか人類が終わるよね? それを目指すのが仏教だとしたら、他の宗教に滅ぼされるのもむべなるかな。インド仏教が滅ぼされ、チベットが中共に侵略されたのも仕方なくなる。 キリスト教ってのは元の教えもそうだけど、現代ではとくに、
『愛』がその教義の基本となってるから。
だから布教者は、必然的にそれを証明するために、
他者救済をやらなければならなかったわけ。
教義の証明であって、本当にその人の心でやってるかどうかわからない。
やってる人は、キリストの教えを守ってるという満足感にも浸れる
それが目的で、本人も知らずしてエセ救済者になってる場合がある。
なにはともあれ、キリスト教は他者救済(愛)が教義そのものになっているので、
それが教義の実践ということで、キリスト教が他者救済をやってるということじゃなくて、
キリスト教そのものの現れ方なんだよ
だから、宗教は他者救済をやるべきだっていう、安易な発想は
短絡的というしかない。
それから、キリスト教の本当の証明、本当の実践とは、マザーテレサ並みに自己を投げうって、
本当に底辺に身を投じて他者を救済することだから。
金だけ出して満足したり、いいことしてエゴを満足させる程度のものじゃないから。
そういうやつらは逆に地獄に落ちるぞ。 >>821 821氏は地獄へおちたく無い訳だね。その価値観は誰にとっても普遍的と言えるから是と出来ると思う。
仏教の地獄とキリスト教の地獄は違うものと思うのだが、なぜ仏教徒であろうあなたが、
キリスト教の信仰のありかたを評価して地獄へ落ちるか否かを決められるのか?
”それが教義の実践ということで、キリスト教が他者救済をやってるということじゃなくて、
キリスト教そのものの現れ方なんだよ ” それはキリスト教が仏教より勝れた点では無いか?
他者救済をしない宗教に意味があるなら、救済が目的ではないならなんのために仏陀は出世間したのか?
仏陀の説いたところは衆生に対しての救いでは無いのか? 仏者は自分の事だけを考えていれば良いのか? 宝珠さん、なぜキリストが彼を13番目と呼んだかわかりますか?
歳差運動によって一星座の時代が約2000年…
一時代には必ず一人の救世主が出現する
水瓶座の時代は新時代、新時代の救世主が現れるわけです
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。
その人について行きなさい 」
- 新約聖書 マルコの福音書 第14章13節 -
なぜ、キリスト教は13という数字を忌み嫌ってきたのでしょうか?
なぜルシファーを悪魔としたのでしょうか?
それはなぜかというと、それが自分たちを滅ぼすものだと
知っていたからです
キリストの弟子たちはある時夢を見ます
12人の祭司がいて、ある者は多くの罪と不正行為を犯し、ある者は男と床をともにし、
ある者は自分の子を犠牲としてささげ、ほかの者は妻をささげ、互いに称賛し、謙遜しい、
キリストの名を唱え、自分たちの行いは不完全なのに、犠牲は完全に行っている…
弟子たちはそう言うと、心が騒いだ
キリストは言った
「なぜ心を騒がせるのか? その祭司たちは皆、私の名を唱えているのだ
本当にわたしはあなたがたに言う 彼らは私の名によって、
恥ずべきやり方で、実がならない木を植えた」
「あなたがたが見た12人はあなたがたである。 あなたがたが見た犠牲として捧げられていた牛は
あなたがたが迷わせて祭壇の前に連れて行った人々である。」
「しかし、『終わりの日に彼らは恥に落とされる』 と命じられるのは主、宇宙の主である。」 最後の晩餐とは時代の終わりのことです
魚座… キリストの時代の終わり
そしてそれは同時に、新時代の幕開けを意味します
水瓶を持つ男についていくと、二階に案内されます
この『二階』というのが、次元の上昇を意味します
つまり、アセンションです
前時代から新時代へ移るとき、新時代が前時代を『殺す』という
型を演じなくてはならない
その型がどうしても必要だったわけです
イエスは言った
「おまえは後の世代の批難の的となり、… そして彼らの上に君臨するだろう。
最後の日々には、聖なる世代の元に引き上げられるお前を彼らは罵るだろう。」
宝珠さん、13番目の救世主の彼こそ、マァイトレイヤなのですよ > 仏陀の説いたところは衆生に対しての救いでは無いのか? 仏者は自分の事だけを考えていれば良いのか?
スマナサーラさんとこの印象だと、修行する人が救われる教えで、修行の中に他生命への善行為がある感じよね
悪い行為をせず、善の行為をする、善い思考をして瞑想はもっとがんばるってやってるイメージあるわ。なんとなく >>814
一般的に人々が求める救いというのは、此岸における喜怒哀楽のことでしょう。
それはどれだけ助けても生老病死を繰り返す世界。
一方、仏法が与える救いというのは、彼岸に渡り越すこと。
生老病死を乗り越えること、涅槃に渡り越すこと。
この世(此岸)の尺度で人助けをしたいのなら、医者や自衛隊にはかなわないし
その尺度で判断するなら仏教に限らず、どんな宗教もほとんど役に立たない。
つまり、助けるといっても、その判断の尺度が全く違うということだと思います。
言葉は違うものの、>>810と重複しますね。 >>819
お前馬鹿か?
仏教は、
超能力者、権力者、事務職エリート、慈善事業のリーダー、寄付集め、NPO法人立ち上げ、社会運動者、プロ市民、etc.
養成の教えじゃねーよwww >>822
だから、
神話的描写でありながら、
仏伝中最大(いや、第5番目か・・w)のエピソードとして伝承されねばならなかったのが、
「梵天勧請」なんですよ。 なんと...ついについに、
ブラックホールが撮影されました。
おぉっ、驚愕ですよね!
エーと以前、『全日本仏教会』に苦情のメールしたからなのか、
サイトの花まつりの説明が改善されて前よりも良くなってますね。
その昔、神智学系の書籍のタイトルを直させたこともある...。
たった一人からの小さな声(意見)ではあっても、その正当性が認められれば採り入れられることがある。
真実は、(いつか)必ず勝利する!!!
>>829
旨い!!
こりゃ〜座布団十枚だな!
こんなに凄い唄があるんだね...(苦笑)。
まっ、この私は事の最初から〜
とても“厄介な嫌われ者”となるべくして自ら5chに登場したのであって、
仏教徒たちから称賛される人気者になるとは露ほども思っていないから...。
>>811 >>815
ID:IpUTwKm1さん。
私は、全面的にあなたのご指摘に支持を表明します!
あなたは間違ってなどいないし、これはとても大切な指摘をしていると思います。 >>805
確かに、
宣伝的なアピール効果もあることについては認めますけれど、
しかし、これは純粋にして真言宗としての被災者救済と(僧侶と行者/信者の)修行の一貫として取り組むものであり、
決して宗団の売名目的などではないとこの私は見ています。
そして私は、人の祈りと写経の効果、そして、特に密教の護摩祈祷の持つ力を信じています。
今回のように、参加料(浄財)がそのまま寄付にもなるのならば尚、良いことでしょうし、
私はいつも、「良いこと」については素直に支持を表明し、
相手が誰であろうとも「ダメなもの」には、No,を突きつけます。
真言宗というのは、死者供養には最も力を向ける宗派なのです。
それは、ブッダが死者救済について教えられたからであり、
仏教というのは元々、そのように死者供養にはとても熱心な宗教なのですね。
そして、バラモン譲りの護摩祈祷にはその効力が大きいものとみています。
対して、>>816-817は禅僧の七セブンと思われますが、この人のように、
「葬儀や死者供養なるものはすべて生きている人間のためのものであって、
死者のためになるものなどは一つもない。人間、死んだら、それですべてお終いだからだ」という、
トンデモナイ非仏教の唯物主義者が僧侶の袈裟を付けて布施を受けていたりもするのです。
だから、ある意味では“詐欺師”のようなものです
(殊、禅僧にはこういうタイプが多いようだが、もちろん全員がそうというわけではない)。
「死者供養(死者救済)も分かるけれども、
しかし、生きている人間の方がもっと大切な筈だ」という声については、もちろん、それはその通りであるとこの私も思っています。
ブッダはもちろん、困っている人や苦しんでいる人がいたら、自分の出来る範囲で手を差し伸べるように教えられた。
それは一般人はもとより、当然、仏教の在家信者や出家僧であっても同じことですよ。
無視? 放置?...。仏教の役目じゃないからだって?
「そんなことをしても“本当の救済”にはならないから、そんな暇があったら自己修行に専念すべきだ」って。
〜そんなものは、仏教でも何でもないから。 >>822
>それはキリスト教が仏教より勝れた点では無いか?
ですね!
ハッキリいってしまうと、この私の目から見てきた印象としては、
敢えて一括りでいって仏教信者というものは、他の諸宗教の信仰者よりも意識レベルが非常に低いです。
完全に負けてます! 私はエホバの信者さんともよく会いますし、話もしますが感心しきりで段違い。
仏教信者は彼らの爪の垢を飲んだほうがイイ。 >>831 真摯なご回答有り難うございます。仮に831宝珠さんとお呼びします。
禅僧は他者救済に非常に消極的と言う理解でよろしいですか?
禅も上座仏教も禅観で仏果を得ることにばかり熱心でより良い社会建設は目指さないように
感じています。
”困っている人や苦しんでいる人がいたら、
自分の出来る範囲で手を差し伸べるように教えられた。 ”
恐れ入りますが、仏陀がそのように説かれている経典はございますでしょうか? >>828 梵天勧請は仏慧を秘せず説かしめ給えと梵天が仏陀に懇請したことでしょう?
そもそもキリスト教と関連がない。キリスト教には十界互具の概念もないしGodの概念は仏教とは相容れない。 自分で、条件を限定しちゃってるじゃん・・・w ┐(´ー‘)┌ >>834
>”困っている人や苦しんでいる人がいたら、
>自分の出来る範囲で手を差し伸べるように教えられた。 ”
>恐れ入りますが、仏陀がそのよ
>自分の出来る範囲で >>835
>そもそもキリスト教と関連がない。
そりゃそうでしょうよwww
キ教とは、その「出発点、根源的理念」から大違い(―というか真逆な価値基準―)なのですから。 >>837補
別に、キ教に関連させた上での梵天勧請ではなく、
世間出世間の視線の方向性・価値基準の差異を踏まえた上で、
尚、世間と関わり続けねばならないという宿命と責務の表れだからだよ。
キ教なんぞ関係ない。 セブンよ、ニルヴァーシュにアミダドライブを装着し、サトリプログラムを起動するのじゃ。
セブンスウェル現象を発動させるのじゃ。 >>834
現代人は輪廻転生なんてないと信じているので、その時点で話が噛み合わないのは
仕方が無いのですけれども、一応説明させて頂きますと、輪廻転生を前提とした場合、
仏教が本来的に教えていることは、必ず生老病死で終わる六道を改善するよりも、
六道から抜け出すことを教えている、ということだと思います。
仮にここが人間社会ではなく、犬猫などの畜生の社会で、我々が犬猫だったとします。
そして、前提として個々の衆生が自業自得で六道輪廻していると仮定してから判断して
みて下さい。
個人の生き方の正解は、畜生世界を改革することではなく、そこから抜け出すことだ
という判断が出てくる思考過程が見えてきませんでしょうか。 三車火宅の喩えにしても、他の方便にしても、どれも結局同じ方向を示しているはずです。
大乗だろうと最終的には同じことだと思いますよ。 知識ではなく行いこそが人々を繋ぎ、そして現在過去未来を繋いでいく、それを実践して多くの衆生を救済してのが空海。
民間の学校を作ったり、ため池や治水などの公共事業を通して、一人一人の心に火を灯し、力を合わせることの大切さまで説いた。
この人は仏教を単なる知識ではなく、今現実に苦しんでいる人々を救うための教えまで昇華させた日本史上でも稀有なお坊さんだと思う。
衆生を直接救うという意味では、行基や一遍も空海と同じく尊敬できる。
https://youtu.be/jKUhkj-PJb0 衆生を直接救うためには、
医学を極め、教員免許も取得し、特殊車両の免許もとり、
化学薬学の知識も学び、建築設計の知識も供え、
幼児教育の機微も学び、婦人科医療の知識技術もマスターし、
経済学も税制も、ITも株式も視野に入れ、
法律及び凡例は全て完璧に記憶し、
夫婦も含め男女の関係・心理的駆け引きも理解し、
外交も軍事も力関係を見極め、
発達障害や身体障碍の家族のサポート法もマスターし、
そして、人生生活、あらゆる苦悩の解決策を助言できなきゃならんわけだ。
仏陀って、んと、スーパーマンだな。 嘲笑 よって、
言い得るのは、
宝珠は、やはり愚劣だ、と。 四諦と縁起らしい。
意訳すると、苦しみは自分自身が創り出しているが、それは解決できる
ということじゃないですか。 >>847
苦しんでいる自分がいるというのは錯覚で
自分というものは本当はいないのだから(無我)そのことに目覚めれば苦しみも消えるという真理 >>848
無我とは、本来肉体は細胞(細菌)などの生物の集合体でできていて、自分という意識も脳(本能も含め)が作りだしたものであり本能的に生きることに執着してるだけで、肉体(カラダ)も地球や宇宙みたいな生命の集合体でしかないということかなと思うのですが。違いますか? >>849
違う。(と思うw)
「物」があるかないか? ではなく、
変化の可能性あるものを、不変化だと思いたい、不変化に維持したい、
そして、
全身を投げ出して寄りかかり得る柱が、自分の傍に(或いはどこかに)立っている、
という願望に縋ることが、「我」(或いは真我)を求めることであり、
そのようなものはない(→寄りかかろうとする柱もまた、不安定で固定化されていない)
というのが、諸法無我の骨子かと。
それは、物だろうが、思想だろうが愛だろうが友情だろうが優しさだろうが、形無き物でも同じかと。 ん? なんかおかしいぞ。
自分が頼るべき [我] (不変化に維持したいもの)が無いのじゃなくて、
そもそも頼りたい自分というものも無いということだよ
仏教でもスピリチュアル的なものを否定したい人は、この自分を抜きに語ることができない
だから本当の真理がわからない >>848
人は、光に照らされている身体を、誤って発光体であると見なすように、見者(=アートマン)であるかのように現れている心を、「私である」、「見者である」と考える。
それ故に、人は混迷に陥り、真実の自ら(アートマン)を見出だせないのである。
身体・感覚器官から起きる一連の苦痛は、私のものでもなければ、私でもない。私は不変であるから。
何故なら、この一連の苦痛は実在しないからである。
これは実に、夢を見ている人が見る対象のように、実在しないのである。
無知に基づいて人々は頭痛などのために自分自身を「私は苦しんでいる」と考える。
見者(=アートマン)は苦しんでいる対象とは別ものである。この見者は認識主体であるから、苦しむことはない。
誤って「私は苦しんでいる」と考えるために、人は苦しむのであって、苦しんでいる心を見るために、苦しむのではない。
苦を対象として見ている者は苦しむことはない。
(シャンカラ)
https://gamp.ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12166409915.html 自分がいないという思いが出たときにポコンと心から力が抜けて、
消えなかった苦しみが流れていったことがあったのですが、
それを再現するには、観るもの(観照者)も自分ではないと手放していくのが
(私の場合は)良かったです
体温も自分ではない、
集中する(観ようとがんばっている)心のエネルギーがあるがそれも自分ではない、
観照者も感情に巻き込まれたり、カルマの影響に流されるもので究極的には
コントロールできるものではなく自分ではない、とかやっていると
すべてへの手放しが起こって、ポコンと心から力が抜けるのが再現できてるっぽい感じに
なることがあるので、その手放した状態を維持する感じで
(自分を手放したら、自分をそのまま手放した状態のままでいるようなアドバイスを
プッタタート比丘が書いていたのでその方向を使っています)
サレンダーにも近いのかなとも思いましたが >>854
>自分をそのまま手放した状態のままでいるようなアドバイスを
>プッタタート比丘が書いていたのでその方向を使っています
これは具体的にはどんなやりかた?
>観るもの(観照者)も自分ではないと手放していく
もちろん、観察者は自分ではないですけど、観察者はただ見ているだけで
ことさら自分ではないと思う必要は、ないのではないですか? 854です
> これは具体的にはどんなやりかた?
非二元などに対して批判的な内容のページになってしまうのですが、以下のページだったと思います
http://buddhadasa.hahaue.com/kami/muga-6.html
この人の涅槃の定義は、少し特殊かもしれませんが
> 観察者は自分ではないですけど、観察者はただ見ているだけで
> ことさら自分ではないと思う必要は、ないのではないですか?
完全にコントロールを手放すようなことが必要なのかなとも思っていますが
自分の場合、本当の自分を意識していたときは、それがうまくできない感じだったので。
(手放しをしている状態でも、たんたんと必要な行動は取れる感じの手放しです) >>857
なるほど。
本当の自分を意識していたときというのは、たとえば、怒りの感情に対して、冷静に客観視している本当の自分(観察者)を
意識していたということではないかな…
それだったら、今をありのままに見つめる真の観察者ということではなく、思考によって作られた客観視ということだから、
自分ではないと否定する必要があると思う
(その場合は観察ではなく、単に怒りの感情を抑圧して観察者側に回っただけだから、違うように見えてこの二つ主は同じ)
ただ、あるがままに手を付けずに、純粋に観察できる場合は、とくに否定する必要もないような気がするけど・・・
もしも感情に対して冷静な観察者ということであれば、それは作られたものだから
否定するべき対象ということになると思うけど。
それで、【自分ではない】というやり方は、具体的にどういう風にやるんだろ?
たとえば、怒りの感情が起こった時に、「これは自分ではない」。
歩いてる時に気が付いたら、「今歩いてるのは自分ではない」。
なにかを考えている途中で気付いたら、「今考えているのは自分ではない」
頭痛がしたら、「今頭が痛いのは自分ではない」。
こういう感じでいいんだろうか?
頻度的には気が付いたときにやるのか、それとも間を置かず次々とやるのか…
あと、座って瞑想しているときのやり方は、どうやるの?
「今呼吸をしているのは自分ではない」
「今考えているのは自分ではない」 って言う風な感じでやるのか…
あと、>>854のポコンと力が抜けるという以外に、何か特別な感じが
あったということはない? > 頻度的には気が付いたときにやるのか、それとも間を置かず次々とやるのか
何かをこれは自分だ、ととらえているのに気がつくたびに、それを手放している感じです
最近は慈しみの念を(起きているときは)保つ方法をメインでやっているため
微妙に記憶頼りの回答になっている部分があったら申し訳ないのですが
その方法で再現できてるっぽくなってました
> あと、>>854のポコンと力が抜けるという以外に、何か特別な感じが
> あったということはない?
最初は自分がいないという感覚と、
あと首や肩、後頭部のあたりからもとても力が抜けていたのは覚えています
同時に今まで観ていた強い怒り等の苦しみがなくなった感じでした >>859
なるほど、間違いを修正するみたいな感じで、怒りなら怒りにはまった時に、
「これは自分ではない」と観想すればいいんだね
それで、少しやってみたんだけど、このやり方はいいかもしれない
通常は怒りを観察するというとき、対局に怒りに左右されない冷静な自分を作っちゃうんだよね
感情に左右されずに客観視する第三者を作っちゃう
でもこれは間違ってて、そういう観察者になろうとしたとき、感情に左右されないに
しようとする力が働いちゃう
で、結局、怒りを抑圧して、自己を変化させてるだけになりかねない
あるがままを手を付けずに観察が出来ないわけだよね
ところが、怒りなら怒り、行為なら行為を、「これは自分ではない」と観想するときは
自分ではないということだから、突き放すことができる
突き放すとは……、怒りをそのままにしても不都合がないわけだ
自分のではないから
どんな悪い状況でも、何も変える必要がない
このやり方だとスムーズにあるがままに観察できる
そのまま、あるがままに触れることなく、いい意味での客観視が出来るようになるね
実践的にやっている人のレスは、どんなものでも参考になるね
最近は脳内実践だけで語ってる人が多いから、こういうレスは非常に貴重
ありがとう >>860
これは自分ではない、というのは、自分がいる、という感覚を手放す目的のために
使っていた感じですね。自分の場合。
クセで観照者などを意識して、自分がいる、という感覚が出たときにやったりしていました
> ありがとう
こちらこそ、ありがとうございました
お話ができたことで、良い刺激になりました 投稿がかなり遅れました...。
度々、こういうことがあるので、何卒ご了承を願います。
>>848-857
「無我」についての議論は最近もしたばかりであり、そして、すでに論決しています。
どうかこれまでの投稿を遡って読まれますようお勧め致します。
読めば、頑なに“伝統という迷信”に固執を続けて仏典の記述に従わない伝統仏教と
その信奉者たちの姿がよりハッキリと浮き彫りになっていることが分かるかと思います。
『バガバッドギターのアートマン
ここでいうアートマンは、彼らにとって本当の自我という意味であり、生まれず、死なず、
変化も何もしない状態のもので、私たちが無為、あるいは涅槃と呼ぶものと同じ状態です。』
http://buddhadasa.hahaue.com/kami/muga-6.html
さすがはプッタタート比丘、なかなかイイことをいう!
この方は、「涅槃をアートマンと呼んでも良いのだが、仏教では人格化を避けてこの表現を使わないのだ」
と語ったともされているので、やはり、同じテーラワーダ長老でもその理解度はケタ違いのようです。
>この人の涅槃の定義は、少し特殊かもしれませんが
その辺については、
つまり、間違った伝統(迷信)を信じ続ける大多数の伝統教団と、
真実に気付いている極少数派との違いだろうと思います。 >>844
いやいや..
そんな勝手に勝利宣言のような投稿しないでもらえます?
実際、一体どちらが“愚劣”かをこの私が明確にしますから!
>>845
もちろん、空想世界でのSFアニメのような存在ではないけれども、
しかし、あなたが方が考えているような“ただ頭のイイだけの哲人にして性格の優れた道徳人”
といったものがブッダなどではないですから!
あなたのような理解じゃ〜伝統教団からだって笑われてしまいますよ!!
(まっ、何割かの禅僧レベルの支持は得られても、テーラワーダ及びその他の大乗からは総スカンでしょう!)
>>843
>衆生を直接救うためには、
>医学を極め、教員免許も取得し、特殊車両の免許もとり、
>化学薬学の知識も学び、建築設計の知識も供え、--略--
しかし、ホントに...
性格の悪いイヤミだよなぁ〜コレは禅僧特有のか?(苦笑)
別に、誰もそんなことは言ってないから。
困っている人に自分の出来る範囲で手援けするという“善意(善行)”のことをいってる。
それを否定する仏教などは何処にもないから! >>842
素晴らしい投稿をありがとうございました。
空海のそれは苦しむ貧しい大衆の中へと自ら入っていき、人々と一緒に汗を流したからこその名声であり、
それが広く宗派を超え約千二百年の時を経ても「お大師さま」と親しまれている所以だと思います。
ただひたすら密教寺院に立て篭もって、大衆にはとても理解のできない密教の最奥秘教の構築を云々...
なんてだけだったならば、決してそれはなかったでしょう。
確かに、
空海の場合には希に見る超天才だったのでしょうけれど、
しかし、だからといって、>>843のようなイヤミをいう何ものもないから!
我々にはそれと同じことができないによせ、>>842の姿は大師が示した見習うべきお手本であり、
そして、称賛すべき理想の姿だということ。 >>832
彼らキリスト教徒の意識レベルの高さの理由とは、
この日本でクリスチャンとして生きるには、
周囲からの嘲笑とキワモノ扱いを生涯において受け続ける自覚とその信仰を貫く強い覚悟が必要となるからです。
だから、生半可な想いではとてもできないことです。
彼らは常に、自分のことを「イエス様が見ている」、「こういう時にはイエス様ならば何て言うだろうか?」と、
自問自答しながら暮らしているのです。そして、聖書を片時も離さずに読んでいる。
その言葉を守ろうと努めている。だから、とても彼の心は清められているのです。
ところが日本の平均的仏教徒らというのは、
経典を読まないし読んでない。読んでもその教えなどは守らない。
その一つの理由としては、クリスチャンが教えに魅かれて入信するのに対して、
日本の平均的仏教徒というのは、その多くが遺骨をお祀りすることを目的にしているだけで、
仏教の教えに魅かれたから寺院に関わっているわけではないといった檀信徒がその大半を占めているからです。
そして、僧侶においても世襲が多いこともあってか、経典(教え)を読まない教えを守らない者がとても多いし、
教理の誤解からか唯物主義者も多い。また、単なる会社勤め的な職業感覚で寺院の収益を見ているだけといった僧侶も多い。
仏教の派によっては、ブッダ釈尊を見下し、単なる宗祖レベルの弟子に過ぎない人物をブッダよりも上位としたり、
ブッダが唯物論を教えたものと大真面目に考える僧侶が寺院にいたりするという、
こんな愚かしい宗教は世界広しといえども仏教界の他にはありません。 >>840
ご説明の全体的な内容は私も周知しています。
しかし、それでも「放置しておけ!」という教えは仏教にはない。
また、常連の七などは僧侶でありながら六道輪廻の転生を信じずに語っている...。
立ち去った承狂も元僧侶でありながら同じく信じてない。
そういう意味においては六道輪廻からの解脱を理由として果て嵌らない僧侶も多い。
>現代人は輪廻転生なんてないと信じているので、
もう少し、このことについて正確に述べると、
「日本人の国民性調査」や朝日新聞による世論調査などではかなり明確なデータは出ており、
神仏の存在について肯定的に解答したのは全体の約81%、死後の世界については70%でした。
そして、死後の世界をあるとハッキリ解答する人は44%おり、
更には、人間は死後に生まれ変わると信じる人は(調査により)29.8%〜35%いるということ。
この転生を信じる30%前後の人というのも、実際には、これしかいないことを示すものではなくて、
転生についての正しい理解と情報を知るならば、死後の世界を信じる人からのもっと多くの支持があると見ていいでしょう。
https://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/63-1-163.pdf
http://blog.livedoor.jp/youchan1201-puchan/archives/39523291.html
http://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5097 〜正直いって、
一部の有名寺院では巨大伽藍の中で数百万もの煌びやかな衣を纏って暮らし、
高額な設定料金(これも布施の扱いだが...)にて巨額の布施を集めては私腹を肥やし続け、
信者から頂いた大切な浄財を資金運用と称してPCで株式ゲーム。挙句の果てには何億もすられて裁判沙汰...。
そして、高僧たちは互いに派閥をつくっては権力闘争を...。
中でも「真言宗」は、密教法具一式と内陣の豪華さで際立ってる印象を受けるし、
成田山などは特に“金権イメージ”は強い...。
ここで、二つほど“祝福”のメッセージが届ているのでご紹介します。
神智学系グループが提供するすでに降臨されているMaitreyaからのものと、
もう一つは、神智学グループからも本物のアヴァター(覚者である5段階以上のイニシエート)の一人として認定されている
ラーマ・クリシュナの一番弟子、スワミ・ヴィヴェーカーナンダからの言葉です。 『政治家は戸惑う、なぜならイデオロギーを持つ人々をコントロールすることができないからである。しかし最も権力にしがみつく
者たちは、「天国への道はただ一つしかない」と信じている宗教的権威者である。しかもこれら宗教指導者たちはどんな生活の仕方を
しているか。彼らの生活様式はどんなものか。おそらく王様のようであろう ―― 宮殿やジェット機や防弾ガラスを備えた車など。
クリシュナは掘立て小屋に住まわれた。これが本当の神聖である。今日も同様に、サイ・ババ(インドにおける比類のない霊的教師)
は小さな部屋の簡素なベッドに寝る。真のメッセンジャー(使者)とは、地上で人々と共に働き、人々と共に食べ、人々を癒し、助け
る者である。その他の者たちはイエスの模範から外れてしまった。
宗教の指導者たちは「これまで彼らがやりたくなかったことを、今度はしなければならなくなるだろう」とMaitreyaは言われる。
彼らはやがて自分たちの城を出て、より簡素な環境の中に住むようになるだろう。なぜなら簡素ということは「心の裡にある主と共に
いる」ための重要な要素であるから。』
(ベンジャミン・クレーム監修『いのちの法則』1988年4月〜“Maitreyaの言葉”/シェア・ジャパン出版) 『世俗の仕事というものはない。すべての仕事は宗教であり礼拝である。
もし君が君自身の救済を求めるなら、君は地獄へ行くだろう。君が求めなければならないのは他者の救済だ。そして、もし君が他者
のために働いて地獄に行かなければならないとしても、それは自分の救済を願って天国に行くよりも価値がある。
幾百万が飢えと無知の中で死んでいる間は、それらの人びとに代償を払わせて教育を受けていながら、そのような境遇を強いられた
人びとに一顧も与えぬ連中のひとり、ひとりを、私は裏切り者とみなす。わが国にたとえ一匹の犬でもが食べものが無くている間は、
私の宗教はそれを食べさせることだ。
神を求めて君はどこに行くのか。貧しい人々、不幸な人々、弱い人々は神ではないのか。まず彼らを拝めばよいではないか。なぜ、
ガンガーの岸で井戸を掘ろうなどとするのか。この人々を君の神としたまえ---彼らのことを思い、彼らのために働き、彼らのために絶
えず祈れ---主が道をお示しになるだろう。』
(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ語録『霊性の師たちの生涯』日本ヴェーダーンタ協会) >>813
>もし、本気で、『他者を救える』と思っているとしたら、
>宝珠や在家並みのお花畑と言わざるを得ない。
ほほ〜う!!
もしも、これを“お花畑”だといってるんだったら豆腐の角に頭でもぶつけてこい!!
この地上で餓死する人々が大勢いるのは、単に自称先進国が貪欲によって資源と食料を独占している結果に過ぎないということ。
だから、正しく分配されるならばただの一人も餓死する者は出ない。
従って、これは人類が達成しなければならない当然のものです。
それは実に簡単なことであって、
世界の先進国の各国政府が動くだけのこと。
しかし、そのためには当然、世界国の全国民の理解と支持が必要です。
この情報を伝えるのはその理由によります。 人間としてしなければならない当然のことに対して、
これを不可能なお花畑の話だと嘲笑したり、無視と無関心を示すのが仏教などという話は何処にもない!
>世界人類は今、大変な危機の中にいる。
>世界の工業先進国が天然資源の3/4を消費し、世界貿易の80%を支配し、工業技術と科学的研究成果の殆ど100%を独占している。
>それにもかかわらず、先進工業国に生活している人々は全世界の人工の1/4にも満たない。
>他の3/4の人々はその残りもので、何とかやっていかなければならない。
>こうして、数千万の人間が貧困の中で飢え死にしている傍らで、
>金持ちは金銀紙幣を見せびらかし、先進国の庶民らはポケモンGoで遊んでいる。
>この人間としての尊厳、その霊性を踏みにじるような冷淡な行為によって第三諸国との間には埋められない不均衡が生じた。
>そして、それが紛争とテロの原因にも繋がっている...。
>無実の子供たちが戦場で銃を持たされ、少女たちは身カラダを男たちへと売られている。
---中略--
>なのでこれは、
>地球人類からすべての戦争を止め、国家や人種や宗教間の違いを超えて全人類が互いに兄弟姉妹として認め合い、
>貪欲にもとづいた資本主義競争の狂気から目覚めて、互いに分かち合って飢餓貧困を終焉させること。
>地球人類すべてが同じ兄弟姉妹として、互いに愛し合うこと。そして、共に幸せに暮らすべきであるという訴えです。
>その「(Maitreyaからの)呼掛けにみんなで応えよう!」ということをこのグループは伝えている。
>もちろん、それは個人の我欲というものが破滅的なものであることを教えるものですよ。>>346-347 それから今回、調べてもなかなか分からなかったのですが、
現在の仏教学においては、仏教における社会的な善行(奉仕活動)というのは
“仏教福祉”という名称にて論じられているということが分かりました。
これはもちろん、“仏教が関わるべきことではない”という意味などではなくて、
仏教思想から見ても当然、“社会的な奉仕としての福祉にも取り組まれて然るべきもの”
として見られているということをいっています。
まず、この私が真っ先に思い浮かべるブッダの教えとしての他者に対する善行のエピソードとしては、
元殺人鬼アングリマーラが難産に苦しむ婦人に出逢ったとブッダに報告したところ、
ブッダはアングリマーラに対して、婦人のところへと戻って真実語を唱えて安産を祈るよう指示されたということ。
ブッダは、「おまえのすべき修業は他にある。そんな余計なことでおまえの気がそがれてはいけない」などとは言わなかった。
そうではなくて、婦人を救うべく再度、行ってくるようにと命令したのです。このことを理解するのはとても重要なことです。
もしも、ここでアングリマーラがそんなことをしても無駄であるとか、
自分には関係のないことであるし、ブッダにも煩わしい想いをさせてしまってはならないものと考えこのことを黙っていて、
それが後々バレたとしたならば、まず確実にブッダから大目玉を喰らってガッチリ叱られていたことでしょう。
(「真実語」には体内の毒を除いたり、山火事を鎮めたり、等々の不思議な力があるものと見なされています。
学者は単なる古代の俗信だとしますけれども、しかし、ブッダがいうのだから、間違いなく何かしらの効力があるものとこの私は信じます。
そもそも読経に不思議な効力があると信じられるに至ったのも、“経の言葉それ自体が真実語そのものに他ならない”からです。) 『それからというもの、尊者アングリマーラは戒めを守り、清貧に甘んじ、熱心に修行を重ねていきました。そんな折のことです。
尊者がいつものように朝の托鉢のためサーヴァッティーの町に赴くと、一人の女性が難産で苦しんでいるのを見つけました。心痛めた彼はブッダ
のもとに帰ると、あいさつをして片隅に座り、町で見たことをブッダにお話しました。
「ああ、なんと人々は苦しんでいることでしょう」
それに応えてブッダはこう言われました。
「アングリマーラ、おん身はもう一度サーヴァッテイにおもむくがよい。おもむいて、その婦人にこのように告げるがよい---婦人よ、わたしは生
まれてこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを、と」
「師よ、それはわたしにとって、知りながら嘘をつくことになりませんでしょうか。師よ、なぜならわたしは故意に多くの人の命を奪いましたから」
「アングリマーラ、それではおん身はもう一度サーヴァッティにおもむくがよい。おもむいて、その婦人にこのように告げるがよい ---婦人よ、わ
たしは尊い道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらん
ことを、胎児に安らかさあらんことを、と」
「師よ、かしこまりました」
尊者はもう一度町に赴くと、師の教えに従って、その婦人にいった。
「婦人よ、わたしは尊い道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安
らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを」と。
するとその女性の苦しみはおさまり、胎児は安らかに生まれた。
それ以後、尊者アングリマーラはさらに修行を深め、遂にまがうことなき悟りの境地へと達っせられた。』
(『マッジマ・ニカーヤ』第86経/アングリマーラ経) 仏教の根本教理においては、
“善行による功徳によって転生毎における自己の境地が上がる”ということなのであって、
これ無しで、ただ単に瞑想その他の専門的な修業によって解脱して成仏できるなどということはあり得よう筈がなく、
当然、そのように説いている仏教なるものも存在しないということ。
そのことを示そうとして編纂されたものが、ブッダの過去世(の善行)物語としての『ジャータカ』です。
『ジャータカ』(本生話)は、ブッダの前世における数々の功徳を示した547 話からなり、
ブッダが過去世において、どの様な善行をし、どの様な功徳を積んだから、
この世で仏陀になることができたという因果が語られているのです。
仏陀といえどもこの世で悟りを得るには、この世に生まれてからだけの修行だけでは十分でなく、
前世において、何十回、何百回と生まれ変わる度に様々な善行を積んだ結果であるということ。 七セブンの主張のようなもの、
つまり、善行を無視して座禅などの専門修業のみで涅槃に至るということ決してあり得ない。
ましてや、(彼は前世を信じないから)今生のみで涅槃に達せられるなどということは不可能です。
当然、そんな教えは仏教には存在しない。
『Dhp.223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみに
うち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもと
に至り得るであろう。(中村元訳[1978]p.41)
223. akkodhena jīne kodhaṃ asādhuṃ sādhunā jine, jine kadariyaṃ dānena saccenālikavādinaṃ. /
224. saccam bhaṇe na kujjheyya dajjā appasmi yācito etehi tīhi ṭhānehi gacche devāna santike.(Dhammapada, p.63)
Dhp.376 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を滅する
であろう。(中村元訳[1978]p.63)
376. paṭisanthāravutt' assa ācārakusalo siyā, tato pāmojjabahulo dukkhass' antaṃ karissati.(Dhammapada, p.106)
Sn.第三章第五節
青年よ。実にあなたがそのように与え、そのようにささげるならば、多くの福徳を生ずる。誰であろうとも、実に、与える人、
施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を集め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人
にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。
(中村元訳[1984]p.101) SN.第一集第一編第四章第二節
「曠野の旅の道づれのごとく、乏しき中よりわかち与える人々は、死せる者どものうちにあって滅びず。これは、永遠の法である。
或る人々は、乏しき中からわかち与え、或る人々は、豊かであっても与えない。乏しき中からわかち与えたならば、〔その施与は〕
千倍にも等しいと量られる。」(中村元訳[1986a]p.49)
SN.第一集第三篇第三章第四節
17 尊師はこのことを説かれた。……師はそのとき次の詩をとなえてくれた。―
「弓術巧みに、体力・勇気のある青年を、国王は、戦のために傭えよ。生れが良いからとて臆病者を傭ってはならぬ。また聡明な
人は、たとい生れは賤しくても、行いが立派で、堪え忍び柔和である性質をしっかりと具えている人を、尊敬してもてなすべきで
ある。楽しい庵を作って、学識多き人を住まわせよ。水のない林には泉をつくり、嶮しいところには通路をつくり、信じ喜ぶ心を
以て、心の真っ直ぐな人々に、食物・飲料・硬い食物・衣服・臥床を与えよ。譬えば、雨雲が電光の花輪をかざし百の尖塔を示し
て雷鳴を轟かし、大地に雨降らし、高いところも低いところも満たすようにし、信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意
して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、『与えよ』『与えよ』と語る。かれは、天が雨降らす
ごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ。」(中村元訳[1986a]p.212)』
(『仏教福祉思想の研究』立正大学大学院社会福祉学研究科/吉村 彰著)
http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/5285/9/A1_text.pdf
以上. 宝珠は本当に馬鹿だな。
しかも、
自分は、「云ってもいないことを指摘するな」というくせに、
他人に対してはそれをする。
善行、助けが要らないと、どこの誰が言ったのか?
単に、「餅は餅屋」という話をしているだけなのに。
上の方で、餅屋に大工仕事を頼もうとしている馬鹿が居たから、
それはちょっとおかしいんじゃねーの?と疑義を挟んだだけなのに。 ┐(´ー`)┌
いや、昭和のお父さんの日曜大工じゃないがw、
得意な人好きな人いるだろうし、実際必要に迫られて、皆何かしらやってるだろう。
日曜大工をするなと言っているのではない。
それは、本来は大工の仕事だ、と言っているだけ。
何がおかしいんだろうか? >>863
> 「涅槃をアートマンと呼んでも良いのだが、仏教では人格化を避けてこの表現を使わないのだ」
> と語ったともされている
>>857のページでも「あるいはアートマンを苦の終わりと解釈しても構いません」と書かれていますが
「しかしもしそうなら、仙人が説明したものはまだアートマンではありません。
なぜならアートマンがあると捉えることは、まだ苦が残っている証拠だからです」とも続けていますから、
徹底的な無我論のほうが、自分がいなくなって楽になる部分と相性がいいと(プッタタートさんの)
「論客の自我」のところでは判断されているのかと感じました 偶然、28日朝のNHK-Eテレ『日曜美術館』で「京都の大宇宙-東寺」というのが放送されたのを見ました。
その中で、真言宗十八本山トップら高僧にて東寺灌頂院で厳修される真言宗最高儀式ともいわれる秘儀、
“後七日御修法”の様子を史上初でTVカメラが初めてとらえていました。しかし、よくも撮影を許可したものだと驚かされました...。
それと今更なんですが、東寺内部の立体曼荼羅を構成する各仏像には、どうして、何一つ供物が捧げられていないのか?
燈明一つとて設置されてないのは何故なのか? それから伽藍も仏像も何一つ、修復や色塗りされていなくて、
すべてがただの放置状態に見えることが非常に残念に思います。今は、その一部が東京へと持出されて展示会の最中らしい。
尚、番組の再放送予定は以下の通りです。
【放送局】 NHK総合
【放送日】 5月2日(木)13:05〜13:58
【放送局】 Eテレ
【放送日】 5月 5日(日)20:00〜20:45 再放送
【放送局】 BS8K
【放送日】 5月 5日(日)19:30〜 再放送
※Eテレ放送「日曜美術館」の内容は東京国立博物館「東寺展」の紹介です。
東寺 – 世界遺産 真言宗総本山 教王護国寺
(空海がどうしても伝えたかった、密教。)
http://toji.or.jp/
特別展「国宝 東寺−空海と仏像曼荼羅」
https://toji2019.jp/index.html
東寺/立体曼荼羅の仏像
https://i.pinimg.com/originals/ac/06/f0/ac06f0a8b4fc03b7f386a141e045cca6.jpg >>878
現象界(二元世界)の改善などといったのものは、スピリチュアルにもならない話しだと切り捨てた一元論者の登場もあり、また、
“仏教は慈善団体ではない”とか、>840のように、“仏教というのは、六道を改善するよりも <<六道から抜け出すこと>> を教える
ものだ”という意見も頂いた。
確かに仏教は、六道輪廻からの解脱を説くものであり、最終的には自己の解脱のみならずすべての生きとし生けるものの解脱を理
想とするものでしょう。しかし、だからといってジャータカが示しているような地道な善行の積み重ねによる境地の向上という基本
を蔑ろにしたのでは本末転倒というものでしょう。
まっ、七がそうではなくて単に、“貧困家庭やホームレスの救済”については僧侶には不向きなので、その道の専門に任せたほうが
良いという意見ということであれば、それも分からないこともない...。人間にはそれぞれ得意と不得意、向き不向きといったものが
あるから。だから、自分にできる分野での救済(善行)という意味においては、僧侶には僧侶の、つまり、僧侶に適した善行と僧侶だか
らこそできる善行もあると理解することはできる。法話を聞かせたり、亡き者たちの菩提を弔ったり、法要の導師を勤めたり...は、
もちろん、確かに僧侶としての善行にはなるでしょう。
では、“貧困家庭やホームレスの救済”はしなくてもいいということになるのかどうか? そういったまるで無関心のような態度は如
何なものでしょうかね? 私は、不得意ならば不得意なりのことはできると思うし、やはり、僅かでも手を差し伸べることはすべきで
はないかと思う。料理の苦手なご主人でも、奥さんに変わってたまに料理を作ってあげれば、多少は下手くそではあっても奥さんから
(助かったということで)とても喜ばれます。
僧侶たちもたまには、例えば“炊き出し”とかでもいいから(寺院から)外へとくり出すといいのではないかな。僧侶には器用な方が
多いし、精進料理の担当や経験者ならば美味しいものが造れる筈。たとえ宣伝目的ではなくても、僧侶たちによる炊き出しということ
であれば世間の目も大きく変わることになるでしょうね!
これは、一つの意見としてです。 >>881
あっ、そうそう...。
この番組を見て思ったことで、つい言及し忘れたことがあります。
空海が唐に渡って密教を短期間で修めて日本に持ち帰ったその以前、19歳の若き日に修めたという虚空蔵菩薩求聞持法のこと。
どの歴史書や学者の解説でも淡々と時系列的にただそのことが紹介されるだけなのですが、
何故、空海が普通に20-30年は掛かるとされる密教の修得を僅か2年足らずで成し遂げることができたのかというのは、
この求聞持法成就に拠るものであったということを絶対に忘れてはならないのです。
これなしで、ただ単に学業優秀で「秀才だった」とか、「稀に見る超天才だったから」ということではないのだということ
(師である恵果から僅か2ヶ月間で金胎両部の秘法を授かり、実質的には約一年足らずで殆どを修得している)。
この求聞持法というのは、一度見聞きしたものは絶対に忘れることがないという古代インドから伝承された驚異の超人的記憶増強の秘法です。
空海の生涯と密教伝承の経緯というのは、すべてが運命づけられ、そして、空海によって意識的に計画されたものでした。 参考:
『何故、恵果和尚は自分の死期が近いのを知りながら千数百人の弟子がいるのに他国の空海を待ち密教の後継者として伝法灌頂したのか?
それは恵果の師である不空三蔵の遺言だったからです。大暦9年(774年)6月14日長安の大興善寺で密教第四祖の不空は死の床にいて弟子の
恵果を呼び次の様な遺言を述べたのです。「恵果よ、わしの命はもう絶える。そなたには金・胎両部の秘法を伝えたが、この密教は唐ではやが
て滅ぶであろう。そこでわしは東の国へ密教を伝えたい。わしの命は東の国へと移りそなたと再びめぐり合い、そなたの弟子になるだろう。」
と言い遺して翌15日未明にこと切れたのです。師の言葉を信じ恵果はずっと待ったのです。不空が死んだ時、日本は宝亀5年(774年)6月15
日でした。同じ日の未明に空海は誕生したのです。空海の母の玉依御前は自分が出産する前にインドの高僧が胎内に入ってくる夢を見たと述べ
ているのです。不空はこうして空海として生まれ変わり30年後に遺言どおりに恵果の弟子になるために唐に遣って来るのです。待ちに待った
再会なので恵果はとても喜んだのです。そして後継者となった空海は恵果から僅か2ヶ月間で金・胎両部の秘法を授かり、その年の12月に恵
果和尚は臨終を迎えたのです。空海を枕もとに呼び「師弟の関係は永遠である。そなたは早く日本に帰り密教を広めよ。わしの魂は先に日本に
行き、そなたを待ちこんどはそなたの弟子となるだろう。」と空海に遺言して息絶えたのです。そして恵果の魂は日本で生まれ変わり覚鑁と言
う空海の孫弟子になったのです。ちなみに聖徳太子の生まれ変わりとされた聖宝と言う孫弟子もいるのです。これら全てが偶然に起きたことだ
と思いますか? これらの全てがドラマの台本の様に決められていたのです。これこそが時空を超えて行なった不空と恵果の最大な秘法なのです。』
(真言密教雑学)http://www1.plala.or.jp/eiji/ZATUGAKU.htm 『興教大師さまは弘法大師さまの師である恵果和尚の生まれ変わりと言われています。鳥羽上皇さまはある日、夢に恵果和尚を見ました。他日、
興教大師のお顔を間近に見ると夢で見た恵果和尚と全く違うところがないと気づき、それ以後興教大師さまに鳥羽上皇さまは深く帰依するよう
になられたそうです。以後、鳥羽上皇さまの絶大な外護を得て興教大師さまは高野山の頂点に立つことになるのです。』
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4775884&id=58419737
http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-b739-12.html
『聖徳太子は「私は日本国に三度生まれる。その名にはともに聖の字がある」と予言した。すなわち、聖徳太子、聖武天皇、聖宝の3人である。』
(『東大寺要録』) >>883-885
不空 (自分は生まれ変わって東の国から来て恵果の弟子になると予言)
→恵果(予言の成就者である待ち人「空海」が来てすべてを伝授して寿命が尽きる。
次は空海の弟子となって転生すると予言)
→空海(不空の生まれ変わりを自認)
→覚鑁(鳥羽上皇から恵果の生まれ変わりと見なされる)
この“不空密教の奇跡”とも映るこれら一連の流れも密教の法であれば十分に可能なこと。
そのことは密教の聖地チベットを見れば明らかで、密教の継承と発展のために自ら意図して転生してくる高僧リンポチェたちと、
そして、繰り返し転生を続けているとされるダライ・ラマ法王にそのことがよく現れている。
密教には、転生の行き先をコントロールする秘術があるということ。 >>886
多くの過疎ってる寺院では、
このように収益不足と経営難にあるということなのかな...。
この方も寺終いなのか、他の僧侶に明け渡すことなのかはよく分からないけれども、
しかし、僧侶そのものを辞めるわけではないのだから、今後も僧侶としての勤めを継続したり、
或いはまた、住職の責務から解放された身軽さを生かして自己の修行へと打ち込めたら良いね。 >>879
そもそも「仙人」という言葉自体が、元々、完成者を意味するものではないし、
ゴータマ王子が出家して最初に付いた二大仙人が涅槃に達してなかったことなど分かりきった話です。
ところで、このページをジックリと拝読して、今回よくよく分かったことは、
この私のプッタタート比丘に対する高印象は、単なる私の早とちり買い被りによる過剰評価であったということです。
『ここで少し説明をさせていただきます。ここで「その方」あるいは個人を管理する主人は、どれもアートマンを意味しています。ここで
いうアートマンは、彼らにとって本当の自我という意味であり、生まれず、死なず、変化も何もしない状態のもので、私たちが無為、あるい
は涅槃と呼ぶものと同じ状態です。』といいつつも、しかし、最終結果としては、
『私たち仏教教団員にも「涅槃は本当の自分」と信じる人がいますが、同じように何かを迷って涅槃と執着しています。何かを自我と感じ
る気持ちが少しでもあれば、本当の涅槃が現れることはありません。涅槃が現れた時には、自我という感覚は残っていないからです。』といって、
残念なことに間違ったアビダンマの無我論に固執していることが明白だからです。
とにかく、あーでもないこうでもない...と、ただ屁理屈ばかり。もう.ウンザリです。
「自我」と「本当の自我」...。要するに、所詮はテーラワーダの僧侶など、「マイトンド」と「ジーヴァ」と「アートマン」の違いすらも分か
らない無知からくる混乱者でしかなく、アビダンマ無我論の固執者に過ぎないのだということ。
まっ、言っても分からない者には、どうぞお好きにしてもらう以外にはないということです。
信仰は自由だから! “霊泉と清瀧のお不動さん”
今回、8日連休だったGWの妻との旅行ドライブの途中、霊泉が湧き出ているという室蘭市の清瀧不動尊に参拝してきました。
ことの謂れは、明治の開拓時代に食料を求めて散策して山中深くへと入った3人の男たちがこの良質な浄水を偶然見つけ出した。そして、
この湧き水の話を聞きつけた同じ地元の長く眼病に悩んでいた方がこの水で眼を洗うのに泉へと通っていたところ、ついに治癒し、感謝
の想いで自らが彫った不動尊像をお祀りした。これが「眼病に効験のある霊水」として口コミで人々に広がり、参詣する人が増えていっ
たという。
しかし、村から人が出ていって無人の山中となって数十年が経過し、泉の話が人々の記憶からも忘れられた大正5年のこと。もともと
ご神託のあった沖本妙道師という女性が夢のお告げを受けて山中に分け入り、夢のお告げの通りにこの霊泉を探し当てた。以来、この方
がこの場所にお籠り修行するための道場を設けて弟子を育成してきた(伝統的にここでは代々女性がトップに着いている)。これが成田山
青龍寺を経て、今日、真言宗醍醐派の『天神山清瀧寺』となっています。
私も参拝後に、この有難い泉を80リットルほど汲ませて頂きました。泉の汲み場周辺も綺麗によく整備されていて、四国八十八ヶ所の
簡易霊場となっています。 ---“お不動さま”のエネルギーか!?
ついにオーブの凄まじい乱舞を動画にとらえた---
これまで自宅でお祀りしている不動尊の祭壇を何度となく写真撮影してきたけれども、しかし、特に霊的な現象なるものはただの一つも
確認できませんでした。いつも、それにしても1枚すらも何も映らないものだなぁ〜と、逆に感心していたところ。今回、たまたま動画撮
影によって、祭壇のある部屋中を飛び交う驚異的なオーブ乱舞の様をとらえることに成功しました。
私がこれまでTV番組などで見てきた僅か一つか二つだけのスーと静かに動く程度のレベルなどではないので、恐らくこれほどのオーブ現
象の動画はどこにも存在してないのではないかと思う。色は半透明〜白が殆どで、たまに綺麗な水色も見られる
私の理解としては、これは不動尊の持つ強烈なエネルギーであり、不動尊の化身にして眷属としての三十六童子の御霊が動画にとらえら
れたものではないかと思います。というのも、この数十ものオーブの中の一つが必ず私の周囲に纏わりついて離れず、数十キロ先の勤務先
にも、そして、今回の数百キロ離れた旅行先にも着いてきており、こうしてこの私のことを守護して下さっているからです。
これが唯物主義者らのいう、オーブというものはすべて空中に漂うただの埃ホコリが、今日の高性能と化したデジカメによく映るようになっ
たものに過ぎないか、または、レンズに生じるただの光化学現象であると断言する馬鹿タレどもの理論では決して説明がつかないことにつ
いては、私の動画を見れば一目瞭然です。 職場の駐車場に止めていたマイカーの車内から撮影したものには、車外に出ていたオーブが後部座席サイドの窓ガラス部分から車内へと
凄いスピードで入って来る瞬間がとらえられています。雪が解けて間もないこの時期の仕事帰りはまだ寒く、この時の窓ガラスは閉めたま
まで絶対に開けていない。にも関わらず、オーブは凄いスピードのまま窓ガラスを無きもの同然に通過している。だから、ホコリなどの物
質ではないことは一目瞭然です。また、車体のCピラーの陰から突如として見え出す様はレンズの光学現象では説明が付かないのであって、
これは当然、Cピラーの背後にあって映らなかったオーブがCピラーを過ぎて見えてきたことを意味しているもの。
近く、機会があれば不動尊寺院の主幹にでも見て頂こうかと思っています。
>>889
訂正:
×「マイトンド」
○「マインド」 講談社学術文庫から先月出た『ブッダチャリタ』いい本だな
日本って何気にこういうブッダの定番的な伝記ってないよな >>895
情報ありがとうございました。
早速、私も取り寄せます。 日本仏教は、
ブッダ個人よりも、法身としての釈迦「如来」、大日如来、
が、礼拝祈願対象だから。
でも、幾つかのエピソードだけを押さえた「仏伝」は、
絵本や紙芝居等で、『固定的』ストーリーとして結構流布してると思うけど? ああ、
でも、日常で、
家庭で、祖母から孫へ、長老から若手へ、
といった形での「伝承物語・説話」としては、(江戸前期頃は分からんけど)
近現代仏教においては、仏伝は蔑ろにされてる感はあるかも・・ >>895
ちなみに、それ中公の大乗仏典シリーズの再活字化だったかと思います。
中公は確か今2000円なので、そちらを購入されるよりはリーズナブルかと。 ブッダチャリタ読んで分かったのは俺って仏教分かったような気になってたけど
織田信長や曹操よりもお釈迦様の人生の流れが物語的に曖昧だったってことだな
祇園精舎にもブッダガヤにも鹿野苑にも行ったのにね
仏教入門者にはホントちょうどいい感じだよ >>895
何気に見てみたら、文庫版、馬場さん解説付じゃんw
即買いです。 m(_ _)m
https://samgha.co.jp/shop/products/detail/812
2018/07/23
テーラワーダと禅
「悟り」への新時代のアプローチ
曹洞宗.藤田一照
アルボムッレ・スマナサーラ
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RB209C4ZOVUWQ/ref=cm_cr_arp_d_viewpnt?ie=UTF8&ASIN=4865641270#RB209C4ZOVUWQ
藤田師の質問
「出世間のための、一番の中核となる部分は何でしょうか?」に答えて
長老が
「私がいる」という
自我
(アートマンがある)の錯覚を破ったところで、悟りの… >>173
おじゃるさんよ、こんなところに書いていたのかい?
仏教の教学のためとは言え、ご苦労さんです。
そもそも自分は我(=アートマン)が実有で未来永劫不変で継続するものだ〜とは
一言も言っておらず、おじゃるが何故そのような指摘をするのか甚だ心外だ。
自分の過去レス(大昔過ぎて無いか?w)を見れば分かるだろうが「生きている間〜は
我は間違いなく有るのであり、(仏教で無〜の連発の延長線上の無我で、我は無い〜のではない。)
我が死んだ後、我は有るのか無いのか分からん。(仏陀の無記だ〜)有るとも言えず無いとも言えず〜
だろうよw なんせ、死んだ人が生きている人間に死後の世界は有るよと連絡できないのだからな。
しかし、連絡できないから無いとも断定できないだろ。連絡できないのは「有無」に関しない事だからな。
仏教から吸収するべき事は神秘的な事は何一つなく単に「慈悲」「智恵」の2点に集約されるだろうよ。
その「智恵」の方は仏陀の時代と今ではものの見方が根本から違うから今なりに見るべきだと言っているだけだ。
智恵の視点は変わっているのに大昔の見方に縛られてそれに固執する〜なんてのは仏陀が生きていたら叱責するだろうよw
仏陀の時代の縁起(これがある時それがある〜)なんてのは今の量子力学世界の元では却下されるだろうよ。
今はこれがある時であってもそれはないかもしれない〜だw
常に慈悲と智恵の精神で生きていけば多少は仏教的ではあろうなw 自分は酒を呑むから仏教信者ですらないがw
まあ、しかし死後世界は無記(有るのか無いのか分からん)とは言っても無我の教えは仏陀の教えの根幹だから
仏陀は死後の世界というのは無きものと見ていたのだろうな。ならば輪廻転生も無いとするのが仏教的ではある。
する主体が無いものを議論しても無駄だからなw ←仏教においては〜w
>>903
紐師匠.本人?
(他人の名前を勝手に拝借してる)なりすまし?
>そもそも紐師匠にとっての自我意識は
>未来永劫不変で継続するものだ〜とは一言も言っておらず…
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%88%91%E6%84%8F%E8%AD%98-72345
(仏教ではなくて)
コトバンクとかの場合は
(仮設としての)時間の変化とともに自我意識も変化している
議論するのも面倒なので↑これで良いんジャマイカ?
ちなみに
(中観帰謬ではなく)
中観自立の場合は
(仮設としての)世俗の世界においての
(仮設としての)自我意識を(仮有なるものとして)認めます
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
おじゃるは
ここのスレは入店禁止になってるのでこちらに ヨロ m(_ _)m
↓
ひだ =^・ ・^= まり
http://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181
ウィキペディア参照
智慧
(世俗的な賢しらな識別ではなく)
好き嫌いをすることなく.平等性智をもって
世事を離れた叡智や、世事を見通す叡智
慈悲
苦しみを取り除くこと
苦集滅道
(仮設としての)
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
四苦八苦.生老病死
愛別離苦.怨憎会苦.求不得苦.五蘊盛苦
↓おじゃるツイッターも ヨロ m(_ _)m
https://twitter.com/proco_ozyaru/with_replies
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり
彼岸に到着して
解脱智見しているのなら
我所である.という想いではない
我である.という想いでもない
自我意識である.という想いでもない
アートマンである.という想いでもない
そして
輪廻している.という想いでもない
解脱智見しているのなら
苦集滅道への想いも手放して逝く
もはや(解脱智見する為の)筏の必要はない
おじゃるユーチューブも ヨロ m(_ _)m
https://www.youtube.com/channel/UCCVKSZrf1ut4jDlCZm0aLWQ
今↑現時点では神社とかの画像で おじゃります ヨロ m(_ _)m >>903
これらはただの唯物論です。
あまりにアホらし過ぎて、特に議論するつもりもない...。
仏教では唯物論は説かない。ブッダは非真理(最低の見解)としてそれらを明確に否定された。
仏教で論じている我(アートマン)とは、ウパニシャッドの説く究極のアートマンのことであり、
そして、アートマンには、実に四つの段階レベルがあることを知らなければ話になりません。
1.日常の自己(この生きている肉体と精神)、2.死後の心霊存在(カーマ・ローカやブータ、そして餓鬼)、
3.輪廻主体としての識/魂(ジーヴァ)、4.自己の本性である究極のアートマン(真我)
そして、ブッダは死後の世界(意識の存続)は明確に説かれたのであって、無記ではないから。
『中部経典/第十八経(闍尼沙経)』で死んだビンビサーラ王の心霊(夜叉.ジャナヴァサバ)と対話し、
『雑阿含/好戦経』には、モッガラーナの観た幽霊(死後に苦しんでいる亡者)を死後の報いとして認めるブッダの説法がある。
『スッタニパー.754』では、“「非物質的領域に住む諸々の生存者」が再びこの世に転生して来る”と説いた。
すべてが勉強不足、認識不足、無知・誤解の塊です。
>その「智恵」の方は仏陀の時代と今ではものの見方が根本から違うから今なりに見るべきだと言っているだけだ。
>智恵の視点は変わっているのに大昔の見方に縛られてそれに固執する〜なんてのは仏陀が生きていたら叱責するだろうよw
これには共感しますが、だからといって上記の内容が覆るというわけではない。
まっ、とにかくお元気そうで何よりでした! >>907
この投稿文章、それ自体は特に何も間違いはないと思います。
が、しかし、勝義厨というわけではないけれども出家主義の過剰偏向が社会的に問題となる...。
まず、第一点目として、
確かに、専門修業に専念できる境遇に身を置けるならば有利となることは間違いがないけれども、
だからといって在家生活のままで進歩向上できないというものではない。在家だからこそできることも多々ある。
そして、誤解されてはならない重要事項としての第二点目は、
出家して命懸けで修行に没頭しさえすれば、今生の内に完全解脱できてニルヴァーナに至るなどということはないということ。
これを信じてしまうと、親や子供を捨ててまでも出家する価値があって、すべてを捨てて出家した者の勝ちなのだということになってしまう。
つまり、これがオウム出家騒動の原因となっているということ。ところが、実際には仏道に入ってからも完成までには何回もの転生経験を要する。
そのことについてブッダは、四沙門果(四向四果)の教えとして、須陀洹(預流)〜斯陀含(一来)〜阿那含(不還)〜阿羅漢〜如来として説かれている。
そして、ブッダ御自身も多くの過去世での善行があってこその結果なのだということを示す意図で書かれたのが『ジャータカ』の存在です。
尚、ヒンドゥーでは、この何生涯も掛かるという注意書きがあまりにも希薄ではないのか?
これがヒンドゥーにおけるマイナスポイントと、この私は見ています。 >>908
宝珠さんもお久ですなあw
経典に神話や誇張表現はつきものだが、それらを100%一字一句全て信じるのは馬鹿だろうよw
おっと失礼ww 己が信じるのは勝手だが公の場で「これが真実!」と指摘するのはいかがなものか?
程度に抑えて言わなければ、また馬鹿どもがよってたかって攻撃してくるからなあww 用心用心w
なんせ宝珠さんはをコレらを心底信じているトンデモ人間でしたなw→ 「人間は水中で無呼吸で
何年でも生き続ける事が出きる。人間は飲食呼吸をせずに何年でも生き続ける事が出来る。人間は空も飛べる。〜などなど}w
確かに仏陀は母親の脇から生まれたと仏典にあるのだから、超人仏陀は死んだ人間との連絡も取れたのかもしれないねえw
仏典に出てくる悪魔も単なる修行上の精神的障がいという象徴ではなく文字どおり悪魔が出てきて仏陀に囁いた〜とw
まあ、仏典から何を学ぶかを選択するのも個々人の自由なわけだし、頑張ってくれw
自分は仏教から神秘的な側面を採用しない。仏陀の「来て見てみよ〜」という言葉からも訳の分からん事を信じよとは言わなかった
だろうよ。「来て見てみよ〜」は信仰とは正反対のベクトルの言葉だからな。死んだ人間と交信した〜なんて事は普通の人間には
行って見る事は出来ないだろうよ。 おっと付け忘れてたわ。
輪廻転生が有る〜というのなら何が輪廻転生するのか?
何かしらが輪廻転生したとして、ソレは今生の「我」とどんな関係があるのか?
いずれにせよ、又どんな回答であれ仏教の無我と相容れないものだろう。
ならば仏教においては輪廻転生は無いし死後の我も無いとした方が教えには適っている。 さらに付け加えればww
>>908
>仏教で論じている我(アートマン)とは、ウパニシャッドの説く究極のアートマンのことであり、
>4.自己の本性である究極のアートマン(真我)
なんでも構わないが仏教ではそのアートマンは明確に否定されているぞw
アートマンの否定=無我=仏教の根幹の教え〜でしょう。
これを「そうではない〜」と言うのなら「仏教では〜」という仏教看板は降ろさなければ詐欺だww >>910紐
>宝珠さんもお久ですなあw
う〜む。
一応、まだ元気はあるけれども年齢的な肉体の劣化に悩まされることが増えましたね...(苦笑)。
この私は、
神話や経典聖典の類いをすべて鵜呑みにする人間などではないから。
そして、仏教徒として仏教経典の記述のすべてをそのまま信じる原理主義者でもない。
ただし、どれが迷信であり、どれがただの神格化であるか。
また、どれが真実であり、真実足り得るのかを個別に識別しながら読む。
>なんせ宝珠さんはをコレらを心底信じているトンデモ人間でしたなw→ 「人間は水中で無呼吸で
>何年でも生き続ける事が出きる。人間は飲食呼吸をせずに何年でも生き続ける事が出来る。人間は空も飛べる。〜などなど}w
それはあなた方が無知だからです。
もちろん、そのまま普通の人間にはできないが、完成者(ホトケ)というのは我々とは異なるから。
物質界の諸法則を超越する能力を獲得した完成者はその支配を受けない。
あなたは単なる唯物主義者であり、唯物論などは間違いだということをまだ知らないレベルです。
この私は、物質科学の説く常識では在り得ないことが事実として在るということを自ら如実に体験してきたし、そして、理論的にも納得している。
その上であらゆる超常的な話の中から、真実足り得ることとただの神格化と見なす方が適切かどうかを判断しています。 >確かに仏陀は母親の脇から生まれたと仏典にあるのだから、超人仏陀は死んだ人間との連絡も取れたのかもしれないねえw
>仏典に出てくる悪魔も単なる修行上の精神的障がいという象徴ではなく文字どおり悪魔が出てきて仏陀に囁いた〜とw
>まあ、仏典から何を学ぶかを選択するのも個々人の自由なわけだし、頑張ってくれw
だから、この私を丸呑み信仰者らと一緒にはしないように!
“ブッダが右脇(右脇腹)から産まれた”という逸話は単なる神格化であると私は見ています。
世界中にある偉大な宗教の始祖たちに共通するのが神秘的な生誕の話であって、それがそのまま絶対的な神格化の象徴となっている。
処女懐胎の信仰は有名なキリスト教におけるイエスに限らず、その他の多くの宗教でも同じく採用されており、そして、ブッダとて例外
ではありません。
ブッダの場合には、六本牙の白象が右脇から入る(もしくは牙を差し込まれる)というマーヤ夫人の霊夢に合わせて、その右脇から産ま
れたという話になっている。これはブッダは普通の人間ではないという絶対的な神格化を図るためと、インドにおける伝統として肉体の
右半身が清浄だとする伝統的な観念があって、逆に不浄と見なす左手での握手というのは相手に対する大変な失礼となるから気を付けな
ければならない(尚、正しくは人間の右手側はエネルギーの放出側であり、左手側がエネルギーの流入側であるので、左手からの不浄の流
入を避けることが望ましいという意味なのであって、左手がそのまま不浄であるとする話はまったくの誤解からきている)。そして、カー
ストによって生まれた肉体上の部位には違いが説かれているという伝統に沿って、釈迦族の王子であったブッダはカーストのクシャトリア
なので腕(その脇)から産まれたことにしたものでしょう。その結果としての「右脇」なのです。
パーリ聖典では、普通の夫人は座って産むけれどもブッダは立ったままで産まれたともされていて、とにかく通常とは異なることが強
調されているのです。因みに、仏典の記述にはないにも関わらず、南インドの遺跡上のレリーフではブッダが反対側の“左脇”から産ま
れたものとなっている。 『プルシャ(巨人)という大きな原人の口から生まれたのは、バラモン。両腕から生まれたのが、クシャトリア、両腿から生まれたのが、
ヴァイシャ、両足から生まれたのが、シュードラという伝説がありまして、お釈迦様は、クシャトリアなので、腕。右側が清らかなので、
腕。それより、脇かな?って考えなのですね。』(中村元『ゴータマ・ブッダI』春秋社、1992年)。
参考:
私の住む地域(北海道の田舎町)でのブッダの誕生を祝う“花まつり”(5/12)の行進を目前にした白象の画像です。
http://houjugusya.web.fc2.com/IMG00220_Film4.jpg
>>911-912紐
仏教においては輪廻(転生)は明確に説かれています。
転生の主体は“魂ジーヴァ”であり、それが仏教(『DN.15』)の説く「識」(アートマンではない)です。そのことはまた、『DN.23パーヤーシ・
スッタンタ』や『長阿含第七経/弊宿経』においても説かれています。
魂と今生のパーソナリティとしての意識との関係については、魂の持つカルマの総計(全転生における総記録データ)に適い、尚且つ、前世の
業の果報として相応しい肉体と精神的資質を形成したものが今生の我(自己)です。つまり、カルマに相応しい境遇と夫婦のものへと転生して、
その魂が母胎内で肉体と精神を形成しているのです。要するに、魂の反映した存在が今生のその人の“精神と心”です。
それから、現・仏教教団の説く教義はすべて部派仏教から継承されたものであって、本来のブッダのものではありません。
“アートマンは無い”という教義は部派の持つアビダンマという創られた教義ドグマからきており、その一部は仏典の記述とまったく異なります。
仏典に見るブッダの教えによれば、ブッダはアートマンは無いなどとは一度も説きませんでした。そして、分かっていることは、現象界において
はアートマンは捉えられないということと(アートマンとは元々そういうものなので、そのことがアートマン存在の否定意とはならない)、当時の
バラモン達の中にはアートマンを実現している聖者がいなかったこと(アートマンではなく、彼らは魂ジーヴァ・レベルでの合一の境地に過ぎな
かった)。そして、アートマンの有無については、ブッダはその明確な解答を控えたことであり(無記)、その理由についても分かっています。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。