>>157の続き

あおぞらの世界から → 雲を観る。というように

すこし離れたところから → 観る。という観察を実践する

そのために
教学ではなく
観察を実践するために

我所も・我も手放して
(仏教でいうところの)アートマンという『想い!』も手放していく

そして
四界差別観とか
第一禅定とかに進んでいくので おじゃります

もう一度
教学ではなく
観察を実践する。ので おじゃります

たとえば
宝珠殿とかも
「教学しか勉強してないのか〜…?」と勘違いしてそうなので

一応、念のため