百足に足の事を意識させた途端、足が縺れて死んでしまったという例え話があります。

普段無意識に事を運ばせている事でも、一旦意識した途端、どういうわけか縺れてしまう事は往々にしてよくあることですね。
禅問答と云うのは、そうした普段当たり前のことに「何故?」とわざと問うて、無意識を意識させる狙いがあると思うんです。

「隻手の音声」

隻手に音なんてないんです。
音が聞こえたら本当に”心療内科にどうぞ”ですw


どういうことなのか?
どういうことなのか?
どういうことなのか?
……無理会に向かって参究して、あるがまま(妙有)に落ち着くんじゃないでしょうか?

つまり「無は無に非ず、故に無である」って事です。