【イエス】 これはわたしの愛する子part33 【キリスト】
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愛のシリーズ 第32弾
✝イザヤ書 51:15
わたしは海をふるわせ、
その波をなりどよめかす
あなたの神、主である。
その名を万軍の主という。
前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533913262/l50 >>34
だから繰り返すけど
“キリスト教”がどうだから、じゃないの。
真理はどうか、ということ。
イエスの教えは“裁くな”であり
裁きの根底にあるのは、善悪という二元的な考え方。
ある行為を非とみなすのは
求道者個人が向上のために持つべきものであって
他者に向けるものではないの。 あ、ナオさんはよしおラブだからよしおが攻撃されてると斜め上の勘違いをして名無し仮面(ピンク)に変身して助けたかったんかな
よしおは罪な男だw >>39
うーんとね、単純な話で、よしおとは真理について話ししてたわけではなく、キリスト教の価値観について話してたの
ようするに日本とアメリカの飲酒におけるルールについての話をしてて、自分の頭で考える話なんてしてなかったのね
ニホユゴワカリマスカ?w >>42
>>11で神に近づくために宗教があると言っているにも関らわず
神から遠のくことをしているのですか? >>43
うーんと、1〜2で対話してた時にナオさんは話しかけてきたんじゃないかな…
日本語教室に美魔女と一緒に通うの、どう? アスワド・アルセフルとタルハフまたはサミールはシャッル
オンスルでサグィスとクラーマーレによってプールスされる。 ベースティアの使うサウトは外面をバシャルに真似ただけ。
バシャルのようなアムニスはない。
だから水で溶けるタッルをこしらえたりする。 サティさんはそんなに頑固だったっけ?
見た限りよしおさんの回答に対して
カトリックの価値観を提示したサティさんに
前提を説明しつつ否定を述べたのだけど? バシャルはワハシュが自分たちと異なるものであることを会得しなければならない。
エマスティティアに耐えなさい。 >>48
あれ、やっぱナオさんじゃないかも。。。
いつものコテを教えてください
頑固というか、何言ってるか単純に意味不明なんです ここにいるのはみなワハシュ。
ラビュリントゥスのエクウス。
ラウフを探しても見つかることはエルアバドにラー・シャイ。 天皇に開戦を決意させた言葉とは、これですか?
天 『朕茲に出師を命するに当り卿に委するに聯合艦隊統率の任を以てす、
惟ふに聯合艦隊の責務は極めて重大にして真に国家興廃の繋る所なり、
卿基れ多年艦隊練磨の積を奮ひ進んて敵軍を勦滅して武威を中外に宣揚し、
以て朕か信倚に副はんことを期せよ。』
山 『開戦に先ち優渥なる勅語を賜り恐懼感激の至りなり
謹みて大命を奉じ、聯合艦隊の将兵一同粉骨砕身誓つて
出師の目的を貫徹し聖旨に応へ奉る覚悟なり。』
開戦は既に決定していて、激励されただけのようですが、
違うのでしょうか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14141727984 >>50
>>何言ってるか単純に意味不明なんです
確かに意味不明だよね。
この人は何を言ってるのだろう? >>54
おそらく僕に何らかの先入観をもってて、よしおとはなしてる内容をきっかけに、その先入観について話してるから意味不明なのかな、と思われまつ
だから前からこのスレにいる人すね >>55
いや、頑固というのはほとんど意味がありません。
サティさんの理解力のなさに対する結果表現された言葉です。 宗教は神に近づくためにある
↓
神に近づくには正しい道筋に従う必要がある
↓
正しい道筋とは肉の働きから離れることである
↓
カトリックの価値観は肉の働きに通ずるものであり
更に無知に基づいているため無用である
↓
無知とか以下略である >>55
何か意味不明な先入観を前提にしてるみたいですね。
ちょっと変わった人みたいだからスルーしていいと思いますよ。 >>56
いや、だって、もともとの発端は、なるみたんがキリスト教の神を持ち出して戦争マンセーしはじめたことに対して、俺が「仮に」偽悪だったとしても、戦争はキリスト教的にいかなる理由があれ肯定されることはない、と主張したのがはじまりなんよ
きみは善なる目的のために戦争して人殺してもOKなの?
んで、よしおが「キリスト教的にはOK!」と答えたから、カテキズム引用してNGす、って話をしてたわけ
きみはキリスト教は善なる目的のためなら戦争してOK!と信じてるの? 地球では生命や人間は、電子の質量が1%や
中性子が0,1%違っただけでも
存続出来ないのです🎵🍮 >>60
カトリックがダメと言っても、聖書の神はOKと言ってますからね。
どちらが間違っているのでしょう。 >>60
だから二元論じゃないです。
神の視点からは不必要なことはなく
従って善悪という肉の働きに繋がる二元的な見方に基づいた解釈と信念は
自己の霊的成長の観点からは捨て去らなければならないという理解について述べたのです。
肯定は否定する人と肉の働きになるのでそれも駄目です。
必要なのは理解が起こったときに、信念が剥がれ落ちたニュートラルな状態です。 >>63
OKなんて言ってないすよ
でもよしおがそう信じたいならそれでいいんじゃん
でも客観的な話としては、カトリックではNGであることは認識しておけばいいんじゃない?
>>65
二元論…
だから俺は善の一元論って言ってるじゃん
話しかけるなら人の話を聞きなよ
永遠に続きそうだからこれできみへのレスやめるね 今日の宜保愛子スペシャル芸能人バスツアーかな、見たかったわ😫ガッカリや >>66
宗教はあなたがどう思うかではなく
事実はどうなのかを理解することだと述べたはずですが?
あなたのそれは思考停止です。 偉そうに上からアドバイスばかりしているから、潜在的なアンチサティが
ウヨウヨ潜んでいるんだろうな。
それが、何かのきっかけで顕在化するわけで。 >>67
少し見たけど面白くないから途中で見るのやめたよ。
>>69
アナタ、そもそもアナタの日本語が変なのです。 そもそもよしおは旧約の神は殺しておけ!と言ってると言うけど、十戒ぐらい知ってるでしょw ID:Y0OSZUDMさんはMewだと思うけど
善悪を超えた神の経綸を理解することが神との一致になるっていう信仰の人だったと思う
変形梵我一如バージョンって感じかな
だからすべてを包含する万教帰一的な信仰で
そこからキリスト教の中心を「裁くな」に見て取ってる人だと思う
裁く=善悪の分別をつける、となってしまうため、すべてを包含する神の経綸と反することになるから >>72
基本ダメでも、神が許可すればOKという事ですよね。 >>73
> Mewだと思うけど
→Mew「さん」
失礼しました >>73
神との一致なのではなく
肉の働きに繋がる価値観を捨て去れということです。 人を不幸にしているのは現実に抵抗する心の働きがあるからです。
より高次の観点を受け入れることは
肉の働きにつながる誤った価値観に基づく信念を終わらせます。 >>77
あ、そうですか
では神との一致というのは取り消します >>75
汗さんに質問します。
眠っているときに誰もが「夢」をみるでしょうが、
夢見ている時には、夢の世界の中に自分が居ます。
汗さんは、その夢の中の世界は「存在している」と考えますか?
それとも「存在ではない」と考えますか? >>73
よく分かりますねw
(ナオさん、勘違いしてごめんなさい、許してください)
特殊な解釈なんすね、そりゃ意味不明だわと思うと同時に、エイシストさんの相手への傾聴スキルに驚きました
>>74
自由意志だから許可も何もないんじゃない
悪を犯すのは人であり、神ではない
神がやったのは、世界を「途上の状態」で創造したこと
完全への成熟する途上なので、それまでは悪は存在し続けるようには創造した
でも良しとするのは善であり、その善の栄光のために悪がある、みたいな感じよね
切磋琢磨するライバルみたいなもん >>81
旧約聖書ではヤハウェ様がジェノサイドの指示まで出してますが、その辺りはファンタジーですかね。 >>80
「存在」の定義によると思います
「存在している」というのを「実在している=この物理的世界に空間的位置を占めている」と定義すれば
存在していない、となると思います
「存在している」というのを「現象としてある」と定義すれば
存在している、となると思います
ただしその存在の仕方がいわゆる実在という存在のあり方とは異なるということになるのでしょうが ここのスレの人はやたらと神に責任を負わせたがるね
なぜ、自由意思を与えたのは神だから=神の責任、になるんだ
落ちるのも自由なら立つ自由だってあったはず
落ちる方を選んだのは人間だろうに
そこまで含めて自由と呼ぶんだろう
その後はどーぜ全知だったからと反駁するんだろうけど、善だけで創れたのになんて言うんだろうけど、ロボットみたいな世界のどこに賛美があるのか
落ちる自由もあったのに立つ自由を自由意思で選ぶから賛美に意味ができる
だからすべていい >>81
基本的には信仰の違いということになるんだろうけど
自分の信仰を相対化せずに信仰の違う相手と話をすると
どうしても話が食い違っちゃうよね >>82
律法の時代に神の教えの表現方法や文法、言葉のトーンは律法の時代に即したものであるべきだった、とは思うよ
時代が現代に移り、唯物論の世界では比喩に感じ入る知覚器官は衰え、コンテキストと文法の中におかれる記号と指示対象の一対一の関係の中でしか理解できない人が大半の時代ではよしお的な解釈する人が多くなるのもしょうがないとは思う
でも、そういう間違った解釈をさせたり誤解を生まないために神学がある
(繰り返しになるけど)
ようするによしおは神学の解釈はどうでもよくて、俺は都合の良い箇所をつごうよく切り取って、自分が解釈したいように解釈する、と言ってるだけなんだよ
んで、俺はそれでいーんじゃん、でも公的にはそうじゃないよ、と言ってるだけさ >>73
>そこからキリスト教の中心を「裁くな」に見て取ってる人だと思う
最も人を裁いているのが、イエスとキリスト教なのだが。何を言ってるのやらw。
イエスは「俺だけが裁く権限を神から与えられている」とほざいているではないか。
近代の歴史を見ても、すべての戦争は、キリスト教国による裁きではないか。 >>84
そーだそーだ!
ちなみに神ももちろん自由意志があり、その神が「途上の世界の創造を望んだ」のだからいちいち文句言うなよ、と思う
文句言う理由の原因は自分(人類)にあるわけなんだから、少なくとも文句言う奴は争いに関する一切と決別しよろ、とは思う
ちなみに、文句言う、という行為自体が決別できていないことは不問にしておくw >>83
ご回答、ありがとうございます。
以前、俺が汗さんと話した時に、俺は謂わば極楽浄土ともいうべき世界の「実在」を信じているかのように思われたと記憶してます。
汗さんの定義に従って再表現するなら、
俺は、そえいう世界の実在は1ミリも信じていません。 ( あの時、俺自身の説明が悪くて誤解されたように思ったものですから…
だが、そういう異世界は存在する(実在ではない)と考えています。 >>87
そりゃそうだよ
キリスト教ではイエスは神なんだから >>87
それは簡単。
イエスは誰も裁いてないから。 >>89
いやあの時もヨハンネスさんの発言から
極楽浄土的世界の「実在」をヨハンネスさんが信じているとは受け取ってませんでしたよ
非物質的な、あるいは形而上的な世界というのは客観的な判断の埒外になるので
それはもう各人の信仰あるいは直観ということになって、キリスト教のような
信仰基準(ドグマ)がない限り真偽を確定するような議論の対象にはならないですからね >>73
自国で3000人の人間が殺されたことに対して、聖書を唱えてイラクに攻め入り、
十万人以上の人を殺したブッシュ。これが裁きでなくて一体何なのか? イエスがどれほど人を裁きまくったか。聖書を良く読め。隣人のパリサイ派や神殿の商人さえ
裁いているではないか。 ご隠居は政治や経済の思惑を無視して、なんで宗教に全責任を背負わせたいわけ?
ご隠居が働いてる時に会社は内部から見ると「社内政治」と「経済的効果を生むパワー」の二つの原動力だけで動いてたでしょ?
そのに宗教的なイデオロギーは介在してたか? >>93
隠居さんの言っていることは
調理師学校に通う生徒は皆調理のプロであるくらいの暴論です。 >>92
誤解されてなかったなら、それはそれでよかったです。
もうちょっと、話を続けると(この先の話は客観的証明のしようがないので要注意なのですが…)
人間の(生き物の)意識と記憶の主体は脳にあるのではなく、別在する「意識そのもの(それを世間では神とも仏とも呼ぶ)と仮定しており、
私個人の経験上、それは正しい認識であると判断しているのです。 ( お盆の時期らしい話ですが… 記憶の主体は脳じゃないすね
死んだ後に人生が走馬灯のように巡りそれを瞬時に眺める、みたいなことがよく語られますが、記憶の貯蔵庫は別の人間の本性にあって、それを脳が身体に刻む時に脳を介して行う、みたいな感じすかね >>90
キリスト教では、イエスは「自称神」。根拠は皆無。「自称神」は、神ではあり得ない。
イエスを神にしたのは、信者による暴力まで使った多数決による政治的決定。神とは一切
関係ない。 >>95
イエスは人を裁いていません。
無知な人にとってイエスが人を裁いているように見えるだけです。
イエスは個々の肉体を通して
神の聖なる摂理が働いていることを理解しています。
ヨハネ5章19、14章10にある通りです。
エゴが落ちてくれば誰でも実感できます。
普通の人は行為を個人に帰属させるので問題があります。
一方彼を通して起こった非難は彼の心に
誤った信念を生み出すことがないので問題になりません。
しかし無知な人々は違います。
だから彼は「私だけが」ということで、他者の非難から遠ざけたのです。
隠居さんには難しいかも知れませんがそういうことです。 >>98
以前も書いたことがありますが、俺の場合にはいわゆる心霊体験が皆無と言っていいので
その経験の有無が世界観と言うか存在観の違いになってる部分が大きいんでしょうね >>99
まさに「そこ」が、唯物論者とグノーシス派(あるいは其の他の有神論者)の分水嶺になっていると思っています。 >>100
自称しようがしまいが、クリスチャンはイエスを神と考えてるんだから
キリスト教では神だよ
ご隠居や俺が神だと考えないだけで 自我も感情も脳が主体じゃないすね
でも顕在意識を生むためには身体は必要
自我や感情は身体を介して表現するわけで
それらが身体の働きを生むところから科学のスコープになる
意識の前に身体が反応する、みたいな実験結果があるけど、あれは意思が脳の意識の部位を活性化する前に直接身体に命令を送る、みたいな例だと思われる
そういうのはパブロフの犬的な単純作業の時において可能になる
複雑な思考の後に意志する、みたいな高度で人間ならでわの意志→行動の時は脳の意識の部位が活性化→身体の順番だろうけど >>104
キリスト教内部にさえ、イエスを神と認めない宗派はある。三位一体に付いては、
キリスト教内部で殺し合いまでやったのだ。 霊や魂みたいな形而上が扱う精妙な実質と身体の関係は、砂浜の上を歩く「透明な足」と「砂浜に残る足跡」のメタファーで考えると分かりやすい
砂浜に残る足跡が脳の発火で透明な足が霊や魂 一体にして三位
三位にして一体
極端な矛盾は愚かな者にも賢き者にも神秘にみえる >>106
いやだから、キリスト教内部で殺し合いをやろうがやるまいが関係ないよ
「正統」キリスト教の認識ではイエスは神なんだから
キリスト教の歴史において実際に殺し合いがあったことを
どのように考えるかはそれはそれぞれのクリスチャンの考え方で
それを正当化する人もいればそれを反省する人もいれば
それをもって棄教する人もいるでしょう >>101
キリスト教特有の屁理屈。話にならん。本家のユダヤ教の神も、イエスを神などとは
認めていないぞ。本家にとっては、イエスは、神を騙る冒涜者に過ぎない。イエスは
まだユダヤ教徒であることを、忘れてはならない。 >>102
はい。そこなのですよね。
客観的証明自体(観察による再現性)が唯物論の認識手段だと思っています。
それに対して我々は「主観的共鳴性」によって認識を確認し合う(これは宗教的には伝統的な手法だと思いますが)認識を共有してゆくのです。
逆なことを言うなら主観的な共鳴が成立不能なら認識が共有されることはありません。
文学や音楽と言った芸術性に関する分野は、これと近似したものがあると思っています。
「美しい花は存在するが、花の美しさは存在しない。」・・・そう考える人が多いかも知れないが、実は違う。
つまり、花の美しさこそが、より普遍的な存在なのであって、美しい花の実在とは刹那に現れた煙の形の様なものと考えます。 ( かなり仏教的な表現になりますが… 昔に一時期、簡単な歩行禅を週一回、10分してたことがある
歩行禅といっても、散歩してる時に、特定の場所に着いたら、そこから特定の場所に到着するまで、視覚像に関するサティを入れて、とにかく意識的に景色を観察する、みたいなことをやっていた
とある日、朝目覚める少し前に、歩行禅を行う景色の中にいて、その世界で寝ているのに非常に意識がクリアである状態になった
夢なんだけど、自由にその世界を移動できて、あらゆる角度からあらゆる物質が、現実世界そのまま再現されていた
その再現の解像度の高さはリアルそのもの
どの角度からも詳細なディテールがありありと現前していた
思うに、視覚像に対していくら意識的であってもあれだけの解像度の高さの再現は無理だ、と思った
無意識化では人間は莫大な情報を処理してて、意識化されるのはその中でのごくごく僅かなものではあるが、それでも世界全てをコピーするぐらいの情報が記憶の中に貯蔵されていることをその時に知った >>105
身体のことは、科学に任せなさい。宗教が出る幕ではない。 >>113
当たり前じゃん
そういうことを語っとるがなw
現代ほど人類が物質について詳しくなってる時代はないよな >>111
主観的共鳴性というのはなかなか要を得たことばですね
宗教ではもちろん知解の部分はありますが、根本的なところでは
真理を感じ取るというところから始まるように思います
いくら合理的な説明をされようと自分が真理だと感じられないものは信じられませんし
逆にいくら非合理であろうが、自分が真理だと直感することは信じますからね
そういう部分が宗教とか広い意味でのスピリチュアリズムでは核になっているのでしょう >>113
>>身体のことは、科学に任せなさい。宗教が出る幕ではない。
違うよ。
科学(医学)以前に佛教哲学が身体(五感)と意識や記憶の存在のメカニズムについて考察している。
そして、その素晴らしい認識論は科学の介入を許さぬ領域にあるので、科学者や医者であっても仏教に帰依する人は多いですよ。 キリスト教的には人間は自然の管理を任されてる
物質に詳しくなって、その知識を自然や人類にとって善いことに使うなら、素晴らしいことだと思われる
研究者は求道者みたいなもん
科学だろうがスポーツだろうが芸術だろうが求道者は同じ感覚を共有してるもんだと思う >>91
>イエスは誰も裁いてないから。
ほほう。イエス自身が「裁く権限は、俺だけが神から与えられている」とほざいている
ではないか。
イエスの「教え」のほとんどすべてが、「己の気に入らない者に対する裁き」とセットに
なっていることさえ見えないのか。イエスの礼賛とともに批判もできなければ、理解など
無いぞ。
イエスは、実のなっていない無花果の木さえ裁いて呪い枯らしたw。 >>116
君は自ら仏教哲学は宗教でないとあばいているよ
科学の隣に仏教哲学をおくなら同列と言ってるようなに聞こえる
宗教は本質を、科学は属性を、目的にするなら仏教哲学は科学の方になる 科学的アプローチで形而上の事柄を語ってる、と言ってるんじゃないすかね
その意味だと、僕もそう思います >>118
ちょうど仏教の話が出たから仏教で説明しよう。
イエスはスカンダへのアンアッタを理解していた。
だからイエスは裁いてないが、イエスを通して非難裁きは起こった。
イエスは行為を非個人的なものと見做していたので
彼の心に問題は起こらない。
無知な人の心には問題が起こる。
これが彼の言ったことの意味。 ここまで話が進んだ段階で、再度美魔女の「進化論へのこだわり」について、振り返ってみるなら新たな地平が見えて来るのではなかろうか。
昨夜、サティさんが秀逸なレスを投稿したので再掲します。
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827神も仏も名無しさん2018/08/15(水) 00:53:51.83ID:FizesgB0>>828
進化論は形而下のスコープ内で観察可能な事柄を元にタイプの分類に応じて変化の連続性の仮説を立てる
それは形而下のスコープ内で観察可能な事柄を元にしていることから、生きる意味や目的とそもそもなんの関係もない
進化論から生きる意味や目的を演繹的に、帰納法的に抽出できると信じてる人はいないと信じたいが、もしいるなら進化論に刺激を受けたロマンチックなカテゴリエラーのなんちゃって思想でしかない
思考対象に関する事象の意味付けや、それに対する感情的なリアクションは形而上の霊や魂に原因があり生じるもの
「私が」生きる意味が何か?
それに対して人類は「汝自身を知れ」という通奏低音を響かせる
また、生きる意味が何か?
それに対して宗教はテオーシスや救済、悟りなど、強調点は微妙に違うが、大枠は同じ方角を目指している
---------------
>>美魔女
創世記神話にある創造をもう一度考えてごらんよ。
俺は生物種の進化については事実(実在)だと思っているが、君は大問題だという。
我が家の庭でも、今年も去年同様に大輪の香り高き白百合が咲いて散った。
たぶん来年も同じように咲くだろう。
俺が生きていたなら、それを見て愛でて、過ぎ去りしことに思いを馳せ、世の無常を観ずるだろう。
良いも悪いもあるものか。
君はまだ進化論に何かの不都合があると言うのだろうか?
それは宗教の問題なのだよ。 >>86
神学的に解釈すると、殺人や戦争は絶対的な悪になるという事ですか? >>124
「神学、ようするに教派における正しい解釈」だと
1.信徒が悪を犯すことを推奨されることはない
2.殺人は悪である
3.善なる目的のために悪を犯すことも悪である
4.従って、キリスト教の過去におかした十字軍などの蛮行は悪である
5.そしてそれはカトリックは当たり前に認めていて、懺悔も行なっている
ってこと
殺人や戦争は悪すよ
神学持ち出さなくても、聖書読んで流れるものに感じいれば、感覚知としてもそれが分かるはずと常々思ってるんですけどね >>125
基本的には悪であっても、絶対的に悪なわけではないですね。 戦争の責任がどうこうといった話ではなく、聖書の価値基準では、戦争も殺人も絶対的な悪ではないという主張です。 >>119
お盆の時季くらいは般若心経を唱えろよ。
ありがたいお経なのだよ。 「絶対的悪」って概念はよしおのユニークな概念だから、説明しないと伝わらないと思うよ
天使は絶対的善か?堕天使になる前例あるから絶対的とかいえんわな
サタンは絶対的悪か?堕天使がいるなら昇悪魔とかいそうじゃね?w
絶対、の属性はそもそも唯一の神だけが持つ属性なんじゃない? >>128
行事だからね、で済ませられる人はいいけど
たかが行事なのが信仰の告白になってしまう人には酷すぎる
君のように宗教を軽く考えられない人もいるんですよ 虎さんのご質問にお答えすると
もし絶対的な悪だったら、神はどんな行為も赦すという聖句は存在しないでしょう。
ただ求道上、束縛を引き起こす行為は避けたほうが良いですね。
宗教的に三種(普遍的、社会的、個人的)の観点から
悪い行為は悪い結果を呼びよせますし
束縛をもたらす強い拘束力が生じますしね。 >>129
戦争は誰が何と言おうと悪です
人が人を殺すことは誰が何と言おうと悪です
↑
ならコレは論破ですね。 >>130
般若心経は別に信じてなくても意味が分からなくても、誰でも唱えて良いのですよ。
内容は極めて深淵なるものの、それとは別に唱えること自体に大切さがあります。
ご真言とは、そういうものです。 自由意志ってのは二重螺旋構造のDNAみたいなもんよね
ようするに変わる、進化する、成熟するってこと
神は世界を「より完全」への途上として創造した
絶対は「固定」を意味しますね
自由意志は善と悪の境界の横断を可能にします
その運動がある限り「絶対」みたいな概念は被造物にはありえまてん
神は途上の世界を作った、何への途上かというと、完全への途上である、ということ
それまでは絶対、はありえまてん >>135
絶対なんてないのに、絶対かのように他人に教えようとする人もいますよ。
困ったもんですね。 >>132
いや、戦争は誰がなんと言おうと悪すよ
それは神の本性の性質ではないす
神の似姿として形取られた人間の形式からいうと善は御霊の実として現出しまつ
悪は肉の欲として現出しまつ
肉の欲は不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊興とかその類のものす
殺人は肉の欲に該当します
これば肯定されることはありません
創造の完成のために悪が必要なことと、悪が正しいことは別の話です
なぜなら創造の完成は「善に向けて」の完成だからです
神の創造は「悪に向けて」の完成ではありません
善の不在の完成に向けて創造がなされたわねではありません
逆に善しか存在しないに向けて創造がなされます 倫理(善悪)の問題って一筋縄ではいかないよね
例えばAという人物が罪のない子どもたちを殺そうとしている
状況的にAという人物を殺すしかAの殺戮を止める手段はないとする
このときあなたはAを殺しますか?
こういう問があったとしたらどうする?
俺の答えは、Aを殺す
あまり考えたくない問いだけどねw
こんな問いならまだしも、あなたの息子と娘(あるいは父と母)、どちらか一人だけあなたは選んで
選ばなかったほうが殺されるとする
あなたはどちらを選ぶか(見捨てるか)?なんて問いになったら結論を出せない
こういう問いは考えたくないよね
俺も考えたくないから、普段はこんな問いが浮かぶとその問い自体を抑圧して考えないで逃避する
でも無理やり答えを出すなら、死ぬことに、より大きな恐怖を感じるであろう方を選ぶ、というのが
俺の答えになるかもしれない
でもこれはどちらか一方を他でもない自分が選択して見捨てるってことなんだよね
この自分の選択に善は存在するのか?悪は存在するのか?わからないよね
俺にはわからない
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