「漏尽通は自己の煩悩の尽きたことを知る能力。」(『岩波仏教辞典』)

信者さんたちはこの説明を読んで不思議に思いませんか。
他人の煩悩を透視するというなら神通とも言えるが、
自分の煩悩が尽きたことを知るくらいが神通?
まるで、受験に合格したのを知る能力、みたいです。
どう見ても、これは「力」などではない。
では、どうして釈尊はわざわざ三明六通を説き、しかも
力とも言えない漏尽通を最も重視したのか?

信者さんたちのような力に頼ろうとする人たちがインドにもいたからです。
インドでは解脱者や聖者は超能力を持つと信じられていた。
実際、釈尊や弟子たちは神通を持っていたから、世間の価値観に
合わせて三明六通を説いただけで、神通で解脱するとは説いていない。
だから、力とは言い難い漏尽通が入っており、
しかも、これが解脱者に必要条件とされた。
信者さんたちには神通力に見える他の五つは無くてもよく、
神通力に見えない漏尽通だけは必要だというのです。
漏尽通は解脱した結果を見るのですから、
漏尽通で解脱するのではありません。
桐山説と違い、釈尊は神通で解脱するとは説いていないのです。