レプティーバイブル
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「神に呪われた」人生だったのか? 博士は対話を進める中で次第に、なぜ自身が無神論となったのかを語る。そこには、「物理学的な結論」とはまた別の不条理感があった。 「If God made me, I cannot accept the reason why I'm so heavily destroyed my physical actions, or perception. I hate God. If you think, you believe, that you are like gods, or God. I cannot believe that kind of God」 (私が神に創られたとしたら、なんで自分がこんなに重い肉体的障害があって、知覚も障害があったのか、その理由が納得できない。神なんか嫌いだ。君らが、『自分は神に似せてつくられた』と思うとしても、私はそんな神は信じられない) しかしその後の対話の中で徐々に、博士の中にあった「神に呪われた人生だった」という見方が揺らいでいく。 そして博士は自身の境遇を、『旧約聖書』に書いてある「義人ヨブ」に重ね合わせるかのような言葉を口にし始めた。 「ヨブ記」では、信仰心深く、心正しく生きていた義人ヨブが、神により、病気や身内の死などの、ありとあらゆる災難を与えられる。そんな中で神を疑うようになったヨブに対し、神は次のような主旨の言葉を与える。 「おまえに神の心が分かるのか。この宇宙を創ったものの、ほんとうの思いが分かるのか。なぜ私がおまえにこのような試練を与えているか分かっているのか」 ヨブは心改め、その後、大きな幸福を得ることになる。 第2章 愛から始まる 「人生の問題集」を解き、「人生学のプロ」になる 1 「愛されたい」という気持ちは人間の本能 「愛を与えられたい」−−人はそう思うもの 本章のテーマは、「愛から始まる」です。幸福の科学にとっては非常に懐かしいテーマでもあり、当会に初期のころから集っている人にとっては、ずいぶん昔に返った感じがするかもしれません。 こういう内容は、私がもっと若いときによく説いていました。 今も気持ちだけは若いのですが、実際には数十年か年を取りましたので、今、似たようなテーマにチャレンジしたら、どのように変わるのか。あるいは変わらないのかということも、気になるところでしょう。 さて、愛というものを考えるとき、若い人などは、たいてい、「人間の幸・不幸を分けるものとして、人から愛されると幸福、愛されないと不幸」というように考えるのではないかと思います。 これが、単純な、最初の感じ方でしょう。 こういうことは、人に教わらなくても本能的に感じるものです。十代の後半、あるいは前半ぐらいから、すでにそうなる人もいるかもしれません。 ですから、若い人は特に、「人から愛を与えられたい」という気持ちが強いでしょう。さらに、もっと行けば、「愛を独占したい」という思いでしょうか。 これは、つまり、「自分だけを愛してほしい」というような気持ちです。テレビドラマなどを観ても、そういうものをテーマにしていることが多いように思います。 そうした、「人からの愛がほしい」という気持ちが、よいかたちで表れると、ある意味での自己実現というかたちとなって表れてきます。 自分自身をもっと成長させ、もっと立派な人間になり、人から尊敬されて、自分が憧れるような人からも「素敵だな」と言われるようになりたいという気持ちのなっていきます。そして、その人の気持ちを自分にグーッと集めたいというような思いになるのでしょう。 これは、間違いではないでしょうし、中・壮年期になっても、そういう気持ちを持っている人は多いのではないでしょうか。 物事に励む原動力にもなりうる「愛を求める気持ち」 ところが、人口が多くなり、この屋での「愛をめぐる競争」も非常に激しくなってきました。 「人気が集まる人」には、たくさんの人からの好意が集まっていきます。 ただ、そういう人は、浅く広くいろいろな人を愛することができたとしても、W一人の人”を深く愛し、契約関係になるような結びつきをその一人の人と持つところまで行くのは、それほど簡単なことではないでしょう。 一方、誰もが振り向くわけではないような人が、愛を求められた場合には、Wクイックレスポンス”をするかもしれません。 そのように、たいてい、人気というのは、ある人にはあり、ない人にはないことが多いものです。 たとえとしてよいかどうかは分かりませんが、幸福実現党の候補者が選挙に臨むときなども、 「なぜ、ほかの党の候補者にはたくさん票が入るのに、幸福実現党はこんなにも少ないのかな。寂しいな」と言いたくなり、「少しは私に愛を下さい ♪」と、思わず歌いたくなるような気持ちがなくもありません。 「どうして、幸福実現党に入る表はこんなにも少ないのでしょうか。平等に愛してほしい」と、W結果平等”が少しほしくなる気持ちもないわけではないのです。 このように、こちらからは愛を発信しているつもりでいても、相手側からはなかなか、W返ってこないもの”なのではないでしょうか。 とりわけ、若いころは、自分自身の値打ちや客観的な輝きがよく見えないところがあり、その、W落差”に悩むことは多いのではないかと思います。 そういう意味で、どうしても、「人より頭一つ抜け出したい」という気持ちが強くなってくるのです。 ただ、それが、一生懸命に勉強に励んだり、スポーツに励んだり、あるいは仕事に励んだりする原動力にもなっているので、必ずしも悪いものだとは言えないでしょう。 たとえ外見がそれほど良くはなくても、たとえ勉強ができなかったとしても、例えば、高校野球の全国大会に出場して、 甲子園球場でエースピッチャーとして球を投げるというような檜舞台に立ち、それがテレビカメラで全国放送されるようになれば、学校の女子生徒たちも、「うわあ、素敵」ともてはやすようになり、スターになってしまいます。 あるいは、幸福の科学グループでも芸能プロダクションを手がけていますが、スクリーンに顔がアップで映ったところを大勢の人に観られる人を見たりすると、 「あんあふうになりたいな」とは思っても、現実には、なかなかそうはなれない厳しさを感じていくところがあるでしょう。 「愛されたい」という気持ちが苦しみをつくることもある 若いころの自己研鑽や努力のなかには、ある意味で、「多くの人に注目されたい」というか、簡単に言えば、「愛されたい」という気持ちも多分に含まれているのだろうと思います。一般的には、私はそれを否定するつもりはありません。 ただ、このなかには、「工場の原理」として使える面あることは事実であるものの、残念ながら、苦しみをつくっているところも多いと言えます。 世の中を見渡してみると、「私はあなたを愛しています」などと言ってくれる人に出会うことは、あまりありません。また、人が寄ってくるときには、大方は「何かを下さい」と言ってくるのではないかと思うものです。 ただ、幸福の科学は、伝道活動をしたり、政治活動をしたりしているので、私自身、そういう人たちに対しても、もう少し心を開かなければいけないと思うところもあります。 しかし、道を歩いていて、誰かがスーッと寄ってくる場合には、たいてい、何かのW頼み事”のようなものが多く、それにテイッシュペーパーをつけて配っていたとしても、なかなか受け取れないものです。 もちろん、テイッシュペーパーの値打ちもゼロではないので、もらえること自体はよいものの、それでも、「もらったものをポケットに入れると、服が膨らんで見えるかな」などと思うだけで、もらわなくなったりします。 テイッシュペーパーのようなものでさえ、受け取らないのですから、ましてや、宗教の伝道ということになると、みな、けっこう苦しんでいることでしょう。 駅前で、道行く人に近寄り、「幸福の科学に関心はありますか」と声をかけたら、スッと逃げられるとか、あるいは、「あなたは悩みがあるのではないですか」と話しかけても、「放っておいてください」と、はねつけられる感じはあるでしょう。 例えば、ほとんどの人は、「テレビに出てみたい」という気持ちを持っていたとしても、実際に交差点あたりでテレビカメラが撮影していて、テレビ局の人が三人ぐらいウロウロしていたりすると、カメラを避けたくなるものです。実際、私自身でもそうなります。 「ここでテレビに出れば、一つのパブリシティとなって、無料で広告になるかな」と思ったりするものの、交差点で大川隆法がインタビュアーに捕まって、ろくでもない話をしたらどうですか。 「これから、どちらに行かれるのですか」という質問に対し、「ええ、ちょっとそこまで、お腹がすいたので、ラーメンを食べに行きます」などと答えているところをテレビ番組に流されたら、全国の信者はがっかりしてしまうでしょう。 もう少し高等な質問で迫ってもらえればよいのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。 このように、テレビ局の人が「テレビに映したい」と思っていても、やはり、たいていは断られるものなのです。 人を愛することを難しくするさまざまな条件 十年ほど前のことですが、あるところにオープンしたドーナツ屋が雑誌等でも人気店と紹介されていたので、私も行ってみたことがあります。 オープンしてまもないころではありましたが、その日はたまたま雨が降っていたこともあってか、お客が来ていませんでした。しかし、店のなかでは、賑わっているところを撮るつもりだったのか、テレビカメラを持った人が待ち構えていたのです。 店内にお客が誰もいないところに私がヒョコットと入ってしまったものですから、向こうは、「W獲物”が来た」とばかりに、すごい勢いで近づいてきて、「すみませんが、取材してもよろしいでしょうか」と訊いてきました。 ところが、「取材はお断りです」と言うと、取材する気でいた人はすごすごと店の外に出ていき、しょぼんとしているのが見えたのです。「かわいそうなことをしたな」とは思いつつも、私がドーナツの宣伝に出るというのもどうかと考え、辞退したわけです。 取材は、店にとってはよいことなのかもしれませんが、「幸福の科学の会員が殺到したら、大変なことになるのではないか」と思ったこともあって、お断りしました。 もしかしたら、あのようにして断られたりするうちに、マスコミの人もだんだん性格が悪くなっていくのかもしれません。そうすると、誰かに意地悪なことを言っていじめたくなることもあるのでしょう。 そのように、テレビでも週刊誌でも、取材をする側はよく断られているようなので、彼らもW愛を拒絶される”中で性格が悪くなっていくらしいということは承知しています。 普通の人は、たとえ、「テレビ等に出たい」という気持ちがあったとしても、実際に自分の生の姿や構えていない姿を見られることは怖いわけです。「よいところは見せたいけれども、格好悪いところは見せたくない」というところはあるのではないでしょうか。 ちなみに、わが家では、私がリラックスして、のびのびしている姿を家内がたくさん写真に撮っています。とったが画像はほかの人には見られないようにロックして、個人的に楽しんでいるようですが、ほかの人には決して見せることができない映像ではあります。 余談はさておき、「他の人との関係」というのは難しいものです。自分は「こうしたい」と思っていても、実際には、自分が思っているとおりではないようなシチュエーション(状況)が現れたら、そうはなりません。 それは、人を愛することにおいても同じようなところがあるでしょう。「両社の気持ちが互いに合う」というのは、なかなか難しいものだと思います。 例えば、若いカップルであれば、互いに惹かれ合うところがあったとしても、何らかの条件があったりして、それでも惹きつけあうということは、そうとう難しいものです。 ましてや、そうした恋愛を超えて、見知らぬ人を愛したり、世間に生きている人を愛したりするというのは、やはり、とても難しいことだと、つくづく思います。 2 「人生の問題集」「組織の運営」に伴う愛の苦しみ 「親子の愛」「夫婦の愛」にもさまざまな問題が伴う 幸福の科学では、初期のころから「人生の問題集」という言葉を使っていますが、愛というものは、ある意味で、「人生の問題集」としては非常に典型的なものかもしれません。それは、誰もが直面するものであろうと思うのです。 例えば、人生の早い段階から、「男女の愛」も始まります。 それから、子供が生まれると、「親子の愛」のところが問題になります。親子の葛藤がたくさん起きてきて、子供を愛すれば愛するほどに、だんだんあとになってから反逆してくる場合もあるわけです。 そのように、愛の裏返しで、反対のものになっていくようなこともあります。 一方、「この子にはあまり期待していないから」と思って親のほうは子供に対して浅い愛で止めていたのに、子供のほうは意外に頑張って親孝行になる場合もあるので、なかなか難しいものです。 また、「夫婦の愛」についても、さまざまな問題が出てきます。若いころは誠実に愛し合っていても、中年期、熟年期に入っていくにつれ、仕事上の条件が変わってきたり、子育てをしているうちにほかのしごとも出てきたりします。 幸福の科学で言えば、主婦で子育てをしている身でありながら、日曜日のお昼ご飯もつくらずに、当会の講演会に参加する人もいるわけです。 家族も信者であれば、それを理解してくれることもあるかもしれませんが、例えば、受験生の息子が翌日に模試を受けることになっていて、「この次にE判定が出たら、僕はもう志望校を受けるのをやめる」というような、鬼気迫る雰囲気のときもあるでしょう。 そういうなかで、「今日は大川隆法先生のご法話を聴いてくるからね」と息子に言ったら、「僕のことなんか考えてくれていないんだ!」と暴れられることもあるかもしれません。 そうなると、お互いになかなか止まらなくなり、「あなたは信仰を否定するの?」「いや、分からないことはないけれども、僕の模試だって大事でしょう!」などと口論になることもあるでしょう。 そのように、子供が小さいころとはやや違ったものが出てきて、難しくなってきます。 あるいは、夫にしてもそういうところは出てくるでしょう。 夫から、「俺だって、今日は社外の人とゴルフをしなければいけない約束がある。 おまえが講演会に行くからといって、代わりに俺がゴルフをサボってご飯をつくれというのは無理だぞ。仕事の方が優先だろうが。 それがあるから、給料が入って、おまえたちは食べていけるし、宗教活動もできるし、息子だって大学に行こうとしているんじゃないか。 だから、俺のゴルフは大事なんだ!大川隆法先生が倒れたって、俺のゴルフのほうが優先なんだ」などと言われるかもしれません。 すると、妻のほうも、「信仰心のない人ね!」などと言いたくなることもあるでしょうが、信者のなかには、そうした夫婦間の葛藤を経験した人も多いのではないでしょうか。 ただ、そういうことはしかたがない面もあると思います。 「限られた数十年の人生のなかで、この有限の時間を何に使い、自分の今世の人生を輝かせるか」「どうすれば自分の人生は十分だったといえるのか」と考えたときに、値打ちを感じるものがあるのであれば、やはり、W選択”が働いてきます。 そうなると、妻としては、「今日、自分がご飯をつくろうがつくるまいが、コンビニで買ってきたものを食卓に置いておこうが、息子の模試の成績はどうせ変わりはしないのだ。E判定はE判定、A判定はA判定で、どうせ同じだ」という感じになることもあるでしょう。 息子はW気分の問題”で母親に当たっているだけだということもあるでしょう。 あるいは、夫のゴルフにしても、妻としては、「私が講演会に行こうが行くまいが、スコアは同じでどうせ変わらないのだ。相手に勝たせなければいけないときには自分がまければいいし、自分が勝ってもいい相手だったら勝てばいい。好きなようにすればいいのだ」 という感じでしょうか。 そのように、「純粋な愛」によって結びついた関係であっても、人生経験を深めていく間に、さまざまな行き違いや言葉のすれ違いはあるかもしれません。 「組織を発展させるための人事」を理解してもらえない悲しみ 私も、三十年以上この仕事を続けていますが、最もつらかったのは、自分が愛した弟子たちが、何かの行き違いで離れていったときです。これには、何とも言えない悲しさがありました。 例えば、初期のころ、当会を手伝ってくれた人は一生懸命だったと思います。 本当に私心なく手伝ってくれたように思うのですが、だんだん教団が大きくなってくると、うまく回らなくなってきて、またW新たな戦力”を入れなくてはいけなくなりました。あとから来たとしても、その人たちを使わないと教団が持たなくなってきたのです。 しかし、あとから来た人たちを重要なところに据えたりすると、以前からいた人たちとしては、自分たちが否定されたような気持ちになるのでしょう。 要するに、「面白くない」ということで、何かと不満が出てきたり、止めていったりするような人もいたのです。 もちろん、私は、その人たちを愛さなくなったわけではありません。一生懸命やってくれたことに対しては「ありがたい」と思って感謝していますし、私の気持ちが変わったわけでもないのです。 ただ、教団としての組織が発展していくためには、そのときに与えられた必要な人材を配置しなかったら、自分にとっての「正しさ」というものが失われます。 そのため、あえてそうしなければいけなかったのですが、理解してもらえないことは数多くありました。 そのように、人は「愛」といっても、「自分を認めてくれている間だけ愛する」というようなことに、どうしてもなりやすいのです。やはり、認められようが認められまいが愛を持ち続けるというのは、実に難しいことなのかもしれません。 それは、「相手の考えていることが分かり切らない」と言えば、そのとおりでしょう。 おそらく、「『あなたを信頼する』とか『愛している』とかいうのなら、゛丸ごと”自分を愛してくれ。自分のやることについては、゛全部”任せてくれ」という気持ちがあるのだと思います。 そのため、それを修正しようとか、否定しようとか、ほかのものに変えようと課されると、とたんに゛オコゼ”になるというか、急に立腹する人が多いわけです。私もこのあたりについては、過去、非常に悲しい思いを何度もしてきました。 聖フランチェスコとマザー・テレサの例に見る「組織運営の難しさ」 なお、今回、愛の話をするに当たり、多少、キリスト教の勉強をしておいたほうがよいかと思って、前日に、中世の1200年代にイタリアの修道会を開いた「聖フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ)」の物語(映画)や、 オリヴィア・ハッセーが主演している「マザー・テレサ」の映画などを、もう一回、観直してみました。 ただ、両方ともそうなのですが、その中心にいる人は、自分がやりたいことを自分がやりたいように自由にやっていても、だんだん信奉者が増えてくると、うまくいかなくなってきます。 アッシジのフランチェスコの場合だと、修道会のメンバーが国を超えて数千人ぐらいにまでなったときに、会則というか、入会資格のようなものを決めようということになったのですが、フランチェスコのほうは「決めたくない」というわけです。 それをつくって、ローマ法王に承認を得なければいけないにもかかわらず、「そういうことは嫌だ」と言いました。 もちろん、組織運営をするためには、もう少し、インテリの人たちを入れて、その人たちを使わなくてはいけないのは確かなのです。 また、当時の十三世紀のイタリアにも大学はあり、文法や神学、法学などを勉強していたような偉い人たちが、「自分たちを使え」という感じで寄ってきてはいました。 しかし、フランチェスコは、「そういう人たちは、口は立つが、肝心の信仰がないではないか。『福音書』だけあれば十分だ」というようなことを言うのです。それで、実際上、会則がつくれないために苦しんでいるような状態が描かれていました。 オリヴィア・ハッセーが主演したマザー・テレサの映画でも同じです。ちなみに、この映画には、幸福の科学の映画「ファイナル・ジャッジメント」に出演していたスリランカの女優(ウマリ・ディラカラトナ)がマザー・テレサの助手役として出ていました。 とにかく、マザー・テレサのほうも、瞬間的に行動するような人なので、いろいろなところで法律や規則に抵触し、行政等とぶつかるわけです。 そうしたものが壁になって前に進まなくなるような場面が出てくるので、「組織をつくって、広げていくときというのは、いろいろなこの世のものとぶつかって、難しいものだな」と感じました。 中心にいる人は、「ただ、神様の愛を広げたいだけなのに、どうしてこれが分かってもらえないのだろう」と思うのですが、 例えば、周りの人たちは、「ここに孤児院を建てるには、規則により、きちんと許可を取らないとだめなのだ」などと言うので、それで両者はぶつかるのです。 私は、その二つの映画を観直してみて、「組織運営というのは難しいものだな」と、改めて感じました。 釈尊も苦労した、組織運営における「生かす愛」の難しさ ただ、これは釈尊も感じたことではあります。 最初のころに、自由修行者として山林で修行をしていたときには、みな、思い思いに、自由に修行していたのですが、教団ができ、組織ができると、いろいろなところで騒ぎが起きてきました。 しかも、どちらが正しいかをなかなか決めかねるようなこともあったのです。 釈尊は、四人の出家者でサンガ(「現前サンガ」)をつくり、そこで「どちらが正しいか」を判定させるようにしたのですが、なかには収まらないものもありました。 やはり、「釈尊でさえ匙を投げる」というか、釈尊自身が聞いても、どちらが正しいか判定不能というものはあったのではないかと思います。 そのように、組織運営となると、人間の「自我 対 自我」と言ってもよいでしょうが、それぞれの人によって。自分が「正しい」と考えるもの、「よかれ」と考えるものが、多少ずれてくるわけです。 また、そこに「調整の原理」が働き始めると、単純な「愛の原理」だけではないものが出てきます。 愛は、「すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを包み込む」ようには見えるのですが、実際に、この世の現実のなかを生きていく間には、いろいろな調整や判断、あるいは、捨てるところや選ぶところが出てこなくてはいけなくなるからです。 ここは、とても難しいことであり、これが、「愛の発展段階説」に言う「生かす愛」のところなのかもしれません。 智慧を得て、知識を持ち、仏法真理の観点から、この難題に優先順位をつけなくてはいけないのですが、この段階で、原始的なレベルの愛が引っ掛かってくることはよくあるのです。 ただ、当会の初期のころに一生懸命、教団を手伝ってくださった人で、今も自分のプライドに関係なく手伝ってくれている人にとっては、現在、幸福の科学が、立宗から三十一年もたって、外国にまで広がり、これほど大きくなったのは、とてもうれしく、名誉なことでしょう。 私も、そのように思います。 一方、初期のころには、あとから来た人と入れ替えたりすると、立腹したり、「愛がなくなった」と思ったりする人もいました。 なかには、物を贈っても、そのまま送り返されてきたこともあったので、「そこまで単純に考えるのか。オール・オア・ナッシング(全てか無か)で考えるのだな」と思ったこともあります。 仕事のレベルでは、そのように考えるのは、なかなか難しいことだと思うのですが、そういうこともありました。 3 「愛すること」「信じること」で「人生学のプロになろう 人生のあちこちに出てくる゛公案”を一つひとつ乗り超えよ また、「男女の愛」についても、夫婦生活が何十年も続いていけば、その間には、いろいろなドラマがあるものです。たとえ、二人の関係がうまくいっていても、子供や第三者が絡んでくると判断が割れたり、家庭内で法律に触れるような出来事が起きたりします。 あるいは、ドラマ「ウチの夫は仕事ができない」ではありませんが、「仕事ができて頼りになると思っていた夫は、実は仕事ができなかった」という現実に直面することもあるかもしれません。 「結婚した二十代のときは、『うちの夫は格好がよくて、エリートなのよ!』と自慢していたのに、三十歳を過ぎたら、本当は仕事ができないとわかってしまった」といったこともありえるわけです。これも恐ろしいところでしょう。 さらに、結婚しても夫婦共に仕事を続ける場合、妻のほうが、仕事でどんどん進んでいき、見識が高くなることもあります。そうなると、夫のほうが鬱屈して反抗期の子供のような態度を取ったりし始めるので、ここも難しいところです。 妻も一人の人間なので、天職を得て仕事に就いたならば、「認められたい」、「世間でお役に立ちたい」と思うでしょう。ところが、そうすると、夫のほうがだんだん非行少年のようになってしまうわけです。 要するに、「妻が仕事ができなければ夫婦でいられるのに、仕事をガンガン進めていくと夫婦でいられなくなる」ということでしょうから、これはつらいだろうと思います。 ただ、こうした゛公案”は、人生のあちこちで出てくるはずなので、それを、一つひとつ乗り超えていかなければいけません。 宗教を学ぶ意味の一つは「人生学のプロ」になること そのなかには、解決できるものも数多くありますが、やはり、解決できないものもあるわけです。また、解決の際に、何かを取って、何かを捨てなければいけない場合もあるかもしれません。これは、非常につらいことだと思います。 しかし、「愛の問題集」においては、さまざまなトラブルも、ある程度予定されている面はあるのです。「すべての人間にそれを勉強してもらいたい」ということで、男女が創られました。そして、必然的に、問題集に出会うことになっているわけです。 ただ、数多くの問題解決に立ち向かっているうちに、最初のころの純粋な愛とは、少し違ったものになっていくこともあるでしょう。 例えば、映画「さらば青春、されど青春。」の主題歌である「眠れぬ夜を超えて」には、結婚できずに苦しむ主人公たちの悶々とした気持ちが表れています。 そのように、「どうして一緒になれないのか」という苦しみもあれば、一緒になった後に生じる苦しみもあるのです。こうした問題と、そのつど、対決していかなければ解決はできません。 ただし、どこかで、全部を解決するのは無理だと気づく場合もあるでしょう。そのときに考えてほしいのは、「人生において宗教を学ぶことの意味」です。それは、「人生学におけるプロフェッショナルになろう。 ほかの人たちの、いろいろな人生問題集に答えられる自分になろう」と決意したということでもあると思うのです。これもまた、宗教に辿り着いた目的の一つなのではないでしょうか。 そして、「他の人の人生問題に導きを与えられる自分」になりたいのであれば、「自分自身が打ち当たった問題をどのように乗り越えていくか、過ぎ越していくか」が大事になってくるのです。 奇跡が臨まなくとも「信じる心」を持ち続けよ そうしたなかで、奇跡が自分に臨むこともあるでしょう。実際に病気が治るという奇跡が起こることもあります。しかし、そうした「選ばれた者」であっても、その後、また病気になって亡くなったりもするのです。 例えば、十年前には奇跡が起きて病気が治ったのに、今回は治らないかもしれません。そのときに、「あなたは信仰を持ち続けられますか?」ということが問われるわけです。 そもそも、奇跡的に病気が治ること自体、非常に恵まれたことであり、起きがたいことでもあります。ところが、そうした奇跡が連続しなければ信じられないのであるならば、やはり、寂しいものがあるのではないでしょうか。 『聖書』には、イエス・キリストが、「すでに墓に葬られたラザロを、その四日後に、包帯でぐるぐる巻きになった姿のまま墓から呼び起こして蘇らせる」という奇跡を起こした話が載っていますが、そのラザロも、いずれ、時が来たら死んでいます。 この世において、永遠の命を持ち続けることはできないのです。 やはり、困難が数多く表れてくるなかで、奇跡だけに頼って生き抜けるわけではありません。「智慧」でもって迷いを破っていかねばならないこともあるのです。 しかし、智慧にも限界があって、どうにもならないこと、にっちもさっちも行かないことも出てくるでしょう。 そのときに知っておいてほしいのは、「この世というものは、もともと、パーフェクト(完全)にはできていないのだ」ということです。 この三次元の世界は、「日本にいる一億以上の人々、あるいは、世界七十億以上の人々が、全員、思った通りの自己実現を完璧にできる」というようにはできていないのです。 例えば、あの世の世界では、それぞれの人が、それぞれの次元で、似たような人たちと生活しています。 ただ、それだけでは人生経験が不足してくるため、この世(地上)に生まれて、さまざまな世界から来た人たちと出会い、自分の人生を磨き上げるわけです。 人間は、それを目標として、この世に生まれ変わってくるのです。 ところが、この世に生まれてみると、いろいろなことがあります。 あの世においては自分のほうがはるかに゛偉い立場”にあり、「天使」として他の人を指導していたとしても、 地上においては、その指導していた相手が、自分よりも十年、二十年早く生まれていて、会社の上司や学校の先生になっている場合もあるのです。 あるいは、自分の将来を決めるような立場に立っていることすらあるでしょう。 就職を決める面接の際に、「光の天使、二十二歳」が、前に座っている「悪魔憑き、四十歳」に、「生意気だ!こいつは、わが社には向かん!」などと言われて落とされるかもしれません。 少しでもこの世を神の国へ近づける「無限の未来への挑戦」を これが、この世の世界であり、不条理さもあって、なかなか思ったようにはいかないものです。 しかし、そういう世界でありながら、少しでもこの世の常識を「神の国の常識」に近づけていかなくてはなりません。それが、私たちの伝道活動の意味です。 いろいろなことを取ってみても、この世とぶつかるものは数多くあるでしょう。ただ、この世でつくった法律やこの世の制度だけで、全部がうまくいくとは思えないのです。 それらは、「最悪のものを止める力」にはなるかもしれませんが、「最善のものを選び出しているかどうか」は分からないところがあります。 私たちの伝道活動は、いつも、限りない限りない努力のなかにある、「無限の未来への挑戦」でもあるのです。 4 そして、「許す愛」で憎しみを超える 「行為」を憎んでも、その人の「本質」は憎まない したがって、愛に関しても、「自分は、どのような愛というものを、この世で自覚し、認識し、理解したか」ということは、非常に大きなことだと思います。 愛一つを取っても、それほど難しいのです。 先ほど「生かす愛」についても述べましたが、幸福の科学では、「許す愛」という教えも説いています。ただ、「人を許す」ということもまた難しいことです。「愛すること」も難しいけれども、「許すこと」は、もっと難しいのです。 「私はあなたを愛しています」と言ってくれる人は、この世では、それほどいません。心のなかでそう思っていても、なかなか言わないものです。 ましてや、「私はあなたを許します」と言ってくれることは、めったにあるものではありません。 よほど宗教的な境地にずっといられる人は言えるかもしれませんが、日常生活をしながら、家庭や学校、職場において、「私はあなたを許します」というようなことを言える人は、それほどいるものではないのです。 特に、仕事にかかわる場合には、もちろん、「間違いがあったら、絶対に許してはいけない」という感じで追求しなくてはいけませんし、「赤字は絶対に許してはいけない。黒字でなくてはいけない」と思ったりします。それは当然のことではあるのです。 しかし、仕事におけるミスやトラブルなどについて、「いけない」ということを指摘したり教えたりする場合、その人がやった結果、失敗したり間違ったりしたことに対して、「それを正そうと思って言うことと、その人を憎むこととは、同じではない」のです。 それを知らなければいけません。 「行為」を憎んでも、その人の「本質」は憎まない。そういう気持ちをつくれるでしょうか。これは難しいことです。けっこう難しいのです。 行為があれば、必ず結果が出ます。何かをした場合には、何らかの結果が出ます。「その結果を見て、あなたは、その人を憎まないでいられますか」ということが問われるのです。 例えば、「自分の進路を邪魔する」「自分の仕事を邪魔する」「自分の恋路を邪魔する」という場合に、あなたは、その人を憎まずにいられるでしょうか。これは、なかなか難しいことです。 やはり憎んでしまうものです。本能的に憎んでしまうこともありますし、それを当然のことだと思っている人たちもいます。 他国を憎むことをはっきりと教育する国々 本章のもとになった2017年の「御生誕祭」での私の法話は、世界各地に中継されたので、それを韓国で観た方もいるわけですが、実は、北朝鮮にも当会の会員が何十人かいるのだそうです。 どうやって会員になるのか、私もそのルートが分からないのですが、北朝鮮にも、何十人か会員がいるようです。 その人たちが、「御生誕祭」での私の法話を、どうやって観たり聴いたりするのかは分かりません。 隠れて何かに映したりして観るのか、何らかのかたちで音が聞こえるのか、別ルートで入ってくるのか知りませんが、当会の信者が、いることはいるらしいのです。 その人たちにも述べたいのですが、韓半島、朝鮮半島の人たちは、「憎む」ということを当然のことのように教わっている面があります。 ロシアの映画監督が、北朝鮮に入国し、当局の許可を得て、向こうの演出の下に北朝鮮のW実情”を撮影したドキュメンタリー映画があります(「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」)。 その監督は、実は、本来は撮ってはいけないところ、(当局者が出演者たちに「やらせ」の指示を出しているところ)についても、カメラのスイッチをオンの状態にして、秘かに撮影していました。 そして、検閲によってフィルムが没収されないように、それを隠してロシアに持ち帰り、上映したのです。 その映画を観ると、北朝鮮の一般市民たちのW無表情”なところがすごく特徴的です。 表情がなく、誰も笑いません。表情のない人たちが動いているのです。何か指示を出されたときにだけ、そのとおりにするのですが、それ以外のときには表情がないのです。 「これは全体主義の特徴だ」というようなことを、そのロシアの監督は言っていました。 ついこの前まで共産主義の本家だったのはソ連ですが、今の北朝鮮は、共産主義体制とほとんど同じです。 その映画で描かれていましたが、北朝鮮の小学校では、先生が、「日本人と地主が私たちをこのようにしたのだ。だから、私たちは日本人と地主階級を憎まなくてはいけないのだ」ということを、一生懸命に教えていました。 それから、「アメリカや韓国が私たちの国を侵略しようとしている。これを憎め」とも言っていました。そして、「彼らのせいで朝鮮戦争があったのだ」というようなことを教えていたのです。 しかし、実際にはW逆”です。「北朝鮮のほうから韓国に攻撃があり、北朝鮮軍は朝鮮半島の南端あたりまで押し寄せたものの、国連軍がそれを押し返した」というのが事実です。 そのあと、「三十八度線」を挟んで休戦状態になりましたが、今、また、戦争の匂いが立ち込めてきているところです。 北朝鮮では、そういうかたちで、「憎む」ということを、はっきりと教えています。 それから、大統領を罷免された韓国の朴槿恵さんは、在任中、大統領の身でありながら、「千年間、日本、日帝への恨みは忘れない」という趣旨のことを言いました。 これは、日本では想像しにくいことです。日本の総理大臣が、もし、どこかの外国に対して、「この無礼は、千年間許さない」と言ったら、おそらく、「人間ではない」というような報道をされ、 「こんな立場の人がそんなことを言ってよいのか」と言われると思いますが、韓国では、そういうことを普通に言えているわけです。しかし、その憎しみに、もうどこかでストップをかけないと、発展しません。 敵をつくることによって、自分たちのやっていることの正当性を出そうとするところが数多くありますが、それは、歴史的に見ても非常に、W幼稚な手段”だと思うのです。 ナチスが、ユダヤ人を敵視することによって自分たちの行動を正当化していこうとしたように、「何か敵をつくることで、自分たちを正当化し、合理化する」というのは幼稚だと、私は思っています。 やはり、「憎しみ」は、「愛」によって乗り超えなければいけないのです。 「愛」の反対にあるのは、「憎しみ」の下にある「嫉妬心」 「愛の反対は憎しみである」という考え方がありますが、私には、むしろ、愛の反対にあるのは、「憎しみのもとにある嫉妬心」ではないかという気持ちもあります。 嫉妬する気持ちが、どうしても、人を押しのけようとしたり、貶めようとしたりする気持ちになってくるのです。 これも、私の若いころの悟りの一つではあるのです。私も、競争心や優越感、劣等感を、いろいろと経験してきましたが、 「劣等感を持ち、嫉妬心を持って、特定の誰か、優れた人や脚光を浴びている人などを羨んだところで、自分はちっとも幸福になれない」ということは、若いころの悟りとしてありました。 そこで、自分にはできないようなことを、サッとやってのけるような方々を観たら、むしろ、「すごいですね。素晴らしいですね」という気持ちを持つように努力していったところ、人生観は変わってきました。 5 世界に必要なものは「神の愛」 国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」であるべき 今、世界に必要なものは「愛」です。 「愛の反対は憎しみ」と思うこともあるけれども、憎しみだけではなくて、「嫉妬もある」のです。嫉妬によって競争が起き、「他を憎んでいる」という現象が起きているなら、やはり、それは正すべきだと思うのです。 例えば、北朝鮮の核開発やミサイル発射が問題になっています。アメリカと対等になろうとして、一生懸命やっているのは分かりますが、北朝鮮は、大勢の国民が、表情をつくることもできず、言われた通りのことしかできない、完全な全体主義の共産主義国家です。 デモクラシー(民主主義)の国家は、人間を「目的」とします。「人間自身が目的であり、手段ではない」のです。 一方、全体主義国家においては、人間は「手段」なのです。大勢の人間を使って何かをやろうとしているのが全体主義国家です。 デモクラシー、民主主義の国家においては、そうではありません。人間にとって、最終的には、「自分がどう幸福になるか。どういう自己実現ができるか。自由を得て、どう成長できるか」ということが大事であり、それを目指すものが本物なのです。 そういう観点で見ると、両社は対等に論じられるようなものではないのではないかと思います。 そういう意味では、どこの国も「防衛のため」などと称したりし、愛国心を煽ってはいますが、「それは国民が幸福になる体制なのかどうか」ということのチェックはいるだろうと思うのです。 中国の習近平国家主席は、香港に行って演説し、「一国二制度を維持する」と言いつつ、「ただし、権力に対する反抗は許さない」というようなことを言いました(2017年6月29日)。 しかし、私の2011年5月22日の香港での講演を聴いた人たちは、習主席の言うことを素直にはきかないだろうと思います。 やはり、国民には、「自分たちの幸福を追求する権利」があるはずです。 国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」なのではないでしょうか。 日本においてもそうですが、「政治家が、自己愛に夢中になっているか、自分の仲間への愛に夢中になりすぎているのではないか」という気持ちは私にもあります。 「本当に、多くの国民を隅々まで愛していますか。そうであるならば、もう少し違う観点から物事を考えたほうがよいのではまいでしょうか」と言いたいのです。 日々の言葉や行動のなかに「神の愛」を 最終的には、やはり、「神の愛がなかったら、何もないのだ。ナッシングなのだ」ということを知ってほしいと思います。 「人間の言葉や行動、行為であっても愛を表す言葉や行動のなかに、あるいは、その結果のなかに、神の愛がなかったら、値打ちはないのだ。ナッシングなのだ」ということを知っていただきたいのです。 どうか、「神の愛とは何か」ということを常に考えながら、日々の生活を正し、日々、自分の心境を深め、行為を積み重ねていけるようなみなさんになっていただきたいと思います。 そして、「イエスが『主よ』と呼んだ人と、ムハンマドが『神よ』と呼んだ人は、同じ人なのだ」ということを私は言いたいし、 それから、「(キリスト教徒やイスラム教徒の)的にもなっているユダヤ教徒が『エローヒム』と呼んだ存在も、それと同じ人なのだ」ということを言いたいのです。 そうした存在が、今、「エル・カンターレ」という名を冠して地上に生まれてきています。 私に残された時間はそう多くはないかもしれませんが、最後までこの方を完成させたいと願っています。 みなさんと共に、まだまだ精進を続けていきたいと思います。 🌟 明日を変える言葉 A 相手の心性の善なるを信じて 解き放つのが愛。 まず、「与える愛」から始めていきなさい。 日々の努力目標を、まず、与える愛に置きなさい。 あなたは人々に対して、社会に対して、 いったいいかなる愛を与えることができるのでしょうか。 愛とは恵みです。 それも、善き恵みであり、他人を生かしていこうとする力です。 縁あって人生の途上で出会った人々に、 生きていく勇気を与え、力を与え、希望を与えること、それが愛です。 こうしてみると、愛とは仏の心そのものであることに気づきます。 仏の心とは、万象万物を生かし、はぐくみ、調和させんとする心です。 すべてを成長させんとする念いです。 「与える愛から始めていこう」と決意したとき、 その心は、仏の心と同質の光を帯びているのです。 他を生かさんとする心の芽生えは、 すでに仏の子として慈悲心が生じてきたということなのです。 愛のなかにも、「奪う愛」という名の執着の愛もあれば、 「与える愛」という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。 相手を奪い取り、相手の心をがんじがらめにするための、 トリモチのような愛は、与える愛とは言わないのです。 金銭や物品をいくら湯水のごとく注ぎ込んだところで、 それが相手をとりこにし、 かごのなかの鳥にする目的をもってなされたものであるならば、 それは、与える愛ではなく奪う愛であり、執着の愛なのです。 ほんとうの愛は、 無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、 相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。 相手を縛るのが愛ではありません。 相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。 🌟 大川隆法著 信仰の法 第2章 愛から始まる 「人生の問題集」を解き、「人生学のプロ」になる >>7-42 ■■■■■■■■■■■■■■■ ■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても! iiiiiii iiiiiii iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力! ii / \ ii | | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝! | | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心! | \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか? / _ _ _ _ \ | | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました! | | | | | | 教会員を追い出し自殺に追いやって惚けてる! \ / | __/ ● ● \__ | | ______ | | \ / | | \ / | 周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪ | \/ | 下らない自己顕示欲が幼稚♪ \_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪ 牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪ 今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝! 教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行! 日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 「始原の神」「創造の神」であるアルファ 私が「人類創造」を志したのは、今からもう、三億年も四億年も前のことになります。 現在の科学では認められてはいませんが、みなさんの先祖は、三憶年以上の昔、あの恐竜が地球を徘徊していた時に、この地上に生まれたのです。 ある者は霊体として存在していましたが、最初に、そのうちの数百人を実体化させて、この世に肉体を持つ存在として送り込みました。 また、違った種類の人々は他の宇宙から来た人々であり、そのなかから、この地球の環境に適合できる人たちを選んで地上に下ろしました。 もう一種類の人たちは、宇宙からこの地上に下りようとしても、そのままでは肉体として地球の環境に不適合であるため、ハイブリッド(合いの子)にし、地球に住みやすいかたちにつくり変えて地上に下ろしました。 人類の創成期には、この三種類の人間を地上に住まわせました。 そして、私はそのころ、「アルファ」という名で地上に生まれました。 これが、人類の最初の指導者の名であり、今、「エル・カンターレ」という名で呼ばれているものの、「主」といわれるようになる起源です。 その名はアルファ。「始原の神」「創造の神」です。 go to https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1481102422/31 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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