キリスト教初心者です。いろいろ教えて

1神も仏も名無しさん2017/11/23(木) 06:02:56.79ID:goxdb5WE
私は、狭き門から入ります

504老クリスチャン2018/05/25(金) 11:40:24.21ID:qiXNz3BD
2006年(主日B年) 6月11日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

「イエスは、近寄って来て言われた。 “わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。”」(マタ vv.18-20)

キリスト教は歴史的宗教であります。
それは歴史上のある特定の事実、すなわち、イエスの受肉、生涯、死、復活という事実が、他のあらゆる事実よりも重要であり、人類の全歴史を解釈する鍵であると考える宗教です。
教会はその信仰を、イエス・キリストの血によって贖われ、罪を赦されて、“秘められた計画” に与る民とされたという体験として理解して来ました。

使徒たちの宣教が常に “父と子と聖霊の名による洗礼” と結びついていたのは、その宣教によって生み出された教会の信仰が、父・子・聖霊なる神と人格的に関わるものであったからです。
近代および現代の通俗的なキリスト教は、イエスによって、あるいはその弟子たちによって与えられた、神に関するある種の教説や思想を、単に知的に受容することが宗教の意義であるかのように、誤って教えて来ました。
しかし、三位一体の教理は、古代教会が自らの信仰体験を、父・子・聖霊なる神との人格的な関わりとして理解したことによって形成されたのでした。
カトリック教会は使徒継承によって、使徒たちが伝えた福音と神の国への希望を、今日に至るまで受け継いで来ました。
三位一体の教理は、この福音を説明するために古代教会が用いた神学なのです。
それは各時代の教会が誤った解釈や異端的な考えに陥らないで、使徒たちが伝えたとおりの福音の希望に固く立つために、大いに役立って来ました。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

505老クリスチャン2018/05/26(土) 10:50:24.48ID:ssbx42v5
2009年(主日B年) 6月7日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

キリスト教の神信仰は、同時に御子キリストへの信仰であり、また聖霊への信仰であることを私たちは知らなければなりません。
この信仰は、聖霊を特に教会の誕生と成長に結びつけて語ります。
キリスト者は聖霊によって生まれた人であり(ヨハ 3:5-6)、その救いは神の霊がその人の内に宿っている限り確かです(ロマ 8:9)。
霊は命であり(ロマ 8:6)、命を与えます(ヨハ 6:63、IIコリ 3:6)。
それ故に 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ロマ v.14)
私たちはこの世の霊ではなく、「神の子とする霊をうけたのです。」(ロマ v.15)
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、 ・・・・・ 証ししてくださいます。」(ロマ v.16)

同様に、キリストは命であり(ヨハ 11:25)、命を与えます(ヨハ 6:54)。
そして、信仰によって私たちの心の内に住んでくださいます(エフェ 3:17)。
聖霊はキリストの霊であって、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ 8:9)

キリスト教の歴史には、誤った聖霊信仰によるいろいろな主張が、過去にも現在にも見られます。
それはキリストを過去の人と考えて、それとは別に現在は聖霊が独自に働くことを期待するのです。
しかし、それは間違っています。
復活されたキリストは、聖霊を通して現在もその御業を継続しておられるのであり、今も “神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるキリスト”(ロマ 8:34)から切り離して、私たちは聖霊を理解してはなりません。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

506神も仏も名無しさん2018/05/26(土) 21:35:54.49ID:4KlFGf99
 
  「わたしがキリストに倣う者であるように、 

   あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 

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507神も仏も名無しさん2018/05/30(水) 05:58:31.83ID:jPw+Rupb
マタイによる福音書だけの聖書、
エホバが、駅前で配布してたよ、
ゲットしておくと良い。

508老クリスチャン2018/05/31(木) 11:04:18.47ID:wJPFpHnM
2003年(主日B年) 6月22日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12-16,22-26

主イエス・キリストの死と復活は、歴史の中での他のすべての出来事と一つの点で根本的に異なっていました。
それは他の出来事が地上の歴史の中の出来事に留まるのに対して、これは地上の出来事でありつつ同時に天上の出来事であったということです。

「けれども、キリストは、すでに実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な(天の)幕屋を通り、
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ vv.11-12)

使徒たちが宣教した福音には、この天上の事柄、人々が信仰によってだけ受け入れることの出来る永遠の贖いの実現が、その基本構造の一部としてしっかりと組み込まれていました。
キリストが新しい契約の仲介者である(ヘブ v.15)のは、この天上の出来事であるキリストのいけにえによって、贖われた民である私たち会衆が将来の神の国を受け継ぐからであって、
決してこれは他のすべての出来事と同じ単なる地上の事柄ではないのです。

509老クリスチャン2018/05/31(木) 11:05:17.81ID:wJPFpHnM
(つづき)
典礼憲章は主の死と復活の記念である私たちのミサについて、次のように明確に述べています。

「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わい、これに参加している。
この天上の典礼は、旅人であるわれわれが目指す聖なる都、(天の)エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の奉仕者として、神の右に座っている。
われわれは、天上のすべての軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりに参加することを望み、
われわれの生命である主が現れ、われわれも主とともに栄光のうちに現れる(神の国実現の)時まで、救い主、われわれの主イエズス・キリスト(の再臨)を待ち望むのである。」(8)

今朝のミサのための公式祈願(集会祈願、奉納祈願、拝領祈願)も、約束された神の国を将来受け継ぐであろうすべての信者のための祈りであることを覚えて、私たちは喜びのうちにアーメンと唱和しましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

510老クリスチャン2018/06/01(金) 13:22:46.30ID:0mBlNjuS
2006年(主日B年) 6月18日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12〜26

「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブ v.14)

私たち会衆は “感謝の典礼” の中で、司祭が “皆さん、このささげものを ・・・・・ ” と奉納祈願に招くところで起立します。
それは “このささげもの” が全会衆のものであり、御前に奉仕するように選ばれたことを感謝する祭司の民の供え物であるからです。

第二奉献文を例に挙げれば、“私たちは今、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、命のパンと救いの杯をささげます” となっています。
同様に、第一奉献文では “私たち奉仕者と聖なる民も ・・・・・ ささげます”、第三 − 第四奉献文では “私たちは今、・・・・・ ささげます”、となっています。

本来、信者の献金を携えた奉仕者も、奉納行列に加わることが望ましく、パンとぶどう酒の奉納から切り離されるべきではありません。
主の洗礼の祝日の奉納祈願からも理解できるように “信者の霊的いけにえは、司祭の奉仕を通して唯一の仲介者キリストのいけにえと一つに結ばれて完成する”(ミサ典礼書の総則 前文5)からです。
「生ける神を礼拝する」 とは、そういうことなのです。
私たちの良心を死んだ業から清めてくださるのはキリストの贖いの血、罪の赦しの血であって、私たちを神に仕える祭司としてくださいました(黙 1:6,5:10、Iペト 2:9)。
ですから私たち会衆は、自分のすべてを主にささげることを、起立して奉献に参加することによって宣言します。
それは、奉納祈願から始まるというのが、カトリック教会の伝承なのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
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511老クリスチャン2018/06/02(土) 13:14:59.12ID:fOaA79Ed
2012年(主日B年) 6月10日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15  マコ 14:12〜26

「取りなさい。 これはわたしの体である。」(マコ v.22)
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マコ v.24)

ミサにおける “キリストのからだと血の奉献” に参加することが許されているのはキリスト者だけであること、
そしてすべてのキリスト者は 「洗礼の秘跡によって(これに参加する)権利と義務を持っている」(ミサ典礼書の総則 3)ということを、この祭日に特別に覚えようではありませんか。
それは決して “たいして重要ではないただの宗教儀礼の一つ” ではなくて、「キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点」 であり、「また人々が、神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点」(総則 1)だからです。

イエスが最後の晩餐でこの “いけにえの記念” を制定されたとき、それは 「苦しみを受ける前」(ルカ 22:15)でありました。
しかし、教会がミサで記念するのは、キリストの死と復活のいけにえであって、決して “ただの受難前夜の思い出” ではないのです。
私たちが感謝の祭儀の中の記念唱で、「信仰の神秘。」 「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」 と唱和するとき(Iコリ 11:26)、
それは、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ロマ 4:25)と信仰宣言しているのです。

東日本大震災以来、盛んに行われて来たカトリック教会と信者たちによる救援活動、復興支援活動が、教会のこの信仰宣言とどう結びついているのか、ほんの少しだけ立ち止まって考えてみるようにと、今日の祭日は私たちに呼びかけています。
言うまでもなく、この結びつきなしには、いかなる奉仕も愛の業も “神奉仕(Gottesdienst)” にはなり得ないからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

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  l  ', l    ,  /(.    !ゝ、__ノノ   「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない。」
  l  ',',    ,'   ,  ´`ー-'! c, '
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515神も仏も名無しさん2018/06/10(日) 10:25:07.84ID:ip2+OGXY
キリストはYHWHをこれ以上ない極限まで憎んでいるということだ
必ず無間地獄に落とすと

516老クリスチャン2018/06/16(土) 18:08:09.66ID:PaUbaxaH
2012年(主日B年) 6月17日 年間第11主日
エゼ 17:22〜24  IIコリ 5:6〜10  マコ 4:26〜34

「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(IIコリ v.7)
「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(IIコリ v.9)

歴史の教会が 「神の国の地上における芽生えと開始となっている」(教会憲章 5)としても、「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めている」(ヘブ 13:14)のだということを、キリスト者は決して忘れてはなりません。
確かにすべての人が、終わりの日には皆、“高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる” キリストの裁きの座の前に立つことになるのです(ロマ 14:10)。

“生者と死者を裁くために来られるキリストの再臨は、あなたにどのような慰めを与えますか” という問いを設定して、ハイデルベルク信仰問答52が教えた、あの珠玉の答えをここに紹介しておきましょう。
“それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を献げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望むということです。
それは、彼が彼と私とのすべての敵を、永遠の刑罰の中に投げ入れ、私をすべての選ばれた者たちと共に、天における喜びと栄光の中へと召し給うためです。”

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

517クバの化身2018/06/18(月) 08:23:54.34ID:c9eOAHKu
このバイセクシャルのホモ豚は、人に認められたかった

518神も仏も名無しさん2018/06/18(月) 12:34:43.56ID:CIhEK13u
ここはヤハウェというナルシストホモが産卵して腐食した世界ですね きったね

519神も仏も名無しさん2018/06/20(水) 21:41:38.09ID:OJUPxRiT
サロメおじさんは、2CHの頃
キリストスレでうんこ煮て猫殺すとか何回も書き込んでいたよね。
カルマを積んだんじゃないのw

520神も仏も名無しさん2018/06/20(水) 21:45:06.17ID:OJUPxRiT
パウロ(テント職人のサウロ)は、当時の神学者には
パウロの戒律で青年の性への厳しいドグマに関して
彼は、インポか同性愛者と唱える者がいた。

521神も仏も名無しさん2018/06/21(木) 02:26:06.28ID:xpbAJkc+
ウンコ煮てヤハウェが食ってる

522老クリスチャン2018/06/21(木) 12:30:59.00ID:fsOSc5KT
2001年(主日C年) 6月24日 洗礼者ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜80

洗礼者ヨハネは、聖書の読者である私たちが通常想像するよりもはるかに影響力のある人物であったようです。
彼は 「偉大な者」(マタ 11:11、ルカ 7:28)と呼ばれましたが、メシアではなくて(ヨハ 1:20)、主の民に悔い改めとイエス・キリストによる罪の赦しを宣べ伝えた人でした。
私たちの福音は “ヨハネの福音” ではなくて “イエス・キリストの福音” なのです。

「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」(使 v.26)

私たちが主イエス・キリストの福音を信じて救われるために、洗礼者ヨハネはその先駆者として神から遣わされて、悔い改めを宣べ伝えたのでした。
ですからキリストの福音を信じている私たちは、「約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった」(使 v.23)父なる神を信じると同時に、
その父なる神が 「イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(使 v.24)させるために、洗礼者ヨハネを遣わされたことをも信じるのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
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523クバの化身2018/06/22(金) 07:49:36.66ID:PhxeVL6E
このバイセクシャルのホモ豚は、何も知らないくせに
議論に挑むのである

524神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 08:13:46.64ID:I78X4qC+
>>523
たった1行で矛盾したことを書ける人。

525老クリスチャン2018/06/22(金) 12:04:21.85ID:nNhwYFMH
2007年(主日C年) 6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜80

「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」 と、イエスは言われました(ルカ 7:28)。
彼は預言者以上の者であったとさえ言われています(マタ 11:9)。
しかし、彼はメシアではありませんでした。

「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方(イエス)について話したことは、すべて本当だった」(ヨハ 10:41)とは、初代教会の人々の信仰体験であったに違いありません。
「神は約束に従って、ダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださった」(使 v.23)、「この救いの言葉(福音)はわたしたちに送られました」(使 v.26)という救済史の出来事の中に、
洗礼者ヨハネは “燃えて輝くともし火”(ヨハ 5:35)として現れて消えて行った人でした。

教会は、今も救済史の中を旅しています。
その目標は神の国への復活と永遠の命です。
キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました(Iコリ 15:20)。
私たちキリスト者の命は、今はキリストと共に神の内に隠されているのです。
しかし、キリストが現れるとき、私たちも皆、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう(コロ 3:3-4)。
その日に私たちが受ける栄光は、かつての洗礼者ヨハネの栄光よりも、さらに偉大なのです(ルカ 7:28)。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、 ・・・・・ 聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように。」(エフェ 1:17-18)

・・・・・ 以下、本文参照。
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526神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 15:06:23.69ID:bEm8XIfg
ダメだ
仏教勉強しろ。

527老クリスチャン2018/06/23(土) 13:01:13.63ID:YD0udmnm
2012年(主日B年) 6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜66,80

これ(イザ 49:1〜6)は “僕の歌” の二番目のものですが、第三(イザ 50:4-9)、第四(イザ 52:13〜53:12)と共に、イスラエルは主の僕となって自らの民に、さらに地の果てまでも、神の救いをもたらす者となる(イザ v.6)と預言されています。

この古きイスラエルに代わって 「救いを地の果てまで、もたらす者」 となってくださった方、それが 「肉となって、わたしたちの間に宿られた」 キリスト(ヨハ 1:14) でありました。

教会がこのキリストの栄光を見て信じ、救いを受けるために、今も洗礼者ヨハネはイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ 1:29,36)と語っています。
もし教会がこのヨハネの証言を確かに聞いているのなら、私たち現代のキリスト者はそれに答えて喜びのうちに宣言しようではありませんか。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハ 1:16)と。

今日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。 ハレルヤ、 アーメン。


・・・・・ 以下、本文参照。
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528老クリスチャン2018/06/28(木) 12:45:21.41ID:88Ji1TqK
2006年(主日B年) 7月2日 年間第13主日
知 1:13〜15,2:23〜24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

私たちが主日のミサでその死と復活を記念するキリストは、かつて娘を12年間の病から救い出し、死んだ少女をさえ再び生き返らせた方であること、
そしてこの方が 「世の終わりまで、いつも」(マタ 28:20)歴史の教会と共に歩んでおられる救い主であることを、感謝しましょう。

今朝のテキストの中で特に注目すべきイエスの言葉は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マコ v.34)と、「恐れることはない。 ただ信じなさい」(マコ v.36)の二つです。
“信仰” という用語を、教会は伝統的に “信条” を指すものとして理解して来ました。
信条が “わたしは信じます(クレド)” という言葉で始まっているのは、これが “(カトリック)教会の信仰” であるという表明だからです。

ところが現代のキリスト者が聖書を読むときには、それが信条とはおよそ無関係な通俗的な信仰理解に置き換えられてしまうのが普通です。
それは教会が久しく “信条” を軽んじ、教導職も信徒も共に聖書をその本来の意図に従って読むことから遠ざかっていたためです。
“信条” は、聖伝および聖書とは別の独自の教義を主張しているのではありません。
そうではなくて、これは私たちが聖書を正しく読んで、そこから神のことばを聞き取るための権威ある指針なのです。

529老クリスチャン2018/06/28(木) 12:46:25.10ID:88Ji1TqK
(つづき)
このテキストに登場する12年間の病から救い出された娘も、その後は生涯健康で病気知らずであったということはないでしょうし、再び生き返らせていただいた少女も、何十年か後には間違いなく年を取って死んだのです。
ただそれだけの奇跡に過ぎなかったのなら、どうしてそれが “救い” であり得るでしょうか。

しかし使徒たちの宣教によって誕生した教会にとっては、イエス・キリストの救いとは、罪と死からの救い、神の国への復活に至る救いでありました。
“信条” はその末尾を “死者の復活と来世のいのちを待ち望みます(信じます)” という宣言で結んでいます。
実に 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ロマ 8:24)。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

530老クリスチャン2018/06/29(金) 14:57:10.27ID:MFqXj7lG
2009年(主日B年) 6月28日 年間第13主日
知 1:13〜15, 2:23〜24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。 すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」(IIコリ v.9)

使徒パウロは、ここでは “貧しい” という言葉を物質的経済的な意味で使って、エルサレム教会の人々の欠乏を補う慈善の献げものへの参加を呼びかけています。
しかしそれは、キリストの恵みから切り離された単なる人間の善意であってはなりませんでした。
それはキリストの、十字架の死に至るまでのへりくだり(フィリ 2:6-9)という “貧しさ” によって与えられた贖いの恵みに、根ざすものでなければなりませんでした。

マケドニア州の諸教会の人々は、一般的な慈善事業をしようとしていたのではなくて、エルサレムの教会の信徒たちを助けようとしていました。
「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(Iコリ 8:11)ということが根拠であったことが分かります。
すべてはキリストのため(ロマ 14:8)、福音のため(Iコリ 9:23)という信仰が、新約聖書全体の根底に脈打っているのです。

「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、 ・・・・・ 」(知 2:24)

聖書を学ぶとは、使徒たちが伝えた福音に耳を傾けることです。
それは、「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」(ヨハ 6:26)というようなものであってはなりません。
私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝しましょう。
「罪が支払う報酬は死です。 しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6:23)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

531老クリスチャン2018/06/30(土) 14:14:58.16ID:gc6P7dVY
2012年(主日B年) 7月1日 年間第13主日
知 1:13-15, 2:23-24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、 ・・・・・ 」(マコ v.30)

A.リチャードソンというたいへん有名なイギリスの神学者が、今から70年ほど前にその著書の中でおよそ次のように述べました。
“奇跡物語りは福音書の欠くことの出来ない、また切り離すことの出来ない部分をなすが、その目的は、イエスの神秘を教え、それが信じる人々にとってどういう意味を持つかを示すために、原始教会のキリスト教伝道者たちが用いた教育技術の特色ある一部をなしていた。”

つまり、それらは原始教会の説教の一部であって、私たち現代のキリスト者は、そこから当時の宣教者たちが説教した “信仰” を聞き取らなければならないのです。
私たちはその信仰の定式化されたものを、使徒信条によって知っています。
それは、「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン」 というものです。

532老クリスチャン2018/06/30(土) 14:16:02.44ID:gc6P7dVY
(つづき)
病は罪の結果、罪に対する罰として、当時の人々には理解されていました。
それはまた旧約聖書全般に見られる考え方でもあります。
そのような背景でイエスによるいやしの奇跡が説教されるとき、それは神による罪の赦しが起こったことの象徴ないし証明でありました。

この女は出血の病のために祭儀上汚れていて、他の人に近づいてその汚れをうつしてはなりませんでした。
それなのに彼女は、群衆の中に紛れ込んでイエスの服に触れたのです。
「震えながら進み出てひれ伏し」(マコ v.33)とは、救いを与える力がイエスから出るのを体験した “罪人” の姿の表現です。
他の大勢の群衆もイエスを取り囲んでいたけれども、彼らはイエスの恵みある力を知らない ・・・・・ 。

「イエスは言われた。 “娘よ、あなたの信仰があなたを救った。”」(マコ v.34)

自分が汚れた罪人であることを意識しながら、信仰をもってイエスのもとに来る者だけが、罪の赦しを得て聖徒の交わりに加えられる、と教えた当時の説教が聞こえて来るではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

533神も仏も名無しさん2018/07/02(月) 21:30:01.86ID:/kOHkLns
イエスは、コヘレトにあるような仏教的思想だったのではないか。
http://www.geocities.jp/todo_1091/religion/028.htm
神を完全に知る事を「悟り」
キリスト教の言う天国というのは仏教の言う「涅槃」に近い概念。
死後の世界観
生きている間、愛に生き、死ぬ瞬間にも愛の内にいた者は、
神と結ばれ、永遠に愛の内に留まります。
これが天国の正体です。
教皇ベネディクトXVI世の回勅『希望による救い』より〜
天国、地獄などという場所があり、そこに至ったり、
落ちたりするものではないと考えるのが主流です。
人は死ぬと霊魂は物理学的な宇宙を去ります。
相対性物理学によると宇宙は「時空」と呼ばれ、
空間(場所)と時間(過去と未来)が合わさった存在ですので、
死後の霊魂の世界には場所の概念も時間の概念もありません。
「ここ」も「あそこ」もなく、「過去」も「未来」もありません。
それがどのような世界なのか…宇宙に閉じ込められた我々の創造を絶していますが、
現代宇宙論でも146億年前に宇宙が生まれる前はそのような状態だったと言っています。
そのような状態こそ聖書で言う「永遠」だと言われます。
聖書には確かに「信じない者はどうかなる」ような書き方があります。
でもその「信じない」は「愛と救いの力を信じない」という意味であって、
キリスト教という宗教を信じないという意味ではないのです。
キリスト教と仏教というのは親和性のあるもので
イエスの言葉の多くが釈尊の教えに近い。
カトリックは元々のイエスの教えに立ち戻ったのです。

534老クリスチャン2018/07/05(木) 12:19:06.66ID:wHP0d82v
2003年(主日B年) 7月6日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7〜10  マコ 6:1〜6

「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(エゼ v.5)

神の変わることのない生きた言葉(Iペト 1:23)であるキリストの福音を語る預言者は、どこにいるのでしょうか。
人間の言葉を語るだけの騒々しい指導者や活動家と、神のことばを語るために遣わされた預言者とを見分けるのは、会衆一人一人の目と耳なのです。
これを見分ける責任を神は会衆一人一人に求めておられます。
私たちは(終末の)キリストの日に、騒々しい人間の言葉にかき消されてキリストの福音を聞けなかったと言い訳することは、決して許されないのです。

イスラエルが反逆の家であったという先祖以来の歴史的事実がどんなに重くのしかかっていても、しかも神の救済史においては、確かに彼らの間に預言者が遣わされていたということの方が決定的な鍵となる事柄なのです。

535老クリスチャン2018/07/05(木) 12:20:08.62ID:wHP0d82v
(つづき)
現代の教会が外見上崩壊間近な様相を呈しているとしても ・・・ イスラエルの歴史はそのような危機の繰り返しでありました ・・・ 、
「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)キリストの福音を語る預言者は、確かに遣わされているのだという希望を持ちましょう。

終末の裁きの日になって初めて気付くのではなくて、今や再び私たちは信仰に目覚めることによって、確かに語られている生きた言葉であるキリストの福音を聞き分けることを願い求めて進もうではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

536老クリスチャン2018/07/06(金) 12:05:03.90ID:OI+DOT30
2009年(主日B年) 7月5日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7〜10  マコ 6:1〜6

「このように、人々はイエスにつまずいた。」(マコ v.3)

カトリック信者は普段 “聖母マリアへの祈り” の中で、“主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました” と唱えているので、このナザレの同郷人たちがイエスをマリアの息子と呼んだことに、別段違和感を感じないかもしれません。

しかし実は、ユダヤ人はその父の名に従って呼ばれるということが、律法によって厳しく命じられていたことに注目すると、このテキストの重要性が分かるのです。
すでに父親が故人となっている場合も同様で、ただ父親が誰か分からない場合にだけ、母の名によって呼ばれたのです。

ユダヤ人はここで次のように言おうとしたのです。
イエスはマリアの子で、私生児である。 この背教の私生児は、その故郷で失脚させねばならない。 そのためには先ず、この不名誉な呼び名で十分である。 “マリアの息子イエス”、と。

537老クリスチャン2018/07/06(金) 12:06:08.48ID:OI+DOT30
(つづき)
福音書は私たちに、イエスが行われた多くの奇跡と不思議な業を通して、神の国が近づいたしるし(マタ 12:28)を読み取ることを求めているのです。
それは信仰によってだけ可能なことであって、決して人間が神に証拠を見せろと要求することではありません(マコ 15:32)。

イエスは、ファリサイ派の人々の求めに対して、しるしを与えることを拒否されました(マコ 8:11-13)。
しかし同時に奇跡と不思議な業が、神の国は近づいたという御自分の宣教に耳を傾ける人々にとっては、十分に理解できるはずのしるしであると見なしておられました。
福音書の記事は、イエスが間違いなく御自分の数々の奇跡と不思議な業を、イザヤによって預言されていた主の日の到来のしるしであると理解しておられたことを示しています(マタ 11:2-6、ルカ 4:21)。

このマルコ福音書の並行記事である ルカ 4:22以下 では、この不名誉な呼び名が “ヨセフの子” と修正されてはいますが、イエスを町の外へ追い出して殺そうとした(ルカ 4:29)という結末から判断して、同郷人たちがイエスにつまずいたことが分かります。

神はキリストによって世を御自分と和解させ(IIコリ 5:18-19)、御子を死者の中から復活させて(エフェ 1:20)主またメシアとされた(使 2:36)という神の国の福音を理解しない人にとっては、ただ福音書が語る “しるし” が理解できないだけではないのです。
イエスにつまずく人は “キリストに敵対し”(マタ 12:30)、“キリストとその言葉を恥じる者”(マコ 8:38)となるという現実を、私たちは厳粛に受け止める必要があります。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

538神も仏も名無しさん2018/07/06(金) 20:05:17.12ID:bSl34i7e
>>537
こういうキリスト教に救いなどあるのだろうか。

キリスト教の家の生まれだが、
カルトの総合商社のようなイエスにつまずかないはずがない。
こんな自分はアンチキリストで地獄に落ちるしかないようだ。

生まれてこない方がよかった、

というようなことをイエスも言っている。
まことに恐ろしい宗教だ。

キリスト教に関わってはいけない。

539神も仏も名無しさん2018/07/07(土) 09:48:16.59ID:EkI4BK34
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、
かえってそれを得るのである」。イエスのこの言葉が、キリスト教による大殺戮の原因です。
この言葉は、「俺を信じない者」に対し、自爆テロをするように推奨するものです。

540老クリスチャン2018/07/07(土) 12:12:40.92ID:/iIRmbBz
2012年(主日B年) 7月8日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7b〜10  マコ 6:1〜6

私たちはここで、“使徒パウロの誇り”(IIコリ 10章の小見出し)を聞いています。
そして昔から多くの人たちが、信心深い敬虔とはそのような “誇り” を見習うことであるように理解して来ました。
「キリストの力がわたしの内に宿るように」(IIコリ v.9)、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(IIコリ v.10)。
なんと美しい敬虔、なんと素晴らしい誇りでしょう。

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。 だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(IIコリ 11:29)

使徒パウロは “十字架につけられたキリスト(の福音)を宣べ伝える”(Iコリ 1:23)力が、自分の 「弱さの中でこそ十分に発揮された」(IIコリ v.9)ことを誇りました。
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(Iコリ 9:23)という目的のためにこそ、あらゆる弱さと苦難を耐え忍びました(IIコリ 11:23-28)。

この目的が見失われると、そこには人間的な美徳と誇り高い敬虔だけが残ることになります。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

541神も仏も名無しさん2018/07/07(土) 22:02:03.87ID:EkI4BK34
キリスト教の地獄の描写(ヨハネの黙示録)

火と硫黄とで苦しめられる。血の報復である。
焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる。
火と硫黄の燃えている池。
永遠の火。血のまじった雹と火。
火の燃えさかっている大きな山。
たいまつのように燃えている大きな星。
口から火と煙と硫黄が出ている。
大きな酒ぶねから血が流れ出る。
海は死人の血のようになり、その中の生き物がみな死ぬ。
太陽は火で人々を焼く。人々は、激しい炎熱で焼かれた。
裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くす。
生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれる。
口から出る剣で切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。

542神も仏も名無しさん2018/07/07(土) 23:55:47.27ID:7ydgRHzl
>>539
そのほかにも、
「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」
「片手になっても命にあずかる方がよい」、「片足になっても命にあずかる方がよい」
「一つの目になっても神の国に入る方がよい」
「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

イエスのこのようなことばは、殺人教唆である。
天国に入るためには、コロしてあげるほうがいいといっている。

543老クリスチャン2018/07/12(木) 11:40:11.36ID:FaNwE8YX
2003年(主日B年) 7月13日 年間第15主日
アモ 7:12〜15  エフェ 1:3〜14  マコ 6:7〜13

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」(エフェ v.7)

キリストの福音の基礎は、洗礼の秘跡によって私たちが受けた罪の赦しと贖いにあります。
人は救われたいと願うなら、イエス・キリストの血による贖いと罪の赦しをいただくために、洗礼を受けなければなりません(使 2:38)。

キリストの福音は内容豊かなものであって、代々の教会はこれを理解する知恵を神から与えられて、「信者に神のことばの食卓を豊かに与えるために」(典礼憲章 51)力を注いで来ました。
そのために主日のミサを始めとする各種の教会の祭儀や儀式が果たして来た役割を、私たちは重く受け止めなければなりません。

このキリストの福音の非常に重要な構成要素が 「秘められた計画」(エフェ v.9)とここで呼ばれているものであることに、注意を喚起したいと思います。

544老クリスチャン2018/07/12(木) 11:41:29.47ID:FaNwE8YX
(つづき)
今日に至る過去何世紀もの教会の歴史において、すでに久しくこの 「秘められた計画」 は大衆の通俗信仰からは排除されてしまって、一般の信者たちに正しく理解され受け入れられては来ませんでした。
聖書が伝えている使徒たちの宣教、そして(大いに感謝すべきことに)使徒たちの伝えた福音を非常に健全な形で受け継いで来ているカトリック教会のミサ典礼書や各種儀式書の存在とは裏腹に、
一般の信者の宗教心からこの 「秘められた計画」 が欠落し、怪しげな通俗信仰に置き換えられて来たのでした。

21世紀の私たちの教会が、職業的な宗教人による冠婚葬祭や祭りに過ぎないものから脱却することが出来るか否かは、使徒たちの宣教の継続としてのキリストの福音に信者たちが目覚めて、この 「秘められた計画」 を再び聞くことにかかっているのです。
それは 「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたち(ユダヤ人)と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与かる者となるということです。」(エフェ 3:6)

私たちすべてのキリスト者は、御国を受け継ぐための保証として、聖霊で証印を押されたのです(エフェ vv.13-14)。
カトリック教会はこれを記念するために、洗礼の秘跡に加えてもう一つ堅信の秘跡を大切にして来ました。
使徒たちの宣教の継続としての現代の教会の宣教が、再び 「時は満ち、神の国は近づいた」(マコ 1:15)ことと固く結びつけて語られ、聞かれるようになることは、21世紀の教会の希望であり光です。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

545神も仏も名無しさん2018/07/12(木) 18:58:26.70ID:W1vCSN0u
信じない者、受け入れない者は怒りの日に裁かれる。
イエス・キリストの信 によってのみ義とされる。
イエスをキリスト(救世主)と信じ、その教えに従う者は裁きを受けず、天国へ。
聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ。
神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は、この世ではその何倍もの報いを受け
後の世では永遠の命を受ける。
信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じなかった者たちは滅ぼされる。

546神も仏も名無しさん2018/07/13(金) 06:54:40.24ID:5OSOzAx9
>>1
これがキリスト教

>>545
> 信じない者、受け入れない者は怒りの日に裁かれる。
> イエス・キリストの信 によってのみ義とされる。
> イエスをキリスト(救世主)と信じ、その教えに従う者は裁きを受けず、天国へ。
> 聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
> 信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
> 信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ。
> 神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は、この世ではその何倍もの報いを受け
> 後の世では永遠の命を受ける。
> 信じない者は滅びの宣告を受ける。
> 信じなかった者たちは滅ぼされる。

547老クリスチャン2018/07/13(金) 17:33:10.21ID:3JZk6i/Q
2009年(主日B年) 7月12日 年間第15主日
アモ 7:12〜15  エフェ 1:3〜14  マコ 6:7〜13

特に新約聖書において “悔い改める” という語は主に、対人関係についてではなくて、神と人との関係において用いられています。
それは福音を信じて救われること、「(キリストの)血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ v.7)ること、そして 「御国を受け継ぐための保証」 である聖霊をうける(エフェ vv.13-14)という実を結ぶはずのものとして語られています。

人は福音を聞いて正しく悔い改めるか否かによって、救いにも至り、あるいは滅びにも至るのです。
「斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタ 3:10、ルカ 6:43-45 参照)

福音書に記録されているイエスの言葉、「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1:15)は、決してあのときだけの特殊な台詞ではなくて、世の終わりまで有効な神のことばなのです(マタ 28:18-20)。

548老クリスチャン2018/07/13(金) 17:34:14.72ID:3JZk6i/Q
(つづき)
この世においては、人がどの宗教を信じても、あるいは信じなくても、そういうことには関係なしに、“みんなが幸せになるように” とか “世界が平和になるように” という目標を掲げて、活動することが出来ます。
それよりもむしろ、各種の宗教や教派の存在は、人々が、あるいは民族や国家が、互いに対立して争う動機を提供しているようにも見えます。
事実キリスト教の歴史を振り返って見ても、しばしば時の支配者や権力者はキリスト教の諸派や勢力を利用しようとし、教会の側でもこの世の支配者たちを自らの益のために利用して来ました。
ですからカトリック教会も含めてキリスト教諸派の間の争いは、事実上皇帝や国王たちの間の争いであったり、彼らと教皇との間の支配権闘争であったと言っても過言ではありません。

それにもかかわらず、神は私たちキリスト者を “闇の力”(コロ 1:13) “あらゆる不法”(テト 2:14) “悪魔の働き”(Iヨハ 3:8)から救い出して、悔い改めさせるための宣教へと召してくださいました。
使徒パウロはテサロニケの信徒に書き送って、「主の言葉(福音)があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡った」(Iテサ 1:8)と、神に感謝しています。

現代においても、悔い改めさせるための宣教とは、それによって私たちが 「秘められた計画」(エフェ v.9)を理解し、信じて 「約束されたものの相続者」(エフェ v.11)とされ、
その結果 「キリストに希望を置いて、 ・・・・・ 神の栄光をたたえる」(エフェ v.12)こと以外ではあり得ないのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

549神も仏も名無しさん2018/07/14(土) 04:16:37.24ID:qgo9RxOn
ヨハネの黙示録より

血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、
木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は
血となり、 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一と
その水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように
苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。人間を殺すことはしないで、
五か月のあいだ苦しめることだけが許された。苦痛は、人がサソリにさされる時のような苦痛であった。
人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。
四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。
彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。
御使はその鎌を地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに
投げ込んだ。そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、
馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りが
その頂点に達するのである。
七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言った。

550神も仏も名無しさん2018/07/14(土) 04:27:37.80ID:qgo9RxOn
獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた。
海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。
御使は「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになった
あなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませに
なりましたが、それは当然のことであります」と言った。
「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたの裁きは真実で、かつ正しい裁きであります」。
太陽は火で人々を焼くことを許された。人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を
支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、その苦痛と出来物とのゆえに、
天の神を呪った。
稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上に
あらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。
「罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。
その仕業に応じて二倍に報復をしてやれ。苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。
それゆえ、様々の災害が、死と悲しみと飢饉とが、一日のうちに襲い、そして、
火で焼かれてしまう。裁く主なる神は、力強い方なのである。
天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、
あなたがたのために、この都をさばかれたのである。」
「さあ、神の大宴会に集まってこい。そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、
馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉を
食らえ。」
獣の刻印を受けた者と偽預言者も、捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、
硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、剣で切り殺され、その肉を、
すべての鳥が飽きるまで食べた。

551老クリスチャン2018/07/14(土) 14:36:57.66ID:zBZBCmKF
2012年(主日B年) 7月15日 年間第15主日
アモ 7:12〜15  エフェ 1:3〜14  マコ 6:7〜13

「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」(マコ v.12)

これは使徒たちだけの話であって、信徒には関係がないなどと思ってはなりません。
ルカ 6:13 を参照すると、もっとたくさんの弟子たちが呼び集められ、その中から十二人がいわば代表として選ばれています。
彼らはすべて、「(イエスが)これと思う人々(ご自分の望む人たち/フランシスコ会訳)」(マコ 3:13)でありました。

原始教会の福音宣教は実際、使徒たちだけではなくて多くの信徒たちの積極的な活動によって進められていました(使 11:19-21、Iテサ 1:8 参照)。
彼らの宣教は、イエス・キリストによって実現された救いへの 「信仰による従順」(ロマ 1:5)を宣べ伝える、“悔い改めの福音”(マコ 1:15)の宣教でありました。
そしてその初代教会の福音宣教への基本姿勢の源泉が、この福音書に書かれたイエスによる十二人の派遣の物語りであったことを、私たちは理解します。

当時その宣教に伴って、彼らは多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやしましたが(v.13)、それは彼らの人間的な能力による業ではなくて、イエスから授けられた 「汚れた霊に対する権能」(マコ v.7)によってでありました。

使徒であるにせよ、信徒であるにせよ、これらの働き人たちはすべて、“(イエスが)これと思って呼び集められた” という召命を自覚し、感謝している “恵みを受けた人々” であったに違いありません。
今朝この福音書のテキストに耳を傾ける会衆の中にも、同じ恵みによって “心を燃やす”(IIコリ 11:29)人たちがいるに違いないことを、私たちは今も期待してよいのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

552神も仏も名無しさん2018/07/14(土) 16:46:45.16ID:M5geUtxd
キリスト教は、カルトの源流です。
キリスト教はイエスの命令だと信じる老クリスチャンはカルト教祖です。

命令に従わない異教徒は、殺せ!殺せ!殺せ!と叫び、実行して来ました。
老クリスチャンは、オウム麻原と同一です。

553神も仏も名無しさん2018/07/15(日) 00:49:16.15ID:j/u3sqKk
モーセやヨシュアと、麻原彰晃には共通点があります。
どちらも
(1)圧倒的影響力のある指導者が、
(2)宗教的理由付けによって殺人を正当化し、
(3)それを命令し、
(4)信奉者たちが、その命令にしたがって殺人を実践した。
(5)殺人命令を受けた信者たちは、もしその命令を 実行しなかったら、
彼ら自身がひどい目に遭うであろう、と 脅されました。
現在のクリスチャンは、自分がモーセの率いるイスラエルの民の一人であったら、
どうしたであろうか、と考えたことがあるのだろうか。
やはりモーセの殺人命令に従っていた、と答えるのであろうか。

554神も仏も名無しさん2018/07/15(日) 13:06:27.65ID:M/qkdtD9
>>553

その説のビラ刷って、日本政府と長崎県庁に、世界遺産に関する抗議活動を行うべし、実践が大事だ。

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