【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>850
> 禅宗は無心宇宙意識なる真実在に帰一哲学のヒンドゥー化で止行中心なんだけど
やり方聞いた感じだと禅は止じゃなかったよ
どっちかというと観に近い >>851
それは木を見て森を見ずですが、観であっても無想定なだけで、
教えの中身も異なり、只管打坐も知らないのでしょうか >>852
知らないのでしょうかも何も聞いただけだものw
でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
観と何か違う?
流派があるのかな? >>849
本当のヴィパッサナーw、なら嘘のヴィパッサナーって何?
例えばスマ長老のヴィパッサナー指導は本当の?嘘の? >>855
マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法っていうやつの、質問6,7を見てみて
ヴィパッサナー瞑想のときカニカサマーディが無ければヴィパッサナーの智慧は生じないって書かれてる
これを本物って表現したの >>856
ヴィパッサナーってそもそも集中を伴ってますよね、
念処経のどこに瞬間定が該当してますか
止と観を分けた増支部経典は、どう解釈しますか
増支部から抜粋、
「友よ、世に比丘あり、@止に次いで観を修す。
止に次いで観を修する彼に道が生ず。
彼はその道を習い修し、多所作す。
彼がはその道を習い修し、多所作するをもって、結は断たれ随眠は遠ざけられる。
また次に、友よ、世に比丘あり、A観に次いで止を修す。
観に次いで止を修する彼に道が生ず。
また次に、友よ、世に比丘あり、B止と観とを一双にまとめて修す。
止と観とを一双にまとめて修する彼に道が生ず。以下略」 >>857
さあ、そんな難しいことは知らんw
ただ、マハーシ式は創始者のマハーシサヤドー本人が、瞬間定が無ければヴィパッサナーの智慧は生じないって言ってるんだから、
マハーシ式をやる限りは、瞬間定が出るまでは本物のヴィパッサナーになってないんじゃないのかな?
マハーシ式はかなり新しいし、経典と合わないこともあるんじゃないの ヴィパッサナーについては、色々な定義がある。
例えばパオだと16観智の下から三つ目以上つまり思惟智以上が正式なヴィパッサナーとされる。
恐らくこれは、清浄道論に則っている解釈である。
しかし私の経験則からすると、必ずしも清浄道論に則る必要は無くこれも一種の方便で、例えば別に長老の説法を聴いて一発で悟ることは可能だと思う。
その場合、聴いて意味を理解した直後に刹那定に入り道果心が生じることになる。
これも如実智見であるから、つまり正真正銘のヴィパッサナーである。 そう、観るから定に入る智慧が出るというのではなくてそれらは同じ
定に入った時は観えてるし智慧が出たときは観えてる
意図的に観ようとしなくても定に入るとか智慧が出るということもあるしそのときは観えてる
それらは方法(観瞑想)によって結果があるという関係では必ずしもない
関係性としてそのように見えることはあるけど >>857
C法に対する様々な思い(掉挙)によって捉えた意があり、
その心が内(自己心身の心身)にのみ正しく住し、正しく止まり、
一つの対象(一境)に向かい、等持する時、彼に道が生じる。
とある。この四つの阿羅漢に至る道の中で、四番目の道は法に対する観察を行う観修習のために、
落ち着いていない心を定めによって安定させ、阿羅漢道を得ることが描かれている。
https://ci.nii.ac.jp/naid/130003831417 >>857
「止行者にとっては、近行定と安止定との定がなくしては、
他方(の観行者)にとっては、刹那定がなくしては、
また(止行者と観行者との)両者にとって(三)解脱文がなくしては、
出世間を獲得することはありえない。
それ故に<三昧と観を修習して>といわれたのである」(Vism-mhṭ[m]p.27, Vism-mhṭ[n]p.27)
https://ci.nii.ac.jp/naid/130003831417 >>863
私には>>836 の内容が結構理解できないところがあるのでちょっとうらやましい >>864
『九つめのパーラミーは、慈(メッター)、我欲のない純粋な愛です。
かつて誰かに、愛や善意を感じたことがあったかもしれません。けれども、ほとんどの場合、それは心の表面でのことにすぎなかったでしょう。
ヴィパッサナーによって心が浄化されると、心の奥底から、ほかの人の幸せを願うことができます。
これが真の慈(メッター)です。自分にも、ほかの人にもよいものです。
最後のパーラミーは、布施(ダーナ)です。
在家の人は、自分や家族のために、正しい生計手段でお金を稼がなければなりません。
けれども、たくさん稼ぐようになると自我が大きくなる危険性が出てきます。
これを避けるために、収入の一部をほかの人々のために使います。
そうすると、自分のためばかりではなく、ほかの人々のためにも働いているという自覚が生まれます。
思いやりも出てきますから、自我は大きくなりません。』
(日本ヴィパッサナー協会の記事より抜粋) 道元禅師はどうして「止観」を捨て、「只管(しかん)打坐(たざ)」を説いたのでしょうか。
それは、坐禅を「止(し・身体がじっとしている姿)」と「観(かん・心が覚めて真理を見極めること、思量すること)」に分解して実践しようと思っても、実践できないからです。
現に天台の学僧たちは「止」を次元の低いものと見なし、「観」ばかりを強調してきましたから、その「観法」は空洞化してしまい、やがて本物の坐禅は伝わらなくなりました。
今の南方仏教でも坐禅の実践方法として「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」の二つがありますが、
同時に行うのではなく、10日間の接心で「サマタ」だけを修行する人もいれば、専ら「ヴィパッサナー」に従事している人もいます。
こうした偏った「修行」が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのは、いうまでもありません。
安泰寺 禅と心
http://antaiji.org/ja/dharma/okumura-mind-and-zazen/
より抜粋 >>853
成り立ち、根底から異なっています
イメージ、宗祖だからと根拠なく絶対視して、教えに鵜呑み束縛されて、
慧の修習がなく悶々としてテラワダ系スレにあたる人はいますよ
もう印仏学会の学者先生が、禅宗が変容されたシャカ仏教と異なること
は、学術研究結果として解き明かされてますし
世界の学者は鈴木大拙をヘーゲル大拙乗と批判してます
有害な教えでもないということから、うるさくなってない程度です
宗教の選択は自由ですし、
別に、渇愛あるがまま、煩悩あるがまま、そのものになる行、
仏を確認する禅、どうぞご自由にとしか言えないです
あ、別に私、テラワダ関係でもないです >>868
いやオレそんな話してないwww
まあオレもあんたも禅は門外漢で
あんたがテラワダ知らんならこれ以上話しても意味ないがw
禅は止行だって発言があったからオレの聞いたやり方ではどっちかっていうと観だよって言ったわけで
具体的に何やってるかを言ってるんだ
成り立ちが違ってるなんて当たり前のことじゃなくてさ
やつらこんな事やってるって言ってるけど
これって止行じゃなくて観行じゃね?ってこと >>870
その宗派の一部の人の話から聞いても、
それが全部そうでなく、木をみて森を見てないって話で、
私が知る多くの禅宗の知り合いは、テーラワーダの教えと修行を
比較すれば明らかに異なってました
例えば曹洞禅の人から、悟る必要なんてない、すでに仏性内在、そのものに
なればいいと、ですから只管打坐ですと(分からなければググって下さい)
臨済宗に数息観ってあるけど、安般念の一部で同一視できないものです
ええと、昨今のマインドフルネスブームの影響受けて、
今ここの事実の気づき、観察瞑想しているところもあるでしょう
しかし宗門の基本は、無念無想、不思不観、無分別、不二なんですよ >>871
じゃあやっぱり宗派の違いなんだろうな
オレの禅の知り合いは他にはいないし
でもこのやり方
> でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
> 観と何か違う?
そこは中興の祖みたいな人がいてずっとこのやり方だってさ
だからマインドフルネスブームとかじゃなくてずっと前からそう
これが只管打坐だそうな
で、これって止観だと、観だと思わん? >>872
自己レス
> そこは中興の祖みたいな人がいてずっとこのやり方だってさ
聞いてた井上義衍って名前ググったら曹洞宗師家会会長とかやってた結構な有名人だったわw 何かと何かの共通するところを見ようとせず、何かと何かの違うところばかり見ようとする
「他人のしたこと、しなかったことをみるな。 ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。」
って言葉の真意はなかなか伝わらない >>871
座禅もヴィパッサナーも10年以上やってるが宗派による教えは本質的な問題か?と思う
無念無想、不思不観、無分別、不二が自分の意識状態を知ることなくどうやって達成できるのか
そこに至る過程で知らず知らず観の要素が入ってる
例えば、座禅中に妄想に浸っていると気づいた時点ですでにそれにサティが入っているじゃないか、無自覚なだけで 現代において
阿羅漢に至るもの現れない状況は
仏陀の教えが正しく伝わらっていないからかね >>875
あいにく私は出家修行者でもなく、研究者で聖書の方が詳しいかもよ
その こだわりの押し付けが、仏教徒なんですか
某長老にそれを直接言ったらどうでしょう
仏典の中に、何が外道か説かれ、物事の正邪真偽、善と不善等の判別、
解脱,悟りの役に立つ教えと、そうでない教えを実際区別していて
古代、仏陀は分別主義とも言われてます いえそれは択法覚支って
知らないから、無知な貴方はそう言う、そして他人に言い自己を
観察してないのが貴方と気づいたらいかがでしょう >>872
それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
→すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
これは2点大きな誤解脱線があって、とても長くなりスレチでここで書きません
で、ありのままに観てるから、観なんだと
観念の理屈だけだと何でも自由に宗教が創れますからね
で、涅槃に至る解脱の教えのテラワダと何が異なるのと知らなければ、
ググった方が早いかと >>878
自分に言われて押し付けられたと思ったんですか? >>879
> それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
> →すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
いやそれあんたの想像じゃんw
ていうか、実際にやってることが何かじゃなくて、どうしても宗派やら成り立ちやらの方に注意が向いちゃうんだね(^^;) これからもぜひ、瞑想に興味はあるが自身の固執にすら気づけておらず、ただ学術的な価値や知識をいかに誇るかを競い合い、我こそが真の道の者であると鼻息を荒げる「本物」の方々を観察させていただきますね。
(^人^)ありがたいことです。 > でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
> 観と何か違う?
これはヴィパッサナーじゃないっすよ
マハシ長老のは四念処→観という流れで
詳しくは界分別の風(ヴァーヨー、動きの要素)を観察してるから >ただ今の現実のままそこに居るだけ
欧米で流行ってるヒア・アンド・ナウ(今ここ)とかマインドフルネスだっていうなら
まあそうかもねという感想だけど >>881
それは知らな過ぎですよ、想像でなく、印仏学会の仏教学者が解説したものと、
実際にそのように説く宗派の方がいらっしゃいますよ
私の書くことって、すべてそこにある事実の引用です
地球がずっと平面だと思っている人に、根拠証拠をもとに球形なんですという説明に
過ぎず、貴方は師から平面だと教えられ鵜呑み盲信するタイプですか
物事の本質を探る姿勢がゴータマさんになかったら、無我非我も説けないでしょ 自分の目で球形と見てない地球のカタチをいくら証拠聞いたとこで球形だなんてゴータマさんは言わないでしょ
自分の目で見たって安易に信用するのはおかしいし >>882
何かを説明すると固執なら、仏典はすべて固執した凡夫が説いたものですか
貴方の対象に対しての妄想を観察したらいかがですか >>886
今の時代の話ですよ、警察は映像、証拠写真から犯人を特定しますが、
貴方の話だと、それは自分の目で直接見てないから犯人特定できませんって
言っていることになりますよ >>888
映像は映像、写真は写真を見てるでしょ
それだって偽造かもしれないですけど
私は映像でも写真でもない聞いただけの証拠で犯人を特定なんてしませんね 売り言葉に買い言葉、水掛け論、己が見解への執着
修行の程度が知れますなぁ >>889
地球は球形ですというのは、その映像、写真、周回軌道の衛星写真等から
ですよ で貴方は古代人のように考えるのですか
学者は、文献、資料から研究分析、調査してわざわざ嘘を発表している
のなら、その証拠もあげないと
私はそのような学術研究結果がありますよと説明しただけですよ
言論の自由がなく、5ちゃんに規則でもあるのですか、貴方のべき思考規則ですか >>891
それであなたはその学者の文献をほとんど読んで発言されているのでですか?
それに学者さんはそれが正しいなんて言い方しないですよ
様々な証拠からそれが妥当だと思われるというだけです
あなたの自分で事実を見てないのに正誤をつける態度が少しもゴータマさん的でも学者的でもないと思っただけです
私が地球が球形だという証拠を見せられたら言えることは、証拠からはそう思えるけど実際そうかはわからない、です >>887
あ、いや失礼しました。
スレの中には大論の鉈を、ここぞとばかりに相手めがけて振り下す方もいらっしゃるので、そのような方に対して申しました。
しかしこうしてみなさんの議論を拝見してると、宗派や解釈の違いのせいで収拾がつかなくなっているように見受けますが、
各宗派はそれぞれ上僧の指導のもとに集まり瞑想を行うことを推奨しているはずなので、瞑想はそれによって行い、疑問もそこで解消されるべきです。
私の師の教えは、当初、私には向いていないと感じ、私はだいぶ悩みましたが、それでも繰り返しその教えを実践していくと、次第に私に合うものとなりました。
その教えは、数多の教えの中でも最もシンプルなもののひとつと言われています。
そして、個人的に独学的な瞑想を行っている方は、他の手法にも柔軟に耳を傾けつつ、かつ自分なりのアートを洗練させていくべきでしょうね。そしてその姿こそが、ブッダが道を切り拓いた当時の姿だと思います。
しかし、このような有意義な議論は、ダンマフレンドというか、良いものですなぁ。
(^人^)
ブッダは、道を連れて歩く友がいないなら、犀の角のようにただひとり歩め、と申されたが、やはり寂しいですよ。
辛苦や疑問を自由に語れる仲間がいる方がいい。 >>885
いやいやw
だから
> > それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
> > →すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
実際に↑のように説く流派はあるんだろうけど
それとオレが話聞いた流派の教えてることが一緒かどうかは分からないでしょ
そこ材料ないのにどうやって判断したのさw >>892
ほとんど読んでます、絶対正しいとこの人思っているという決め付けは、
貴方の妄想でしょう、けど学者さんは、調べた結果ありのままこうだと
正しいという思いで書いてるものでしょ、間違いと思うなら書かないでしょ
ゴータマさん的、学者的という観念は、貴方の色メガネで相手を裁いている
わけですよ、その先入観の囚われに気づいたらどうでしょう
貴方のこうでなくてはダメという束縛で、べき思考の認知の歪みでもって
相手を自分の思い通りにしようと闘おうとしないで下さい
ええと、もうこれ以上、貴方にレスしません、貴方相手だと終わりませんので >>883
厳密にヴィパッサナーの技法と一致するかじゃないんですよ
いまのテーラワーダは主に清浄道論ベースでしょ
根本分裂からざっくり千年経ってるものと一致したらその方が変だしね >>894
> でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
相手が曹洞宗で、この証言が傾向的に一致したからです
ご自身でググって詳細を比較して調べられると思いますが >>896
(´・_・`)?
中国・チベットのヴィパシャナ(lhag mthong)となら余計合わないけど(説一切有部系) >>895
>ほとんど読んでます
それだったら参考文献の一つでもあげて見せてよ
やっぱりナカムラゲンガー? >>899
ちょっと遡ってもらえると分かるけど
元々は禅は止行だって発言に
オレが前にやってるか聞いたとこじゃ観っぽいぞってレスしたのが始まりなんで
やつらこんな事やってるって言ってたけど止観でいうと止かね?観かね?
ってレベルの話なんですよ
でももう段々どうでも良くなってきた(^^;) >>901
まぁどうでもいいけど、
なら貴方は、その観でもって、仏道をどのように説明します?
ちなみに観も四念処も、清浄道論ではじめて出てきたわけないです
古層仏典の中に、なぜ観るのですか?との問いにブッダが説いている
箇所がありますが >>902
オレ禅は門外漢だって言ってるのに何故説明できると思うwww
だからぁ聞いたメソッドを止観で分けたら止ってより観っぽく思えるけど?どう思う?って話をしてるんだって
仏典がどうの成り立ちがどうのじゃないの
それいま関係無いからw
実際になにやってるか聞いてみてその内容から止観どっちだと思うかってこと
まあここまで言っても多分また宗派やら仏典やらの話になると思うからもういいですわ >>903
観っぽく見えるって言ってほしかったんだね(´・_・`) >>904
オレには観っぽく見えるから同意してもらえれば
('A`)人('A`)ナカーマ
になると思うけど
それを求めてるんじゃなくて、止なら止でいいんだって
そこはこういう理屈があって止なんですって話がわかれば
おおー勉強になったわーって感じじゃん 相手の心情とか勝手に決めて話してるひと多いよね
見えてるのはただの文字なのに >>905
自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね 禅宗における坐禅
『小止観』では、坐禅は止観の一部分にすぎません。では、禅宗における「坐禅」はどうでしょうか。
(略)
(六祖慧能大師の)『六祖壇経』では、
「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」(第三)
とあり、禅定と智慧を別々に分けるものではないことを明言しています。
定慧をそれぞれ灯りと光に例え、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、灯りと光は本体として同一のものであり、定慧の関係もこれと同じである、と解説されています。
その後に、
「この法門の中には障無く碍無し。外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐となす。内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」(第四)
「外、相を離るるを禅となし、内、乱れざるを定となす」(第四)
として、坐禅を単純な言葉の解釈ではなく、実践的意味を前面に出し定義されています。
この時、禅定と智慧は別に考えてはいけない、という前提がありますので、坐禅は禅定のみの鍛錬である、とはしておりません。
これは『小止観』が言う「止観は車の両輪」と同じことであります。
よって、禅宗が定義する「坐禅」には、「止観」の要素がすでに織り込まれているのです。
次に、行住坐臥の場面ですが、禅宗では臨済宗系第8祖・百丈慧海禅師が『百丈清規』を作られて以降、作務の大切さを説きます。
作務は労働のみならず「仏としての務めをなす」という精神により、日常のすべてが修行であることを重んじます。
坐禅のみならず日常すべてにおいて禅定を養う、ということは、禅宗においては基本的教義です。
このように、禅宗における「坐禅」は、定慧の実践を包含し、行住坐臥における「止観」は、禅宗修行の基本である、となるでしょう。
止観と坐禅
http://www.harutsumi.net/bunken-sikantozazen.html >>907
> >>905
> 自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね
おいひとの発言捏造するな
オレが仏典の話は理屈だっていつ言った
レスあげてみろ 狭量なひとがいて嫌だなぁと思ったけど、そういう今の自分の知覚と意識を観察してみたら、それはまるで黒くて澱んだ人を寄せ付けない沼のようなものに見えた。
こういう感覚になることってたまにあるんだよなぁ。 自性清浄(プラクリティ プラバースワラー)
尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗仏教はすべてこれを承認する。
ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。
また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
高野山の大僧正、松長有慶氏によると、このプラバースワラー(清浄)は空のことであり、
どんどん一切のものを否定して行って最後の最後に否定しきれずに残る”光輝くもの”を意味する。
これを鵜呑みにすれば
清浄=空=光り輝くもの
大智度論では空即涅槃と説く(般若経では空即是涅槃)。
おそらくは松永氏の説を借りて
涅槃=如来像=清浄=空=光り輝くもの
とすれば分かりやすい。
真に大智度論にそうと、自性がない空は取ることができないが、取ることができないという相が涅槃である、とされる。
しかし、そこから進んで、空は無自性であるから分別がなく平等の相があるので涅槃である、というのが実際のところではないか? >>914
心の動きを観察することと、心の作用を止めていく、
の2種で攻めた方が良いと思います。 仏説(長部経典/阿含経典)によると、まず持戒をさせ、次に念処行をさせ、
次に座って心の止によって、入定し、初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見、
と説いている。
只、テーリーガータ等を読むと、xxxしている最中に突然解脱しました、
とかのような仏尼の告白が随所に見られる。
後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
という話になる。
つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
もっともブッダは持戒をさせ、念処行をさせ、座って心の止によって、
→入定→初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見の法を語っている。(長部経典)
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%88%92%E5%AE%9A%E6%85%A7%E8%A7%A3%E8%84%B1%E8%A7%A3%E8%84%B1%E7%9F%A5%E8%A6%8B
戒律をたもち、禅定に入り、智慧を磨き
あらゆる煩悩から解放されて、心の安らかさを自覚するという五つの功徳
その功徳を具備するものを五分法身という
にゃるほろ =^・ ・^= ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
(↓リンクの貼り憑けができない)
五分法身を磨耀す
戒・定・慧・解脱・解脱智見
戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身を磨瑩す 座禅バカ、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。
瞑想、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。 >>919
悟ってくれ。
そして慈悲の心で法を説いてくれ。
おおいに期待している。 いや言い方がわるかった
悟ろうと思ってるから悟れない
てことが言いたかった 悟ろうと思うと悟れないというのは禅宗でいうことじゃないの?
↓おじゃるの場合は
「悟ろう」と
掴もうとしている想いに依存して
それゆえに「悟れない」
そして
誰もが成仏するわけではないのなら(五性各別)
仏の智慧と慈悲をもって
法を説いても
物事の本然の姿は全て
『塵や汚れから離れたもの』
ということに気づくことなく(道元・普勧坐禅儀)
無明と渇愛が絡み合って
仮設としての
無明の中で
輪廻を繰り返している おじゃる
(前世の記憶はないけど…) >>921
「悟ろうと思ってるから悟れない」
そんなことはブッダの仏典に記述されていない。
むしろ悟りへの情熱が強ければ強いほど修行の完成は早いって書いてある。
そこを勘違いして「悟ろうと思ってるから悟れない」などと自論で想い込んだら、
それはその人は絶対に悟れない。 野球がうまくなりたいと思えば思うほど野球がヘタになると思うかい? 「悟ろうと思えば思うほど」、その人はより戒を守り、瞑想し、修行の完成に努めるだろう。 >>922
そうそう座禅中に雑念としての「悟りたい」は障壁になると思う。
「前世の記憶はないから、だから輪廻もない」
と簡単明瞭に輪廻を否定する人もいるけど
前世からの異蘊相続は
種子に記録され、第八識のなかにたくわえられる
これを薫習という
たとえば仮に
異蘊相続に依存して
前世からの種子が
第八識のなかにたくわえられていたとしても
仏道への障害がある有覆無記の
第七識に依存して
第六意識からは
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないらしい
有覆無記の第七識が障害となって
第六意識から
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないので
それゆえに
「前世の記憶を観ることができないジャマイカ?」ということになるらしい
「悟ろう」が障害になるのではなくて
(「悟ろう」と)
掴もうとしている想い
この
「掴もうとしている想い」が
仏道への障害となっている
ということであるらしい
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといっても
(「掴もうとしている想い」に依存しているのなら)
それは自らの解脱の道をふさいでしまっている
有覆無記の
第七識に依存しているのなら
仏道への障害がある
ということであるらしい 剣や武道の達人がよく言う強くなろうと思ってるうちは強くなれないみたいな話でしょ
何かになりたい自分という我や欲があるとその範囲以上にはなれない
>自分という我や欲があると…
(大乗の)中観派も
それ自体として自立的に成立しているわけではなく
「無自性」(無我・空)であり、「仮名」「仮説・仮設」
「縁起」
上座部も
我ではない(無常なので、それゆえに無我である)
そうすると
どこの
だれが
呼吸の観照をするのか?
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなく)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
仏の智慧と慈悲をもって
呼吸の観照に戻してくる要素があります
(『仏の世界に戻る帰る要素がある』という意味かもしれない) >>916
>後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
>という話になる。
>つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
だから、
≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ? ってこと。
(イチローがマリナーズへ戻り、清宮は即活躍を期待されているわけだが)w
或は、今回、平昌で多くのメダルが取れたわけだが、
素振り(スィングの修習)や、各種パフォーマンス、
或いはフィギュアならジャンプの為の基礎的なウォームアップやメンタル面の準備等、
そういうの無しに、結果が出るはずも無く・・。
なぜ、アスリートが、素人目には「競技前に疲れちゃうんじゃないの?」と疑問に思ってしまうほど
念入りに準備運動するか。
竹林の一音で悟ると言われる時(頓悟)も同様。
そこまでの蓄積や、慣らし運転、或いは、(最近の車は性能がいいがw)
冬場のエンジンがかかり難い時代は、よく、早めにトライして、温めておいたもんだ。
人は、日日、一瞬一瞬、外界の刺激に反応しながら生きている。(それは如来とても同じことだろうが)。
そうした中で、
それらを遮断し、或いは防御し、或いは斥け乍ら、智慧を働かせる(諸法の縁起を見る)
というのが、本道ではないか?
だから、大般涅槃経での、阿難への「念を確立していなさい」という助言になるのではないか?
いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない。
けど、それは異例であって、実際には、
それこそ、まず墨を摺らないと文字が書けないのと同じだと思うわけでね・・。 >>止を踏まえての観 >>924
悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
潰さないとあかんやつよ
まあ瞑想中に潰してけば消えるけど
>いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない
第一禅定とかを飛ばして
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかいってるのは
禅宗系のような気がする
只管打坐する前段階として
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想受滅
そして、それから
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐
という段階の方が良いという感じがする
とりあえず
おじゃるには
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかは無理で おじゃる
呼吸の観照もできないけど…
>止を踏まえての観
仏の世界から → 縁起している世界を観照せよ
無為法の世界から → 有為法している世界を観照せよ
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
そして、止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
窮境の観(ヴィパッサナー智慧)は
仏そのもので
無為法である
それゆえに
止(サマタ禅定)
という意味かもしれない?
ちっと無理がある説明かもしれない?
最終的には
第四禅定も手放しするかもしれない
この第四禅定も手放している
仏そのものに近い状態を前提として
すなわち
止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
仏そのものに近い − 止(サマタ禅定)をもって
という導きなのかもしれない
縁起している
呼吸を観照してるので
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
という世界も同時にあるのかもしれない? >>933
>悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
lobha(貪)じゃなくてchanda(意欲)だけど…勝手に決めつけないでくれる? >>924
ダンマパダの中に悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなるというような詩偈があったと思った もちろん発心(発菩提心)、菩提心は大事だし
不奔逸に修行に努めということも遺言として残ってるほど有名だけどね >>937
今と異なる状態を求める想いを含んだchandaですか?
まあchandaだとおっしゃるならそれで結構です
大変失礼しました 実践したことがないので、わからないけど
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えるときには
意欲・やる気も手放して
ttp://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて想受滅
諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち
(意欲・やる気も手放して)
受、想、行が滅している
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
…
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
…
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい!」という想いが現れる
最終的には?意欲・やる気も手放して
無明滅して → 行滅して → 識滅して → 「苦しい!」という想いが滅する
無明に依存している
すべて一切の諸法を手放して → 有余涅槃
仮設としての
色受想行識を手放して → 無余涅槃 >>938
ダンマパダのどの辺りに「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という文言が?
ダンマを100回とは言わず読んでいるボクにはそのような記憶は全くないけれども。
責めているんじゃないよ。どの辺にどういう文章が書いてあったか、
思い出したら教えてください。 >>938
前払いにこれ差し上げます。
http://fast-uploader.com/file/7076338152463/
無論この訳の中にはその文言は書いてないとおもうけど、
「ダンマパダの中にあなたが見た『悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる』という詩偈」
の箇所を教えてください。 >>938
答えられないでしょうからヒントをあげましょう。
パーリ聖典のある1箇所には
「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という旨を、
全く違う言葉で記述した文言が無いというわけではありません。
あなたがそちらの部位を見つけて報告して頂いた場合には、
あなたの過失について追求することは止めます。
但し、そのブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者の存在も僕は知っています。 最後になりますが、後年の丸くなったブッダでは無く、
若き日のブッダは「24時間死ぬまで働け社長」クラスの人でした。
つまり寝る時間も惜しんであやうくば死ぬまで修行しなさい、という勢いでした。
そのことは是非知っておいてください。
大パリニッパーナ経の中の年老いたブッダとスッタニパータの頃のギラギラしていたブッダは結構違います(笑)。
ダンマパダ
63
…愚の想いも賢の想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
↓
最終的には?
「意欲・やる気」という
想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
スッタニパータ
839
『教義によって、学問によって、知識によって、清らかになることができる』とは説かない
『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、清らかになることができる』、とも説かない
最終的には?
「意欲・やる気」という想いも手放して
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、…(これが内心の平安である) 仏教の基本が無常なるものに執着しないことだってこと考えたら自ずと答えは出るよね >無常なるものにも執着しない
(大乗の)中観帰謬派の場合は
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も
こう思惟してはならない
「有るのか?」
「無いのか?」
「有でもあり、無でもあるのか?」
「有でもなく、無でもないのか?」と
掴もうとしている想いに依存して
おじゃるは
戯論を生じている
戯論して慧眼を破れば
是の人は
仏を見ることはない
如来は
戯論(無明の世界)を超過してる
それゆえに
「掴もうとしている想い」ではない >>940
「テーラワーダでも」という言葉がくっついてたんでテーラワーダの見解を申し上げました >>949
あれ、私もどちらかというとテーラワーダ側の見解を言ったつもりなんですがw
ではchandaに今と異なる状態を求めるという性質はあります?
求めるものが無くてもやる気はあるという心の状態ありますよね
それがchandaの生の性質なんじゃないですか?
私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
lobhamula cittaでchandaとlobhaの同時発動ありますからね 筏の譬えの法門を知る者は、彼岸に渡り終わってから筏を捨て去るのである。
未だ河を渡っていないのに筏を「手放しす」者は、そこで溺れて死ぬだろう。(彼岸に渡れない)
即ち、それは答えでは無い。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。