創造論と創造科学とID論と進化論Part102
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>>40 仏教なら因果 聖書系なら神が試してる、となるからならない ヨブ記でもよむがいい >>45 そう。だから>>40 では完全な反証にならない。 完全に「偽だ」と言える反証命題が立てられない命題は反証可能じゃない。 36 ご冗談でしょう?名無しさん 2017/10/05(木) 22:04:11.58 ID:B2oYIVx2 次スレ立つとは思わなかったんだけど せっかくなので適者生存と同義語反復の話をもうちょい語るか まずは 前スレ>>990 で述べたことがスルーされているようなので再掲 以下再掲 自然選択説は実証科学として予測も発見もできるし 【実 際 に さ れ て い る】わけよ たとえばダーウィンは自然選択説に基づいて ある花に適応した、口吻の長い未発見のガの存在を【予測】し、 後年、実際にそのガは【発見】されたわけ 実 際 に 予 測 と 発 見 を も た ら し て い る わけだから 自然選択説が予測も発見ももたらさない反証不能な同義語反復だ っていう言説はまさしく反証されているわけだ 以上再掲 ポパーも 同義語反復であればそうはならないはずなのに 実際には自然選択説が予測やそれに基づいた新たな発見をもたらすことに気づき 何かが(自分の言説のどこかが)間違っていると感じ 最終的には適者生存の原理こと自然選択説が同義語反復であるという主張を撤回した バスケの例はあとでちょい訂正が必要だと感じているが とりあえずそういう“お話”をする前に 実際問題として自然選択説が (同義語反復であれば不可能なはずの)予測と発見をもたらしたという現実に目を向け どこかがおかしいという認識くらいは持ってほしいよね 同義語反復を主張する人にはさ >>27 ほか、 ID:MIpCMq+d なんかいくつか勘違いしてない? まず 分子進化の中立説ってのは “表現型に現れないならば” という前提をもとに組み立てられたものではないよ 分子データ(当時はアミノ酸配列)を系統間で比較したときに その観察結果から 「少なくとも分子レベルの進化は中立的な変異が主役である」 と導かれたもの 表現型に現れないものがどうこうってのは 後になってデータが集まってきたときに補完的に追加された言及であって 提唱された時点では 表現型に現れる変化も大部分が中立的である という目もあったわけ そうであれば自然選択説は大打撃を受けたであろうし 場合によっては全てが中立的な変化でしかなかった という全否定もありえた つまり反証可能だったが反証されなかった 結果的に部分的な反証に留まったに過ぎないんだよ そのうえで現在のようなすみ分けに至ったわけ 今現在において一目瞭然に争うところがないのは 集まったデータの結果そこに落ち着いたというだけで 最初から分子と表現型、 自然選択にかかるものとかからないものとを分けていたわけではないし 集まったデータ如何によっては全否定されることもありえた つまり反証される可能性があったわけよ そもそも>>32 も述べているように 一旦は自然選択説そのものが否定されたこともある たとえばメンデルの法則が発見されたときは そのデジタル的な遺伝法則と自然選択説のアナログ的なロジックがうまく折り合わず 自然選択によって現在の形になったというダーウィンの自然選択説は廃れた データを集め、メンデル遺伝と量的形質を結びつけることができることが分かった結果、 自然選択説はネオダーウィニズムとして復権を果たしたが もし、量的形質の遺伝メカニズムが、このときに仮定され検証されたものと違っていたならば 自然選択説は廃れたまま、つまり完全に反証されていただろう さて、 自然選択説はID:MIpCMq+dにとって反証不能の命題のように見えるかな? だとすればそれは間違いだ データ如何で反証される可能性はあったが、 その目を「データの追加(=検証)」によって一つ一つ潰してきたからであって (それはまさに正統派の科学的方法論と言える) 反証・反論のたびにデータなしに主張を後出しで変える(>>45 で挙げられているような事例)ものとは構造が違う 反証・反論が原理的に不可能なのではないよ ってか 完全に「偽だ」と言える反証命題が立てられるか否かって、 ID:MIpCMq+dのオリジナルの解釈っぽいけど 自然選択説をどうしても反証不能ってことにしたいあまりに 他の科学的仮説も反証不能になるような解釈をしちゃってないか? その解釈で原子説や地動説やビッグバン仮説や相対性理論や 分子進化の中立説は反証不能になるのか? 自分の文章を読み返して思ったが>>50 の 「廃れた」という部分はやや言いすぎだな 「メンデル学派によって激しい批判にさらされた」程度にしておくか そのときのデータ如何によっては完全否定されかねなかったのは変わらないので まあ些細なことだが 一般に言われているのは、ダーウィンの自然選択説というのは メンデルの実験によって補完されたんだ、救われたんだ、 という話ですけどね。 ダーウィンの発見と当時代の発見だったにもかかわらず 残念なことにダーウィンはメンデルの法則を知らなかったといわれている。 てか、メンデルの法則自体、学界で認められ始めたのはメンデルの死後 だったんじゃなかったかな? メンゲル学派は、単に、漸進説に対する突然変異説の論争を 巻き起こしただけじゃなかったかな? それらはダーウィニズムの間で現代でも似たようなものが しばしばある論争で、淘汰は集団に働くのか個に働くのかとか、 進化の速度は漸進的か断続的かみたいなね。 メンデル遺伝だと、遺伝子は混合せず粒子のように伝えられ、生物の性質は不連続となって 自然選択説が言う漸進的な変化は起こりえない、という否定の仕方ですね。 そこに、突然変異による遺伝子の変更が加わり(中略) 結局、選択による漸進的な変化が認められるようになりますが、 このあたりは極めて初期の経緯で、集団遺伝学成立後の論争とは内容もレベルも異なります。 まあメンデル周辺の細かい話にいくらかツッコミの余地はあるとしても >>49 で中立説関連での反証可能性に触れてるから 俺の主張としては特に問題ないな 自然選択説は データ如何で反証される可能性があったけれども データの追加によってその目を一つ一つ潰してきた という まさに正統派の科学理論である という点は結局揺るがしようがないわけだからね これは>>52-54 に向けて言ってるわけではなくて 確認事項を述べているだけね いや、自然選択説をどうにかして 科学理論と違う何か(反証不能だとか論理がどうとか)にしたい人がいるようなので 念のため、ね >>52-54 補足しておくと メンデル学派からド・フリースやらの突然変異説が出てきたわけだね 突然変異説は自然選択という現象自体は認めていて、 対立するのは漸進説に対してではあるけれども 新種の形成に関して 突然変異でいきなり別種が生じ、 自然選択は種の形成ではなくその維持にかかわるという主張で 自然選択によって進化してきたと述べるダーウィンの自然選択説とは異なるシステムと言えるね おっと>>53 進化の速度が漸進的か断続的かとか 淘汰が集団に働くかどうかとかって 既に現代の話と言うには若干古いような… そんなのもう論争になってないぞ なんとなく賢そうな語り口を使えば信じてもらえる、という時代は終わったよね >>57 の続き そして、突然変異は遺伝子プールに多様性をもたらすものと捉えることで、再度連続性を獲得するわけですな。 >>49 中立説は、分子進化の多くは表現型に影響しないという主張なんだから けっきょく表現型じゃないって言っているも同然なんだよ。 仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり 「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に 抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。 ここでもほぼ中立説の立場に立つ筆者さん(太田氏か?)が 次のようにお書きになっている。 https://www.nig.ac.jp/museum/evolution/01_a.html > 中立説というのは表現型とは関係ないということを強調したものでした 木村氏はそもそも自然選択理論を反証しようとして 中立説に訴えられたんだろうか? 中立説と自然選択説との間の論争は、 いわば、木村氏の理論に対する無用な誤解にもとづくもので、 論争の集結はその誤解が解けたということに過ぎなかったんじゃなかったか? 学術論争というものには多々そうしたものがあるのは事実だが、 それを命題上の反証論争と勘違いしてはあかんよ。 >仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり >「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に >抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。 表現型に現れても中立なの? そうなら、それがなぜ自然選択と対立しないの? 中立なら表現型でもダーウィンの理論に抵触しないでしょ。 でないならなんで中立だと主張する必要があるの? 生存環境において不利な表現型でも淘汰されないよって主張したら、 ダーウィンの理論を反証するものになるけどね。 そうじゃないから中立だって話でしょ。反証するつもりなら中立説って言うべきじゃない。 でもさあ、よく考えてみてよ。 不利か有利かどうかってのは淘汰されてはじめて判断できるものでしょ。 意味的にかぶっている。 どうやって反証するの? 「中立説」は表現型とか関係ないってことは、わかってるよね。 >>66 環境と個体の変化の関わり、繁殖率の遷移をみれば推定できるでしょう。 そもそも淘汰=繁殖率でしょ。 繁殖率が高まれば正の淘汰、低まれば負の淘汰。 保守系コメンテーターであるTom Bethellは、昨年12月のNational Review Onlineで、主たる点を明解に表現した: 『ダーウィンの名声は進化のメカニズムの発見によるものだ。彼は"適者生存"を自然選択の理論のよい概要として受け入れた。 しかし、何が適者なのか? それは生存したものだ。生存と独立した適者の基準はない。 何が起きようとも、定義上、適者は生存する』 適者をどう定義するかの詳細を考える前に、まずこの論の怪しい点に注意しなければならない。 CoulterとBethellはここで、最近の発見が進化を不適切な理論だと示したとは言っていない。 そうではなく、彼らは科学者が単純な論理的不注意をしたと主張している。 Bethellが同じ論を提示した Harper's Magazineの記事に対する反論として、古生物学者Stephen Jay Gouldは次のように書いた: 『Bethellの論は大多数の活動中の科学者にとって奇妙なリングを持っている。 我々は常に、新しいデータの結果によって理論が崩壊するのを見る用意ができている。 しかし、その構築のときの論理エラーによって影響力の大きい理論が崩壊するとは考えていない。』 本当に。科学者は結論に飛びつたり、不適切なデータから誤った理論に到達することは大いにある。 しかし、科学史上で、賢明な外部からの論理的不注意に気づいただけで、主流の座に着いた理論が分解してしまったことは一度もない。 進化論がトートロジーだと示唆するCoulterとBethellの構成は、彼らが攻撃対象としている理論を理解していない (あるいは、意図的にゆがめているかだが、これは我々は考慮しない) では、可能な限りもっとも直接的な形でこの論に反論しよう。 進化論では生存したものが適者だと定義されていると主張されている。 これは、論の要点である、そして完全に間違っている。 実際には、適者とは、身体的特徴と彼らが見つかる環境に基づいて、最も多く子孫を残すと期待されるものだ。 これをGouldは次のように説明した: 『私のダーウィンの擁護論は、別に驚くようなものでも、目新しいものでも、深いものでもない。 私は、ダーウィンは自然選択のアナロジーとして動物のブリーディングを挙げたことは正当だったと主張するだけだ。 人為淘汰における畜産家の要求は、集団にとっては"環境の変化"を意味する。この新しい環境では、ある特徴はアプリオリに優れている。 それらは畜産家の選択によって生存し、増殖する。それは適応性の結果であって、定義によるものではない。 自然においては、ダーウィンの進化は、同じく環境の変化への応答である。 今やキーポイントは:特定の形態や、生理的あるいは行動の特徴が、 新たな環境で生きていくためのデザインとして、アプリオリに優れていなければならない。 これらの特徴はエンジニアの基準で適応となるのであって、彼らが生き残って増殖したという経験的事実からではない。 ウーリーマンモスが毛皮を進化させる前に、寒冷化したのだ。』 ある生物集団が見つかる場所の環境についての完全な情報が我々にあるとしてみよう。 さらに、我々は集団において、遺伝可能な変種の範囲を完全に知っているとしよう。 この状況下では、我々は集団の将来の進化について、確定的なことが言える。 一群の科学者がこれらの情報を調べて、集団のメンバーのどれが最適者であるかのコンセンサスに到達できる。 これがただ生存したということの独立な、適者の基準となる。 しかし、これがすべてではない。将来の予測は進化生物学のほんの一部にすぎない。 進化の興味深いイベントの大半は、遠い過去に起きている。 過去が科学者に提示する問題を解明し説明することは、前のパラグラフで考えたこととは正反対になる。 現在の環境について与えられた情報によって、種の将来の進化を予測しようとするかわりに、 今度は我々は、生存した生物の種類から与えられる情報によって、先祖の環境を理解しようとする。 何度も指摘しているのに未だに勘違いしている人がいるけど、 トートロジーであったとしてもそれはその命題が「偽」であることを 意味しないということだよ。わかるかなあ? 何度も書いていることだよ。 適者生存の命題がトートロジーならば、それは論理的帰結として常に「真」になる。 適者生存自体は間違った理論じゃないんだよ。わかるかなあ? アプリオリに優れているというのは形而上学。 科学的であるかぎりは、けっきょく それが何によって客観的に確定するか、 つまり誰の目にも客観的に観測されるものでなければならない。 適者生存は論理的にも現実上でも正しい理論になるはずで、 そこに誤謬は含まれていない。 要するに、そこには科学的に意味のある新発見はないというだけの話。 『強い者は生き残れない』って本が言っていることも 「強者 ≠ 最適者」ということであって、 言葉の定義上、最適者生存への反証にはなっていない。 「強者ならば最適者だ」という命題が偽になったんだから反証されたんだって? じゃあそもそもその命題の「強者」とは何を意味していたの? 一見して強そうに見えること? 喧嘩が強いこと? 背が高いこと? ・・・そうに見えるって、それ、主観だよね。 喧嘩が強いって・・・それは喧嘩がその生存関係のすべてならばね。 背だってそうでしょ。 けっきょく「強者」っていう見方が誤っていた、つまり偽ならば、 この命題そのものが成りたたない。 たとえば、サッカーでAというチームとBというチームがあって、 どっちのチームがサッカーという試合環境の中で強いかって分かる? Aのほうが強いとか弱いってことが誰の目にも真になるにはどうする? けっきょく試合をして結果を観察しないといけないでしょ。 Aのほうが強いが真だったのに、それが覆されてBが勝ったのなら、 Aが真だった判断がそもそも間違っていた(偽だった)と考えるべきじゃね? 「Aが真ならばBも真だ」という命題を科学的に検証する場合、 まずAが真かどうかの観測結果を得て、 Aが真だとわかったら、その「ならば」が成り立つかどうか 次にBが真かどうかの観察結果を得る、ということでしょ? Aがアプリオリに真だってのは科学的にはありえない。 それは形而上学。Aが真だとするにはちゃんと観測結果が必要。 強いか弱いかなんかどーでもいい。 うまく子孫を残せるか。 >>73 何度も指摘されているんだけど読んでないのかな? それとも都合が悪いから怒涛のレスで流そうとしているのかな? ポパー自身が適者生存がトートロジーであるという主張を撤回しているんだよね >>48 に書いてあるような理由でさ これをどう思う? 都合が悪いからまた無視するかね? それともポパーよりキミのほうが正しいと? しかしながら>>71-72 で引用される記事からも分かるように 大多数の科学者は自然選択説(適者生存)はトートロジーではないと答えるし ポパーも自然選択説はトートロジーではないと答えているわけだ キミはそれでも自分の論理構成に間違いがあるかもとは微塵も思わないわけ? >>78 適者生存の命題は、「適者が生き残る」ではないって前スレの981で指摘したはずだが 読んでないのか理解できなかったのか あるいはほとぼりが冷めたから(スレッドが変わったから) 何も聞かなかったことにして無視しているのか きりがないな どんな理屈もトートロジーになる。 創造論もキリスト教もトートロジー。 科学理論がトートロジーにならないのは、可観測量に帰着し、実証で真偽を問えるからだ。 アングレカム(蘭)とキサントパン(蛾)の関係は ふつうによくある相利共生の一例にすぎず、 相利共生の存在自体は進化も自然選択も関係なく 生物学者なら誰でも認め、予測できることだろうけどね。 共進化が存在したとするためには別の証拠が必要だしね。 ポパーのことが持ちだされているけど、 言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう 論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。 ポパーもどうも曖昧な言い訳をしている。 彼は進化そのものを否定する創造論者と同じと見なされるのは 心外だったようだ。 共進化という概念なしに、どうやって相利共生を説明し、予測するんだい? つまり、そういう議論の組み立て方はポパーには 誤謬がなかった、という前提にもとづいている。 その点では、ポパーがそうみなしたのだから 自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは 同じ権威主義に陥った議論で、 皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >>89 たとえば「擬態」というのもあるよね。それも共生の一種。 擬態という誰の目にも観察できる現象でもって、 自然選択理論が自動的に導かれるわけではない。 ポパーは、自然選択という考え方が反証可能だと理解した、というだけだよ。 要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 適応はトートロジー、という意見に対して、ポパーが科学哲学的に明快な回答を出してるからさ。 >>93 擬態はふつう相利共生とはみなせないけれども 片利共生とはみなせる。 例えば、カマキリがある種の草のような形状をしているのも 草の側には利得はないかもしれないが、カマキリにはある。 >>93 擬態も共生も自然選択理論からみれば その理論で説明できるとされるものでしょ? だから同じこと。 ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、 その話をするとまたややこしくなる。 その科学哲学は彼の批判的合理主義(非正当化主義)から来てている。 ポパーの反証主義に立つと、ダーウィンの理論に対して多くの批判があり、 それに対してダーウィニストが開かれた議論や反論をしていることが ダーウィンの理論が科学であることの証とみなすようなもの。 ダーウィンの理論がいろいろな批判に曝されているということが 逆にダーウィンの理論が科学的であることを保証している。 それが反証主義。 反証主義ってのは「批判を積極的に受け入れますよ」 「反論の余地を用意していますよ」 「批判に対して開かれた議論をしますよ」 「批判を誠実に深刻に受け止めますよ」 っていうような態度のこと。俗っぽくいえばね。 >>95 あなたの言葉でいいからその明確な回答ってやらを 正々堂々とここに書けばいいのに。 命題がくつがえされる可能性があればあるほどいいの。 それが反証可能性が高いってこと。 そういう命題ほど科学的だったわけ。 >ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、 科学の方法論を否定するものじゃないですよ。 科学と非科学の線引き問題なので。 >>103 ではなくて、反証可能な立論であるかどうか、ですね。 >>105 命題を覆すことが、客観的な証拠をもって可能であるかどうか、が問題なんです。 信仰は、それが不可能なので、科学の理論ではないわけです。 ポパーの反証主義は、その反証主義自体も科学的仮説なのか? それとも形而上学なのか? という疑問を当然引き起こす。 >>105 この病気は、なんらかの病原菌によるものだ、という主張より、 Aという病原菌によるものだという主張の方が反証しやすいので、よりよい主張だという言い方はできますけどね。 >>106 科学的方法論の内実を批判したんだよ。たとえば包括的合理主義を。 >>109 科学哲学、科学という営為の、考え方の手続きの話です。 >>110 適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 それはあまりにも数学的に真で、誤謬が入り込む余地がない。 >適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 そうじゃないですよってことは、>>84 さんが繰り返し説明してくれてるじゃないですか。 >>112 だから科学的な方法に関する考え方や哲学にも 反証可能性がなければいけないでしょ? >>115 その説明はこちらの反論に答えられていないでしょって話。 >>116 哲学についての反証可能性って、なんですか? ポパーのそれとはまったく別物なのはわかりますがw ポパーの反証主義は、徹底した帰納主義批判で知られている。 それはヒューム以上に徹底している。 これはそれまでの科学的方法論をラディカルに覆すようなもの。 帰納はわずらわしいので、もっとすっきりさせようということでしょうね。 >>84 さんは分子進化の中立説(遺伝的浮動)についても どうやら正しい認識を持っていらっしゃらないようだし。 ・それはあなたのほうでしょう。 ・ポパー、仮説演繹法を否定してます? ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめるのは、 ダーウィンの理論に対して常に批判的で、それが反証される可能性について 常に開かれた態度をとっている必要があるんだよ。 ポパーはそういうことを主張して、 科学を科学として健全に発展させるのはそれだけだとした。 >>124 ヒュームは帰納法に対して懐疑主義的な立場をとった。 >ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめる これがもうダメなの。 ダーウィンの理論が反証可能なのかどうか、という話でしょ。 >>114 ポパー学派が、実証主義、検証主義、帰納主義といった科学的方法論に対して 批判的な意味で使った概念です。 >>127 もともとは「適者生存」「適者繁殖」がトートロジーかどうかって話。 >>84 さんが「pならばqだ」命題の形にしたので じゃあ、適者生存を「適者ならば生存する」という命題にしたらどうだって話になった。 ダーウィンの自然選択理論そのものを否定するつもりはないよ。 こちらが創造論を主張したことなんかあったっけ? ポパー学派は、なぜ科学的方法論を批判したんですか? >>129 自然選択理論はトートロジーではない、わけなので。 >ポパーのことが持ちだされているけど、 >言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう >論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。 >その点では、ポパーがそうみなしたのだから >自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと >ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは >同じ権威主義に陥った議論で、 >皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 >>48 の再掲部分や>>71-72 は「ポパーが撤回したから」ではなく なぜ自然選択がトートロジーでないかを明確に説明しているように思うが ID:a85LVWdJが 「ほぼ中立説」の名前を出してきたのは実に面白かった 中立説だったらね、 「これは適応度に差がない、つまり自然選択説の言及しない部分だから〜」 って理屈もまあ分かるんだ (正しくはないが気持ちはわかる) だが「ほぼ中立説」は 弱有害遺伝子も生き残る(そしてそれを検証するには〜)という理論 つまり「ほぼ中立説」の存在そのものが ・適応度に差がある状態で適者じゃないもの(弱有害遺伝子)が生き残ることがあり得る ・そしてそれを検証する方法がある ということを示しているわけ まあ中身なんか実際のところ知らないか理解してないかなんだろうけど そういう「ほぼ中立説」に触れたその口で 「適者が生存する」は常に正しいんだ!生き残った者を適者と言うんだ! なんて主張しちゃうのが実に面白かった これ一つとってもトートロジーくんが無知ゆえの論理破綻してるのは明らかだが 時間がある時にまた論点を整理しようと思う ダーウィンの自然選択説っていうのは、生物の多様性(種の多様性)を説明するための理論で 1.繁殖集団内の個体には形質の違いが生じる 2.形質の違いによって特定環境下で生存率や繁殖率が異なることがある ←これが狭義の自然選択 3.形質は遺伝することがある 4.遺伝した形質の中で相対的に生存率・繁殖率を高めることに寄与した形質は繁殖集団内に広がる 5.有利な諸形質は累積し、やがて生殖隔離・種分化を起こすことがある という一連の反証可能な仮説から成り立っているのだから この一連のプロセスをすっ飛ばした「適者生存」ということばの表面的な表現だけを 取り上げてトートロジカルだと言っても意味ないよね 議論が白熱しているようですが、創造論の証拠は出ましたか? 聖書に創造論は必須でない >>10 局地洪水説を採用すれば進化論も取り入れることができる ダーウィンの自然選択仮説は、 =遺伝+変異+形質間の繁殖率の差異+交配集団の隔離 でだいたい成り立っている。 「ほぼ中立」とは交配集団の規模によって中立と弱有害との間を動くもののこと。 つまり、交配集団の規模が大きければ弱有害となって自然選択が有効に働くが、 集団の規模が小さくなると遺伝的浮動によって弱有害ではなくなり中立になって 自然選択が有効に働かなくなる。 それが属する交配集団によって中立と弱有害との間を変動しうる表現型があるということ。 この想定によって中立説を補完することができる。 >>133 言葉を厳密に使わなければいけないとすれば、 自然淘汰の働かないものを弱であろうが「有害」と呼ぶのはおかしい。 中立というのは自然選択が働かないということを意味するのだから。 しかしある表現型がそれが属する集団を含めた環境によって 弱有害になったり中立になることがあるとすればどうだろうか? つまり、中立と弱有害との間を動くとしたら。それが「ほぼ中立」というもの。 これで明らかなように、ほぼ中立というのは 弱有害にもかかわらず働くはずの自然選択が働かない ということではない。 弱有害であるのに繁殖率が維持されるか高まるケースがあると 「ほぼ中立」説は言いたいわけじゃない。 もしもそう言いたいなら「ほぼ中立」説は自然選択理論を反証しようと していることになるだろうが、そうではないし、 そんな反証はそもそも命題の定義上成りたたない、ということは再三書いたはず。 >>137-139 進化学、というか中立説が基盤としてる集団遺伝学の基礎を知らずに 「生き残ったものがどんな性質であれ適者なのだ」 というキミオリジナルの間違った定義に合うように無理やり はめ込んでどんどんおかしな方向に言ってる感じがするな ネットで主流の仮説を否定するトンデモさんにありがちな傾向 いちおうちょっと基礎の話をするね >>137-139 のような素人さん向けの解説 集団遺伝学では淘汰係数sや集団の大きさNで集団の動態を記述して ある形質が100%になる(固定される)確率を記述するわけだが… 集団の大きさNが小さければ淘汰係数sが不利な設定でも固定される確率が高まる しかしこの式ではsの値は同じなわけ 有利か不利かってのはこのsの値で定義されることであって 生き残ったか否か(固定されたか否か)の結果で定義されるものではない つまり 集団の大きさで有利か不利かが変わるわけじゃないし こういう集団遺伝学の方式+観察結果によって組み立てられた太田のほぼ中立説も同じだよ 集団が小さければ弱有害のものも中立のものと同じように扱えるという意味で 集団が小さければ中立の割合が増えるので〜 みたいな表現をすることもあるかもしれないが そりゃ素人さんに分かりやすく説明するためのもの 上記の根拠というか補強として、 ほぼ中立説ってのは 弱有害遺伝子が集団の中で固定される確率が集団の大きさに影響を受けるので 集団の大きさによって進化速度に違いが出るだろうという話 大きい集団では自然選択の効果が大きく働き 小さい集団では自然選択の効果が小さくなり 弱有害遺伝子の固定される確率は小さい集団ほど大きくなり その結果として進化速度に違いが出るわけだが まず「固定される確率」というところがミソ 中立説もほぼ中立説も、、、というか集団遺伝学では 「生き残る」「生き残らない」の二元論ではなく確率として表現される 不利なものでも固定される確率はあり、有利なものでも固定されず消え去る確率はゼロではない それは集団の大きさにかかわらずそうで、 この大きさから中立になるという話ではないし、 そもそも確率なので 中立よりも低い(中立として扱えない)固定確率でありながら 集団中に固定されることもありえ、 それが遅いとしてもゼロではない進化速度として観察されるだろうって予測になってるわけで… ……書きかけたが、やっぱ難しいかな 不利でも生き残る/ただし確率は低い って言われて 「生き残った=有利」「生き残らない=不利」の二元論で考える人にいきなり理解しろっつうのは >> ID:c07q1NbP 補足 以前のレスと今回のレスを見てちょっと気になったのだが 基本的に、特定の科学的仮説ってのは 別の仮説を反証する目的で立てられるわけではないよ 自然選択説にしろ中立説にしろ、科学的仮説ってのは 世界の背景に横たわる法則・原理・原則を明らかにしようとする目的で データをもとに仮説を立て、さらにデータを集めて検証し、 その結果として何か別の説の反証になることもあるというだけの話 何かの仮説を否定するのは、いつも実験や観察そのものだ 自然発生を否定したのはパスツールの「実験」 獲得形質の遺伝を否定した(異論はあるが)のもヴァイスマンの「実験」 スタップ否定も実験だったな 中立説が自然選択説を反証する目的で建てられたのではないって そりゃ当たり前だしそんな話はしていない そうではなくて、 中立説やほぼ中立説が集めたデータが 自然選択説の一部を反証した(修正させる至った)という話 あ、 「全部反証できなきゃ反証可能じゃない」ってのもキミオリジナルの間違った定義だよって指摘したっけ? そういえば以前ポパーの名前を出したのは 別にポパーが言ってるからって理由で反証可能だと述べてるわけじゃなくて (>>132 で書いてくれた人がいるように、それ以前に説明済み) 「それ言ってるのキミだけなのにキミは自分が間違ってると微塵も思わないの?」 って文脈だったんだけど全然効果がなかったね さして生物学勉強してるわけでもなさそうなのに 相手が遺伝的浮動を理解してないって言っちゃうのもそうだけど その自分が間違ってるはずがないっていう強固な信仰じみたものはどこからくるんだ? 自然選択説とは、ある遺伝子がその複製をどれだけ遺せるかは、 その遺伝子が置かれた広い意味での環境に依存する、という説。 つまり、ある遺伝子の有利・不利・有益・有害の差とその度合は、 その生理環境、「生殖集団環境」、生息環境等の環境総体に依存して決まり、 不変的なものではなく相対的なものである、ということを主張している。 ある遺伝子が中立になるか有害になるか有益になるかは、 それが置かれた環境に左右されて決まるものなので固定値ではない。 一つの遺伝子が環境によって非常に有害になったりやや有害になったり 非常に有益になったりやや有益になったり中立になったりする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる