創造論と創造科学とID論と進化論Part102
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>一目瞭然、中立説は自然選択説と争うところがない。
変異が、集団に広まるメカニズムについては? ただし現代のネオダーウィニストの理論においては
遺伝子プールの集団の大きさも前提条件に加味されている。 プール内の頻度変化について、遺伝的浮動と自然選択は対立するでしょ? 進化そのもの(生物の形質が代を経てどんどん変化すること)は、
形質に影響を及ぼす遺伝子の変異とその蓄積だけで説明できるから、
そもそも自然選択理論はいらない。
進化そのものの説明には自然選択も神の設計もいらない。
生物は自分の完璧なコピーを遺せるほど精密にできないってことだけで
説明できちゃう。
自然選択理論が必要になるのは適応進化について。
典型的には例えば昆虫の擬態のような形質を説明するには
ダーウィンの理論が必要。 「反証」ってのはそれが対象とする理論(仮説)を「真」でなく「偽」だ
と説明できるようなものでないとその資格がない。
つまり「自然選択理論は偽だ」と言い切ることができるかどうかが反証可能性。
ずるずる生き延びらせるようじゃ反証可能性じゃない。 ダーウィンの理論の核心である「共通祖先からの分岐」について、ダイレクトに自然選択が関わってきますよ。
変異だけでは、方向を指示できませんからね。 適応万能論という理論(仮説)は誤っていると実証することも、反証です。 「神は実在する」と主張する人に対して、
「私は神に毎日お祈りしていますが、不幸と災難に遭いましたよ」
という証拠を提示すれば、反証になる?
なるならば神の実在説は反証可能性がじゅうぶんにあることにならない? まず、神が実在するという証拠の提示が必要になります。
思うとか、聖書に書いてあるじゃだめですから。 ポパーの反証主義というのは、反証ができない形式の主張は科学理論ではない、ということであって、
神が実在するという信仰は、そういう意味で反証不能なんですけどね。 >>40
仏教なら因果
聖書系なら神が試してる、となるからならない
ヨブ記でもよむがいい >>45
そう。だから>>40では完全な反証にならない。
完全に「偽だ」と言える反証命題が立てられない命題は反証可能じゃない。 36 ご冗談でしょう?名無しさん 2017/10/05(木) 22:04:11.58 ID:B2oYIVx2
次スレ立つとは思わなかったんだけど
せっかくなので適者生存と同義語反復の話をもうちょい語るか
まずは
前スレ>>990で述べたことがスルーされているようなので再掲
以下再掲
自然選択説は実証科学として予測も発見もできるし
【実 際 に さ れ て い る】わけよ
たとえばダーウィンは自然選択説に基づいて
ある花に適応した、口吻の長い未発見のガの存在を【予測】し、
後年、実際にそのガは【発見】されたわけ
実 際 に 予 測 と 発 見 を も た ら し て い る
わけだから
自然選択説が予測も発見ももたらさない反証不能な同義語反復だ
っていう言説はまさしく反証されているわけだ
以上再掲
ポパーも
同義語反復であればそうはならないはずなのに
実際には自然選択説が予測やそれに基づいた新たな発見をもたらすことに気づき
何かが(自分の言説のどこかが)間違っていると感じ
最終的には適者生存の原理こと自然選択説が同義語反復であるという主張を撤回した
バスケの例はあとでちょい訂正が必要だと感じているが
とりあえずそういう“お話”をする前に
実際問題として自然選択説が
(同義語反復であれば不可能なはずの)予測と発見をもたらしたという現実に目を向け
どこかがおかしいという認識くらいは持ってほしいよね
同義語反復を主張する人にはさ >>27ほか、 ID:MIpCMq+d
なんかいくつか勘違いしてない?
まず
分子進化の中立説ってのは
“表現型に現れないならば”
という前提をもとに組み立てられたものではないよ
分子データ(当時はアミノ酸配列)を系統間で比較したときに
その観察結果から
「少なくとも分子レベルの進化は中立的な変異が主役である」
と導かれたもの
表現型に現れないものがどうこうってのは
後になってデータが集まってきたときに補完的に追加された言及であって
提唱された時点では
表現型に現れる変化も大部分が中立的である
という目もあったわけ
そうであれば自然選択説は大打撃を受けたであろうし
場合によっては全てが中立的な変化でしかなかった
という全否定もありえた
つまり反証可能だったが反証されなかった
結果的に部分的な反証に留まったに過ぎないんだよ
そのうえで現在のようなすみ分けに至ったわけ
今現在において一目瞭然に争うところがないのは
集まったデータの結果そこに落ち着いたというだけで
最初から分子と表現型、
自然選択にかかるものとかからないものとを分けていたわけではないし
集まったデータ如何によっては全否定されることもありえた
つまり反証される可能性があったわけよ そもそも>>32も述べているように
一旦は自然選択説そのものが否定されたこともある
たとえばメンデルの法則が発見されたときは
そのデジタル的な遺伝法則と自然選択説のアナログ的なロジックがうまく折り合わず
自然選択によって現在の形になったというダーウィンの自然選択説は廃れた
データを集め、メンデル遺伝と量的形質を結びつけることができることが分かった結果、
自然選択説はネオダーウィニズムとして復権を果たしたが
もし、量的形質の遺伝メカニズムが、このときに仮定され検証されたものと違っていたならば
自然選択説は廃れたまま、つまり完全に反証されていただろう
さて、
自然選択説はID:MIpCMq+dにとって反証不能の命題のように見えるかな?
だとすればそれは間違いだ
データ如何で反証される可能性はあったが、
その目を「データの追加(=検証)」によって一つ一つ潰してきたからであって
(それはまさに正統派の科学的方法論と言える)
反証・反論のたびにデータなしに主張を後出しで変える(>>45で挙げられているような事例)ものとは構造が違う
反証・反論が原理的に不可能なのではないよ
ってか
完全に「偽だ」と言える反証命題が立てられるか否かって、
ID:MIpCMq+dのオリジナルの解釈っぽいけど
自然選択説をどうしても反証不能ってことにしたいあまりに
他の科学的仮説も反証不能になるような解釈をしちゃってないか?
その解釈で原子説や地動説やビッグバン仮説や相対性理論や
分子進化の中立説は反証不能になるのか? 自分の文章を読み返して思ったが>>50の
「廃れた」という部分はやや言いすぎだな
「メンデル学派によって激しい批判にさらされた」程度にしておくか
そのときのデータ如何によっては完全否定されかねなかったのは変わらないので
まあ些細なことだが 一般に言われているのは、ダーウィンの自然選択説というのは
メンデルの実験によって補完されたんだ、救われたんだ、
という話ですけどね。
ダーウィンの発見と当時代の発見だったにもかかわらず
残念なことにダーウィンはメンデルの法則を知らなかったといわれている。
てか、メンデルの法則自体、学界で認められ始めたのはメンデルの死後
だったんじゃなかったかな? メンゲル学派は、単に、漸進説に対する突然変異説の論争を
巻き起こしただけじゃなかったかな?
それらはダーウィニズムの間で現代でも似たようなものが
しばしばある論争で、淘汰は集団に働くのか個に働くのかとか、
進化の速度は漸進的か断続的かみたいなね。 メンデル遺伝だと、遺伝子は混合せず粒子のように伝えられ、生物の性質は不連続となって
自然選択説が言う漸進的な変化は起こりえない、という否定の仕方ですね。
そこに、突然変異による遺伝子の変更が加わり(中略)
結局、選択による漸進的な変化が認められるようになりますが、
このあたりは極めて初期の経緯で、集団遺伝学成立後の論争とは内容もレベルも異なります。 まあメンデル周辺の細かい話にいくらかツッコミの余地はあるとしても
>>49で中立説関連での反証可能性に触れてるから
俺の主張としては特に問題ないな
自然選択説は
データ如何で反証される可能性があったけれども
データの追加によってその目を一つ一つ潰してきた
という
まさに正統派の科学理論である
という点は結局揺るがしようがないわけだからね
これは>>52-54に向けて言ってるわけではなくて
確認事項を述べているだけね
いや、自然選択説をどうにかして
科学理論と違う何か(反証不能だとか論理がどうとか)にしたい人がいるようなので
念のため、ね >>52-54
補足しておくと
メンデル学派からド・フリースやらの突然変異説が出てきたわけだね
突然変異説は自然選択という現象自体は認めていて、
対立するのは漸進説に対してではあるけれども
新種の形成に関して
突然変異でいきなり別種が生じ、
自然選択は種の形成ではなくその維持にかかわるという主張で
自然選択によって進化してきたと述べるダーウィンの自然選択説とは異なるシステムと言えるね おっと>>53
進化の速度が漸進的か断続的かとか
淘汰が集団に働くかどうかとかって
既に現代の話と言うには若干古いような…
そんなのもう論争になってないぞ なんとなく賢そうな語り口を使えば信じてもらえる、という時代は終わったよね >>57の続き
そして、突然変異は遺伝子プールに多様性をもたらすものと捉えることで、再度連続性を獲得するわけですな。 >>49
中立説は、分子進化の多くは表現型に影響しないという主張なんだから
けっきょく表現型じゃないって言っているも同然なんだよ。
仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり
「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に
抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。
ここでもほぼ中立説の立場に立つ筆者さん(太田氏か?)が
次のようにお書きになっている。
https://www.nig.ac.jp/museum/evolution/01_a.html
> 中立説というのは表現型とは関係ないということを強調したものでした 木村氏はそもそも自然選択理論を反証しようとして
中立説に訴えられたんだろうか?
中立説と自然選択説との間の論争は、
いわば、木村氏の理論に対する無用な誤解にもとづくもので、
論争の集結はその誤解が解けたということに過ぎなかったんじゃなかったか?
学術論争というものには多々そうしたものがあるのは事実だが、
それを命題上の反証論争と勘違いしてはあかんよ。 >仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり
>「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に
>抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。
表現型に現れても中立なの?
そうなら、それがなぜ自然選択と対立しないの? 中立なら表現型でもダーウィンの理論に抵触しないでしょ。
でないならなんで中立だと主張する必要があるの?
生存環境において不利な表現型でも淘汰されないよって主張したら、
ダーウィンの理論を反証するものになるけどね。
そうじゃないから中立だって話でしょ。反証するつもりなら中立説って言うべきじゃない。 でもさあ、よく考えてみてよ。
不利か有利かどうかってのは淘汰されてはじめて判断できるものでしょ。
意味的にかぶっている。
どうやって反証するの? 「中立説」は表現型とか関係ないってことは、わかってるよね。 >>66
環境と個体の変化の関わり、繁殖率の遷移をみれば推定できるでしょう。 そもそも淘汰=繁殖率でしょ。
繁殖率が高まれば正の淘汰、低まれば負の淘汰。 保守系コメンテーターであるTom Bethellは、昨年12月のNational Review Onlineで、主たる点を明解に表現した:
『ダーウィンの名声は進化のメカニズムの発見によるものだ。彼は"適者生存"を自然選択の理論のよい概要として受け入れた。
しかし、何が適者なのか? それは生存したものだ。生存と独立した適者の基準はない。 何が起きようとも、定義上、適者は生存する』
適者をどう定義するかの詳細を考える前に、まずこの論の怪しい点に注意しなければならない。
CoulterとBethellはここで、最近の発見が進化を不適切な理論だと示したとは言っていない。
そうではなく、彼らは科学者が単純な論理的不注意をしたと主張している。
Bethellが同じ論を提示した Harper's Magazineの記事に対する反論として、古生物学者Stephen Jay Gouldは次のように書いた:
『Bethellの論は大多数の活動中の科学者にとって奇妙なリングを持っている。
我々は常に、新しいデータの結果によって理論が崩壊するのを見る用意ができている。
しかし、その構築のときの論理エラーによって影響力の大きい理論が崩壊するとは考えていない。』
本当に。科学者は結論に飛びつたり、不適切なデータから誤った理論に到達することは大いにある。
しかし、科学史上で、賢明な外部からの論理的不注意に気づいただけで、主流の座に着いた理論が分解してしまったことは一度もない。
進化論がトートロジーだと示唆するCoulterとBethellの構成は、彼らが攻撃対象としている理論を理解していない
(あるいは、意図的にゆがめているかだが、これは我々は考慮しない)
では、可能な限りもっとも直接的な形でこの論に反論しよう。
進化論では生存したものが適者だと定義されていると主張されている。
これは、論の要点である、そして完全に間違っている。
実際には、適者とは、身体的特徴と彼らが見つかる環境に基づいて、最も多く子孫を残すと期待されるものだ。
これをGouldは次のように説明した: 『私のダーウィンの擁護論は、別に驚くようなものでも、目新しいものでも、深いものでもない。
私は、ダーウィンは自然選択のアナロジーとして動物のブリーディングを挙げたことは正当だったと主張するだけだ。
人為淘汰における畜産家の要求は、集団にとっては"環境の変化"を意味する。この新しい環境では、ある特徴はアプリオリに優れている。
それらは畜産家の選択によって生存し、増殖する。それは適応性の結果であって、定義によるものではない。
自然においては、ダーウィンの進化は、同じく環境の変化への応答である。
今やキーポイントは:特定の形態や、生理的あるいは行動の特徴が、
新たな環境で生きていくためのデザインとして、アプリオリに優れていなければならない。
これらの特徴はエンジニアの基準で適応となるのであって、彼らが生き残って増殖したという経験的事実からではない。
ウーリーマンモスが毛皮を進化させる前に、寒冷化したのだ。』
ある生物集団が見つかる場所の環境についての完全な情報が我々にあるとしてみよう。
さらに、我々は集団において、遺伝可能な変種の範囲を完全に知っているとしよう。
この状況下では、我々は集団の将来の進化について、確定的なことが言える。
一群の科学者がこれらの情報を調べて、集団のメンバーのどれが最適者であるかのコンセンサスに到達できる。
これがただ生存したということの独立な、適者の基準となる。
しかし、これがすべてではない。将来の予測は進化生物学のほんの一部にすぎない。
進化の興味深いイベントの大半は、遠い過去に起きている。
過去が科学者に提示する問題を解明し説明することは、前のパラグラフで考えたこととは正反対になる。
現在の環境について与えられた情報によって、種の将来の進化を予測しようとするかわりに、
今度は我々は、生存した生物の種類から与えられる情報によって、先祖の環境を理解しようとする。 何度も指摘しているのに未だに勘違いしている人がいるけど、
トートロジーであったとしてもそれはその命題が「偽」であることを
意味しないということだよ。わかるかなあ?
何度も書いていることだよ。
適者生存の命題がトートロジーならば、それは論理的帰結として常に「真」になる。
適者生存自体は間違った理論じゃないんだよ。わかるかなあ? アプリオリに優れているというのは形而上学。
科学的であるかぎりは、けっきょく
それが何によって客観的に確定するか、
つまり誰の目にも客観的に観測されるものでなければならない。 適者生存は論理的にも現実上でも正しい理論になるはずで、
そこに誤謬は含まれていない。
要するに、そこには科学的に意味のある新発見はないというだけの話。 『強い者は生き残れない』って本が言っていることも
「強者 ≠ 最適者」ということであって、
言葉の定義上、最適者生存への反証にはなっていない。 「強者ならば最適者だ」という命題が偽になったんだから反証されたんだって?
じゃあそもそもその命題の「強者」とは何を意味していたの?
一見して強そうに見えること? 喧嘩が強いこと? 背が高いこと?
・・・そうに見えるって、それ、主観だよね。
喧嘩が強いって・・・それは喧嘩がその生存関係のすべてならばね。
背だってそうでしょ。
けっきょく「強者」っていう見方が誤っていた、つまり偽ならば、
この命題そのものが成りたたない。 たとえば、サッカーでAというチームとBというチームがあって、
どっちのチームがサッカーという試合環境の中で強いかって分かる?
Aのほうが強いとか弱いってことが誰の目にも真になるにはどうする?
けっきょく試合をして結果を観察しないといけないでしょ。
Aのほうが強いが真だったのに、それが覆されてBが勝ったのなら、
Aが真だった判断がそもそも間違っていた(偽だった)と考えるべきじゃね? 「Aが真ならばBも真だ」という命題を科学的に検証する場合、
まずAが真かどうかの観測結果を得て、
Aが真だとわかったら、その「ならば」が成り立つかどうか
次にBが真かどうかの観察結果を得る、ということでしょ?
Aがアプリオリに真だってのは科学的にはありえない。
それは形而上学。Aが真だとするにはちゃんと観測結果が必要。 強いか弱いかなんかどーでもいい。
うまく子孫を残せるか。 >>73
何度も指摘されているんだけど読んでないのかな?
それとも都合が悪いから怒涛のレスで流そうとしているのかな?
ポパー自身が適者生存がトートロジーであるという主張を撤回しているんだよね
>>48に書いてあるような理由でさ
これをどう思う?
都合が悪いからまた無視するかね?
それともポパーよりキミのほうが正しいと?
しかしながら>>71-72で引用される記事からも分かるように
大多数の科学者は自然選択説(適者生存)はトートロジーではないと答えるし
ポパーも自然選択説はトートロジーではないと答えているわけだ
キミはそれでも自分の論理構成に間違いがあるかもとは微塵も思わないわけ? >>78
適者生存の命題は、「適者が生き残る」ではないって前スレの981で指摘したはずだが
読んでないのか理解できなかったのか
あるいはほとぼりが冷めたから(スレッドが変わったから)
何も聞かなかったことにして無視しているのか
きりがないな どんな理屈もトートロジーになる。
創造論もキリスト教もトートロジー。
科学理論がトートロジーにならないのは、可観測量に帰着し、実証で真偽を問えるからだ。 アングレカム(蘭)とキサントパン(蛾)の関係は
ふつうによくある相利共生の一例にすぎず、
相利共生の存在自体は進化も自然選択も関係なく
生物学者なら誰でも認め、予測できることだろうけどね。
共進化が存在したとするためには別の証拠が必要だしね。 ポパーのことが持ちだされているけど、
言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう
論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。
ポパーもどうも曖昧な言い訳をしている。
彼は進化そのものを否定する創造論者と同じと見なされるのは
心外だったようだ。 共進化という概念なしに、どうやって相利共生を説明し、予測するんだい? つまり、そういう議論の組み立て方はポパーには
誤謬がなかった、という前提にもとづいている。
その点では、ポパーがそうみなしたのだから
自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと
ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは
同じ権威主義に陥った議論で、
皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >>89
たとえば「擬態」というのもあるよね。それも共生の一種。
擬態という誰の目にも観察できる現象でもって、
自然選択理論が自動的に導かれるわけではない。 ポパーは、自然選択という考え方が反証可能だと理解した、というだけだよ。 要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 適応はトートロジー、という意見に対して、ポパーが科学哲学的に明快な回答を出してるからさ。 >>93
擬態はふつう相利共生とはみなせないけれども
片利共生とはみなせる。
例えば、カマキリがある種の草のような形状をしているのも
草の側には利得はないかもしれないが、カマキリにはある。 >>93
擬態も共生も自然選択理論からみれば
その理論で説明できるとされるものでしょ?
だから同じこと。 ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、
その話をするとまたややこしくなる。
その科学哲学は彼の批判的合理主義(非正当化主義)から来てている。 ポパーの反証主義に立つと、ダーウィンの理論に対して多くの批判があり、
それに対してダーウィニストが開かれた議論や反論をしていることが
ダーウィンの理論が科学であることの証とみなすようなもの。
ダーウィンの理論がいろいろな批判に曝されているということが
逆にダーウィンの理論が科学的であることを保証している。
それが反証主義。 反証主義ってのは「批判を積極的に受け入れますよ」
「反論の余地を用意していますよ」
「批判に対して開かれた議論をしますよ」
「批判を誠実に深刻に受け止めますよ」
っていうような態度のこと。俗っぽくいえばね。 >>95
あなたの言葉でいいからその明確な回答ってやらを
正々堂々とここに書けばいいのに。 命題がくつがえされる可能性があればあるほどいいの。
それが反証可能性が高いってこと。
そういう命題ほど科学的だったわけ。 >ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、
科学の方法論を否定するものじゃないですよ。
科学と非科学の線引き問題なので。 >>103
ではなくて、反証可能な立論であるかどうか、ですね。 >>105
命題を覆すことが、客観的な証拠をもって可能であるかどうか、が問題なんです。
信仰は、それが不可能なので、科学の理論ではないわけです。 ポパーの反証主義は、その反証主義自体も科学的仮説なのか?
それとも形而上学なのか? という疑問を当然引き起こす。 >>105
この病気は、なんらかの病原菌によるものだ、という主張より、
Aという病原菌によるものだという主張の方が反証しやすいので、よりよい主張だという言い方はできますけどね。 >>106
科学的方法論の内実を批判したんだよ。たとえば包括的合理主義を。 >>109
科学哲学、科学という営為の、考え方の手続きの話です。 >>110
適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。
それはあまりにも数学的に真で、誤謬が入り込む余地がない。 >適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。
そうじゃないですよってことは、>>84さんが繰り返し説明してくれてるじゃないですか。 >>112
だから科学的な方法に関する考え方や哲学にも
反証可能性がなければいけないでしょ? >>115
その説明はこちらの反論に答えられていないでしょって話。 >>116
哲学についての反証可能性って、なんですか? ポパーのそれとはまったく別物なのはわかりますがw ポパーの反証主義は、徹底した帰納主義批判で知られている。
それはヒューム以上に徹底している。
これはそれまでの科学的方法論をラディカルに覆すようなもの。 帰納はわずらわしいので、もっとすっきりさせようということでしょうね。 >>84さんは分子進化の中立説(遺伝的浮動)についても
どうやら正しい認識を持っていらっしゃらないようだし。 ・それはあなたのほうでしょう。
・ポパー、仮説演繹法を否定してます? ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめるのは、
ダーウィンの理論に対して常に批判的で、それが反証される可能性について
常に開かれた態度をとっている必要があるんだよ。
ポパーはそういうことを主張して、
科学を科学として健全に発展させるのはそれだけだとした。 >>124
ヒュームは帰納法に対して懐疑主義的な立場をとった。 >ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめる
これがもうダメなの。
ダーウィンの理論が反証可能なのかどうか、という話でしょ。 >>114
ポパー学派が、実証主義、検証主義、帰納主義といった科学的方法論に対して
批判的な意味で使った概念です。 >>127
もともとは「適者生存」「適者繁殖」がトートロジーかどうかって話。
>>84さんが「pならばqだ」命題の形にしたので
じゃあ、適者生存を「適者ならば生存する」という命題にしたらどうだって話になった。
ダーウィンの自然選択理論そのものを否定するつもりはないよ。
こちらが創造論を主張したことなんかあったっけ? ポパー学派は、なぜ科学的方法論を批判したんですか? >>129
自然選択理論はトートロジーではない、わけなので。 >ポパーのことが持ちだされているけど、
>言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう
>論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。
>その点では、ポパーがそうみなしたのだから
>自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと
>ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは
>同じ権威主義に陥った議論で、
>皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。
>要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。
>>48の再掲部分や>>71-72は「ポパーが撤回したから」ではなく
なぜ自然選択がトートロジーでないかを明確に説明しているように思うが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています