創造論と創造科学とID論と進化論Part102
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ポパーの反証主義に立つと、ダーウィンの理論に対して多くの批判があり、 それに対してダーウィニストが開かれた議論や反論をしていることが ダーウィンの理論が科学であることの証とみなすようなもの。 ダーウィンの理論がいろいろな批判に曝されているということが 逆にダーウィンの理論が科学的であることを保証している。 それが反証主義。 反証主義ってのは「批判を積極的に受け入れますよ」 「反論の余地を用意していますよ」 「批判に対して開かれた議論をしますよ」 「批判を誠実に深刻に受け止めますよ」 っていうような態度のこと。俗っぽくいえばね。 >>95 あなたの言葉でいいからその明確な回答ってやらを 正々堂々とここに書けばいいのに。 命題がくつがえされる可能性があればあるほどいいの。 それが反証可能性が高いってこと。 そういう命題ほど科学的だったわけ。 >ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、 科学の方法論を否定するものじゃないですよ。 科学と非科学の線引き問題なので。 >>103 ではなくて、反証可能な立論であるかどうか、ですね。 >>105 命題を覆すことが、客観的な証拠をもって可能であるかどうか、が問題なんです。 信仰は、それが不可能なので、科学の理論ではないわけです。 ポパーの反証主義は、その反証主義自体も科学的仮説なのか? それとも形而上学なのか? という疑問を当然引き起こす。 >>105 この病気は、なんらかの病原菌によるものだ、という主張より、 Aという病原菌によるものだという主張の方が反証しやすいので、よりよい主張だという言い方はできますけどね。 >>106 科学的方法論の内実を批判したんだよ。たとえば包括的合理主義を。 >>109 科学哲学、科学という営為の、考え方の手続きの話です。 >>110 適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 それはあまりにも数学的に真で、誤謬が入り込む余地がない。 >適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 そうじゃないですよってことは、>>84 さんが繰り返し説明してくれてるじゃないですか。 >>112 だから科学的な方法に関する考え方や哲学にも 反証可能性がなければいけないでしょ? >>115 その説明はこちらの反論に答えられていないでしょって話。 >>116 哲学についての反証可能性って、なんですか? ポパーのそれとはまったく別物なのはわかりますがw ポパーの反証主義は、徹底した帰納主義批判で知られている。 それはヒューム以上に徹底している。 これはそれまでの科学的方法論をラディカルに覆すようなもの。 帰納はわずらわしいので、もっとすっきりさせようということでしょうね。 >>84 さんは分子進化の中立説(遺伝的浮動)についても どうやら正しい認識を持っていらっしゃらないようだし。 ・それはあなたのほうでしょう。 ・ポパー、仮説演繹法を否定してます? ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめるのは、 ダーウィンの理論に対して常に批判的で、それが反証される可能性について 常に開かれた態度をとっている必要があるんだよ。 ポパーはそういうことを主張して、 科学を科学として健全に発展させるのはそれだけだとした。 >>124 ヒュームは帰納法に対して懐疑主義的な立場をとった。 >ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめる これがもうダメなの。 ダーウィンの理論が反証可能なのかどうか、という話でしょ。 >>114 ポパー学派が、実証主義、検証主義、帰納主義といった科学的方法論に対して 批判的な意味で使った概念です。 >>127 もともとは「適者生存」「適者繁殖」がトートロジーかどうかって話。 >>84 さんが「pならばqだ」命題の形にしたので じゃあ、適者生存を「適者ならば生存する」という命題にしたらどうだって話になった。 ダーウィンの自然選択理論そのものを否定するつもりはないよ。 こちらが創造論を主張したことなんかあったっけ? ポパー学派は、なぜ科学的方法論を批判したんですか? >>129 自然選択理論はトートロジーではない、わけなので。 >ポパーのことが持ちだされているけど、 >言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう >論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。 >その点では、ポパーがそうみなしたのだから >自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと >ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは >同じ権威主義に陥った議論で、 >皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 >>48 の再掲部分や>>71-72 は「ポパーが撤回したから」ではなく なぜ自然選択がトートロジーでないかを明確に説明しているように思うが ID:a85LVWdJが 「ほぼ中立説」の名前を出してきたのは実に面白かった 中立説だったらね、 「これは適応度に差がない、つまり自然選択説の言及しない部分だから〜」 って理屈もまあ分かるんだ (正しくはないが気持ちはわかる) だが「ほぼ中立説」は 弱有害遺伝子も生き残る(そしてそれを検証するには〜)という理論 つまり「ほぼ中立説」の存在そのものが ・適応度に差がある状態で適者じゃないもの(弱有害遺伝子)が生き残ることがあり得る ・そしてそれを検証する方法がある ということを示しているわけ まあ中身なんか実際のところ知らないか理解してないかなんだろうけど そういう「ほぼ中立説」に触れたその口で 「適者が生存する」は常に正しいんだ!生き残った者を適者と言うんだ! なんて主張しちゃうのが実に面白かった これ一つとってもトートロジーくんが無知ゆえの論理破綻してるのは明らかだが 時間がある時にまた論点を整理しようと思う ダーウィンの自然選択説っていうのは、生物の多様性(種の多様性)を説明するための理論で 1.繁殖集団内の個体には形質の違いが生じる 2.形質の違いによって特定環境下で生存率や繁殖率が異なることがある ←これが狭義の自然選択 3.形質は遺伝することがある 4.遺伝した形質の中で相対的に生存率・繁殖率を高めることに寄与した形質は繁殖集団内に広がる 5.有利な諸形質は累積し、やがて生殖隔離・種分化を起こすことがある という一連の反証可能な仮説から成り立っているのだから この一連のプロセスをすっ飛ばした「適者生存」ということばの表面的な表現だけを 取り上げてトートロジカルだと言っても意味ないよね 議論が白熱しているようですが、創造論の証拠は出ましたか? 聖書に創造論は必須でない >>10 局地洪水説を採用すれば進化論も取り入れることができる ダーウィンの自然選択仮説は、 =遺伝+変異+形質間の繁殖率の差異+交配集団の隔離 でだいたい成り立っている。 「ほぼ中立」とは交配集団の規模によって中立と弱有害との間を動くもののこと。 つまり、交配集団の規模が大きければ弱有害となって自然選択が有効に働くが、 集団の規模が小さくなると遺伝的浮動によって弱有害ではなくなり中立になって 自然選択が有効に働かなくなる。 それが属する交配集団によって中立と弱有害との間を変動しうる表現型があるということ。 この想定によって中立説を補完することができる。 >>133 言葉を厳密に使わなければいけないとすれば、 自然淘汰の働かないものを弱であろうが「有害」と呼ぶのはおかしい。 中立というのは自然選択が働かないということを意味するのだから。 しかしある表現型がそれが属する集団を含めた環境によって 弱有害になったり中立になることがあるとすればどうだろうか? つまり、中立と弱有害との間を動くとしたら。それが「ほぼ中立」というもの。 これで明らかなように、ほぼ中立というのは 弱有害にもかかわらず働くはずの自然選択が働かない ということではない。 弱有害であるのに繁殖率が維持されるか高まるケースがあると 「ほぼ中立」説は言いたいわけじゃない。 もしもそう言いたいなら「ほぼ中立」説は自然選択理論を反証しようと していることになるだろうが、そうではないし、 そんな反証はそもそも命題の定義上成りたたない、ということは再三書いたはず。 >>137-139 進化学、というか中立説が基盤としてる集団遺伝学の基礎を知らずに 「生き残ったものがどんな性質であれ適者なのだ」 というキミオリジナルの間違った定義に合うように無理やり はめ込んでどんどんおかしな方向に言ってる感じがするな ネットで主流の仮説を否定するトンデモさんにありがちな傾向 いちおうちょっと基礎の話をするね >>137-139 のような素人さん向けの解説 集団遺伝学では淘汰係数sや集団の大きさNで集団の動態を記述して ある形質が100%になる(固定される)確率を記述するわけだが… 集団の大きさNが小さければ淘汰係数sが不利な設定でも固定される確率が高まる しかしこの式ではsの値は同じなわけ 有利か不利かってのはこのsの値で定義されることであって 生き残ったか否か(固定されたか否か)の結果で定義されるものではない つまり 集団の大きさで有利か不利かが変わるわけじゃないし こういう集団遺伝学の方式+観察結果によって組み立てられた太田のほぼ中立説も同じだよ 集団が小さければ弱有害のものも中立のものと同じように扱えるという意味で 集団が小さければ中立の割合が増えるので〜 みたいな表現をすることもあるかもしれないが そりゃ素人さんに分かりやすく説明するためのもの 上記の根拠というか補強として、 ほぼ中立説ってのは 弱有害遺伝子が集団の中で固定される確率が集団の大きさに影響を受けるので 集団の大きさによって進化速度に違いが出るだろうという話 大きい集団では自然選択の効果が大きく働き 小さい集団では自然選択の効果が小さくなり 弱有害遺伝子の固定される確率は小さい集団ほど大きくなり その結果として進化速度に違いが出るわけだが まず「固定される確率」というところがミソ 中立説もほぼ中立説も、、、というか集団遺伝学では 「生き残る」「生き残らない」の二元論ではなく確率として表現される 不利なものでも固定される確率はあり、有利なものでも固定されず消え去る確率はゼロではない それは集団の大きさにかかわらずそうで、 この大きさから中立になるという話ではないし、 そもそも確率なので 中立よりも低い(中立として扱えない)固定確率でありながら 集団中に固定されることもありえ、 それが遅いとしてもゼロではない進化速度として観察されるだろうって予測になってるわけで… ……書きかけたが、やっぱ難しいかな 不利でも生き残る/ただし確率は低い って言われて 「生き残った=有利」「生き残らない=不利」の二元論で考える人にいきなり理解しろっつうのは >> ID:c07q1NbP 補足 以前のレスと今回のレスを見てちょっと気になったのだが 基本的に、特定の科学的仮説ってのは 別の仮説を反証する目的で立てられるわけではないよ 自然選択説にしろ中立説にしろ、科学的仮説ってのは 世界の背景に横たわる法則・原理・原則を明らかにしようとする目的で データをもとに仮説を立て、さらにデータを集めて検証し、 その結果として何か別の説の反証になることもあるというだけの話 何かの仮説を否定するのは、いつも実験や観察そのものだ 自然発生を否定したのはパスツールの「実験」 獲得形質の遺伝を否定した(異論はあるが)のもヴァイスマンの「実験」 スタップ否定も実験だったな 中立説が自然選択説を反証する目的で建てられたのではないって そりゃ当たり前だしそんな話はしていない そうではなくて、 中立説やほぼ中立説が集めたデータが 自然選択説の一部を反証した(修正させる至った)という話 あ、 「全部反証できなきゃ反証可能じゃない」ってのもキミオリジナルの間違った定義だよって指摘したっけ? そういえば以前ポパーの名前を出したのは 別にポパーが言ってるからって理由で反証可能だと述べてるわけじゃなくて (>>132 で書いてくれた人がいるように、それ以前に説明済み) 「それ言ってるのキミだけなのにキミは自分が間違ってると微塵も思わないの?」 って文脈だったんだけど全然効果がなかったね さして生物学勉強してるわけでもなさそうなのに 相手が遺伝的浮動を理解してないって言っちゃうのもそうだけど その自分が間違ってるはずがないっていう強固な信仰じみたものはどこからくるんだ? 自然選択説とは、ある遺伝子がその複製をどれだけ遺せるかは、 その遺伝子が置かれた広い意味での環境に依存する、という説。 つまり、ある遺伝子の有利・不利・有益・有害の差とその度合は、 その生理環境、「生殖集団環境」、生息環境等の環境総体に依存して決まり、 不変的なものではなく相対的なものである、ということを主張している。 ある遺伝子が中立になるか有害になるか有益になるかは、 それが置かれた環境に左右されて決まるものなので固定値ではない。 一つの遺伝子が環境によって非常に有害になったりやや有害になったり 非常に有益になったりやや有益になったり中立になったりする。 自然選択説とは、ある遺伝子がその複製をどれだけ遺せるかは、 その遺伝子が置かれた広い意味での環境に依存する、という説。 つまり、ある遺伝子の有利・不利・有益・有害の差とその度合は、 その生理環境、「生殖集団環境」、生息環境等の環境総体に依存して決まり、 不変的なものではなく相対的なものである、ということを主張している。 ある遺伝子が中立になるか有害になるか有益になるかは、 それが置かれた環境に左右されて決まるものなので固定値ではない。 一つの遺伝子が環境によって非常に有害になったりやや有害になったり 非常に有益になったりやや有益になったり中立になったりする。 淘汰係数というのは、ある繁殖集団に異なる遺伝的形質が存在するとき、 ある遺伝的形質の適応度を1と置き、それより有利ならば1以上、 不利ならば1以下とした値のこと。 つまり、環境に対する利得の「遺伝子相互の差異」のみを表している。 分子進化の中立説を自然選択への反証として解釈する見方のほうが 異端かトンデモであって、反証でないとみなすほうが標準的解釈。 中立説は自然選択理論に包摂されると考えることができる。 環境={生化学的環境、生殖集団環境、生息環境} というふうに考えると、集団の規模は生殖集団環境の一種であることになる。 「ほぼ中立」は、集団の規模という生殖集団環境の一種によって 左右されるのだから、>>145 で説明したような自然選択の意味と合致する。 自然選択とは環境によって利得が変化するということを意味するのだから。 で、「中立」はというと、これも自然選択を反証しない。 淘汰係数が1と同等になるケースを自然選択理論が認めていないなら別だが、 そうではないはず。 有利から不利の度合を考えるならば、当然その中間が想定されていいわけで、 ほぼ中立説はさらにそれをファジーに考えているということだろう。 進化そのものは親と同一でない突然変異の蓄積だけで説明できる。 自然選択がなければ、むしろもっと速いスピードで生物は進化し、 もっともっと多様な種が存在しえただろう。 自然選択は「生物を進化させない力」としても働いている。 トートロジー君、スルーしてるレス多すぎない?(ID:MH2rNFWeがトートロジー君かは知らない) かつて大論争があった中立説と自然選択万能論は、ともに自然選択を前提とした理論だったけど、 分子レベルでの進化をどう捉えるかというところで対立仮説となった。 万能論は、形態の進化同様に、分子レベルの進化の原動力も自然選択であると主張したけれど、 結局確認された事実から、中立説に軍配があがります。 中立説は自然選択を否定するものではないが、自然選択万能論を反証した、ということではいけませんか? で、もともとは、自然選択説は反証不能なトートロジーだというのが論旨でしたよね? >>142 それ、なんの確率を指しているのか? 「生存か否か」はニュートン力学の世界では二元論であって、 箱の中の猫一匹が80%死んでいて20%生存しているというのはありえない。 もちろん、死のプロセスや定義という観点でみれば別だが、 ここで問題になっているのはそれではない。 でなければ、それは適応「率」=繁殖「率」の話か? 自然選択上でいう適応率が相対的に低い形質が相対的に高い形質を上回って その集団の中に固定するということがあると主張したいのか? てか、それって数学的にありうるのか? >>143 それ、論点が定まっていないなあ。 例えば、神の実在説というのを例にとると、 その説の50%は反証可能だが、残りの50%は反証不可能な・・・みたいな? そういう話? >>150 a「神は実在する」という命題 と b「神は全知全能である」という命題 は別物。 bを反証する可能性があるからといって aまで反証する可能性があるとは言えないのでは? 私たちの議論がaの命題を対象にしているかぎり、 bの命題を持ち込んできても意味がないのでは? 中立説はbを反証してもaは反証しない。 だからaの反証の例として中立説とその証拠を持ってきても 論点がずれてしまうだけじゃないかなあ? >>154 神の実在という命題は、もともと反証不能なので(科学理論ではないので)、中立説の話とはまったく別物ですよ。 そもそも、科学の理論と宗教を含めた人の信念を線引きするために反証主義という考え方が導入されたことを理解しましょうね。、 あなた、サイエンスの手続き上で使われる反証という言葉の意味が、わかってないです。 そこを理解すれば、ポパーが当初適応について反証不能としたものの、後に撤回したことの意味がわかるはずです。 >>144 >>146 の二行目で自分で言ってるじゃん 淘汰係数は 有利ならば1以上(正確にはそれは適応度であって、淘汰係数は1+sとか1-sとされるけど) その値が有利か不利か、適者か否かってこと それは環境で決まる(環境次第でsは可変)であるが 集団の大きさNが小さければsが同じ値でも 固定する確率が違ってくる 集団の大きさによってs(有利か不利か)が変わるわけではない で、固定する確率(集団内でその突然変異が増加し、100%になる確率)の話だが >>152 >自然選択上でいう適応率が相対的に低い形質が相対的に高い形質を上回って >その集団の中に固定するということがあると主張したいのか? >てか、それって数学的にありうるのか? ようやくスタート地点に立てそうだな ありえるよ っていうのは、たとえばABO式血液型で、 AA型とAB型から生まれる子は理論上はAB型とAA型が1:1になるわけだが、 実際には生まれた子供2人ともAA型ということもあるだろ まあ他にもいろんな要素があるが… こういう確率現象のゆらぎはNが小さいと大きくなり Nが大きければ大体均されるが そもそも減数分裂と受精からして確率要素が入ってるんで その増減も確率をはらむことになり 結果として有利であろうが不利であろうが 固定するかどうかも「確率」として表現されることになる しかも最初の突然変異が1個体(少数個体)だと仮定すればなおさらだ ざっくりとした説明だが 有利であっても100%固定されるわけではないし かなり不利だとしても固定される可能性はある このへんの確率と割合と観察の話は、いずれ整理して書く必要があると感じてる >>158 > それは環境で決まる(環境次第でsは可変)であるが > 集団の大きさNが小さければsが同じ値でも > 固定する確率が違ってくる > 集団の大きさによってs(有利か不利か)が変わるわけではない 淘汰係数の定義をその意味に限定するのならば、 淘汰係数は、自然淘汰上の有利・不利を100%表現できていない概念になる。 つまり、淘汰係数≠環境適応度になる。 集団の大きさは自己複製子にとって環境ではないと言いたいのかな? 集団の大きさが遺伝子にとって環境となってその複製にとって有利不利の度合を 左右するとするならば、それもふつうに環境の一つだと考えるのが妥当でしょう。 ということは属する集団の規模が変化することは環境が変化したのと同義であり、 その規模が小さくなれば正負の利得を失って中立になる遺伝子があっても不思議じゃない。 これがいったいぜんたい自然選択に反している振る舞いだろうか? >>155 物事の喩え話(アナロジー)というのは、そこにある差異を無視しても、 論理構造としては抽象的に成り立つから、しているわけです。 リンゴ3個+リンゴ3個=リンゴ6個 を みかん3個+みかん3個=みかん6個 という別の例でもって示しても。 リンゴとみかんはぜんぜん違う果物だから その喩えは成りたたないとあなたは言っているようなもの。 >>160 論理構造じゃないんです。 「神が実在する」という言明が、「こういう証拠で証明できる」という形であれば、「こういう理由でそれは間違い」という反論が可能ですが、 神は実在すると信じるとなると反論のしようがない、ということですから。 ポパーの反証主義が、 形而上学的な信念として主張されているという見方もあるが、 あらゆる科学とあらゆる科学でないものを普遍的に区別する全称命題なら、 科学史研究によって反証されたという見方もある。 一つでも例外的な科学的仮説の発展史が発見されれば その命題が成り立たなくなってしまうからね。 >>161 ですから、こちらは「神が実在する」という命題を もっとも反証不可能な事例として挙げているんです。 ポパーの反証主義は一つの考え方であって、科学哲学上も批判は多いですが、 サイエンスの実務上、これで十分だと考えます。 >一つでも例外的な科学的仮説の発展史が発見されれば そういう問題じゃありませんが、たとえば、どんなケースを想定します? >>163 自然選択説も反証不能だといいたいからですか? >>161 論点となる論理構造だけを取り出して他の差異を捨象した抽象化の手続きを 理解していらっしゃらないんじゃ? 喩え話はその差異によって誤解を招くことがありそうですね。 要するに 「進化には自然選択が働くことがある」という命題と 「すべての進化には自然選択が働く」という命題は 同じではないんですよ。 後者の自然選択万能論は自然選択そのものとは異なる。 ここまでは御理解いただけますか? ? 自然選択万能論は間違っていましたが、ダーウィン進化論の領域内の考え方ですが。 新しい知見によって否定され、修正されたという、サイエンスの手続きではあたりまえの経緯の一つでしょう。 自然選択という大きな枠組みを残しつつ、現在でもエボデボの進展などによりどんどん修正は進んでますしね、進化学の中身は。 >>158 > 有利であっても100%固定されるわけではないし > かなり不利だとしても固定される可能性はある ベイジアンの立場をとるにしても、 集団の規模(これも自然環境の一つ)が十分に大きければ、 大数の法則のごとく、 適応率(有利率)のそれぞれの値に誤差を除けば収束していくんじゃないかな? だから、適応率が低い遺伝子がその集団の遺伝子プールに広がってしまうことはない。 もしあったとしたら、それは適応率の測定が誤っていたことになる。 事前確率が修正されたという意味でなら、 >>158 さんの主張は理解できるが、 そうでなければ何をおっしゃっているのか不可解。 トートロジー君なのか別人なのかは知らないけど もし自然選択はトートロジーだと主張したいなら >>48 や>>71-72 に反論してもらいたいんだがなぁ つーかもうすでに元の議論がなんだったのかすら分からなくなってる >>159 前にも書いたけど、それ 「生き残ったものがどんな性質であれ適者なのだ」 というキミオリジナルの間違った定義に合うように 無理やり捻じ曲げてるだけだからね 本来、科学者たちが使ってる「適者(生き残る期待値の高いもの)」を キミオリジナルの「実際に生き残ったもの」と合わないから それは本来の適者ではないのだ!って具合にね キミのオリジナル定義の「適者」と違うのは当たり前だよ こっちはそれを指摘してるわけだからね キミの捉えている「適者」の定義が間違っているのだよ 「適者」ってのはこうだよという説明に対して、 キミはその間違っていると指摘された「適者」を根拠に それは適者ではないと反論しているつもりになっている が、それこそまさに循環論法じゃないかね? 「生き残る期待値の高いもの(適応度が1+sのもの)」ではなくて 「実際に生き残ったもの」を適者と呼んでいる人が、 進化学者にいるかい?いないよ? そう言ってるのは、自然選択説をきちんと理解していない、 生物学者でもなんでもない人ばかり キミも含めてね >>170-171 有利であっても固定されない可能性がゼロではないってのは 別にベイズとか事後確率がどうとかの話ではないのだが… まあいいや本題 確率のお話では試行回数が十分に大きい場合には“収束”するね だがその意味を勘違いしていないか? たとえば、わずかに表が出やすいコインがあったとしよう 表0.51:裏0.49くらい 1回や2回投げただけでは、裏のほうが多く出ることもある しかし100万回投げれば、おおよそ51:49程度に“収束”する と、こういう感じ Nが大きければ、確率どおりの数字に収束するわけだね 集団遺伝学の中での自然選択の話はもう少し複雑な過程を踏むが Nが大きければ確かに自然選択の結果も“収束”する ただそれは必ず固定するという意味ではなくて、 【固定する確率】がある値に(たとえば突然変異体が1個体からスタートするなら2sに)“収束”するだけ 有利であっても必ず固定するわけではないんだよ ことわっておくがこれは純粋に数学上の話だぞ 数学上の話であっても、有利なものが必ず固定するとは限らず、確率の問題になる ってか このへんの話は集団遺伝学の教科書開いて自分で確かめてもらったたほうが早いと思うが あと前も書いたが 一旦確率周りの話について整理したほうが良いと感じているんだが ツッコミに追われてなかなか書けんな >>176 適者生存はトートロジーだ 適者は生き残ったものだから 適者が生き残ったという論はトートロジーなのだ に対して ・自然選択説(適者生存)は「適者が生き残った」という論ではないよ ・「適者」は「生き残ったもの」ではないから、適者が生き残ったかどうか反証でき、 反証できるってことはトートロジーではないよるよ (適者が生き残るかどうか検証するのに使える例が中立説が“使った方法”) ・トートロジーなら予測も発見も不可能だが自然選択説はできたよ ってあたりが骨格かな 適者が生き残らないことがあると言われても お前の適者生存の理解が間違ってると言われても トートロジー君は自分の解釈が正しいと信じて疑わないし 相手が述べる定義に合わせて考えることもしないので 話が半分くらいしか通じてない状態 >>177-178 さんがおっしゃりたいのは純粋に誤差の話か? 誤差があればそれだけで自然選択仮説は反証されると? 淘汰だけが純粋に働く実験的世界を想像してみよう。 育種家の選択圧《だけ》が働く人為淘汰の世界を考えてみるといい。 赤い花と白い花と黄色い花の遺伝的な変種があったとして、 その育種家は赤い花だけが好みなのでその花だけを遺して その他の白い花と黄色い花をすべて処分していたとする。 その育種家の選択にミスがなければ赤い花100%, 白い花0%, 黄色い花0%で、 その育種家の花壇を埋め尽くすのは赤い花だと期待される。 だが、その育種家の花壇が白い花や黄色い花で埋め尽くされることもある と誰かさんは主張する。 そんなことがありうるのか? もしそうなら、この実験結果がなんらかの未知の変数(選択圧)によって 歪められたのではないのか? そう考えるべきではないか? 一つの適応だけが選択の影響のすべてを支配してその個体の子孫の数を 左右するとはかぎらない。実験はその影響をできるだけ排除しようとする。 しかし排除しきれなかったということに過ぎないのではないか? この想像的な実験世界の欠点は人為淘汰による実験であることだ。 人為淘汰は目的意識によって行なわれる。 育種家は自分の花壇を赤い花だけで埋め尽くそうという目的意識を持って 赤い花だけを生かして他を処分している。 目的意識はたしかに育種家の実際の選択行動に先立つ。 目的意識をもってやったことがその育種家の思い通りにならない結果を 招くこともあるだろう。 この場合、目的意識という主観的期待と結果は異なる可能性が出てくる。 しかしそれは目的意識が実際の行動とイコールではないことで 説明できるかもしれない。そこには未知の変数がある。 人間は目的意識どおりには行動できずミスをおかす。 そのため、それが目的意識と合致しない結果を招いてしまう。 その育種家が赤い花だけをちゃんと選択していたかどうかは結局 客観的観察によって測るしかない。 その育種家が100%赤い花を選択していたかをすべて数え上げて それが真だという観察結果を得る必要がある。...(a) その育種家がミスをおかしていなければ 赤い花は100%の確率で花壇を埋め尽くすはずだ。 それでも誰かさんはまだ、 その育種家の花壇が白い花や黄色い花で埋まる場合があるという。 いや、百歩譲ってべつに埋め尽くされなくてもいい。 ほんの5%でも白い花や黄色い花が育種家の花壇に遺る可能性があるというのかい? もしそんなことがあるなら、それはたしかに選択に反する結果だが、 しかしそれは(a)の観察が(誤差を含めて)間違っていたことを 示唆しているのではなかろうか。 ここに偶然の働く余地があるだろうか? トートロジー君なのか別人なのかは知らないけど もし自然選択はトートロジーだと主張したいなら >>48 や>>71-72 に反論してもらいたいんだがなぁ これはさすがに別人だろう。 神の意思を前提にしてる。 ポパーは本当に自らの説を撤回したんだろうか? そのソースとされる文を読んでみた限りでは完全な撤回ではなさそうだ。 再考する機会を得てうれしいと書いているが、完全撤回ではない。 そこで自然選択説の部分的反証可能性としてポパーが注目しているのも 中立説の遺伝的浮動だが、しかしそれは自然選択の本当に反証だろうか? 私はフォイエルバッハ主義者だから、 神は人間存在の一部が疎外されたものにすぎないと考えているよ。 それと「適者ならば繁殖する」という命題が辞書的命題であることとは なんの関係もないことだ。 なぁ、(某一人を除く)みんな、 ちょっと聞いてくれ。 なんか色々言ってるけど、 ようするにさ 「小進化はあるけど種を超える大進化はない。 だって誰も見てないから。」 ってやつのバリエーションじゃないかね、これ? ダーウィンがもしも、得にも損にもならない中立の形質があるということを まったく想定しなかったなら、彼は間違っていたと言える。 彼自身は自説の不十分さを補う仮説として性選択説をもってきたり、 また、獲得形質を認めたりもしていた。 それはダーウィンが自然選択万能論者でなかったことの証拠か? ウォレスは性選択仮説も自然選択にけっきょくは包摂されるとしたようだ。 >>179 いやそのトートロジー君が果たして今いるのかどうかすら分からないから いったい誰と誰が何について議論してるのかすでに分からなくなってるのよw 俺は>>134 だけど、とりあえずこの時にはまだ「適者生存」をトートロジーって 言ってる人がいるんだな、という認識だったのに 今じゃ元のトートロジー君はすでにいなくて もしかすると別人がわき道に逸れたところで議論してるのかな、と >>186 リサーチプログラムの一つとしてとして認めた、ということだね。 命題1「aという形質はその環境で繁殖するのにbやcに比べて適している」 命題2「aという形質はその環境下でbやcに比べてその子孫を代々増やす」 命題3「命題1が真ならば命題2も真だ」 すなわち「適者」ならば「繁殖する」だ。 このaを赤い花、bとcをそれぞれ白い花、黄色い花に置き換えて >>181-182 を読み返してみてほしい。 >>190 そうだね、ダーウィンは自然選択万能論者ではなかった。仕組みについては、常に謙虚だった。 ダーウィンが言いたかったのは「共通祖先からの種の分岐」、その仕組みの原理としての自然選択で、 それは、1世紀半過ぎたいまでも、元気いっぱいだ。 >>193 短い時間軸で赤い花を付ける株をすべて摘み取っても、白、黄色を発現する遺伝子を摘み取ることはできない。 ポパーは、自分がかつてダーウィンの自然選択理論について もっとも成功した形而上学的研究だと主張したことを振り返って確認した直後に http://mertsahinoglu.com/research/karl-popper-on-the-scientific-status-of-darwins-theory-of-evolution/ > I still believe that natural selection works this way as a research programme. 「自然選択がリサーチプログラムとしてこのように働いていると私はまだ信じています。」 と書いている。彼は完全に撤回していない。少なくともこの時点では。 あ、ごめん、白、黄色の花をつける株を総て摘み取っても、白、黄色を発現する遺伝子を摘み取ることはできない、だった。 そしてその上で再考する機会を得てうれしい、という。 なぜなら、彼のこの主張が創造論者によって悪用されていて、 自分がその容疑をかけられているから、 さすがのポパーもそれについて弁明しなければ世間の風当たりが悪いと 思ったのだろう。 しかしこれはどちらかというと政治的圧力にポパーが屈したということだと思う。 ポパーに対してこのような政治的圧力に訴えずにもっと冷静な議論が なされていたらどうだろうか? たとえばマルクス=エンゲルスの形而上学ではない、ということなので。 >>195 > 彼は完全に撤回していない。 訂正:彼は完全には撤回していない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる