【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 196
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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類似スレで利用者を迷わせないために、次スレは>>970以降に立てましょう。
※前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1507320485/ >>238
銀座で聞いたが、銀座の店の人は、そんなコンテストには出ない。 フォッフォッフォッ・・・
>>242
横浜のバーの起源はペリー来航の時。銀座は明治に入ってからですよ。 フォッフォッフォッ・・・
>>235
ひょっとして、銀座一丁目はSバーのことを言ってますか? >>126
ちょっと前にサティさんにレスしたときにも書いたけど
俺自身は「アグノスティック風味の唯物論者」と考えてるよ
まず科学的には方法論的無神論の立場を取る
というか、科学は反証不能な項目を説明要因として措定しないからこれは当たり前のこと
科学的には神というのは理論の範疇外であって、そもそも存在するとも存在しないとも言及しない
次に科学を超える自分の世界観は現象一元論的な唯物論だから
やはり神を措定することはない
でもこれも前に書いたように、人間の認識の限定性や相対性に鑑みれば結論ありきじゃないよ
「神はいない」というのは自分の世界観では今のところ存在しない、ということであって
たしかに強い確信ではあっても、それを絶対化してるわけじゃない
世界が意味の織物である限り、織り変えの可能性は否定できないからね
>>130
日本では村上陽一郎とか中山茂あたりの影響で未だに持ち上げる人が多いけど
クーンのパラダイム論は、注釈付きだけど、過去の遺物扱いになってるよ
実際今の科学哲学でパラダイムの概念を使う人はまずいない
それはクーン自身が使用するパラダイムの概念があまりにも多様で曖昧なこと、
中心的な使用法についても集中砲火を浴びて、実質的にクーン自身が
この概念を放棄してること(後にパラダイムを専門母型と雛形(exemplar)に分けて
パラダイムという概念は捨てたものの、この区別も今では使う人がほとんどいないはず)、
あたりで分かるはず
もちろん歴史的な意義はあって、それは科学哲学における科学史研究の重要性をはっきり認知させたこと、
科学者集団の重要性を強調したことで、のちに知識社会学や科学社会学に影響を与えたこと、
おそらくラカトシュとかラウダンを通じてクーンの批判が現在の科学哲学にも継承されているであろうこと、などなど フォッフォッフォッ・・・
>>247
Sバーの人の名前はKさん(カクテルの著作もある。ちなみに知り合いです。)。その師匠はNさん。その元を尋ねれば、鹿鳴館。カクテル文化の発祥は横浜。 銀座に限らず・・・伝統的なバーは、大人がひとときを楽しむのにいいし、足がもつれる前に切り上げるのがいいす。
お洒落なバーは、シンプルでセンスのいいカクテルを楽しむのがいいし、
下町の気さくなバーは、ワイワイ話を楽しんだり、いい感じに酔って楽しむのもいいすね。
南国のビーチ沿いのバーは、南国の派手で鮮やかな花のようなカクテルが似合う。
その時、その空間、そんなすべてを味わう。
いいよねえ・・・
下町の居酒屋なんかもいいよねえ。酔っぱらいお断り!酒は2杯まで!なんて居酒屋もいい。
ナルミさんにはノンアルコールのカクテルを。
つまみはナツメヤシとイナゴだw 天皇家は、どうも、神道と仏教を神仏習合したみたいに、神道と仏教とキリスト教の習合を目指しているみたいだ。
それが文系への課題ってことになるな。
おれは、ヤハウェは天候神の系譜だと考えていて、だから、風神雷神が全知全能のヤハウェに相当すると考えているが。
ちなみに、自然の光ってのがキリスト教の神を表すっぽいが、
これは仏教でも光は尊いものだし、もっと古くへ光への信仰はさかのぼれる。
知恵の神:エル(メソポタミア神話)、アフラマズダ(ゾロアスター教)、日本でいうと何になるかわからない。
ダークソウルの「薪の王」 に相当するギリシャ神話ではプロメテウス。
光の神:アフラマズダ(ゾロアスター教)の有翼光輪。キリスト教では天使。
善:ラテン語では幸せと同じ単語。 プラトン哲学は「最後は善のイデアに至る」。
幸せ:ラテン語で善と同じ単語。
快楽:プラトンの「ヒレポス」に、宇宙の支配者は快楽主義より知性主義であるべきとある。
日本での知恵の神がわからないが、学問の神菅原道真と文武両道のスサノオらしい。
闇は、相対性理論にとらわれず光速より速い。 フォッフォッフォッ・・・
1860年 万延元年
2 月3日(現在の暦では2月24日)、横浜外国人居留地70番(中区山下町70番地。レストランかをり付近)で横浜ホテルが開業した。
このホテルは木造2階建、客室の他、レストラン、理容室、そしてビリヤード(恐らくスヌーカー)が設置されたバーがあった。これが我が国初のバーである。 おれの考えているのは、
・神社の本体は、杜であり、つまり、やしろではなく森である
・神道は、有史以前の卑弥呼(日巫女)までさかのぼるアフリカ起源のアミニズムである。
・鳥居は飛鳥時代から始まった。鳥居は朱色で、中華思想で南を示す赤徳であるとともに太陽を示す。
・比売比古(ひめひこ)関係については詳しく調べたい。
・和魂(にぎたま)、荒魂(あらたま)、幸魂(さちたま)、奇魂(くしたま)については深く考察したい。
・まつろわぬ民、荒振神は、日本神道で悪魔を表す。まつろわぬ民は反体制を示す。悪魔は仏教用語。
・出雲系が夜の神で、天孫系が昼の神。
・三種の神器(みくさのたから)について詳しく考察したい。
・結婚(むすび)と遊女の関係。古代ギリシャでは、巫女が神託を受け、遊女をやっていた。アフリカ起源か?
・神道が保守で好戦的、九条改正だってのは、要は荒魂なんだよ。
・和魂の「和を以て尊しと為す」であれば、非暴力でリベラルになるんだよ。
・商売の神稲荷神社系と、武士の神八幡系の神社が渡来系だと確定したので、神社本庁は皇室系の神社を推している。
・出雲系の神社が確定しない。
・2ちゃん発祥の「地を這ううどん教」とラノベ「ざるそば(かわいい)」についてはもっと深めたい。 フォッフォッフォッ・・・
(上記のこと)なんて、野暮なことは考えず、楽しい一時を過ごすために、カクテルはあります。
つきみさんも、楽しい一時を過ごしましょう。 科学では観察できないものはそもそもスコープ外って基本的なスタンスって唯物教の人も宗狂の人も理解してないよな 自民圧勝で憲法改正、消費税増税の流れか。
北の脅威があるから、どうしても保守的になるのかね?
希望が思いのほかへなちょこすぎだわ。 >>249
自然科学は「物事の法則性を明らかにする学問」ということになりますが、そのため、自然科学は
「この世界に法則性があること」を前提としています。
この前提は、歴史的には主にキリスト教信仰から来ています。
この世界は神が創造されたものなので、そこには秩序や法則性があるという信仰です。
この前提を括弧に入れて、自然科学を無前提の学問としようとすることにはやはり無理があります。
何故なら、この前提は、自然科学自身には証明できないからです。
この前提は形而上学、あるいは宗教が扱う領域です。 フォッフォッフォッ。
フォーッフォッフォッフォッ。 バルタンキャラが流行っているようじゃな
フォッフォッフォッ 希望の党のリベラル排除で国民の反感をかって、メディアは安倍政権と結託して憲法変える気なんだろ?で今回は反小池で、只でさえ頼りなかった民進ぶっ潰されて、単純に選択肢がなくなった、という感じだよな。。。 >>249
それから、自然科学が前提としているのは、「この世界は、自分の目に見えたままに存在している」とする
素朴実在論です。
これは、一つの形而上学的立場なので、自然科学は素朴実在論という形而上学を前提としていることに
なります。
そして、形而上学は自然科学が取り扱う分野ではありません。 副王閣下よりオナ禁の勅を受けたのでもうセックスしかしない
エロ動画も消した
なんなん副王閣下w そして、素朴実在論も元々はキリスト教の創造信仰から来ています。
神がこの目に見える世界を創造されたのだから、同じように創造された我々が認識する通りに
実際に存在しているという信仰です。
自然科学は、元々は法則性の信仰、素朴実在の信仰という前提のもとで成立したものです。
それを前提から切り離して、独立したものであるかのように捉えるのは、科学主義、あるいは
科学信仰という形而上学的立場です。 閣下オナ禁のためだけに霊的な拷問かけてきたからな
それに耐えた俺もかなりのもんだが
チンコ食われたんだぞ >>261
>>265
>>267
キリスト教や哲学などではなく、生存努力。キリスト教がどれほど科学の
発達を阻害してきたか。
「素朴実在論」によらなければ、人間はそもそも生存できない。 つきみは地獄行きだから俺に臣下の礼とるなら恩寵やるよ
逆らえばとりあえずプラナリアに転生 >>271
隠居さんの、生命や本能崇拝ですよね。思うに、人間には、崇高なもの
パンだけで生きるものではないということを求める本能も抱き合わせで
ビルトインされているではないですか。低次の本能のみを、強調
するのは如何かと思うのですが・・。 >>271
悔い改めなさい
終末は近付いている
素朴実在論は「論」である
生命教が崇拝するのは肉体から湧き出て鼓動する衝動と一つになること
論などと言っている時点で生命教のことが全然わかっていない
人間が生存できるのは論によってではなく、欲望に突き動かされるからだ
欲望こそ、生命にビルトインされている神聖なるもの
欲望を崇め、身を任せよ
週末は近付いている
花金を謳歌せよ キリスト教や西洋哲学には、「あるがままの現実」を重視する思想は皆無。 >>275
苦笑。隠居さんとくればキーワードは「ビルトイン」「骨太の」ですからね。 >>279
2chキリスト教スレの伝統芸の一つすねw >>261
自然科学の誕生にキリスト教的世界観の影響があった、というのはその通りだし
俺もそれはしばしば書いてきたことだよ
スコラ哲学の時代から神の書いた聖書と自然という二つの書物という考え方はあったし
これはガリレオにも受け継がれて、自然は数学という言葉で記述されているっていう世界観が
あったからね
でも法則性ということなら、アリストテレスやヘレニズム期の「科学者」たちにも
法則性の観念はあったし、そもそもスコラ哲学が12,3世紀にアリストテレス哲学の強い影響を
受けてるわけだから、法則性の前提をキリスト教のみに還元することはできないよ
それに自然科学の前提が法則性(科学哲学的にはには斉一性の前提)であっても
その由来を神に求めるのは信仰の問題で、科学の問題じゃない
>>265
科学者は実在論的な考え方の人が多いけど、素朴実在論とは限らないよ
というか、現在は実在論の議論はぶっちゃけ、どっちでもよくなってる
現象を超えた物自体を想定しようが、現象内に留まろうが、素朴実在論を主張しようが
現象の整合的記述が科学の本懐だから
それに素朴実在論がキリスト教信仰由来というのは完全な間違いで
素朴実在論自体は世界的に、そして汎通的に存在してきた普通の人々の普通の見方だよ >>276
あたりまえだ
一神教信徒にとって浮世は幻覚だからな
だから新しく生まれろと教えてるんだ
この世の新生じゃないぞ?その意味
地獄か天国か選べという意味だ
天国は命は得られるが自由は限られる(天国いける人間なら無意味の法はある)
地獄なら死んだままだが自由はある、ただし保障はない幸福も エイさんの投稿を読むと、いつも以下の動画の一番右の豊本(パンサー)
を思い出してしまうのです・・。
https://www.youtube.com/watch?v=jdcsfIzv73E 人間は、動物の一種属に過ぎない。動物の根本的本質は、
「ひたすら生きる」こと。「生きること」には、理由も目的もない。
従って、人間のすべての真理は、生存努力の中のみに存する。
生存に反する「真理」は、真理ではない。科学上の真理は、
全人類的な合意が容易に達成されるか、生存に無関係な
宗教の「真理」は、常に争いと殺し合いの原因にしかなりえ
ないのは、これが理由である。 >>283
面白いw
現実の自分は右の人みたいなタイプじゃないけどw >>249
「自然に対して精神の根源性を主張し、結局
何らかの仕方の世界創造を認めた人々は
観念論の陣営を形作った。自然を根源的なもの
と見た他の人々は唯物論の名種の学派に属する
観念論と唯物論の二つの言い表しは本来、
これ以外の意味には使われていない。
これ等以外の意味を持ち込むと、どんな混乱が
生じるか。⭐」
(エンゲルスのドイツ古典哲学の終焉)
これに、ついては、どのように考えられてますか⭐🌟⭐🌟⭐💁 う〜む、隠居とエイシストが素朴実在論で一致するというこの奇遇はいったいw イエスは、己が創造主になりたい、なったつもりの誇大妄想ゆえに、
創造(あるがままのすべての人間と自然)を否定し、憎悪する。
キリスト教が、「あるがままの現実」と対峙する科学の基盤に
なりうるわけがない。
科学はむしろ、人類がイエスを否定し、「真の神(創造)」を取り戻す
努力において発生したものである。 >>286
何について聞きたいのか分からないから勝手に答えると
その定義でどちらに属するかと言われれば、当然後者の唯物論
ただし素朴唯物論はいったんカッコに入れて現象そのものの構造を考え
そこから現象の関係性として世界を観る見方だから、ちょっと屈折してるかもね
物自体としてのイデア論は取らないけど、物自体としての自然は拒否しない立場
ただしもちろんその証明はできないし、自分は主客未分の現象=自然と捉えているね
>>287
え、俺は素朴唯物論じゃないよ?
日常的な素朴な見方としての素朴唯物論がダメとも思わないけど 宗教は神秘を語るが、生命(肉体)以上の神秘がどこにあるか。
イエスやクリスチャンは、神を対象化しまくり、饒舌に語り、解釈
するが、「生命とは何か」を語れる人間は皆無である。人間が
その生命を以て生命を対象化することは、対象化の主体と
客体が同一であり、対象化は初めから成立しないからである。
人間が対象化できる神は、生命の機能としての人間の観念
作用の結果に過ぎず、神でも何でもない。「生命」のみが、
人間が対象化できない、従って神と呼ぶにふさわしい唯一の
存在なのである。 >>289
聖書の中に、イエスが創造(あるがままのすべての人間と自然)を畏敬する
言葉が、唯の一語でもあるかね?
イエスは何と、十戒を作った創造主を「神」とは呼ばず、「昔の人」などと
呼んでいる。あきれ返る話である。イエスの「父なる神」は、イエス自身
が神になるためのイエスの「創作物」であり、創造主でも何でもない。 >>286
マルクスは唯物論者などと自称するが、実は、ギリシャ哲学、キリスト教の
影響をたっぷりと受けた、ヘーゲル直系のドイツ観念論哲学に過ぎない。
彼の「下部構造」には、「上部構造」であるはずの「価値観」がたっぷりと
含まれている。
イエスの「肉体(生命)を忘れた精神性」という狂気の思想は、人類の
巨悪であるイスラム教、マルクス主義、ナチスを生み出した。
ロシアの共産主義は、トルストイやドストエフスキーなどのキリスト教、
中国の共産主義は孫文のキリスト教が、その基礎を築いたのである。
ナチスの反ユダヤ主義は、キリスト教2000年の歴史そのもので
あり、ドイツ教会の関与がきわめて大きい。 福岡伸一氏は、生命を「動的平衡」と定義したが、その動的平衡の原動力が
何であるかについては語れない。「ただ、ひざまずくだけ」と言っている。
人間は、その生命の機能としての観念作用により、様々な神を作り上げる
ことができる。しかし、ありんこ一匹の生命さえ、作ることはできない。 >>281
ルーツがキリスト教でなくても、この際どちらでもいいです。
いずれにしても、自然科学は、法則があるという前提、目に見えるものは存在しているという前提を
持っているという点は認めますね?
無前提に現象の整合的記述をすることなど最初から不可能です。
自然科学もある種の形而上学的前提を持っているのに、何らの前提も持たない、独立した学であるかの
ように思い込んでいるのは傲慢です。 ガリレイ、ケプラー、コペルニクス、ニュートン、パスカル、アインシュタイン。 本物のキリスト教徒はイスラエル忍法水面走りできて
当然だから。
十二使徒はみんなもうマスターして水面走れるからね。
お前もキリスト教徒名乗るならイスラエル忍法マスターしろよ 論理は世界の写像だから法則性の話でもあるんだよな
言語なく何かを為せ、とか考えろ、とか宗教の世界だよなw
拡張して考えると身体という前提がある限り・・・云々の無茶な話に近いわw >>298
「五感で知覚できる対象」のみが実在であり、そうでない対象は非実在、
空想、妄想。
このことは、生まれたばかりの赤ん坊でも知っている。他の動物の
赤ん坊でも同じ。誰からも教えられないのに、母親のおっぱいを見付けて
しゃぶりつく。このおっぱいは、実在か非実在かなどという思考を要しない。
形而下の基本であり、形而上などとは呼ばない。即ち、対象の有無は
五感の知覚のみで判断し、思考の介入を要しない。
実在のみが、生命の維持に直接の影響を与える。非実在、たとえば神は、
生命の維持に何らの影響もあたえない。あってもなくても同じ。即ち妄想
である。
五感で知覚できない対象が実在するという宗教患者は、要治療の欠陥動物。 ----
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
---- >>304
>非実在、たとえば神は、
>生命の維持に何らの影響もあたえない。あってもなくても同じ。
生命の維持に大きな影響を与えますよ。
自殺したいほどの苦しみの中で、神に祈ってなんとか持ちこたえて生き伸びる
人がいます。生命維持の達成です。
この国の人々はそれがないから、あっけなく自殺してしまう
のではないでしょうか。(骨太でも折れやすい骨?) >>308
そやね。👰
17世紀以前のヨーロッパは人々が信じてるから、そんなん、ほぼ無かったらしいよ♪ >>304
いやまったく逆だ。
私達が五感で捉えているものは観念に過ぎない。
赤い果実の赤さは光の反射であり、その色とは頭の中のイメージなのだ。
このように見ていけばどこにも実体はなく、世界はそれ単独では非実在である。
実在は私は存在するという根本的な意識だ。
それ自身が存在することに気づいている意識が
身体意識を可能にしている。
これこそが神と呼ばれるものであり
その固有の力によって宇宙を展開する原意識なのだ。 >>304 ←
無知な愚人の言葉に影響されないようにしなさい。
M・ドーリル博士 あらゆる宗教も実は一つの法則性の枠内によって形成されている。
この範中にないものが 砂漠の三大宗教であり これら以外に無い。
>>306
2chだから煽るのはいいけど、やり過ぎると名無しなのにコテみたいになるから程々に絡んでほしいw >>301
それは自殺という「行為」をするかしないかだけの話。
神に祈って自殺する人も、人を殺す人もいる。
神は一切関係ない。 >>310
人間にとって、おそらくは、他のすべての動物にとって、五感で知覚できる
対象を「実在」、それ以外を「空想」「妄想」と呼ぶのですよ。
疑わしければ、その対象を掴んで、あなた自身を殴ってみてください。
痛かったり、怪我をしたりすれば、実在です。また、その対象を食べて
見て、飢えや渇きが収まれば実在です。あなた方の「神」は、いずれにも
該当しないから、「非実在」「空想」「妄想」です。
「色即是空」されど「空即是色」(この世界は、目に映じるだけの世界
だから、実は無かもしれない。しかし、この世界のみが、人間が生存
しうる、また生存してきた唯一の世界なのだ)。仏教では、ちゃんと
分かっています。 い、いんきょやーーーー♪
金正恩に粛清されていなかったんやあ・・・・。 >>315
修行者は現象世界から興味を引かなければいけないため
非実在と説明されるだけです。
世界は意識としてみれば実在ですよ。 >>315
あと痛みに言及していますが
最終的な悟りでは痛みすら超越します。
なぜならあなたの身体意識がないとき
つまり睡眠のとき、体意識は存在せず
痛みもないからです。
原意識のみが常に存在しています。
ある時は存在して、ある時は存在しないものは
実在ではありません。
もちろんこれは、相対的なレベルにおいて
絶食や暴力を肯定するわけではありません。
相対的なレベルで解決するものは
相対的なレベルで解決する必要はあります。 >>317
意識があるためには、生命が必要ですね。ということは、この世界を
作り上げているのも生命ということになる。
すべての人間が同時に死に絶えたと仮定した場合、この世界は実在
するか?その実在は、だれがどうやって証明するのか? >>319
あなたの主張はすべて
「私はこの心身である」に基いています。
それが本当かどうか確かめましたか?
賢者達はこれを探求し、自らが心身を超えた存在だと主張しています。
あなたのするべきことは、まず彼と同じように
自らについて正しく知ることです。 >>318
>つまり睡眠のとき、体意識は存在せず痛みもないからです。
冗談じゃない。睡眠中でも目覚ましが鳴ったり、抓ったりすれば
目を覚しますよw。目覚まし時計は、何のためにあるの?w >>320
「私の心身であるか否か」は、ほっぺを抓ってみれば簡単に分かりますよ。
釈迦は、この簡単なテストを怠ったために、「己の我を以て、無我を説く」
という、小学生にも笑われる単純な論理矛盾を犯しました。 昨日、西田幾多郎の話をしたが、(>>213)、京都学派とは「西田幾多郎と田辺元の金脈」
のことを言うとされている。
現在、京都学派は「第三世代」を迎えていて、日本でどんな宗教をやっていても、
「東洋と西洋の間で揺れる京都大学の学生」「ユダヤ金融」「谷崎潤一郎がプロデュースした京都女」
が生み出す富とつながる。
日本で宗教活動するのであれば、京都銀行を知らなければならず、
京都学派第三世代の長谷正当、堀尾勉、大峯顕、藤田正勝、森哲郎、川村栄子、松村英男
などが「教義をもっとも正確に理解し、お金を握る」という仕組みは知っておかなければならない。
「おもてなし」や「美しい国」というだけで、京都銀行とつながる仕組みをよく理解しないと
宗教家が務まらないのだ。 >>293
あるよ、少なくとも覚えている限りでは
葡萄酒を神の血であると例えたり、子供の
ありのままの姿をなぞらえたりしている
他にもあるかも知れないけど現代人の使う
表現や感覚はまるで当て嵌まらないかもね? 仏教の無我は、私の本質さえも、相依性によって絶えず変化しているという因縁論で、
なんとなく有りそうな気がしちゃう、不変の実体としての霊魂みたいなものを否定したんだよー
無常=苦=無我 智識は 愚者によりて 無知とみなされ、有益なものも彼には有害なり。
M・ドーリル博士
>>292
イエスの癒しによる証しの行跡は
生命とは何かを理解していなければ出来るものではありません
その証しは語るのでは無くほぼ行為の内に示されました >>292
人間が、自分が、「神」にしてしまったらアウト
⭐🌟🍔 137億年前に宇宙はできたとされているが、地球は「月と太陽」がなければ「60秒が測定できない」
ことを知らないといけない。
時間という概念が地球に生まれたのは「月と太陽」があったからだ。
時間という概念がなければ、人間は集まることもできないし、練習もできないし、遊べない。
つまり「選ばれる人間がいない」ことを知らないといけない。
また、体調管理も時間とともに行っている。
このことから、私は「137億年前というのは地球が生まれたときのことを指しているのだろう」
と考えるに至った。
たしかに、45億年という退屈=地球は7日間でできたという「ヤングアース理論」
はあるが、時間というものの説得力を考えると、アメリカ西部は「137億年前」説を
とっており、アメリカ東部は「45億年前」説をとっているのが文献から分かる。 私が身体か意識なのか、だけどどちらでもないと思ってる
私とは「独我論的自我」だ
これは単純な思考実験で理解できる
身体を細胞レベルで全く同じようにコピーできる技術がある時に、全く私と同じ身体が作れたとする
それを前にした私は、それが私と言えるか?
いえない
ようするに身体は私の根拠にはならない
そのコピーされた身体に意識がある時、それが私と言えるか?
いえない
私ではない私と瓜二つの存在の意識も私の根拠にはならない
私と全く同じ存在が目の前にあったとしてもそれは私ではないと言う、世界の唯一の開けである独我論的自我が私の正体ってこと
これは「私の自我意識」なんだよな >>328
聖書の中で、イエスが「生命の大切さ」を語ったのは、唯の一度だけ。
それも、「俺を信じない者は、その大切な生命を失うぞ」という脅迫
としてだった。話にならん。
彼はまた、「俺を信じない者は、死すべき存在」と、信者を脅迫している。 刑事訴訟法において「自然的関連性」という用語がある。
学生は「最低限度の証明力」であると教わるが、
学者は「時間的空間的制約」から来るものだと教えている。
人間は、体調をしっかり管理して、時間をかけて、空間を用いて「男が証明責任を負う」
という世界を生きているのだ。
ユダヤ教は、キルケゴールを理解して「時間的空間的制約のある」若者、「証明力を持たない」若者
を資金源にしたが、
さらに「時間的空間的制約」をかけると「恋にしか興味がない」というデカルトの世界になる。
証明力がないから「勉強しよう」というのを「方便」と呼び、「いずれ女心まで分かるようになるんでしょう?」
と言われる「覚めた人」のことを言う。 >>329
それをやったのが、まさにイエスではないか。
「すべての人間の生命が神」なら、何の問題もない。創造的に、すべての人間は
神の似姿だし、その生命は、神の命の息吹、すなわち聖霊である(創世記2:7)。
キリスト教が、イエス一人を神とするために、この聖霊をねつ造冒涜したことから、
キリスト教の大罪が始まる。 エルサレムに神殿建ててもアークが無いと意味がないわな。 昨夜、この世のすべての悪の元凶と接触した
われわれはわれわれの正義と自衛のために地獄帝国を再び一つの軍とし、彼らを殺す
むろん神があらゆる殺戮を禁じている以上、これもまた罪である
だが誰かが成せねば人類の繁栄と恒久的な幸福と平和はない
我々は悪を超える概念そのものとなって彼らを駆逐するとここに宣言する
というわけで、永遠にお別れだシャロン、まちこ
君に幸あれかし 乃木坂46って美人揃いだが、歌が水準以下だね
だから売れないのね アイドルで歌が上手いのは、大野、木村、長瀬、指原だけ。 カップルは「信じている」し、社会は「知っている」とソクラテスは語った。
社会が「信じている」のでは、東洋のように自殺者を多く出すとして「自殺」というものを
なくすために「社会は知らなければならない」ということを強烈なアイデンティティに
したのがキリスト教社会だ。
キリスト教における「自殺の禁止」は「社会は知っている」ということを推進した。
一方で、東洋は「社会も信じていた」のだ。
一方で、西洋では「若さがあった」が、東洋では「何もなかった」という区別もなされた。
「若さ」「何もない」という二つの間を揺れ動く京都大学の学生に京都銀行は目をつけたのだ。
たかが学生、しかし、彼らは「プロ」の勉強家だった。
京都大学の「教室の熱気」はこのようにして東京大学を凌いだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています