大聖者・因縁果さまが語りまくるスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
サウナと水風呂を5回ぐらい繰り返す
↓
背浮き瞑想
短時間で深い瞑想状態に入るにはこれしかない^^ 体が温まってきれいになるし、サウナにも水風呂にも入れて、
瞑想までできちゃう銭湯が最高ってコト!
そのとうりです^^ 寝湯で寝てしまった^ ^
サウナ水風呂5回はきついかもしれん^ ^
毎日だからな^ ^ 風呂ばかり入っていると、プラーナを大幅に消耗するから、フツーのタントラの行者はやらないんだけどね。 人は、人生を頑張って生きれば、死んだ後(のち)には、
必ずや素晴らしい世界に入れるということを、
何が何でも知って欲しかったのです。
人生で戒めや畏れがなければ、やりたい放題、
悪いことでも、かっぱらいでもなんでもありと思うだろうから、
宗教は戒律をつくり、あの世に地獄と極楽をつくってきました。
しかし、そのような脅迫で、
人の心が真から向上するということが、
果たしてあるだろうかと私は考えるのです。
人が人生を一生懸命に頑張って生きたのちには、
喜びと安心感がなければ、何のために頑張るのか、
わからなくなるでしょう。
その安心感のもとに、余裕を持って人のために尽くし、
優しくいられれば、自分の心も安らぎ、
必ずや安心の世界へ入れると言うことを、
今、確信を持って、みなさんに伝えたいのです。
世のため、人のために尽くし、
明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、
それに見合った素晴らしい世界があります。
丹波哲郎 コツコツとアスファルトに刻む足音を
踏みしめるたびに
俺は俺で在り続けたい そう願った
裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え
逃れられない闇の中で 今日も眠ったふりをする
死にたいくらいに憧れた 花の都"大東京"
薄っぺらのボストン・バッグ 北へ北へ向かった
ざらついたにがい砂を噛むと
ねじふせられた正直さが
今ごろになってやけに 骨身にしみる
ああ しあわせのとんぼよ どこへ
お前はどこへ飛んで行く
ああ しあわせのとんぼが ほら
舌を出して 笑ってらあ〜♪ 想念の停止・・^^
思考の停止・・^^
つまり・・^^
非我とは思考の停止もであり・・^^
必要な時にのみ使えばいい^^ 着いた^ ^
雨の中での瞑想も感慨深いものがある^ ^
五蘊無我であれば雨など概念にすぎん^ ^ サウナ水風呂背浮き瞑想おわた^ ^
水風呂で浮いていると人が入り
波立っても浮いている^ ^
力むと沈む^ ^
つまり^ ^
波が立っても浮いてる空の状態こそ
目指すべきである^ ^ 心が静まると、第六感が働くようになる。第六感とは、ひらめき、何が正しいかを判断できる能力のことである。 心が静まっている時は何も感じない。心を静めようと意識すると、かえって心は波立つ。臍下の一点は
自然に当たり前にしていると静まっている。例えて、たらいの中の波立っている水を静めようとして手で押
さえると、かえって波立つ。そのままにしておけば自然に波はおさまって静かになる。 ふわっと浮いているような感じ。
上体の重みの落ち着くべき所が臍下の一点。臍下の一点という力の入らない一点を見つけてやって
初めて全身の力を安心して抜きリラックスできる。リラックスというのはのびのびと自然の状態に任せる
こと。すなわち自然体である。
人間は身体の重みを最下部に置いてリラックスしていると、自然に心の波も静まってくる。自然に当た
り前にしていると落ち着いている。 心を静めることによって、あたかも呼吸をしていないかのような静かな呼吸になる。
全身をリラックスすれば、呼吸は自然に深くなり、長くなる。 四、総てを受け入れられる姿勢
前回、第8回目の氣の健康教室の時、リラックスの五原則の五、争わざる姿勢のところで行った
氣のテストを行い、どういうことか理解した。
BがA の肩を押そうとすると、Aは押されまいとして自然に身体が少し前方へ動く。心が身体を動かす
の通り、これは心が抵抗しているのである。相手のマイナスを全く心に留めない、”さあ、いらしゃい”と何
事も包容して濁らざる大海のごとき度量をもつ。
五、総ての原動力が発せられる姿勢
総ての行動は臍下の一点から。
臍下の一点に心を静め、自分の心身にプラスの氣が充満して氣が発している時は、周囲のマイナスの
氣は自分の身体には入ってこられない。一番強い心の状態。
四、五、は特に大事で、「争わざるの理」を解いた言葉です。著者「氣の呼吸法」の中で、藤平宗主
云わく「どんな逆境にあっても心を痛めずしてこれを乗り切り、どんな悪口を言われても心に受けつけず、
どんな相手が襲ってきてもその力を受けず、笑ってこれを導くのが争わざるの理なのです。」
ふむふむ^^ 「争わざるの理」ね^^
ふむふむ^^
おのおのくぐるように^^ つまり・・・^^
何を言いたいのか?と言うと^^
溺れているいないに関わらず常に背浮きの状態にいろと^^ おまえらは毎日溺てれいる^^
故にこころの静寂を保てない^^
とこうなる^^ 心が静まっている時は何も感じない。心を静めようと意識すると、
かえって心は波立つ。
臍下の一点は自然に当たり前にしていると静まっている。
例えて、たらいの中の波立っている水を静めようとして手で押さえると、
かえって波立つ。そのままにしておけば自然に波はおさまって静かになる。
これやな^^ うん?
やはり・・・キターか?^^
いやいや事実をそのまま書いているだけ^^ >>757
「自分は勝れている、お前らは劣っている。」と、諸々の心を高まらせている人 自分は勝れているなんて1度も思ったことないが^^
どうでしょう^^ 浮き輪ぷかぷか♪
▲ノノハ▲
∪川^〇^ハレ
〜〜(∪二二二)(゚д゚)
〜。゚。( 。゚ ノ (Uニニニ)〜
。゚o゚o(/。∪。゚ 。゚。。 ゚
゚。゚ 。 ゚ ゚。゚。 ゚ 唯識的に言えば・・
末那識が平等性智に変っているからね・・^^
「自分は勝れている」それはない^^
しかも・・^^
無我であるからしてそれもない^^ その自分というのは我執だからね・・^^
その自分というのもまたない^^ 故に・・・
「自分は勝れている」と思っている人は・・^^
我執を断ち切れていない凡夫ということになる^^ 「長いもの」とはなにか^^
もっと長いものと比べれば短くなる^^
ゆえに「長いもの」とは・・ 「自分は勝れている」
もっと勝れている人から見れば
「自分は劣っている」
つまり・・^^ う〜〜ん^^
戯論が滅して、寂静なる境地である^^
控えよ^^ *゚
*゚
゚*γつ
▲▲ パシャッ *+ /
`(/【◎】 /*☆
/ /┘ ▲ノノハ▲ /゚*+
ノ ̄ゝ ∪川*^〇^ハレ *。
/⌒ \*☆
/ γ |
/ / *\ |
/ / *+゚ /
⊂⌒ノ /☆+゚ 〉
/ /。*゚/
/ / / *゚
/ / / /*
`/⌒/ +。*( ヽ パシャッ
(_/ 。*゚  ̄▲▲
☆+゚ Σ【( )
パシャッ └ヽ ヽ
く  ̄ヽ ミミズだって
オケラだって
アメンボだって
みんなみんな生きているんだ (( /⌒ ⌒ヽ ))
つ_∧_と
(__)(__)
川 。〇゚ハレ
∞ノノハ∞
バァ〜♪ >>772
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ無我の境地だお♪w >>777
おめでとう(´∀`)
ございます‼︎
↑そっと見ていたw >>765
曽呂利新左衛門の槍を使った話があるね。
そこからの引用か? イソップの話に太陽神アポロンが出てくる。
インド系の宗教を目指すのにアポロンと名付けられた人は・・・・
スリランカの女神ならまだ分かるんだが・・・ >>786
風邪を引くのじゃ!
南無南無(‐人‐) Oh Oh Wow Wow DeNAベイスターズ
燃える星たちよ Let's Go !
Oh Oh Wow Wow DeNAベイスターズ
夢を追いかけろ〜♪ さてっと^ ^
サウナ水風呂背浮き瞑想してくるかなっと^ ^
現象世界の執着を止滅してくる^ ^ 無明であるから執着する^ ^
ではどうしたらいいのか^ ^ 無明 虚妄分別 執着この苦の輪廻は
止むことはない^ ^
生存への執着から放たれた時^ ^
解脱は起こる^ ^ __
. '^´ `ヽ、
i 〈 ,ハlノv,ノ ∬ コーヒーだぞ
| (Y ゚ヮ゚ノi| ([_]
. ,ノ, /〈|゙リ|)}ぅ ̄ ̄
(( /しjニ|.|.ノ)
. 〈_」ノU_,> 分別が苦を生じさせるものであるならば
想念はその根源である
しかし真理探究の思考は苦を生じさせない
つまり思考は常に真理探究につかうものであると^ ^ うーん^ ^
おまえらも生きててすみませんくらいの
謙虚さがあれば悟れるのに^ ^
自我の固まりだからなー^ ^ 謙虚さと悟りは比例する^ ^
なぜならそれだけ自我を滅しているのだから^ ^ この現象世界は相反するものがあってこそ
現象として現れる^ ^ 相反するものがなく存在するもの
それは絶対的なものであり
この現象世界には存在しない^ ^ 仏教と哲学をごっちゃに考え
ている限り悟りなど夢のまた
夢じゃよ!
南無南無 (‐人‐) ブッダちゃんの言葉は仏教ではなく真理を追求する哲学^^
解る人には解る^^ >>817
お主も救われない魂じゃのう。
南無南無 (‐人‐) 救うとか救われないとか・・^^
どこの邪道宗教ですかね^^ >>820
因縁果は万年小僧じゃからな。
南無南無 (‐人‐) 649基地にゃん& ◆OTsHSJKM8o 2017/10/27(金) 13:21:16.35ID:zIf6rbX/
>>647
基地にゃんは二十歳の可愛い
女の子でつよ 🎵 ( *・ω・)ノ
https://i.imgur.com/XEDozw7.jpg
どこが和尚やねん^^ >>823
基地にゃんとは多羅尾伴内の
別名じゃよ!(^o^)/
南無南無 (‐人‐) 仏教って救いを求めるところじゃないんだよな^^
真理を知るところにある^^ 69.
paṭisallānaṃ jhānam ariñcamāno,
独坐と禅定を捨てることなく
dhammesu niccaṃ anudhammacārī.
諸々の事物において、つねに真理に随って行う
ādīnavaṃ sammasitā bhavesu,
諸々の生存における禍を、確かに知って(lit. 触れて)
eko care khaggavisāṇakappo.
犀の角のように、ただひとり歩め ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています