罪を悔い改めて聖霊に生かされる [無断転載禁止]©2ch.net
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罪を悔い改めて、聖霊に生かさせれて、日々を過ごすことが
できるために、皆様で励まし合うことができれるスレッドに
したいと願っています。 主よ、罪深い私をお許し下さい。日々の生活に流されて、いつの間にか
聖霊様を悲しませる怠惰な生活を送っていました。今ここで罪を悔い改
め聖霊様の導きに従い、罪と怠惰で満ちた心を聖霊様に委ね、満たして
いただき、再び清く汚れのない者となれるよう洗い清めて下さい。
主イエス・キリストの十字架の血の贖いと、復活の力によって、罪に死に
聖霊に生かされる者へと再び変えられることを信じ感謝します。どうか
この願いをこの地上での歩みの間持ち続けることができますように。
そして日々主によって導かれ、訓練され、主に近づくことができる生涯
であることが、できますようにお願い致します。
主イエスキリスト様の御名によってお祈りいたします。 何が罪であるのかを判断するのは、聖霊様です。人間の理性では
ありません。理性で罪を判断しようとして失敗したのが律法です。
律法によって人を救うことはできません。ですから何々することは
罪であると言葉で定義することはできません。
何によって私達が罪に在ることを知ることができるのでしょうか?
それは聖霊様によってです。私達が罪の中に陥っている時、聖霊
様は私達の心に悲しみを通して、そのことを教えて下さいます。
ですからイエス様は聖霊様を悲しませてはいけないと語っておられ
ます。
私達の心の奥底に何か悲しみがある時、それが罪からの悲しみで
あったなら、神の前に悔い改めて許しを祈りましょう。そうすれば人知
では計り知れない主の御力によって、罪は洗い清められ、涙ととも
悲しみは流れ去り、罪から開放され、心が清められるでしょう。
このことを人になしてくださる事ができるのは、唯一主の十字架の贖い
と復活によって私たちに与えられた聖霊様の力だけです。 デブ牧師は
聖霊なんてわからん、と言っておったな
リベラルなんてそんなもん、うそつき野郎ばかり リベラルと言っても、その中には色々な考え方の教会・信徒の
方々がおられると思います。ですから一口にリベラルだからどう
のこうのと言うことはできません。信仰はまさに個人と神様の
関係だからです。
聖書は宇宙の科学的真理を知る為の書ではなく、人間の在り方
がどうあるべきかを知る為の書であると思います。ですから聖書
の記述に、現代の科学的見地から見るとおかしなところがあって
も個人的には全く気にしませんし、その辺は個人によって受けとめ
方は自由だと思います。しかし人間の在り方についての聖書の
記述は真実であり全く従うべきものだと経験上実感しています。
聖書は、人間は神様によってチリから造られた、聖霊の宿る宮
であると教えています。宮とは肉です。宮はその内側に聖霊様
を宿すことによって、真に生きる宮となります。ですから私たちが
聖霊を宿すことなしに生きているとしたら、本欄の造られた目的
から逸脱し、真の生きる喜びを感じることができないでしょう。
聖書の記述が科学的真理であると、一字一句信じ、現代の科学
を否定する必要は無いと思います。しかし、もしリベラルの方が
聖霊を信じず、実感もしていないとしたら、キリスト教の真の在り方
から逸脱していると思います。 一言でリベラルどうのこうのいえないと言いながら、リベラルは聖霊を信じず実感しないと決めつけてるのは何故なのだろうか? ごちゃごちゃ書いたので見づらかったかもしれませんね。
「もし、リベラルの方が、聖霊を信じず。実感もしていないとしたら」
という仮定の話しですので、決めつけているわけでないことを
ご理解ください。m(_ _)m 阪神の桑原の魔球は、ヤンキースのリベラの
魔球に似ているのじゃ ヤンキースのリベラとかいう投手も
マッスラーが凄いのか? バカ野郎!
リベラじゃなくて、デブ!デブ牧師が、臭いんだよ!デブは 汚物! 主よ、今日も聖霊に満たされた歩みを続けさせて下さい。
この世には、そして自分の内側には聖霊に満たされることを妨げ
罪に誘う種々の要因で満ちています。もしいっときでも自分が聖霊
の宮であることを忘れ、自分の欲望にとらわれるならば、聖霊の
ガードを失い、罪の深みに落ち、汚れと罪と怠惰の繰り返しに落と
されてしまうでしょう。
神様はそのような罪深い私を哀れみ、そこでもう終わりだと裁か
れることをなさらないことは知っております。しかし神様のその限り
ない哀れみがあることに乗じ、今だけは見逃してくださいと罪を犯
してしまう私の弱さを憐れみ下さい。
私たちはいつでも選択の帰路に立たされています。聖霊を選ぶか
自分の内側の欲望に従うかのどちらかです。経験上欲望を選んだ
場合、得ることの出来るものは、使えばなくなってしまう一時的な
自己欲求の満たしと、聖霊を失った後悔と悲しみだけです。
どうか私の目を開いてくださり、常に聖霊の望むところが真に自分が
望んでいることであることをわからせて下さい。それ以外のものは
本当に虚しいことをしっかり理解できるようにして下さい。
主の御名によってお祈りいたします。 キリストは嘘をついてしまう。。嘘も方便というがキリストのはそれがあまりにも多すぎる。
しかも人に迷惑をかける嘘ズルをしてしまう。で表面上は「取り返したげるからね」と言って
おきながらキリスト教は正しく物事を取り返しちゃんとやろうとしている人の邪魔を多大に
してくる。
ヤーウェは人にはガンジーにならなきゃならないといっておきながら、肝心の自分が人格形成
が今現在がちっともできてない。力と洗脳で無理やり従わせてるだけ、で結局したのものに
力なども追い越されてしまってる。
釈迦は自分が失敗するとはそこを正当化し他の本当に成功している方をけなす。で、だまして
まわりをみんな駄目にして駄目ばっかのなかでは自分が一番勝ってると錯覚して誤魔化してしまう。
アマテラスはスサノオのに洗脳されてから何が正しくて何が間違ってるのかまともな判断が
出来ない。みんなスサノオ(桐山)のいった阿含経が唯一正しいならそれをつかってなおすといい。 >この世には、そして自分の内側には聖霊に満たされることを妨げ
罪に誘う種々の要因で満ちています。もしいっときでも自分が聖霊
の宮であることを忘れ、自分の欲望にとらわれるならば、聖霊の
ガードを失い、罪の深みに落ち、汚れと罪と怠惰の繰り返しに落と
されてしまうでしょう。
ウェスレアンから続く、しんどそうな信仰やなあ・・。
ポジティブシンキングのカリスマ主義よりはいいだろうが・・・。 主よ、罪深い私をお許し下さい。そして、再び聖霊に満たして生きる
ものとして下さい。罪の行いの虚しさを知り、それにとらわれない
開放されて、聖霊によって満たされて生きるものと変えて下さい。
私達が、罪を捨て、聖霊と共に生きることを選ぶ時その時に
貴方様が、十字架の贖いと許しと復活の御力とをもって
全く、清められたものとしてくださることを信じ、感謝します。
どうぞ、主の贖いの御力によって、聖霊お共にいかされる
日々を送ることができますように。
主の御名によって、お祈りいたします。 主の御名は褒むべきなか。主は罪に汚れた私達の心を瞬時にして
清めてくださる。私達の罪がいかに大きく、心の汚れは果てしなくても
主の御力は、瞬時にして私達の心を作り変え、清く聖なる者として
くださいます。主の私たちに対する哀れみと愛と慈しみの思いは大きく
それにまさるものはないからです。主はアフファでありオメガであられ
ます。世界の作られる前から存在され、その言葉によって世界が
作られました。その哀れみと愛と力が、彼を信じるものに働かれる
ときにそのような罪の深みからでも、私達を救ってくださいます。
救われて新しく作られたものとして、生かして下さいます。 もう、罪にしがみつくことを止めます。いつまでも、この世の罪にしがみ
ついて離そうとしない手を開放します。これ以上しがみつくことを止め
ます。私と罪とは何も関係が有りません。私は聖霊と共に歩くことを
選択します。私は罪に死に聖霊に生きるのものです。全ての絡みつく
罪を振り捨てます。私のこの思いを、主は世にある限り、永遠にお守り
くださいます。 罪と離れたいのは、世間体や人の見る目のためではありません。
単純に、罪に落ち込む自分のことや、罪自体の行いが嫌だから
です。嫌いなだけです。聖霊に満たされることと、罪に満たされる
こととは、相容れません。どちらかを選ぶ必要があります。であれ
ば、私は、単純に、罪に満たされることより、聖霊に満たされること
を望みます。聖霊に満たされることこそが、真の命だからです。
外見が生きているようにみえても、内面が罪に満たされて死んで
いる状態で生きていたいくないからです。外見はどうであれ、内面
が精霊によって満たされ、生かさせれていることを望みます。 私達の本質は神様によって、聖く良いものとして作られました。
ですから、そこが罪で満たされると悲しみが、聖霊で満たされ
ると、喜びが湧いてくるのです。私たちは自分が作られた本質
を誤ることなく、その本質のために用いられるべきです。 私達は、聖なる清いイエス・キリスト様の霊を土台として
チリから作られたものなのです。 ですから、私達がいかに罪で汚れているとしても、私達の本質自体が
罪で汚されてるわけではありません。聖なる清き本質の中に罪の汚れ
が一時的に入り込んでいるだけに過ぎないのです。私たちは常に自分
の本質に気付いているべきです。 ある存在がその存在の本質と異なるものを身にまとっては
いけません。そうであるなら、存在そのものが否定されます。 では、なぜ私たちは聖なる霊に導かれる必要が在るのでしょうか。
それは、聖なる霊にだけが永遠の命に至る道を示してくれるから
です。それ以外の霊が導く先は、永遠の命に至ること無く、一時期
は、その命が栄えるように見えることもありますが、最終的には滅
んでしまう地にしか私達を導くことができないからです。
聖なる霊に導かれた目的地こそが、永遠に尽きることのない命に
至る、真の創造的価値を持つ目的地だからです。 もはや肉に生きる古い時代は終わったのです。
聖霊に導かれて生きる新しい時代が始まったのです。
「見よ古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。」
このことは、今の時代で聖霊と共に生きる者にとっては
まさに現実の出来事なのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています