仏教議論スレッド 119 [無断転載禁止]©2ch.net
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周りのエネルギーと同化するということは・・^^
アートマンと言う言葉では表せなくなるということかな・・^^ >>88
輪廻の原因は根源的な欲望(漢:渇愛)です。
これがなくなると死ぬ瞬間に心が次の身体を探さないのでその身体の機能停止を最後に生は終わります。
そのまま身体の機能停止とともに心が完全に消えるのかどうかは二千年以上、仏教徒の間でも論争になってます。
完全に消え去る、なにかしらが残る、涅槃のあとも心の流れは続いて衆生を救うために活動するなど
色々な意見があります それがあなたの悟り体験ってことなんだね
そんなことより野球したいな う〜〜ん^^
無分別の境地ということにしておこっと^^ 大乗庶民だとどうも悟りや涅槃寂静への興味がさらさら湧かないな
慈悲と縁起があれば楽に死ねる >>93
>ゴメンその上での諸行無常、諸法無我と瞑想の境地が涅槃寂静
こういう野狐禅の俺様仏教をテキストに沿って厳密に否定したのが魚川祐司氏の「仏教思想のゼロポイント」 輪廻の原因は執着だね^^
脳に記憶をさせる機能かもしれん^^
生命活動に最も重要な機能が・・^^
逆に苦を生じさせている^^
つまり・・^^ >>107
普通の人のための仏教、瞑想入門の方が興味深いです >>94
経典でアートマンに触れてる部分があるんですが。
気になって夜も寝れんのです。
感興のことば(ウダーナヴァルガ)27章「観察」40
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
・・・どう解釈されますぅ(´・ω・`)? 仏教への拘りも過ぎると苦なんだよな。
だかしかし仏教に拘り過ぎないとその先への止揚がない。
そしてその先にも終わりがない。 >>92
現に日本人にはこういう「悟ってる」人がいっぱいいるから厄介なんですよ
>日本人は死者と冥界への恐れを持つ民族で
↑これは真っ赤な嘘で、日本民族の固有の宗教観である「悟り」=「死への恐怖をなくすこと」という固定観念で考えてる
その結果がこれ↓
>慈悲と縁起があれば楽に死ねる
日本人に固有な「武士道とは死ぬことと見つけたり」とかあの辺の武家や儒学の無神論が混ざり合った古い思想を前提に解釈してるのに
自分は中立客観だと思ってるというね…
ニカーヤ、阿含経などの原始仏典や、龍樹、月称、アティシャ、レンダーワ、ツォンカパなど中観派の諸テキストには
「悟りとは死を恐れないこと」なんて一言も書いてないのに >>113
それはあるでしょうねえ。
武士が労働者になったようなもので。
「勤労とは死ぬことと見つけたり」と過労死するまで働くでしょ。
無意識に労働が修行になってるのかも。
>>「悟りとは死を恐れないこと」なんて一言も書いてないのに
逆に仏典では悟りを「不死の境地」と表現してますね。
話がズレた。
本当はアートマンの勉強がしたいのに(´・ω・`)ボソッ >>103
「生きたい」「死にたくない」というのも欲望だと。
死を恐れなければ次の肉体を探さなくていいから輪廻が停止すると。
それが悟りですか?
>>113
ということは「悟りとは死を恐れないこと」になりますけど・・・
ちがうんですか(´・ω・`)? >>111
だれもアイデア出さないなら私が書きますけど。
ウダーナヴァルガのサンスクリットと該当箇所のチベット訳を見てみましたけど、
26-27章は脱落が多いですね。偈が二つ連続で丸々解読不可能なのもあって、
校勘用の写本が圧倒的に足りないんじゃないかと。
---------
duhkhaṃ yad ayaṃ na paśyati tad apaśyann ātmeti paśyati |
duhkhaṃ tu yathā tathā prapaśyann ayaṃ ātmeti sadānupaśyati |27,40|
http://www2.hf.uio.no/common/apps/permlink/permlink.php?app=polyglotta&context=record&uid=80ac49d0-d1a0-102d-8356-001cc4df1abe
---------
以上が原文です。 >>111
私の訳だと、
「苦しみを見ない人、かれは(真実のままに)見ることなくして、「アートマンがある」と見る。
しかし、苦しみを真実のままに明らかに見ることで、かれは「アートマンがある」と常に随観する。」
"ātmeti" は「(なにものかが)アートマンである」よりも「アートマンがある」の方が素直なんじゃないですかね。
「なにものか」って何だよって思いましたよ…。
で、この偈は端的に言って意味不明ですね。苦しみを見ても見なくても「アートマンがあると見る」んだから。
(もしくは「(なにものかが)アートマンであると見る」。)
チベット訳だと
それによって苦しみを見ないそのとき〔彼は〕アートマン〔という見方〕において見るだろう
ありのままに苦しみを遍く知るのでアートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう
となるので、ātmeti sadānupaśyatiはチベット訳の原文ではātmeti sadānapaśyatiだったかもしれません。
これだと「『アートマンがある』と見ることは常にない」という意味になりますね。
英訳も大体そのように解釈しているようです。(he perceives not form)
26-27章のサンスクリット原文は大きい脱落があって、偈が丸々解読不可能なのもあります。
校勘用の写本が圧倒的に足りてないとしか思えないので、
チベット訳の「アートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう」に従っておくのが穏当じゃないかなと
>>116
>死を恐れなければ次の肉体を探さなくていいから輪廻が停止すると。
いえ、渇愛(タンハー)がなくなると輪廻が停止するのです。
死を恐れなくても、五欲を楽しませたい欲望がわずかにでも残っていたら輪廻します。欲愛(カーマ・タンハー)といいます。
そして、たぶん「死ぬことと見つけたりぃぃぃ」と発見したお侍さんも>>106さんもしぶしぶ納得してるか、脳内物質がドバドバ出てるだけだと思いますので、
生存欲をちゃんと枯らし尽くして、「この世界は汚いし、苦しいからもういいや」と厭離(パ:ニッビンダティ)しないとダメですね。 >>117
どうもです(´・ω・`;)汗
これをストレートに読めば、仏教で観察とはアートマンをみること。
でいいんでしょうか・・・
いきなりアートマンという用語に言及してるのはここだけなのか、ビックリして。
前後の脈略でアートマンの否定じゃないかという意見もあるし。
解読お願いします<(_ _)>寝ます。ではでは。 >>118
プロのご意見どうもです。
>>チベット訳の「アートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう」に従っておくのが穏当じゃないかなと
あちゃ〜、やはりそうですか。
結論、仏教はアートマンを否定してる。
私のアートマン探究の旅はここで終わりそうです(´;ω;`)
ご教授ありがとうございました<(_ _)> 『無我相経』(阿含経)
色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは
アートマンにあらず。アートマンにあらざるものは、私の
ものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。
このごとく正しき智慧によって如実にみられるべきである。
五蘊は我がものあらず、いただきものである――諸法無我。
五蘊がアートマン
という自己の主体であるならば、すべては自分の思い通りにな
るはずであるから、思い通りにならないものはアートマンでは
ないということである。また自分の思い通りにならないものは
私のものではない。みんなもらいものの寄せ集めであって、そ
のそも私と呼べるものは何もない「無我」だということである。
ふむふむ^^ 五蘊皆空か・・^^
変化するものはアートマンにあらずか・・^^
1:色、受、想、行、識は常に変化しており(無常)、アートマン(我)のような
変化しないものものは存在しない。霊魂のような不変の中心点もない。
アートマンを仮定しなくても人間存在は五蘊で理解できる。
つまり、五蘊無我説は無霊魂説である。
ほほう^^ 哲人ヤージニャヴァルキヤは脳機能が分からなかったので
人間の内部には神人(プルシャ)がいると誤解した。
アートマンとは脳機能を誤解したもの。心は心臓に存在する内部の光である
という考えは古代各地にある。例えば、中国では古くから心は心臓にあると
いう考えが支配的だった。心臓とは文字通り心の臓器の意味である。
このような考え方は世界共通の考えである。
アートマンとは脳機能が分からなかった2000年以上前の古代インドの考え。
ほほう^^ このことは出家したブッダの目的の一つは当時の大問題であった
「アートマンとは何か?」の問題を解決することにあったことを意味している。
つまり、自己の探求である。
しかし、彼の結論は「このようなアートマン(我)はいくら探しても無かった!」という
無我の発見であり主張であった。
ふむふむ^^ 「アートマンとは脳機能が分からなかった2000年以上前の古代インドの考え。 」
そうきたか^^ 「五蘊は我がものあらず、いただきものである」
いただきものね^^ 色、受、想、行、識は常に変化しており(無常)、
アートマン(我)のような変化しないものものは存在しない。
う〜〜ん^^ 思い通りにならないものはアートマンでは
ないということである。また自分の思い通りにならないものは
私のものではない。みんなもらいものの寄せ集めであって、そ
のそも私と呼べるものは何もない「無我」だということである。
五蘊仮和合か・・^^ アートマンへの探求から五蘊諸行無常諸法無我を発見し
輪廻転生もまた五蘊諸行無常諸法無我で説明できるという論理で完結してて
それ以上掘り起こす必要はないと思うけどなぁ
理解を助けるのは十二支縁起や十二処や十八界か
般若経や維摩経なんかの大乗の考え方も俯瞰して観ると良いかも知れない
後はそれをどの様に腑に落とすか
信仰心や瞑想や八正道や菩薩道がその役割を果たすんじゃないかな こう考えていくと・・・^^
皆空になっちゃうんだよな・・^^
ね^^
龍樹ちゃん^^ 混沌から秩序が生まれ・・^^
そして・・混沌に還る・・^^ 幾度となくもたらされた執着と絶望をこの仏教によって潜り抜けてきたからなあ
絶望無くしては悟りに近づくことはないのかも知れないね
瞑想は絶望を直視すること有りきなのかも知れない
そして一切皆苦と慈悲が混ざり合って、うっかりこれで良いのだってなっちゃうんだよね 「苦なるものはアートマンにあらず。」
まっ・・^^
アートマンという言葉にこだわらないのが正解だな^^ 涅槃寂静や梵我一如みたいなのを超人の様に捉えて
超人への変身願望を支えにするところまでは方便としてありだろう
仏教を勘違いしちゃうというか、変な方向にぶっ飛んでいく人ってのは
劣等感や絶望から目を逸らしたまま超人主義で前に進めなくなってる感じなんだよね
絶望して、超人は仏だけなんだと気付いて、自分は普通であり一切皆苦であることを受け入れた先には慈悲という真愛が降り注いでくるよ 絶望って自分のおもい通りにならないってことでしょ^^
そもそもその自分というものが何かと考えていくと・・^^
それは非我であるんだよね^^
我執から解脱できないと一生苦しめられる・・^^
まだ五蘊の支配下に置かれてるということだね^^ 絶望は我に執着するから生じるんだな・・^^
そこから解脱できれば涅槃寂静の境地に到る^^ 慈悲って分別がなくなった時に生じると思うんだ^^
無分別の境地に到った時にね^^ 基本的に絶望から眼をそらしたままだと我執は乗り越えられないだろうと思う 「無分別」
「分別」は、心が外界の事物を思いはかり、善悪、苦楽などを区別する意味で、
世間では「分別ある人」といえば 立派な人で、逆に「無分別な人」といえば、
いい意味に取られない。
しかし、仏教では「分別」は良し悪しを区別 するところから、煩悩にとらわれ、
欲に執着する凡人が勝手に作り上げた妄想の世界であるから、この「分別」を
排した「無分別」の境地を最高とする。「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」が
「無分別」の精神で、特 に禅宗では、「無分別」は無の境地に通じるものとして、
そうなることへの修行を欠かさない。
ふむふむ^^ 絶望とは・・欲に執着する凡人が勝手に作り上げた妄想の世界^^ 「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」
だれが上手いこと言えと・・^^ 絶望してる人は・・^^
「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」
これを毎日実践することをお勧めする^^
つまり・・^^
執着から離脱せよ言っている^^ >>107
そのひとの著作である
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4344984366/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4344984366&linkCode=as2&tag=blife01-22
こっちの方が真意に近いよ 大乗を取るか上座を取るか原始仏教を取るかはニーズへの答えでしかないんだろうな 例えば、引き篭もりという現実の絶望感から仏教の涅槃寂静に希望を見出してる人は
引き篭もりと生活苦という絶望から目を逸らしがちになる
ここから目を逸らすことに捉われてたりこだわってたり偏ってたりしてる
目を背けずそのままを受け入れ感謝できる様になることで無分別に近づくことができる 「人の視線が怖い」 恐怖は外で起こっているのではなく自分の中で起こっている
https://www.youtube.com/watch?v=gKz0g7JS9Ik
ふむふむ^^ >>118
よくわからないのですが、とにかく言えるのは、
中村元の翻訳は間違ってるということですか(´・ω・`) >>158
サンスクリットのテキスト自体が怪しいだけで別に翻訳が間違ってるわけじゃないです。
sadān-u-paśyati の u をsadān-a-paśyatiに一文字変えただけで意味が正反対になりますから
ちょっとテキストが信頼できないなあという印象です。
チベット訳のように「アートマンがあると見ないであろう」とした方が前後の偈とつじつまが合うでしょう? >>159
サンスクリット原本が怪しいのか・・・・
うーん、しかしオリジナルテキストは「アートマンがあると見ましょう」なんですよね。
チベット訳を信頼するかサンスクリットテキストを信頼するかと問えば後者じゃないのかなあ。
なんでチベット語に翻訳した人は逆の意味に訳したんだろう。
まるでアートマンが肯定されたら不味いという忖度が働いたのか・・・!?
すいません、ド素人の妄想です(´・ω・`) >>159
他スレで聞いたのですが、
下手なサンスクリットのテキストよりチベット訳のほうが信頼があるのですね。
失礼しました<(_ _)> >>160
中村先生の翻訳はフランツ・ベルンハルトという人が校訂したテキストに基づいていて、
先生自身が「理解しがたい箇所が少なくない」と述懐されているサンスクリット本です。 >>161
真摯な方で助かります
自分の考えをちゃんと批判的に検討できる人は2chに少ないですから >>162
そうですか(´・ω・`)
>>163
他スレでも議論したのですが
チベットでは捏造されたお経もあるしチベット訳は信頼できない。
という意見も出たのですが・・・・どうなんでしょ?
どうなんでしょ?と言われましても困りますよね(´・ω・`) >>164
チベットで捏造された経典とか呼ばれるのはたぶんテルマ(埋蔵経典)のことですね。
大昔に悟った聖者が未来にふさわしい人物が現れるまで地中に埋めておいたものとか。
「チベットの死者の書」(バルドゥ・トェ・ドル)とかああいうのがそうです。 >>165
わかりました。
話はかわりますが
仏教でアートマンは否定されてるのならば、なぜブラフマンは否定されてないのでしょうか(´・ω・`)? >>166
基本的に方便や中観があるから、アートマン自体も明確には否定してないんじゃない? >>167
アートマンは空と同じという意見があるんですが。
どうでしょうか(´・ω・`)? >>168
分からない。けど個人的にはピンとこないな。
空は諸行無常、諸法無我、一切皆空の概念だから、アートマンの入る余地は無い様に感じる。
むしろブラフマンの方が近いんじゃないかな。 >>169
アートマンとブラフマンは同一らしいです。
しかし梵我一如とは意味がちがうと言われました。
諸法無我とは一切をアートマンとして見る法だとも。
これらの意見について見解をお願いします<(_ _)> >>170
なるほどね。
諸法無我の法や我をブラフマンやアートマンと言い換えただけなんじゃないかな。 >>171
そうですね。
それで意味が筋が通るのか・・・
気になって夜も寝れんのです(´・ω・`) >>172
自分の中では答えはもう出てるんでしょ?
なして御釈迦さんにこだわるのよ アートマンとブラフマンという語が、
それぞれの文脈で日本語の何に該当するのか、
その都度置き換えて考えてみるといい。
あれもこれもをアートマン、それもどれもをブラフマンと呼び、
その挙句、アートマンとブラフマンが同じだというのでは味噌糞。 何度も忠告したはなしですが、初詣は成田山や不動の神社へは一切いってはいけません。
みんな、不幸におとされます。一見よくなったように見えても、それはもとで不動が
嫉妬や僻みで悪くなるように仕組んできておいて、「大難を小難に小難を無難にしてやってるんだ」
と表面は嘘をついているのです。障害者になる運命じゃないものを障害者にしたり、
借金地獄の運命じゃないものを借金地獄にしたりしています。古代から何万年と人類や
他の神仏をだましてきています。オーム真理教と同じです。
不動にだまされ最初におろした空海もおまいりしてはいけません。
明王は他のアイセンミョオウや降三世明王などをおがむようにしてください。
あるいは月読神社などに初詣はいくようにしてください。 ☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。国会の発議は
すでに可能です。平和は勝ち取るものです。お願い致します。☆☆ でも今は母語の人ほぼ居ないから
昔にバイリンガルだった人の漢訳に頼った方がいい キリスト教=誰かの為に戦う正義、福祉、人権、愛 仏教=個人的な悩み解決
私が仏典よりも聖書において、何かしら心に響くものがあるとすれば、そのひとつは、社会正義の問題があるように思う。
アモス、ホセア、イザヤ、ミカといった預言者たちは、当時の社会を真っ向から批判し、社会正義を求め、
貧富の格差と闘い、民族全体の悔い改めと救いを求めた。
それと比べて、仏教は、個人の救いばかり求めて、非常に社会性や社会正義が希薄と思う。
もちろん、七不退法や、長部経典や増支部経典の中の社会が繁栄するための方法などをピックアップすれば、仏典にも社会性がないわけでもないと思うが、基本的にあまり社会正義は仏教においてはそもそもテーマにもなっていないとは
言えるだろう。
べつに、だから悪いとは一概には言えないのかもしれない。
そもそも、社会正義などどうでも良いという立場もありえるだろうし、社会正義など言うから争いが起きるという意見も
ありえるのかもしれない。
しかし、私自身のことを言うならば、社会正義に無関心で、個人の救いだけを求めるのは、
どうもあまり心に響かない気がするし、勇気とならない気がする。
むろん、社会正義などに拘泥するのはまだレベルが低い段階で、本当にすぐれた境地の人は社会を捨てて
解脱の道に励むという考えも成り立ちうるのかもしれない。
べつにそういう考えの人はそれでいいのかもしれない。
しかし、私自身に限って言えば、アモスやホセアやミカやイザヤの言葉を聞く時に、はじめて心が燃え、
生きていく勇気をもらえる気がするのである。
したがって、私は、聖書を愛読する。 日本のキリスト教の多くは、旧約をろくに読まない人も多いらしいし、
社会正義には無関心なクリスチャンも案外多くいて、その点では別に
仏教とさほど変わらない場合も多いのかもしれない。
私が仏典よりも聖書を日頃愛読するとすれば、その理由の大きな一つは、
旧約、特に十二小預言書なのだと思う。
したがって、ろくに旧約や十二小預言書を読まない一般的なキリスト教は、
やはり同様にさほど心惹かれないし興味が持てないものではある。 日蓮正宗から破門された分派の創価学会を重要視し、
正統な日蓮正宗を蔑視し弾圧する韓国の異常性。
韓国民族団体ら「日蓮正宗の法人設立許可の取り消しを」
http://japanese.joins.com/article/900/239900.html?servcode=400&sectcode=400&cloc=jp|main|top_news ・旧約・新約聖書
・コーラン
・タルムード
・アヴェスター
・仏典
・リグ・ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ヨーガ・スートラ
・孔子、老子、荘子
ぐらいはやっておくのがいい。 >>181-182
まず己を救ってから他人を救う
この考えが仏教にはあるからだろう
磔になって己もろくに救えてないイエスに
何が出来るのか >>181
いかにもな正義
虚飾で塗り固められた
そうせずには居られないし
他人にも宣伝しまくるし押し付ける
強制する
善人だと認められたい
こんなん出ました >>188
仏は90近くあった当時のインドの宗教を
ことごとく外道と定めたてまつりたもう >>189
返答になってねえよ
何かの教えだけが正しくて他は劣等みたいな物言いはおかしいっつーの >>193
釈迦仏を敬うなら法華経を敬うべき
法華経を敬うなら釈迦仏より重い法華経の行者を敬うべき 194.
比較のできないバカである。バカ丸出しである。 日蓮は御書によりますと、山籠もりで雪を食べて体調を壊したようですね、
やはり日蓮は山伏笑
999晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:40:23.64ID:T6uRiYoq
>>997
日蓮は三度国をいさめた後の山籠りであって
最初から最後まで山にこもる山伏とは違う 993晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:34:52.21ID:T6uRiYoq>>997
>>987
末法には山にこもる修行を日蓮が
否定してることを知らないのだろう
997神も仏も名無しさん2018/03/30(金) 19:37:32.92ID:2I9FbPj7
>>993
身延山に籠った日蓮はうそつきですね笑。晃君、日蓮をついに断罪。
無学な晃君、痛すぎですよ。 >>197
法華経の御敵を責めずして
山林に閉じ篭り摂受を修行せんは
豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
とある…日蓮は充分折伏し尽くした後の
山籠りであったために、ただの山伏とは一線を画する >>198
晃君、御書も俺より無学笑
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/05/225.html
日蓮大聖人の身延での御生活ぶりがしのばれる。身延を領地に持つ地頭の波木井の庇護のもと、
悠然と生活されていたのでは決してなかったのだ。なにも食べるものがなく雪を食べて飢えをしのがれているとき、
晃君に日蓮知らずは滑稽だな、いつものことだが笑 晃君は御書の範疇でも劣等生で妄信派だなあ笑。
あきらショック100パーセント?笑。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています