2014年(主日A年) 4月27日 復活節第2主日
使 2:42〜47  Iペト 1:3〜9  ヨハ 20:19〜31

キリストの復活を教会が祝うとき、それは私たちの救いを感謝して賛美しているのであって、それは先ず第一に私たちを新しく生まれさせてくださったということであり(ヨハ 3:3-7、IIコリ 5:17)、
第二に私たちが御国を受け継ぐ保証を与えられたということです(ロマ 5:2, 8:17、エフェ 1:8-14)。

「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(Iペト v.3)
「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト v.4)

私個人の正直な体験から言うと、教会には 「イエス・キリストが現れるとき (来臨/Iペト v.7) を待ち望む信仰を共有していると感じることの出来る信者と、そんなことはまるで信じていない人とがいて、
後者のような人から “ご復活おめでとうございます” などと挨拶されると、ゾッとすることがあります。
キリストの復活は、そんな安っぽいものではない ! と、叫びたくなってしまいます。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使 v.42)

“使徒の教え” は “ことばの典礼” において、“相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること” は “感謝の典礼” において、それぞれ実現されるものです。
第二バチカン公会議後のカトリック教会は、そのような典礼を目指して刷新の努力を進めて来ました。
残念なことに、多くの小教区のミサにおいて、“交わり” という言葉がミサを指している (Iヨハ 1:3) とは、ほとんどの人が知らないでいるのです。
原始教会の共産生活などと言って、当時でさえ長続きはしなかった一つの現象を、キリスト教の理想ででもあるかのように掲げるのではなくて、私たちのミサが “真にミサになる” ことをこそ目指して行こうではありませんか。
それは信徒と教導職を含めた “信者たち皆一人一人”(使 v.44) の喫緊の課題なのですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より