2011年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26  Iテサ 1:5〜10  マタ 22:34〜40

旧約聖書で語られているこれらの “人道的律法” を、その救済史的背景から切り離して読んではなりません。
「あなたたちはエジプトの国で寄留者であったから」(出 v.20)とは、この律法を命じる方が 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国から導き出した神である」(出 20:2)という意味に他なりません。

言うまでもなく、教会でこの律法が朗読されるとき、私たちは 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 だから、自分の体(自分の教会生活)で神の栄光を現しなさい」(Iコリ 6:20)という意味で理解するのです。
それは何よりも先ず “キリストの体を造り上げてゆく” ための、また “互いに愛し合う” ための勧めとして聞かれるべきであって、決して一般的な道徳やクリスチャンの美徳のようなものに解消してはならないものです。

過去の我が国の教会は、しばしば浅はかであって、外の人々に向かっては “神を愛し隣人を愛しなさい” と言いながら、教会自らの内部では “実行しない”、つまり “人に見せるだけ”(マタ 23:3-5)という傾向がありました。
決して悪意からではなくて、ただ大多数の信者が怠慢で福音に無知であったということです。
“論語読みの論語知らず” とは、我が国では教会のことでありました。

しかし、感謝しましょう。 主日のミサで聖書の朗読を聞いている会衆は、確かに神のことばを聞いているのです。
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ 8:34)
父なる神が、私たちの心の目を開いてくださいますように。(エフェ 1:18)

・・・・・ 以下、本文参照。
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