覚醒を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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昨日、今日と、とてつもない瞑想が起きた
瞑想には種類があって
完全に消える瞑想と
言葉がある瞑想
どちらも、とてつもない神秘としか言えない 多くの人が、坐禅だとか密教だとかキリスト教だとかに救いを求める
が、多くの人はそれに失敗するか、成功したフリをして自己欺瞞に終わる
一体それはなぜなのか?
人は苦しみ故にその道に入る
が、その苦しみを産んだ、比較の世界をその宗教にすら持ち込む
そしてその宗教ですら苦しみを産むものになってしまう 恐怖という反応の大きさは過小評価されている
自我は恐怖によって機能している
恐怖がないと言ってる人がいたとしたら、それは単に気づいていないだけだ
人間が人間である限り恐怖は機能する
人間が恐怖から自由になる事はできるのだろうか? 恐怖は火災報知器のようなものだ
それが無くなる必要はない
ただ、それが鳴った時に、火事でないなら切らなくてはいけない
だからまずすべきなのは恐怖が起きた事を知る事
次に、それが火事か火事ではないかを知る事
つまり死ぬか死なないかを。
それが死なない事であるならば、火災報知器を切らねばならない
そしてこの『火事ではない』、と本当に知る時に火災報知器は鳴るのを止める。
つまり恐怖は消えている。 自分が出した答え、意見、視点を盲信してはいけない
それはいつでも歪んでいるし、歪んでいる事にすら気づけないのだから
自分ではない記憶から出る答えがあるのか? 思考、判別する行為が止まる事はあるのか?
思考、判別する事を止める事はできるのか?
考えない、という事を思考によって、つまり言葉によって実現するのは困難だ
それを実現するのは抽象度の高い世界、仏教的な用語で言うならば空の側に立つ事だ
人間の枠を外す事だ 空の中で、大きな衝突が起きて、その時に稀に出る火花
愛はそのようにこの世に表れる
そして人間の本性はそれを求めている 四法界
事法界(じほっかい)
我々凡人の普通の物の見方である。
理法界(りほっかい)
すべての物に実体はなく、空であるという見方。
理事無礙法界(りじむげほっかい)
実体がなく空であるという理と具体的なものごとが
妨げあわずに共存しているという見方。
事事無礙法界(じじむげほっかい)
一切の物が空であるという理が姿を消し、
一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。 十牛図(wikipediaより抜粋)
尋牛(じんぎゅう)
牛を捜そうと志すこと。
悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
見跡(けんせき)
牛の足跡を見出すこと。
足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
見牛(けんぎゅう)
牛の姿をかいまみること。
優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
得牛(とくぎゅう)
力尽くで牛をつかまえること。
何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
牧牛(ぼくぎゅう)
牛をてなづけること。
悟りを自分のものにするための修行を表す。
騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛の背に乗り家へむかうこと。
悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
家にもどり牛のことも忘れること。
悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
すべてが忘れさられ、無に帰一すること。
悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
返本還源(へんぽんげんげん)
原初の自然の美しさがあらわれてくること。
悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
入鄽垂手(にってんすいしゅ)
まちへ...
悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、
別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。 ★洞山五位
正中偏 三更初夜月明の前。怪しむなかれ相逢うて相い識らざることを。
隠隠として猶お旧日の妍を懷く。
偏中正 失暁の老婆古鏡に逢う、分明覿キ面なるも更に真無し。
更に頭に迷い還た影を認むることを休めよ。
正中来 無中に路有り、塵埃に出ず。
ただよく当今の諱に触れずんば、また前朝の断舌の才に勝(まさ)れり。
兼中至 両刃鋒を交えて避くるを須いず。
好手還って火の裏の蓮に同じ、宛然として自ずから衝天の気有り。
兼中到 有無に落ちず誰か敢えて和せん、人人尽く常流を出でんと欲す、
折合して炭裏に還り帰して坐す。 人はなぜ何かを信じたいのか?
崇めたいのか?
釈迦を神のように崇めたい
キリストを神のように崇めたい
完璧に素晴らしくて、嘘をつかず、人を騙したり私利私欲で溺れたりしない、そういう存在として崇めたい
完璧な存在への憧憬
まるで子が親を慕うように 13.
それは、対象としての、釈迦、神の問題である。
それは宗教ではないよ。 何かにすがりたい
崇高な誰かがいると信じたい
それはなぜか?
その欲望は自我の安心、安定への欲望からくる
恐怖からの逃避という自我の働きだ
目指すべきゴールがあるという希望。
もしそれがなかったら?
その虚しさに苦しむ 人の行動は自我の働きだ
自我が変化すれば人の行動も変わる
だが、自我が変化するという事が本当の意味であるのか?
自我は機械的で独善的である
それがなんら自己欺瞞を含めずに変化する事があるのだろうか?
自我とは異なった認識がある
記憶や自己防衛反応を持たない視点に立った認識がある
そこに立った時、自我によらない新たな行動が生まれるチャンスが訪れる 大抵の物事は
危険極まりない
どうしようもなく
具体的な物事は
危険極まりない
最もハッピーな事は
辛抱すること
最も神妙な事は
神抱すること
目的の追求には
救うという目的がある
救いの追求には
辛抱するとあう事物がある 辛抱する事は
辛さを抱える事だ
辛さを抱える事が幸せなのだ
救いを追求するな
追求が必要なのは救いだ
辛抱する事
そこに救いの追求がある 一人の人間が世界を内包する
その世界とは蠢く生命であり、生き生きと、好き勝手に動く。
一人の人間はその世界を内包するが、その動きを思いのままにする事はできない
一人の人間にとっての世界は、別の人間にとっての世界とは異なる
が、しかし一人の人間が内包する世界においては別の人間は同じ一人の人間である
自分と他人との区別はない
自分と分けられるものは何一つ存在しない
全てが自分である
生命それぞれが固有の世界で生きている
それと同時に『その世界、つまり生命それぞれの固有の世界において』は他の生命と全く同じ存在なのだ
つまり、生命とは生命の中においては個別ではない
が、生命の外においては個別である
しかし、生命の外を生命は認識する事はできない 遠い思考経路を辿っていくと
迷路のような王宮に辿り着く
迷いは果実になり
路傍の土と帰す
太陽は刻む
時を
虹を
迷宮を
泥人形が迷い果てる時
迷いの血の薔薇が咲き誇る 瞑想は固定概念を外していく経路だ
一体それがどこまで外れるのか、外れているのか、結局の所、わかる事があるだろうか?
ある人は坐禅や仏教の雰囲気に寄ってしまう
ある人はキリスト教の価値観から離れられない
ある人は独善的な思い込みから逃れる事ができない
どんな人でも植え付けられたものから完全に外れる事はできない
ただ瞑想がそれを可能にするが、その瞑想が既にある雰囲気、思い込み、理想を持っているなら、それはその事自体が足かせとなる あなたの世界は
あなたの世界です
あなたの世界での私は、あなたです
私の世界は
私の世界です
私の世界でのあなたは、私です
あなたは私の世界に入る事はできません
私はあなたの世界に入る事はできません
あなたの世界では私はあなたです
私の世界ではあなたは私です 私の世界でのあなたは私です
その私であるあなたの世界を私がみる時
その世界はやはり私です
あなたの世界を私はみる事ができない 私がみるあなたは私です
私がみるあなた、想像するあなたが常に私であるなら
あなたの世界は存在するでしょうか?
少なくとも私にとっては存在しない
つまり、『全てが私なのだ、少なくとも私には。』 末法の世が拡がる
観音菩薩が末法の世に現れる
恐竜はもういない
政治は末法の世に拡がっていく
テニスボールの法治国家は
既に愛する色彩
カエルの墨汁
宇宙に染み入る >>22
確かにいい感じに出来た瞑想体験があるとそれを基準にしてしまって変なこだわりが産まれた事がある
難しいなぁ 多くの苦しみや迷いが、
『自分がどうにかできる』
と思う所から生まれる 2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本を始め、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
単なる読書本ではなく、人生の観方と体験が変わるスピリチュアル本ではありますが、
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています