そして、この戦争は「主人と奴隷を和解させ」、財産や地位ではなく、勇気と英雄的行為によって賞賛を受ける英雄時代の始まりのなかで、ロシア民衆に一体感を取り戻させたと
いうのでした。これは、大東亜戦争を「近代の超克」と述べたのと全く変わりません。まるでかっての日本浪漫派を思わせる口ぶりで、ドストエフスキーは露土戦争を「八紘一宇」のように語っています。
「われわれは世界に向かってまっ先に、われわれにとっては異民族である諸国民の個性を圧迫することによってわれわれは自国の繁栄を手に入れようとしているのではなく、むしろ反対に、ほかのあらゆる国民の
この上なく自由で誰にでも左右されることのない自主的な発展と、諸国民との同胞的結合の中にのみ自国の繁栄を見るものであることを宣言することになる。」
「互いに足りないところを補い合い、相手の本来の特性をこちらに接ぎ木するとともに、こちらからも接ぎ木のために自分の枝を相手に分かち与え、互いに心と魂を通い合わせ、学ぶべきものは学び、
教えなければならないものは教えながら、人類が、諸国民の世界的交流によって普遍的な統一体に成長し、見上げるようなすばらしい巨木となって、その影で幸福な地上をおおいつくすようになるまで
助け合っていく同胞的結合の中にそれを見るのである。」
 これを、ロシア帝国の侵略性を無視し、自国を讃美する聖戦論とだけ介錯するのは間違っています。ドストエフスキーが訴えようとしたのは、ロシア政府の政治的意思を乗り越えて、民衆が近代社会の
枠組みを超え、新たな幻の共同体、資本主義の金銭支配でもなく、共産主義の収容所体制でもない、人間の根源的なユートピアに向かって旅立つ姿を、この戦争に熱狂するロシア民衆の中に見出したのでした。
今日は時間の関係で割愛いたしますが、ドストエフスキーは『作家の日記』最終号に載せた詩人プーシキンへの講演において、このテーマを詩人の文学を通じてさらに普遍的な形で語っています。