新しい宗教の誕生 [無断転載禁止]©2ch.net
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21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実血アを行う科学者b烽「ないのです=Bそうした状態bナ偶然に生命が瑞カじるでしょうbゥ?生命が生じbスとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 基本的に自分が思うのは、10〜30年前頃の教会の 無策な態度が、
今日の教会の問題の原因だと推察する。
その時期は自分が最も教会から離れてた時期なんで、詳細はわからないけど、
今日びの教会信徒の態度は最悪と思う。
無関心、仲間割れ、信徒の間での優劣・階級付けをして差別、徒党を組む、
偏狭な態度…
都内大教会でも、聖堂係は 堂内で気分が悪くなり うずくまっている参加者を
見かけても素通りですよ。
人間としての度量の狭さ、醜さのオンパレードだね。
神父たちの人格は悪くないのだけど、悪しき信徒達は 神父との交流を
セレブ的活動、アクセサリー的なものとしか見なしてない。
もはや、腐りきった信徒を統制・教育できなくなってる教会、
が現状だと思う。 >>29
それは内村鑑三が指摘していたことと全く同じですね。
教会という組織も結局は人の集まりですから腐敗や堕落が起きてきます。
権威主義者や他人の粗探しの好きな人が集まり
自分が上で他人は下という階級をつくり、醜い足の引っ張り合いをする。
それもそのはず。
2000年前の教えをもとにずっと権威主義でやってきました。
4福音書というのは、イエスの伝記・生涯・教えという1つの出来事を
4人の記者が記録したものです。
端的にいうとマタイ・マルコ・ルカは同じ「1つの資料」をもとに記事をまとめています。
一方、ヨハネ福音書は、記者の神学的視点からイエスの伝記・生涯・教えをまとめています。
しかし、重複も多いでしょう。
いずれにしても私は2000年前のキリスト教では現代を救う原理とはなり得ないと考えています。
世界は一つの原理のもとに統一されるのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 自由な友愛を求め、超人種的、超階級的、超国家的、相愛的な平和人道主義を奉じる、一種のコスモポリタニズム運動。博愛主義。
世界市民的博愛、自由、平等の実現をめざし、政治的全体主義、排他主義、狂信をしりぞける。
神を〈全世界の至高の建築師〉と称する。
博愛・自由・平等の実現を目指す。
世界主義的、人道主義的友愛。
世界市民的な意識をもとに自由主義、個人主義、合理主義の立場にたち、宗教的には寛容を重んじる。
人間相互の友愛と向上、社会的慈善と博愛、それらを通じての親善と世界平和を目的としている。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 >>96
また、逮捕者続出のカルトのことですか。
当該カルトのことは一々こちらに貼らなくて結構。
カルトに被害受けたのなら警察なり裁判所なりに訴えてください。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実血アを行う科学者b烽「ないのです=Bそうした状態bナ偶然に生命が瑞カじるでしょうbゥ?生命が生じbスとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 宗教=悪
韓国では大統領を宗教関係者が取り囲んでだましてお金を得ていた
宗教にはかかわらないほうがいいです
もうこりごりだろう
日本では日蓮宗教に該当しそうです >>115
また、逮捕者続出のカルトのことですか。
当該カルトのことは一々こちらに貼らなくて結構。
カルトに被害受けたのなら警察なり裁判所なりに訴えてください。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 >>121
いつも同じ人みたいですが、何が言いたいのですか?
よくそんなオウムなみのカルトに騙されましたね?
ちなみにどれくらいの金額騙されたのか教えていただけますか? 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 129.
善悪の問題は宗教の問題ではない。
それは道徳の問題である。
それは社会の問題である。
そこの区別のできないバカが多い。 >>130
カルトに引っかかっているあなたのような人間を世間では馬鹿と言っているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 http://plaza.rakuten.co.jp/kohitujinopippo/diary/201412240000/comment/write/#comment
彼らは
このブログ村で
ハーレムを造っているのです
色男は、老人に成っても、過去の栄華は、忘れる事が出来ません
しかし、ここ、【幸福の科学ブログ村】は、仏教団体です
何を間違って、色情地獄を造るのか・・・
心の修行とは、無縁の行為です
残念ですが
彼らは
このままでは
退転する以外、選択肢は無いでしょう
宗教法人『幸福の科学』の方向性は、そちらではありません!
まあ、彼らにとっては、今が花でしょう
栄枯盛衰・諸行無常! 【恐怖!霊障の科学】知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12206084502.html
知人のお子さんは
支部エル・カンターレ像の首に
緑色の蛇が
巻き付いていることを霊視して、
それから支部には
絶対に行かなくなりました。
そんなことは、
あちこちで起きていますが、
親が言わないで
隠しているだけです。 強姦教団
http://ameblo.jp/adgjmptwadgjmpuwadgjmptw/entry-12208487296.html
コウさん、残念ながら、HS信仰をもったままでは絶対、反省出来ません。
なぜなら、仏陀が偽物だからです。
HS教団は、どう足掻いても「立て直し不能」です。
仏陀が偽物で犯罪者、これで全てが崩壊します。
システムそのものが詐欺と強姦です。
「反省」ではなく、「破壊」が必要であり、洗脳された信者たちの「救済」しかありません。
洗脳された信者たちは、身包み剥がれるまで布施し続け、無間地獄で
「白いバスケットボール」と化すのです。
奴隷であり、ルシフェルの「燃料」にされてしまいます。
心ある職員、会員よ、立ち上がれ!!
教祖、宗務、本部の犯罪を拡散せよ!!
今も行われ続ける「性犯罪」を暴露、拡散せよ!!
最低最悪の邪教団・幸福の科学を叩き潰せ!! 「気」「付」「け」「!」「!」♪
正心法語のCDの声が悪魔や悪霊を呼び込む役目をしたのです。
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12209603329.html
私はこれまで「正心法語」は結界を作るので、悪魔や悪霊がその場にいられなくなると教わってきました。
しかし、千乃風さんは正心法語のCDを掛けたために異常現象に見舞われたのです。
正心法語のCDの声が悪魔や悪霊を呼び込む役目をしたのです。
千乃風さんのように霊的に敏感過ぎて、大川隆法氏の精神状態に同通することが出来てしまう人にとっては、極めて危険だということなのです。 200万円のタレント買収資金
10億円の政治資金規正法違反も調査
元トクマのマネージャーへの不払い900万円
・・・幸福の科学、完全犯罪組織ww
まさに、「蛇・隆法」らしき、金、金、金。
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12210816446.html 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 ブログ村HSカテゴリは地獄。
血の池地獄、畜生道、阿修羅道、餓鬼道。
全部の属性を有する深い地獄。
でも、レプオにとっては到って普通であり、正常な世界。
あいつは、批判大好き、殺し大好き、であると共に、やられることも好き。
つまり、ああいう「極度のS」の奴は、「極度のM」でもある。
ドSとドMを併せ持つ変態、それがレプオであり、小判鮫のガンだ。
ハッキリ言って、ド変態だよ、あいつら。
病気だよ。
いい歳かっこいた爺ぃがランキングの人気に狂って中傷合戦してるワケよ。
キチガイだぜww
http://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40594262.html#40594262 やっていることは過去世を利用したレイプ
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/39
週刊文春7月19日号 「幸福の科学 大川隆法 性の儀式 一番弟子が懺悔告発!」 まとめ1
・告発は種村修氏。
・種村氏は幸福の科学退職後、元秘書のYさんより相談を受けた。
・97年夏、Yさんは大川に「あなたの守護霊はヤショーダラー姫だ。」
「ヤショーダラー姫が女性として大川隆法を肉体的に癒して差し上げるようにと言っている。」
と言われた。
・これは「あなたの守護霊が総裁先生のセックスの相手をしろと言っている」の意味。
・そして「これは家内(きょう子氏)も承知している」と大川は言った。
・種村氏はYさんの相談内容を手紙に書き(A4 25枚) 今年4月4日に大川に私信として送付。
その後教団より除名処分となった。
・種村氏の大川への手紙に書かれた描写(Yさんの告白 「彼女」はYさん)
「全裸になられ仰向けになった総裁先生の足の間に全裸の彼女が正座して入り、
彼女は両手で総裁先生のペニスを大切な宝物を両手でおしいただくように包まれました。
しばらくしごかれると大きくなったペニスを口にほおばり、大切な尊いものをいとおしむように
口で愛撫されました。」 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 「彼女は正座からうつぶせに寝たような形で、口に総裁先生のペニスを愛撫しながら
両手のひらは総裁先生の腹部から乳頭へと優しく撫で進み、円を描くようにまた腹部に戻り、
さらに乳頭の愛撫に移る、そんな仕草をされたと言います。」
「総裁先生と最後まで愛し合う行為が終了したあと、総裁先生が彼女に向かって合掌して、
感謝の気持ちを表現してくださるお姿を見て(省略)非常な罪悪感がこみ上げてきたそうです。」
・Yさんは種村氏に説明すると、30分以上泣き続けた。
・Yさんには当時、後に夫となる婚約者がいた。彼を裏切った罪悪感を抱いた。
・恋人を裏切り、不倫をしていることへの心の葛藤が抑えきれず、当時の上司に相談し、教団から逃げ出した。
・その後Yさんは半年以上、自宅で寝たきり状態となり、うつ状態となって苦しんだ。
・Yさんは大川より口止めをされていた。 やっていることは過去世を利用したレイプ
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/38
週刊文春7月19日号 「幸福の科学 大川隆法 性の儀式 一番弟子が懺悔告発!」 まとめ2
・種村氏によると、大川が関係を迫った女性は他に何人もいる。
・それだけでなく、数年前にも大川は女性秘書にセクハラをしている。
大川の地方出張に同行した際、 ホテルの部屋に呼ばれ裸の大川が風呂場から現れた。
その後彼女は歩けなくなるほどショックを受け、 現在も傷が癒えない。
幹部職員が家族に内密にするように連絡をしたこともわかっている。
・ある元信者は、種村氏の手紙に書かれていた一人の女性の家族から「事件」について直接聞いた。
「大川は個人リーディングをすると称して女性を部屋に連れ込んでいた。
その女性はとても信仰心の強い人だったが、その事件の後は自宅にあった本尊をたたみ
半年ほどショックで毎晩吐いていた。 ご家族も悩んでいたが、結局その女性は偽りの祈願は出来ないと言って教団と決別した。」
・別の元信者 「大川の女性問題の話は以前から教団内で噂になっていたが教祖が絶対的な立場の中で誰も公言出来なかった。」
・種村氏 「幸福の科学は現役信者たちから「お布施返還訴訟」を起こされている。
根本的な原因は大川の女性問題を知って、 彼らの信仰心が傷つけられたから。
三輪清浄では無いので、布施は成立せず、信者に返金すべき。」
・元支部長 「信者さんにお金を出してもらうために
○○建立記念植福月間 とかいろいろ名目を作った。
一人数百万円から数千万円単位で出してくださいと目標額を設定し、メールが回り、植福を煽った。」
・幸福の科学広報局 「Yさんに確認済みで事実では無い。他の女性も全て事実無限であることを確認。」 ・種村氏 「大川総裁に異を唱える者に対して「あの人は魔が入った」と決めつけ、
「だから事実無限のことを話している」というのが教団の論理であり、
大川総裁には私たちが思いもしないような深いお考えがあるに違いないと、会員は信じ込み、
事実から目をそむけてしまうんです。
今回、大川総裁に対し、私信という形でお手紙を書き、私としては師と弟子の礼を尽くしたつもりです。
しかし耳を傾けるどころか一方的に除名処分をしたり私の守護霊を降ろしたと称して
私の誹謗中傷を言ったりと、この教団の本質があらためてよくわかりました。」 http://6261.teacup.com/amamin/bbs/37
@過去世を使っての説得があった
大川隆法氏はYさんを釈迦の第一夫人のヤショーダラ妃と、彼女に言っていました。
したがってヤショダラ妃がYさんの守護霊だと言われていました。
そして、要するに
「ヤショーダラ妃が仏陀・大川隆法氏と性的な関係を結んで、仏陀・大川隆法氏を癒すように希望している」
という趣旨のことをYさんは聞かされたのです。
Yさんは、守護霊であるヤショーダラ妃がそう言っていると聞かされても、自分の思いとは、まるで違うことを言われるので当惑したようです。
当時は、大川隆法氏はいつもYさんの守護霊と話して、守護霊がこう言っていると伝えていたようですが、
Yさんにしてみれば
「守護霊の意見と私の気持ちは全く違う。
先生は私のいうことを少しも聞いてくださらないで、守護霊とばかり話しをしている」
と不満に思ったと、私に教えてくれました。 Aベッドを共にしたあと大川隆法氏がYさんに合掌した
彼女が一番混乱したのは、セックスを終えた後、大川隆法氏が彼女に対して合掌し、感謝の気持ちを表現されたことでした。
その時の気持ちは複雑で
「仏陀が私のような罪深いものに合掌して下さっている。
そんな資格は私には無いのに」
という罪悪感が湧いたと言われました。
その心の混乱は結構、激しかったように感じました。
BYさんの葛藤
Yさんが逃げ出したのは、自分がいると奥様に悪いことをしてしまうから、
自分がいなくなったほうがいいのだという気持ちが、まずあったようです。
それに彼女には当時、結婚を考えていた男性がいたので、その人への罪意識は当然ありました。
そして大川隆法氏が合掌したことへの上記の葛藤もあったようです。
さまざまな葛藤で胸が張りさけそうになって、M局長に相談したそうです。 そしたら「逃げなさい。後のことは私に任せなさい。」という言葉で、逃走したのです。
大川隆法氏からの連絡が来ないように、自宅の電話線も引き抜きました。
しかし、逃げ出した事により、仏陀の指示にそむいて逃げ出したという罪悪感も追加されたようでした。
CYさんの嗚咽
Yさんはどのような行為があったのかも、私に教えてくれましたが、
仏陀と信じている大川隆法氏を一生懸命に真心込めて癒そうとされた印象を強く受けました。
しかし突然嗚咽が始まりました。
今まで溜まっていた悲しみ、葛藤、そうした抑圧された感情が堰を切ったように涙となって溢れてきました。
慟哭というか、体を揺らしての激しい嗚咽の涙です。
呆然と見守るしかありませんでした。
その時の印象ではものすごく長時間泣かれていたような感じを持ちました。
私はYさんに、次のように言いました。 「守護霊のヤショーダラ妃がそう申し出たと言うことは、
天上界がよほどそれが必要と判断されるような事情があったに違いないから、
そういう関係になったこと自体で、自分を責める必要は無いと思います。
合掌されたということは、よほど大川隆法氏が癒されたのでしょうから、
その感謝の気持ちは素直に受け止められていいのではないでしょうか。
教団から逃げ出したことは、M局長に相談された上で指示でもあるし、
あなたには約束していた方がいたのだから、止むを得ないことで、
自分を責める必要は無いと思います」
この時には、私の中に大川隆法氏の行動をおかしいと思う気持ちは起きなかったのです。
守護霊のヤショーダラ妃がそう言ったという事を完全に私も信じたからです。
きっと何か天上界で、そういう必要を感じられて、そういう事になったのだろうと、
信仰心で受け止めてしまったからです。
「何か深いお考えや、計り知れないご事情があるに違いない」と考えたのです。 これは洗脳状態に特徴的な思考停止をまねくフレーズです。
私はただ、彼女の罪悪感が癒える事だけを願っていました。
この時にYさんは終わったあとに「このことは誰にも言う必要は無いからね」
と大川隆法氏から口止めされたと聞きましたので、私も黙っていました。
その後の彼女は、明るさを取り戻されたように感じましたので、私はお話を伺ってよかったと思っていました。
私が、大川隆法氏に疑問を持ち始めたのは、まだ最近のことなのです。
疑問を持ったきっかけの一つは、大川隆法氏がヤショーダラ妃を長女の過去世であると言い出した事です。
私は耳を疑いました。
もしそちらが真実なら、一体、大川隆法氏がYさんに言ったことは何だったのか、という疑問が起きました。
私はYさんの守護霊のヤショーダラが自分で申し出たと言うので、そういう特別な事情が何かあったのだろうと、
天上界の判断だと思って信じていたのです。 しかし、ヤショーダラ妃が長女であるとなると、大川隆法氏のしたことは詐欺です。
教祖が霊の声を偽ってセックスを職員の女性に強要したという犯罪になります。
過去世が間違うなら、大川隆法氏は自分が釈迦の生まれ変わりだと言っていたのですから、
自分の奥さんも分からないような仏陀がいるのかという疑問も起きました。
それとも、ヤショーダラ妃を名乗って悪魔が大川隆法氏をそそのかせたのではないかとも考えました。
私は大川隆法氏が意図的に騙しのテクニックを使う人物だとは考えることが出来なかったので、
当時、大川隆法氏は霊障だったのだという判断に傾きました。
しかし、霊障になる仏陀というのはありえませんので、私はその段階で思考停止になりました。 http://6261.teacup.com/amamin/bbs/36
決定的だったのは、別の方の性的被害を聞いたときでした。
2009年に選挙の折に随行していた若い女性秘書に、ホテルで何らかの性的なアプローチがあり、
その結果、その女性は翌朝自宅へ逃げ帰ったという話を知ってしまったのです。
その方のお母さんのお話なので、私は信じないわけにはいきませんでした。
その家族は、御両親も姉も退会され、御本尊も祭壇もずたずたにしたと聞きました。
また、その方にお話を聞いてお辞めになった方が大勢いらっしゃるということも知りました。
そのお母さんが余り周りに話をしないようにと、長く秘書をしているM氏が口止めをしようとしたものの、
母親の剣幕に押されて退散したという話も知りました。
私は大川隆法氏が異常な行動を継続的に行っていることを知るに至りました。
それまでは、大川きょう子さんが週刊誌で発表された内容を信じていなくて、週刊文春に抗議の手紙を書いていたほどです。
教団側の洗脳に深く侵食されていましたので、そういう状態でした。
その私が変わったのは、やはり2009年の被害者の方の存在を知ったことでした。 その時初めて、私は大川隆法氏自体がおかしいという認識を明確に持ったのです。
私は、知ったものの責任として、大川隆法氏に対して反省を求める意見具申をする決意をしました。
今年(2012年)の2月頃です。
そのころ大川隆法氏の行状を知った会員さんが、納骨壇のキャンセルをしたいということで、
購入の際に支払ったお金を返してもらいたいという話が出て、支部や那須精舎に相談をされていました。
すると「お布施なので返せません」という決まり文句が返ってくるのみで、
中には支部長から「お布施の返還を求めるのは教団を敵に回すことよ」という恫喝をされた方もいました。
この方々は仕方なく消費者センターにも相談されましたが、弁護士を紹介されただけでした。
結局、裁判になったのですが、私は幸福の科学で布施が尊いのは三輪清浄ゆえに尊いと言ってきたので、
受者たる大川隆法氏がここまで穢れている以上は、そもそも布施として無効であると思いました。
そこで、私はそのことを陳述書として提出することで、この裁判を側面支援させていただく事にしました。
大川隆法氏への手紙は最初は弁護士から教団に送ってもらった(無視されないようにと考えての事です)のですが、
「事実無根」「慢心」だとして、私に広報局から否定する内容の文章が届きました。 大川隆法氏にも手紙が届いていないようでした。
それで私は、大川隆法氏が否定できない事実をなるべく詳細に書いて、
被害者の救済と納骨壇等のお金の返還を勧告する手紙を4月4日に、大悟館へ配達証明で送りました。
その手紙が着いたのは4月5日ですが、奇しくもこの日に布施の返還訴訟が提訴されていました。
これは不思議な偶然の一致(共時性)だと感じました。
なお、手紙が届いた4月5日付けで、私は幸福の科学から除名になりました。
その後、週刊文春がこの手紙の存在を知る事になり、世に出る事になりました。
私は被害者の拡大を防ぐために、週刊誌に出ることはむしろ必要なことだと思いましたので、取材に協力する事にしました。
しかし、この記事が出る前に、私は、Yさんともう一度連絡を取って、彼女の了解を頂きたいと思いました。
そして、新大久保のマンショアンも探し当てたのですが、引っ越されていました。 引越し先も探したのですが、分かりません。
私はYさんにお伝えしたいことがあります。
私はYさんの出来事は、大川隆法氏の犯罪的な行為を明るみに出し、
これ以上被害を広げないために、本当に大きな犠牲であったと思います。
Yさんの存在に感謝されている方は、非常に沢山おられます。
私はYさんの傷ついた心を癒すためのお手伝いをさせていただきたいと思います。
Yさんから連絡を頂くことを、私は心からお待ちしております。 http://6261.teacup.com/amamin/bbs/35
被害者がその後も増大し続けており、
この犯罪を抑止することが
是非とも必要だと思ったからです。
あの記事が出てから、私の元には、
他にも被害者が何人もいるという情報が
いくつも入ってきています。
私は純粋な若い女性たちの信仰心を利用して、
自分の欲望を満たそうとする大川隆法氏と、
彼の犯罪を隠蔽し続ける幸福の科学に対しては、
はっきりと公憤を感じております。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html http://6261.teacup.com/amamin/bbs/34
今回、私の私信の一部が世に出てしまったために、
心に傷を負わせてしまった方には、
衷心からお詫びを申し上げたいと思います。
しかし、今なお被害が広がり続けている現実がある以上、
この犯罪を食い止めなければ、
さらに苦しむ人々を作ってしまいます。
そうした方々への救済の一助として、
被害者の方の体験が真に活かされるように、
私は全力を挙げて戦います。
どうか、これを読まれた皆さん。
もしあなたが知る真実があり、
それが闇を照らし出す真 実であるのでしたら、
どうか声を上げて頂けませんでしょうか。
もし私にそうした真実をお伝えいただけるのでしたら、
必ずそれを闇を照らす光として、活用させて頂きます。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html http://6261.teacup.com/amamin/bbs/33
教祖の自宅が白金台にできたときは反対運動が凄かったよ。
結局できたけどw
時価総額50億円といわれる宮殿で、
若い美女たち(宗務職員)をはべらせて暮らしている。
個人の家で50億円て、麻生や角栄、鳩山の家なんて比べ物にならない凄さだ。
で、その宗務職員には恋愛禁止令が出されてて、
「何も思わない」という修行が課せられているそうだ。 大川の日常生活に 触れる職員はほぼ全員が女性である、ということがあります。
もちろん大川宅に不審番もいるのですが これも全部女性。
しかも皆20代。
内部では
「大川の側にいる女性職員は個人的な大川のお気に入り」
とされています。
実際、宗務[秘書団]から出て支部職員になった女性が
「総裁はどうして君みたいな女性がお気に入りなんだろう」
と支部長に言われたとの事実もあります。
とにかく、大川の周囲にいるのは 女性ばかりなのです(しかも若い)。
これではあらゆる疑惑が発生します。
宗教家として困ったものです。
何を考えているのでしょうか。
しかも彼女達には恋愛を禁止しているのです。 幸福の科学内部の地位が死後の世界の上下を決めるらしいので(笑)
大川にガードされて出世している女性達は 幸福の科学的に「悟りが高い」と言う事になります。
実際、大川は97年の軽井沢で宗務の女性職員達に
「****によって光が入る。」
という趣旨の講義 (つか新幸福の科学教義)を語っていますので。
この幸福の科学理論に沿えば、
大川と****した女性は
霊格が向上=悟りが向上 と言う事になります。 ・大川は女性職員に「君は僕の子供を産む事になっている」と迫っている。
・従って大川に隠し子情報が出てくるのも不自然でも何でもない。
大川に隠し子がいるという情報あり。
ただし母親は未確定。
・ 変死を遂げた元幹部の真杉氏は、大川の愛人の存在(YMより前)を
周囲に語って左遷され、結局職員を解雇された。
・ 大川は軽井沢で
「****は天国で光を入れるのと同じ」
という****教義を女性職員達に語っていた。
・YMは「先生は性欲の抑えが効かなくなって・・・」とファルコンに嘆いていた。
大川はきょう子との別居時、女性職員とすぐに二人きりになろうとしていて、
女性職員達が怖がっていたとYMは嘆いていた。 「気」「付」「け」「!」「!」♪正心法語のCDの声が悪魔や悪霊を呼び込む役目をしたのです。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/32
私は「証拠の記録」として、大川氏が読む正心法語のCDを4日間かっけぱなしにしたら、5日目あたりから起きてしまった「異変」について書きます。
2001年の事で、2001年3月9日から3月12日まで、掛けたように思います。
その直後、3月13日頃、私は生まれて始めて「幻覚」を見るのです。
どういった幻覚かと言いますと、真っ黒な海にバスケットボール大の大きさの白い球がずらずらーっと並んでいる「幻覚」です。
当初、これを見たときに、「何だ? これっ! 地獄に堕ちた魂なのかな。」とも思ってみましたが、人の姿でもないし、「なんだろうな?」でした。
3月13日から28日にかけて、来る日も来る日も、不気味現象が起きてしまったのです。
「頭のてっぺんにひも」のようなものがついている感触になり、それをぐいーっと引っ張られ、「頭がくにゃ」になってしまった日がありました。 また、「心臓部分にひも」のようなものがついている感触になり、それをぐいっと引っ張られ、私は体が1メートルほど引きずられました。
その時、「男が私の体に乗り移り」、「あっ、頼む、止めてくれ、この子は27回犠牲だ。止めてくれ。」などと、「意味不明の言葉」をしゃべらされてしまいました。
私はその直後、「意味不明だ。27回犠牲だって。何だろう?」と思いました。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
千乃風さんは極めて霊体質なので、2001年3月時点の大川隆法氏の意識に同通したと思われます。
その結果、このような恐ろしい幻覚や憑依の現象が起きたと思われます。
ここで重要な事実があります。
私はこれまで「正心法語」は結界を作るので、悪魔や悪霊がその場にいられなくなると教わってきました。 しかし、千乃風さんは正心法語のCDを掛けたために異常現象に見舞われたのです。
正心法語のCDの声が悪魔や悪霊を呼び込む役目をしたのです。
千乃風さんのように霊的に敏感過ぎて、大川隆法氏の精神状態に同通することが出来てしまう人にとっては、極めて危険だということなのです。
この方の体験から推定されることは、2001年3月には、大川隆法氏の精神状態が相当に悪かったのでないかということです。
千乃風さんは、潜在的な危険性を、はるかに早い時点で感じ取られていたのだと思います。
炭鉱を掘り進むとき、カナリアをかごに入れて、一番先頭の人が持って進むという話を聞いたことがあります。
カナリアは一酸化炭素中毒に敏感でかかりやすいので、人間が感じないほどの毒ガスでも感知してくれるためです。
私は、千乃風さんの体験を読むと、このカナリアを思い出すのです。
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12209199943.html 正心法語は、悪魔の呪文です。
今、幸福の科学は、信者激減の為、必死に「正心法語」の嘘をアピールし始めました。
騙されてはなりません。
家庭、地域を魔界磁場に変える、魔性の呪文、それが「正心法語」です。
直ちに廃棄処分して下さい。
皆さん、この私は、布教所エロ姦像を安置してまだ、半年経ってないのですよ!
植福菩薩になってからまだ、半年経ってないのですよ!
それでもご本尊全てを「燃えないゴミ」で処分し、宝珠、正心宝も今、ゴミ箱です。
金の問題じゃないんです! 真実は、それほど重いものなんです!
真実は、何よりも重いものなんですよ!
皆さん、気付いて下さい!
エロ姦は、仏陀じゃありません。
ただの仙人崩れです。
「植福の会」、全口解約を!
「退会届」の提出を!
仙人崩れ、ORとの決別を!
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12209603329.html http://6261.teacup.com/amamin/bbs/30
【恐怖!霊障の科学】知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12206084502.html
知人のお子さんは
支部エル・カンターレ像の首に
緑色の蛇が
巻き付いていることを霊視して、
それから支部には
絶対に行かなくなりました。
そんなことは、
あちこちで起きていますが、
親が言わないで
隠しているだけです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1475721643/88 自分の気が狂っているという自覚がないことが一番怖いですね エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/28
この降魔型エル・カンターレ像の推進は、
教団の霊的磁場の悪化に拍車を掛けました。
組織を挙げての、詐欺が行われたからです。
そこに邪なものの波動が入らないわけはありません。
だからそれを敏感に感じる心の綺麗な幼い子供が、
複数でてくるのです。
エル・カンターレ像は教祖とつながっていきます。
霊的には大川隆法氏につながるのです。
そして幸福の科学を指導している霊的存在へ
つながっていきます。
問題の鍵は大川隆法氏の心境なのです。 奥さんを罵倒し、何人もの女性問題を継続的に引き起こし、
弟子を罵倒し、悪口を霊言と称して語り、金集めに奔走し、
自分は贅沢三昧をする者の心が
何処に通じているかは、はっきりしています。
悟りをいつわる者の「心」が
無間地獄に通じることは、あなたも知っているでしょう。
ゆえに、エル・カンターレ像に祈る人に、
地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
それが今起きているのです。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/09/10.html エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。それが今起きているのです。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/26
あなたも支部に入った降魔型エル・カンターレ像を見て違和感を感じたはずです。
霊的な崇高さも、降魔の霊的な力も何も感じなかったので、あれっ、と思いましたね。
それで仕方なく、当たり障りのない挨拶をあなたはしました。
この降魔型エル・カンターレ像の推進は、教団の霊的磁場の悪化に拍車を掛けました。
組織を挙げての、詐欺が行われたからです。
そこに邪なものの波動が入らないわけはありません。
だからそれを敏感に感じる心の綺麗な幼い子供が、複数でてくるのです。 エル・カンターレ像は教祖とつながっていきます。
霊的には大川隆法氏につながるのです。
そして幸福の科学を指導している霊的存在へつながっていきます。
問題の鍵は大川隆法氏の心境なのです。
奥さんを罵倒し、何人もの女性問題を継続的に引き起こし、弟子を罵倒し、悪口を霊言と称して語り、金集めに奔走し、自分は贅沢三昧をする者の心が何処に通じているかは、はっきりしています。
悟りをいつわる者の「心」が無間地獄に通じることは、あなたも知っているでしょう。
ゆえに、エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
それが今起きているのです。 エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。それが今起きているのです。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/25
S.私はあなたがそれを推進されているのを見ていて、非常に困った事になったと思いました。
そのために、あなたの知り合いにインスピレーションを降ろして、その推進をストップするように仕向けたのですが、あなたは我を張って、聞く耳を持ちませんでした。
大分経ってから、あなたが別の方に私の意見を聞いてくれたので、やっと私はあなたに
「降魔型エル・カンターレ像には反対である。
それには邪な念が付着しており、推進してはならない。」
ということを伝えることが出来ました。
それでようやく、あなたは過ちを悟ったのです。
あなたは本当に頑固でした。
確かにあなたが言うように、中国の民衆の心に蓄えられた反日感情という偏見は、ものすごいエネルギーを持つでしょう。
しかし、それを防ぐのに、本当に降魔型エル・カンターレ像が有効であるという証明が出来るのですか。 T.その後、私はこういう話を聞きました。
心が綺麗で、霊的なことを感じ取る力のある子供が何人も、降魔型エル・カンターレ像の前に行くと、とても怖がったり、変なものを感じて嫌がるというのです。
私は思いました。
お金集めのために、嘘をついて信者さんを騙して入れた降魔型エル・カンターレ像なので、動機の不純さからそうした悪想念をこの像が引き寄せるのだろうと。
だから、本当に悔やんでいます。
精舎や支部で大川氏が職員の霊的指導をしているDVDを見て知ったことですが、総合本部の職員が結構、動物霊や宗教霊などの悪霊に取り憑かれているのです。
毎日、大きな降魔型エル・カンターレ像の前を通っていても、そうした悪霊には全く通じないのです。
ということは、中国の悪想念がきても、この像にはそれを跳ね返す結界を作る力がないということの証明になります。
信者の皆さんは、本気で日本を守りたいという熱意で植福をされたと思います。
私も、純粋な気持ちで推進しましたし、自らも10万円の植福をさせていただきました。
しかし、この像に霊的効果がないことは総合本部の職員が証明しているし、大川氏もこの象の霊的意義を一言も説明できませんでした。
それを勝手に思い込んで推進したということは、本当に私が馬鹿であったと思います。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/09/10.html 他人の家に土足で踏み込んできて、汚物を撒き散らす。
カルトとカルト信者、元カルト信者に共通する性質ですね。
こういう人が隔離されずに街を歩いてると思うと怖いですね。 一つだけお答えください。
あなたはいくらくらい当該カルトに金をつぎ込んだんですか? 一つだけお答えください。
あなたはいくらくらい当該カルトに金をつぎ込んだんですか? 一つだけお答えください。
あなたはいくらくらい当該カルトに金をつぎ込んだんですか? 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように
キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。
影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。
それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。
昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行
大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。
そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。
いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、
あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。
ヤーウエもキリストもミカエルもマリアも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。
逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという
でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。
だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、
それも偽者ではなく(ジュブナイルでもない)本物のガブリエル神を祈るべきです。
さらには、ガブリエルの転生体はもっとも崇め祈るべきです。
キリストが憑依してたやつがいたが、案の定ずるばかりやり他のひどく邪魔をして全てばれて最後はエイズになっています。
そんな奴を祈っていてはいけません。罰せられます (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は封ス均で70年か80粕N、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 >>1
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このスレは負け犬の掃き溜めになりました。(但しFD830本人は除く)
俺様はめっちゃめっちゃ勝ち組だぜコラ!!!!
俺様はめっちゃめっちゃ高学歴で高IQだぜコラ!!!!
ヘンタイも極めれば神になれるw
逮捕だぞコラ!!!! https://twitter.com/FD830W 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 / ̄ ̄ ̄ ̄\
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宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
からかわれてバカにされるめにひどくあいます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 DNA鎖の複製方向が決まっているのと、セントラルドグマの意味は違います。
セントラルドグマとは、DNA→メッセンジャーRNA→トランスフォームRNA→アミノ酸の
順に一方方向に転写変換される仕組みに於いて、DNAが占める位置の事を指します。
DNA鎖の複製とは、ほどかれたDNA単鎖から相補的にDNA鎖が複製されることを言います。
なお、現在ではRNAからDNAへ転写する逆転酵素の存在が知られています。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 >>423
1970年にRNAからDNAを合成する逆転写酵素がRNAウィルスから発見され、
RNA→DNAという情報の流れがあることが判明したの事実ですが、
セントラルドグマは遺伝子からどのように生命を構成するタンパク質が合成されるか
を明快に説明するものとして重要な原理とみなされています。
ちなみに1970年に逆転写酵素を発見したのはアメリカのテミンと日本の水谷哲という学者です。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 「水は低い所から高い所に流れろ」とターボポンプを使います。
ブレーキを強力にしたければ逆噴射でも取り付けておけば摩擦の制約は受けません。
人体の保証は出来かねますがw (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています