外道の独り言 6 [無断転載禁止]©2ch.net
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まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。
前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/
ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html たとえば、四柱推命(しちゅうすいめい)とかの
1年の始まりは、立春(2月4日ごろ)ということであるらしいけど、とりあえず
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
地水火風空識に依存して
色受想行識の仮和合に依存して
我癡・我見・我慢・我愛(渇愛)に依存して
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)に依存して
2016年から → 2017年へ
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經
作者無し(変化しないものではない)
それゆえに
仮設としての
業報に依存して
此の陰滅し已らば異陰相續す
此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識
たとえば、生老病死とかの、「苦しい!」と掴もうとしている想いが
激流のごとく活動している。暴流の如く相続していく
「苦しい!」を相続してる人もいるかもしれないけど
「あけましておめでとう!」で良いのかしらん? m(_ _)m
月読関係の神社?
月読命(ツクヨミ)伊勢神宮・月読神社
月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある
ツクヨミは、月の神とされている
しかし、その神格については文献によって相違がある
ツクヨミは太陽を象徴する天照大神と対になって誕生する
https://www.izumo-kankou.gr.jp/img/01spot/special01/sp01_ph10.jpg
https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
巫女さん萌え〜↑という感じでつね?
「そうだっ!出雲大社にも逝ってみようっ!」
「そうだっ!陰陽寮(京都?)にも逝ってみようっ!」 m(_ _)m 般若心経に「色即是空」と同様に、五蘊もまた「空」であるとある。
空はプラバースワラ=光輝くものの漢訳で、古代エジプト・グノーシス派の神々「プレロマ(充満)」という
概念に近い。
エネルギーに満ちた実在をイメージするといい。 色即是空 テーラワーダ2.0から
空即是色 3.0へ?↓
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図(じゅうぎゅうず)
八 ☆ 色即是空
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている、法界体性智)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を『(夢、幻の如く)空性なり』と観察せよ
九 ☆ 空即是色
いつでも光り輝いている、法界体性智の世界から → 思惟している世界を観察していく
阿頼耶識(無覆無記)
その人にとって
善悪の判断をする前の段階の
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)を
その辺りに漂わせておくようにして
その感覚に注意を向けて共に過ごして
そして、自然に
消えていくのを見届けます
『柳は緑?花は紅?』 ← これの意味がわからないでつ m(_ _)m 0088 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/04/05 20:57:00
>>84,>>85
他は知らないけど念仏と真言に関しては日蓮自身が既にこちらの負けでいいよと既に 宣言していますが?
ソース:清澄寺大衆中(建治2年正月11日)
のなかで
「一国を挙げて仏法が邪悪になっちまってるから梵天・帝釈天の命令で他国が責めてきてるわけよ。
だからね、わしの言うこと聞かなきゃ有能な軍人どれだけ いても国守るの無理なわけよ。
もしもそうでなかったら真言とか念仏信じちゃって構わんぜよ。」(趣意)
といっています。
日蓮を用いなくても蒙古は撃退できました。
従って、日蓮自身がそれでいいと言っているので対念仏、対真言は、「日蓮の負け」 で日蓮在世中に決着済みです。
従ってこのスレで残る話題は禅天魔と律国賊だけです。
清澄寺大衆中
http://www.miura-lotus.com/gosho183.htm
>日蓮を用いないのであれば、将門(まさかど)・純友(すみとも)・貞任(さだとう)・利仁(としひと)・田村(たむら)の様な将軍が百千万人居ても叶わない。
>これが本当でなければ、真言と念仏等の僻見を信じなさいと云って弘めてきた。 つまり日蓮が言うには帝釈天や梵天は正法である法華経と法華経に帰依する日蓮の守護神なんだよ
鎌倉時代の日本人は真言や念仏といった邪教を信じ正法をスルーしてたので仏罰として帝釈天や梵天が蒙古王に命じて日本を攻めにきたのさ(元寇)
幕府が日蓮を認めて蒙古調伏祈祷の依頼をしたので帝釈天や梵天も罰を与えるのをやめて神風吹かせて蒙古軍は撤退したわけだが
柴又帝釈天が日蓮宗のお寺であるのはそういう経緯があったから >>561
>『柳は緑?花は紅?』 ← これの意味がわからないでつ m(_ _)m
本当に見たまんまが見えてるか?って事。
柳を見たら緑色に見えて、(紅い)花を見たら赤色に見えた。
各々個別にはそれ相応の理由や意味(緑や紅)もあるだろうけど、
緑色の柳が見えた事や紅い花が見えた事に理由や意味を求めるのは
それらが見えた後の話なのであって、見えるそれ自体には意味も理由も無い。
それ故に「?」が付いてる。
緑色と識別された柳は、柳が緑色していると理解されてから識別されてる。
識別される寸前は、柳も緑色も命名されておらず、各自見たままを見ている筈。
命名された後が世俗諦であり、命名以前を勝義諦となる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている世界から → 煩悩している世界を観察していく
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
智慧の世界から → 思惟している世界を観察していく
> 命名された後が世俗諦であり↓命名以前を勝義諦となる
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
勝義の世界から → 世俗している世界を観察していく?
9.
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
10.
現象的真実の中に存する根拠なしに究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに解脱(涅槃)は達成され得ない
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものを離れ、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図(じゅうぎゅうず)
八 ☆ 色即是空
九 ☆ 空即是色
いつでも光り輝いている、法界体性智の世界から → 思惟している世界を観察していく
大円鏡智(勝義)の世界から → 阿頼耶識(無覆無記)の世界を観察していく? m(_ _)m 全然違いますね。
その通りあればその通りあるってことです。それしかないんです。 よろしくお願いしますだってよwまことも大分老けたもんだな 本年もよろしくお願いいたします m(_ _)m
> 全然違いますね … その通りあるってことです
たとえば
ごく普通の一般的な世俗世界の衆生は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
苦集滅道のさとりに達するための修行の障害がある。有覆無記
『その通りある』ってことを、正しく観ることができない
_ _ _
『その通りある』ってことを、正しく観察するためには
智慧の世界から → 思惟している世界を観察していく
いつでも光り輝いている世界から観察していく↓
われわれが身心のいっさいについて無常(であり、そして無我である)の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される ですからたとえば柳ならその通り見えるわけでしょ。
見てるとき見てるなんてありませんよ。
世俗とか勝義とかいってますけど、
世俗諦とはその勝義を示す方便に過ぎませんよ。
色々概念を抱えすぎて分からなくなってるんじゃありませんか。
ただ見てごらん。そうとしかないでしょ。
自分ということも概念も何にもついてないはずですよ。
犬がワン!となけばワン!しか無いんです。 ごく一般的な世俗の人は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習↓それゆえに
チベット ゲルク派
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
中観帰謬派
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
妄想して、そして
分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事」も
いま我らによって(無明に依存して、そして妄想して)分別されている
それゆえに
仮設としての、世界の中において
『変化しない!』というような自相を、世俗の次元において否定します
_ _ _
チベット ニンマ派
これまで私たちは
( ☆ 無明に依存しているので ☆ )
この世が苦そのものであると理解できずにいました
すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
( ☆ 智慧の世界から観察して ☆ )
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、そして無我である)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
> 自分ということも概念も何にもついてないはずです
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である
阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
他に対して
自らこそが特別な存在として妄信している
「我所もある・我もある」と
掴もうとしている想いが
現れ・変化して・滅している
地水火風空識に依存して … m(_ _)m おい、パーピマン、もう終いか?
全く悟りも煩悩も中途半端な奴だな?
一つお前を点検してやる。
500円渡すから1000円の和菓子を買って2000円
お釣り持って来いや? >>568
梅一朶
はなの頭に掛け置いて
歌うも舞うも
網の上哉 0824 神も仏も名無しさん 2017/01/06 15:48:05
な?人のレスをコピペして喜んでるのが
「自称禅定力2ちゃんねるナンバーワン」のでおー様でつ(笑)
0825 神も仏も名無しさん 2017/01/06 18:48:45
ふーん、やっぱりでおーなのか。
コンドームにラーメンのゲロを吐いた様な奴だな。
ID:9BbHDM7O 本当に真理を求めるならいつまでも考えても分からないことにこだわらないで一旦置いて真実に眼を向けてごらん。
目前にいつでも転がってますよ。
どういう意味なのか、もっと深いところに何か隠されてるんじゃないかとか探るんじゃなくてね。
目の前のことだけでいてごらん。必ず真理に目覚めるから。
本当に真実を悟りたいなら。 http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=113
あるがままのすがたを見ることなのですが
無明の暗闇に覆われている
ごく一般的な
私達には
なかなか見えないのです
これを本当に見ることができるのは
智慧(明智)をそなえたみ仏であるといわれます
無明の暗闇に覆われている
ごく一般的な
私達は
本当の相(すがた)を見ないで
いつも『(我癡・我見・我慢・我愛)我欲』という色めがねをかけてものを見
(無明に依存して、妄想して、そして)目先の分別で区別したり
比較したりして
喜怒哀楽のとりこになり
目を曇らせてものを見ています
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
653
智慧の世界から観察して
無明の世界から解脱して、そして
賢者は
仮設としての
☆ 渇愛(タンハー)を手放して、そして ☆
あるがままに見る
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している > 必ず真理に目覚める
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
仮設としての
無明の世界から
解脱して
智慧の世界から観察して
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
誰もが成仏するわけではないので(五性各別)、それゆえに
『解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
大乗1.0の説明よりも
テーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすい
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
(中論も大乗だと思うけど、それでも)↑このテーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすい
テーラワーダ2.0の止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)実践したことないけども … m(_ _)m 諸法実相についてこのように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
おじゃるさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
おじゃるさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
おじゃるさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
おじゃるさん、あなたが、それとともにいないことから、おじゃるさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
おじゃるさん、あなたが、そこにいないことから、おじゃるさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です。 _,. -‐''": : : : :``' ‐ .、._
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ヽ:::::: :゙'‐='" : : : : : : : : ii ,●l: : : : : : : : :/ (巛ミ彡ミ彡ミ彡ミ彡ミ彡)ミ彡ミ彡)
\::::::: : : : : : : : : : : : : ゙'‐='" : : : : : :/ ,,从.ノ巛ミ 彡ミ彡)ミ彡ミ彡ミ彡)''"
`‐.、:::: : : : : : : : : : : : : : : : : : :.‐'´ 人ノ゙ ⌒ヽ 彡ミ彡)ミ彡)ミ彡)''"
`:‐.、. _::: : : : : : : : :.-‐''" ,,..、;;:〜''"゙゙ ) 从 ミ彡ミ彡)ミ彡,,)
ヽ / / ̄ ̄ヽ_,,..、;;:〜-:''"゙⌒゙ 彡 ,, ⌒ヽ 彡"
i i⌒\__ノ ノ::::::゙:゙ '"゙ ミ彡)彡
ヽヽ ヽ / / ``゙⌒`゙"''〜-、:;;,_ ) 彡,,ノ彡〜''"
// / // / "⌒''〜" この道に於いて誰もが陥る勘違いが”分かろう”とすることです。
真実は理解することじゃないんです。そうすることがいけないというんじゃないです。
それもまた真実の全容です。そういう学問も成立してますし、その道に行きたければそうすればいい。
ただ真の意味で真実を知ることはありません。理解しようとすればいきなり間違うんです。
考えで追究すればどんどん深みにはまっていきます。
真実不疑に達するには理解することでも理解しないことでもない。
頭が静まらないと真実が見えてこないということくらいは理解する必要はあります。
こちらが騒がしいと分からなくなるんです。 > 識られたものにおいては、識られたもののみが有る
此縁性(しえんしょう)
仮設としての
無明が有れば、苦が有り
無明が滅すれば、苦が滅す
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/10/09/095248
テーラワーダ2.0的な? パオ・セヤドー
… 観智(智慧の世界から観察すること)が生起しない時
… (仮設としての)無明は生起する
… 無明と貪愛(渇愛)によって
… (あるがままに見ることができなくて)執着が起こる
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
作者無し
縁起に依存して
現れ・変化して・滅して
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
業報有る
此の陰滅し已らば異陰相續す
無明に縁りて行 → 行に縁りて識、に依存して
『苦しい!』と掴もうとしている想いが、現れ・変化して・滅していく? > この道に於いて誰もが陥る勘違いが”分かろう”とすることです
> 真実は理解することじゃないんです
なぜ?無明に依存して↓妄想して、理解しようとして、分かろうとする
心の動き・心の働き↓が現れるのか?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
テーラワーダ2.0的な? パオ・セヤドー
仮設としての
有分心
生命相続流
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
有分心があるので
一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません
熟睡して夢を見ない時、何らの心路過程も生起していませんが
有分心だけが、継続的に非常に多く生起しているのです
過去の学者で、有分心を「無意識」とか「下意識」とかに訳しました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛(渇愛)が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので
それゆえに
『(無明に依存して)いつでも妄想している!』ということなのでつ m(_ _)m 『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない!』と言う
大乗1.0と
苦集滅道で → 涅槃(滅してから、そして → 不生不滅)と導いていく
テーラワーダ2.0は
相性が悪い感じがする
それでも↓とりあえず
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
( ↓「仮設としての」という意味で)
「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
もし亡霊など全くないことが科学的であり,
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ
そのまま説いているわけですが
もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば
この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても
まったく詳細巧妙に説明する
心理学(心の動き・心の働きとか)を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
_ _ _
南伝の上座部と
唯識の心の働きの分析とかは相性が良いところもあるかも? m(_ _)m 線香の煙も体に悪い
http://kenkounews.rotala-wallichii.com/pollutants_from_incense-smoke/
知ってた?お線香の煙がタバコよりも有害だと判明したことを
http://irairakaisyou.com/byouki/okou/
線香はなるべく合成香料ゼロでかつ煙が少ないものを選び、また読経の最中にはあげないほうが良いみたいね。
しかし、こういう有毒なものを仏様にあげて良いものだろうか、と。 仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、唯、仏と仏のみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。
謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、
是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり。
何故、諸法実相ーあるがままに観るーのは仏でないとできないのか?
外界の現実を曇りのないまなこで、あるがままに観ることができれば、大抵のマイナス思考は発生しないでしょう。
それこそ苦の消滅です。
ただし、それは肉体をもつ人間にはほとんど不可能なことです。
感じた瞬間に、その刺激に対して善悪、快不快、損得、危険安全で判断してしまいます。
この刺激(色)→感受(受)→瞬間的判断(想)の流れは猛スピードでスタートしますので、現時点ではあるがままの現実を曇りのないまなこであるがままに観ることはできません。
では、そのまなこを覆う曇りとはいうと、それは潜在意識なのです。
生前のカルマが今世に影響しているのかどうかは知りませんが、生まれてからの経験の蓄積は潜在意識の奥に入り込んでいます。
唯識でいうところの阿頼耶識に蓄積されるのです。
阿頼耶識は普段は認識できない領域です。
認識できない上に超高速で発動するのですから、この段階で感じ方をどうこうしようというのは無理なのです。
ですから、仏と仏とを除いて
>見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
〜
>識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
はこの段階では無理なのです。
出来るとすると、見られたものにおいて、善悪、快不快、損得、危険安全を判断したが、
それは自己の阿頼耶識が起こした判断であるという気づきを毎回起こすこと、
そして阿頼耶識による瞬間的判断(想)を受けてもそのことに気づき、「見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたものは、私と一緒にはいない」
と意志を固め意識することで、阿頼耶識は上書きされていくのです。
万が一ネガティヴな阿頼耶識が全て上書きされたら苦しみの終わりですが、全て上書きされなくても気づきによりマイナス思考を大幅に減らすことは可能です。 >>590
外界の現実なるものがあって、それを観る自分、と見てるよね、君。
で、観る自分と言う観察者のようなものが、何かすると仏になるとか思ってるよね。
つまり、仏は別にあったり、何かすると自分が仏になったり。
これね、こういうモノの見方=見解を持つことを仏見って言うんだよ。
で、自分があって、外界があって、と自分と外界とを分けて観る。
自分は取り敢えず観察者と見てるので、それ以外の外界なるを別の法とみる。
これね、法見って言うんだよ。
で、仏見と法見とを合わせて持って捨てられない人の事をね、一闡提って言うんだよ。
一闡提は悟れないし成仏できないし、仏教を理解すらできないんだよ。
仏教にとっての最悪の敵が一闡提って訳。
所謂小乗では一闡提は成道出来なかったそうだよ。
大乗だとその一闡提すら打ち破って成仏も可能となっている。
なんでだろねw
調べてみると良いよ。 >>591
あなたは如来であり仏です。
どうぞ衆生を導いてくださいな。 >>592
>>590の君のスレを観察して脊髄反射的に物知り顔でレスした>>591が仏や如来のはずがないだろww
自分で書いてる仏見と法見の塊だよ一闡提だなww
この人は参禅会に参加した程度で覚者気取りしてる俗人
こう書くと「はい、私は俗人です」と認めてくれるのが取り柄
したり顔で仏道を説くのは得意だが己の仏道を完成する気はなく参禅で完成しているとしている増上慢
道元が好きらしいが「正法眼蔵の出家功徳」は方便なので別に出家する必要はないし
出家しなくても仏道は極められると道元を真っ向から否定する調子者
全身麻酔は一切外と自分で言っておいて後から言ってないと言い訳するからやはり俗人
こう書くと「一体誰のことを言ってるのでしょう」としらばっくれる不妄語戒の破戒者 一闡提(いちせんだい)
仏法を信じず誹謗する者
(無明 → 我癡・我見・我慢・我愛に依存して)
欲求する人
我所(がしょ)
自らの所有あるいは所属
身体ないし心が他に対して特別な存在であると妄信している
我の所有の略
自身を我といい、自身以外の万物を我所有という
阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)
種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある
さらに、前五識に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある
この種子は前五識から意識・末那識を通過して
阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される
これが(無明に依存している)思考であり、外界認識であるとされる
末那識(まなしき)
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
(『いつでも光り輝いている!』ということに気づくことができなくて)
障害があることから「有覆無記」という
阿頼耶識(あらやしき)
さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で
「無覆無記」という 道元禅師の出家功徳も大乗だと思うけど
それでも
テーラワーダ2.0のような
智慧と無明の説明は↓わかりやすいかも m(_ _)m
http://www.dogen-shobogenzo.com/syukkekudoku1.html
出家功徳 現代語訳
智慧の世界から観察して
静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし
恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る
無明に依存して
人は財産や地位、快適な生活を求めるが
これらの楽しみは安穏ではない
なぜなら、利益を求める心には際限がないからである
智慧の世界から観察して
智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り
仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている
解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論
世俗諦・勝義諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない >>591さん、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。
訊かれてもないのにいちいちレスするのではありません。
それができればそのときあなたは、
外にはいない。つまり、誰かのレスにとらわれない。
内にもいない。つまり自分や誰かの見解に固執したり、誰かに自己同一化を図ることで自我強化したりしない。
外にも、内にもいないあなたは、どちらにもなく解脱している。
それは一切の苦しみの終極である。 おじゃる君へ。
宗教は、全存在と対決したときに出る答えである。
> おじゃる君へ。宗教は、全存在と対決したときに出る答えである
今から仕事に出かけなければならないので時間がないので
また後で m(_ _)m だからこうあることしかないんでしょう。
ちゃんと分かるようになってる。
その時そうだと分かってる人なんか一人もいません。
分け目なんてないんでしょう。
後になって人があれはそういうことだ、これはこういうことだって頭のなかで描いてるだけじゃん。
これ読んでると同時に読んでるなんてありませんよ。
どうして考えてばかりで実際に学ぼうとしないの。
実際が真実じゃん。誰でもそうのはずですよ。 中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な動きによる行為・言葉の働きによる行為・心の働きによる行為を行う(カルマを積む)
渇愛が生じて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れている
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習に依存して
他に対して、自らこそが特別な存在として妄信している
我(が)、渇愛(タンハー)に依存して
☆ 『実際に学ぼうとしないの?』と掴もうとしている想いが現れている
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
密集の概念がある時、霊魂(我はある)の概念が生まれる
密集を看破するためには
☆ 智慧の世界から観察して
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、(無常であり、そして)無我への領悟、了解が生まれる ☆ 智慧の世界から観察して
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図
七 忘牛存人
「想う!」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない!」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想も超えて
無明を超えて
妄想、分別も手放して
宇宙と一体化した
八 人牛倶忘
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を
夢幻のごとく、地水火風空識に依存している『空性である』と観察せよ
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである
ここまでが↑テーラワーダ2.0 m(_ _)m >これ読んでると同時に読んでるなんてありませんよ。
これだね。 新スレが建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/ だから学ぶってことは頭ですることではないんですよ。
なのに誰もが考えることで学べると思ってる。
殊更ですが別に考えることがダメとか仏教学がダメとは言ってないですよ。
人間社会にあってはそれは必要なことなんだけど、この道に於いては必要ありません。 >この道に於いては
智慧の世界から観察して
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
大乗1.0
曹洞宗・臨済宗
いつでも光り輝いている、それゆえに
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
テーラワーダ2.0
無明の暗闇に覆われた世界の中において
苦集滅道
苦を滅する道がある
_ _ _
>頭ですることではないんです
>誰もが考えることで学べると思ってる
智慧の世界から観察して
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
テーラワーダ2.0
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている。智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである 目が見えず耳が聴こえず口が聞けない奴に仏法を説いてくれぇ〜
説けない様なら仏法台無し、釈迦は詐欺師だぁ〜
さて、どうするんだぁ? この字が読めるなら眼と頭の方は大丈夫ですね。
あとはご自身で確認できるでしょう。 >>611
>>610は目が見え耳が聞こえるから文字を知ることができ610の文書を打てたんだろう
だから目が見えず耳が聴こえず口が聞けない奴というのは>>610のことではないよ
>>610の周りにそういう奴がいるのだがその人に仏法を説いてくれと言ってるんだよ >>612
でしょうね。
>>613
おお、あなたもちゃんと読めるようだ。 >>610
まずその不幸な障害者は生まれつきの障害者で言葉というものを知らないのか?
それともヘレンケラーのように幼少期に言葉を覚えたがその後目と耳と口が利かなくなったのか?
どちらか?
次にどんな仏法を説いて欲しいと望んでいるのか?
その二つが分からないとどんな仏法をどんなやり方で説けばいいのか判らない。 自身の問題と観るか、無常説法と観るか、そのままに受け止めるか。
まさに答えは質問の中にあるだね。 >>610
求められねば法は説けないだろ。
寝言は寝てる時に言え。 因みに、仏教では食べ物を四つに観る。
段食、触食、思食、識食。
段食は実際の食料の事、触食は触れる事で心が育まれるスキンシップなんかの事、
思食は希望や願望などの事、識食は生きようとする意識の事。
この四つ、どれ一つが欠けても人は生きて行けない。
また、どれ一つでも足りなくなれば人は狂いが生じだす。
しかしまた人とは、そう言う狂いが生じだす様を安易に受け入れない仕組みを持っている。
それ故に、狂いそうだと前兆の兆しを周りに出す。
もし、慈悲の心があるのなら、きっとその前兆は見過ごさないのだろう。
その時には、食を施させて頂けば良いのだ。
財施は法施と不可分なのだから。 >>619
ん?
それが求めてないとは書いてないけど。 >>624
そのようだな
自己満足極まりない人みたいだし。 >>621
求められたなら説けばええがな。
ひょっとして法施は言葉だけだと思ってないか?
そうじゃないから四食を説明してやったんだが。
わからんならそれまでの話。
無明の暗闇に覆われた世界の中で
地水火風空識に依存して
http://puchishugyou.blogspot.jp/2009/10/blog-post_23.html
四食
1.段食
食べ物
2.触食
身体で触れることで心身の働きを養うもの
3.思食
希望や夢があるから困難な状況でも耐えることができる
4.識食
生きようとする意識・力が、生きていることを支えています 大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の姿となられ、
すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。
@ まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。
最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。
(灌頂施)
A また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。
(義利施)
B 次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得することであろう。
(法施)
C 最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。
この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。
(資生施)
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/c5aa3ca59b6221974318358dac9b3705
> 水をすべてのものに灌ぐもの
いつでも光り輝いている
智慧の世界から観察して、そして
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観
自己の心を満月輪のようであると観じる
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に周遍する
と観じる
https://kotobank.jp/word/%E7%81%91%E6%B0%B4-75997
しゃすい(灑水・洒水)
《水を注ぐ意》密教で、加持した香水を注いで
煩悩・垢穢を除く、きよめの儀礼。また、その香水
http://tobifudo.jp/newmon/butugu/shasui.html
灑水は、身をはじめとして、道場や
いろいろな物を清めるときに使われます
散杖さんじょうあるいは灑水杖と呼ばれる木の棒で
器から少し灑水用の香水を取り
注ぐように撒いたり、散布するように撒きます >>631
よく勉強してますね。
>>618はまず灌頂の布施を心掛けましょうね。それが答え。 >>633
どういたしまして。
宇宙に偏在するあらゆるものは宇宙の一部として掛け替えのない価値があり、掛け替えのない価値をもってお互いに施しをしています(平等性智)。
あなた自身の価値、宝にまずあなた自身が気づきましょう。
そうすると平等性智により相手の精神的・物質的価値を見出して宝を与えて能力を引き出すことが出来ます(灌頂の布施)。
その宝こそが如来蔵なのですが、あなたも相手も清浄(不二)であるので等しく如来蔵を有しています。
もっと言えば宇宙そのものが清浄であり如来の蔵なのですが。
如来蔵があるので仏法に目覚めるのは可能、せんだいはいない、
では障害者或いは自ら目を閉じ耳を塞ぎ口を閉ざしている者がどうやって仏法に目覚めるのか、そこで灌頂の布施なのです。
あなたの宝に気づいて下さい、そして不二である相手の宝にも気づいて下さい。
そうしてお互い施しあいをする、その時点で既に仏道を歩んでいます。
> よく勉強してbワすね
理論体系とかは↓まったく、わからないけど
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
風水で見た都市のあり方 国土交通省
… 江戸というのも風水で造設されたまちなのです
天海僧正が …
江戸のまちに流れてくる「龍脈」から吹き上げてくるよい「気」を集めて
それを循環させるために甲州街道、東海道をつくりました
(アニメとかの)
http://pics.dmm.com/mono/movie/n_620tdv21334ra/n_620tdv21334rapl.jpg
ぬらりひょんの孫 千年魔京
陰陽師とか
呪術とか
巫女とか
魔術とか
魔女(ウィッチ)とかにも興味があります m(_ _)m >>634
>では障害者或いは自ら目を閉じ耳を塞ぎ口を閉ざしている者がどうやって仏法に目覚めるのか、そこで灌頂の布施なのです。
結局肝心な所を分かってねえんだよな。
だからダメなんだよ。
あんた如来蔵の意味も分かってねえ様だし。
>せんだいはいない
なら目覚めるべき仏法も無いって事だよ。 >>632
残念、>>618は禅の公案の話で、出したのは私なんですわ。
ここで答え云々はいいませんが。 >>636
すべての存在は、如来になれる種を持っていると説きます。この如来になれる種のことを「如来蔵(にょらいぞう)」といいます。
これは、禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。
何ものも如来蔵を有するが故にせんだいは認められませんが、その蔵を開くのが仏法です。
>>637
禅の公案の話でも構いませんよ。
灌頂施は公案の答えではないのでしょうが、>>618の三つの見解全ての答えです。
まずは全てのものに価値を見出して下さい。 >>638
>禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。
違うよ。
山川草木に仏性があると観るのが間違いなんだよ。
分かんないならちゃんと仏門に入った方が良いよ。 仏性とは自我の事な。
自我はダークサイドの名称みたいなもん。
これがライトサイドからだと仏性って訳。
つまりだ、山川草木と見てるのは自我が分別して山川草木と認めてるわけ。
その事実に気付けたなら、それが悪人正機であり、なるほど悉有仏性なわけ。 >>642
>つまりだ、山川草木と見てるのは自我が分別して山川草木と認めてるわけ。
>その事実に気付けたなら、それが悪人正機であり、なるほど悉有仏性なわけ。
>>638
>これは、禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
>それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
>本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。
使っている用語は違っていても同じことを書いていますね。
ちなみに清浄とは自他の区別をせず、自分と他人と大自然、大宇宙が一体となっているという前提に立つことを清浄と表します。 >>638
見出そうとしたら(分別したら)価値がなくなる!
というのが、まぁ、禅宗の見方ですかね。
本来価値があるんですから。
また、禅宗は自他一如の視点でその公案を見ます(基本的に)
その不自由な方は一体誰なのか?と参究します。
まぁ、行き着く先は同じでしょうがね ^ ^ >>643
>使っている用語は違っていても同じことを書いていますね。
同じに見えるならそりゃあんた間違ってるって事だよ。
つまり、
>どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
と二元を観ちゃってる。
仏法は無我なのに二元に観ちゃダメでしょ。
そのままじゃアドヴァイタにも劣る見解に陥っちゃってんだよ。 >>645
>>638
>それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
>本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。
一切の存在は清浄であり如来と平等であるが故の如来蔵です。
それは一元ではないのですか?
如来と他の存在を分別する方が二元ではないですか? >>644
>また、禅宗は自他一如の視点でその公案を見ます(基本的に)
>その不自由な方は一体誰なのか?と参究します。
>まぁ、行き着く先は同じでしょうがね ^ ^
はい、金剛乗と同じ場所に行き着くと思います(^.^) >>646
>一切の存在は清浄であり如来と平等であるが故の如来蔵です。
一切って何?
ここ肝心だよ。
世界があって自分が居て、って考えに捉われてるといつまでも分かんないんじゃないかな。
俯瞰して言ってるつもりなんだろうけど、それがそもそも妄想なんだから。 > 金剛乗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット仏教
根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や
金剛乗の密教までをも広く包含する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても
大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている
密教の他の用語としては
金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、真言乗(マントラヤーナ)などとも称される
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%89%9B%E4%B9%97-67189
大乗よりもすぐれたという意味の
金剛乗(バジュラヤーナ)という呼称が用いられることがあるが
チベット密教ではタントラ仏教がそのように自称する
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
(無明の暗闇に覆われた世界の中で)
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
(いつでも光り輝いている、智慧の世界から観察して)
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、変化している)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません 止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)とかの実践したことないけど、とりあえず
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
八 人牛倶忘
(止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)とかの?)
修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが『苦しい!』と掴もうとしている想いの終わりである
↑ここまでがテーラワーダの色即是空 → そして滅して → 涅槃へ?
☆
↓ここからが大乗の色即是空 → 空即是色?
十牛図 本来持っている仏性
九 返本還源
さらに無の世界を超えると
元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
そこでは、ただ川が流れ、花が咲き、鳥が鳴き、雨が降り、風が吹き、生死があり、そして人の営みがあった 651.
最後に観照で終わりとなるのか、否かの問題である。 >>648
一切
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
ま、これも釈尊時代には存在を知られてなかった細菌やらウイルスやら、
ま、これらはものを発酵させたり病気を引き起こしたりすれば六根六処を反応させるものですが、その原因までは細菌やウイルスとは分からず存在も知られてなかった。
また天王星や海王星も認識されてなかったし、銀河やブラックホールなども六根六処には触れなかったことでしょう。
ですから、一切についても無常と解釈することも出来ますが、もっと簡単に一切とは大日如来のことだということが出来るでしょう。
大日如来
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
一切
無明の暗闇に覆われた(有為法の)世界の中の − 全部?すべて?残らず?
無為法も、有為法も、ふくめて − 全部?すべて?残らず?
https://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97/
無明の暗闇に覆われた(有為法の)世界の中の
一切諸法 − 地水火風空識に依存している仮の現れ
(この有為法の世界の中にも)
法界体性智(大日如来の智)も満ちている
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
世俗諦・勝義諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない > 観照で終わりとなるのか
たとえば、テーラワーダとかの場合は
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて → 想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
…
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
(中論は、テーラワーダではなくて、大乗だけど、とりあえず)
☆ 第十八章 自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する
☆ 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止(滅して、そして → 涅槃)は
止(シャマタ禅定)と観(ヴィパシヤナ智慧)を通して生じるのである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています