【石の上で瞑想すると何が見えてくるのか】 [無断転載禁止]©2ch.net
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石の上で瞑想し半年・・
何が見えてきたのか・・
書き込んでみようと思う 瞑想は止観と観察があると言われている・・
今日の瞑想はそれらを試行してみた・・
止観はなにも考えずに座ること・・
それは既に習得してる 習得してると言っても・・
高温のサウナから
低温の水風呂に頭から浸かり・・
石の上に座れば・・
必然的に止観の状態になる^^ 仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(奢摩他、サマタ瞑想)とは、
心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。
また観(毘鉢舎那、ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらき
となって、事物を真理に即して正しく観察することである。
このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。
止だけでなく観を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。
止観・は、しばしば2つの車輪に例えられ、不離の関係にある。
wikpより・・ ん?
「止観と観察がある」ではなく・・
「止」と「観」か・・ 頭と体を高温から低温に温度を下げれば・・
一瞬の間思考が止まる・・
そこで瞑想に入る・・
このやり方は間違っていない^^ 普通の環境下ではこの状態になることは・・
不可能だろう・・ 本音を言えば・・
これを何百回と繰り返していれば・・
そのうち奇跡的に何かが見えてくることを
というか・・・
まちがって真の瞑想法と一致する時があるのではと・・ それをこのスレで気づいたことを書いていく・・
う〜〜ん
すばらしい^^ 瞑想の知識がなく瞑想を始め半年・・
そろそろ瞑想について調べてみるか^^ 修行者は、この止と観という瞑想を通して、具体的には止によって煩悩(渇愛)の魔を
伏して定を獲得し、観によって無明の闇を破して「智慧」、いわゆる般若[はんにゃ]を
獲得します。ここで修行者は、ブッダが説かれた「すべては無常であり、
無我であり、苦しみである」ということが確かに真理であることを、
ただ言葉の上ではなく、みずから真に知っていくのです。
ちょっとおいらの考えてた瞑想とは違う・・^^ おいらの考えてる瞑想とは・・
宇宙の意思を感じ取ることなんだよね^^ 石の上に存在する・・
ここに存在することが宇宙の意思ならば・・ 「止」は何らかの対象に一点集中し、心を静める瞑想法です。
「観」は何らかの対象を観察・分析し、智慧を得る瞑想法です。
心を静めるとか・
智慧を得るとか・・
違うんだよな・・^^
おいらの目指してる瞑想・・ 止とは、すなわち
寂静な処に座し、意を正すべし。
特定の対象、息、虚空などに気を依らしてはならず、五感すべてに気を留めてはならない。
あらゆる想を除き、除くという思いも捨て去れ。現象は無相であり刹那生滅であるから。
止において想が乱れるならば、一切の現象は心のみであり対象は存在せず、
またそのように考える心も固有の相はなく刹那生滅するものである、と観じて後、止に戻れ。
座より立った後も、折に触れて、心を真如三昧に住するよう努めるべきである。
これにより煩悩を伏し、信心を増し、不退の境地に至り、法界一相を覚るであろう。
これはわかる^^ わあるが・・^^ 現象は無相であり刹那生滅であるから・・
一切の現象は心のみであり対象は存在せず・・
心も固有の相はなく刹那生滅するものである
この世にある全てのものが刹那生滅するものである・・
ん?瞑想する前に答えだされても・・
これから瞑想始める人にとっては迷惑ではないか・^^ 映画でいえば・・
見ようとするまえに・・
結果がわかってしまい・・
その映画を見る気を失うと・・ そこに到るまでの過程が重要なんだよな・・
これでは知識があるだけ・・
真理を実践で見極めようとする人が
少なくなるよな〜^^ 今日はここまでにするか・・
また明日瞑想しにいかないと・・・^^
宇宙との意識の疎通を図るために^^ あの石がおいらが来るのを待ってんだよな〜〜^^
これは・・確実^^ 禅定:身体化の方法論です。腰立の姿勢で呼吸を数えつつ(数息観)複式呼吸をする。
意識の暴走、空回りを抑え、精神集中によって意識と身体の融合・一致をもたらす
八正道のひとつです。 止観:いずれも坐禅の具体的内容であり方法論です。
「止」とは意識の暴走を止め思考作用を伴わない精神の集中状態
正念に至ること。
「観」とは変転極まりない世界(=色)とこれに振り回される意識(=名)
とを、「身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我」(四念処)と洞察すること
により切り離し、世界と人間を感情を交えないでありのままに見る智慧、
「名色分離智」正知を体得すること エックハルト・トール〜真の瞑想とは
https://www.youtube.com/watch?v=Y5Nz1l6VFps
>>18>>19で書いたこと・・
この動画と言いたいこと同じだわ^^ 瞑想の具体的効用として、集中力の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、
瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、さらには悟り
・解脱の完成まで広く知られる。宗教や宗派、あるいは瞑想道場により、
瞑想対象や技術が異なる。
仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ
意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられる場合がある。
例えば、大乗仏教における仏教哲学・仏教心理学では意識は八識に分類され、
その中には末那識や阿頼耶識と呼ばれる層があり、仏教の瞑想法はそこへ到達する
ための方法と言われている。 上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化
(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており、
第一禅定以上の集中力において仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで
解脱が可能と言われている。
ヒンドゥー教における瞑想法は、真我や神との合一体験を目的とした瞑想が主流である。
仏教やヒンドゥー教における瞑想法の究極の到達点は一般的には輪廻転生からの解脱で
あるが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗教・宗派を区別する根拠の一つ
となった。 大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、
上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、
今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す。
仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化
している一方で、ヴィパッサナー瞑想によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験として
おり、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっている 瞑想修行がすすみ、集中的瞑想の段階に入ると、通常では体験しないさまざまな心的要素が次々現れる。
多くの瞑想伝統では、悟りに至る過程の一現象であり、「副作用」に過ぎないものとされるが、
瞑想者に非常に大きな衝撃を与える体験であり、道を踏み外したり病理的な事態に陥るといったことが
知られている。欧米ではまだこの段階に達している瞑想者は少ないため、研究にも混乱が見られるが、
感情的・身体的エネルギーの激発(体の一部が突然動く、急に脊髄が燃えるように感じられて体中が熱くなる、
身体各部に強烈な痛みを感じる、身体各部の緊張が急に解き放たれる、様々な色の光に襲われる、
強いエクスタシーを伴って身体全体が震える、複雑で劇的な身体の動きが数日〜数年続く、など)があり、
ヒンドゥー教で「クンダリニーの覚醒」と言われる状態と思われる。
また瞑想集中期には、身体が大きくなったように感じたり重く感じる、
また体外離脱や幻聴などの知覚の変容、急に強い絶望感、喜び、深い悲しみ、
恐怖に襲われるといったこともある。感情が大きく揺れて制御できなくなる、
過去世のようなヴィジョン、見たことのない情景が現れるなど、古代的・元型的
イメージが浮かび上がり、これに伴う強烈な光や色に圧倒されて、精神のコント
ロールができなくなることさえあるという。瞑想熟練者によるきめ細やかな指導
がない場合、病理的な状態に陥る可能性もある。指導を無視したり正しい瞑想法を
行わずに、完全に精神病的状態になり、薬物治療が必要になったケースも知られている
うわああああああああああああ
クンダリニーの覚醒」とか・・・・ 「クンダリニーの覚醒」??
どこかの信者が喜びそうだ^^ 集中的瞑想が深まると、すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感が湧き上がる
ことがあり、これを瞑想の最終的ゴールと間違えることが多い。
シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)と呼ばれており、強烈な幸福感を呼び覚ますため、
一度体験するとそれにしがみついて手放そうとしなくなったり、悟りの境地に達した
と感じて有頂天になることがあるという。多くの瞑想伝統には、こうした体験を評価する
洗練されたシステムがあり、シュード・ニルヴァーナには距離を持って接するよう指導される
「シュード・ニルヴァーナには距離を持って接するように」^^
おいどこかの信者・・わかった??^^ おいらはまだ集中的瞑想が深まってないから安心だな^^ 上座部仏教の第一禅定から第九禅定っておもしろそうだな・・
ちょっと試してみるかなっと^^ 【第一禅定】
第一禅定は尋と伺の心で禅定に入る継続できる段階です。
【第二禅定】
第二禅定は尋・伺が無くても禅定に入れる。
呼吸にあまり集中しなくても禅定にすぐに入ることができる段階です。
そうして、第二禅定でも五自在の練習をします。 五禅支とは
・尋(じん)/vitakka(ヴィタカ)・・・対象に向かっている心。
・伺(し)/vicaara(ヴィカラ))・・・対象に向かっている心を維持する心。
・喜(き)/piti(ピティ)・・・喜び。高揚感。
・楽(らく)/sukha(スカ))・・・身体的な楽。安楽感。
・一境性(いっきょうせい)/ekaggata(エーカガッタ)・・・統一感。一体感。 色界は、瞑想をして禅定という心を作らないと、決して入ることができない世界です。
座禅を何故、行うのかといえば、禅定という心を作るためです。
ですので日本の禅宗でも「見性」を得たなら、基本的に来世は色界の梵天になれます。 そうして禅定とは、尋(じん)、伺(し)、喜(き)、楽(らく)、一境性(いっきょうせい)
という5つの心から始まる心の状態です。
この5つの心を「五禅支(ごぜんし)」といいます。
五禅支はジャーナを得る仏教の瞑想修行では必ず出てくるものです。
もっとも四念処系では出てこないことも少なくありません。 そして禅定は4段階の深まりとなっていきます。
・初禅・・・尋、伺、喜、楽、一境性
・第二禅・・・喜、楽、一境性
・第三禅・・・楽、一境性
・第四禅・・・一境性 禅定に入ると思考や雑念は起きません。しかし周囲で起きていることは分かる
ようです。
第四禅では一体感だけです。また呼吸が大変小さくなり心臓の動きも小さくなり
ます。神通力が発生しやすいのも第四禅です。
そして人間がもし、これらの禅定に達することができると、死後、色界に転生
できます。梵天という神になります。 【第三禅定】
第三禅定では「喜:piti」が抜けて「楽:sukha」と「一境性:ekaggata」が残るように練習をします。
「喜:piti」はニミッタに見て「喜んでいる」状態で、心は微妙に揺れています。そこで、より安定した心にする
ために「喜:piti」を抜ける必要があります。この段階では「喜:piti」を抜ける練習をしていきます。
ある人は第三禅定の心地よさにとらわれてしまい「このままでいたい」「これが好ましい」という感覚が生まれてきて、
ここにとどまってしまう方も少なくありません。
第三禅定は、「楽」「一境性」の心しかないからです。 第三禅定は、世の中で得られる楽しさや快楽をはるかに超えていて
(世間では得られない楽しさが得られているため)、第三禅定の快楽よりも
優れた楽しみは無い、これ以上の楽しみは無いと思ってしまいます。
ですので、第三禅定から抜けられずに、ここにとどまってしまう人が多くなって
しまいます。そうして第三禅定でも五自在の練習をします。 【第四禅定】
第四禅定は最高のサマーディになり、「捨:upekkh」と「一境性:ekaggata」になります。
第四禅定では「楽:sukha」が抜けて、「捨:upekkh」の感覚が強くなります
第三禅定では、ニミッタに対して「楽:sukha」の一体感がありますが、
第四禅定では、無視したような感じになって(捨)、ニミッタとの一体感(一境性)があります。
ですので、第四禅定は、「捨:upekkh」と「一境性:ekaggata」のみの心ということになります。
第四禅定は、もっとも集中力が強く、深まっている状態です。 第四禅定に入っている人を見ると、体の動きはありませんし、
地面の上に石を乗せたような状態で動きがなく、心も体の状態も安定しています
。集中力が深まっていない人は、体があちこに動いたり、痛くなったりします。 あーなんのことやら・・^^
どないなっとんねん^^
おい上座部^^ 禅定とは、尋(じん)、伺(し)、喜(き)、楽(らく)、一境性(いっきょうせい)
という5つの心から始まる心の状態・・
【第一禅定】
第一禅定は尋と伺の心で禅定に入る継続できる段階です。
対象に向かっている心と
対象に向かっている心を維持する心で禅定に入れと・・
どないすればいいねん^^ 石の上で瞑想を続けると見えて来るものは唯一つ・・・・・痔。 どうやら方向性が違うみたいだ・・
禅定はあきらめよう^^ 石と言っても・・
でかい(3m×3m)石を半分に切って
平らにしたやつだから・・
今日はそこで1時間ぐらい寝てた^^
体黒くなった^^
日光浴には最高^^ 瞑想に集中力なんて・・
関係あるのかな〜〜
そもそも瞑想は入る段階で・・
意識ないんだけど・・^^ サウナ入って水風呂で頭冷やせば・・
意識飛ぶんだけど・・^^ あーそうかー
普通の温度の環境下だとよほど集中しないと・・
水風呂で頭冷やして意識が飛ぶ状態になれないという
ことか・・
こっちは物理的に瞑想に入れる状態にしてるからな・・ >>49
オイラも真冬の夜に三日間石の上で座禅をしたら直ぐに痔が出来た経験がある。
石の上での座禅は冬はやめた方がいいな。 今日も瞑想行って来た^^
何が見えたか?
って言ってもいつもと変わらない^^
思考が止まり・・
座ってることが心地よい・・
ただそれだけ・・^^ 今日は呼吸を意識してみた・・^^
三昧とは「心を一境に住して散乱させないこと」です。
心を「いま」当面する一つのことに集中する、ということです。
この三昧を基礎から身につけるのが「数息観」です。
嬉しいときは嬉しい三昧、悲しいときは悲しい三昧。
いつでもどこでも「三昧、三昧」の日常生活ができれば、
人生これほど快適なことはありません。
学問でも仕事でも武道でも、三昧になればその効果はてきめんに現れてきます。
らしが・・
瞑想で重要だと思われることは・・
呼吸と姿勢なんだよね。。^^
まっ・・奇跡はまだ起きないが・・
瞑想すると心地よいから・・
気長に待つとするかな^^ よくよく考えてみると・・
1回の座ってる時間が長くても・・15分^^
15分って短いような・・気がする^^ 瞑想は長くやればやる程、効果が出そうですよね。
しかし、一概にそうとも言い切れません。
本当にその時間瞑想状態になっているなら、そうかもしれませんが、
そんなに長時間集中出来るような方は稀です。
よく聞くのは、15分〜20分程度ではないでしょうか。
恐らく、これが一般的な方々に最適な時間ではあります。
この位の時間集中して瞑想をすることができれば、瞑想の効果を感じるでしょう。
そうかそうか^^よかった^^ では、それよりも短い、例えば5分などだとどうなのでしょうか。
実は、例え短時間でも、瞑想をしない場合に比べると、瞑想をする意味を
感じます。その時間一気に集中して瞑想を行うことが出来るなら、
それは効果的な瞑想なのです。
つまりは、時間の長さにこだわるよりも、質が大事ということです。
長さより質かー^^ 何も考えずにただぼんやりする「瞑想」は実は時間の無駄だった―研究結果
うわっ・・^^ う〜〜ん・・
まずはブッダが言ったことが事実であるか・・
実践して確かめる・・
頭で理解しても実行が伴わなければ意味がない・・
そんなに難しいことではないと思われるが・・
どうなんだろう^^ 瞑想をしたこともない人が仏教を語る・・
おわらいぐさだっ^^
あっ・・
チョット言い過ぎた^^ そうか、じゃあ確かめてみてくれ。死ぬまでなw
お前の人生だ、机の引き出しからドラえもんが出てくる程度の可能性にかけるのもいいだろう。
どうせ、どっちに転んでも、ちんけな人生だろうし。 うわっ^^
お前と言われても・・
そこにはなにも存在しないし・・
とりあえず・・
個のエネルギーを全体のエネルギーに変換してみるか^^ そういえば・・・
まえにどこかに書き込んだな・・
調べてみるか^^ 750 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:01:31.43 ID:ukqnFpnD
生きる意味を教えてとか・・
751 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:03:55.24 ID:ukqnFpnD
★ LIVE X Japan - Forever Love - Japan Expo 2010
https://www.youtube.com/watch?v=UXJfmlMMobk
これみてたんだけどね・・・^^
753 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:09:51.39 ID:ukqnFpnD
生きる意味・・
この世界に存在している・・
いわゆるこの世界に存在している証明のために・・
ここにいる・・
757 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:30:33.47 ID:ukqnFpnD
神って・・・
やっぱり・・
宇宙の意思になるんだよな・・
混沌から秩序が生まれた・・
その秩序をつくった意思が神となる・・
760 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:40:40.95 ID:ukqnFpnD
この世界を作り出しているのは、素粒子の振動だけ・・ ^^
761 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:43:51.57 ID:ukqnFpnD
この世界を作り出しているのは、素粒子の振動だけ・・
素粒子の振動だけの世界・・
そこで・・
生きる意味とは・・ ^^
762 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:51:24.58 ID:ukqnFpnD
生きる意味とは・・
「存在する」ことだな・・
「存在すること」が生きる意味となる^^ 素粒子の振動だけの世界・・か・・
とりあえず・・
寝る^^ 因縁果 ◆d........o
2016/07/22(金) 21:30:33.47 ID:ukqnFpnD
神って・・・
やっぱり・・
宇宙の意思になるんだよな・・
混沌から秩序が生まれた・・
その秩序をつくった意思が神となる・・
いるね^^ 瞑想により・・
神の意思が感じられるか・・
それが鍵だな・・
思考を停止すれば・・
宇宙の意思を感じ取れるかもしれん^^ そういえば・・
石の上で瞑想している時・・
水風呂で頭が冷え・・意識が飛んでる時・・
周りの景色に溶け込んでる状態が・・
あったような・・^^ 個のエネルギーが・・
全体のエネルギーに同化する・・ 自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、
1つひとつ活動を停止していく・・
そうなれば・・
個のエネルギーが・・
宇宙全体のエネルギーに・・
開放されるかもしれん^^ 個のエネルギーが・・
宇宙全体のエネルギーに・・
開放される・・
それを人は解脱と呼ぶのかもしれん^^ そうなると・・
思考による解脱は不可能に近い・・
ではどうすればいいのか・・^^
今後の課題にしておくか・・・^^ 思考による解脱は不可能に近い・・・
故に・・思考による悟りもない・・
ということは・・^^ 思考を滅するか・・
煩悩ではなく思考を滅する・・
う〜〜ん^^ 自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、
1つひとつ活動を停止していく・・
すると・・
自己のエネルギーが全体のエネルギーに溶け込んでいく・・
とか脳科学者が言ってたな・・
動画見直してみるか・・・^^ この動画が事実だとすると・・
思考だと悟れない・・
左脳の機能を停止し・・
エネルギを感じ取らなくてはならない・・
どうりでブッダが6年間修行しても・・
悟れなかったわけだ・・^^ もしかして・・
ブッダが悟りを開いたのは・・
左脳が停止したからではないか?
可能性はあるな^^ 一瞬一瞬のありのままの事実に気づくことによって、
諸悪の根源である妄想の世界を捨てていくのがヴィパッサナー瞑想です。
妄想を離れ、色眼鏡を外して、裸眼の観察でものごとの本質を洞察していく
ことが心を浄らかにしていく道であり、浄らかな心で正しく生きていくならば、
人は必ず幸せなよい人生を生きることができると説かれております。
ヴィパッサナー瞑想か・・^^
やるか?ん?^^ 裸眼の観察でものごとの本質を洞察していく・・・
ん?ものごとの本質??
素粒子の振動なんだけど・・^^ 素粒子の振動なんだけど・・
時間があって振動するのか・・
振動から時間が生じるのか・・
それが問題だっ^^ おいらの妄想によると・・
>>89さんは昼1時から2時まで昼飯を食べてる姿が見える・・
なぜ昼12時から1時まで食事をしないのか??
それが問題だ^^ >>89
なぜ昼12時から1時までの間に食事をしないの?
勉強のために教えて^^ 今日は夜中の12時に寝て8時には起きている・・
まぁ規則正しい生活はしているみたいだが・・^^ >>91
振動か・・・。
尾骶骨が振動していれば痔はできない。
低温状態で尾骶骨が静止した状態が長く続けば痔ができるということだな。 >>96
○○が振動していれば解脱はできない。
低温状態で○○が静止した状態が長く続けば解脱ができるということだな。
そのとうり^^ 直感だと・・
○○は・・・
エネルギーだな・・^^ エネルギーが振動していれば解脱はできない。
低温状態でエネルギーが静止した状態が長く続けば解脱ができるということだな。 究極は、空間も物質も光c
空間は、光そのもの、光の速さc=距離d/時間t
物質mは、それが階層的に固まったもの、エネルギーE=mc^2
・・・だそうだが・・・
そうなると・・だっ^^ そうなると・・・
寝ることになる^^
おやすみ^^ ん?まてよ・・
>>102 が事実だとすると・・
人は当然物質だから・・ 人は、光が階層的に固まったエネルギーとなる・・
そうなるとだっ^^ 「人は、光が階層的に固まったエネルギー」
となると・・
夜になったのでまたまた寝ることになる^^
おやすみ^^ 今考えに浮かんだことは・・
人が光である・・
光速を超えた存在は・・
違う次元にいくのか??
と・・^^ ん??
人は光である・・
高速を超えるとどうなるのか?? ん・・ん??
人は光である・・
光速を超えるとどうなるのか?? 内容はよくわからないのですが
すごい量の知識とお考えをもってるのですね
サウナと水風呂はよく入りますので
今度石の上に座ってみます あっ・・
みんなネットで拾ってきたものだから・・^^
あっサウナと水風呂知ってるのか・・
よく行くサウナの水風呂深くて・・
すごい冷たい・・
頭と体を冷やして石の上で瞑想すると・・
感覚・・意識がなくなり・・
すぐに周りの風景に溶け込む・・
この感覚が好きで毎週土日は石の上で瞑想してる^^
もう既に半年過ぎた^^
悟りは得られてないけどね^^
でも・・瞑想すると心地よいので満足^^
15分くらいしか瞑想しないけどね^^
でも1日5..6回繰り返してるから・・
まとめると2時間くらいになるのかな^^ 宗教板には・・
釈迦がいっぱいいすぎて・・
どうなってるんだこれ^^ 釈迦一人のために・・混乱してる・・
釈迦がいなかったら・・仏教はどうなっていただろうか・・ 一切皆苦・・
これ人の自然のあり方・・
我執を捨てろ・・
無理難題^^
エネルギーがそうはさせない^^ 苦を感じるってことは・・
どこか自然の流れに反してるのかな・・
苦を感じるってことは・・
正常な状態があるということで・・
正常な状態とは・・と考えると・・ 正常な状態とは・・と考えると・・
やっぱり・・
我執のない状態が自然体であると・・ 執着のない状態が人の自然体であるならば・・
なぜ執着にこだわるのか・・・ そう考えると・・
なぜ執着にこだわるのか・・・
その答えは・・
無明であるからである・・になる^ 無明・・
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道である
と説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。
「この四諦、八正道を知らないことも無明である・・・」
うわっ^^ では・・そろそろ寝るとするか・・
明日からも我執を落とすことに専念するかな・・
我執を落とし自然体になる^^
では・・寝る 人里離れた林の石の上で瞑想していたサーリプトラは維摩に「そういう場所じゃなければ瞑想出来ないという拘りが間違ってる」と窘められた… 苦が我執があることを教えてくれる・・
体の痛みは痛いところを教えてくれる・・
人って・・
よくできてるな^^ >>114
おはよー
自分が通ってるのは温泉ですが
同じように冷たくて深いです
頭は冷やしてませんでしたのでやってみます
> 感覚・・意識がなくなり・・
> すぐに周りの風景に溶け込む・・
こういう感覚大好きなので 頭を冷やすのは自己責任でね^^
「サウナ 水風呂 瞑想」で検索すると・・
こんなサイトがあった^^
みんな感じることはおなじだな^^
すると80度くらいに熱せられた皮膚が、急に冷水に触れることで、
感覚がマヒしていきます。
そのとき、身体全体が消えたような気になります。
すでに首から上が消えているので、首から下も消えてしまった時、
「私」が消えて無くなります。
http://abetoshiro.ti-da.net/e3581359.html 「私」が消えて無くなります・・」
どこかで聞いた覚えはありませんか・・^^
仏教している人はすぐわかるでしょ^^
そうあれ・・あれですよ^^ 「私」が消えて無くなる・・
すなわち・・^^
ちみたちが目指しているものですよ^^ 「私」が消えて無くなる・・
そして自然に溶け込む・・
これが心地よいんですよ^^
だから毎週瞑想しにいく^^
悟りなんか・・どうでもいい^^
お坊さんに任しとく^^
こうなっちゃうんですよね^^ 135.
私が消えて無くなる、か。
それが物理学の法則かいな。 ここで重要なのは・・
「「私」が消えて無くなる・・」
文字では想像するが・・
実際には全然理解してないし、妄想でしかない・・
しかし・・体験した人には「あーその感覚か」とすぐわかる^^
おまえらがいくら文字で仏教を理解しようとしても・・・
妄想で終わる・・
そう・・体験が伴っていないから・・ 「私」が消えて無くなる・・
我執がなくなる・・
ここちよい^^
涅槃じゃねえかぁ嗚呼ああああああああああああああああああ^^ ストレスが全て無くなり・・
悟りの気分が味わえる・・
そこは天国の世界^^
だが・・ ということは・・
特定の人にだけ悟ることが」許されてるかもしれん^^ またまたおまえらは・・
ほんとうに・・
くだらん^^ たとえば・・
足が痛い・・と感じる・・
痛いと感じなければその特定の部分が悪化し
最悪の場合死に到る・・
では・・
体ではなく精神におけるその痛みとは・・?? 精神におけるその痛みとは・・
そう・・
まさに苦である^^
苦を感じるからこそ・・
それを治すことができる・・^^ では・・
精神における苦とは・・
どんな時に苦を感じるか・・ まさに・・
己が出てきた時に・・
いわゆる我執が出てきた時に苦しみを感じる・・
精神が痛い・・と叫んでいる・・ ということは・・
精神とはもともとどんな状態にいるのか・・ >>156
テヘペロ^^
一人で盛り上がっていた^^ おやすみなさい
明日はサウナと水風呂はいれるかなー 他のスレ読んでたら・・
おもしろそうなサイトあったので・・
とりあえず・・貼っとく^^
454 :
神も仏も名無しさん
2016/07/28(木) 19:35:18.31 ID:1CAaYY8a
もう一度、阿含教で十二縁起を説いている「分別」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html
から サウナ→水風呂→石
なかなか良いものでした
目を瞑って瞑想したとき、蝉の声なんかが
自分の中でなっているような一体感でした おっ^^
いってきたか^^
蝉と一体感か・・
明日おいらもいく・・
とりあえず・・
脳を水風呂でリセットしないとね^^ 他スレで暴れてきた・・^^
スッキリした^^
心地よい^^ とりあえず・・
十二因縁を・・
なんとかせにゃあかん^^ 苦の原因は思考である・・
思考が苦を生む・・
思考は迷いである・・
ゆえに苦が生じる・・ 直感では・・
どのような思考であれ・・
迷いであり・・
苦である・・
すべての思考から苦が生じる・・
たとえ・・悟っていたとしてもだ^^ ・・いや・・
思考では悟れない^^
ではどうすればいいのか・・ ことは簡単^^
思考しなければいい^^
ただそれだけ^^
思考しなければ・・
苦は生じない^^ まてよ・・思考しないってことは・・
迷わないということで・・ その状態になるには・・
う〜〜ん・・
やはり瞑想だな・・ なにも考えず・・
覚醒している状態・・
ん??
正覚している状態・・ 何も考えず・・が無理してるんだよな・・
今瞬間に正覚してる状態というか・・ 176.
正覚している状態、か。
それは幻想、妄想である。 とりあえず・・
瞑想しにいくか・・
脳を冷やしてリセットしないとな・・
つまり・・再起動っていうやつ^^ 脳を冷やし・・
太陽の下・・
石の上で瞑想する・・
贅沢すぎる^^ 180.
瞑想する、か。
それは妄想する、ということである。 今日も頑張っておられますね
またサウナ・冷水・石やりたいです
今日も行っちゃおうかな 無苦集滅道
"無 苦・集・滅・道。無 智 亦 無 得。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす道もありません。
また、教えを知ることもなく、悟りを得ることもありません。 >>182
ありがとう^^
「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」
これらが備わってると・・迷わない・・
すなわち・・思考はいらない・・
無明ではなくなり・・苦もなくなるわけか・・ すなわち・・
真理を見極めることができれば・・
思考も入らず・・無明でもはなくなる
そして・・苦もなくなるわけだ・・
しかし・・ 「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」
これらを意識せずに身につけることは・・
で・・・で・・・でき・・・る^^ ん?
かぞえたら8つある^^
もしかして・・
こここれ・・は^^ うわぁあああああああああああああああああああああああああああああ おまえらは・・
ほんとに・・
くだらん^^
チョット寝る^^ しかし・・
「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」
が備わって苦がなくなった・・
と言っても悟りを得らるわけもない・・ あと一歩何かが足りん^^
それも致命的ななにかが^^ 自覚なき悟りなどパウロの十字架贖罪論と同じなのです。 うわぁああああああああああああああああああああああああああああ ■まずは原罪について正しく知ることです。
原罪は理解するものではあっても否定や拒否をするものではないと私は考えています。
エデンは確かにありエデンがあるのになぜ人間は最初からエデンにいることが出来ないのか(原罪)。
それは自覚の問題だからです。
1度目に生まれた時点では人は己の所在地が分からないのです。 この事を原罪と呼び、2度生まれる必要があると聖書は説くのです。
二度生まれることで聖書で説明される原罪は克服されます。
二度生まれるのは個々人における実践であり、過去に十字架にかかった1人の人物により
全人類の原罪が帳消しになるようなことはありません。自覚の問題だからです。
多くの人が特に日本人は原罪論と贖罪論を受け入れられずキリスト教離れが 加速しています。
それは正しい認識をキリスト教会自体が伝えきれていないからです。
二度生まれるのは個々人における実践であり、 その二度目が贖罪(十字架)なのです。
原罪とは自分にしか解決出来ない公案とも言えるでしょう。
キリスト様が解決してくれましたではその問いから逃げているのと同じなのです。
悟りとは自覚を伴うものなのだから。 釈尊が12月8日の暁天、この偉大なる悟りをおひらきになったとき、
まず口をついて叫ばれたことは、
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」と
いうお言葉であっと申します。
大自覚に入られた釈尊が、自ら反省してみられたとき、その自覚の内容である
智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生まれながら
にして心中に内在しておるものであったことに気付かれて、驚喜されたのであります。
奇なる哉奇なる哉とは驚異の歎声にほかなりません。
すなわち釈尊の悟りとは、万人が生まれながらにしてひとしく持っておる、
尊厳なる人格の自覚だったのであります。
尊厳なる普遍的人格こそ、釈尊の発見された真実在としての法でありました
こっちの方がしっくりくる^^ 釈尊が・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
とほんとうに言ったとすると・・
どうなるか^^ 198.
原罪という公案。
知らないこと、無知、が原罪である。
智慧のリンゴを食べたことが、革命である。 釈尊が、自ら反省してみられたとき、その自覚の内容である
智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生まれながら
にして心中に内在しておるものであった・・
これが事実だったとすると・・^^ 201.
そんなことを言うことはない。
200.
人格なんて言っている場合ではない。 『有る』という虚妄な観念に、人間の自我の意識が結び付きますと、
そこに執われた自我意識が生まれ出てまいります。
私どもの、俺が俺がと言う思いがそういう構造をもっておるということ、
我執の奥に法執が潜んでおるということは、ほとんど私どもは気付きません
う〜〜んきずかないよね^^ ん?
我執の奥に法執が潜んでおる・・
はじめて聞いたぞ・・
法執ってなんだ^^ 「我執に発する煩悩(煩悩障)を断じ尽くせば生死輪廻から解放されて涅槃に入ります。
しかしただそれだけです。
法執に発する煩悩(所知障)をも断じ尽くせば、菩提(覚りの智慧)が実現して、
本来の生命の可能性を十分に発揮していくことができ、苦しみ悩める人々に
関わっていくことができます。
大乗仏教は、ここにこそ、人間のもっとも理想とすべきあり方があると考えたのでした。
そこで実際に本体を持たない世界に根ざして、法の空も説き、法執の迷いを自覚させようと
したのです。
ふむふむ^^ 小乗では煩悩障を断つことはできるが所知障を取り除くことはできず、人無我
の理解に留まる。大乗では煩悩障のみならず所知障をも除去することが可能で
あり、小乗では不可能だった法無我を理解することができる。
さらにふむふむ^^ 仏教って・・
簡単なことを・・
わざと難しく言ってる感がある^^(晃風) しかし・・
「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」
が備わって苦がなくなった・・
と言っても悟りを得らるわけもない・・
あと一歩何かが足りん^^
それも致命的ななにかが^^
その致命的ななにかとは・・法執の迷いだったのか?? とりあえず・・
釈尊が言ったと思われる
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
について・・
考察するか^^
休憩^^ 瞑想をしてみた
すると、夢だったのか?偉そうな神や仏が沢山いた
心で呟いた
貴方たちは何故、偉いと思っているのですか?と
威張るな驕るなと言いたくなった・・・
偉い者はこの世にも神にもいない
自分の中だけで偉いと思っているだけだと悟りが見えた 「貴方たちは何故、偉いと思っているのですか?」
つまり・・
修行者ではないと・・
八正道を実践してないと・・
永遠に悟りを得られないと・・
それでもいいんじゃないかな・・
永遠に苦しむことになるけど^^
偉いんだからしょうがない^^ 偉い人になるよりも・・
修行者でいることのほうが・・
むずかしい^^ 「智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生まれながら
にして心中に内在しておるものであった」
ということは・・ 「修行してえられたものではなく・・」
ここ重要^^ 「智慧と慈悲は、修行してえられなかったが・・
すでに心中に内在してた」
と・・解釈できる^^
そうなると・・ 「智慧と慈悲は、すでに心中に内在している」
になる^^
そうなると・・ 「智慧と慈悲」を妨げるものは何か?となる・・
それは・・ 無明 - 過去世の無始の煩悩。明るくないこと。迷いの中にいること。
行 - 志向作用。物事がそのようになる力=業
識 - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
名色 - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
六処 - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
触 - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
受 - 感受作用。六処、触による感受。
愛 - 渇愛。
取 - 執着。
有 - 存在。生存。
生 - 生まれること。
老死 - 老いと死。 やはりな・・
「智慧と慈悲は、すでに心中に内在している」
このことに驚いた釈尊が・・
十二因縁を語る訳がない^^ 「智慧と慈悲」は一番目にこなければならない^^
それなのに・・
無明が来ている・・
おかしい^^ 「智慧と慈悲」は一番目にこなければならない^^
というか・・
これと異なる十二因縁があるんだな・・
というか・・
どこかで枝分かれする因縁が・・
無明と智慧に分かれる因縁図が・・ まてよ・・
最初に「智慧と慈悲」ではじまり・・
最後に「智慧と慈悲」で終わる・・
う〜〜ん^^ 「智慧と慈悲」の心がないと・・
人類は滅亡してた・・
人の進化の過程で・・
「智慧と慈悲」が自然に生まれた・・ 「智慧と慈悲」は当然DNAに刻み込まれている・・
そうなると・・ 「智慧と無明」は最初から同時に存在する・・
ある過程で分離していく・・
こう考えたほうが自然だな・・^^ 「智慧と無明」を分離させる因縁・・
それがなにか?
ということになる^^ 直感では・・
煩悩の存在になるが・・
どうだろう・・ まさか・・・
無明から智慧が生じるのか・・
智慧から無明がじるのか・・ どうやら・・
智慧と無明は同時に存在すると
考えたほうが・・
自然だな^^ 仏教がなぜ・・釈尊の
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
と言う言葉から思想を深めなかったのか・・ 修行者の立ち位置を忘れると・・
とんでもないことになる^^ 九界である「無明」と仏界である「法性」の実体は、それぞれの本体が
どこか別の所に存在しているわけではなく、悪縁に遇えば迷いの無明が顕れ、
善縁に遇えば悟りの法性が顕れるという、一体不二の妙用を説かれています。
ふむふむ^^ 煩悩を断じ尽くさなくても、煩悩がそのまま悟りの当体と開かれ、
生死の世界もそのまま解脱の世界であることが示されたのです。
「煩悩是れ菩提なりと名づけ、亦煩悩を断ぜずして涅槃に入ると名づく」
ふむふむ^^ >>245
ん?
いや〜〜そのガラクタがおもしろいんだよ・・
ちみにわかるかな^^
そういえば・・ガラクタ集め4時間もやってる^^
うわっ^^ ガラクタ集め4時間もやってるんだから・・
ガラクタ集めどのくらいおいらにとっておもしろいか・・
わかるだろ^^ そのガラクタの中にも・・
結構お宝物が隠れてる^^
ガラクタ集めというより・・
宝物探しだな^^ おもしろい・・^^
仏教ってほんとうにおもしろい^^
修行なしではね^^ なぜなら内容を吟味出来ていないから
自身の内に真実を宿していないから
245 朝から3時ごろまで石の上で瞑想(休憩含)
4時から夜中にかけて宗教の宝物探し・・
これ最強の生活^^
心地よい^^ どっぷりですね!
今日またサウナと冷水と石、行ってきました
石の上で寝たらまた違う感覚でした(でっかい石が置いてあるので) 今日は石が太陽の光で熱かったな・・
瞑想したあと大の字に寝転がったら・・
石の熱が体に伝わった・・
1時間そこで寝てたら・・
体から汗がたくさん出てた・・
当然体は真っ黒・・
当然ながら・・それが心地よい^^ >>253
あっいってきたか^^
そうか・・そうか・・・
瞑想してると・・
樽風呂から流れてくる・・
お湯の音がまた心地よいんだよね^^
石のある場所の環境がいいかもしれない^^ 瞑想しても未熟なので悟れないが・・
そのうち奇跡が起らないかと・・
呼吸と姿勢は意識してる^^
まぁ瞑想してるだけで大満足だけどね^^ 所知障とは所知という障害、即ち、存在しないにもかかわらず存在
するかのように顕現する間違った認識対象を意味している・・
所知障か・・ 知障とは、一切の所知に対して知が起こることを阻止する不染汚の無知である。 それ
(不染汚無知)が断ぜられたとき、一切種の所知に対して執着もなく妨げもない
知が起こる。それによって一切智性が獲得される
不染汚の無知と一切智性か・・ とりあえず・・
おまえらが・・
煩悩障と所知障であることを理解した^^ 唯識では凡夫(われわれ普通の人間)の側から述べているので、
人間のものの考え方について見ていこうとしている。
すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論する
ことのできる存在現象となりえているのであるから、みずからが了承し分別して
いるのである。そこで「了別の義」について唯識というのである。
心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について
「識」としているのであって、器官ではない。器官は存在現象している
ものであるからである。
ふむふむ^^ それでも・・
多少の知識は必要か・・^^
言葉や知識で解脱なんて到底不可能・・
ではなぜ釈迦はこのような知識を自ら理解し
解脱できたのか・・ こうなると・・
知識はらないな・・
物事をありのままに見て理解すればいい^^
知識が障害になることもある^^ なぜなら・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
だからである^^ おまえらは仏教を学び煩悩障と所知障を克服し
解脱の道を歩めばいい^^
おいらは違う道で解脱をめざす^^ まずは・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
これからはじめるか^^ さてっと・・^^
まずは瞑想だな・・
出かけてくるか・・^^ 「一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
(生きとし生けるもの在りと在らゆるものが皆、如来の智慧と徳を具えている)
これいかに・・ 「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。
如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。
如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。(『転法輪経憂波提舎』)
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す
うん?
正覚?
どこかで書いたな・・^^ 174 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:37:09.94 ID:cxhYXy7I
まてよ・・思考しないってことは・・
迷わないということで・・
175 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:39:15.40 ID:cxhYXy7I
その状態になるには・・
う〜〜ん・・
やはり瞑想だな・・
176 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:43:29.47 ID:cxhYXy7I
なにも考えず・・
覚醒している状態・・
ん??
正覚している状態・・
177 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:46:04.10 ID:cxhYXy7I
何も考えず・・が無理してるんだよな・・
今瞬間に正覚してる状態というか・・ うわっ・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
これ真実だ^^ ・・ということでね・・^^
瞑想いってくる^^
おまいらは如来の智慧を勉強してるように・・ 在家が在家を騙す連鎖が宗教に混乱をおこしているのですよ。 う〜〜ん
おまいらは人の体験談を語り・・
おいらは自身の体験談を語る・・
この差はでかいな^^
う〜〜ん^^ 瞑想行って来た・・
石が熱くお湯かけた・・
つまり・・
そういうことだ^^ 今日は何も考えずにいる時間が長かった・・
ということは・・
正見が身についてきたかもしれない^^
正見は八正道の修行により身につくと言われている・・
正見が身につくと思考はいらない・・
ということは・・
迷いがなくなるということである・・
そして今瞬間を生きることができる・・^^ う〜〜ん
やばいな・・
このままいくと・・
悟りそうだ^^ 八正道の修行をする・・
正見が身に付く・・
思考がなくなり・・行動に迷いが無くなる・・
苦がなくなる・・
あれ??
この状態にいるけど・・^^ 奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す^^ 悟ると1日中瞑想していそうだな・・^^
だが・・まだまだその先がある^^
その先に見えてくるものなにか^^ 慈悲の心なんだよな^^
これが見えてこないと
本物ではない^^ 「生きる意味を教えて・・」
釈尊はなんて答えるだろう・・^^ 釈尊は当然悟ってるから・・
そこには迷いがない・・
即答でこのように答えるはず・・^^ X JAPAN Toshl ものまねショーにそっくりさんとして本人が出ても気付かれない?
https://www.youtube.com/watch?v=4_-fi_zuDpc
宗教板にも本物いるかもしれないな^^ 宗教板とは・・
釈迦のものまねショーである^^
うわっ^^ おまいらって・・
ほんと・・
直ぐ忘れるんだから^^ 思いついたのをなんでも書けばいいと思ってるんだろ・・
おまえらは^^
ほんとに・・
わかってないな^^ いかん・・いかん・・
おまえらの説教になってしまつた^^ 空性とは、もちろん実体がない、無自性ということですが、全てのものが空であり戯論を離れて、
言語表現・言説の一切を認めないということに終始してしまうものとなってしまえば、
「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと陥ってしまったり、
善も悪もない、正も誤(邪)もない、世間における道徳的・倫理的行為実践も意味がない、
のみならず、宗教、仏教そのものも意味がない、四法印も四諦も意味がない、「何も無いのだ」
として空を扱ってしまう懸念を、何としても避けるために、唯識思想・・
「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと
陥ってしまったり・・
ん?? 宗教、仏教そのものも意味がない・・
ん?
「何としても避けるために・・」
避けなくていいのに・・
余計なお世話^^ そういえば・・
よくよく考えてみれば・・
宗教、仏教そのものも意味がないな〜^^(棒 ちょっと念のためこれ貼っておこう^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」^^ これでよし^^
釈迦のものまねさんが来るかもしれないからね^^
魔よけ・・ 空性とは、もちろん実体がない、無自性ということですが、全てのものが空であり戯論を離れて、
言語表現・言説の一切を認めないということに終始してしまうものとなってしまえば、
「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと陥ってしまったり・・
言語表現・言説の一切を認めない・・
つまり・・思考を認めないということになり・・
おいらすでに陥ってしまってるんだけど・・^^
なにか問題でも??唯識思想さん^^ けど・・
おいらとちょっと違う・・
八正道の修行をして正覚が備わったならば・・
無思・無念・無想が第一だと・・^^
まっ・・これもどうでもいいか・・
いずれわかること^^
修行すれば^^ ん?
おいら修行してたっけ^^
またまたこれ貼っておこっと^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」 もしかして・・
念仏にもお経にも使えるかも・・
毎朝唱えるか^^ 暑いと・・
汗がでる・・
つまり・・
そうゆうこと・・^^ 悟りとは・・
迷いが無いこと・・
しかしそれには・・
正覚が備わっていなければならない^^
悟りが得られたならば・・
そこには慈悲の心が現れる・・
そうなると本物である・・
今日はここまでか・・^^ 我執がなくなれば・・
慈悲のこころが現れる・・
法執がなくなれば・・?? 業と煩悩とが滅びて無くなるから、解脱がある。
業と煩悩とは分別から起こる。
それらの分別は戯論から起こる、
しかし戯論は空性において滅びる。
さてっと・・
今日はこれくらいにしておくか・・^^
では・・寝る^^ あっ・・思い出した^^
生きる意味って・・
「この世界に存在すること・・」
そう思っていれば間違いない^^ では・・
おやすみ^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」 第1地
発心し、十大願を起こして十浄地法を生ずる。
第2地
戒(十善業道)に安住し、諸他をも安住せしめる。
第3地
世間の施設の名数を捨てて静慮ないし等至(四禅・四無色定・四無量心・五神通)に善巧となる。
第4地
仏陀に対する不壊の浄信によって三十七菩提分法を成ずる。
第5地
方便・神通(四摂事など)によって、世間に行ずる作用(衆生利益)を成就する世間智を成ずる。
第6地
縁起を観察し、三解脱門を生じ、般若波羅蜜の住を現前する。
第7地
実際の住に住し、方便・般若の智力の任持を得て、覚慧による思択に善巧となる。
第8地
無功用の法性たる寂静なる解脱の住に到り、菩薩の自在性によって大荘厳の成就を示現する。
第9地
甚深の解脱・世間行に通達して定限を失わない大法師の行分(衆生行の生滅を観察する智を現行し、所聞の法についての智たる四無礙智を以て説法すること)を具える。
第10地
如来と不異なる力・無畏・不共仏法・智を得る。
さてっと・・
おいらどこらへん?? ん? ・・というか・・
考えすぎだろ・・何処から見ても^^ 第10地
如来と不異なる力・無畏・不共仏法・智を得る。(キリッ
「ひひひ・・どうだまいったかーー^^」
と絶対思ってる^^ ただ・・
「こうなればいいあ〜^^」
と思って書いているだけ・・・^^ おいら・・
わかっちゃうんだよな・・^^
これが^^ 「こうなればいいあ〜^^」
と思って書いているものを・・
実際にできるって考える人もいる・・^^
困ったものだ^^ わからないからわからない分だけ難しく書いてるんだろうな〜^^
真理は単純明解そして美しくなければならない^^
これおいらの持論^^ まぁ・・
華厳経で解脱できた人が何人いるか・・
調べれば解ること・・
これでは・・
苦を滅するどころか・・
迷い苦しむことは確かだな^^ へたすれば・・
「死んだほうがはやいや〜^^」
と思う人もでてくるかもしれん^^ 人は基本的にこれだから^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」 ・・ていうか・・
これ何人か集まって・・
「あじゃねぇ・・こうじゃねぇ」って・・
迷いの中で創作してるな・・
最後に偉い人が・・
「よしこれでいこう^^」
うわぁああああああああああああああああああああああああああ
たまったもんじゃないぞぉおおおおおおおおおおお
こらぁああああああああああああああああああああああ^^ 凡夫がなに集まって書いてるんだよぉおおおおおおおおおおおおおお
こらぁあああああああああああああああああああああああ^^
って・・
お釈迦さんが言ってたらしいよ^^
おいら知らんけど・・・^^ 八正道により・・
正覚が身につくと・・
思考がなくなり・・
今瞬間を生きることができる^^
これはおいらの体験上間違いない事実である・・ 問題はその先なんだな・・
慈悲の心がまだでてこない^^
ん?
もしかして・・
釈迦とおなじか?
うわぁ^^ 我執がなくなると・・
慈悲のこころがでてくるはずなんだけど・・
どこいった^^ おぉ〜〜〜〜〜〜〜い
慈悲の心や〜〜〜〜〜〜〜〜
どこにいる〜〜〜〜〜〜〜〜〜^^
恥ずかしがらずに出てこいやぁああああああああああああああああああああ 八正道により・・
正覚が身につくと・・
思考・・つまり迷いがなくなり・・
今瞬間を生きることができる^^
こうだな^^ 思考すなわち迷いだな・・
「解脱は沈黙である^^」 あぁああああああああああああああああああああああああ 338.
正覚が身に着くと、生きることができる、か。
生きることが必要なくなる、ということである。 345.
解脱とは沈黙の境地である、か。
その両者は何の関係もない。 因縁果さんよ
以下の部分を、本当にあなたが、「実践」しておられますか?
「実践」しておられるならば、>>186-351の様にはならないはずです。
>比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。
>比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望は離れ、もろもろの善からぬことを離れ、
>なを対象に心をひかれながらあって、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。
>これを初禅を具足して住するという。
>だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内きよ(浄)らかにして
>心はひとむき(一向)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、
>たださんまい(三味)より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。
>これを第二禅を具足して住するという。
>さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にて執着なく、ただ念があり、慧があり、
>楽しみがあるのみの境地にいたる。
>これを、もろもろの聖者たちは、しゃ(捨)あり、念ありて、楽住するという。
>これを第三禅を具足して住するというのである。
>さらにまたかれは、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、
>いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。
>これを第四禅を具足して住するという。
>もろもろの比丘たちよ、それを名づけて正定というのである」 >>352
喜びと楽しみとか・・
楽しみがあるのみの境地にいたるとか・・
不苦・不楽とか・・
凡夫まるだしやないかい^^
あふぉかっ^^ 最後の・・
「もろもろの比丘たちよ、それを名づけて正定というのである」
この文からどんな人格が書いたか理解できるだろ^^ ちみのおかげで今・・
なぜだか知らないが道元禅師 「正法眼蔵」の現代語を
読んでいる^^
どうせ書いてあることは・・
今までおいらが書いてきたことと同じと思うが^^
読んでみるかな^^
http://www.dogen-shobogenzo.com/ おいらの境地までいくと・・
嘘か本物かすぐ分かっちゃうんでね^^
自惚れきたぁああああああああああああああ^^
悟りとは・・自惚れである^^ ちょっと読んでみて・・
道元禅師とおいらの共通点がある^^
それは・・・ まさにこれ^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」 「読経や念仏は、自ずから悟りの因縁となるであろう。」
ん?
そういう考え方もあったのか・・^^ じゃぁ・・
悟りの因縁になるように唱えるか^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」 ^^
毎朝唱えよっと^^ ある人は十二因縁や二十五有を輪廻する世界と思い、
また三乗や五乗の修行、仏あり、仏なし等の考えは尽きることがありません。
このような見解を学ぶことが、仏道修行の正道と思ってはいけません。
そうだよな・・
おいら十二因縁についてそんなこと書いてた^^ 「ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを
持ってはならないと教えるのです。
修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。
既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、
悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。」
どうりで・・
この世界では先生になることよりも修行者でいることのほうが
難しいわけだ^^ 今日はここらへんにしておこう^^
ちょっと・・
休憩^^ 不思議なことがある^^
おいらなんで・・
道元禅師 「正法眼蔵」を読んでいるのか・・^^ 道元禅師が著した『正法眼蔵』は、道元禅師が32歳から54歳までの23年間に
弟子や大衆に説示した教えを集めたもの・・
それを全部読めと言っている・・ 『正法眼蔵』の中心課題は、真理とは何かと言うことです。
そして、あらゆる人がもともと仏になる可能性を具えているのであるから、修行を完成して仏になって人々を救う事が出来ると考えるのが大乗仏教の立場です。
『正法眼蔵』はこのような立場に立って解脱の問題を解くのです。
ここらへんは・・おなじだな・・^^ このような修行の時期には、すでに悟りも迷いも問題にならないのであって、そうした境地そのものが、実は悟りの境地です。
つまり悟りとは神秘的でも瞬間的でもなく、悟りと迷いを区別する常識的な見解から自由になって、ひたすら正しい行いを現わしてゆくことです。
全ての人々がそもそも仏としての完全な人格を具有しているのですから、それを修行によって行い現わして行くこと。
つまり修行とは、自分のうちに隠れている真の自分を生かしてゆくことです。
そして悟りとは、修行の目的ではなく、修行の出発点となる訳です。
ここもおなじ・・ 一瞬のうちに永遠の相がある。
現在この一瞬が無ければ、過去もありえず、未来もあり得ない。
つまり永遠をあらしめているのが、現在のこの一瞬なのです。」
つまり今の一瞬が、この我々の全生命です。
そのことに気付き、あらゆる相対的差別観を打破して、現在の一瞬を賢明に最高に生きてゆくことが永遠を生きることだということなのです。
それを可能にするのが無礙なる自己であり、無礙なる自己は現在の一瞬を疎かにしないことによって産まれてくるのです。
こうして『正法眼蔵』は、日常の修行生活を実践るための具体的な徳目や方法を述べていくのです。
だいだいおなじ^^ 簡単に言うと・・
343 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/01(月) 18:27:22.45 ID:YEqh4rAm
八正道により・・
正覚が身につくと・・
思考・・つまり迷いがなくなり・・
今瞬間を生きることができる^^
これだ^^ ということは・・
道元禅師が俺も同じこと考えていたと・・
おいらに言いたかったと・・^^ わかるわかるその気持ち・・(ぐっすん
そうか・・・
そうか・・ そうかがっか・・・??
うわぁあああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああ おまいらって・・
ほんとうに・・
つまらん^^
寝る^ なんか浮かんだ^^
宗教板はキリスト教のスレが多い・・^^
そこでだっ^^
協会に行きそこで・・
「馴れ合うな^^」と
言ったらどうなるだろうか・・^^
不思議だ^^ 今日思ったこと・・
思考せずに仕事ができる・・
ってことは・・
思考せずに生きられるってことで・・
共通点はなにか?というと・・ 考えながら仕事をする人と・・
思考せずに仕事ができる人・・
その違いは何かというと・ なぜ思考せずに仕事ができる人は迷わないかというと・・ それと同じように・・
思考せずに生きられる人は・・
この世の因果を理解してるからである^^ このように書いてもですね〜^^
絶対おなじようなことが・・
仏教の経典のなかに書いてあるんですよ・・
まねすんなぁあああああああああああああああああああああ
ですよね^^ ・・ということはですね・・
思考は迷いになっちゃうんですよ^^
おそろしいですね^^
迷うから思考する・・ そう考えてみるとですね・・
迷って思考すると・・
今瞬間から離れ・・過去・未来に行っちゃうんですよ・・
過去・未来に行くから・・迷うと言うんですね^^
そうすると・・
今を生きることができなくなる・・ それに比べ・・
因果を理解してる人は迷わない・・
今を生きることができるんですよ・・
これが・・思考すなわち迷わないということですね^^ ってことは・・
過去・未来は思考の中に存在する・・ 思考がなければ・・
今瞬間のみ存在する・・
ということは・・ 過去・未来は思考の迷いということになる・・
ということは・・ 人は今瞬間にしか存在していないんだよな・・
どこからみても・・ ということで・・
寝る^^
おまいらも・・
早く寝ろ^^ 「では、いかがであろうか。かように教え導かれた世尊の弟子たちは、みなよく涅槃を得るであろうか。それとも、得ないものもあるであろうか。」
「婆羅門よ、わたしの弟子の中にも、涅槃を得るものがあり、また得ないものがある。」
「では世尊よ、正しく涅槃は存し、涅槃にいたる道があり、世尊が導師としていますにもかかわらず、いかなる理由によって、あるものは涅槃を得、あるものは得ないのでああろうか。」
「婆羅門よ、それについて、いまわたしからなんじに問いたいことがある。婆羅門よ、なんじはラージャガハにいたる道を知っているか。」
「世尊よ、私はよく知っている。」
「では婆羅門よ、これをどう考えるか。ここにひとりの人があり、ラージャガハに行こうとして、なんじのもとに来って、その道をたずねたとせよ。そのときなんじは、彼に語って言うであろう、
「君よ、この道がラージャガハに通じている。これをしばらく行きたまえ。しばらく行くとかくかくの名の村がある。それをまたしばらく行きたまえ。しばらくすると、かくかくの名の町がある。
それをまたしばらく行きたまえ。するとやがて、ラージャガハの美しい園や森や池が見えてくる」と。
かように教えられて、あるものは安全にラージャガハに到るが、あるものは道をまちがえ、あらぬ方に行くこともあろう。
婆羅門よ、正しくラージャガハは存し、ラージャガハにいたる道があり、なんじが導者としてあるのに、いかなる理由によって、ある者は安全にラージャガハにいたり、ある者はあやまれる道を、あらぬ方に行くのであろうか」
「世尊よ、それをわたしがどうすることができようか。私は道を教えるだけである。」
「婆羅門よ、その通りである。涅槃は正しく存し、涅槃にいたる道があり、私は導師としてあり、しかも、わが弟子の中には、あるものは涅槃にいたることを得、またある者はいたることを得ないが、
それを、婆羅門よ、わたしがどうするということができようか。婆羅門よ、如来はただ道を教えるのである。」
阿含経典による仏教の根本聖典 増谷文雄 無明が過去・未来を思考により形つくる・・
なんか違う^^ 過去・未来は存在しないのは確か・・
それは・・
思考が作り出した無明の世界・・
存在するのは今瞬間でしかない^^ なんかおかしい^^
明日また考えるとするかな・・^^ 「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」^^
では寝る^^ よくよく考えてみると・・
今この瞬間以外は・・・
無明である思考が作り出した世界・・ ということは・・
今瞬間しか存在しない・・
過去・未来そして思考してる世界は存在しない^^
・・ということは・・ 今瞬間以外は無の世界・・
無明である思考が作り出している・・
存在しない世界・・ 存在しない世界を生きてるんだら・・
人は苦しむのは当然のこと・・ 今瞬間に生きる人・・
存在しない世界で苦しむ人・・
その違いは・・ 「物質的諸現象には実体がない」
そうよくいわれるが・・
このように考えていくと・・
今この瞬間以外は実体がないのは確かである・・^^ 無明が思考をつくりだすのか・・
またまた思考が無明をつくりだすのか・・
なんかおかしい・・ とりあえず・・
思考は無明のあらわれ・・
そこにはなにもない・・
執着するな・・
今瞬間を生きろ^^
と書いておこう^^ あれ??あれれ?
今朝書いたことだれか真似してるわ〜^^
いつもこうなんだよ・・
これ↓ あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に
過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである(色即是空)。 色即是空めー^^
まねしやがって^^
こらぁああああああああああああああああああああああああああ 「あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、」
これの真似は・・^^ 410 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 03:16:48.09 ID:dwYas35O
今瞬間以外は無の世界・・
無明である思考が作り出している・・
存在しない世界・・
これだな・・・^^ 「あらゆる諸存在が・・」とあるが・・
おいらは・・
「今瞬間以外は・・」と言っているが・・
そこはまぁよしとしよう^^ 「それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない」
まぁこれも意味深いことではないのでよしとする^^ それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に
過去に消えてしまうであろう。
これの真似は・・^^ 409 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 03:14:27.68 ID:dwYas35O
思考は無の世界を見ていることになる・・
410 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 03:16:48.09 ID:dwYas35O
今瞬間以外は無の世界・・
無明である思考が作り出している・・
存在しない世界・・
う〜〜ん
どうだろう^^ 即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである(色即是空)
これの真似は 408 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 03:10:54.84 ID:dwYas35O
ということは・・
今瞬間しか存在しない・・
過去・未来そして思考してる世界は存在しない^^
・・ということは・・
409 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 03:14:27.68 ID:dwYas35O
思考は無の世界を見ていることになる・・
これだな^^ まぁだいたい言ってることはおなじで^^
にたりよったり^^
たりらりらん♪ 即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである・・
おいらがもっとわかりやすく解説するとこうなる^^
「今瞬間以外の諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである・・
なぜならそれは無明である思考が創り出している
からである・・」 こうなるとすっきりする^^
しかもわかりやすい^^ ということは・・
今瞬間はどうなるかというと・・
即ち、それら諸存在(色)は「○」であり、
実体のあるものである・・
この○に何が入るかだな^^ ってことは・・この文の逆も成り立つわけだ^^
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に
過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである(色即是空)。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でないのならば、
それら諸存在は客観的な存在であり主観的存在ではない。 おっ^^
うまくいった^^
ここまでは理解できる^^ それら諸存在は常住であり、時には生滅を繰り返さず
永遠に存在する。
即ち、それら諸存在(色)は「○」であり、
実体のあるものである・・
うん〜なんのことやら^^ あらゆる諸存在が個人的に構想された識でないのならば、
それら諸存在は客観的な存在であり主観的存在ではない。
それら諸存在は常住であり、永遠に存在する。
即ち、それら諸存在(色)は「○」であり、
実体のあるものである・・ ・
○はなんだ^^ 色即是空・・・の言葉に対しては反対語、対立語は存在しえない
うわぁあああああああああああああああああああああああ
ちょっと・・
休憩^^ 色即是空に関しては・・・
ひとそれぞれ思いがあるだろう・・
しかし・・
そこにあるものに「実体がない(キリッ』と言われても
戸惑うことは確か・・
そこで思うのは・・
今瞬間は実体が在る・・
しかし・・
今瞬間ではない存在・・
すなわち・・
過去の存在すなわち思考が作り上げた存在は
実体がない・・
そう考えるとすっきり理解できる・・ ・・といっても・・
今瞬間と考えただけで・・
すでに過去だからな^^ ということは・・
今瞬間をどれだけ深く生きられるかと
いうことになるが・・・
さてさて^^ 今瞬間をどれだけ深く生きられるか・・
たぶんこのことはお経がおいらの真似してることは
確か^^
お経に正解が書いてあるはず^^
調べてみるか^^
うわっ^^ 仏教がおいらの真似して困ってるんですよ^^
お釈迦さん・・たちけて・・^^ 今瞬間をどれだけ深く生るか
ってことに気ずかないのか・・
まじかー^^ 今瞬間は?
はいあります^^
ちょっとまえの過去は?
ありません^^消えました^^
実体がないです^^
無明が創りだす思考の世界となります^^
実体がないから人は迷い苦しみます^^
そのない世界に執着して苦しんでいる人がたくさんいます^^
愚かです^^
うわっ^^ 宗教板にいるおまえらって・・
さとちゃってるのか? ん? 不思議なことがある・・
宗教板の一覧を見ると・・
おいらのスレが一番上にある・・
なぜだろうか・・・ 変化するものには実体がない・・
ちょっと前のおまえらは・・
変化してるのでいない・・
実体がない・・ ということは・・
仏教
「あらゆる存在には実体がない」 「あらゆる存在には実体がない」
なぜなら
瞬間に消え去るから・・・・・・
ということは・・
生成消滅を繰り返してるのか?もしかして??
うわぁあああああああああああああああ
光の速度で生成消滅を繰り返しているとするならば・・^^ 光の速度で生成消滅を繰り返しているとするならば・・^^
どうなる^^ 古い物質はどこへ行くかというと、一瞬一瞬消滅すると同時に波動の世界に変換され、
次の瞬間には真新しい物質として生まれ変わるというのが私たちの宇宙の本質
ということになります。
仏教には、刹那消滅という言葉がありますが、指ではじく短い時間の間に
65刹那があるということですから、生成消滅はあっという間なのですね。
人が瞬間に生成消滅を繰り返しているとすると・・ 上座部仏教の一宗派である説一切有部では、人間の意識は一刹那の間に生成消滅
(刹那消滅)を繰り返す心の相続運動であるとする。
それについて曹洞宗の道元は、『正法眼蔵』の「発菩提くましかもやになんくも
みまんなのなかきにんりにまのんひな心」巻で、悟りを求める意志も、悟りを
開こうとするのもその無常性を前にするからであり、常に変化するからこそ、
悪が消滅し、善が生まれるのであると説く。
道元ちゃんのあわわあれえ心の巻きた^^ 昨日も今日も・・
道元ちゃんの『正法眼蔵』を目にする・・^^
読めと道元ちゃんが言っている^^ ということで・・
このくらいにしておく^^
寝る^^ ちょっと書きすぎの感がする^^
ということでね^^ しかし・・
おまえらってすごいな・・
過去ばっかり見てる^^ 今を見ずに過去を見る・・
そればかりか・
今を通り越して未来を見る・・
ということは・・ 今を見ずに過去と未来を見ている・・
とどうなるか・・ 無い世界を見ている・・
というか・・
無明の思考の中で生きているというか・・
実体の無い世界にいるというか・・
そんな世界にいるということは・・
チミ自身も存在してないということになる^^ 実体の無い過去未来に執着してるおまいらは・・
存在していないことになる^^ 実体の無い過去未来に執着し存在しているおまいらは・・
実体の無い世界にいる・・
すなわち・・
おまいらは実体が無いとなる^^ そういうことか・・
実体の無い世界にいるから実体が無い・・ 達磨大師は、「よしよし、わかった。では、あなたがその心配とやらを私の前に
差し出してくれたら、私はそれを取り除いてやろう」と言います。
慧可大師は困りました。心配を差し出そうと思うけど、目の前に出せるはずが
ありません。そこで慧可大師は初めて「心配というものは実体がなく、自分の心
が作り出しているものだ」ということに気づき、悟るのです。
ん?
達磨大師がおいらの真似したのか・・・^^
ん? 「心配というものは実体がなく、自分の心
が作り出しているものだ」
ということは・・ 「思考というものは実体がなく、自分の心
が作り出しているものだ」
その実体のない世界におまえらは存在してる・・
ゆえに・・心配や苦しみがある・・
え〜〜と
おいらが付け足してやった^^
すっきりした^^ この調子で書いていくと・・
おまいらが悟っちゃうな・・^^
どうしよっかな〜〜^^
悟られると困るんだよね^^
ほんとに^^
商売なりたたなくなるよ・・
うわぁあああああああああああああああああああああああ 悟るとは迷わないこと・・
今瞬間から迷わない・・
迷うと過去未来に迷い込む・・
煩悩・執着があると迷い込む・・
正覚を持ち今瞬間から迷わない・・
それが悟るすなわち迷わないということである^^
うわっ・・
おいらなりによくできた^^ 煩悩・執着があると過去未来の世界すなわち思考の
世界に迷い込む・・
このほうがいいな^^ おまえらって・・
過去未来の世界すなわち思考の
世界に執着するから迷い苦しむんだよな・・
しかもそこは実体の無い世界・・
そこにいるおまいらも実体がない^^ 実体の無い世界で苦しむおまいら・・
おまいらって・・
本当に・・
いい勉強になるな^^ 実体のない思考の世界で苦しむおまいらって・・
なにもの??
ん?
おちえて^^ 実体のない思考の世界で実体のないものを執着するおまいらって・・
なにもの??
ん?
おちえて^^ 過去未来の実体のない思考の世界で苦しむおまいらって・・
なにもの??
ん?
おちえて^^ 過去未来の実体のない思考の世界で実体のないものを執着するおまいらって・・
なにもの??
ん?
おちえて^^ 今日書いたことは・・
非思量について書いていたかもしれん^^
調べてみるか・・・^^ あの世の人たちは「思考」ということをしないのですか?
「思考」というものはすべて「時空間思考」なのですよね。
こんな質問がかいてあった・・^^
考えさせられる^^ 「思考」というものはすべて「時空間思考」なのですよね。
ん? 445 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/03(水) 17:51:42.47 ID:AlmhLzje
・・といっても・・
今瞬間と考えただけで・・
すでに過去だからな^^
ん? ・・ということは・・
今瞬間にいる人は思考がないということになる^^ 今瞬間にいる人は思考ではなく・・
なんだ^^
ん? あの世の人たちは「思考」ということをしないのですか?
「思考」というものはすべて「時空間思考」なのですよね。
ではなく・・ 悟った人たちは「思考」ということをしないのですか?
「思考」というものはすべて「時空間思考」なのですよね。 悟った人たちは「思考」ということをしない^^
「思考」というものはすべて「時空間思考」だから・
こうなる^^ なんだ・・
結局おいらの書いていたことと同じかー^^ 悟った人たちは「非思量」の状態にある^^
どうやらこれが正解みたいだな^^ 「非思量」
仏語。すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地。座禅の要とされる。 「非思量」
仏〙 人間の立場からする思考を突き抜けた心の在り方。
唐の禅僧薬山惟儼いげんが,座禅の際の心の在り方を問われて答えた言葉。 人間の立場からする思考を突き抜けた心の在り方。
ふむふむ^^ になお求め続けている本当の自分についてわかった段階のことを、このブログにおいて公開していきたいと思っています。
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2008年05月25日
真智にして玲瓏玉を転がす如き叡智「非思量」を用いて、「不思量底」(実相)を観るべし
(正法眼蔵 坐禪箴の巻)
薬山弘道大師が坐禪されたあと、ある僧がこういって問うた。
「不動の姿勢で、あなた様は何を思量されたのでありますか」
師はこう答えられた。
「この不思量底を思量したのだ」
「不思量底をどうやって思量できますか」
「非思量」
むむむ^^ 「思量」とは、思考のこと
「不思量(底)」とは思考ではない現実そのもの その現実そのものを思量(認識)せよと仰るのですが、
そのときの思量は「非思量」だとも仰っています。
この非思量が只管打坐の心の内実だ
・・・昨日書いたことの復習してるみたいだ^^ 480 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/04(木) 20:06:03.96 ID:FEN/X2Qp
悟るとは迷わないこと・・
今瞬間から迷わない・・
迷うと過去未来に迷い込む・・
煩悩・執着があると迷い込む・・
正覚を持ち今瞬間から迷わない・・
それが悟るすなわち迷わないということである^^
これに付け加えるか・・・^^ 悟るとは迷わないこと・・
今瞬間から迷わない・・
迷うと過去未来に迷い込む・・
煩悩・執着があると迷い込む・・
正覚を持ち今瞬間から迷わない・・
それが悟るすなわち迷わないということである^^
人は思考すると無明の世界に迷い込む・・
今瞬間から迷わないためには
思考の世界ではなく
非思量の世界に存在続けなくてはならない^^ その現実そのものを思量(認識)せよと仰るのですが、
そのときの思量は「非思量」だとも仰っています。
ってことは・・
その現実そのものを思考(認識)せよと仰るのですが、
そのときの思考は「非思考」だとも仰っています。
思考しないではなく・・
非思考だと・・・
石の上で瞑想している状態やないかい^^ 3 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/23(土) 17:27:27.99 ID:IFwNDQWa
習得してると言っても・・
高温のサウナから
低温の水風呂に頭から浸かり・・
石の上に座れば・・
必然的に止観の状態になる^^
これか^^ 53 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/23(土) 23:27:06.30 ID:IFwNDQWa
瞑想に集中力なんて・・
関係あるのかな〜〜
そもそも瞑想は入る段階で・・
意識ないんだけど・・^^
54 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/23(土) 23:28:53.52 ID:IFwNDQWa
サウナ入って水風呂で頭冷やせば・・
意識飛ぶんだけど・・^^
これか^^ 思考が飛んだ状態・・^^
「非思量」・・^^
凄いよくわかる^^ 思考しない・・じゃないいんだよな・・
思考が無いと言ったほうがいい^^ 思考が飛んだ状態・・^^
ん?
「非思量」
仏〙 人間の立場からする思考を突き抜けた心の在り方。
唐の禅僧薬山惟儼いげんが,座禅の際の心の在り方を問われて答えた言葉。
うわあぁあああああ嗚呼あああああああああああああああああああああああああ まぁ・・
物理的にその状態にしているだけだけれどもね^^ 非思量がどうゆう状態かわかったところで・・
休憩^^ どうも仏教は・・
おいらの後追いをしてる感がする^^ 非思量こそが、正思惟である。即ち思量を超えた実相を思量するところの
「非思量」こそが、「正思惟」である
「この不思量底を思量せよ。不思量底を如何に思量せん。非思量なり」と
これ今まで書いてきたこと・・
このスレ読んできた人にはわかると思う^^
ということは・・^^ 「非思量」こそが、「正思惟」である
これなんだよな^^ え〜〜と^^
172 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:33:20.05 ID:cxhYXy7I
・・いや・・
思考では悟れない^^
ではどうすればいいのか・・
173 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:35:06.51 ID:cxhYXy7I
ことは簡単^^
思考しなければいい^^
ただそれだけ^^
思考しなければ・・
苦は生じない^^
これから・・ 80 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 17:04:13.32 ID:o+haMnWV
思考による解脱は不可能に近い・・・
故に・・思考による悟りもない・・
ということは・・^^
81 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 17:08:42.90 ID:o+haMnWV
思考を滅したとき・・
悟りが得られる・・
82 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 17:13:31.52 ID:o+haMnWV
思考を滅するか・・
煩悩ではなく思考を滅する・・
う〜〜ん^^
これになり・・ 73 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 03:29:41.78 ID:e9lEqaSe
瞑想により・・
神の意思が感じられるか・・
それが鍵だな・・
思考を停止すれば・・
宇宙の意思を感じ取れるかもしれん^^
74 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 03:34:29.06 ID:e9lEqaSe
そういえば・・
石の上で瞑想している時・・
水風呂で頭が冷え・・意識が飛んでる時・・
周りの景色に溶け込んでる状態が・・
あったような・・^^
75 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/25(月) 03:36:30.77 ID:e9lEqaSe
個のエネルギーが・・
全体のエネルギーに同化する・・
実体験から・・ 343 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/01(月) 18:27:22.45 ID:YEqh4rAm
八正道により・・
正覚が身につくと・・
思考・・つまり迷いがなくなり・・
今瞬間を生きることができる^^
こうだな^^
344 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/01(月) 18:29:07.00 ID:YEqh4rAm
思考すなわち迷いだな・・
こうなり・・ 169 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:24:54.20 ID:cxhYXy7I
苦の原因は思考である・・
思考が苦を生む・・
思考は迷いである・・
ゆえに苦が生じる・・
170 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:27:24.67 ID:cxhYXy7I
ということは・・
無明=思考になるのか・・・
171 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:31:07.93 ID:cxhYXy7I
直感では・・
どのような思考であれ・・
迷いであり・・
苦である・・
すべての思考から苦が生じる・・
たとえ・・悟っていたとしてもだ^^
172 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:33:20.05 ID:cxhYXy7I
・・いや・・
思考では悟れない^^
ではどうすればいいのか・・
173 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:35:06.51 ID:cxhYXy7I
ことは簡単^^
思考しなければいい^^
ただそれだけ^^
思考しなければ・・
苦は生じない^^
174 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:37:09.94 ID:cxhYXy7I
まてよ・・思考しないってことは・・
迷わないということで・・
175 :
因縁果 ◆d........o
2016/07/30(土) 06:39:15.40 ID:cxhYXy7I
その状態になるには・・
う〜〜ん・・
これから・・ 516 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/05(金) 16:49:24.38 ID:TYw6HcwT
悟るとは迷わないこと・・
今瞬間から迷わない・・
迷うと過去未来に迷い込む・・
煩悩・執着があると迷い込む・・
正覚を持ち今瞬間から迷わない・・
それが悟るすなわち迷わないということである^^
人は思考すると無明の世界に迷い込む・・
今瞬間から迷わないためには
思考の世界ではなく
非思量の世界に存在続けなくてはならない^^
こうなった^^ ゆえに
非思量こそが、正思惟である。即ち思量を超えた実相を思量するところの
「非思量」こそが、「正思惟」である
となる^^ つまり・・
【石の上で瞑想すると何が見えてくるのか】
の答えが少しずつ見えてきたと・・^^ こうなる・・・
おもしろい^^
実におもしろい^^ ああああああああああああああああああああああああああああ 539 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/05(金) 19:15:37.79 ID:TYw6HcwT
ああああああああああああああああああああああああああああ
このなかに全てをみる・・
一瞬をみる・・
と・・
なにがが見えてくる^^ 思考の限界を超えると・・・
何が見えてくるのか・・^^ ここからは・・
^^
有料になります・・
あしからず^^ @ああああああああああAあああああああああB
今瞬間とはどこになるか・・^^
@かAかBかと考える・・・ マックス・プランク研究所の研究者がfMRIを利用して行なった脳研究によると、
被験者が判断を下す7秒も前に、脳活動でその判断の内容を「予告」できるという
「意識的な選択」や「自由意志」の意味について考えさせられる研究だ。
ヒント^^ 人間の意志はどれほど自由なのか?
意識的な選択とは単なる幻想なのだろうか?
「人間の決定は、脳活動によって強力に準備されている。
意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」と・・
あーこの方向に行っちゃうか・・^^ 「意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」
こうなると・・
またまたカキコミが増えるな^^ つまり・・
@の時点で・・
「意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」
ことになる^^ ということは・・
「思考が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」
ということは・・ 1976年、プリンストン大学のジュリアン?ジェインズは衝撃的な仮説を発表した。
『〈二分心〉の崩壊に辿る意識の起源』の中で、3000年前の人類は意識を持っていなかった、
と主張した。「もしこの推測が正しければ、会話、判断、推理、問題解決に止まらず、
我々がとる行動の殆どを、全く意識を持たない状態でこなす人類が存在しえたことは、
まず間違いない」
「全く意識を持たない状態でこなす人類が存在しえたことは、まず間違いない」
きたな^^ 彼の解釈では、次のようになる。意識は人間が機能するうえで、一般に思われて
いるほど重要なものではない。意識は比較的近い過去に誕生したもので、
一つの歴史的現象だ。〈私〉という概念が形成する歴史的産物の一部である。
意識と、〈私〉という概念は、歴史と共に創られたものであり、それ故に
歴史と共に変化しうる。
ふむふむ^^ 彼の考えはこうだ。大昔、3000年以上前には、意識も〈私〉という概念も、
人間が自分の内に心を持っているという認識もなかった。
だからといって、社会の構造や人間の経験や言語がなかったわけではない。
人間行動の認識の仕方が、今日とは全く間違っていたということだ。
当時の人々は、神々の命令によって行動したのであり、自らの衝動によって
行動したのではない。彼等にとって、感情や欲求や決断は、人間を通しての、
神々の働きかけの結果だった。全ては神々の介入によって生じるものだった。
ふむふむ^^ 体も進化していくが・・
それとともに・・
意識も進化していくということか・・ 釈迦仏滅後2,400〜2,500年となります・・・
3000年前の人類は意識を持っていなかった・・
うわっ・・
ということは^^ 「3000年前の人類は全く意識を持たない状態でこなす人類が存在しえたことは、まず間違いない」
ということは・・
「釈迦の時代は全く意識を持たない状態でこなす人類が存在しえたことは、まず間違いない」 人間行動の認識の仕方が、今日とは全く間違っていたということだ。
釈迦の時代の人々は、神々の命令によって行動したのであり、自らの衝動によって
行動したのではない。彼等にとって、感情や欲求や決断は、人間を通しての、
神々の働きかけの結果だった。全ては神々の介入によって生じるものだった。 人を笑わすためには・・
智慧が必要なんだよな・・
そこがわかってない^^ 無明から煩悩が生じ思考する・・そして迷い苦しむ
八正道から生覚が生じ非思考となり・・そして迷わない・・
つまり・・そういうこと^^ 非思考だと・・
今瞬間を見るだけ・・
そこには思考が無い・・ なぜなら・・
八正道により生覚が身についているから・・
何も考える必要がない^^ 八正道の究極の境地は・・
非思考の境地である^^
思考により迷い苦しむことはないのである^^ 人は考えずに生きていくことができない・・
それはなぜか・・ 一言で言えば・・
無明だからである^^
迷い苦しまなくては生きていけない・・
常に考え続ける・・無明の世界で・・ 思考しないと不安でしょうがない・・^^
非思考ではいられない・・
それがおまえらの境地となる^^ おまえらって・・
ほんとうに・・
たいへんだな^^ 非思考の時間が長ければ長いほど・・
今瞬間に存在する・・
1日の内でどのくらい非思考でいられるか?
しかし・・しかしそれには正覚が備わっていないと意味が無い^^ 煩悩まみれのおまいらには・・
とても・・とても・・
非思考の境地なんて・・
夢のまた夢・・^^ まずは・・・
八正道により正覚を身につけないとな^^ おまいらって・・
ほんとうに・・
たいへんだな^^ 565 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/06(土) 06:33:44.32 ID:deY9lkMa
無明から煩悩が生じ思考する・・そして迷い苦しむ
八正道から生覚が生じ非思考となり・・そして迷わない・・
つまり・・そういうこと^^
生覚?正覚だな・・^^
迷うから間違える・・
今瞬間に生きていない証拠だっ^^ あと10日で解脱する・・^^
決定してる・・^^
因果の流れはおそろしい^^ 人が真剣にカキコしてると・・
次スレでピッピがうわぁああああ
うわぁあああああしてる・・
どないなっとんねん^^
この宗教板・・ 仏教は修行により悟りを開く・・
キリスト教はキリストを自分の救い主として信じ、
彼に従っていくなら、神は私たちの罪を赦し、救われる・・ キリスト教・・
「あなたはこの世では、ただ神と隣人を愛し、聖書の教えを守って生きていけば
よいのです。その人生には、豊かな報いが用意されています。」
・・ということで^^ 人それぞれだからな・・^^
人それぞれの因果に任せるということで^^ 神を信じるということは・・
信じるだけでそこには思考はいらない・・
つまり・・迷いがなくなることは確か・・
結論は同じかー^^ けど・・
神そのものの存在が不確定だからな〜^^
そこが問題だな^^ けど・・釈迦も言ってるように・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
「皆如来の智慧徳相を具有す」
なんだよな・・ ということは・・
人は皆神から如来の智慧徳相を授けてもらってると・・
すなわち・・神の子であると・・
こうなるんだよな^^ やっぱり・・結論としては・・
「思考の世界は迷うな」^^
ってなことで^^ 生きる意味かー
ここにいるだけで・・
その存在意義があると思うんだけど・・
どうかな^^ 因から果へと・・
その果が今の存在・・
ということは・・ ビックバン?(因)から地球・太陽(縁)が結びつき人類(果)へと・・
こんな単純ではないと思うけど・・^^ その果に意味はあるのか?
と言われれば・・
ここにいるだけで存在意義があると・・
因縁果の結果だと言うしかない^^ 「おしえて〜〜生きる意味を〜〜♪」
うん?
それはですね〜〜〜♪^^
「この世界に存在すること」♪
なんですね^^ う〜〜ん^^
同じことを何回も繰り返して書いている感がある^^ 無明が思考をさせる・・そして苦しむ・・
世の中の因果を理解していれば・・
それを眺めているだけでいい・・
非思考でいられる・・
智慧はそのために備わっている。。。^^ 「不思量底を思量するのであり、不思量底を如何に思量するのかと言えば、
それが非思量である。これが坐禅の要術である」
道元ちゃん^^ 考える以前にある世界(実相)=不思量底
非思量で思量すると・・^^ ということは・・
思考による世界を思考で観ていることになる^^ 思考によらない世界・・実相
すべてのものの、生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがた。
思考による世界・・仮相
実在でない現象。 すべてのものの、生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがたを
非思考で観ろと・・
道元ちゃんが言っている^^ これが坐禅の要術であると・・
道元ちゃんが言っている^^ 実相を非思考で観ろと・・
ん?
すでにやってるけど・・
なにか・・^^ やけに空が青い・・
石の上で寝たら・・
真っ黒だ^^ 瞑想は非思考であるべき・・
非思考で実相を眺める・・ マジこのサイトやべぇwwwwww
読むと気が身体に入るとか書いていたから暇潰しに半信半疑で読んだら
マジで足から気っぽい何かが来るわwwwwww
マジやべぇwwwwww
日本やべぇwwwwww
お前ら騙されたと思って暇潰しに読んでみろよ 面白いぞ
http://hirohifumiyamato.blog.fc2.com/ 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 どうやら・・
無意識の世界まで入っていかないと・・
悟りは得られないようだ・・・^^ 仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)
という二つの深層意識層を想定した。(八識説)
そういえば・・どこかに書いたな・・^^ マックス・プランク研究所の研究者がfMRIを利用して行なった脳研究によると、
被験者が判断を下す7秒も前に、脳活動でその判断の内容を「予告」できるという
「意識的な選択」や「自由意志」の意味について考えさせられる研究だ。
これと・・ 「人間の決定は、脳活動によって強力に準備されている。
意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」
これ・・^^ 意識が働き始める時点までに、無意識で大半の処理がすでになされている」
意識する7秒まえに無意識で大半の処理がなされていると・・
ということは・・ 末那識、阿頼耶識について調べろと・・
こうゆうことになる^^ なぜこうなったかというと・・
夢の中では・・悟りが得られてなかった・・
うわっ^^ うわっ・・うわっ・・
うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああ 末那識
我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)
と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。
思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、
審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。
うわっ^^ 睡眠中でも深層において働き続け・・
うわつ
審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、
それを自分であると考えて執着し続ける。
夢の中で自分に執着してた・・だと^^ 思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け・・
非思量であったのは・・なんだったのか^^ この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践する
ことができる。
そうか・・
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を
実践することができる。
ということか・・
真の無我行かー^^
この 唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、
大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・
舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、
人間存在の根本にある識であると考えられている。
人間存在の根本にある識・・ 第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、
作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、大随惑の八(不信・懈怠・放逸・
惛沈・掉拳・失念・不正知・散乱)であるとされる。
一説では、この識を因縁識といい、過去の事象が潜在する識といい、
悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる。
因縁識といい、過去の事象が潜在する識・・
う〜〜ん
やはり無意識領域まで入っていくことにするかな^^ 無意識領域まで入るには・・
瞑想という手段を持ちいらなければならない^^
ということで・・
瞑想にいってくる^^ 瞑想行って来た^^
温泉はすばらいい修行の場^^
まさに修行の場^^
ここしかない^^ まずは体を清めるところからはじまるからな〜^^
体を清め・・水風呂で煩悩をおとし・・
そして・・自然の中で水の滴る音を聞きながら・・
自然に溶け込む・・
そこには思考はいらない・・
まさに無我の境地^^ 今日は意識と無意識を考えていたんだが・・
どうやら・・人は・・
無意識で考え・・無意識で迷うと思考として現れるみたいだ^^ へたすると・・・
無意識でも考えて無いかもしれん^^ このように考えると・・
迷わない人は無意識領域で結果が既に出てるので・・
思考として現れない・・
つまり・・
非思量・・非思考となるわけだ^^ 迷う人は無意識領域で結果が出ない・・
そのため思考として現れる・・
こういうわけだな^^ 迷う人は無意識領域で結果が出ない・・
そのため思考として現れる・・
これが今日書いたように7秒かかる^^
無意識領域から思考まで7秒・・
迷いの結果である^^ 無意識領域で迷いがあると思考になって現れると言うことは・・
無意識領域でたくさん迷いのある人は頭の中が思考だらけになるな^^ あっ・・ごめん・・
それ・・おまいら^^
僕とか迷いがほとんどないんで思考することほとんどないんですよ^^ おまいらって・・
ほんとうに・・
たいへんだな^^ 無意識領域で迷いがあると思考になって現れる・・
しかし・・思考で解決しても無意識領域で解決しないと・・
何回も思考となって現れる^^
困ったもんだ^^ ・・で問題は・・
その無意識領域の・・
末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)
なんだよな^^ 5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)
6識・・思考意識(意)
潜在意識
第7末那識・・自我意識
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識
こうかな^^ 人が行動すると・・
5識から8識までストレートに伝わると・・ そこ(8識)から5識まで段階的に伝わると・・
そして7識は常に8識を観ていると・・ 動画ではこうなるから・・
「転識得智」と言ってたな・・^^ 「転識得智」
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。
これを転識得智(てんじきとくち)という。
前五識は成所作智(じょうしょさち)に 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)
に転ずるとされている。 転識得智の考え方は天台宗や真言宗にも受け継がれている。
うわっ^^ な・・な・・なんだとぉおおおおおおおおおおおおお^^ 悟りを開くと・・^^
5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)─成所作智(じょうしょさち)
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智(だいえんきょうち)
こうなるだとぉおおおおおおおおおおおお^^ おまいらでわ・・
悟りをひらくなんて・・・
到底無利ということが・・
わかった^^ そういえば・・・
みんな智に変わってるな・・
迷いの心を悟り(智慧)の心へ・・・か
ということは・・
煩悩を滅するのではなく・・煩悩を智慧に変えるということかな・・^^
そうなると・・ いやいや・・
煩悩を滅して智慧に変える・・ということだな^^ おまえら・・
ほんとうにたいへんだぞ^^
悟るのむりだから・・
やめとけ^^ 成所作智
唯識説にいう四智の一つ。煩悩にけがされている眼,耳,鼻,舌,身の
それぞれの対象を分別して知る働きが,悟りによって転じると得られる智で,
人々に益するためにいろいろな変化 (へんげ) の行為を達成するものである
といわれる。
それぞれの対象を分別して知る働きが,悟りによって転じると得られる智・・
そんなにむずかしくないな^^ 大円鏡智は自然をありのままに映す(見る)ことです。
平等性智はその自然の中に自分も溶け込む(一体化)ことです。
妙観察智はその自然の動きを正しく観察することです。
成所作智はその自然の動きに対応して正しく行動することです。
こんなこと書いてあったが・・
うん?
今日もやってたけど・・なにか?ん? 個性の源である阿頼耶識に大円鏡智があらわれ、
煩悩の源である末那識に平等性智があらわれ、
思考や感情の源である意識に妙観察智があらわれ、
所作態度の源である五根に成所作智があらわれる、
う〜〜ん^^ 唯識って・・
簡単なことを・・
わざと難しく・・
言ってる感がある^^ 大円鏡智は自然をありのままに映す(見る)ことです。
平等性智はその自然の中に自分も溶け込む(一体化)ことです。
妙観察智はその自然の動きを正しく観察することです。
成所作智はその自然の動きに対応して正しく行動することです。
これ・・いつもの瞑想状態なんだけど・・
どうする^^ ・・ということで・・
唯識は理解したということで・・^^ 唯識とは・・
「善の行為をすればすべての識が智慧にかわる」
ということで^^ もっと短くすると・・
「善を成せ」
ということになる^^ けど・・
善を成しただけで・・
悟りが開けるか・・
というと・・
どうでしょう・・
になる^^ おまえらって・・
ほんとうに・・
ややっこしいな^^ 君がクリスチャンを自称するなら山上の垂訓をじっくりと読み直したまえ。 次からおまえらのことを・・
「唯識」と呼ぶことにしよう^^ 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。 なんかきた^^
クリスチャンってなんぞ^^
山上の垂訓ってなんぞ^^ ■ヘブル人への手紙に「天に登録されている長子たちの教会」(ヘブル12:23)とありますが、
このことばは、教会が地上だけでなく、天にもあることを教えています。
教会は、天と地の両方にあるのです。地上の教会は、建前上の教会です。
まだまだ未完成です。
しかし、天の教会は、完全なものとされた栄光の教会です。
地上では、真理が曇らされたり、罪があったり、憎しみがあったり、争いがあったりします。
教会は、この世の罪と闘うだけでなく、みずからの罪とも闘わなければなりません。
失敗もあれば、分裂もあり、不完全です。
しかし、天の教会は、そうした闘いに勝利した教会です。
天に罪や憎しみや分裂があるわけがありませんから、天の教会は完全です。
地上の教会は天の教会を建ててから建てるものです。
この地上の教会のことを建前といいます。
上棟式(建前)とは日本では元は神社を建てる時に行われていた祭祀です。
天の教会とは二度生まれた者達の所属する教会なのです。 うわっ・・
キリスト教もそれで人が幸福に生きていけるなら・・
それはそれでいい・・
僕とかキリスト教興味ないので^^ キリスト教の新生、二度生まれるとは仏教では生きながら仏になるということです。 幸福と言えば・・
光と闇・・
どちらも同時存在しければ存在しない・・
つまり・・
幸福と不幸は同時に存在する・・
幸福を感じてる時は同時に不幸も感じてる・・
つまり・・
どちらでも無い状態が自然のあり方・・ ちょっと・・
またまた休憩^^
キリスチャンは他スレへどうぞ^^ 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。 前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)
成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報を
もとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。
第6識(意識)
妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。
第7末那識(自我意識)
平等性智は、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、
平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。
第8阿頼耶識
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、
一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。 第9識(阿摩羅(あまら)識)密教
法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。 第8阿頼耶識
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、
一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。
これがいいな^^ きのう見た夢が・・
こんなことになろうとは・・^^ きのう見た夢では・・
悟りが得られてなかった^^
ということは・・ 実践の修行が足りない・・
ということ・・
頭だけでは悟りが得られないと・・ おまいらわかった^^
立派なことここに書いても意味が無い^^
実践で示せと^^
こういうことだ^^ 結論が出たところで・・
ん?
おまいらが口だけということ^^
では・・寝る^^ 非思考に慣れてきた・・
瞑想状態が継続するようになってきた^^
非思考であるということは・・
観察するということである・・
でもそこには思考は無い・・
あるがままをみてるだけ・・
鏡の境地^^
唯識からいうと・・
識が智になったのかな・・・^^ どうやら・・
第8阿頼耶識
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、
一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。
これになってるようだ^^ こうなるとどうなる^^
5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)─成所作智(じょうしょさち)
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智(だいえんきょうち) 5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)
これから
第8阿頼耶識・・貯蔵意識
にストレートにくる
そして7から6へいく
その過程が覆る^^ 第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智になると・・
7から6へ識が智慧となる^^ つまり・・
思考が無くなり・・
妙観察智になる・・
すなわち・・
非思量に境地になると・・ さてと・・
「箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。
不思量底いかんが思量せん。
非思量(ひしりょう)。
これ即ち坐禅の要術なり。
これしにいくか・・^^ 体を清め・・
水風呂で煩悩をおとし・・
自然の中で瞑想すると・・
何が見えてくるのか・・^^ 最近思ったんだが・・
腹が減らない・・
毎日・・
豆腐と野菜のみ食べているが・・
基本悟ると・・
腹が減らないのか・・^^ 悟ってる人のお腹が・・
「ぐー」
なんてなったら・・
ん?
となる^^ 本当のことを言われて
オウム返しするのは
まことくらいなもんだろww 石がとてつもなく熱い・・
水をかけて冷やす・・
エネルギーは煩悩である・・
水をかけて冷やさないとならない^^
・・てなことで^^ どうも・・
唯識の識が智慧にかわるというのが理解できない^^ 5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)─成所作智(じょうしょさち)
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智(だいえんきょうち)
5識から8識へストレートでいくのはわかる・・ 7と6識はなくなり・・
5識にストレートに戻るのではないか・・
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓ 7と6識が無くなる代わりに・・
第9識(阿摩羅(あまら)識)が現れる・・
とどうなるか・・ 非思量
5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)
↓
潜在意識
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第9識(阿摩羅(あまら)識)
う〜〜ん^^ 瞑想してると・・
雨が降ってきた・・
雨の中の瞑想・・・
それもまた心地よい^^ どないや・・と言われても・・
しらんがな^^
と言うしかない^^ 今日の瞑想はここまでにしとくかな・・^^
では帰宅する^^ 今夜はこれにするか^^
1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫(おまえら)の日常の認識。
2.依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
3.円成実性(えんじょうじっしょう) 絶対的存在、完成された存在 遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である。
ふむふむ^^ あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して
最終的に過去に消えてしまうであろう。
即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)
この思想は解る^^ 瑜伽行唯識学派は、中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、
とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)
でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした
(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)
「ただ識だけがあって外界は存在しない・・」か^^ 今日思ったことがある・・
「思考をコントロールできないか」と・・
おなじこと考えてるな・・
それには思考を超えた存在になるしかないが・・ この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、
とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。
しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、
最終的にその心的作用も否定される
(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。
したがって唯識と唯心論はこの点でまったく異なる。
また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」と
する唯心論とは明らかに相違がある。
ん?
境識倶泯・・^^
唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与えた。 「この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている」
そもそも素粒子が振動してるだけの世界だからな〜^^
心的作用のみで成り立っているのは当然^^ 問: 物は実在するか?
答1:外界の対象物はそれ自身で存在している。
答2 :外界の対象物は識別にすぎない。物は心にそなわる表象の投影に他ならない。
外界の対象物は実在ではない。
うわっ^^ 外界の対象物は識別にすぎない。物は心にそなわる表象の投影に他ならない。
ここまでは解る^^ものは素粒子以外のなにものでもない^^
心における表象の投影だよな^^
そこからどうしてこうなるのか^^
「外界の対象物は実在ではない。」
うん〜〜ん^^ 素粒子がその形をしてないということか・・
すべては同じ形・・素粒子の振動^^
それが心によっていろいろな形に表れる^^
ということか・・^^ そう考えると・・
「外界の対象物は実在ではない。」
素粒子の振動が心によっていろいろな形に見える・・
すなわち・・
「外界の対象物は実在ではない。」
こういうことだな^^ しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。
認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに
安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも
、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。
それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。
もしかして・・
これ・・
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああ
おいらの境地じゃん^^
うわぁあああああああああああああああああああああああああああ 認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに
安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも
、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。
これ・・非思量すなわち非思考の境地・・
ということは・・^^ それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。
だって・・^^
わかった^^
おまいら^ 唯識説では我々の経験世界はただ識別のみにすぎない。
識知が対象として映出されるのみであって対象は実在しないと説く
対象は実在しない・・
対象は実在しない・・ただの素粒子の振動である^^
これでいいかな^^ 唯識
1.識の変異が世界・存在を作り出す。
2.識にはアーラヤ識(=阿頼耶識、あらやしき)、マナ識(末那識、まなしき)、
6識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の8つがある。
3.阿頼耶識は根元的な識であり、あらゆる種子を内蔵している。
4.阿頼耶識は我々の身体・生命を維持(アーダーナ)する働きを持つ。
阿頼耶識には無限の過去から現在にいたる全ての行為の残してきた余力・余習が
一切の種子として貯えられる。このため阿頼耶識は一切種子識とも呼ばれる。
この一切種子はいわば潜在意識として貯えられている。
5.末那識は阿頼耶識に基づいて活動し、思考作用を行う。
6.「種子(しゅうじ)」という言葉で識の生成発展を説明する。
唯識か・・
これから悟りを開くために瑜伽行(ヨーガの行・実践)を
実践していくのはなかなかなもの^^
おまえらとは格段の差^^
おまいらは口だけ^^
となる^^ さてと・・
唯識はここまでとしておくか^^
1つの考えとして覚えておこう^^ この世のすべては空である^^
「空」とは実体がないことであり・・
相互の係わり合いにより変化する^^ あるときには・・水の入れ物になり・
あるときには・・ペンたてになり・・
あるときには・・武器になる・・
果たしてその正体は^^
コップである^^
すなわち・・
コップはその相互の係わり合いにより変化する^^
すなわち実体がないと^^
こういうことだな^^ おまいら凡夫も・・その相互の係わり合いにより変化する・・
すなわち・・おまいらは実体がないと・・
「空」であると・・^^ ・・ということは・・
これからおまえらを「空」と呼ぼう^^ おまえらみたいに・・
弱い人には鬼の形相になり・・
強い人にはネコのようにおとなしくなる^^
つまり・・おまえらは実体が無いというわけだ^^
わかった^^
おまえら^^ 龍樹の空観
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている
ことを論証している。
この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論という
スタンスを通して、より深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も
含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。
これを空もしくは「空性」と呼んでいる。
これはさっき書いた^^ さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在すると
いう「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。
これを以て、縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空であると
論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。
これもさっきとおなじ^^ さっき書いたことをまとめると・・
「縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である」
となる^^ 舎利子よ。
色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是れ空。空は即ち是れ色。受想行識もまたかくの如し。
う〜〜ん^^
解釈はひとそれぞれ・・^^
おもしろい^^ 初期仏教の内容をまとめると、ありのままの「縁起(現象)的現実」に対する
「無明」(無知)に端を発する、「煩悩」や「習慣」を背景とした、特定の事物
・概念への「愛着」「執着」(という本来的には誤認的・錯誤的な態度)によって、
それが得られなかったり失われたりする(と「錯覚」した)自己原因的な「苦しみ」
(苦)を繰り返す「
自縄自縛」状態から抜け出すために、戒律によって「習慣」的態度を改め、禅定・観想を
通して「自分の認知的なあり方」や「縁起(現象)的現実」に対する理解・知見(智慧)を
深め、「無明」(無知)という根本的原因を克服し、「自縄自縛」の「苦しみ」(苦)の連鎖を
断ち、そこから脱する
あれ・・ 特定の「概念的認識」への囚われから脱して、ありのままの「縁起(現象)的現実」を
感得することが「悟り」であり、それによって「生死」「有無」といった「二辺」の迷い・境涯を
超えた「解脱」(再生の遮断)の境地に至った段階が、修行完成形態としての「阿羅漢(果)」と呼ばれる。
あれ・・ あれぇええええええええええええええええええええええ^^
なんちゃって^^ おまえらが・・
阿羅漢になるのは^^
どうみても・・^^
むりぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい^^
わかった^^ なぜなら・・
おまいらは・・
実体のない・・
空だから^^ ・・・・と
龍樹ちゃんが・・
言ってたよ^^
僕とか・・
知らんけど^^ 「縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である」
だいだい理解した^^ 龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている
ことを論証している。
この関係性を釈迦は「縁起」として説明している・・・
ここらへんが仏教のポイントだな・・^^ 仏教にも流れがある・・
それを読み取っていかないと・・
部分だけみても・・・
理解しにくい^^ まこと独りしかおらんのだから、
いちいち許可を取らんでいいぞww で、まことは何で発狂してたんだ?
文面を読んでないから、さっぱりわからんww まことは、統合失調症だぞ!妄想癖のあるやつの考えが、わかるはずないじゃないか! 瑜伽行唯識学派
ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。
とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え、深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)、
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)。
阿羅耶識もまた空かー^^ 5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)─成所作智(じょうしょさち)
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智(だいえんきょうち)
存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている
関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在すると
いう「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。
これを以て、縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空であると・・ 心の外に「もの」はない
「唯識無境」(「境」は心の外の世界)唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)
大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、
つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。
唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、
心の外に事物的存在はないと考えるのである。
これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境
(外界の物事は識によって変えられるものである)という。
また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を
認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは
、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅう、)
が存在するからであると唯識では考える 最終的には心にも実体はない(境識倶泯)
このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)もの
であり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。
このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われて
いるものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。
しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。
これは西洋思想でいう唯心論とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、
夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)。 このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われて
いるものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。
5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)から
第8阿頼耶識へストレートにくるが・・
「現象」は、「空」であり、実体のないものを見てるので
第8阿頼耶識は空すなわち実体の無いものを取り込んでいる^^
そうなると・・
すべての識は空になると・・^^
くぅー^^ そうなると・・
心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、
究極的にはその実在性も否定される(境識倶泯)。
心は空であると・・
こうなる^^ 唯識
仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、インド古来の修行方法である
ヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系
・・
「ヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智」
瑜伽行(瞑想)したら「一切皆空」だったと・・
瞑想したら・・
すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、
「空」であり、実体のないものであったと・・
それを観てるこころ(識)も空であったと・・^^
こういうことか・・^^
おまえらみたいに頭だけで理解してるのではなく・・
瞑想で実践してるからな・・
反論はできないであろう^^ まとめ・・
1. 心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として
無意識の分野に初めて注目した。
2. 自らと、自らが認知する外界のあり方を、三性(さんしょう)説としてまとめ、
修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。
3.ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。
4.『法華経』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)
5. 成仏までには三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもない時間がかかるとした。
6.『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を
瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。
識は仮に存在するという立場・・・
う〜〜ん^^
仮に存在するかー^^
どうなんだろ^^ 6.『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を
瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。
仮に存在する・・^^
かりかり・・^^ 三性
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう, paratantra) 相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう)絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。 依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)
であるととらえることである。
阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、
識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。 三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。
つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。
また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。
そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる
。その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。
これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない
だんだん適当になってきた^^
休憩するか・・^^ このように考えていくと・・
唯識の思想の根底には・・
ヨーガの実践による空があることがわかる^^ 何年もヨーガの実践をやってきたんだろうな^^
そしたら「一切皆空」だったと^^
うわぁあああああああああああああああああああああああ
ってなことになる^^
よくわかる^^ 「識には第8阿頼耶識まである(キリッ」
「よしヨーガの実践で確かめてみるか^^」
その後年月が経ち・・
「ん?」
「なにかおかしい^^」
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああ」
「なんじゃぁああああああああああああああ」
「一切皆空じゃないかこれ^^」
「第8阿頼耶識とはなんだったのか・・^^」
「とりあえず・・仮に存在することにしておくか・・(キリッ」
目に見えるようによくわかる^^ 頭で理解しても・・
それは妄想にしかすぎない^^
実践で理解しないと・・
真実は見えてこない^^
あるできごとから・・
一瞬にして・・
見えてくるくることも・・
あるんだけれどもね^^
実践より勝る者なし^^
実践こそ・・真実^^ ID:qQWOzAKR
聖書を根底から学ぶスレ5 [無断転載禁止]©2ch.net
579 :神も仏も名無しさん[]:2016/08/11(木) 08:36:42.78 ID:qQWOzAKR
★☆★神なんて実在しないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー 204 [無断転載禁止]©2ch.net
974 :神も仏も名無しさん[]:2016/08/11(木) 08:37:28.22 ID:qQWOzAKR
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:神も仏も名無しさん[]:2016/08/11(木) 08:41:12.09 ID:qQWOzAKR
どんだけグロはってんだよ^^
バカたれがぁあああああああああああああああ ・・・とは言っても・・
煩悩を滅するために・・
修行する方法もあることは・・
確かだが・・
やりすぎの感がする^^ ・・けど・・
釈迦はその方法では悟れなかった・・^^ ・・・ということは・・
それを貼っても悟れないから貼るな^^
ということになる^^ 煩悩を滅するために・・
てっとり早いのは「水」
水をかぶるのが最も有効・・
瞑想しても無駄^^
それには長い何月がかかる・・
凡夫は水をかぶって煩悩を鎮め瞑想する・・
これがかなり有効・・
一瞬だけであるがしょうがない・・
水風呂にはいると・・
少しは長続きする^^
・・てなことで・・^^
今日も瞑想いってくる^^ 凡夫は水風呂に入り煩悩を鎮め瞑想する^^
おまえらのこと^^・・
わかった^^
頭だけで実践してないからしょうがない^^ あまえらにかかわるとしょうもない^^
今日は瞑想して「一切皆空」を体験する^^
ではまた^^ ん?
なんか聞こえる・・^^
「意識しようが、しまいが
私はあるわ」 うん^^
5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)─成所作智(じょうしょさち)
6識・・思考意識 ─妙観察智(みょうかんざつち)
潜在意識
第7末那識・・自我意識 ─平等性智(びょうどうしょうち)
↓
第8阿頼耶識・・貯蔵意識 ─大円鏡智(だいえんきょうち
第7末那識に私はいるね^^
第7末那識は第8阿頼耶識を観ている・・
第8阿頼耶識は5識・・感覚(目・耳・鼻・舌・身)からストレートにくる^^ まことの自演問答は、形式になっとらんww
頭の中で会話してるみたいだのww 末那識は他動物には無い『煩悩』を生み出す原泉であり
第8の阿頼耶識 (あらやしき) を対象として我執を起し,
我見,我癡,我慢,我愛を伴って我執の根本となるので,
けがれた心である「染汚意」とも呼ばれ,これによって第6の意識が生じる。
だって^^
詳しいことはおのおの調べるように^^ まっそれも空を観てるから空になる^^
って・・ことらしいよ^^
知らんけど^^
龍樹ちゃんが言ってた^^ うん?
今日の石はそんなに熱くない^^
しかし・・ 普段の瞑想に入れない・・
いつもと違う・・
自然に溶け込めない・・
ここち良くない^^ どうやら・・
昨日と今日の書き込みで・・
非思量になれなかったみたいだ^^ 思量すると迷いが出る・・
龍樹ちゃんのことは忘れることにする^^
唯識は考えるよりも瞑想によって理解するもの・・
頭で考えると迷いが出て瞑想にならない^^
って道元ちゃんが言ってたよ・・^^ これからは思量しない・・
非思量で観る・・
ということで・・^^
瞑想がすべて・・ということで・・^^ 思量は煩悩である・・
水風呂ではなかなか落とせない・・
昨日今日のカキコミが裏目に出た・・^^
非思量の状態から一気に思量をつかうと・・
煩悩として居座り続ける・・^^ 頭で考えるとこうなる・・
実践で体験すべき・・
体験こそ真実を語る・・^^ そういえば・・
道元ちゃんもなんか言ってたな・・
調べてみるか・・^^ しかし・・
この思量という煩悩・・
すなわち無明を・・
どうやって消すかだな・・^^ 2日のカキコミが
こんなに効くとは・・
思わなかったは^^ つまり・・
おまいらが悪い・・^^
とこうなる^^ さてっと・・
また水風呂で・・
煩悩という思量を
落としてくるか^^ 苦しめられていた煩悩の正体がわかった^^
「唯識への執着」
これだ・・^^ 2日の書き込みで唯識に対し執着心が生じた・・
その執着心で苦しめられていたと・・
長い間ものに執着したことはなかった・・
ゆえに苦もしょうじなかった^^
2日の思量で唯識に対し執着が生じた・・
そこで執着とともに苦も生じたわけだ^^
これほど執着が苦しいものだとは・・^^ 思量は執着を生じそれとともに苦も生じさせる・・
頭で理解してたのを実践で体験させられたわけだ^^
これも道元ちゃんの心遣いかもしれん^^ 非思量であることの難しさを体験したわけだ^^
唯識の執着であることがわかったとたん・・
煩悩は消え去った・・
つまり・・そういうことだ^^ 昨夜と今日は思量し過ぎた^^
執着しない程度に思量すればいいんだよな・・^^
何事もほどほどに^^ 水風呂で・・
頭と体を冷やし・・
瞑想する・・
湧き出てきたもの・・
それが煩悩いわゆる執着である^^ 帰宅した^^
「今日はさんざんな目にあった」
と書くか・・
「今日はすごい勉強になった」
と書くかで雲泥の差がある・・^^
修行者に立場を忘れると・・
どうなるか・・^^ 第7末那識が表れちゃんだよね^^
これが^^
うわっ^^ ものに対する執着がこれほど苦しんだから・・
人に対する執着はもっと苦しいだろうな・・^^ ・・とすると・・
自我への執着はどうなるか?
苦しみをかんじるのか?
となる^^ 「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している
根本原因なのだと、仏教は教えています・・
ほほう^^ それでそれで・・?
「自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる」
すばらしい^^ なんか一人で漫才してる感があるが・・
どうでしょう^^ あー意味不明ってことだな・・^^
なかなかやるな^^ 意味不明なこと書いて・・
意味不明を連想させる・・
高等技術^^
すばらしい^^ 他スレで勉強してきた^^
おまえら凡夫をみていると・・
ためになる^^ 今日は温泉での瞑想がなかなか良い調子でした
サウナも重要ですが水風呂の方がより重要でしょうか
家の浴槽に水と氷いれてみようかな… >>869
おっ行って来たか・・^^
良い調子か・・^^
今日は執着があったためか・・
瞑想に迷いが出た^^
最初は瞑想どころではなかった^^
こんなことはなかったのに^^
連休なので15日までは毎日行こうと思ってるが・・
回数は・・週一か・・迷いが出た時くらいがいいよね^^
お金もかかるし^^(1回1、500円)だけど・・
家は・・むり^^
冬の水風呂は意識が宇宙まで飛んでいくよ^^
今日は同じ温泉だったらどうしようかと考えて
キョロキョロしてた^^^^
カキコミがおなじIDだったりしてね^^ さてと・・^^
うん?
わかってますね^^
非思量の瞑想しに・・
またまた^^
いくんですよ^^ なぜいくかというと・・^^
非思量の瞑想が心地よいんですよ^^
わかります?^^
うん? そうでなければ・・
毎日行かない^^
こうなるんですね〜^^ 何かになろう・・とか・・
何かを得ようとか・・
無になろう・・とか・・
悟りをえよう・・とか・・
そんな迷いがあると・・
続かない・・^^ 逆にそれらの迷いがあると・・
瞑想にならないんですよ・・^^
つまり・・
心地よくならない^^
こういうことですね^^ 昨日は・・
煩悩・執着があったためか・・
瞑想にならなかった^^
非思量の境地でここちよくなれなかった^^ まぁ人それぞれ瞑想のやり方があるが・・
自分が体験したことが真実だからね^^
あれこれ言われる筋合いは無い^^
その道をいく^^ 心地よいから瞑想する・・
これだけでいい^^
あとはなにもいらない^^ ・・ということでね^^
非思量の瞑想にいってくるか^^ 石が問いかける・・
「なぜ毎日きてくれてるのか?」
うん?
「非思量」
どこかで聞いたような・・
聞かないような・・^^ 今日の非思量瞑想は心地よい^^
いつもとかわらず心地よい^^ 体に塩を塗り煩悩執着をおとし・・
水風呂で頭と体を冷やす・・
そして石の上で瞑想する・・
そこには煩悩・思量がない・・・
思量・煩悩が湧き出てきたら・・
それがなくなるまで何回も繰り返す・・
すると・・自然に非思量瞑想になる^^
自然に溶け込み・・心地よい・・
普通の状態での瞑想ではありえない・・
とてつもなく時間がかかる^^
それを一瞬にして成し得る瞑想・・
それをなずけて「非思量瞑想」と呼ぼう^^ うわっ・・・^^
おまえらって・・
とてつもなく・・
くだらん^^ 非思量瞑想を半年続けるとどうなるか・・^^
わかりますよね^^
日常の生活でもその非思量の境地にいられる・・^^
すなわち・・
煩悩・執着のない境地にいられるんですよ^^
それがどういうことか・・
おわかりになりますか・・^^
煩悩・執着が表れるとすぐわかるようになる^^
どうしてかというと・・
居心地がわるくなる・・
体が非思量の境地を覚えているんですね〜〜^^
つまりそういうことです^^ さてと・・
おまいらに説教したところで・・
帰るとするかな^^ さてっと・・・^^
あーあー^^
あーあー^^
口ばっかりで人の話をさも自分が言ったように書き・・^^
瞑想の実体験がないのに口だけのおまえら・・
聞こえる^^ 無色界は四層から成り立っているらしい^^
1・空無辺処(くうむへんしょ)
2・識無辺処(しきむへんしょ)
3・無所有処(むしょうしょ)
4・非想非非想処(ひそう-ひひそう-しょ)
まぁ〜実体験の無いおまえらにはぜんぜ〜〜ん^^関係ないはなしだが^^ やっぱり・やめた^^
むだということが・・
わかった^^ …ここで尊師は初禅(第一段階の瞑想)に入られた。
初禅から起って第二禅に入られた。第二禅から起って第三禅に入られた。
第三禅から起って第四禅に入られた。第四禅から起って空無辺処定に入られた。
空無辺処定から起って識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って無所有処定に
入られた。無所有処定から起って悲想非非想定に入られた。
非想非非想定から起って滅想受定に入られた」
人が臨終に至る過程と禅の瞑想レベルの進行状態はほぼ同じ・・^^
ということは・・^^ 893.
いくら瞑想しても無駄なことである。
なんでか。
それは、瞑想という方法の問題ではないからである。
それならば何か。 人が臨終に至る過程と禅の瞑想レベルの進行状態はほぼ同じ・・^^
ここがポイントなんですよ^^ 4・非想非非想処(ひそう-ひひそう-しょ)
これを調べてみたらですね^^ 「意識(精神作用)があるのでもなくないのでもないという境地」
とか・・^^ 何も意識しない心さえなくしてみようと、意識はおろか、意識しようとする衝動
「想」さえ起こさせない、でもそれさえも完全に起こらないのは心自体が滅する
ことでちょっと不可能で、実際には想が起こるのか起こらないのか分からないほど
微かにして、もちろん意識などは全く起こらない状態にまで達します・・・
とか・・ つまりですね・・
そういう状態にですね・・^^
瞑想をする直前にですね・・・^^
すでに・・入っているんですよ^^
僕とか^^ ん?
ここからは・・
有料に・・
なります^^
あしからず^^ ・・てなことでね^^
聞きたい人は勇太さんに聞いてみてくださいね^^
同じ体験をしてるので^^
では^^ 無所有処では、「識別作用は消えた」というかたちで
まだかすかに残存していた識別作用そのものが、ここでは完全に消え去る、
つまり、識別する、しないがまったく意味をなさないほどにまで心のはたらきが
完全に停止する、ということなのであろう。
これも感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。
感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地・・^^
ん?
思考の停止を目指す瞑想・・^^
すなわち^^
非思量瞑想^^ 四つの禅定(ぜんじょう)(四無色定)があり,
<空無辺処>(虚空(こくう)の無限性を観ずる境地)
<識無辺処>(心のはたらきの無限性を観ずる境地)
<無所有処>(何ものも存在しない境地)と高められていくが,
最後に達する「意識も無意識もない境地」が<非想非非想処>
「意識も無意識もない境地」^^
実体験の無いおまえらには関係ない話^^ やっぱり・・
瞑想をしていると・・
思い当たる感がある^^ 釈迦は天界の無所有処や非想非非想処の境地を味わいましたが、
そこに満足はなかったようです。
ふむふむ^^ 904.
思考を停止すれば、バカ丸出しである。
それが価値があるのか。
赤ん坊になりたいのか。 釈迦は、最初の瞑想で禅定状態に入り、色界の初禅から第四禅へ至り、
さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、
さらに最後に滅尽定まで入ったことが、まず書かれています。
ふむふむ^^
釈迦はついに石になっちゃったか・・^^ 今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、
さらに色界の第四禅から初禅まで戻る
。つまり最初の禅定である初禅まで戻ったことが記されています。
うわっ^^
石から蘇ったか^^ つまりだ・・^^
当然凡夫には何年かかっても不可能^^
解脱どころか悟りなんて夢のまた夢・・
石にはなれない^^
だが^^ 人が臨終に至る過程と禅の瞑想レベルの進行状態はほぼ同じ・・^^
これを実践すればよい^^
だが・・どうすればよいか^^ う〜〜ん^^
危険が伴うので書くのを控える^^
当然^^ しかし・・非想非非想処まではなんとかいける^^
問題はその先^^
これがやっかい^^ ぼくとかの非思量瞑想は体温がすぐもどるので・・
時間がかぎられている・・
意識も直ぐ戻る^^
なので・・石にはなれない^^ 石の上で瞑想しても石にはなれない^^
だれが・・
うまいこと・・
言えと^^ 通常の瞑想で・・
僕とかの非思量瞑想の境地にいくなんて・・
たいしたものだ^^ 916.
達磨は壁に面壁して、壁になったとかである。 僕とかの非思量瞑想は・・
ある意味命がけだもんな^^
へたすれば・・
生命の危険がともなう^^
しかもそれを承知でやっている^^
なぜなら・・
心地よいからである^^ おまいら凡夫は・・
座ってるだけで・・
解脱とか・・悟りとか・・
何言ってるかわからん状態ではある^^ つまり・・
おまいら凡夫は・・
口だけでなく・・
瞑想を実践してからここに書け^^
という結論になる^^ >>920
ただ座れば仏なりという教えは仏教でもなんでもなく
川上雪坦老師という破戒僧が提唱した雪坦教である。 >>923
そうか・・
でも・・
石になった釈迦が言ってんだよね^^
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
つまり・・そこらへんが難しいところ^^ 人が臨終に至る過程と禅の瞑想レベルの進行状態はほぼ同じ・・^^
禅の最高瞑想レベルで見たものは・・
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」
ということは・・ 現世で仏様が遊んでいらっしゃる^^
ってなことないか^^ 滅尽定に入ると、身体の素粒子レベルから一切の活動が停止してしまうといいます。
滅尽定に入るとダイヤモンドよりも固くなりカチカチになるといいます
ふむふむ^^ 世の中のすべては素粒子の振動から成り立っている^^
その振動が止まるということは・・
つまり・・・^^ こんな解答がかいてあった^^
温度とは飛び回っている分子同士が
ぶつかった時の摩擦によって発生します。
温度が高ければ分子が激しくぶつかっている状態
温度が低ければ分子があまりぶつかっていない状態です
つまり温度を下げると、どんどん分子の動きは弱まり、
ついには動きが完全に止まる状態が発生します。
そのときの温度が絶対零度です。
ちなみに、絶対零度は摂氏にすると-273℃です。 つまり・・
温度とは飛び回っている分子同士が
ぶつかった時の摩擦によって発生します。
温度が高ければ分子が激しくぶつかっている状態 ・・
人の肌は暖かい・・
つまり・・
温度が高ければ分子が激しくぶつかっている状態になる^^ つまり・・
日本人の体温(平熱)は、平均36.89℃
36.89℃で分子がぶつかっている状態になる^^ 視床下部は自律神経系の中枢であり、体温の標準となる温度を決めて、
常に体温を一定にするように働いています。
そして熱を作り出す(産熱)か、熱を放出する(放熱)かの指令が視床下部から
出されます。
ということは・・ 「代謝」というのは、体内で起こる化学反応のことです。
食べ物からの栄養をエネルギーに変えて運動をするといった、
生命維持にとって重要な活動も、代謝にあたります。
このとき運動に直接使われなかった、残りのエネルギーは、熱となります。
人の場合、エネルギーの75%以上が熱に変換され、
体温の維持に用いられています。
ということであり・・ 滅尽定に入ると、身体の素粒子レベルから一切の活動が停止してしまう
といいます
ということは・・ 温度が低ければ分子があまりぶつかっていない状態・・
う〜〜ん^^
最終的には・・
分子がぶつかっていない状態・・にまで^^ 温度が低ければ分子があまりぶつかっていない状態・・ ^^
つまり・・
僕とかの非思量瞑想も意にかなってるわけだ^^ こう考えてみると・・
人の無明・煩悩は生命維持に必要であると・・^^
こうなる^^ 日本人の体温(平熱)は、平均36.89℃ ・・
この温度で分子がぶつかり合い生命維持を保ってる^^
この温度での煩悩というか・・エネルギーで生命維持ができる・・^^ 悟られると・・
分子がぶつかり合いが弱くなり・・
体温が下がり・・生命維持に支障が出る^^ 熱は基本的に,素粒子の乱雑な運動ですね。原子が振動するためには,
他の原子との力が釣り合う場所があって,その釣り合いの位置を中心として
振動するわけです。
この振動には,運動のエネルギーと,釣り合いの位置からのズレによる
位置のエネルギーがあります。このエネルギーを外部に取り出してしまうことで
原子の振動は抑えられていきます。
「このエネルギーを外部に取り出してしまうことで
原子の振動は抑えられていきます」
ということは・・^^ 瞑想により・・
エネルギーを外部に取り出してしまえばいいとなる・・
そうなれば・・
原子の振動は抑えられる^^ 「原子の振動が止まる」ということは原子の位置が厳密に決められる状態という
ことになります。しかし,これは量子力学の不確定性原理を満たせません。
原子がエネルギー最低の状態になっても,原子はあるエネルギーを持ちます。
これを零点エネルギーと呼んでいます。原子の振動を完璧に止めることは不可能なのです
「原子の振動を完璧に止めることは不可能なのです」
ということは・・^^ 自由意志と決定論か・・^^
話がややこしくなる^^ 量子力学の不確定性原理までいくと・・・^^
分子のぶつかり合いが激しくなるので・・
やめとく^^ 結論
「瞑想とは分子のぶつかりあいをおさえることである^^」
「おい分子静かにしてろ^^」
とこうなる^^ うわっ・・
おまえらって・・
ほんとうに・・
とてつもなく・・
くだらん 一日中2chにかじりついて
いつ瞑想してるんですか?野弧禅さん 非思量瞑想は1回だいだい15分・・
それを3.4回繰り返す・・^^
と・・1時間かー^^
そして休憩を取り・・
1日に何回も繰り返す^^ IDが変わると言うことは・・
つまり・・
そういうこと^^ 非思量瞑想を1回で8時間続けたら・・
ほんとうに石になるかもしれん^^
それは・・
危険がともなうので避ける^^ 凡夫は実践してから口を聞きなさい^^
ということになる^^ 凡夫は自我をだそうと必死に口を聞きたがる・・
脳の中で分子が激しくぶつかっている・・
目にみえるようにわかる^^
分子をおとなしくさせる・・
つまり・・
瞑想しろと・・
こうなる^^ >>959
>>960
一日中グチャグチャ言ってる自分のことじゃないですか?
瞑想しているよりネットで雑談してる方が長い求道者なんて
魔境ですよ とりあえず・・
瞑想を実践し・・
その体験を書いてくれ^^
そして反論なり何なりを書いてくれ^^
体験なくして口を聞かれても・・
空論に終わる・・
そうゆうことだ^^
でなおしてこい^^ ・・てなことで・・^^
非思量瞑想にいってくる^^
お疲れさん^^ >>958
悟りを求めるなら一日中15時間でも20時間でも瞑想するものですよ
そのうち睡眠も必要なくなりますから
お釈迦様が7日間の瞑想を7回やったというのは
一日数時間の瞑想を7日やったのではなく
座法を崩さず7日間の瞑想を一気にやったということですから ん?
釈迦さんは関係ない・・
自分で実践しろ・・
そして反論しろということ・・
実践だけが真実だからな^^ 先ずはお釈迦様が手本でしょう
私個人のことを言うなら7日間の不眠不休の瞑想何度かやってますよ
そういう修行をご存知無いのかもしれませんがご参考に 一日中15時間でも20時間でも瞑想・・
通常の状態から入ればそれ以上の時間はかかるだろうな・・
しかし・・
非思量瞑想はその上をいく・・
意識の無い状態から瞑想に入る・・
このちがいだな^^ 悟りを求めて真剣に修行している先達が何をやってきたか
まずちゃんと学ぶべきですよ
自分のフィーリングだけでレベルの低いことをやっていては野弧禅で終わります とりあえす・・
空論しても意味は無い^^
瞑想の体験をここに書いておいてくれ
帰ってきたら・・
読むとにしよう^^
では^^ あっ・・
ちゃんと自分の言葉で書くように・・
他人の経験を書いても真実は伝わらないからね^^
すぐわかる^^ チベット仏教などでは3年3ヶ月3週間と3日
独房で一切横にならず修行を続け、これを一生に何度かやります
先ずは自分の世界に閉じ篭らず
本物の道に目を向けることですね 自分の体験から考えて書けといったのに・・
チベット仏教がでてくる^^
頭で考えるからそうなる^^
いったい
おまえらは
どないなっとんねん^^ 「悟りを求めて真剣に修行している先達」とか言ってたな・・
それ煩悩だから^^
悟りは求めるものではない・・
自然とそうなるものである^^
後から付いてくるんだよな^^
自分では気が付かない^^
・・ってだれか言ってた^^ まぁ空性に執着しても・・
なにもない^^
ん?
どこかに書いたな^^ 774 : 因縁果 ◆d........o 2016/08/10(水) 20:03:37.00 ID:uyiBGBfp
この世のすべては空である^^
「空」とは実体がないことであり・・
相互の係わり合いにより変化する^^
これと・・ 龍樹の空観
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている
ことを論証している。
この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論という
スタンスを通して、より深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も
含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。
これを空もしくは「空性」と呼んでいる。
これと・・ さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在すると
いう「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。
これを以て、縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空であると
論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。
これと・・ 「縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である」
これとか・・ つまり・・
おまいらは「無自性空」なわけだ^^
それに執着しても・・
苦しかならない^^
実体験のない頭の中だけで理解してるおまいらと
まともな討論ができないんだからしょうがない^^
まともに瞑想してたら
さっきみたいな凡夫はでてこない・・
自分の思い道理にならないと気がすまない・・
自我すなわち我執がしみついている・・
それは瞑想してたにはならない・・
ただ20時間座っていただけ・・
ただそれだけ・・^^ ・・なんかやばい雰囲気だ・・^^
つぎからは・・
凡夫が出てきたら・・
「膜妄想」とだけ答えておこう^^ 977.
関係性がある、なんてことは誰でもが、わかることである。
そんなものは科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
何の勉強をしているのだか。 真面目に悟りを求めてコツコツ一日中瞑想している人間が
あなたの適当な低レベルの体験に劣るとでも思ってるの?
最近、修行もたいしてしてないのにただあるとか適当な事言ってる人が増えてるんで
基本、自分の定慮体験は正統な修行している人間にしか明かしてないんだわ
上っ面を真似されても衆生に害が及ぶんで
2chで暇を潰して瞑想をおろそかにして
理解もしていない経文をひけらかして
どうしょうもないですな
本来なら適当にちょっとしか修行してない自分自身を
先達に照らして恥じるところでしょ
完全に魔境に入ってますな サウナに入って適当にボーッとして
半年しか経ってないのに何が理解できたと勘違いしてるの?
こっちは35年必死に瞑想してんだよ
勘違いもいい加減にしろ 他者を見下すプライド魔境なんだろうけど、
性欲や物欲や怒りが事実上なくなってるなら大したものだと思う。
性欲や物欲が怒りがないか、ほとんどないなら、才能あるんだろうね。 サウナで瞑想できること自体、なかなかできないと思う。
オッサンがいっぱいいて、おしゃべりしたり、集中しずらい環境で瞑想できるのは
普通の人とは違う才能があるんじゃないか。
瞑想年数がどうとかも大事だけど、実際に煩悩や苦がなくなったか、減少したかが重要。 短期間のお手軽瞑想で悟ったと勘違いする人間が増えてるが
これはラマナマハルシとかニサルガダッタマハラジとかバグワンの影響なんだが
ラマナマハルシはまだ一生涯修行に人生を捧げたからわかるんだが
ニサルガダッタマハラジとか一日3時間の瞑想で3年で悟りましたなどと言っていて
異様にレベルが低い
瞑想段階としてはただボーっとして心が落ち着きました
今、ここに意識がありますって当たり前だっての
それじゃ第一条慮煮にすら入ってない
ちゃんとした経典の学習や瞑想していないで勘違いしてるから
何もわかってない >>985
> 性欲や物欲や怒りが事実上なくなってるなら大したものだと思う。
> 性欲や物欲が怒りがないか、ほとんどないなら、才能あるんだろうね。
それを見極めるポイントは戒律が守られているかどうかでしょうな
おなか一杯食べておきながら「私は食欲はない」と勘違いするとか
性欲適当に満たしながら「私は性欲はない」なんて勘違いが多い
欲望を満たしていればそれは一時的に煩悩は静まるだろう
そうではなくて煩悩が満たせない、食べれない、性欲満たせない
そういう状況でも煩悩が出ず苦しみが生じないかどうか
戒律がある状況で苦しみが生じないかどうかですな
ま、サウナでボーっとして半年のこの人は
まったくダメでしょう ヒマラヤで一生修行にあけくれても
家族のことを気にしてる人もいるという。
時間も必要だけど、悟れない人は悟れない。
瞑想にしても、欲望の対象を分析し捨断するものじゃないと煩悩はなくならないと思う。
ただ座って、思いを離れる瞑想だけしている人は、煩悩まみれのままです。
因縁果氏は、空について瞑想しているようだが
空についての理解は正しいと思う。
それは続けた方がいいんじゃないか。 先ず自分の欲望について空である、一切影響される必要のないものであるという
自分自身の欲望を捨て、戒律を守るところから出来なければ
その空の理解は偽者、無駄でしょう
> ヒマラヤで一生修行にあけくれても
> 家族のことを気にしてる人もいるという。
> 時間も必要だけど、悟れない人は悟れない。
> 瞑想にしても、欲望の対象を分析し捨断するものじゃないと煩悩はなくならないと思う。
> ただ座って、思いを離れる瞑想だけしている人は、煩悩まみれのままです。
自分の欲望を空と見る事ができないなら
あなたの言っているこの通りでしょう >>988
戒律守るのは、智慧の修行になりますからね。
自称大悟の破戒僧・川上雪坦は
酒飲みまくり、女にちょっかい掛けまくりだったが
彼も大悟したことになっている。
性欲や飲酒の戒さえ守れないのは、無智をさらしているのと変わらない。 風呂に入って温まればボーッとする
しかし、ボーッとしたからってそれが定慮なのか?悟るのか?
ちょっと勘違いが酷すぎるんじゃないのか?
まぁ、精神病の人が冗談言ってるのを
目くじら立てる方がどうかという話もあるが。 サウナでボーだけじゃないんだよな・・
その後が大事^^
水風呂で頭と体を冷やすんだよ・・
そうすると・・
意識が飛ぶ^^
分子をサウナで激しく衝突させる・・
その後水風呂で分子の衝突を急激におさえる・・
そうなると・・
意識はどうなるか・・
意識が飛ぶんだよね^^
そこで瞑想に入る・・^^
すでに体の感覚がなくなり・・
意識も湧き出てこない・・
これがどのような状態か・・
体験すればよくわかる^^
通常の状態から瞑想に入るとはわけが違う・・
命がけなんだよな・・
非思量瞑想は・・
頭を冷やしすぎるとほんとうに意識がなくなる・・
すなわち・・
そういうことだ^^
おまいらみたいにただ座っているとは
わけがちがう・・
命がけの分その境地はここちよいんだよね^^ てなことで・・
あとは・・
「膜妄想」てなことで^^
帰るとするかな^^ 何度の湯に何分入って
水に何分入るんだ?
50度の風呂に15分入って水に入るなんて
オウムが20年前にやってるわ あっ35年でどこら辺にいるのかな・・
1・空無辺処(くうむへんしょ)
2・識無辺処(しきむへんしょ)
3・無所有処(むしょうしょ)
4・非想非非想処(ひそう-ひひそう-しょ)
ひまだったら書いておいてね^^
番号でいいから^^
まさか6番の石なんてことになったら
びっくりするけど^^ あれ・・オウムわかってんじゃん・・^^
サウナでいいのにお湯なんて・・
無理すんなよ^^ 本とは120度のサウナがいいだけど・・
80度で我慢する・・
水風呂は深いほうがいい・・
冷たいからね・・
15度くらいかな?
見たことないけど^^
入るのは2分ぐらいかな・・
3.4回もぐっている・・
限界までやると危険がともなう^^ うわっ・・^^
やりすぎたか・・
石になっちゃったのか^^
だから危険を伴うって^^
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