新しい宗教の誕生 [無断転載禁止]©2ch.net
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21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。要するに、タクシーで新宿にいってくれというやつを勝手に渋谷にいき正当化してごまかしてくるようなモン。
こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
会社ぐるみでやってる可能性が高い。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、
しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、
福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、
ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 44.
人間を否定したものが宗教である。
宗教は道徳、倫理ではない。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、
しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、
福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、
ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もb、一度言いますbェ、「何でも相鋳k屋」ではなくbト「相談しなくbトも自分で解決bナきる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、
しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、
福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、
ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 >>64
『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。
双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 資本主義、共産主義と言うのは、経済学の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 102.
神に祈る必要がなくなる、か。
それは人間が人間をやめたとき、である。
いつまで人間をやっているのか、の問題である。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 104.
精神的な指導原理となる、か。
そんなことはない。
なんでか。
それは、人間の生きる意味を教えるものではないからである。
それは人生の指針を与えるものではないからである。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? 106.
法則の解明、か。
それは宗教ではないことになる。
それは科学であることになる。
その科学者になりたいのか。 (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 108.
法則性がある、か。
それを信じる者を法則バカと言う。
そのバカについて行くと、どうなるのか。
法則バカにはなれるが。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 >>133
> 何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。
無茶な結論に誘導してますよ。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 あなた自身が小京都は、問われていることに、答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを求められているのだが、答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
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読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
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https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
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https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
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https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 はぁー、インド独立のときの争乱、現在までも続くパキスタンとの対立は何なんでしょうね? 道を外から眺めて真似てみても何の意味もないんだよ。 道を通った人の意見はあくまで参考程度のもの。
悟りを開くとは自灯明に他ならない。 193 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2016/08/17(水) 00:27:27.03 ID:ZZYQDDAE [1/3]
はぁー、インド独立のときの争乱、現在までも続くパキスタンとの対立は何なんでしょうね?
194 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2016/08/17(水) 00:29:16.65 ID:ZZYQDDAE [2/3]
人類の存在は善ですか悪ですか?
197 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2016/08/17(水) 00:42:44.80 ID:ZZYQDDAE [3/3]
半径2mの真実 無論、皮肉だよw 」
イギリスの植民地であったインドが、ガンジーの無抵抗主義の独立運動の結果、独立したんだ。
だけど、イギリス支配と言う「フタ」取っ払われた結果、次の段階であるヒンドゥーの差異を全て飲み込んでいく寛容性と一神教が故のイスラムの非寛容性との戦いが表面化していった。
結果として、パキスタン、インド、バングラデシュ、とインドは三つに分かれることになる。
高校の世界史の教科書の再読をして、疑問を書き込むべきかどうか、判断をしてから、がよかったね。 挙げ句のはてに両国とも核兵器保有国になってしまった。 自由を得る為の 国家を守る為の 平和維持の為の 戦闘部隊の善悪 - -; 200 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2016/08/17(水) 09:56:42.21 ID:BpXMqagU [1/2]
> 挙げ句のはてにインド、パキスタンの両国とも核兵器保有国になってしまった。 宗教は理念でありイデオロギーである。 』
アメリカ以外にも核保有国が続々と増えていったよね。
インドは中国に対抗するために、核を持った。
インドが核保有国になったことで、パキスタンの軍事力は相対的に無力となった。
そこで、パキスタンも核開発していった、北朝鮮の核の技術を輸入することによって。
それは、北朝鮮による中国への敵対行為に外ならない。
このようにして、核保有の連鎖は国家の存続をかけた開発競争になっている。
あべちゃんは、アメリカの核にすり寄る方針だが、原子力発電所を持つ以上、核爆弾の材料の生産と保有は継続しているわけで、運搬手段のロケットも宇宙開発の名目で所持しているので、ただちに核保有国になろうと思えば、いつだってなれる。
中国がかっての大日本帝国の武力による支配の道を突っ走っていくのであれば、必ず、第3次世界戦争は避けがたい。
この中国と言う猫の首に誰が鈴をつけるのか。
民主主義が、解決の手段になりうる、と思う、民主化闘争の高まりが期待される。
中国に民主主義は無く、支配の基盤である共産党軍事政権の基盤は、軍事独裁政権である。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?だいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 214.
法則の問題は科学の問題である。
その法則に支配されないものが宗教であることになる。
それは法則馬鹿の言うことである。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ&list=RDEB-bYJoqvQQ#t=7 また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ&list=RDEB-bYJoqvQQ#t=7 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 [優良株でとにかく高配当] ランキング(データ日付:2016/08/23)
コード 会社名 市場 株価 前日比 単位 PER 時価総額(百万円) 配当利回り(%) 売上高変化率(%) 75日乖離率(%) 60日ボラティリティ EV/EBITDA
6444 サンデンホールディングス 東証一部 281.0 -7.0 1000 5.6 39,433 5.34 1.96 -10.48 50.85 6.34
8074 ユアサ商事 東証一部 1,993.0 -38.0 100 6.2 46,150 4.77 1.12 -11.37 33.07 1.52
5021 コスモエネルギーホールディングス 東証一部 1,097.0 -65.0 100 2.0 92,993 4.56 12.28 -15.20 35.08 7.10
6379 新興プランテック 東証一部 702.0 -9.0 100 9.9 32,510 4.27 3.92 -10.73 32.77 2.20
8890 レーサム JASDAQスタンダード 641.0 +7.0 100 4.9 29,538 4.21 31.51 -13.59 47.03 5.00
5020 JXホールディングス 東証一部 383.4 -9.4 100 7.7 956,769 4.17 0.71 -5.58 26.68 5.98
1916 日成ビルド工業 東証一部 448.0 -2.0 1000 8.9 31,859 4.02 35.07 -14.65 39.95 6.02
6651 日東工業 東一 1,255.0 -78.0 100 8.2 53,965 3.98 4.18 -11.30 36.58 2.92
7844 マーベラス 東証一部 754.0 -3.0 100 9.7 40,409 3.98 6.85 -11.56 49.13 4.52
9201 日本航空 東証一部 3,018.0 +43.0 100 5.7 1,094,641 3.98 0.47 -11.80 33.62 2.57
8098 稲畑産業 東証一部 915.0 -19.0 100 6.5 58,102 3.93 2.25 -9.62 33.78 6.63
1954 日本工営 東証一部 383.0 +8.0 1000 9.2 33,189 3.92 28.26 12.56 47.68 5.13
8860 フジ住宅 東証一部 664.0 +1.0 100 6.8 24,468 3.92 6.14 -2.35 20.67 11.61
8473 SBIホールディングス 東証一部 1,153.0 -15.0 100 6.5 258,920 3.90 3.15 3.95 39.22 3.59
8051 山善 東証一部 778.0 -9.0 100 8.4 73,008 3.86 2.73 -8.45 38.54 1.25
6470 大豊工業 東証一部 1,080.0 -14.0 100 8.0 31,152 3.70 1.60 -4.22 41.78 2.78
9991 ジェコス 東証一部 822.0 -2.0 100 5.5 29,950 3.65 8.05 -17.64 32.43 4.22
4208 宇部興産 東証一部 174.0 0.0 1000 9.2 184,788 3.45 2.06 -4.81 34.30 5.06
4061 デンカ 東証一部 407.0 -3.0 1000 9.2 189,643 3.44 1.39 -8.01 35.91 5.84
7012 川崎重工業 東証一部 292.0 -7.0 1000 10.0 487,875 3.42 1.88 -3.32 50.58 7.02
4975 JCU 東証一部 3,585.0 +45.0 100 7.9 25,291 3.35 2.43 7.76 28.90 3.59 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 キリスト教プラトニズムとか完全に根拠のない賭けみたいなものですね 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ&list=RDEB-bYJoqvQQ#t=7
Indian Background Flute Music - 3:01:43
https://www.youtube.com/watch?v=J65GxJ2v9Wg もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 天に撒く義の種 実は天になる
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
天になるごとく 地にも成させたまえ
悟りや出家は個人的なことではないのである。
元服しろよ。元服とは政治に参加する大人になるということである。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ&list=RDEB-bYJoqvQQ#t=7
Indian Background Flute Music - 3:01:43
https://www.youtube.com/watch?v=J65GxJ2v9Wg また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 ^ 1:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ&list=RDEB-bYJoqvQQ#t=7
Indian Background Flute Music - 3:01:43
https://www.youtube.com/watch?v=J65GxJ2v9Wg あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? あなた自身が宗教とは何かと言う答えを出せていない、という事を認識していただかなければなりませんね。
2000年間こねくり回してきた神学論争ではらちがあきませんよ。
資本主義、共産主義と言うのは、経済制度の事です。
政治の権力者の在り方は、人間のなす業(ごう)です。
宗教とのかかわりは有りません。
全く意味をなさない同じことの繰り返し、コピペなのでしょうか。
そういう事って、どうなんでしょうか、それって許されるのでしょうかねー
独自の視点など一切なく、他へのケチ付けと、テレビ等での即席雑学、どうしましたか?そういう事でだいじょうぶですか?
あなたの言ってることは、単なる学校で教える知識、社会常識、雑学のコピペです,いわゆる、、お勉強のたぐいです。
それが何か宗教とでも言いたいのでしょうか、宗教ではありません、無意味であり、無価値、ですよね。
売り上げ低迷の週刊誌の売り上げを伸ばす事に必死こいた週刊誌経営者のようです、あせってますね。
読者をひっかけるガセネタ作りに精を出していますね。
わたしは 宗教の話しをしましょうよ、と言ってるだけです。双方向の会話のやり取りが可能であるならば、ですが。
あなたとの会話を続けるには、あなたによる、独白、あなたのひとり芝居、自問自答、自作自演以外での会話の形式は無いのでしょうか。
人間は社会関係性の中の存在である、とはよく聞きます。
その範疇には属せず、社会関係性のラチガイにあります。
よく言っても会話不能の人、耳が無いか、鼓膜が破れて聞く能力が無い、そのような人なのでしょうか。
あなたのまったく無価値のよもやまばなしのあれやこれや、宗教とは無関係の話題ではありません。
わたしがお尋ねしていることは、あなたが言う宗教とはどんなものですか!? という事ですよ。
最近40代のヒッキーさん達の就活が話題に上りますよね、あなたはどうですか?ヒッキーから脱しようと、就活に頑張ってますよね。
本を出されて売り上げ倍増しているのだとか、集金行為、物販、商行為は、膨大な利益を得ているのです。
税の当局への許可申請、認可申請 及び収支報告をお願いします。 『ダンマ・パダ』v.1−6
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出され る。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、しみはその人につき従う。
車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 [V-1]
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 [V-2]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 [V-3]
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。 [V-4]
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨み の息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 [V-5]
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 [V-6]
(中 村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
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https://www.youtube.com/watch?v=bbejd7WA5kA
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - 36:05
https://www.youtube.com/watch?v=lAkYcQgWnpQ
ミックスリスト - ゴスペル風「般若心経」つのだひろ - 他50本の動画
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Indian Background Flute Music - 3:01:43
https://www.youtube.com/watch?v=J65GxJ2v9Wg また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「反保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 (問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 (問)儒教は善悪があるという教え。 老荘は善悪は相対的だから、善悪なんかない。
自分たちに善があると思うから、正義と正義の戦いになるから、善悪なんかないんですよと。
儒教といっても、いろいろですね。
孔子以前の儒教は、歴史・学問・書などを学び、堯・舜などの古の聖王の道に学ぶというようなものです。
孔子は礼という君臣の秩序・しきたりを重視し、君子は道徳をもって政治統治を行うべきと説きました。
そして仁(他人への優しさ)や恕(真心)を説きました。そして学問を奨励しました。
孟子は、戦国時代に義(正しさ)を説きました。そして人間には生まれつき「惻隠」、「羞悪」、「辞譲」、
「是非」の心が備わっていると説きました。それが生まれた後の学問修養により仁義礼智につながるのだとね。
荀子は、これとは逆に、人間の本性は生まれつき悪であるから、礼によって教育しなければならず、
先王の道に従うことが政治の道だと言いました。
朱子は理という一種の観念論を説き、王陽明はこれとは逆に「知行合一」という実行を重んじる立場を取りました。
以上を総合すると、孟子に限定すれば、儒教は善悪を説いたとも言えますが、
後段の正義と正義の戦いには儒教はつながらないと思います。
むしろ儒教は科挙などの役人の試験科目になり、政治との癒着・腐敗の原因になったということが指摘できます。
君臣の秩序や礼のしきたり、忠孝の道徳は、皇帝の専制政治を補強する理論にもなったでしょう。
その腐敗と停滞が西洋列強に侵略・半植民地化される原因になりました。 老荘思想は、善悪は相対的だから、善悪はない、というのも精確ではありません。
老子が説いたのは、「無為自然」の「道」に従い、人為的な計らいや権力を求めての争い
を避けて、水のように固定的なこだわりを持たずに流れるように自由な精神を持つということです。
足ることを知り、他人と争わず、無心・無欲で柔軟で朴訥で控えめで謙虚に生き、
したたかな処世哲学で生きていくことを説くものです。
道というのは万物の根源で、宇宙の森羅万象の元であり、その道に従って無欲に
無為自然に生きるということが徳であるという教えです。
よって、多くは、森林や人里離れた土地に隠遁し、世捨て人のように生きる、
あるいは、政治的立身出世ではなく、権力から遠ざかり、竹林で賢人同士が集まって
少数社会を形成するという方向に行ったようです。
あなたがいう自分に善があるから、正義と正義の戦いになるというのは、
キリスト教とイスラム教の戦い、あるいは東西文明の衝突たる世界大戦のことではないですか?
少なくとも日本・中国・インドなど東洋で宗教戦争は起きていないですよ。 21世紀が明けてすでに10年以上が経ちました。20世紀以来のサイエンスとテクノロジーの進歩、
経済の発達は、人類の物質面での生活を著しく豊かに便利にしてきたことは多くの人が指摘する
とおりです。一方、人間の精神の中心ともいえる宗教についてはどうでしょうか?
2000年以上前の仏教・キリスト教、1400年前のイスラム教などの伝統宗教が形骸化し、現代のテクノロジー
の発達から乖離する一方、数多くの新興宗教が信者から金銭と財産を収奪し、社会問題となっています。
このような状況に鑑み、私はここに新しい第4の宗教を創始しようと考えます。
開祖=私
教典=私の書いた著作(すでに完成)
私はここに盛大な祭祀を起こし、世界文明の指導原理となる新しい宗教を創始します。
伝統宗教に満足できない人、新興宗教で奪われ続けている人、物質生活に物足りなさを感じ、
精神的な指導原理を求めている人、私の提供する学びの場に参加してみませんか?
私の創始する宗教の会員となって、新しい世界文明を創始していきましょう。
※関東地方のお住まいの方。もしくは関東地方に継続的に通うことが可能な方。
初期メンバーは、このような方を想定しております。 人間はなぜ生きるのか。
人間はどこから来て、どこへ向かうのか。
人間世界にはなぜ悪が存在するのか。
善悪の彼岸と人間の業、人間存在の根本、そして、2度の世界大戦はなぜ起きたのか。
人間の直面する苦しみと苦悩、その解決と救済はあるのか。
このような問題について、基礎から学んでみませんか。
哲学、文学、宗教、あらゆる角度から人間について考えてみませんか。
人間はいかに生きるべきか。人生の指針をもう一度学びなおしてみましょう。 宗教というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
狂信、妄信、洗脳、お金や財産を取られる、人生が狂う、教祖が超能力で宙に浮かぶ、
教祖が書いた本を強制的に買わされて嘘のベストセラーに協力させられる…etc
どれも否定的な負のイメージばかりですね。
私も「新興宗教」と呼ばれるものについては、皆さんと同じイメージを抱いています。
それは正しいでしょう。
一方、伝統宗教と呼ばれるものも、念仏や題目を唱える、座禅をする、葬式と墓の管理をして
高い戒名を売る。江戸時代の檀家制度そのままの形骸化した仏教でしょうか。そこで
「人間はなぜ生きるのか」、「人生はいかに生きるべきか」、そんな質問をしたら、怪訝な顔をされて
不審がられるだけですね。まともな答えは返ってこないでしょう。
科学が進歩して、物質文明は発達し、経済的に豊かとなり、長寿健康な世の中となると
人間は宗教を必要としなくなりました。旱魃も飢饉も貧困もなくなり、人間は神に祈る必要がなくなってきたのです。 もう少し広い文脈で言うと、宗教とは「文明の基本原理」であるのです。
東洋文明は仏教の文明ともいえるでしょう。仏教という宗教によって国家の
災厄を除き、安定を願う「鎮護国家」の思想に基づいて国が統治され、宗祖たちが
それぞれの宗派の教えを大衆に説き、仏像や寺院が建立され、美術や芸術も生み出されていく。
西洋文明はいうまでもなくキリスト教文明です。キリスト教を中心にスコラ哲学や
ルネサンスの芸術が生まれ、「天地創造」や「最後の審判」、「受胎告知」、聖母子画、
「最後の晩餐」などの絵画が描かれ、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、バニヤンの
『天路歴程』などの文学が生まれたわけです。中東の文明はイスラム教文明です。イブン・シーナーや
イブン・ルシュドの哲学、代数学・幾何学が研究され、美しいイスラム建築が栄えたわけです。
しかし、これらの伝統宗教もそろそろ寿命を迎えました。その理由はテクノロジーの発達した
世界全体に広がる現代の科学文明を支える基本原理としての機能を果たせなくなっているからです。
これらの伝統宗教は使命を終え、私の創始する「大統一理論」に吸収され、統合されていく運命にあります。
今ここに誕生した新しい「大統一理論」が東洋文明・西洋文明・中東文明を融和し、新しい
「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理となるのです。それこそが
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の対立を乗り越え、世界平和へと向かう人類の救済理論となるのです。
そして、サイエンスとテクノロジーの時代に、人間の生きる意味を教え、人生の指針を与える
精神的な指導原理となるのです。 現在、物理学では、ニュートン以来の古典力学から、量子力学、特殊相対性理論、
一般相対性理論、素粒子物理、宇宙物理にいたるまで、統一的に説明できる「大統一理論」の
構築が進められています。数学も数論・代数学・幾何学・解析学・確率統計学などの
統一的な理論の模索が進められています。私が提唱するのは、宗教を統一的に総合する
巨大理論の構築により、東洋文明・西洋文明・中東文明を含めた包括的な「世界文明」の
基礎原理となるすべての法則の大統一理論の構築なのです。それはまた、宗教の教えの中に
サイエンスとテクノロジー、経済学、法学、政治理論などの物質世界の法則を包含し、
人間存在がどこから来て、どこへ向かうのかまで、明快に説明するかつてない試みであるのです。
世界文明の基礎原理としてのあらゆる法則性の解明。それこそがまさしく私の提唱する理論の
本質であるのです。この教えの完成と普及こそが、まさに世界恒久平和を実現する人類の進歩の
大団円でもあるのです。それは宇宙の運動法則の解明でもあり、人間の生きるべき指針と指導原理ともなるのです。
人間の生きるべき道、守るべき規範を、あなたも基礎から学んでみませんか? 【熱烈信者の無念】幸福の科学の植福を考えるS・・・信者の怒り
http://ninnninnninnjyatai.livedoor.biz/archives/8027589.html
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/08/blog-post_22.html
不信を招いた過去世問題
教祖が大救世主にして仏陀であるエル・カンターレであると信じるからこそ、信者は進んで布施をしてきました。
しかし、これが騙しのテクニックだったことが明らかになった時には、施者には無念の思いだけが残ります。
次の元信者の発言は、多くの方の気持ちを代弁していると思います。
<今まできょう子氏に対してなされた布施は、大川氏が彼女を文殊や女神アフロディーテの生まれ変わりであると言ったことに基づいてなされた布施であり、その説を変えた今は布施の根拠をすでに失っています。
しかし、大川氏は突然今までと違うことを言いだしたことを、私たち信者に誠実に説明、謝罪することをせず、むしろ過去世の認定はまだ本当はやっていなかった、としてうやむやにしました。
そして前妻は悪魔だったと衛星放送で妻の悪口を全信者に向けて言いました。
私はそれまで大川氏を救世主だと信じ、お金、お金の活動も耐えてやってきました。
しかし、大川氏が信者に女神だとして敬わせてきた妻に対するあまりにひどい仕打ちに、私は大きなショックを受けました。
これを「神のおっしゃる事だから本当のことである。人間心で判断せずに、主について行こう。」と思うことはとてもできませんでした。
「家庭ユートピア」は名ばかりで、教えを説いた教祖自身がそもそもそれを実現できなかったのだな、と私は失望しましたが、この本音も支部の仲間にはとても言えず、とても苦しい思いをしました。>
教祖と教団を信じて布施してきた方の善意が傷つけられ、それに対して何ら謝罪がなされていないことに対して、私は元職員として本当に申し訳なく思います。
騙され欺かれていたことを知った信者は、ご家族に申し訳なく思い、布施を勧めた人に申し訳なく思い、自分自身を責めていると思います。
今は教団を信じている人も、真実に目覚めれば、次に来るのは怒りですが、その次にくるのは罪悪感や自責の念だと思います。 (問)宗教とはもっと根源的な問題を扱います。 貴方のはやはり宗教ではなく何でも相談屋です。
(答)何でもできないと現代では逆に困るでしょう。
私が提唱しているのは「すべての物事に共通する普遍的な原理であり、文明の基礎となる
大統一理論」です。
これを学ぶことにより、「誰かに相談するのではなく、自分ですべての物事を解決できるようになる」のです。
つまり、すべてには「法則性」があるのです。
自然界に存在する力は「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」の4つですが、
これは元々、一つの力でした。ビッグバンから10のマイナス44乗秒後に10の37乗度という超高温・超高圧の高エネルギー状態の時に
「弱い力」から「重力」が分かれ出ました。10のマイナス36乗秒後には10の28乗度まで温度が下がり、「弱い力」から「強い力」が
分かれ出ました。10のマイナス11乗秒後には10の16乗度まで温度が下がり「弱い力」から「電磁気力」が
生まれたわけです。ほんの一瞬の出来事ですが、遡れば力は統一されるのです。
さて、この出来事は聖書・仏典・古事記・コーランにはどのように書いてあるでしょうか?
残念ながら書いていません。つまりキリスト教も仏教もイスラム教も自然科学や資本主義経済、テクノロジーを説明できていないのです。
数学や物理学・化学・工学・医学も包含した「統一的な指導原理」ではないからです。
それでは「新しい世界文明の統一的な指導原理」にはなれません。
人類が東洋・西洋・中東という文明圏の枠を超えるには「新しい乗り物」に乗り換えなければなりません。
中古車を下取りに出して新車を買い替えなければなりません。
もう一度言いますが、「何でも相談屋」ではなくて「相談しなくても自分で解決できる方法」を
教えるところです。「大学」のようなところだと考えても言いでしょう。
しかし相談しなくてもいいレベルにはなるには「教師」と「テキスト」がいるでしょう。
「教師役」が「私」で、「テキスト」が「経典」です。そして、ここで募集しているのは「生徒役」になる人です。
別に怖くはありません。出るも自由。入るも自由。興味があれば入学し、合わないと思ったら退学すればいいだけです。 >>381
気持ち悪い犯罪カルトの問題は当該カルトのスレでやってください。
逮捕者続出のカルトと一緒にされると迷惑千万です。 (問)カネのないメンヘラが集う場所が宗教だからな。いくら新しい宗教作ってもメンヘラが
長くい続ける場所は社会には存在しない。それが真理。
(答)まあ、一つのたとえとして、「大学」、「学校」という表現を使いました。
もう一つのたとえを使うならば、「休憩所」、「休息場所」といっても良いでしょう。
人生は山登りのように、つらい、疲れる、大変なことなのです。
そこで、荷物を下ろして休む「休憩所」のようなところが必要になるわけです。
弱肉強食の競争社会で敗れた人、負けた人、はじき出された人、疲れて苦しんでいる人。
そういう人が休む「休憩所」のようなところだと思ってください。
金銭だけがすべてではありません。
必要のない人などいないのです。
誰もが差別されず、平等な場所です。 (問)「大統一理論」を教えてほしい
(答)大統一理論とは、簡単にいえば、
人間存在の運動法則+自然の運動法則+経済の運動法則+法律・政治の運動法則
のようなものです。
人間存在の運動法則=宗教
自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらすべてを統一的に統合する理論のことです。 私が言っているのはこういうことです。
人間は平均で70年か80年、長くても100年しか生きられない。
つまり人間は生から死へ移行する存在です。
そのときに、生から死へ移行するときに、「魂の安全な乗り物」として「宗教」を考えるわけです。
つまり、人間にとって最も大切な「魂」が悪であるとか不正であるとかに汚されずに、
善と正義に満たされて、こちらの岸(物質の世界)からあちらの岸(霊界)にまで安全に渡る「乗り物」として宗教を考えるわけです。
この「乗り物」のことを「原理」と呼んでいるのです。この「原理」の中心は
魂の善悪についての宗教的な原理ですが、それだけではありません。つまり産業革命以来、サイエンスとテクノロジーが進歩するとともに、
帝国主義により西洋諸国がアジア・アフリカを植民地支配しました。2度の世界大戦もありました。
ソビエト・中国で共産主義が広がり、今もそれは残っています。
そのような時代に「善悪」とは一体、何でしょうか?つまり外国に侵略されて土地を奪われたり、
植民地支配されたり、戦争で人が殺されたりするときに、どうやって善悪を守るか、という問題があるのです。
だからこそ、
@人間存在の運動法則=宗教
A自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
B経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
C法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
を統一的に説明する「世界文明の基本原理」として世界人類70億人の指導原理が必要なのです。
それを説いているのは、世界70億人で私1人です。 (問)聖書類には、テクノロジーの事などバカらしくて書いてないだけです。
宗教とは、社会問題ではなく、心魂の問題です
(答)ここに書いてあることの文脈を見れば結論は明らかになるでしょう。
つまり、帝国主義的な植民地支配、あるいは、侵略戦争というものが現に存在します。
つまり軍事力によって悪い国が善良な国を侵略し、力によって永続的に支配し、資源やエネルギー、
土地や人を収奪し、悪逆の限りを尽くすということです。
宗教というものが善悪の原理である以上、こうした悪について明確な答えを用意できないということは
明らかに欠陥です。
ではそうした明らかな国力の格差をつくり出すのはどのような要素でしょうか?
@経済力、A自然科学とテクノロジー、B政治力・軍事力、C法律・制度の近代性
以上のようなものです。
だから、「宗教という魂の善悪の原理」を中心にして、その上さらに
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
をも併せ持った総合的な理論を構築する必要があるのです。
そうした「一つの原理」「一つの法則」があれば、戦争や侵略、植民地支配のような
大きな悪を未然に防ぐことになるのです。
魂の善悪と国家の善悪を両方維持する理論が必要なのです。
そこまで考えて初めて善悪は完結します。
悪をなしてはならない。
悪をなさしめてもならない。
こうした考え方に基づいているのです。 問)宗教の問題が絡んだとしてもあなたのおっしゃる様な問題は、まさに政治の問題では無いかと
思うのです。政教分離です。これは政治だけの問題です。新しい宗教なんて要らない。ほしくない。
(答)私の説く法則・原理が総合的といっても、私は政教一致を説いているわけではありません。
私が説いているのは、「政教分離」です。
というのは、政教一致だと特定の宗教が政権を取った場合に他の宗教を弾圧する可能性があるからです。
そのため、近代的な法律システムはみな「政教分離」の原則に従っています。
私は宗教もまた民主的なルールに従うべきであると考えます。
人がどの宗教を信じるかは基本的に個人の自由である。
その結果、より善い宗教が多くの人の評価を得て、より栄える。
金銭を巻き上げるような悪い宗教は人が離れていく。
それでよいと思います。
あなたが経済や政治を世俗の問題と捉え、つまらない瑣末事と考えるのも無理はないでしょう。
以下の問題
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
これらは、私の言う「国家間の善悪」を左右する要素です。もちろん、本来は
それぞれの専門家がやるべき仕事です。しかし、「魂の善悪」という宗教を中心に
これらの要素を適切に取り入れ、それぞれにふさわしい位置を与えることで
無用な悪を減らせることができるのです。侵略戦争や植民地支配によりもたらされる害悪は
巨大で取り返しがつきません。それらを未然に防ぐのが上記の@ABの理論です。
いわば「総合理論」です。 もう少し、わかりやすく、端的に言うと、こういうことなのです。
18世紀にイギリスで産業革命が起きました。これにより、近代工業国とそれ以前の
農業に基礎を置く国家には、明らかな「国力差」が生まれました。
その結果どうなったかというと、西洋的な近代国家=欧米列強はアジア・アフリカを
侵略し、植民地支配しました。日本は江戸時代まで農業に基礎を置く国家でしたが、
明治以降、西洋的な近代国家になりました。
近代国家とそれ以前の国家は何を原因として国力の圧倒的な格差ができたのでしょうか?
それこそ、まさに、以下の要素、
@自然の運動法則=自然科学・テクノロジー
A経済の運動法則=資本主義経済の法則性とあるべき姿
B法律・政治の運動法則=基本的人権と自由民主主義のあるべき姿
であったのです。つまり、近代的な憲法と法律システム、議会制民主主義という政治システム、
資本主義経済による経済的豊かさ、サイエンスとテクノロジー、これのものが一体となって
圧倒的な国力の格差をつくっていたのです。圧倒的な国力差があると人間も国家も悪いことを企むものです。
その結果、強い国が弱い国を支配する帝国主義が蔓延りました。自己の運命を他人に委ねることほど
危険なことはありません。つまり、上記@ABの理論を持つことで、他の国から侵略されたりすることを防ぐのです。
そうすると、侵略戦争や植民地支配というものはなくなります。そうすると、悪いことをしようとする人や国が存在しても
実質的に悪いことをすることは不可能になります。そうすると、この「総合理論」は悪いことを未然に防ぐ
統一的な理論、「魂の善悪」と「国家間の善悪」を統一的に説明する唯一の理論、世界平和をもたらす「世界文明の指導原理」ともなるわけです。 (問)でしたら、今世界にはびこってる大きな悪を善に変革し、証明して見せてください。
(答)歴史を見れば、その答えがわかるでしょう。
人間の文明というものは、少しずつではありますが、前進しているはずです。
2000年前には地球の人口は3億人でした。西暦1600年頃は6億人くらいです。
しかしイギリス産業革命から人口は急速に増えはじめ、20世紀初頭には18億人、
現在では70億人も生きています。身分制社会から近代革命が起きて市民制社会、
民主主義社会になりました。その間、法律というものが発達しました。「基本的人権」という
非常に大事な概念が生まれました。これにより不当に逮捕投獄されたり、裁判も証拠もなしに死刑にされたり
することがなくなりました。思想・学問・言論・出版・報道の自由や信教の自由、居住移転の自由、
職業選択の自由、法の下の平等など、すべての人間にとって守られるべき人権が確立しました。
共産主義国家や独裁国家を除いてね。
資本主義経済により人類は豊かになり、科学技術によってあらゆるものが自動化されて便利な世の中になりました。
これは進歩と言ってよいでしょう。
しかし、精神的には一進一退、あるいは、堕落や頽廃も生まれてきていることは事実です。 あなたのおっしゃる蔓延る悪とは何でしょうか?
イスラム国やテロリストか?北朝鮮か?中国共産党か?
いずれにしても人間の善悪は人間の心から生まれます。あなたとは何かというと、あなたの心で考えていること、
口から出た言葉、身体によって行為されたこと、その一つ一つの蓄積されたものが、「あなた自身」です。
あなたが善い思い・善い言葉・善い行為をなせば、あなたは善人です。
あなたが悪い思い・悪い言葉・悪い行為をなせば、あなたは悪人になります。
基本的には、世の中にある悪を変革するのは、優先順位からすれば後の事になります。
まず、人間にとって為すべきは、自分自身が善い人間となることです。
その上で世の中や社会が善くなるように変革することはよいでしょう。
しかし、あなた自身が悪い思いで満ち、悪い言葉を語り、悪い行為をしていながら、
世に蔓延る悪を変革しようとしても本末転倒になってしまいます。
私は個人の魂の善悪から始まり、国家の善悪、世界の向かうべき方向性までも説いていますが、
それを実現していくのは長い時間をかけて100年、300年、500年、1000年、数千年という
長い道のりになります。その中で一進一退、栄枯盛衰、前進もあれば失敗もあるでしょう。
しかし、第一義的には、善悪というのは、個人の魂の問題です。 自然科学者や脳科学者は人間の精神や心、魂というのは脳の中にある神経細胞、
ニューロン、1兆個のグリア細胞が電気信号的に反応して思考が成立すると考えている
ことでしょう。そして神や霊魂というのは古代の迷信であり、未開の社会の迷妄か何かのように
笑い飛ばすかもしれません。しかし左にあらず。
人間が為した行為の集積というのは、唯の一つもなくなりはせずに、一つ残らずが支払い続けるか、
報酬を受けるかするまで、その影響は残り続けるのです。
それというのも、宇宙の主宰者である神は、善悪を統括する法則性となって働き続けているので
善い魂は神聖な特別な場所に移され、悪い魂は地下深くの暗い世界へ行き、似た者が似た者に対して
為すのがふさわしいことを、相手から為されたり、相手に為したりするからです。
あなたがどんなに小さくなって地の底の深くに隠れようとしても、どんなに空高く飛び上がって
神の裁きの手を逃れようとしても、あなたが為した行為に相応しい償いを一つ残らず支払い終えるまでは、
神の裁きがあなたの為した行為を忘れることはないのです。
社会や世の中の変革といっても、こうした事実を無視しては何の意味もなくなるのです。
第一に重要なことは、「個人の魂の善悪」の問題なのです。 くどいようですが、あなたとは何かというと、あなたが心で考えたこと、
口から出した言葉、身体によって行為したこと、このすべての集積があなた自身です。
その一つ一つが善か、悪か、という2つの類型に分けられ、一つ残らずが
少しの狂いもなく記録されて、そのすべての集積が「あなたの存在そのもの」になります。
あなたの生まれた家柄、受けた教育の程度、学問の有無、職業・地位・年収・財産、
名誉などというのは、あなたが死ぬと同時に「あなた自身の存在」から切り離されて
分離されます。というよりも、生きているときから「あなた自身の存在」(魂)と、
あなたの現世における属性は、別個のものであったのです。
しかし、往々にして、人間は、「現世における属性」の方を自分自身だと思い込んでいるのです。
そういう人は、物質に引き寄せられた、重い、鈍重な性質が魂の中にしみ込んでしまい、
たとえ地位と名誉のある尊敬された人物と世の中で思われていたとしても、
残念ながら、死後には、地下の暗い世界に落ちて行き、苦しい思いをすることになります。
だから、まずは、あなた自身がそういう人間にならないことが第一義的に重要です。
あなた自身の存在は、あなた自身の思いと言葉と行為によって形成されます。
だから、善い心と言葉と行為を為すように心がけ、悪いことをしないようにすることが
第一義的為すべき事です。何が善で、何が悪を教えてくれるのは、私の書いた書物だけです。 (問)抽象論ですが、何がどうなる、と言うのでしょうか。
(答)宗教の基礎というのは、それほど変わりません。
人間の善悪というものを明らかにして、悪いことをなしてはならない、
善いことを為しなさい、あらゆる善の根源である神を信じなさい。
こういうことを教えます。
難しいのはこれからです。
善悪というのは何でしょうか?
これがわかる人がいないのです。
つまり状況が変わると、その都度、善悪を自分で判断しなければならなくなります。
歴史は一回性のものだとよく言いますね。アインマーリッヒカイトであると。
つまり、人間は誰でも、歴史の一回性に遭遇し、そこで善悪を判断する状況に置かれます。
はっきり言っておきますと、その一回性の状況で善悪を判断することは難しいですよ。
誰でも抽象的な善悪を理解することはできます。
しかし具体的な歴史的状況の中で善悪を判断し、実行することは難しいのです。 例えば、あなたが生きている世界は、こういう世界です。
ある人はこう言っています。「現代の文明は科学の文明である。文明の進化の
極にあるのは科学である。科学においては、物質のみが実在であり、実験で証明できるもののみが
科学的に存在するものである。したがって神とか霊魂とか科学で証明できないものは中世・古代の
人間が考え出した作り話であり、妄想である。霊魂などというものはない。
人間の精神とは脳の神経細胞とニューロン、シナプスが電気信号的に反応するものである。
1兆個のグリア細胞こそが心の正体である。人間は死ぬと無になる。よって、死後の世界とか、
善悪の応報であるとかは、昔話の迷信に過ぎない。」
これは無名の人物の話ではなく、現在も生きているイギリス王立科学協会の重鎮の実際の発言です。
また、キリスト教会に行くと、こう言うでしょう。「神は光あれ、と言って天地を創造した。大地も海も
高い山脈も動物も植物も人間も、神が7日間かけてつくったものである。宇宙の創造は7日間で終わった」と。
これは旧約聖書の創世記にそう書いてあるからです。
科学というのは16世紀頃から急速に発展し、地球が太陽の周りを回転しているということがわかりました。
また、リンゴが木から落ちるのと、月が地球の周りを回転するのは、基本的に同じ力が働くからだ、とわかってきました。
月が地球の周りを回転しているのに、宇宙の彼方へ飛んでいかないのは、遠心力と同じだけの
引力によって月が地球に引っ張られているからだとうのです。しかし、20世紀の初頭に地球の周囲の時空連続体が歪んでいて、
その歪みにそって月は動いているだけだ、という説明の仕方に変わりましたが、そこはまあ、よいとしましょう。
大事なことは、現代では、こういう意見が同時代に併存していることです。
あなたは何を真実と信じ、どのような原理に基づいて生きていきますか? また、あなたの隣りにある国は13億人の人口がありますが、この国は共産主義の国です。
マルクス主義というのは、資本家階級が労働者階級を搾取しているから、労働者は
暴力による革命を起こし、共産主義を実現しなければならない、と教えます。
共産主義は宗教はアヘンであると教え、毛沢東は文化大革命により共産主義思想にそぐわない
儒教・仏教を徹底的に破壊し、寺院は破壊され、チベットは侵略されて、多くのチベット仏教徒が
殺されました。中華人民共和国はチベット・ウイグルは中国の一部だと主張して
領土を手放すまいとしています。ところで、あなたは中国は沖縄も中国の一部だと言ってるのをご存知ですか?
そのうち、日本列島も中国の一部だと言い出すかもしれませんよ。ハワイから西は中国の領土で
ハワイから東はアメリカの領土である、と言い出しているのをご存知でしょうか?
その時に何が善悪になりますか?チベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は中国に侵略され、
寺院を破壊され、ダライ・ラマの肖像を持っていると逮捕され、拷問を受けたり、投獄されたりしていますよ。
その時に何が善悪になりますか?ただ仏に祈ることでしょうか?それで平和が維持できますか?
愛する家族を守れますか?それとも、近代的な価値観である基本的人権や民主主義、法治主義、
資本主義経済を守るために、自衛権を行使しますか?その自衛権は同じ価値観を共有する国同士が同盟して
集団的に行使すべきもではないですか?そうしたことを、あなたは仏教の寺や、キリスト教の教会で
質問して適確な答えが返ってくると思いますか?
そう考えると、私が考えるような「総合的な指導原理」が必要だと思いませんか? 端的に言えば、国力の格差、軍事力の格差が、圧倒的な悪を生み出してしまうのです。
歴史を見てみましょう。西洋諸国が400年以上、アジア・アフリカ・中南米を植民地として
支配していました。宗主国は植民地から搾取し、奴隷的に支配し、あらゆるもの奪い、
悪どいことをしました。では何が国力の差を生み出すのか。近代的な法律制度、民主政治、
資本主義経済、サイエンスやテクノロジーです。それにより兵器の質と量、その効率的な運用システム
に格差が生まれます。その圧倒的な格差は、善悪の応報システムを機能させないほどに
国家を動かしてしまいます。つまり強い国家が弱い国家を一方的に支配して、悪いことをしたら
仕返しされるというシステムを機能させなくするのです。その結果、強い国はずっと悪いことをし続けます。
帝国主義の時代はそういう時代でした。現代はどうでしょうか?中国という共産主義国家がありますね。
中国はチベット・ウイグルに侵略して宗教・文化の破壊・民族の浄化を行っています。
日本に攻めてきたら、どうしますか?チベット仏教の僧侶が仏に祈って助かりましたか?
ウイグルの民がイスラム教の神に祈って、何か変わりましたか?
善悪は守られましたか?善悪を守るためには、ただ魂が救われる教えを説くだけでは駄目なのです。
善悪を守り、維持するためのシステムをつくらないと、いつまでたっても、悪の支配は継続します。
悪をしてはならないとともに、他人に悪を為さしめてもならないのです。
侵略をしてもならないし、侵略を為さしめてもならないのです。
自国を守るためには、近代的な法律・政治制度、資本主義経済、テクノロジー、すべてが必要なのです。
それにより初めて善悪が守られます。 (問)指導原理って何ですか?それが、人間だけを指導するんでしょうか?
(答)多くの新興宗教では、教祖が神様で、それを崇め奉り、その結果、教祖が
すべての金と財産と女性を独占する、ミニ独裁国家、ミニ北朝鮮状態になっているでしょう。
だから世間一般から狂信妄信と非難され、狂気の世界と思われているのです。
実際、私から見ても狂気の世界としか言いようがない。
それらの教祖神様と、私の決定的な違いは、「法則性」あるいは「理法」というものがあって、
私自身もその法則性のもとにある、ということです。
というよりも、私とは関係なく、その「法則性」は宇宙の太初から存在しています。
私はただ、その「法則性」を発見しただけです。
この「法則性」は釈迦、キリスト、マホメットなどが発見した道、受けた啓示と基本的に
同一のものです。
ただ彼らはこの「法則性」の宗教的側面のみを見ていましたが、私はこの法則性の
哲学的側面・自然科学的側面・法律政治制度的側面・経済現象的側面・芸術的文学的側面も
すべて見ているという違いはありますが。
それはまあ、よいでしょう。
大切なことは、私自身もこの「法則性」(理法)に従って生き、それに反したときは
罰則(ペナルティー)を受けるので、そうしたことはできないということです。 人間だけを指導するというよりも、人間が存在するよりも、はるか以前に
その「法則性」(理法)は存在していました。
なぜなら、その法則性は神と呼ばれる宇宙の主宰者の属性のうち最も主要なものだからです。
時間よりも以前にその法則性が存在します。ゆえにこれを実在と呼ぶのです。
虚数の時間で進行するド・ジッター宇宙が量子トンネル効果によってポテンシャル障壁を乗り越えて
実数の時間の中に出現した時に、時間というものが宇宙に生じました。
その後、宇宙は坂を転がる雪だるまのように急激に大きくなり、インフレーションという
急膨張が起きました。これはヒッグス場において、偽真空からエネルギー障壁を乗り越えて真真空の状態(秩序)に
ポトリと落ちたのと一緒です。物理学者はこれを「真空の期待値が生じた」と言っています。
そのとき自発的対称性が破れて、ヒッグス粒子が生じました。これにより、高速で飛び回っていた陽子・中性子、電子などの素粒子は
ヒッグス場のプールに沈んだように、ヒッグス粒子に邪魔をされて、動きにくくなりました。
この「動きにくさ」こそが質量の正体にほかなりません。 さて、この宇宙の誕生から137億年以上が経過しましたが、現在の宇宙は膨張が減速しているでしょうか?否。むしろ加速しているのです。
加速している理由は宇宙の物質の70%を占めるダークエネルギーという真空のエネルギー(宇宙の斥力)によります。
しかし、その正体はまだわかっていません。したがって宇宙の未来もまだわかっていません。
もしダークエネルギーが減少したりするとどうなるか?空に投げ上げたボールがやがて落ちてくるように
物質の重力によって宇宙は収縮に転じ、銀河同士が衝突したり、合体したりします。そしてビッグバンの瞬間と同じように
特異点と呼ばれる超高温・超高エネルギーの一点に向かって潰れていき、灼熱の状態になって、
宇宙そのものが消滅します。これを専門家はビッグ・クランチといいますが、
さあ、その時、時間というものは存在しますか?時間は実在していたでしょうか?ビッグ・クランチが仮に137億年後に起きるとして
宇宙には274億年の時間は実在していたでしょうか?存在していないのです。時間というものは。初めからね。
つまり時間というものも、神が高度な目的のもののために創造した仮の形式なのです。
高度な目的とは何でしょうか。先程、あなたは法則性なるものは人間だけを指導するのか、と問いました。
基本的にはそうですよ。しかし、動物や植物を無視するのか、ということが言外に問われていることのようですね。
より低次なるものは、より高次なる目的のために、昇華されることで、その本来の役割を果たします。
人間が動物や植物を食べるのも、肉体という生命を維持するためです。しかしそれは高次の目的ではありません。
それは宗教であるとか、哲学・文学・芸術・学問などの精神的文化、優れた政治的統治、より高次の者が低次の者を導くという
中に、昇華されてこそ初めて高度な目的を果たしているといえるのです。 地球の生命が40億年ほど前に海洋から生じたことはよく知られているでしょう。
海洋の底の熱水噴出孔に生命に必要なアミノ酸が集まって、単純な真核生物が生まれました。
やがて、単純な生物から、より複雑な生物が進化して、生命は海洋から陸上に上がりました。
植物が光合成により二酸化炭素から酸素をつくり出し、動物が陸上で生きることができるようになりました。
やがて哺乳類から人間が生まれて高度な文明を築きました。人間は70億人もいます。
生命の本体であるDNAは二重らせん構造になっていて、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという
塩基対が文字情報として一つの意味を形成しています。ヒトのDNAの塩基対には30億文字の情報が
書かれています。ヒトもチンパンジーも、ショウジョウバエも、アカパンカビも、シロイヌナズナも、
ゲノム情報は80%から90%以上以上は同じであり、遺伝暗号表(コドン)はほぼすべての生命に共通である。
つまり地球上の生命は一つの始祖から分かれてきたのであり、生命のごく初期に獲得した機能を
そのまま利用してきたということがわかっています。 DNAの二重らせん構造は、二本の鎖がらせん状に絡み合うように合成され、生命活動に必要な
タンパク質をつくり出します。この二本の鎖の合成は一方向的に行われ、基本的に逆流はしない
ことになっています。専門家はこれを「セントラルドグマ」といいます。その過程は
転写と翻訳という機能によるのですが、これはまあ、細かいのでここではいいでしょう。
「遺伝子は自分自身と同じものを複製する」と単純に考えればいいでしょう。
重要なことは、一本の鎖は古いのですが、一本の鎖は新しいために、「半保存的複製」が
可能であることです。コピー機で文書をコピーすると原本と比べて黒いしみや文字が
大雑把になるなどのエラーが生じます。さらにコピーのコピーのコピーのコピーになると、
さらにエラーが蓄積されます。これを保存的複製といいます。一方、DNAの二重らせん構造では
一方の鎖は常に新しいため、必ず半分は原本になります。よってエラーが貯まることはありません。
これを半保存的複製といいます。よって、20億年経っても、30億年経っても、常に同じ遺伝情報を
子々孫々に受け継いでいくことが可能なのです。さて、こうした優れた機能が偶然に生じた
アミノ酸が集まって、タンパク質を合成し、複雑な機能を有する生命が、まったくの偶然で生じるでしょうか?
何らかの神的意志が働かない限り、生命が生じる可能性は極めて低いのです。 1953年にハロルド・ユーリーという化学者が人工的に生命をつくれるかを実験しました。
フラスコとガラス管をつないだような密封された空間に原始地球に存在したと思われる
水、メタン、アンモニア、水素などの気体を入れて、火で熱し、雷のような火花放電を
生じさせてアミノ酸やタンパク質が生じるか実験しました。しかし、結果として茶色っぽい
粘々したものはできましたが、生命はおろか、タンパク質にもなりませんでした。
アミノ酸が複雑な有機構造を形成し、タンパク質になって、それがロバストな散逸構造にならないと
生命は生じません。仮にそれが実験室で再現できたとして、40億年前の地球にはそうした装置はなく
実験を行う科学者もいないのです。そうした状態で偶然に生命が生じるでしょうか?生命が生じたとして
その中になぜ、DNAの二重らせん構造や複雑極まる30文字のゲノム情報、セントラルドグマや
半保存的複製のような高度で優れた機能が備わったのでしょうか?そうした機能が偶然生じる可能性は
統計的に何%でしょうか。そして生命の種が40億年もの間、一度も途切れることなく進化し、遺伝情報を受け継いできた
のも偶然でしょうか?途中、巨大隕石が衝突して地球全体がマグマのようになったり、あるいはスノーボール・アース
といわれるように何度も地球全体が氷の塊になったことがあるのに。
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料も生物の遺骸が地層に長い間蓄積されて生じたものです。
それをエネルギーとして使用して人間は70億人も増えました。その化石燃料も何億年もかけて地の底でつくられたのです。
そうすると、人間が高度な文明を作るために神が、あるいは神的な意志がそのための環境を用意し、材料を用意していた
と考える方が自然なのです。もしそれが偶然に生じたとすると、宝くじに連続当選するほどの
少ない確率になります。それを信じる方がむしろ不自然なのです。 _/ ̄ ̄\_
// \ヽ
fY Y|
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(V <・)| (・> V)
| ー | ー |
| \ ^^ / | 魂磨きは大切です
\ ヽ /\ / / 輝く魂は この人生も照らします
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| | V | / | | >>403
「大いなる意志」を想定するほーが理解し易い
自然は常に 我々に死を要求してるのだから 偶然の「変異」を繰り返せば
交配/遺伝機能を獲得する前に生命が終了するばい (^こ^; (問)「法則性」(理法)が人間とはかかわりのないと言うのは、どういう意味でしょうか?
(答)法則性(理法)というものが、人間とは関わりがないというのは、次のような意味です。
例えば、ある新興宗教の教祖が、自分の恣意によってまったくデタラメな教えを説いたとします。
例えば、こういう教えです。「教祖である私は神であるから、私とエネルギーを交換することによって
あなた方は救われる」と、こう言って、女性信者と肉体関係を迫ったとします。
こういうデタラメな教えが新興宗教の中で説かれているとしましょう。
もちろん、そんなことしたら刑法上の強姦罪、強制わいせつなどの犯罪になります。
のみならず、宗教的にも罪です。むしろ宗教では、女性に触れるという行為のみならず、
女性を見て心の中で邪な思いが生じた時点で罪になります。
つまり、今の世の中の新興宗教では、教祖の説いた教えが「法則性」(理法)である、
というのと同じです。白いものも、教祖が黒と言ったら、教団内では黒と信者は信じます。
つまり客観的で絶対的であるはずの法則性が、教祖の恣意と独断でねじ曲げられているのです。
そんなものは法則性でもなければ、理法でも、正しい教えでもありません。
また権威ある人、例えば、一流大学の教授、学士院の会員などが言うことは何でも正しいと
盲目的に信じてしまう人がいます。しかし、大学教授が言ったから正しいのではありません。
法則性(理法)とは、権威ある人や権力者が言ったから、そうした法則性があるのではありません。
アメリカ大統領やローマ法王、中国共産党主席、日本国総理大臣、最高裁長官が言ったことが
正しいとは限らないでしょう。
法則性(理法)とは、人間が言ったことに関わりなく、人間が発見しようと、しまいと、そんなことに関わりなく
厳然として存在するものです。 例えば、自然の法則とは、人間の中の権力者が勝手に変更できないはずです。
中国共産党主席がいくら「水は低い所から高い所に流れろ」と言っても、
権力者の命令に関わらず、水は自然の法則に従い、高い所から低い所に流れます。
また時速100kmで走る車は、どんなに人気のある映画俳優が乗っていても、
ブレーキを踏んで急に止まることはできません。いくら人気スターが「すぐ止まれ」
と言っても「慣性の法則」にしたがって車は等速直線運動を続けますから
壁に激突してしまうわけです。物体は自然の法則に従って動いていますから、
権力者や権威者がどんなに命令しても、自然の法則をねじ曲げるわけにはいきません。
同様に、人間の魂にも、善悪の応報の法則が働きますから、悪いことをすれば
苦しみという悪い結果をもたらします。逆に、善いことをすれば、魂の向上という
善い結果をもたらします。
新興宗教の教祖様が、いくら、私は最高の悟りを得た、最高の覚醒者だと名乗ったところで
信者から金銭や財産を毟り取っていたり、豪邸に住んで、美味いものを食べて、何人もの女性と
淫らなことをしていたり、デタラメな教えを説いて、名誉欲と承認欲求を肥大化させている
だけなら、残念ながら、そういう人は、宗教的には盗人と同じですから、
来世においてかなり苦しい罰を受け続けることになります。
法則性(理法)とは、人間性を超越した、善悪の法則なのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、どのようなものでしょうか。
(答)法則性(理法)とは、一言でいうと、以下のようなものです。
人間は自由意志により、心の中で考え、口から言葉を発し、身体によって行為します。
心の中の思い、口によって語られた言葉、身体による行為、その全ての蓄積が人間の存在のすべてであり、
人間の「存在」そのものです。
心で悪いことを考え、口から悪い言葉を発し、身体によって悪いことをすると、その人は
悪い人間となり、生きている間は世の中から非難され、死後には地獄に落ちて苦しみます。
魂が不正や悪から解放されるには、苦しみや悲歎を通してでなければ、容易には魂にしみ込んだ
悪が離れることはないからです。悪いことをしないことが第一です。しかし、悪いことをしてしまったら、
刑罰を受けて罪を償うことが、その魂にとって次善の道となるのです。それによって魂が悪から解放されるからです。
心で善いことを考え、口で善い言葉を語り、身体で善い行為をするとき、その人は
善人と呼ばれます。善人であれば、生きている間は世の中で賞賛を受け、死んでからは
魂が神々のいる天上の世界に移されます。そこで正義の報酬を受け取るのです。
それは魂が善、正義、節制、真実、温和といった徳で満たされて、幸福で、神聖な世界で
ともに善き人々ともに住むという報酬です。
宇宙の主宰者である神は、このように、善には向上と幸福という報酬を与え、
悪には苦しみと刑罰による懲らしめを与えることで、人間が神に向かって向上していく
進歩の世界をつくっているのです。 (問)結局、「法則性(理法)」とは、善と悪はこれこれです、と言う道徳教育だということですか?
(答)しかし、あなたは道徳教育と揶揄するような善と悪を知っていても、現実の人生では
実践することができますか?
あなたが今生きている現実の人生というのは、自動車の免許を取った後に実際の道路で
走るようなものです。大切なことは現実の人生で生きながら、事故を起こさずにいることは
結構しんどく大変なことなのです。毎日深夜まで働きながら、疲れ切って眠い目をこすりながら
運転するわけです。途中わき道から突然自転車が飛び出してきたり、子供や老人が出てきたり、
不測の事態が生じます。
あなたが言っているのは、自動車の教習所で交通ルールを習って、そんなことなら知ってるよ、
というようなものです。自動車免許の試験なら誰でも合格します。
あなたが善悪の道徳を馬鹿にするのは、教習所の免許の更新で退屈なビデオを見せられる
免許更新者のようなものです。「そんなことは知ってるよ」と誰もが言うでしょう。
しかし交通事故は無くならないでしょう?知識として知っていても実行はできないのです。
現実の人生では、とんでもない悪人が出てきたりします。ある日突然、親が死んだり、配偶者が死んだり、
会社が倒産したり、病気になったりします。突然、がんですと宣告されます。人に裏切られたり、
騙されたり、天敵のような人間が突然出てきて、進退窮まる状況に追い込まれます。
その時、あなたの心には怒り、憎しみ、欲望、羨望、嫉妬、猜疑、不信が起こりませんか?
平静な心を保てますか?あなたはただ世の中に出ていないから、善悪など道徳教育のようなものと馬鹿にする心が起きるのです。
人生で苦労すれば、それがいかに困難か知っていますから馬鹿にする心は起きません。 現代ではテクノロジーが発達して交通事故が減ったので、例えとしてはピンと来ないかもしれません。
自動衝突回避ブレーキやエアバッグ、カーブミラーや交通標識のおかげで事故はだいぶ減りましたからね。
あるいはこういうことかもしれません。
政治学者で政治資金規正法の知識はあるけれども、実際、都知事になると政治資金で
美術品や娯楽小説を購入したり、飲食や日常品を買ったりすることです。
善悪の知識はあっても実行はできないのです。
あなたは学校で友達がいじめられているときに、助けてあげられますか?
もし助ければ、自分がいじめの標的にされるかもしれないという時に。
いじめは悪い事です。それは誰でも知っています。しかし、自分がいじめの標的になるかもしれない
時に、自分を犠牲にしても、友達を助けてあげられますか?
いじめは悪いことで、友達を助けることは善いことです。
それは誰でも知っています。
しかし、実行はできますか?
自分を犠牲にしても友達を助けることができますか?
会社でとんでもなく悪い上司が、部下を理不尽に虐めていたら、あなたは
そんなことは止めるべきだと言えますか?上司はあなたに不利なことをしてくるかもしれません。
あるいは地方に左遷されたり、リストラの候補にあなたを入れるかもしれません。
それでもあなたは困っている人を助けるために「理不尽なことは止めてください」と
言えますか?善か悪かは誰でもわかります。実行が難しいのです。 (問)善と悪は、相対ですね。 善は悪があるので善があり、善は、悪が無ければ、善も在りません。
善は悪に依拠しているものです。悪はその逆です。つまり、善悪は、存在していません。
そのような相対の者に依拠したあなたの言い分、むなしくひびき、だけですね。
(答)あなたはいろいろな宗教を外から眺めて、まるで空飛ぶ絨毯のようにA地点からB地点に
自動的に届けてくれる便利な機能だけ探し求める人のようですね。
残念ながら、そんな便利な魔法のようなものはないですよ。
大切なことは知識と実践・実行が伴うことです。
あなたに足りないのは実践・実行ではないですか?
いろいろなものを評論しているよりも、新しいものを創造する、実践する、
実行するという気魄がなければだめなような気がします。
何か便利な魔法のような教えを探していても、そういうものは存在しません。
どの宗教も、いやしくも人類を導く教えは、すべて日々の実践、節制、離欲、
自分で自分の道をつくり、切り開いていくことを説いています。
他人との議論や論争、言葉の上での弁論や、議論の勝ち負けに終始している人は
何一つ善を実践も実行もすることなく、人生が終わってしまいます。
残念ながら、人間には2種類しかいません。
1人の悟りを得た人間。これは元々、悟っていた人です。こういう人は生まれてくるときに
忘却したものを思い出すだけの人です。悟りとは想起です。
もう一つの種類の人は、残りの数億人、数十億人の人全部です。
こういう人は、悟った人から、教えを受けて、もしくは、その著作を読んで、その境地に
幾分か近づくような人です。こういう人が完全に自力で悟ることはほぼ不可能です。
可能性としてはあっても、現実はほぼ無理でしょう。
その残りの人全部もそれぞれ素質に差はありますが、悟った人に依存するという意味では同じです。 善悪は相対的であるというのは、置かれた状況や事情、その他、比較考量すべきものを
総合的に判断した上で、何が善で、何が悪であるかを、考えなければならない、という
意味では、相対的であるともいえるでしょう。
しかし、あなたの言葉から判断すると、善と悪は反対の概念であるから、それぞれが相手に依存して
概念が成立するという意味で相対的であり、善悪は(本来)存在しない、と言っているようですね。
あるいは、アウグスチヌスか何かのように、神は善であるから、悪は存在しない。
悪は善の欠如である、というような意味でしょうか?
この議論はあまり本質的でありません。
なぜなら、善悪は存在し、善を行い、悪を避けよ、ということと、
悪は善の欠如であるから、存在しないということとは、結局、言葉の表現の違いでしかなく、
結論は同じようなものになるからです。悪は善の欠如であるから、存在しないと言っても、
実践倫理上は、善の欠如である悪を避けて、善を実行せよ、という同じ教えに帰着するからです。
善悪は相対的で、反対概念であるから、互いに他に依存して存在しているから、実在しない、というのは、
結局、概念上の抽象論での空理空論です。
宗教上・実践上は、善悪は客観的に実在していて、それは「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪は、あなたの「存在そのもの」になります。
あなたが思い・言葉・行為で為した善悪の蓄積はすべて、あなたの「存在そのもの」であり、
「魂そのもの」になります。
あたかも、人間の後ろに影が付き従い、影から逃れようとしても、どこまでも
あなたの足元に影がついてくるように、善悪の蓄積されたもの(業)は、
あなたの後ろから追いかけてきて、逃げようとしても絶対に逃げられません。
悪に対する報い・償いをすべて支払い終えるまで、悪の行為の集積は消えません。
同様に、善に対する報償・報酬も、たとえどんな小さな善行でも、見逃されることなく、
あなたに善い報いを与えてくれるでしょう。善悪とはそういうものです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています